「はぁい、そろそろお時間ですよー斎藤さん」
斎藤と剣心の死合を止めたのは女の間延びした呑気な声だった。
斎藤は拳を、剣心は鞘を手にして殺し合いを再開しようとした所に、命知らずにも割って入ったのは妙齢の美人である。今まで二人から目を離さなかった筈なのに、周りの者達はその女の存在に全く気付かなかったらしく、動揺するも無言で固まっていた。
「。邪魔だ、退け」
斎藤の鋭い眼光に目もくれず、と呼ばれた女は斎藤に背を向けて剣心と向き合う。
「お久しぶりですね、剣心。あなたが十四の時に出て行ったから……えーと……っは! 指が足りなく……さ、斎藤さんちょっと手を、手……えっと、十一……」
親し気に剣心の名を呼ぶは微笑みながら指を折って数を計算していたが、途中で指が足りなくなって勝手に斎藤の手を拝借して数える。そんなおふざけ(しかしの表情は真剣そのもの)をされたら斬り捨てる位の事はしそうな斎藤であるが、意外にもの好きにさせていた。いや、の奔放さに諦めの境地に至っているだけだろう。
あの斎藤一相手にこんな命知らずな真似が出来て、剣心とも気心が知れた間柄の彼女は一体何者なのか――ますますみなの疑惑が広がるばかりであった。
「剣心が今二十八だから十四年ぶりだろ」
「はう! い、今言おうとしたんですよ!? ねっ、ねっ、斎藤さん今私言おうとしたんですからね!!?」
斎藤の指まで借りたにもかかわらず、が答えを出す前に弥彦がスッと正解を口にすれば、は必死に斎藤に訴えかけた。
「阿呆」
「はっはい、わ、割と阿呆です!」
「……阿呆」
殺気と絶望で満ちていた道場はの出現により和む事となったが、斎藤はその雰囲気を感じ取って元々険しい顔つきを更に不快そうに歪めての額に手刀を落とした。痛いですとへらりと笑うをじっと見詰めていたのは人斬りの顔をしたままの剣心だ。はその視線に気づき、緩い表情を引き締めて剣心に向き直った。
「剣心――なに一丁前に殺気飛ばしてるんですか」
ばっちーんと剣心の頬に平手打ちをぶちかますと、は元の笑顔に戻っていた。
「ふふふ、正気に戻りましたか?」
「あ……ああ、礼を言うでござる」
「……なんだか新鮮ですね、あなたのその口調……月日の流れを感じます」
「……そうだな。だが、を見ると昔に戻った気分だ」
「あら、口調戻さなくてもいいんですよ? さ、髪を結ってあげますから後ろ向いて下さい」
には逆らえないのか剣心はその言葉に従い、激闘の最中で解けた髪を大人しく結ってもらう。その様子を傍観していた斎藤以外の周りの者達は緊張が解け、色々と聞きたい事が湧きあがってきた。今度は別の意味で息苦しい。突っ込みたいけれど突っ込めない――と剣心の二人が纏う独特の雰囲気がそうさせていた。
「あの頃よりも、少し背が伸びましたね」
「ああ……」
なんとも言葉少なな会話であったが、離れていた二人の距離を埋めるには十分であった。
どこか懐かしそうに目を細めるは慈しむように剣心の髪を手櫛で解かし、手早く纏め上げると、又も道場の戸口に人影が現れた。
「が入らなければ斎藤は本来の目的である抜刀斎の力量を測る事も忘れ、本気で殺す所だったな」
「斎藤さんて変な所でお茶目だから、弾みで剣心を殺しかねないと思いまして、ずっと見張っておりました」
お茶目と弾みで人を殺すものだろうか――斎藤にお茶目と弾みという言葉をくっつける人間はきっとだけだろう。その場にいた誰もが思ったが、斎藤の舌打ちでその思考は一蹴された。
「はは、くんがいるだけでやはり場の空気が変わるな」
川路に次いでしわがれた声が道場に静かに響く。
「大久保さん、今可愛いって言いました?」
「黙れ。お前がいると話が進まん。さっさと帰るぞ」
床に投げ捨てられた上着を持ち、斎藤が川路と大久保とすれ違う様にして道場の出入り口を潜ろうとすると、川路の声が止めに入る。しかし川路が二の句を継がないうちに、斎藤は簡易的な任務報告をしてその場を去っていった。
「ったく、あの男は……、報告書は明日までだからな」
「そっそんな殺生な……!!」
川路が斎藤へはぶつけられない苛立ちを、半ばにぶつける様に仕事を押し付ける事はままあった。おかげで苦手であった机仕事が今ではもうお手の物だ。この一連の流れを斎藤が目論んでわざと川路に突っ慳貪な態度を取っているのかと思ったが、斎藤の態度があの調子なのは幕末の頃から変わらないので真偽は定かではない。
気を取り直したは後日改めて神谷道場に顔を出す事を剣心と約束し、大久保と川路、そして薫達にも一礼して斎藤の後を追う様に道場を出ていった。
「もうっ斎藤さんの所為で又私が提出する報告書が増えたじゃないですかー!」
「フッ……おかげでウチに来た時よりも随分机仕事が板についてきたじゃないか」
「や、やっぱり今までの仕打ちはわざと……?!」
の問い掛けに斎藤は厭味ったらしく笑みを浮かべるだけだ。
「それよりも、刀を貸せ」
桜が散って青々と染められている木々が並ぶ道を歩く斎藤の空気が変わった。はその空気を瞬時に読み取り、平常時では考えられない頭の回転の速さで斎藤の真意を汲み取った。
「私がやりますよ?」
「いや、俺がやろう。奴らに言っておきたい事もあるし、な……」
「あら、案外と腹を立てていたんですね」
壬生の狼は飼い慣らされる事を嫌う様だ。
はこれから自分の刀の錆になる奴らの末路を想像したが、どう足掻いても死は免れないのですぐに忘れた。
は少し離れた建物の物陰に潜みながら、渋海と赤松の始末をしている斎藤の帰りを待っていた。少しでも暇な時間があると頭の中にふっと舞い降りてくるのは決まって師匠の事ばかり。久しぶりに剣心と会った事もあってか、ほんの少し感傷的になっているというのも要因の一つだろう。
「清十郎さん……会いたいなあ……」
月明りが眩しい空を見上げながら、東京から遠く離れた京都の山奥にいる愛しい人に思いを馳せる。比古も又この月を見て自分を思い出してくれているだろうか――いや、彼の事だ、どうせ何時もの様に酒を煽っているに違いない。
「お酒ばかりでちゃんと食べているかしら……」
万事をこなす彼は実はよりも料理が上手いのだが、面倒臭がって滅多にしないので、こうしている今もきっと平気で酒のみで一日を過ごしているだろう。それでも、彼が変わらずに自分の帰るべき場所に居続けてくれるだけで良かった。幕末の動乱を越え、新時代になっても尚好いている者と一緒になれず死ぬ者達を見てきたはそれ以上何も望まない。
「職務中に考え事とは余裕だな」
「! っ斎藤さん!?」
細長い影が隙だらけのの華奢な身体に覆いかぶさるのは簡単だった。渋海邸から誰か出てきた気配は察知していたが、馴染みのある斎藤の気配だったので完璧に油断していたは、顎を掴まれたうえに手首を壁に押し付けられ、自由を奪われてしまう。
「毎回毎回この様なお戯れはお止め下さい!!」
「だから何遍も言っているだろう。俺はお前に惚れていると」
は目を白黒させてうっと詰まった。
斎藤が藤田五郎と名を改めて警官になってからと偶然再会した折に、自分の仕事を手伝わないかという誘いを持ち掛けてきた。それだけならまだしも、に惚れていると斎藤の口から吐露されたのだ。もちろんいまだに信じられない。
「っ私の全ては清十郎さんのものです!」
「フッ……師匠一筋とか言いつつ、沖田君に揺れた事があるのなら、俺にも付け入る隙がある筈だろう?」
又この人は皮肉りながらも痛い所を突く。
斎藤の言葉通り、があの新撰組の沖田総司に惹かれていたのは否定しようもない事実だった。比古には絶対に言えない――墓まで持っていこうと決めた秘密を、斎藤はの弱みとして握っていた。斎藤はの師匠と面識はないものの、どの様な人物なのかはの聞きたくもない師匠が如何に素敵で恰好良いかという話から凡そ察しがついている。その師匠に沖田の事を話しても鼻で笑い飛ばしそうなものだが、は一瞬でも他の男に靡いた事で嫌われると思い込んでいる。斎藤はその心理を上手く利用してに迫っていた。
「斎藤さんのその意地の悪い所は、昔となんら変わりませんね」
「お前の師匠程ではないと思うがな。それとも、沖田君の様に優しい奴がお好みかい?」
「……あの人も意地の悪い方ですよ。あんなに早くに逝ってしまうのですから」
が切なげに笑えば、斎藤は興醒めだと言わんばかりにを解放した。
「フン……やはりお前は意地の悪い男が好きなようだな。せいぜい俺も精進する事にするぜ」
「っなんでそうなるんですかあ!」
沖田が生きてこの場に居たら、きっとの悲痛な叫び声を聞いて笑っていた事だろう。