行きつけの蕎麦屋は昼時もあってか、よく賑わっていた。景気のいい声が飛び交い、殺伐としたこのご時世を生きる人々は、まるで血を忘れるように箸を進めながら談笑している。それを横目に静かにかけ蕎麦を啜っていると、この場に似つかわしくない血の臭いと共に一人の男が店に現れた。すぐに愛想の良い女将が駆け寄って席に案内する。丁度、の隣であった。男の名は新撰組三番隊組長、斎藤一。今日は人目を引く浅葱色の羽織ではなく、落ち着いた色の羽織に小袖と袴を着ていた。どうやら見た所非番のようだが、いつ後ろから斬りつけられるかわからない彼は、腰の大小を忘れずに携えている。
美しい街並みを誇る京の本当の顔は、相容れぬ正義がぶつかり合い、平然と命が散っていく血塗られた都であった。
ほんの僅か――牽制の意味を込めた殺気を飛ばす斎藤に反応しないよう細心の注意を払って、はゆっくりと蕎麦湯に口つける。
剣心の影を追うと、どうしても新撰組が纏わり付くので何度か一方的に面識はあるが、斎藤に顔を見られたことはない筈だ。だが、鼻の利く壬生狼に血の臭いを嗅ぎつけられれば面倒な事になる。
蕎麦も食べ終わり、なるべく自然に席を立とうとすれば、今まで我関せず黙々と蕎麦を啜り続けていた斎藤が確実にに向かって口を開いた。
「この蕎麦屋にはよく来るのか?」
「え、ええ……」
「そうか」
が困惑したように返事をすると、斎藤は興味を失ったのかあっさりと引き下がって食事を再開した。
あの寡黙な男が無意味に他人に話し掛ける事なんてしない。しかし探りを入れられたにしては、質問の意図を測りかねる。もしや天性の勘の鋭さか、それとも本能で同じ剣客のにおいを感じ取ったのか――何にせよ末恐ろしい男だ。
もうこの店には来れない。斎藤が注文をしている様子がなかったにもかかわらず、かけそばが出てきたのを見たは、すぐに斎藤がこの店の常連だと気付いた。これ以上彼と接してしまったら、本当に刀を交える事になるかもしれない。しかしはそんな事微塵も望んではいなかった。争いとは無関係な弱き人々の為に飛天御剣流を振るう事はあっても、決して権力の為に振るう事はしないし、そのどちらかの勢力に属する気もない。何故なら彼女の本来の目的は、只剣心を見守る事なのだから。もちろん彼が彼でなくなり、飛天御剣流の理から外れた人間に成り果てたら、己の手で葬り去る覚悟は出来ている。
せっかく見つけたお気に入りの店に出入り出来なくなるのは惜しいが、斎藤と顔を合わせる危険性を考えたら致し方ない。こんな事になるならもっと味わって食べれば良かったと内心がっかりしつつ、手早く荷物を纏めていたら、その荷物が湯呑に当たってしまい、残っていた蕎麦湯が斎藤の羽織や袴に染みを作る。さあっと一気に自分の血の気が失せていくのがわかった。
「も、申し訳ありませんっ!!」
「ちゃんっ、どうしたんだい!?」
の切羽詰まった声に、と顔馴染みであるあの愛想の良い女将がすっ飛んできた。
「斎藤さんのお召し物に蕎麦湯が……!!」
それだけで事情を察した女将から手拭いを受け取ると、は何度も謝罪の言葉を述べながら、斎藤の元に跪いててきぱきと拭っていった。粗方拭き終わると、は迷惑を掛けてしまった周りの人にも一礼して、女将にお礼を込めて多めに勘定を渡す。そして斎藤に向き直って改めて謝罪すると、斎藤は普段から顰めている顔を更に酷く眉根を寄せ、無防備なの手を引いてお店を出た。
「あ、の……本当に申し訳ありませんでした!」
無言で長い脚を駆使して歩く斎藤の後ろを、転びそうになりながらもは必死に謝罪を繰り返す。
まずい――は背中にじわりと冷や汗をかいていた。いつの間にか斎藤の手にはの荷物が握られているし、指先が痺れてくる程手首は強く掴まれている。とても逃げられそうになかった。そのままは人気のない路地に連れ込まれ、力任せに壁際に押し付けられる。
「っ……!!」
「お前……只の娘じゃないな?」
蕎麦屋で出していた殺気とは比べものにならない位の強く鋭い殺気と冷たい眼光から視線を逸らそうとしたが、の荷物を地面に落とす事でもう片方の手を自由にした斎藤は、の顎を乱暴に捕らえた。
「すみません、足りないかもしれませんが、汚してしまったお召し物のお金を……!」
「質問に答えろ」
の言葉に腹を立てた斎藤は、追い詰めるように手に力を入れるとみしりと骨が軋む。思わず苦痛に顔を歪めれば、斎藤は楽しげに口角をつり上げる。その表情に一瞬だけ脳裏に比古の顔が過ったは、斎藤も又比古と同じ好き者だと判断した。
「……っ私は、只の蕎麦好きな田舎娘です」
「ほう……それにしては手のタコが酷いな……何より何故俺の名を知っている」
「お店に入って来た時に女将さんが言ってたじゃありませんか」
「あの女将は俺を斎藤などと呼ばん」
「へあっ!!?」
人並みに嘘も吐けねぇのかお前は――比古に罵られたのは一度きりではない。
の研ぎ澄まされた剣術の前では並大抵の人間は歯が立たないのだが、刀を持たないは抜けていて、根が正直者で素直な分駆け引きを得意としなかった。その結果が今のこの状況である。斎藤の馬鹿を見るような眼差しが比古と重なって、は泣きたくなった。
「え、えと……その……」
「もう一度問う。貴様は何者だ?」
「……放して、頂けませんか?」
斎藤と対峙する決心をしたが一変して斎藤に殺気をぶつけると、この空間だけ血と死体の臭いが充満した戦場と化した様だった。混じり気のないの本気の殺意に背筋がぞくりと撫でられると、強者と刀を交えた時と同様の高揚感に襲われる。やはり自分の嗅覚に間違いはなかったと斎藤が確信した瞬間であった。
「あれぇ、斎藤さんが非番にこんな所で女性といるなんて珍しいですね」
は斎藤の一瞬の隙を逃さなかった。
緩んだ斎藤の拘束からするりと抜け出し、斎藤に声を掛けた男が立っている方向とは逆に走る。斎藤は舌打ちしながらも、の後をすぐに追った。無駄な足掻きを――洛中のありとあらゆる裏道まで頭に入っている斎藤は、この先が行き止まりなのは知っている。そして斎藤の記憶通り、が迷わず進んだ道には立ち塞がるように塀があった。だがはそれを物ともせずに飛び越え、斎藤の前から姿を消した。残ったのは斎藤と、置き去りにされていたの荷物を持ちながらのんびりと歩み寄って来た沖田だけだった。
「これはこれは……随分とまた鮮やかに逃げられちゃいましたね」
に逃げられたのは沖田の所為でもあるのだが、この男にそんな嫌味など通用しない事は重々承知している。
斎藤はが去っていった先を見詰め、近くにいた沖田にも聞こえない程小さく呟いた。
「……か……」