※名前固定のモブキャラ出演あり
「いい香りですね」
花売りを囲む人だかりの中、やわらかい声が巴の耳に届く。音の出何処は巴の隣の女からだった。彼女の傍には巴以外いない。という事は、今の言葉は自分に掛けてきたのだと察する。
「ええ……菖蒲のいい香りがします……」
彼女の言葉を反芻させるだけの、何ともつまらない返しであった。もっと彼女の様に愛想良く出来たらと思うが、その思いとは裏腹に巴の表情は動かない。だが、隣の彼女は逆に申し訳なさそうに口を開いた。
「あ、いえ……あなたのその白梅香の香りのコトだったんですが……すみません、つい懐かしくてお声掛けしてしまいました」
彼女曰く、昔自分も使っていたのだが、この香りを纏わせるとなんとなく緊張するのか弟が近寄ってこない気がして、そのうち自然と使わなくなってしまった。だからこの匂いを嗅いだ時、弟の顔が思い出されてなんだか懐かしい気持ちになったそうだ。彼女の口から弟という言葉を聞いて、巴も又故郷にいる弟を思い出していた。少しだけ上がった口角に巴自身は気づいていなかったが、彼女だけは気づいていたので、巴に呼応するように微笑んだ。
「あんさんら、井戸端会議もええけど、もう菖蒲は最後の一束しか残っておらへんよ?」
花売りはいつまでも買おうとしない二人に声を掛けてきた。
「では、私はこちらの芍薬を頂きますわ」
「え? でも……」
どの客も立派に咲いている菖蒲を求めて買いに来ていたのに、彼女は端に寄せられていた芍薬を選んだ。芍薬にしては少し小ぶりで、すぐに枯れてしまいそうだ。半端に萎れた売れ残りを買う彼女に、流石の巴も難色を示した。
「お気になさらないで下さい。私が悪いのですから……あなたとお話が出来てとても楽しかった。又お会いすることがあれば、今度はあなたのお話を聞かせて下さい」
気の利いた事など一切話していないのに、彼女の声色からは嬉しさが滲み出ていた。やはり上手く感情を表現出来ない巴が何かしら言葉を紡ぐ前に、彼女は花の美しさに負けない位綺麗に笑って去っていった。
まさか彼女が口にした弟が後に巴の夫となる人斬りだとは、この時は誰も知らない。
京では剣心には見つからない様に過ごしてきた。今日だっていつも贔屓にしている花売りがたまたまお休みだったから、仕方なく志士が根城にしている宿の近くの花売りの元へ行ったのだ。だからそこで積極的に自分から声を掛ける事も、ましてや弟の話なんぞするつもりも毛頭なかったのに、何故かは自然と隣の彼女に声を掛けていた。自分でも、自分がわからない。この間――沖田に人を斬った現場を見られてから、の調子は崩れ始めた。あれから数日経つが、京に来てからお世話になっている酒屋にお奉行が乗り込んでくる事も、こうして町を歩いていても後ろ指を差される事もなかった。沖田やそして斎藤からも何の音沙汰もなく、はいつも通り生活している。
またあの時の様に雨が降って来た。今度は無数の細かい線が集まって視界が白くなる深い霧雨だ。は自身がしっとりと濡れていくのも構わず、溜息を吐いた。
沖田が何を考えているのかわからない。もちろん人の心内など誰も知り得ないのだが、飛天御剣流は相手を観察し、心理を洞察して先の先をゆく剣術だ。だからは相手の思考を読み取ろうとする癖が染みついていた。けれども、あの時に触れた沖田の体温や瞳の色からは何も感じ取れなかった。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
それなりに長い道のりを歩いて到着した酒屋の戸を引けば、そこには目下脳内を支配していた沖田が笑顔でを出迎える。固まるにさっと駆け寄ってきたのは、この酒屋の女将のおとめであった。
「なんやちゃんも隅に置けへんなあ! 好いた男が居るからって何処の若旦那の申し出も断ってんな思とったら……そりゃこないな色男やったら、この辺の男はみーんなお芋さんに見えてまうわあ。ほらほら、今日はもう店番はええから奥でゆっくりしとき」
元から世話好きのおとめは、男女の色恋の世話をするのも好きであった。おかげでも何回見合いを持ち掛けられた事か。
年の功で磨かれたいい男を見抜く眼力を持つおとめは一目見て沖田を気に入ったのか、弾丸の様な速さで口を動かし、凄い力での背中を奥へと押しやる。沖田もその背中についてくるよう言われ、とうとう奥の部屋で二人っきりにされてしまった。
ちゃっかり事前に座布団とお茶を準備していたおとめは「ごゆっくり」と何処か含みを持たせた言葉を残して部屋を出て行った。途端に向かい合って座る二人の間に静けさが広がる。居心地悪そうにしているに、沖田はにこりと笑い掛けた。
「ボク、大福を持って来たんです。せっかくお茶もあるコトですし、一緒に食べましょうよ。ここの大福すっごい美味しいんです」
まるで少年の様に無邪気に笑う沖田に面喰らったは、沖田の勢いに押されて差し出された大福を受け取った。既に大福を頬張っている沖田に続き、もおずおずと大福を口に含む。
「……おいしい」
「やっと、笑ってくれましたね」
思い掛けず感想が漏れ出てしまった様子のに、沖田も満足気に笑った。は沖田の言葉に目を見開く。常に笑顔を絶やさず温厚なは、酒屋の客の間で大変に評判であったが、思えば沖田の前ではずっと沈んだ顔をしていた。それがやっと、大福の力を借りてだが、沖田の前で笑顔を見せたのだ。少しでも自分に気を許してくれた気がして、沖田はなんだか無性に嬉しかった。
近藤勇に魂を捧げていると言っても過言ではない沖田は雰囲気こそ柔和だが、他人に対してどこか冷めた所がある。それこそ只の女なんかにここまで温情を掛ける事なんてなかったのに――沖田は自分でも理解し難い抑えきれない感情の波に流されていた。
「あ、さん」
口の端についた粉を指で払ってやると、沖田の少しカサついた指が大福なんか目じゃない位柔らかいの唇を掠めた。その乾いた熱が先日の雨の夜を思い出させる。
互いに口を噤んで見つめ合っていると、突然障子の戸が開いた。
「茶のおかわりどす~!」
わざとらしい言葉と笑顔で入って来たおとめに、二人は光の速さで距離を取った。気配に敏感である手練れの二人が、剣客でもない一般女性にこうもかき乱される事などそうはないだろう。それ程までに沖田とは互いに夢中になっていたのだ。
「っぷ……あははははは!」
嵐の様なおとめが去っていくと、沖田は急に吹き出したと思ったら、腹を抱えて思い切り笑い始めた。目には涙まで浮かべている。沖田の遠慮のない笑いに、つられても笑みを零す。
「ふふふっ」
「あーおっかしい!」
しばらく二人して笑っていると、ふと窓の外を見た沖田が声を上げた。
「さん、晴れてますよ! 外っ、外に遊びに行きましょう!」
雲と雲の隙間から顔を出した太陽に負けない位沖田が眩しい笑みを湛えるものだから、は思わず目を細めたくなるのだった。