苦しい――はその感覚に埋め尽くされ、意識を浮上させた。途端に甘くて苦いようなどこかで嗅いだような匂いを感じる。ここはどこで今は何時だろうか。まだ正常に働かない脳がぼんやり仕事をし始める。とにかく視覚を取り入れようと目を開けると、信じられない光景がを襲った。
「っっ??!!」
本当に驚いた時は声が出ないということをは痛感した。真島に抱きしめられて一緒のベッドに寝ているという現実は、の声を奪うには十分な破壊力であった。瞬間的に離れようとしたが、筋肉はついていても細身な真島の体のどこにそんな力があるのだろうか、寝ている状態でもびくともしない。しっかりと抱きしめられた腕の中では辛うじて顔を動かせる程度だ。見たところ、の部屋に間違いなかった。しかしどうだろう、記憶を手繰り寄せてみても自分がどうやってベッドまで辿り着いたかも、真島とどうしてこんなことになっているのかも全く思い出せない。お酒でこんな失態初めての経験だ。
あらかた現状を把握すると、真島の顔をじっと見つめた。普段まともに人の顔が見れないにとって、まじまじと人様の顔を拝められるなんてまたとないチャンスだ。普段の奇行で気づきにくいが、意外と整った精悍な顔つきをしている真島はもしかしたらまともな格好をして発言や行動を改めれば大層おモテになるのでは、とかなり失礼なことを考える余裕がに生まれていた。だから真島の手がの後頭部に伸びていることに気がつかなかった。
「隙有りや、ちゃん」
「んぶっ?!」
文字通り窒息するほど抱きしめられると、は酸素を求めて手足をバタつかせる。しかし真島は長い足をの足と絡ませ動きを沈静させた。残るは手だが、真島の体を押し返そうにも力が足りない。もはやなす術なし。
「昨日はあないに激しく熱うーい夜を一緒に過ごしたっちゅーのに随分薄情なやっちゃな」
「なななななな??!」
やっと胸に押しつけられた顔が解放されると、次は顔を真っ赤にして出来るだけ距離を取る。
「なんや、なーんも覚えとらんのか?ほなら今から再現しよか?」
の太ももになにやら固いブツがあてられた。それが何かは(多分まだ)生娘のでも男の身体の構造が分かっていれば自ずと予想できるもの。
「いっいやああああ!!!」
神室町から少し離れたアパートの一室。はコンロでお湯を沸かしながら、もうひとつのコンロで卵焼き器を熱して卵を流し込んだ。狭い部屋ながらキッチンは広く、コンロもふたつある所がのお気に入りポイントであった。沸騰したお鍋に乾燥わかめと豆腐を入れ、味噌を溶かせばあっという間に味噌汁が出来上がる。卵焼きも狐色に仕上がり、お皿に乗せて食べやすい大きさに切る。そこで丁度電子レンジが音をたてた。蒸していた塩鮭が出来たようだ。ついでに冷凍していたラップに包まれた一膳分のご飯も温めてしまう。それから冷蔵庫からいい塩梅に浸かった白菜の浅漬けと納豆を取り出し、テーブルに並べれば簡易的ではあるが朝食の出来上がりだ。
「さ、社長!朝ごはんですよ!」
不自然なほど明るい声を出し、不必要に笑顔を振りまくにはもちろん理由がある。そう、ベッドの中でセクハラにセクハラを重ねた真島はあろうことかに自分の息子を蹴られたのだった。自業自得といえばそうなのだが、ことが事だ。真島は再起不能になったらどう責任を取るんやと自分の事は棚に上げて恨めしげな顔でを責め立てる。元はと言えば合意もなしにコトを進めようとした真島こそ悪者で、はただ自分の身を守ろうと正当防衛を働いたまでなのだが、目の前の不機嫌(そうに演技している)な真島でいっぱいいっぱいなは自分の正当さを主張しようとすらしない。平謝りするのお腹が空腹を訴え、真島が笑いを噛み殺しつつ朝ご飯を作ってくれたら許すと呟いた事でようやく収拾がついた。もちろん胃に優しい和食でというリクエストも忘れずに。
「もう怒ってへんから普通にせえ」
「ううっ…はい…わかりました。ありがとうございます」
湯気が出来立ての料理を演出し、更に美味しさを引き立たせている。真島は短時間でこんな料理を仕立ててしまう彼女に静かに感心していた。自分の周りにいた女は肩書きだったりブランド物だったりと、何でも与えて欲しがるばかりだった。そのかわり彼女たちは自慢の肢体を真島に差し出すのだが、はもちろんそんな水商売の女共とは違う。煌びやかな夜の蝶と比べたら、野暮ったいし色気もない(顔に似合わず巨乳ではあるが)。そもそも土俵が違う。彼女は自分が仕事をする上で利用価値の高い駒であり、手足であり、金で雇った犬であり、従業員であり、そして南も認めた真島組の一員で家族であった。
「ちゃん、ほんまに昨日の夜のこと覚えとらんのか?」
「あっあの私お酒で記憶飛ばしたの初めてで…何か粗相しましたでしょうか?」
鮭の骨を取り除いていた箸を置いてしゅんとしたの表情からは嘘は見受けられない。そもそも彼女に真島を出し抜く程の巧妙な嘘は吐けないと確信している。真島はしんなりした白菜の漬物を2、3枚箸で摘み、口に運んで歯応えを愉しみながらやがてごくりと喉奥に送り込んで箸を置いた。
「南との飲み比べに勝ったちゃんは…」
真島はテーブルの上の料理に視線を落とし、暖かいほうじ茶を啜りながら語り始めた。
無事南との勝負に勝利したは真島からお冷を受け取って一気に飲み干した。しかしそのお冷は真島も気がつかなかったが、なんと焼酎のロックだったのだ。ややこしいことにその焼酎がロックグラスに入っていなかったことが今回の騒動の原因の一つではあるだろう。そしてお冷だと信じていたは焼酎ロックを飲んだあとぶっ倒れた。それで済んだなら良かったが、事件はそれから起きた。
「わっ私が酔拳で社長と乱闘…?!!」
出来れば末代まで聞きたくなかった。酒の席とはいえ何という愚行を犯してしまったのだろう。は頭を抱えた。
なんでも倒れたを介抱しようとした真島を何を勘違いしたか痴漢と思い込み、素早く体勢を立て直して勝負を吹っ掛けたそうだ。そんな面白そうな申し出を断るはずがない真島は、と向き合って構えた。ここで忘れてはならないのは韓来の店内ということだ。ただでさえ今はカタギであまり目立つことは避けたいのに、真島がお遊びとはいえ暴れ回ったら韓来に通報されても文句は言えない。西田をはじめ、他の組員もふたりを止めようとしたが、その前には自分の足に突っかかって真島の胸に飛び込んでしまった。流石の真島もがそう来ると思わず、懐を許してしまう。そしてあろうことかはそのまま真島を抱き枕にして寝てしまったのだった。拍子抜けした真島、安堵する組員によって今回のの歓迎会はお開きとなった。最後まで真島から離れなかったはそのまま共にタクシーに乗っての自宅へと向かい、ベッドへとダイブして一夜を共にしたのだった。そして冒頭に戻る。
「とまあ、大体こんな感じや」
「…っっ!!!」
穴があったら入りたい。むしろ穴を掘って埋まりたい。
真島は猛省するを気にも留めず、もうこの話は終わりだと再び箸を手にして鮭をおかずにご飯を掻き込み始めた。
「申し訳あ「やめや。ちゃんはむしろ被害者や。俺や南が悪ノリしたんやからちゃんが謝るんは筋違いや」
「そんな…」
「ええか、この話は終いや。これは社長命令やで」
「…承知致しました」
渋々ではあるが、は頷いた。が社長命令に弱いと知って真島はその言葉を選択したのだ。そしても食事を再開させた。
「にしても、色気ない部屋やなあ」
真島は最後の味噌汁まで飲み終えて箸を置き、背もたれとして使っていたベッドに後頭部を落ち着かせて天井を仰いだ。目に入るのは小さいテレビとチェストや本棚、デスクチェアとデスク、そこに鎮座するパソコンのみ。飾り気といえば申し訳程度のデスク上の写真立てとオブジェだ。
「なんやあの写真立て綺麗やな」
「あれは建築の勉強しにイタリアに留学していた時に買った、ヴェネツィアン硝子の写真立てです。写真はホームステイ先のホストファミリーです」
「ほー…あの建物は?」
「ピサの斜塔のスタンドライトです。日本だと電圧が違くて今は使っていませんが…」
「ホンマに建築好きなんやなあ」
本棚は世界中の建築物の写真集や建築関係の資料が並んでいる。他にも語学の本や地球の歩き方なんて本もあった。どれも彼女の好きが詰まっていて、の中身を垣間見ているようだ。どこをどう見ても自分とはかけ離れた世界の住人で、現在はカタギとはいえ元極道と関係を持っていい人間ではないのかもしれない。ただでさえ彼女は自分の立場をよく分かってないのだから。
「社長?」
は静かな真島を訝しげに見ていた。真島はその視線に気付きつつも、着信を知らせる電子音によって帰り支度を始める。は気を取り直して笑顔で真島の背中を見送った。
「飯、美味かったわ。今日はゆっくり休みや。ほなな」
の顔を見ずに、手だけ挙げて玄関から出て行く。ありがとうございましたとドアが閉まる前の隙間からの声が滑り出てきて、やがてすぐにドアは閉まった。真島は鳴り止まない電子音を親指で終止符を打ち、携帯を耳に当てた。
「お疲れ様です。親父、亜細亜街で不穏な動きがあったそうなんですが…」
「ほうか。詳しく話せ」
穏やかな朝が過ぎ去った後は、嵐が来るだろう。それも、大勢の人間を巻き込むような激しい嵐が。真島はそれを予感するような険しい表情を貼り付けていた。