蜜雨

「じゅーん!!」

 練習が終わり、自主練や飯や風呂に行く奴らに紛れて良く通る女子の声がグラウンドに響いた。この声は間違いなく幾度となく自分の中で反芻させていた先輩のものだ。自主練に行こうとしていた足が自然と止まり、勢い良く先輩の声のした方へ振り向くと、横目に倉持がドン引きしているのが見えた。俺はただ誰が来たのか一応確認したかっただけだ。断じて先輩を一目見たかったからじゃねーから。だからその顔やめろ倉持。

「おう。例のブツだな」
「うん、お願い! 今日これが楽しみで1日頑張ったんだから!」
「おら、来いよ」

 純さんとも親しいのは知っていたが、まさかここまでとは。
 ふたりだけの親密な会話を聞いて、ひっそりと俺がショックを受けていることは倉持しか知らない。
 俺がこのまま自主練に行くべきか、それともふたりを追うべきか迷っていると倉持が背中を思い切り叩いてきた。俺一応レギュラーな?

「ヒャハハ! 分かりやすくショック受けてんじゃねーよ!」
「いてーよ、元ヤン」
「俺に当たんじゃねー、失恋野郎」

 勝手に失恋させんじゃねーよ。まだしてねーわ。
 相変わらず倉持は人の顔色をよく見ていて、気を抜けば先輩で一喜一憂する情けない俺が筒抜けになりそうだ。いや、もう筒抜けなのかもしれない。ここ最近は俺が恋愛でポンコツになっている様を笑っていることが多い気がする。

「おっも! おっも!」
「だから花男か君届どっちかにしろって言っただろーが。どうせ1日じゃ読めねんだからよ」
「だってつくしちゃんと爽子ちゃんが呼んでたんだもん」

 俺と倉持が言い合いをしていると、思いの外すぐに先輩と純さんが戻ってきた。
 先輩が両手に持っている大きな紙袋の中身は、どうやら純さんの少女漫画らしい。もんとか可愛いかよ。

「哲! お願い!!」
「持っていってやりたいが、監督に呼ばれている……すまん」
「ええー!! 哲が頼みの綱だったのに……貸してくれた純に持ってもらうのも悪いし……」

 幼馴染なだけあって哲さんの名を真っ先に呼ぶ先輩に少しだけ嫉妬心が生まれる。
 いつだって先輩の1番は自分で、甘えるのも頼るのも俺だけにして欲しいと思うのは、男ならではの願望であることは理解してほしい。まだただの後輩でしかない自分がそんなことを思う資格がないことも重々承知だ。

「あっ! 亮介!」
「で? ダッツ何個買ってくれるの?」
「私がこんなに苦しんでるのに……!!」
「うん、絶景」
「そうだった……亮介はこういう奴だった……」
「まったく、ほら荷物よこし「あの!! 先輩!!」
「うわっびっくりした! どうしたの御幸君そんな大声で……」

 やべっ亮さん遮って大きな声出した所為で魔王が降臨していらっしゃる。だがそこまでしでかしてしまった今の俺は突っ走るしかない。まだ先輩としか呼べない俺は哲さんや亮さんには大幅に遅れを取っているし、純さんや倉持にすら負けている。そんな俺は一発逆転を狙うしかないのだ。

「俺荷物持ちます!!」
「えっ?! やっ、そんなっ、御幸君に持たせるくらいだったら亮介に持たせるよ!!」
「なにそのふざけた妥協案」
「りょーふへ、いひゃい」

 先輩のお餅のようなほっぺたをあんなに好きにできるなんて亮さんそこ代われ下さい。

「俺が先輩の荷物持ちたいんで全然大丈夫です!!」

 またも横目に倉持が更にドン引きした顔が映ったが、俺は俺で目の前の先輩とふたりきりになるチャンスを掴もうと必死だ。亮さんは俺のそんな顔を見て、先輩になにか呟いてから俺の横をすり抜けてその場を去っていった。

「今回は野球以外で必死になるお前が面白かったから譲るよ」

 俺にそう耳打ちするのも忘れない。さすが抜け目のない人だ。

「御幸君! すぐに気づかなくてごめんね!! 申し訳ないけど、家まで付き合ってくれる?」

 なぜか亮さんの言葉を聞いた先輩に謝られて、すぐに亮さんが爆弾を置いていったのだと気づいた。頼むから先輩に変なことを吹き込まないで欲しい。本当にあの人は人を掻き乱すのが上手い。先輩の前だけはせめて天才キャッチャーのカッコいい御幸一也でいたいのに。
 それでも先輩に付き合ってと言われただけで全てを許したくなるのだから、俺は亮さんにいいように弄ばれているのだろう。

「御幸君、着替えてから行く?」
「はっはい! できれば!」

 こんな汗臭く汚れた俺の隣に先輩がいていいはずがない。同じく部活終わりであるはずの先輩からは制汗剤だろうか、せっけんの香りがこちらまで漂ってきた。先輩のトレードマークのポニーテールが揺れる度に俺を惑わす。ついついうなじや首筋を見つめてしまうのは思春期男子として恥じない行動をしているだけだ。

「じゃあ寮の前で待ってるよ! 行こっ!」

 俺、今日死ぬかも。
 先輩が満面の笑みで俺を呼んでいる。あそこは天国か、楽園か。
 俺は緩みそうになる頬を内側から噛みながら耐えて、寮までの短い道のりも荷物を持ってあげるという気遣いをしてみせた。もちろん下心はあるが、それを悟らせない経験値は積んでいた。

「あの、御幸君……」

 そんな俺がこんなにも必死にポーカーフェイスを保たなければならない相手は先輩くらいだ。先輩が俺を見上げるだけで心臓が揺さぶられる。俺に近づきながら声を潜める先輩の表情は甚く真剣だ。てか近くね?

「部屋に入ってもいい?」

 俺は今日真の漢になるのかもしれない。
 いや待てその前にきちんと先輩に伝えることがあるだろ。この日のために告白のイメトレしていたのだ。そしてその先に進むシーンと、さらにその先に進むシーン(でいつも夜中のトイレに駆け込む)をイメトレしただろ、御幸一也。

「ここなら誰もいないね」

 先輩を部屋に入れてしまった。
 幸いこの時間はみんな自主練をするか風呂か食堂に直行するから部屋に戻る奴はほとんどいない。つまり、誰にも邪魔されず、先輩とふたりきりだ。とりあえず落ち着け。ここで慌てたら童貞丸出しだ(実際童貞だが)。

「それで、御幸君! 花男と君届、どっち先読む?」
「へ?」

 先輩の深刻そうな表情とは裏腹に、発した言葉は俺を困惑させた。

「えっ? 御幸君も少女漫画読みたいけど、純に直接頼みづらいから私の荷物持つフリして借りようとしたって亮介が……あっ!純には私からこっそり御幸君に貸したって言っておくから! 純は荒っぽいとこあるけど、ちゃんと話せば理解してくれるし、少女漫画好きな男子にはきっと優しいと思うよ!」

 必死に言葉を紡ぐ先輩は可愛い。可愛いが、亮さんんんんん!!!
 あの人はほんっといい仕事をする。今頃亮さんがほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。おかげで俺は少女漫画好きの恥ずかしがり屋で、先輩に頼み事も出来ない腑抜けで、先輩を出しに使う男認定をされてしまった。

「あの……先輩、亮さんに騙されてますよ……俺は別に少女漫画が読みたいんじゃなくて、先輩と帰りたか……!!?」

 俺は今何を言いかけた?!!
 先輩に隠し続けてきた想いを吐露するのはまだ早い。ああ、今ので気づいてしまっただろうか。

「私と? あの御幸君が? ……わかった!」

 わかってしまった。俺の気持ちが。こんな形で伝える気など更々なかったのに――

「うちのトロとそーすけが見たいんでしょ!」

 あ、全然わかってねーやこの人。
 そうだった、先輩頭良いけどあほだった(とよく亮さんが罵っている)。
 トロとそーすけとは家の猫と犬の名前だ。先輩の携帯の待ち受けにもなっているトロとそーすけは、先輩の気を引くために話題にしたことがあって、まんまと俺の策略に引っ掛かってくれた先輩が今度家に見に来ていいよと言ってくれたのはもちろん記憶に残っているし、先輩の記憶にも残っていたらしい。うちの子は可愛いからなあとうんうん頷く先輩の方が可愛いのだが、そういう事にしておく。
 よかった、この人が鈍くて。そりゃそうだよな、あんなわかりやすく好意を示している東先輩にすら気づかないもんな。

「そういうことなら私部屋出とくね! ゆっくり準備して!」

 俺が少女漫画を借りる気がないのを知り、部屋にいる意味がなくなった先輩はそそくさと部屋を出ていってしまった。もう少し、あとほんの少しだけ先輩がいる部屋を堪能したかったが、これ以上密室に先輩といると、後輩御幸一也を保てなくなりそうだからこれで良かったのかもしれない。今だって先輩の残り香を必死に掻き集めて堪能しようとしている変態に成り下がっているのだから。

「おっ! 私服の御幸君新鮮だー! それにいいにおいする! もしかしてシーブリの青使ってる?」

 私はオレンジのせっけんのやつ使ってるんだと先輩は屈託のない笑顔を向けてくれているが、先輩の鞄からシーブリを見つけて、まったく同じ物は流石に引かれるだろうから、同じシリーズの物を購入したのだと知ったらどんな顔をするのだろうか。多分、二度と今のような笑顔を向けられることはないだろう。気持ち悪いことは自分でもわかっている。ああ、わかっているさ。先輩にこんなにも溺れ、情けなくなっていることを。

「御幸君忙しいのにごめんね、重いでしょ? やっぱりどっちか持とうか?」
「いえ、鍛えてるんで全然平気です」
「さすが1年生にしてレギュラーの御幸選手は言うことが違うねー!」

 その1年生にしてレギュラーの御幸選手はあなたの前で格好付けたくてこんなことしてるんですよ。
 なんて口が裂けても言えないが、これが本音だ。普段先輩と接点を持てない俺は僅かなチャンスも見逃せないのだ。

「でも先輩が漫画読むなんて意外ですね」
「そう?」
先輩の家、厳しそうなんで……」
「あ、それよく言われる。確かに漫画とか家に置いちゃいけないから、よく哲に借りてたんだけど、野球物しかなくてさ。亮介はホラー漫画しか貸してくれないし……そしたら純が少女漫画貸してくれるっていうから」

 安達作品はH2が好きだとか、富江が怖かっただとか、部活引退までは弓道に支障が出るからと恋愛禁止令を祖父が出してて、それで少女漫画を読んでときめきを補充しているだとか、とにかく先輩の口から発せられる貴重な情報を脳に刻んだ。

「ここが哲の家で、あそこが私の家だよ」

 はじめて見る哲さんの家を通り過ぎると、隣に先輩の家があった。先輩と哲さんが幼馴染みだと突き付けられた瞬間だった。これが俺と哲さんの埋まらない差。

「ここまで本当にありがとう! ちょっと待ってて! すぐ戻ってくるから!」

 純和風な日本家屋はいかにも弓道一家らしい。立派な門構えをくぐっていった先輩を見届け、俺は家をじっくり観察しようと辺りを見渡すと、白髪の老人と目が合った。

「貴様……とどういう関係だ?」

 あ、この人先輩のじいちゃんだわ。しかも孫溺愛タイプ。

「ええと……ただの後輩デス」
「ほーう? ただの後輩が家まで先輩を送るのか?」
「さっ最近なにかと物騒ですし、ね」
「ふん、下手な言い訳しおって。貴様がにほの字なのは目を見たらわかるわい」

 げっ。なんだこのジジイいきなり人の確信突いてきやがる。

「まったく、次から次へとあやつは……この間だってあの小生意気な小僧を連れてきよるし……これで弓道に支障が出たら承知せんぞ」

 小生意気な小僧という言葉で亮さんだと瞬時に分かってしまった。しかもあんな恐ろしい奴の毒牙にかけてたまるかとか言われてるけど、一体亮さんなにしたんだ。

「いいか、に変な気でも起こしてみろ……貴様の身に矢が降りかか「ちょっとおじいちゃん! 御幸君に変な絡み方しないでよ! また血圧上がるよ!」
! だがな、わしはお前のことを思って……」
「はいはい、ありがと。お母さんがご飯だって。早く家入って」

 先輩が登場し、早々にじいさんに退場を告げる。最後に強めに玄関の引き戸を閉めると、申し訳なさそうに俺の前にやってきた。片方の手で白い猫を抱え、もう片方でビニール袋を持っている。

「ごめんね、うちのおじいちゃん騒がしくて……おじいちゃんが言ったこと一切気にしなくていいから! ほんっと今日はなにからなにまで迷惑かけてごめんね!!」

 先輩のおじいさんは弓道に関しては人間国宝並みらしいが、いかんせん心配症な性格らしく、特に孫に近づく男には容赦しないらしい。そりゃ孫に対して恋愛禁止令を出す訳だ。

「あ、そうそうこれがトロ! そーすけはご飯食べてたからまた今度ね! トロだけでも可愛いでしょ?」

 いやいや、猫を抱えるあなたが可愛いです。

「そうだ! せっかくだから写真撮ってもいいよ!!」

 にっこりと上機嫌に笑う先輩だが、俺の頭の中は猫の写真に乗じて先輩を撮影する権利を手に入れてしまったことでいっぱいだ。これまで先輩の写真は新聞か雑誌の切り抜きしか持っていなかったが、遂に、遂に俺だけの先輩の写真を携帯に収めることが出来る。ここで重要なのはあくまで自然に、猫を撮るようにして猫を抱える可愛い先輩を撮ることだ。

「どう? 御幸君、可愛く撮れた?」
「ええ、ばっちり(制服姿で猫を抱く可愛い先輩が)撮れました」
「よかった! あとこれ、うちの親の田舎のお土産! 笹かまと牛タン味ブリッツ! 本当はプロテインバーにしようと思ったけど、御幸君甘いのあんまり食べないって言ってたからしょっぱいのにしたよ!」

 笹かまは早めに食べてねと渡されたビニール袋を受け取った。
 俺が前に話した些細なことを覚えてくれていた感動で、その後どういう道のりで寮まで帰ったかまったく覚えていない。
 後日、俺の待ち受けとなった先輩でこそこそと独り癒されていたら、亮さんに見つかり、ついでに東さんにも見つかり、ふたりに写真を寄越せと脅され、倉持からは変態扱いをされるという仕打ちを受けた。確かに先輩の写真を夜のお共にしてしまって、しばらくまともに先輩の顔が見れなかった。まあ元からあまり直視できていなかったので、今夜もまた俺は先輩を汚してしまうだろう。






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