蜜雨

いつも寝ろと言われる時間を、十二分に過ぎた時間だった。今日はもアーサーも仕事が遅くなる日だ。
口うるさいマミーがいないのをいいことに、俺は棚からいっぱいのお菓子を引っ張り出してテーブルに広げた。
それを黙々と口に詰め込みながら、ケットにくるまって意味もなくテレビを見ていた。


「ただいまー」


が帰ってきた。
疲れているのか、こんな俺の姿を見ても何も言わずにふらふらとソファに倒れこんだ。
爪先に引っ掛かっていたハイヒールが、ソファに墜落したせいでポトリと床に落ちた。
テレビの音が縦横無尽に駆けずり回る。は動かない。


、だいじょうぶかい?」
「………ん、ごめんアル。シャワー浴びてくるわ…」


ごめん。まだ子供である俺に、大人として自分の情けない姿を見せた事に対しての謝罪だったのだろうか。
は重たげに身体を起して、そのままバスルームに向かった。程無くしてくぐもった水音が聞こえてくる。






バスルームのドアを開けたは、さっきとはまるで別人だった。
しゃきしゃきと歩き、冷蔵庫からミルクを取り出してコップになみなみ注いで二杯ほど飲んだ。


「アールっ、ほらもう寝るわよ」
「えー、まだ眠くないんだぞ!」


は頭までかぶっていたケットをすっかり取り去ってしまった。
猫なで声で俺の名を呼び、後頭部に軽いキスを落とす。
くそっ、卑怯なんだぞ!そんな甘え方はアーサーにしてくれよ!
俺は流されてしまわないように、身体を少しずらした。


「そう言って遅くまで起きてるから、朝起きられないのよ?」
「せっかくアーサーがいないんだから、もうちょっと起きてたいんだよ」
「アーサーもそろそろ帰ってくるわよ。…酔っぱらって」
「うげ、さいあくだ」


アーサーは酔っぱらうと、いちいちウザいんだ。何かと相手するのがめんどくさい。


「ね?絡まれる前にさっさと寝ましょう?」


完敗だ。は強力な武器を持ち出して、俺を手の内に丸め込んでしまった。 それが少し癪に障る。だってこれじゃあ、俺はただの頭の悪いこどもじゃないか。






、やっぱり眠れないよ」


歯を磨いてベッドに入ったはいいけれど、どうにもこうにも眠れない。 頭を撫でてもらっても、鼓動に合わせて掌でポーンポーンと優しくリズムをとってもらっても、眠れないものは眠れない。
逆には今にも寝てしまいそうだった。けれども俺は話し相手が欲しくて、の声が聞きたくて、必死に声をかけた。
は生返事をするだけで、うつらうつら夢と俺を行き来していた。


!」
「…あーはいはい、アル坊や。わかったわよ、降参。お話ししてあげる。それが終わったら、お願いだから寝かせてちょうだいね」
「わかったんだぞ!」


坊や、という言葉に引っ掛かりは覚えたけど、起きていてくれるだけマシだ。
は俺の髪をいじくりながら、眠たげに口を開いた。その割に、口調ははっきりとしていた。






その昔、ひとりの男がいました。
悩みの種は目に見えないことです。
だけど、昔から見えなかったわけではないのです。
じわじわと消えていったのです。


「アーサーのほあた☆とかのろいでもないわよ、事態はもっと深刻なの」


ずっと前は、それでも少しは姿が見えたのさ!
それじゃあどうして消えたかって?
ひとりもいなかったのです。
心底愛してくれる、心許せる友が。


「さみしい奴だな…まるで、前の俺みたいなんだぞ」
「そうね。でも、今は私たちがいるでしょう?こうやって、私の目にきちんと映っているわよ、アルフレッド」


誰からも好かれない人は、町の中でもひとりぼっち。
誰でもない人なのさ!
はじめに消えたのは名前。
やがて輪郭が消え、透明になるしかありませんでした。
こうして男は姿のないままおでかけです。
みんな驚き、あきれて、笑いさざめく。
身なりはいいけど、宙に浮く帽子。
かんじかなめの顔がない。
うんざりした男、ある日芸術家をたずねて仮面をほってもらいました。
《いっちょうたのむよ、みんなに好かれる美男子を。似合いの仮面がほしいんだ》
仮面ができると昼も夜もかぶったさ。
みんな仮面にうっとり。
けれどもしょせんは仮面。
男はけっきょく透明人間。
誰ひとり、男を気にもとめませんでした。
男は死ぬまで仮面をかぶり続けました。


「ここでひとつ、アルフレッドにもわかる大事なことを言うわ」
「なんだい?子供扱いはやめてくれよ」
愛してくれる人には感謝をしよう。愛を与える人になろう。姿が消えないために!


はいおしまい。そう言って、はすぐさま向きをかえて寝る態勢に入った。
俺はあまりにもいい加減な寓話的結末に納得がいかなかった。


、逆に目が冴えちゃったぞ」
「アルったら、約束がちが「ただいまー」…あーもう、アーサーが帰ってきちゃったじゃない」


ただいまの言い方が二人して同じことに、少し前気が付いた。たぶん二人とも気づいてないだろうけど。
はため息をついてベッドから抜け出そうとしたら、アーサーが先に部屋に入ってきた。
そのまま俺との上にダイブしてくる。酒臭い。「今帰ったぞー」完全に酔っぱらいだ。


「ちょっとアーサー、酒臭いんだからあっち行ってよ」
「あんだよばかあ!お前は仕事から疲れて帰ってきた恋人に優しくすることもできないのかよぉ」
「はいはい、私が悪うございました。だから早くどけてあげて、そろそろアルが圧死しそうよ」
「おお、愛しのマイディア!」


芝居じみた台詞で俺を大袈裟に抱きしめた。ロミオにでもなったつもりかい?
余りのニオイにくらくらする。スーツを酒に漬け込んだみたいだ。
は横で見ているだけで、特に何も言及しない。あきれているんだろう。


「…ウザいんだぞ、アーサー」
「そう言わないの。愛してくれる人には感謝を、でしょう?」
だって邪険にしてたくせに」


俺の言葉を無視して、はアーサーの革靴とスーツの上着を脱がせた。


「おい、子どもの前で何するつもりだ?」
「何もしません。どうせここで寝るつもりだろうから、皺にならないようにしてあげてるんでしょ。どう、愛を感じる?」
「ああ、感じるからキスしてくれ」
「馬鹿」


付き合いきれないのか、アーサーを投げやりに一蹴した。アーサーは不貞腐れて、そのままの顎を無骨に掴んで無理矢理自分の方を向かせる。英国紳士って誰のことだい?
アーサーは濃厚なキスを何回も何回も繰り返した。「ん、ふ…ッ!」はアーサーの胸を必死に叩く。
アーサーは酒が入っているせいなのか、力加減というものを忘れているようだ。ついでに理性も。あ、もともとないか。


「ああ、俺が部屋を出るから君たちだけで仲良くやってなよ」
「ちょっと、アル!こら待ちなさい!」


やっと解放されたが、アル!と呼び続けるが、俺は止まらない。そのままの声を聞き流して、部屋を後にした。アルフレッド!まだ聞こえる。
まったく、手がつけられないんだぞ。馬鹿に塗る薬なんて本当にないもんだな。
俺はため息をつきながら廊下を歩いた。大音量で朝までテレビを見よう。そう決心をした。






大人は判ってくれない(こんなだったら俺は愛してくれる人たちの前から姿を消すよ!)



※ミヒャエル・エンデ/影の縫製機《透明人間》より






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