その日は雨であった。
先日新撰組の斎藤と蕎麦屋で一悶着あり、誤魔化す事には失敗したが、なんとか逃げおおせられた。だがの荷物は丸々斎藤の元にある。怪しさ大爆発の女の持ち物を質屋に入れる事も、女絡みの事情を無闇矢鱈と他の隊士に漏らすなんて面倒な事も、あの聡い斎藤がする筈がない。それら諸々を考慮して、荷物はきっと斎藤の自室にあるだろうとは踏んでいた。
があの荷物に執着する理由――亡くなった母の形見である櫛だ。大切に大切に、手入れも欠かさずにしていたというのに、あっさりと斎藤の手に渡ってしまった。自分の不甲斐無さに涙が出てくる。今のを見たら、母は何と言うだろうか。
今宵は月も雲に隠されて深くなった闇の中、は新撰組が寝床にしている屯所の偵察に来ていた。身軽な体躯を活かして素早く必要な情報を調べ、斎藤の件の二の舞にならないようさっさと退散する。
何処にでもいそうな町娘を装って道を歩くを見て、誰も先刻まで忍んでいた者とは思わないだろう。の実力ならばもちろん暴徒に襲われても返り討ちに出来るのだが、一応今は見た目か弱い女性なので、人通りが少ない夜道を少し急ぎ足でそれっぽく進んでいく。
湿気た生温い風がの頬を撫でた。もうじき雨が降るのだろう。天気が変わりやすい山で過ごしていたは、敏感に天気の移り変わりを読み取った。降り出す前に早く帰ろうと近道である薄暗い裏路地に入れば、刀を片手に女に迫っている男と、声も出せずに只々震えながら涙を流す女――瞬時に状況を理解したはすぐさま女を庇う様に飛び出した。
「なんだおめぇはっ?!!」
「早くお逃げなさい」
「っ……!?」
矢庭に現れたに驚きながらも、女はなんとか足を縺れさせて走っていった。女の背を見届け、は目の前の恰幅のいい男の力量を静かに見定める。そんなの視線の意図に気付かない男は、得物を持たぬに下卑た笑みを向けていた。
「よく見りゃ上玉じゃねえか。あの女の代わりにてめえが俺の相手をしてくれるってぇのか?」
「退いて下さい。退けば命は助けます。退かねば――……」
「ああ゛?! んな細っこい体で何が出来るってんだ? 俺を馬鹿にしてんのか?」
を脅すように男が声を張り上げる。
「安心しろよ、お前さんの白い柔肌を存分にしゃぶり尽くした後は、きれーに殺してやるからよ!!」
目を血走らせた男が狂ったように笑いながら飛び掛かってくる。だがは一切動じる事無く、手に持っていた番傘から仕込んでいた刀を抜いて男を斬りつけた。まさか自分が斬られた側だとは気づかぬうちに男は倒れ、無意識に収縮する分厚い肉に刀が挟まれる。やはり強度の低い華奢な仕込み刀では、肉付きの良い男を両断するのは無謀だった様だ。しかしゆっくり刀を抜く間もなく、物陰に隠れていたもう一人の男がに奇襲を仕掛けてくる。
「死ねぇ!!!!」
その作戦すらも読んでいたはあっさりと男から刀を抜くのを諦め、もう一人の男の攻撃を避けて背後に回り、髪を纏め上げていた簪で男の盆の窪を突き刺す。そして懐から短刀を取り出し、一気に首を落とした。
簪を解かれたの長い髪が風に靡く姿は大層美しかったが、その髪にはを犯すように男共の穢れた血がこびり付いている。
「……御剣の剣――即ち人の世のために振るう剣たるべし。弱き人々を守るために……」
ぼんやりと暗がりに佇んで、動かなくなった骸を虚ろな目で見詰める。
こうしては弱き者達の為、どの権力やどの派閥にも属さずに自由の剣を貫いていた。それが師匠である比古清十郎の教えだったからだ。だが、はたして刀一本で今のこの乱世を変えられるだろうか――はいつか師匠が零した言葉を思い出していた。
『日ごとに波乱へと向かう歪んだこの時代……強大な力を持ってはいても、この流れを押しとどめる事など出来はせん』
や剣心を遥かに凌ぐ力を持ち、長く世を見守り続けていたからこそ、比古はその真理に辿りついたのだろう。あの比古ですら人一人救えない事や、人々の安全安楽な暮らしを守る事も出来やしない。所詮刀で出来る事など限られているのだ。
それでも剣心は純粋であるが故に、飛天御剣流で誰もが安心して暮らせる新時代が切り拓けると信じて人を斬っている。本来の彼は優しくて、穏やかによく笑う子だったが、今では味方をも恐れる冷酷無比な人斬りになってしまった。時代が彼を鬼にさせたのだ。
血が滴る刀を握るの生白い繊美な手に、ぽつりと雫が落とされる。その冷たさに気づいた時には、全てを洗い流す勢いで雨が降り出してきた。大地を叩きつける雨は、人間の発する音を殺すと共に、新たな音を生む。
雨粒の跳ねる音に顔を上げれば、と同様に雨と血で濡れた沖田が静かに立っていた。「また会いましたね」と荒ぶ雨音の中、やけに彼の声が鮮明にの鼓膜を揺さぶる。
「それにしても凄い雨ですね。まるで泣いているみたいだ――あなたの様に……」
頬を汚す返り血と、清める様に流れる雨を同時に拭う。の楚々とした頬に触れた沖田の指の皮は硬かったが、その手つきは至極優しい。この手に甘えてはいけないのに、振り払って逃げなきゃいけないのに、はどうしても動けなかった。
彼女は確かに泣いていた。
見回りを終えて屯所へ向かう途中、志士を見つけた。生け捕りにしようとするも抵抗され、傷は浅いながらも隊士が斬られてしまい、やむを得ずに志士を斬り捨てたのは沖田であった。
傷を負った隊士は先に屯所へ向かわせ、怪我はしていないが鮮血を浴びた沖田も早く帰って血を流せと言われ、後処理を他の隊士に任せて帰路につく。月も星も見えない真っ暗闇の空は、今にも雨が降り出しそうだ。血を流すのに丁度いいから早く降らぬものかと空を見上げていた沖田が視線を道に戻すと、何やら遠目に娘が裏路地に入っていくのが見えた。なんとなく胸がざわめいて追い掛けると、だらしない体をした男と細身の女が向かい合っていた。彼女の背にはもう一人女がいて、彼女は男を見据えながら言葉少なに女に向かって逃げるよう告げる。女はなんとか自分を奮い立たせて逃げ出した。
品性の欠片もない男の犠牲になる前に彼女を助けようと身を乗り出すが、よくよく見れば彼女はつい先日斎藤と一緒にいた女であった。名はといい、阿呆だが手には年季の入ったたこがあって、途轍もなく鋭利な殺気を飛ばす女だと斎藤から聞いた。普段から寡黙で、有象無象の女なんぞいちいち覚えないし、興味も持たないあの斎藤があそこまで饒舌に話すのは珍しい事であった。沖田自身も何処にでも居そうな女だと思っていたが、軽々と塀を飛び越えていたのは、今でも鮮烈に記憶に残っている。
沖田がを思い出していて、助けるのを躊躇ったほんの数秒――男と彼女は動き出した。
それからの彼女はとにかく凄まじかった。番傘に仕込んでいた刀を恐ろしい速さで抜刀し、あっという間に男を斬り伏せる。潜んでいたもう一人の男に奇襲を掛けられても、動揺する事無く冷静に対処した。豊満な男の肉に埋もれて抜けない刀を捨て、敵の攻撃を躱すと、髪を結っていた簪で急所である延髄を一突き。浅いと感じたのか、素早く懐から短刀を取り出し、眉一つ動かさずに男の首を斬り落とす。どの動きも沖田が見た事のない太刀筋であった。
その間実に一瞬。世の不浄など何も知らない無垢な花貌をしている彼女は、人を殺した。只淡々と。幾度となく人を斬り殺し、斬り殺される人間も見てきたというのに、沖田は只々見惚れてしまっていた。人を殺す光景が美しいだなんて――狂っている。
ぽつり。雫が落ちる。沖田にはの漆黒の瞳から落ちたように見えた。しかし勢いをつけて降り注いできた雨が容赦なくを濡らすものだから、沖田の見間違いかもしれない。それでも、沖田には彼女が泣いているように見えたのだ。気づけば手を、差し伸べていた。
いつまでこうしていただろうか。触れている面積はごく僅かな筈なのに、そこから互いの体温を感じられる程の時間は経っていたと思う。しかしながら、別れは突然訪れるものだ。
闇に覆われていた空に一筋の光が走り、二人を照らすとすぐに地面が揺れた。雷だ。はその轟音で我に返ると、沖田を突き飛ばして走り去る。番傘と仕込み刀も忘れずに回収して。
新撰組の中でも天才と謳われる沖田にしては珍しく、無様に尻餅をついて呆然としていた。そんな彼の目に、男の後頭部下へ見事に刺さっている簪が留まる。男から簪を抜き取ると、雨に晒された簪が血の涙を流していく。まるで彼女の様に。