「ごめんなさい。今は弓道のことしか考えられないので……」
もうじき冬から春に移り変わる。そんな時分、卒業生は最後の思い出として自分の胸に燻っている気持ちを吐露するのだ。今、先輩の目の前にいる名も知らぬ先輩の淡い恋心は木枯らしと共に散った。先輩と数度だけ言葉を交わして男の先輩はその場から足早に去っていった。残された先輩は寒空の下、物憂げな顔で佇んでいる。そのまま校舎の方ではなく、どこか別の場所へと歩みを進めた。
先輩が向かった先は案の定弓道場だった。弓道場の裏に隣接されている野球部のグラウンドをついでに覗いてみると、昼休みもバッドを振っているプロ入りが決まった東さんと目が合い、俺の名前を叫ぼうとするから口に手を当て弓道場を指差すと、俺のその行動を不審に思ったのか訝しげな表情で無言でこちらまで来た。
「東さん、ちわっす」
「なあにやっとんのじゃお前は!」
小声で怒鳴ってくるあたり、意外と空気が読めるのだ、この人は。
「先輩が弓道場に向かうもんだから追いかけてきちゃいました」
「やとお?! 御幸……まさかお前ストーカーちゃうやろな?!!」
「いやだな東さん、偶然ですよ、偶然」
他の奴に先輩の情報を聞きまくったり、先輩の載っている新聞や雑誌をチェックしたりするのはいちファンとしての行動だ。決してストーカーではない。だから今回の告白現場を目撃してしまったのも、たまたま通りかかっただけに過ぎない。
東さんはいまだ俺に疑いの眼差しを向けているが、東さんだってこの状況では同罪だ。弓道場を覆うフェンスの影から大の男2人が射場に座る女生徒を見つめる図なんて通報もんだ。
「実はさっき、先輩告白されてたんです」
「……は、どうせ断ったんやろ」
「なんでそんな断言できるんすか?」
「んなもん考えんでもわかるわ。伊達にお前よりと一緒におらんからな」
少しだけ東さんが羨ましいと思った。だってそれは俺が望んでも手に入らないから。埋まらない年の差を話題に出してくるなんてこちらの分が悪すぎる。だが、それはこっちだって同じだ。東さんが卒業した後の先輩との時間は決して得られないから。
「最後の大会が終わるまでは彼氏を作るつもりはないってのは有名な話や。せやけど、最近はそれでもええって気持ちだけ伝える奴が増えてるらしいな。特に俺みたいな卒業の近い奴は」
東さんが俺と同じ気持ちを抱いて、先輩に熱い視線を送っているのはすぐにわかった。また東さんもすぐ俺の先輩を見る目に熱情が含まれているのに気づいた。そして弓道場に通ううちに、同じように弓道場に通う東さんを発見してから謎の結束力というか、同じ女子を好きになった男の友情みたいなものが生まれていた。だからといって俺も東さんも先輩を譲る気はない。
「どうして東さんは先輩なんですか?」
確かに先輩は弓道が強くて綺麗だと学校でも有名だ。だがあの東さんがただそれだけの理由で先輩に心を奪われるとは思えなかった。何かもっと明確なきっかけがあるはずだ――それを俺に教えてくれるかは別だけど。
「……が1年の時、唯一大会で2位を取ったことがあったんや」
意外にもあっさりと東さんは口を開いた。
「それって秋季大会の……」
「なんやお前、そないなとこまでチェックしてんかい」
「たったまたまですよ! 先輩が2位なんて珍しいと思って印象に残ってただけです」
はははと笑いながら誤魔化したが、倉持に引き続き東さんにまで完璧にドン引きされた。
ええ、そうですよ、俺はそんなとこまでチェックしているんですよ。野球だろうが何だろうが、まず相手を落とすには情報を集めるのが基本だと思って手あたり次第情報収集した結果だ。基本に忠実なだけで、決して邪な気持ちなど(少ししか)抱いていない。
「その秋季大会の朝、のじいちゃんが倒れたそうや」
あの殺しても死ななそうな(失礼)じいちゃんが倒れるなんて想像が出来ないが、先輩は大会を棄権して病院についていくと言ったらしい。しかしそんなことをあのじいさんが許すはずもなく、先輩は精神が不安定のまま大会に出場した結果2位になってしまったらしい。その成績でも十分に素晴らしいのだが、自身との戦いでもある弓道において先輩は自分に負けたことが許せなかったようで、弱い自分を鍛え直す為に1週間弓は引かずにひたすらキツイ走り込みと筋トレをすることを選んだのだった。
「そん時やった……俺がと出会ったのは……」
――当時俺はのこと知らんかった。元々野球しに学校に来てたもんやし、もちろん女子にかまけている暇などないし、弓道に興味もなかった。
そんな俺はいつも通り夜遅くまでバッドを振って寮に帰ろうとしていた途中の道で青道ジャージを着た背中を見掛けた。それがやった。髪をひとつに結び、すらりとした華奢な体つきは後ろ姿だとしても女子だと遠目でもわかる。こんな夜遅くになんやけったいな女子やと思ったら、突然まあまあな声量で「っくそ! っち、くしょ……!!」と息を荒げながら悪態を吐いてくるりと俺の方向へと走り始めた。当然すぐに俺の存在に気がついたは顔を赤らめ、急いで俺の横をそのまま通り過ぎようとしたら走り込み過ぎておぼつかない自分の足に引っ掛かって転んでしもた。燃えてしまいそうなほど全身を赤くしたに(こんなん自分やったら死にたなる)俺も思わず「だ、大丈夫か……」と声を掛ける。
「っ……ふ、ぅ……く!」
2年も前のことやのに、今でも鮮明に覚えている。あのが泣いた姿は、これっきり見たことがない。それもそうかもしれへん。あれ以来は出場する大会すべて優勝しているのだから。
「おっおい! 痛いやろうけど転んだくらいで泣きなや!」
「ご、ごめ、っなさ……ちが、くて……なんか自分でもっおさえ、っられ……ふっ、情けなくて、くやしく、て……っ!!」
転んだ拍子で張り詰めていた緊張が一気に解放されて、泣きたくもないのに泣いてしまったようやった。綺麗な見た目に反して鼻水を啜りながら豪快に泣くにどうしたもんかと途方に暮れていると、はジャージの裾で乱暴に顔を拭いて頬を叩いて立ち上がった。
「もうひとっ走りします! ご迷惑をお掛けしてすみませんでしたっ!!」
いっそ清々しいほど直角に頭を下げてはふらふらと再び走り出した。
「ちょお待て! 夜も遅いさかいもうやめや!」
「こんな弱い奴は走るしかないんです!!」
なんつー昔ながらのスポコン女子や。おまけに頑固者ときた。
「くおらあ!! この馬鹿孫ーっ!! 今何時だと思っとるんじゃああ!!」
「」
「ぎゃあ! ななななんでおじいちゃんと哲が!!」
無理矢理にでも走ろうとするの行く方向にはのじいさんと結城がいて、はじいさんに追い掛けられて去っていった。それを見届けてから結城が俺に頭を下げにきた――と同じように直角に背中を折り曲げて。この時結城とが家が隣同士の幼馴染だと知り、さらに事情を聞けばは弓道の大会に負けて時間も忘れて今まで走り込んどったらしい。
「あん時からや、が気になるようなったんは」
翌日結城から俺のことを聞いたはわざわざ謝りに来て、そんなが一体どんな弓道をするのか単純に興味が湧いた俺は弓道部を覗いたことがあった。あないになるまで自分を追い詰めて、粗野で豪快な面がある女子だという印象を持っていた俺は一気にの弓道に持ってかれたんや――
「意外ですね、東さんがギャップ萌えだなんて」
「わざわざ言葉にすな!!」
今までなんとなく聞いてなかった東さんと先輩の話によって、俺と東さんが同じように先輩の弓道姿に一目惚れしたことが浮き彫りとなってしまった。あの東さんと同類って正直複雑だ(さすがに東さんには言わないけど)。
「それにはな、俺のスイングを好きやって言ってくれたんや」
男ってのは至極単純で馬鹿な生き物だ。自分の得意なことを褒められれば否が応でも舞い上がってしまうし、期待してしまう。
思わず東さんに嫉妬してしまった。俺だって先輩にイイとこ見せて褒められたいなんて思う馬鹿な生き物なのだ。
「決めたで御幸」
「は?」
何を?
そう俺が聞き返す前に東さんは立ち上がった。その視線の先にはしっかりと先輩が映っていて、俺のことなど眼中になかった。
「俺は今日に自分の気持ち伝える」
東さんは弓道場を囲むフェンスの影から、先輩が居る弓道場の中へと入っていく。何を思って今日告白すると決めたのか俺にはわからないが、素直に尊敬してしまった。自分はまだまだ先輩に告白はおろか、名前すらまともに呼べないのに。この時ばかりは東さんの背中がいつも以上に大きく見えた。先輩にはカッコイイだなんて男として死んでも言えねえ。
「ありがとうございます。でも、「ええんや、全部わかっとるから……俺が伝えたかっただけなんや」
「……私、東先輩のスイングが好きです。迷いのないスイングで、ぐんぐん球を遠くに飛ばして、たくさんの歓声が沸き起こって――これからそんな東先輩の活躍が日本中に知れ渡ると思っています。東先輩のファンです。いつまでも、応援していいですか?」
「ったり前やろ! 任しとけや!!」
東の空から白んでゆく
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