蜜雨

「哲」

 はじめて先輩に会った時、哲さんのことを哲と呼ぶ女子がいるんだと思った。それから哲さんも、とその女子のことを呼んでいて、俺はまた哲さんも女子を呼び捨てにするんだと思った。
 俺がぼおっとそんなことを考えていると、俺の存在に気がついた先輩は「ごめんなさい、話中だった?」と頭を下げた。哲さんは律儀に「スマン、ちょっとだけいいか?」と俺に断りを入れて先輩と話しだした。



「邪魔してごめんね。それじゃ、哲……と、御幸君も部活頑張って」
「……っえ? なんで俺の名前……」
「哲が買ってる雑誌に載ってたし、御幸君イケメンで有名だから」
「ああ、御幸は1年生ながら1軍で頑張っている」

 先輩は哲さんのド天然発言には慣れているのか、深くは突っ込まず苦笑しながら去っていった。
 そん時の俺は特に先輩に対してどうとも思っていなかった。ただ哲さんと仲のいい先輩ということだけが頭の隅にインプットされた。もう関わることもない――しばらくすれば忘れてしまいそうな曖昧な記憶だった。
 しかし、俺は後に思い知った。人が人を好きになるきっかけなんてほんの些細なことなのだと。こんな真摯な感情、しばらくの間――少なくとも高校在学中は野球だけに向けられると思っていた。
 倉持の言うとおり、俺はそんな器用な性格ではないし、人と関わることだって得意ではない。得意なのは上手く流すこと。それだけだ。しかしそれに長けていたからうまくやってこれたようなもんだ。



 俺は先輩の後ろ姿に一目惚れしたらしい。

 東先輩がかっ飛ばして弓道場の方に流れていったボールを拾いに行くと、静かなはずの道場から軽やかに風を切る音とそれからすぐに重い音が聞こえた。聞いたこともない音だった。当たり前だ。今自分がいる場所は野球部とは縁遠い弓道部の道場なのだから。
 興味本位で道場を覗かせてもらうと、ひとり道着を来て弓を引く女子がいた。風に艶のある髪が揺られ、やがてその風が止むと、ゆっくりとたおやかに動き始めた。ひとつひとつの動作がただただ綺麗で――月並みな言葉しか出てこないが、その姿に魅せられたのだ。
 強烈だった。思わず時を忘れてしまう出来事があるとは自分でも思わなかった。絶対に一目惚れなんてしない質だと思っていた。思慮深い方だし、常に冷静な傍観者でいることも多かった。野球を一番に考え、野球で頂点に立つためにはどんな努力も時間も惜しまない強い意志も持っている。だが、同時に欲しいものができてしまった。






先輩」






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