蜜雨

 彼女は入学当初から話題になっていた。勿論、弓道に関しては中学の頃の実績もあり、先生方も彼女の高校での新たな活躍に注目していた。全国大会、インターハイの出場はもちろん、優勝を狙える程の実力者である彼女に期待するのは無理もない。
 しかし生徒達にとってはそんなことよりも彼女の容姿の方がよっぽど気になるようだった。真っ直ぐと伸びた腰まである黒髪を高い位置で結い、彼女が矢を放つ度にさらりと静かに揺れる姿はため息がこぼれる。黒曜石のような不思議と人を惹きつける輝きを放つ双眸は弓道をする時だけ鋭くなり、普段の朗らかさからは想像もつかない。そんな彼女のギャップにやられる男子生徒は多く、校舎から離れている野球部専用のグラウンド裏に設けられた弓道場まで見学に来る猛者もいるようだ。例に漏れず、ウチの野球部員の中にも彼女に魅了されている者が何人かいた。その代表格が東君、そして御幸君だった。

「あっ高島先生ー!!」
「あら、さん。どうしたの? こんなところまで」

 噂の彼女は弓道衣のまま野球部のグラウンドに向かっているようだった。その手には現代国語と達筆な字で書かれたノートを持っており、きっと現国を担当している片岡監督に用があるのだろう。

「この間大会で公欠だったときにノート提出があって、期限今日まで延ばしてもらったんです」

 ということを弓道衣に着替えている途中で気がついた彼女は、すでに職員室からグラウンドに移動している片岡監督を追ってグラウンドまで来たらしい。
 明日現国の小テストがあるからすぐに確認してもらって返してほしいのだと苦笑しながら話す彼女は、案外抜けたところがある。その完璧すぎないところがまた彼女の魅力なのだろう。

「そうだったの。それより、先日の大会でまた優勝したんですって?」
「わー相変わらず野球以外の情報も早いですね!」
「貴方もウチが誇る優秀な選手の一人よ、当たり前じゃない」
「えへへっ高島先生に褒めてもらえるなんて光栄です……ん? その子は?」

 私達の会話を後ろでぼうっと聞いていた沢村君に気がついた彼女は首を傾げる。その動作と共に揺れる髪が眩しい。

「この子は長野で私がスカウトした沢村栄純君。沢村君、彼女は2年生の弓道部主将のさんよ」
「なりたてですけどね。へー、沢村君長野からこっちまで来たんだ」
「ええ、一度ウチの練習や設備を見て入学するか判断して欲しくてね」

 今は意固地になっている沢村君も、地元の高校とウチとではレベルが違いすぎることを思い知るだろう。彼が驚愕する姿が目に浮かぶ。

「強豪選手であるあなたから、後輩になにかアドバイスとかないかしら?」
「そうですねえ……私は強豪校の誘いを蹴って地元に残った口なのでなんとも言えませんが……別に強豪校じゃなくても弓道は出来るのは事実です」
「……っ! そっすよね! いやーよかった! 都会にも話がわかる人がいて!!」

 今朝からずっと表情が固かった沢村君が意気揚々と喋り出した。

「けど、地元の高校を選ぶ上での覚悟も必要なのは確か。設備は最低限、指導者の経験も浅くて、仲間はいるけど競い合える実力者はいない。そんな中で自分で自分を追い込む環境をつくって、インハイ3連覇を成し遂げる努力を維持しなきゃいけない。強豪校を蹴るってそういうことだし、なによりも結果を出し続けるプレッシャーに打ち勝たなければならない。それは思った以上に孤独な戦いよ。弓道は個人戦があるけど、野球は独りでは出来ない。生半可な気持ちでは甲子園に行けないことは、私よりも沢村君が知っていることだからこれ以上なにも言わないでおくね。ただ、上を目指すなら地元でも強豪校でも、相応の覚悟が必要ってこと」

 すみません、お喋りが過ぎましたと謝る彼女は先程までの射抜かれるような眼光は消え失せ、柔和な雰囲気になっていた。沢村君は急に空気が変わった彼女についていけず、二の句が継げなかった。後輩に説教じみたことを言ってしまったと反省する彼女だが、沢村君も同じく地元と強豪校に揺れる立場であるから丁度良かった。私が言い聞かせるよりも、もっとずっと説得力がある。

 青道は野球はもちろん、様々なスポーツに力を入れている学校だ。もちろん弓道場も学校敷地内にある。近年弓道部の成績は都大会止まりであったが、去年新しく入った彼女は出場した大会で軒並み優勝を飾り、雑誌で特集を組まれたり、テレビ出演をしたりと大いに青道の名を轟かせるに至った。そんな彼女が語るのは家族の力であった。青道の近所に住む彼女は自宅に弓道場があり、弓具店を営む両親と弓師の祖父、そして既に故人ではあるがインターハイ3連覇という偉業を成し遂げた祖母と暮らしていた。彼女の指導者は主に祖母だったが、中学生の時分に亡くなり、その時インターハイ3連覇を約束したらしい。その約束こそが彼女の原動力であり、強さでもあった。そう、彼女の祖母は青道高校出身だったのだ。だからこそ現在全国レベルではない青道に行くことを選んだ。強豪校に行くのではなく、自分の祖母と同じ道を突き進む覚悟を決めた。彼女は沢村君にそんな覚悟があるのかと暗に問いていたのだ。



「わっ! 本当に東先輩だ!」

 沢村君と東君が一触即発している中、のんきな声が響いた。
 片岡監督がサブグラウンドにいるという野球部員の情報を聞いて、私達と別れた彼女がなぜこのメイングラウンドにいるのだろうか。

「おっおう……やないか」

 彼女がいると東君は途端にしおらしくなる。大の男が少しだけ頬を染めてまごつく様子に、沢村君は些か顔色を悪くしていた。気持ち悪ぃと呟く声が聞こえてきたのも無理はない。私自身も東君がこんなに骨抜きにされている姿にはじめは驚いた。しかしいつの時代も男の子は好きな子には弱いものだ。あの東君だって例外ではない。

「引退した東先輩がバッティングしに来てるから激励してこいって片岡先生に言われて来ました! あの沢村君と勝負でもするんですか?」

 片岡監督も生徒をよく見ている。
 最高学年である東君のストッパーはおらず、1、2年生達も東君には逆らうどころか恐れ慄いている。そこに少しだけ彼女を投入することによって東君は迫力をなくし、部内の雰囲気は重たく険悪なものから一気に穏やかになる。
 これはいわば片岡監督による牽制。彼女の登場のおかげで、あからさまにホッとする部員が何人か見受けられる。

「そうなのよ。投手の沢村君に、東君の本物のバッティングを是非味わって欲しくてね」
「じゃあ私も久しぶりに東先輩のバッティング姿拝もうかな」
「おもしろそーなんで、俺がそいつの球受けていいっスか?」

 グラウンドに座り込んで硬球を弄んでいた御幸君が口角を吊り上げて心底楽しそうに笑っていた。同じく東君と並んで分かりやすく彼女に想いを寄せる人物だ。独りでなんでも抱え込んで、感情を隠すのが巧妙なあの御幸君が1つ上の先輩に対して必死にもがく姿は、彼もまた思春期真っ盛りの男子高校生なのだと実感させられる。

「コラァ御幸!! お前にええカッコ見せたいだけやろ!!」
「ハッハッハッ! やだなー東さん、純粋に面白い勝負に首突っ込みたいだけであって、最近天狗になっている東さんの鼻を先輩の前でへし折ってやろうなんて微塵も考えてないですよー」
「こいつ……!! の前では名前も呼べへんくせしてよくもそないなこと言えんなあ!!」
「東さんこそ夏終わったら先輩に告白するんじゃなかったですか?」
「あっあほう!! 時期を見とるんじゃ時期を! あいつも大会があったりして忙しそうやったしな!!」
「へーえ?」
「なんや! 言いたいことあんならはっきり言えやコラァ!!」

 沢村君を言いくるめて着替えに行かせ、防具をつける御幸君とそこに小声で話しかける東君は、恋に振り回されているただの男子高校生だった。天才と呼ばれる御幸君も、ドラフト候補生の東君もという強力な矢に胸を打たれているなんて、私の隣でこれからの熱い戦いに胸を躍らせている彼女は知りもしないだろう。

「東先輩いつも通り気持ち良くかっ飛ばして下さいね! 御幸君も、東先輩に負けないで!」

 野球に全身全霊を打ち込む彼らにオアシスがあってもいいじゃない。ただ彼女が笑って応援するだけで彼らはどこまでも頑張れるのだから。



(帰りに沢村が弓道場の前を通っての弓道姿に心を奪われて敬愛するようになるのはまた別の話)






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