蜜雨

人間の心理深層よりも深い森を見たのは生まれてこのかた、初めてだった。
なんだかとてもおぞましい植物をあたしの前を歩く男はさくさくと踏み潰していく。
そのまた後ろをあたしがまたさくさくと踏み潰していく。なんでもないただの雑草のように。でもその実あたしはすごくおぞましい。
草のこすれあう脆弱な音に紛れて鈍い音が滑り込む。あたしたちの武器はもしかしたらまったく意味をなさないのかもしれない。
この森を前にしてそう思ってしまった。「、一度でも怖気づいたら飲み込まれるぞ」男は、コロネロは、その言葉の裏に死を隠した。
率直に死ぬぞなんて言ってくれればよかった。そうすればまだ、背筋が一直線になるのに。
周りの空気がコロネロの声で一瞬ブレて不安定になったがすぐに落ち着いた。
それから雨が少し降って、(空の恵みすらも溶かしそうだ、何かを)、地面がぬかるんできた。
一歩一歩確かに踏み締めていると、急に中途半端な浮遊感が襲う。
足が小さな穴にはまった。「言ったろ」男の手で女のあたしの腕を掴んだ。こんなところで助けられるなんていち軍人としてひどく恥ずかしかった。
膝と指先がぬかるんだ泥をかすめた。少しでも隙間を作ったら、そこからこの人間の負によく似た泥が入り込んできそうだった。
あたしは早急に心臓を鎮めさせ、平静を保つ。
「コロネロは、消えないで」
この言葉が消えそうだった。あたしばかりがとてつもない黒の感情をもっている所為で存在が浮き彫りにされているような気がする。
コロネロはもっとずっと真っ直ぐできれいな感情をもっているから、だから、この森がコロネロを消そうとしているように思える。
自分を妄信すると戦場では命取りだけど、けれど、この場においてはわたしは宇宙並な確信をもって言えるのだ。
「きっともっとずっとあとだけど、コロネロは消えちゃう、よ」
その言葉の後、彼はなんと言っただろうか。
嗚呼、彼の言葉は、死んだのだった。



このもりにはしがあるかい(10年後コロネロ)






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