蜜雨

※名前固定のモブキャラ出演あり






 あれから新撰組の面々とは会っていない。だが、にとって好都合であった。最後に見た沖田の顔を忘れられずにいたからだ。あの時の沖田の笑顔が過る度に、比古で上塗りする。それはまるで後ろめたい気持ちや罪悪感を払拭する様であった。

「その簪……あなたによくお似合いですね」

 またも贔屓の花売りが休みだった為には以前買った事のある花売りの元へと来ていた。夏の暑さに負けじと咲き誇る美しい花々を眺めていると、隣に並んできた女がに向かって口を開いた。白梅香と共に舞うその声はとてもか細くて、ややもすれば熱風に混じって溶けてしまいそうであった。しかし、どうやらの耳にはしっかりと届いた様だ。

「あなたは……!」

 俯いていた顔を上げると、その動きに合わせて簪の飾りがさらりと揺れる。
 冴え渡る青空でより一層鮮明に彼女の白い肌は浮かび上がり、その横顔は強い日差しの下であろうが涼やかな曲線を描いていた。間違いない。この間偶然出会った彼女だ。相も変わらず表情が乏しいが、僅かに張りつめた雰囲気が和らいだ気がする。何かが彼女に変化を齎したのだろう。それも、良い方向に。

「藍色が、とてもあなたを引き立たせています」

 その言葉で比古で消し去った筈の沖田の面影が甦る。

『やはりさんは赤よりも青の方がずっと似合いますね』

 あの時の笑顔が眩しすぎて、今のには直視出来なかった。

「……ごめんなさい。面白くもない事をつらつらと……」

 口数の少ないが気を悪くしたのだと勘違いした彼女は視線を逸らし、悲痛な面持ちで謝罪する。そこで普段の彼女ならば口にしない言葉を不器用ながらに精一杯表現してくれたのだと気づいたは慌てて口を開いた。

「そんなコトありませんわ! 只……只、この簪を下さった方を思い出していて……!」

 顔が熱い。焼き尽くされる。誓って、じりじりと照り付ける灼熱の太陽の所為だ。そう自分に言い聞かせなければ、眩暈を起こしそうであった。愛らしい金魚の様に頬を染め、あっぷあっぷと口を動かすの様子に彼女は静かに微笑みを湛える。

「……その方、きっと大切にして下さいね」

 私みたいに後悔せぬ様――その言葉を彼女が紡ぐ日は来るのだろうか。
 萎む様に俯いた芳顔に埋め込まれた黒々とした瞳が見詰める先には、空を映した青色の蕾を携える朝顔。彼女達が抱える複雑に入り組んだ感情は、まるで支柱に絡みつく蔓であった。






*







 池田屋の惨劇は様々な憶測や尾ひれがついて瞬く間に市中に広がった。が沿道の人ごみに紛れて血に汚れた新撰組を見た時、その血に剣心の血が混じっていない事を願うと同時に、凱旋する新撰組の中に沖田達の顔を見てしまえば、安心する自分がいた事に気がつく。
 互いに決して曲げられぬ信念と正義に基づいて刀を振るっている限り、彼らはいつか殺し合う運命にある。死体は同じ血肉と成り果てるが、各々の信念と正義を貫き通したまま死んでいった彼らは、きっといつまでも混ざり合わないのだろう。その一方で、ほんの僅かでも歯車が違えていたら、共に手を取り合って新時代を築いていたかもしれない。
 今やには新撰組と攘夷志士のどちらかが正しいかなど判断がつかなかった。考えれば考える程、自分だけは自由の剣でいなければならないのだと強く思えてくる。
 だからこそ剣心が只の修羅と化した時、は飛天御剣流の理を以って実の弟の様に可愛がってきた剣心を斬る覚悟を持ち続けているのだ。だが、もし――もしも沖田が道を外し、その刀で人々の幸せを奪った時、果たして自分は沖田を何の躊躇いもなく斬れるのだろうか。愚問だ。すぐに斬れると断言出来ない時点での剣は既に自由ではない。

「……清十郎さん」

 池田屋で起きた騒動から数日後。おとめさんに頼まれたお使いを済ませ、帰路を辿っているは消え入りそうな声で、今も変わらず時代の荒波とは一線を画した京の山奥に潜む愛しい師匠の名を呼ぶ。
 世を俯瞰して渡り歩いてきた師匠は全てわかっていたからこそ、幕末の動乱に身を投じる剣心を止めたのだ。只悪戯に焦りを伴って、病気の様に日ごと、それが習慣化していく様に人は死ぬのに忙しい。この動乱の世は、まるで明けない夜だ。誰もが安心して暮らせる理想を求めて人を斬っているのに、何一つ変わらぬ陰惨な現実に狂わない人間など居るのだろうか。こんな徒労を重ね血刀を抱えて苦々しい想いをする位なら、はじめから山を下りるべきではなかったのかもしれない。剣心も、そしても――

「っ! ごめんなさい!」

 重い足取りのまま考え事をしていたら、は人にぶつかってしまった。その刹那、酷く冷え切った殺気がの肌を刺す。

「あの……っ!」

 何故だか猛烈に胸騒ぎが襲ってきて、はぶつかった誰かもわからぬ女を引き止めようと慌てて口を開くが、こちらを見ようともせずに女は何かに追われる様に走り去ってしまった。拭いきれない薄ら寒い殺気に嫌な予感しかしない。は身を隠しながら女を追った。










 先日の池田屋での熱戦も忘れ、沖田は稽古が終わるとすぐに子供達とかくれんぼをしていた。蹲って周囲の様子を遮断しながら数を数え終えると、鬼である沖田はスッと立ち上がって後ろを振り返る。

「あ! おさとちゃんみっけ!」

 振り返った先には眉を吊り上げて仁王立ちしているおさとがいた。見るからに怒りを滲ませているおさとに構わず、にこにこと鬼としての役割を果たしていると、それこそおさとは鬼の様な形相で沖田に詰め寄る。

「沖田はんの阿呆! こないなトコで何呑気に油売っとんねん!」
「え、でも今ボクを引き止めてるのはおさとちゃんじゃあ……」
「ああもう野暮天!」

 この期に及んで間抜けな面ぶら下げて人の揚げ足を取る沖田におさとは声を荒げた。こうも怒り散らしている理由を露程もわかっていない。

ちゃんと何かあったんとちゃうのん?!」
「あはは! いやだなあ、おさとちゃん。何もないですよ~」
「ほーん? ちゃんは沖田はんの名前出したら露骨に取り乱しとったけどなあ?」

 笑って誤魔化そうとする沖田を読んでいたかの如く、間髪を入れずにおさとが反論すると沖田はずっこけた。

「まったく、敵わないなあ……」

 にも、おさとにも。
 沖田は困った様にへらりと笑った。

「なに顔赤らめて笑てんの!」
「え? ボクの顔赤くなってますか?」

 そういえば体もどこか火照っている様な――

「もし……そこのおサムライはん……」

 沖田の視界がくらり揺れる時、見知らぬ女が声を掛けてきた。

「ひっ!?」

 只ならぬ威圧感を放ち、目を血走らせて小刀を振り上げている女に、おさとは息を呑んで腰を抜かしてしまった。そして沖田も又体を大きく揺らして倒れ込んだ。体が重い。指先を動かす事すら出来そうもない。視界が暗く霞んでいく最中、沖田はの姿を見た気がした。






*







 女が小刀で自分のみならず、まで傷つけようとしている。沖田は長年染みついた手つきで刀を抜こうとするが、生憎定位置にいつもの相棒はいなかった。そうこうしているうちにに小刀が振り下ろされる。沖田は必死に手を伸ばそうとするが、思う通りに身体が動いてくれない。こんなにも自分が近くに居るのに、彼女が傷つく様をむざむざと見せつけられてたまるか。

さん!!!」

 ちりん――そよ風に揺られ、風鈴の音色が涼しさを運ぶ。その美しい囁きを切り裂く様な叫び声を上げながら、沖田はがばりと身を起こした。すると、彼の余りの勢いに面喰っていると目が合う。

「よかった! 無事だった、ん、です……ね……」

 喜びも束の間、沖田は重力にすら勝てず体が傾いた。異変を逸早く察知したは、彼の背中を支えながらゆっくりと布団へと導く。

「何を仰っているのですか。それはこちらの科白です」

 彼女にしては珍しく、露骨に非難めいた声色であった。

「碌に水分も摂らず、稽古の後すぐに炎天下の外で子供達と遊んでいて倒れてしまうなんて……!」

 寝かされた布団から見上げる、怒りそして不安に震えるの瞳で噴き出す感情を沖田は整理出来ないでいた。けれども、思わず口元が緩んでしまう感情である事は確かだ。間違いなく今彼女の視界を支配しているのは自分だけである。彼女が慕っていると声高に叫んだ者ではない。それは彼の心根に巣食う嫉妬と優越感が入り混じった独占欲であった。だが、純粋過ぎるが故、彼はその醜い欲の存在すら気づいていなかったのである。

「とにかく、お医者様を呼んできますので手を離していただけませんか?」

 額に置いてあった濡らした手拭いをそろそろ変えようかとが手を伸ばしたまさにその時、の名を叫びながら目を覚ました沖田にがっちりと手を握られたのだ。彼は無意識なのか、いまだの手を握っている。まるで逃げない様に、はたまた懇願する様に。その力強さは簡単には解けない。

「嫌です」

 まるで幼子だ。そうとわかっていても、頑なに沖田は手を放そうとしなかった。で、まだ熱の残る沖田の手を無下には取り扱えない。

「少しだけ……もう少しだけでいいんです。ボクの傍にいてくれませんか……?」

 絞り出された痩せた声にの胸が締め付けられる。一度この手に刀を握れば絶え間なく血の雨を降らす彼が、こんな弱弱しくも甘え縋っているというのに誰が捨て置けるだろうか。

「夢を見たんです。さんが小刀を持った女の人に殺されそうになる夢を……おかしいですよね、あなたはそんなに弱くないというのに……」
「……そうですね。私は強いのかもしれません……それでも、救えない人間はたくさんいます。その女の人の様に……」

 どこか無常を含む冷や水の様なの言葉を浴びた沖田は段々と記憶が甦ってきた。

「……そう、だ……その女性に襲われたのは、むしろボクの方だ……それで、倒れたボクを助けてくれたのは――さん、あなただった」

 熱に侵されて意識が朦朧としていく中、が見えた気がしたのは決して沖田の願望が混じった幻覚ではなかったのだ。

「おさとちゃんは? それに、あの女性は……どうなったんですか……?!」
「おさとちゃんは無事です。女性の方は……」

 はそこまで話すと一旦口を噤み、浅く呼吸をしてから再度その芙蓉の如く淑やかな唇を流麗に動かした。

「自ら命を絶ちました」

 ちりん――どこか遠くで風鈴が泣いている。






*







「お止めなさい」

 急に倒れた沖田に女は驚いたが、この好機を逃す手はない。決死の覚悟で沖田の心臓目掛けて小刀を突き立てようとすると、落ち着き払った声と共に腕を掴まれた。それでも尚沖田を殺してやろうと力を入れるが、びくともしない。

「っ放せぇ!!」
「……おさとちゃん、私がいいと言うまで目を閉じて耳を塞いでいて下さい」

 身を捩って喚き散らす女など見えてないかの様に、は淡々と話す。おさとはの絶対的な存在感に呑まれながらも、震える手で耳を塞ぎ目蓋を力一杯瞑った。

「後生やからこの男を殺させてえ!! 早ううちも死にたいんやあ!!」

 まだ若々しくも美しい娘が目の縁に涙を溜めて悲痛に声を荒げる。

「あなたも沖田さんも死なせる訳にはいきません」
「勝手な事言わんといて! あんたに……あんたにうちの何がわかんねん!! 壬生狼に奉公先めちゃくちゃにされた挙句、恋人まで斬り殺されたうちの気持ちなんて……ッ!!」
「新撰組に奉公先を……まさか池田屋の……?」
「そうや! うちは池田屋の元女中や!」

 押入れの布団に紛れ一切の声も出せず、無力な女は震えながら目の前で繰り広げられる血で血を洗う争いを傍観する他なかった。そこで月明りに照らされた沖田が女の恋人を斬る様を見てしまったのだ。それからというもの、目を閉じれば何度も何度も沖田に恋人を殺され、耳を塞げば何度も何度も恋人の断末魔の叫びが木霊する様になった。

「その男を殺せれば、この世に未練なんてあらへん」

 女は虚ろな目に地獄を映し、不敵な笑みを浮かべていた。全てを捨て去った女に残るは、絶望と恨みつらみ。
 路頭に迷った女の末路など、相場は決まっている。

『野盗に犬のように殺されるも地獄。売り飛ばされて女郎になるのもまた地獄。そう……よくある事だ。これまでも……そして、これからも――』

 女の言葉と比古の言葉が重なった。
 世を儚み自害する事も又よくある事だ。それならば、いっそ楽にしてやった方が女の為かもしれない。一瞬でも過ったが、の信念がそう易々と女の死を許さなかった。

「自分の命すら勝手させてくれへんのか?! あんたも人殺しや!!」

 圧倒的な力の差を感じながらも、女は抗う。鋭い眼光はを射貫き、次々と罵詈雑言をぶつける。
 人が人を斬る限り怨嗟は広がり留まる事を知らない。そうなってしまえば、もはや何が正義で、何が正しいかなど誰にも判別出来やしなかった。

「……たとえ私が人殺しであろうと、あなたを救いたいと思うのです」

 それは慈悲か、偽善か、それとも情けか。そのどれに当て嵌まらずとも、の言葉は本心から出た誠の言葉であった。

「だから……しばらく大人しくしていて下さい」
「っぎゃあぁぅぐ!!」

 隙あらば暴れ回ろうとする女の小刀を持つ方の肩を脱臼させると、余りの痛さに女は喚きながらその場に倒れ込んだ。もう何も出来はしないと思うが、物騒な小刀はさっさと奪ってしまう。些か手荒なやり口ではあるが、これでまともに動けない筈だ。そんな女の処遇は後で考えるとして、今心配なのは沖田だ。先刻から倒れたまま動かない。

「沖田さんっ!!」

 いくら呼び掛けても返事はない。その顔は赤いが、この暑いのに汗が滲むどころか肌が乾いている。こんな症状をは以前も見た気がする。まだ剣心と共に師匠の下で修行に励んでいたあの日も、茹だる様な熱気を太陽が放っていて、無我夢中で修行していた剣心が突然倒れた時と症状が似ているのだ。流行り病の熱病とは違う。対処を誤れば手遅れになる。

「おさとちゃん!」

 一人で対応していたら時間が掛かり過ぎると瞬時に判断すると、縮こまって震えているおさとを奮い立たせる様にぐっと肩を掴んで名を呼んだ。大人びているとはいえ、まだまだ幼いおさとではあるが、今は猫の手でも借りたい状況だ。酷な事を頼んでいるのは百も承知。彼女には頑張ってもらうしかなかった。

、ちゃ……っ」

 勝手に溢れ出る涙が幾筋もおさとの頬から滑り落ちる。いつも穏やかなにしては珍しく少々乱暴に潮解く生温い頬を掌で包み、半ば放心状態のおさとへ真っ直ぐに向き合い訴えた。

「お願いおさとちゃん! このままでは沖田さんが危ないわ!! お医者様を呼んできて頂戴!!」
「っちゃ……きゃあああああ!!」

 の言葉に理解が追い付かず狼狽するおさとが視線を彷徨わせると、の背後で倒れている女が必死に藻掻きながら隠し持っていた短刀を鞘から抜いているのが目に入った。耳を劈くおさとの凄絶な叫びでが後ろを振り返った瞬間、女のほっそりとした頼りない首筋に短刀が刺さる。

「ッ見てはダメ!!!」

 女に視線を向けたまま固まるおさとを抱き締め、は自らの体で彼女の視界を覆い隠した。そのまま女の姿が見えない場所までおさとを連れ、木陰に寝かせて沖田の処置に走る。
 終ぞ沖田を殺せやしなかったが、生から解放された女の顔は至極安らかであった。






*







さんは本当にボクを助けて良かったんですか……? ボクは男として……剣客として生まれたからには、たとえ何があろうと――無論、死ぬまで剣に生きます」

 沖田はこれから先も必要とあらば人を斬る。己が信じる近藤の為、その近藤が掲げる信念や正義の為なら彼は幾らでも命を賭して戦い続けるであろう。それはも、そして剣心や師匠だって同じだ。飛天御剣流の理を以て、激動する世と戦っている。

「ならば私も問います。あなたと立場は違えど、私も人を斬ってきました。それはきっとこれからも変わりません――」

 本質的には、みな人斬り。そんな彼らは烏滸がましくも己で決めた正義や信念を振り翳し、時代を変えようと斬る相手を身勝手に選別しているのだ。斬り殺してきた悪党も、自ら仇を討とうとした女も、同じ人間。この荒んだ時代の中で精一杯生きていたに過ぎないのに。

「――沖田さんは、私を斬りますか?」

 彼女は平気な顔で残酷な問い掛けをする。しかし沖田は動じる事無く、それどころか自身の意思を伝えんばかりに彼女のか細い指先を更に両の手で強くしっかり握った。

「ボクはあなたを斬らない」

 も又沖田と同様であった。彼女にとっては沖田もそしてあの女も、時代時代の苦難に晒されている者の一人だ。だから助けた。そう思っていたのに、己の正義や信念どころか、この動乱の世などどうでもよくなる位、沖田だけは何があろうと死んで欲しくないと無様に願ってしまった。

「っ、あなたを喪うのがおそろしい……!」

 今ここに居るのは、何の力も持たぬという女だ。もし沖田が外道に身を堕とした時、飛天御剣流の理に則って彼を斬る事も厭わないではない。
 彼女の譲れぬ道理が沖田の存在によって脅かされていた。苦しそうに葛藤に揺れる脆弱な瞳に、沖田の内に秘めたる残り火が激しく盛り返してきた。彼女にはきっと心に決めた者が居て、沖田にも身命を捧げる近藤が居る。むしろ、それで良かった。この湧き上がる感情を安易に恋など愛などと綺麗に片付けられぬからこそ、彼らは今尚繋がっているのだ。決して結ばれぬからこそ、互いに死に物狂いで繋ぎ止め様とするのだ。

「いつまで経っても、あなたを斬る覚悟が出来ないのです」

 はらはらと、こんなにも美しく涙淵に沈む人間が刀を握る時代は早く終わってしまえばいい。願わくば、その時代をこの身で築き上げたい。
 刀しか握れぬ血の染みついた掌。近藤に捧げるこの力。今だけは只の涙を拭う為に使うのであった。






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