ふたりは犬猿の仲
ある平日の昼下がり。テストで早く学校が終わった蘭と園子は、ポアロで昼食も兼ねてお茶をしていた。もちろん昼食の後は別腹のデザートとガールズトークだ。テストの愚痴をこぼすのにやっと一区切りついた後は、テスト期間中に太った体重をどうするかが目下の話題であった。そんな話をしている途中で小学校が終わったコナンがおやつを食べに来たが、実のない話を横で延々と聞かされてげんなりしていた。どうしてこうも女という生き物はお喋りが好きなのだ。ポアロで女性に大人気の店員安室も、女子高生のとめどない話に苦笑をもらし、コナンに同情の眼差しを向ける。そんな彼の視線は、来店を告げる鈴の音によって奪われた。
「いらっしゃいませ、さん」
「さん?!」
安室が完璧なまでの笑顔でお迎えすると、それに反応したのは当の本人であるではなく、園子であった。
「どっどうしたの園子ちゃん」
「さんに頼みがあるんです!!」
驚くの肩をがしりと掴んだ園子の頼みとは、のバイト先であるジムでヨガをさせてくれという事であった。テスト終わりで鈍った体にいきなり激しい運動はしたくない園子が、の顔を見て思いついたのだ。はジムでヨガ教室を受け持っており、時々蘭や園子に優待券をあげて一緒にヨガを楽しむことがあった。だからこそ園子は、融通のきくならば突然のお誘いでもなんとかしてくれると踏んで頼んだのだ。は園子の頼み事に嫌な顔一つせず直ぐ対応し、お店に聞いてみると早速携帯で電話を掛けて了承を得てくれた。
「やった! さすがさん!」
「突然すみません……でも本当にいいんですか?」
「もちろん! 遊びに来てくれるの大歓迎だよ!」
園子が感謝の抱擁をにしていると、そのそばで蘭が申し訳なさそうに頭を下げた。
幼馴染みの園子は明るく溌剌とした良い子ではあるが、時々行動が突飛なのが玉に瑕だ。蘭はそんな園子の性格を昔から知っているが、からしたら迷惑でないかと心配していた。しかしそんな蘭の不安を吹き飛ばす様なさらりとした笑顔を見せられたら、蘭もこれ以上何も言えなかった。
「お優しいんですね」
「そんな事ありませんよ。可愛い女の子の頼みは誰だってきいてあげたいでしょう?」
「ふふっ、そうですね。コーヒーはいつものでいいですか?」
「はい、「お持ち帰りで」……お願いします」
見事にお持ち帰りという言葉を重ねさせた安室の笑顔に、が一瞬だけ嫌悪感を噴き上げた事に気づいたのは、きっとふたりの会話をハラハラしながら聞いていたコナンだけだろう。
絶対にこの男とだけは一生分かり合えない――はいつも探りを入れてくる様な深いブルーグレーの瞳が嫌いだった。
「はあ……さんの様なウエストからヒップにかけてのこの綺麗なラインはいつになったら手に入るのかしら……」
「さんって本当にスタイルいいですよね! 何かスポーツやられてたんですか?」
「スポーツ……ねえ……って! こらっ園子ちゃんどこ触ってるの!!」
「よいではないかよいではないか~」
お会計を済ませてお持ち帰り用のコーヒーが出来上がるまでレジ横で待っている間、女子たちで雑談をしていると、暇を持て余した園子がのボディラインをなぞる遊びをし始めた。の引き締まったウエストとヒップだけでは飽き足らず、お椀型のぷりんとした胸からうっすらと割れている腹筋まで堪能していると、安室がコーヒーを持って申し訳なさそうにやってきた。
「お待たせしました」
「いえ、ありがとうございます」
はあまり素っ気無くならない様に気を遣いながら返事をし、早々に立ち去ろうとするが、安室はそう簡単に引き下がらなかった。
「あの……僕もうこれでバイトあがりなので、ご迷惑でなければそのヨガご一緒させて頂けませんか?」
迷惑だそのまま巣へ帰れ――なんてことは胸の内に秘め、どう断ってやろうかと思案していると、が口を開く前に園子が瞳を爛々と輝かせて返事をしてしまった。もちろんの思惑とは逆の。
「可愛い女の子の頼みは断れないんですよね」
嫌味のない笑顔が逆に嫌味ったらしく映るのは、の安室に対する捉え方が随分と歪曲しているからだろうか。それとも先刻の自分の言葉をまんまと引用されてしまったからだろうか。
「あ! ボっボク用事があるん「だったけど、急にヨガやりたくなっちゃった? なら一緒に行こうね、コナン君?」
と安室のギスギスしたやり取りにそろそろと逃げ出そうとするコナンの腕を引っ掴み、地獄へと引き戻した。
かくしてを何者かと疑う安室と、楽しく運動をしに行く蘭と園子と、ただただ犠牲となったコナンは、清く正しく美しく汗を流しに行くのであった。
「なあなあ深月ちゃん、頼むよ! 食事くらい付き合ってくれよ!!」
のバイト先のジムの自動ドアを抜けると、熊の様な大男が受付に居座って可憐な女性を白昼堂々大声で口説いていた。受付として働く深月は華奢な肩を震わせて必死に困りますと訴えるが、男は真面目に取り合わない。はまたか、とため息を吐き出してみんなに入り口横で待っているよう伝えて受付へと急いだ。
「申し訳ありませんが、大声での会話は他のお客様に大変ご迷惑です。これ以上しつこいようでしたら出入り禁止にさせて頂きますよ?」
「っち、邪魔が入りやがった……また来るね! 深月ちゃ~ん!!」
の鋭い眼光と威圧感がありながらも冷静な声色に気圧された男は、悪態をつきながらもすごすごと退散していった。去っていくその背中すら睨みつけていたら、首に腕を回され縋る様に抱きつかれた。
「ぜんぱぁあい!! ごわがったああ!!」
「うん、怖かったね。よく頑張った」
よしよしと頭を撫でて少し休むかと提案するが、大丈夫と気丈に振る舞う深月を落ち着かせる様に背中をポンポンと軽く叩いて業務に戻れるよう促す。それから深月と軽く言葉を交わし、コナンたちの元へとやって来た。
「ごめん、お騒がせしました。行こうか」
「あんな大男にも怯まずにはっきり物言うなんてさんカッコ良い! あれは惚れるわ!!」
興奮した園子を蘭が宥めつつみんなでヨガ教室に向かうと、安室がこっそりに耳打ちしてきた。
「あの男はいつもあんな感じなんですか?」
「……そうですね、あの受付の深月をいたく気に入ってて、ああやって暇を見ては口説いてるんです」
「ああいう手合は放っておくと何をするかわかりませんよ」
「はい……そろそろ「さーん、安室さーん! ふたりでなにこそこそ仲良く喋ってんですか! 時間ないですよ!」
仲良くはないな――園子の言葉を即座に否定したかったが、安室を毛嫌いしている事が露見するのはまずいとぐっと堪えて、あくまで自然に距離をとって先行く園子たちと合流する。
この男のことだからが安室に対して何か鼻持ちならない思いを抱えている事は気づいていそうだが、もまた安室の思惑には薄々勘付いている。彼はどうしても赤井の死を自分の手で確信に導きたいようだった。だから赤井の死以降現れた沖矢昴を疑い、沖矢の彼女であるすらFBIか何かと疑っているのだ。
このふたりの攻防戦を傍観し続けるコナンは胃が痛くなりつつあった。
「あー……清々しい疲労感~」
「園子ちゃんお疲れ様! 水分補給しっかりね」
その後は何事もなくヨガ教室も終わり、ヨガマットの上で園子が寝転がっていると、が隣に腰掛けてきた。
「だんだんさんのプロポーションが憎く思えてきたわ」
「女子高生は体重の増減が激しい時期だし、しっかり運動すれば直ぐ元に戻るよ」
ヨガのポーズを分かりやすくするのにはぴったりとしたヨガウェアを身につけており、肩や腹部は剥き出しにされてた。そこにいやらしさはなく、均整のとれた筋肉質な身体はとても健康的で惚れ惚れとする。
「それに、絶対美乳」
「こらこら、どこ見てる」
は園子の発言に呆れて笑いつつも、コナンが園子との会話をこっそりと聞いていることにしっかりと気づいていた。
頬を染めてちらりとを見る彼は、やはり外見は子供でも中身は普通の男子高校生のようだ。
「はいはーい! 先生! 垂れ乳、離れ乳予防に何かありませんか!」
「じゃあ今度一緒にトレーニングしながら教えたげる」
「えー!! さんトレーニングとなると鬼軍曹になるんだもん」
「えー? これでも手加減してるんだけどなあ」
「あ、あのー……そろそろ安室さんを助けてあげませんか?」
園子とが和気藹々とお喋りしていると、今まで会話に参加してなかった蘭がおずおずと切り出してきた。その視線の先には、たちを除く女性陣が安室に群がる光景が広がっていた。
あれが噂の安室の女か――が遠い目をしていると、未亡人のマダムから人妻、女子大生など色とりどりの女性の誘いを上手く流している安室と目が合った。先程安室にしてやられた復讐もこれで十分済んだし、女性に揉みくちゃにされて草臥れた安室を不憫に思わなくもなかったは、声を大にして早々に片付けをして退室するように利用者に告げた。次のプログラムが控えているから、あと5分で準備するようにと口添えも忘れずに。
やっと解放された安室がに歩み寄る。
「さん、助かりました」
「さすがモテモテですね」
「はは……最近の女性は随分と積極的ですね」
「ちょっと先生! 先生はもう超絶イケメンな彼氏がいるんですから安室さんとらないで下さいよ!!」
「そうですよ! バイト終わりにいつも優しい彼氏が迎えに来てくれてるの知ってるんですから!!」
余計な事を言い出すそのお口を縫い付けてあげようかと思ったが、もう遅い。この男の耳に入れなくていい情報を提供してくれてどうもありがとう。覚えてやがれ。
一瞬だけ安室の空気が急速に冷えたのは、きっとの気のせいではない。その後安室はなんともないように笑顔を取り繕って「へえ……」とだけ呟いたのだった。
楽しいヨガ教室も終わり、安室たちと別れてが引き続きバイトをしていると、バイトの終わり際に事件は起きた。女性の甲高い悲鳴が聞こえ、まさかと思って受付に走ればナイフ片手に今にも深月に襲いかかりそうな男がいた。恐れていた事が起こってしまったのだ。男の様子からしてそろそろ仕掛けてくるとは思ったが、まさかこんなに早いとは――
「深月!!」
遠巻きに見守る観衆の合間を縫って声を張り上げると、はっと言葉にもならない吐息を震わせる深月と、深月を覆い隠すように立ち塞がる男がいた。その表情はどこか虚で狂気に満ちていて、男が正気でないことは確かだった。
「またお前か!! お前が……お前がいるから深月は俺のものにならないんだ!! お前なんか殺してやる!!」
男はナイフを振り翳しながらに襲いかかってきた。更にいくつかの悲鳴が上がるが、は声を上げることもなく、残っていたポアロ特製のコーヒーをぶっかけ、怯んだ隙に近場にあったパイプ椅子を叩きつけると男は痛みで堪らずナイフを手放した。すかさずナイフを遠くへ転がすと、掌底で顎を打ちつけて背中から床に落とした。上肢を捻り上げながら男を転がしてうつ伏せにさせて背中を足で踏みつけて動きを封じた。その間数秒程だろうか、それとももっと掛かっただろうか。誰もが息を詰めていた空間に「先輩……っ!」と深月の震えた安堵の声が響くと、一気に観衆が沸いた。
その後すぐに警察が来て、男は現行犯逮捕された。事情聴取は深月の精神状態を考慮して後日にしてもらい、そのままは警察に深月を自宅まで送ってもらうよう頼んだ。
は是非取材も呼んで大々的に表彰式を、と言われたが丁重にお断りして名前も伏せてくれるよう頼んで写真も遠慮した。
そして帰っていく警察に最後、は遠慮がちに、あくまで一般人を装って伝えた。
「あの男からは何か変な臭いがしました。最近ずっと精神も不安定なようでしたし、眼球も充血していて……もしかしたら……」
「……わかった。そちらも捜査してみよう。ご協力、感謝する」
は警察と別れると、整然と片付けられた受付に備え付けられているソファに座っている男を見つけた。癖のある髪、細められた目、今日も首の詰まった服を着ている男――沖矢は近づいてきたの存在にすぐ気づいた。
「帰りましょう、」
彼が敬称を付けない時は、特別甘やかしてくれるサインだとは思っている。
が返事をする前に沖矢はの指に自身の指を絡め、まるで暗闇から救い上げる様に力強く手を引いた。いつの間にかの荷物も肩に抱えている。
「すっ昴さん! 待って下さい! 手! 手っ! 荷物も持ちます!」
「いいですから家に着くまで大人しくして下さい」
そのままお店の外に出て人目のない路地まで連れて行かれると、ふわりと沖矢のにおいに包まれた。いつも隠している赤井のたばこのにおいが感じ取れるほど、ふたりの距離は限りなくゼロに近い。
「お前が無事でよかった」
首まで覆う布の下に眠る機械のスイッチを切って赤井秀一の声に戻ると、一気にに安心感が流れ込む。もちろん沖矢の声よりも、従来の赤井の声の方が落ち着くだろうとの心理を読んでの配慮だった。
つくづくこの人には敵わない――は赤井の胸に身を預け、その影でこっそり柔らかく笑った。
「私を誰だと思っているんですか。元軍人で、ハッカーで、貴方と同じFBIですよ?」
はあの男と対峙する前に咄嗟に思い出していた。
戦場にルールなどない。ただ死なないように、生きて自分を守り、人を守る。それも可及的速やかに、出来るだけ被害は最小限に。相手が凶器を持っていたとしたら、素手で立ち向かうなどと愚行を冒してはならない。拳は最終手段だ。投げられるものがあるなら片っ端から投げろ。使えるものは何でも使え。それで勝率が少しでも上がるのなら行うべきだ。正々堂々といく必要などない。制圧とはそういうことだ。だからこそは自分の持ち物や室内の備品を最大限に使って相手を制圧した。そのやり方は卑怯ではない。立派な戦略だ。
「そうだったな。そして今はただの大学院生で、沖矢昴の恋人」
「うっ……その肩書は恥ずかしいんで言わないで下さい」
「そうか? 俺は気に入っているがな」
より沖矢昴という存在を確立させる為に作り上げた恋人同士という設定に、はいまだ慣れない。
暗がりでも夜目がきく赤井は耳まで赤くなったをしっかり目に収め、更に笑みを深くする。どうしても平気で無茶をするの性分と目が離せない独特の雰囲気に呑まれ、赤井のパーソナルスペースはおのずと狭くなっていた。本来の自分はこうであったかと疑問を持つほどに、に絆されていたのだ。
「本当は気づいていたんです。あの男の甘いにおいと異常行動、起伏の激しい精神状態。症状は見て取れるほど出ていて、これから起こりうる未来も予想出来ていたのに、警察に突き出すには証拠がまだ足りないと足踏みして、こんな大事になってしまった。深月を怖い目に遭わせてしまった」
「だが、のおかげで誰も命を落とさずに事は済んだ」
「そんなの……結果論です」
「もちろんその結果に至るまでの過程も大事だが、あまり自分を責め過ぎて本来するべき仕事を見誤るなよ」
それは今回の事件を振り返ることでも、始末書を書くことでも、組織を追うことでもない。
「わかっています。深月やこの事件に関わった人へのアフターケア、ですよね」
免疫のない一般市民が事件に巻き込まれた時の身体的、精神的ストレスは計り知れない。特にこの事件が今後の人生に大きく影響を及ぼしかねない深月には、細心の注意を払わなければならない。
赤井はわかっているなら問題ないと頷き、喉元のスイッチを切り替えて再びと指を絡めて路地から出た。
「すっ昴さん、あの、手を……」
「おや、恋人同士が手を繋ぐのはおかしいですか?」
は絶対に自分をからかっている確信犯を睨みつけると、諦めたようにぴたりと沖矢にくっついて極力声を潜めてこそりと呟いた。
「尾行している安室さんを警戒してのフェイクならもう十分かと。今日園子ちゃんと蘭ちゃんについて来た彼と大変不本意ながら一緒にヨガをしたんですけど、第三者が昴さんは毎回バイト終わりに私を迎えに来てくれる健気な彼氏アピールをしてくれましたから」
今日だってその言葉の通り、沖矢は夜までバイトのを迎えに来てくれていた。だからこそあの事件の全貌を見ることになったのだが。
と沖矢それぞれに何かしらの疑念を抱いている安室は、同時にと沖矢の関係性にも疑いを持っていると断言してもいいだろう。しかし第三者からの情報であれば多少はふたりは付き合っているという信憑性も増す。
「ああ、それなら今日のさんの行動でますます疑惑が広がったでしょうね」
「え?」
「ここに彼がいるということは、さんが完璧に犯人を制圧した一部始終を見ていたということです」
「げっ!!」
はあくまで小さく呻いた。距離をとって尾行をしていたとしても、相手もど素人ではない。どんな小さな音でも聞き逃さないと神経を張り詰めて耳を澄ませている筈だ。
沖矢は更に続けた。
「次彼に会う際は十分に気をつけて下さいね」
「そっそんなあ……っは! まさかこれこそ始末書行き?!」
「そんなとこばかりよく鼻が利く」
「戌年ですから!」
なぜか誇らしげにアピールしてきたが、嗅覚の鋭さと戌年に因果関係があるのかは甚だ謎だ。は時々論理的な思考から外れた言葉を発することがある。
「ならば犬は犬らしくきちんと主人に忠誠を尽くして下さいね」
「わん!」
「!」
「はっ?! 間違えた!」
安室がはっきりとと沖矢の会話を聞き取れたのはこれだけだったが、なかなか衝撃的な内容で、しばらく頭を抱えることになった。
ここまでが沖矢――いや、赤井の思惑通りだと安室が知ったら、きっとまた赤井に対する憎しみが募るだろう。
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