あの日、不二山くんがわたしの根幹に触れた日以来熱烈な告白(とみんな囃し立てる)という名の勧誘を受けるようになった。なんでも、わざわざ柔道部がない学校に柔道部を創設すると言うのだ、あの不二山嵐という男は。そんなに柔道したいのなら町道場でも、他校にでも編入すればいいのに。不二山くんの実力は相当なものだし(後で調べたら大会で優勝したりしてた)、柔道に対する熱意もある。それはもう滾らんばかりに。
「!マネージャーでもいいぞ!」
「もう!くどい!そうやってマネージャーという名の練習相手にさせようとしてるんでしょ!!」
「バレたか…」
悪びれもなく、ははっと爽やかに笑う顔が眩しい。だがそれに騙されてはいけない。不二山くんはああ見えてクレバーだ。気をつけないと足元をすくわれる。
不二山くんを投げてしまった日、幸い誰にも見られていなかったので新聞記事の生徒がわたしだと広まることはなかった。そうなると、新聞記事の生徒がわたしだと知っているのは不二山くんだけだ。それを盾にして脅せばわたしは柔道部に入らざるを得ないのだけど、一切そういう脅しはしてこない。新聞記事のことはわたしだと確認したかっただけらしい。不二山くん曰く、自分の意志で入ってもらわないと意味がないらしい。そんな姑息な手を使って柔道部に入って欲しくないと眉を下げて言うもんだから、思わず絆されるところだった。
「いい加減諦めてマネージャーになっちゃったら?」
「カレン!不吉なこと言わないで!どこで不二山くんが聞いてるか分かんないんだから!」
「あ、不二山」
ミヨの声にばっと辺りを見渡すが、ルカくんと目が合うだけだった。まーたご飯たかりに来たわけね。わたしと目が合うとにっこりと人好きする笑顔でこちらに駆け寄ってきた。尻尾を振っているのが見える気がするのは気のせいではないと思う。昔飼ってた犬を思い出す。あの子が死んじゃった時、誰かが一緒に居てくれた気がするけど――誰だっけ?
「ちゃーん、なんかちょーだい」
「もう!また金欠?」
「うん、コウのやつまた限定モノのレコードに手を出しちゃって…」
「アンネリーのお給料日まだ先だしね…」
ルカくんとはバイト先が一緒で、わたしの方が少し先輩だ。ルカくんの女性人気は凄まじく、特別手当を貰ってもいいんじゃないかってくらい。この間その話をしたら、名案だという顔をして店長に直談判しに行ってたけど、笑ってはぐらかされていた。
そんな万年金欠ボーイだけど、見目麗しいルカくん(とコウくん)とわたしは幼馴染みというものだ。小さい頃この辺りに住んでいたわたしは、しょっちゅう年の近いこの兄弟と遊んでいた。わたしがこの辺りから電車で2時間くらい離れたところ(子供の頃はその距離がすごく遠く感じた)に引っ越してしまうまで、ずっと、それこそ毎日というほど。
それなのにわたしはこの兄弟を忘れてしまっていた。それも仕方ないと思うのはわたしだけだろうか。入学式で再会した時あまりの変わりっぷりに、言われるまで気がつかなかったのだ。柔道のことしか頭になかったわたしも悪いのだろうけど。
「!桜井琉夏!ふたり揃って柔道部に入る気になったか?」
「「なってない」」
「不二山くん、どこにでも出現するね?!」
「その執念のお陰で近いうちに、もしかしたら星の導きがあるかも…」
そういえば、引っ越した先の道場ですごく体が弱くてなよっちい奴がいたっけ。いつもお母さんに無理やり連れられて泣きながら稽古して、すぐ風邪をひいて寝込んでいた。心身強くなるために柔道を始めたらしいその子は最初こそ話にならなくて、わたしはその子を見るたび無性にイライラしていた。他の子はその子のあまりのもやしっぷりに幼いながらも気を遣って組んでいたが、わたしは容赦なく投げ飛ばしてよくその子を泣かしていた。うちのお母さんがしょっちゅうその子のお母さんに謝っていた記憶がある(幸いその子のお母さんはその調子でどんどん鍛えて下さいなんて逆にお願いされて怒られはしなかったが)。そんな子もだんだんと柔道の面白さに目覚めてきて、めきめきと上達していったが、それを上回るくらいわたしが実力をつけていて、結局その子に一度も負けることはなかった。また引っ越すことが決まったわたしは、その子に次会ったらぜってー勝つと言われて別れた。もうその頃には性格も負けん気が強くて、身体もやっと筋肉が付き始めて、お母さんに縋り付いて泣くことも体調を崩すこともなくなっていた。その子は――なんて名前だったっけ?
「不二山くん、また体育館のステージ借りて一人で練習してるらしいよ」
「うわーよくやるねえ」
「でも、ちょっとかっこよくない?」
「あんたスポーツやってりゃ誰だってカッコいいと思っちゃうタイプでしょ」
「あーマネージャー立候補しちゃおっかなあ!あなただけのマネージャーよ!って!」
「マネージャーは別クラのさん?だっけ?に決まってるらしいよ」
「ええ!いきなり恋のライバル出現?!」
「はいはい。バカ言ってないで早くアナスタシアのケーキ食べに行くよ」
「ちょっとは茶番に付き合ってよ!!」
今時の女子高生の会話ってあんな感じなのかなあ。
キャッキャと横を通り過ぎていった女子たちの背を遠い目で見つめてから、わたしはその子たちと反対方向へ歩みを進めた。
なんか勝手に噂に尾ひれがついてわたしが柔道部のマネージャーになってるのは気に喰わないけど、本当に毎日毎日熱心に柔道部に勧誘する不二山くんを見たら、周囲の人が入ってあげたら?と言ってくるのも無理はないと思う。不二山くんは意外と計算高いから、きっと外堀から埋めていくつもりなのだ。気がつけば周りまで味方につけている。恐ろしい奴。加えてあの真っ直ぐな性格。応援したくなるような人ってああいう人間のことを言うのだと思う。
「あーあ…わたしって単純…」
別に柔道部に入るわけじゃないのに、わざわざ体育館まで行って遠目に不二山くんを見ているなんて、当の本人にバレたら本当に後戻りできない。
ステージに畳を敷いて受け身やエビ、絞り、反りなどの基礎練から始まり、体づくりのトレーニングを行う。柔道は相手がいてこその競技だ。だからこそ、組んでくれる相手へ感謝の意を込めて礼をする。それでも、一人での練習は出来ないこともない。しかし限界はある。あれじゃあせっかくの才能も潰れてしまう。そんな不二山くんを見ても、わたしはわたしで柔道部がない学校を選んでまで柔道をやめた理由があるのだ。
「おーう!なんだ浮かない顔して!せっかくの可愛い顔が台無しだぞ!」
「ちょっ!大迫先生声が大きいです!!」
大迫先生のよく通る声は普段は気にならないが、思いの外体育館に響き渡ってしまって何人かの視線がこちらに向けられているのを感じる。女バレの集団の中でも一際目立つカレンもこちらを向いていて、苦笑いしながら指差してる方向を辿ると、不二山くんと目が合った。
「大迫先生!捕まえといて下さい!!」
「?おう!任せとけ!!」
げ。一瞬固まってしまった隙を不二山くんが見逃すはずがなく、的確な指示のもと、大迫先生に手首を掴まれた。さすが柔道経験者、素早い。
「大迫先生!なんで不二山くんの味方するんですか!」
「と不二山の話は聞いてるぞー?青春しているんだってな!じゃあは逃げちゃダメだ!」
「そうだ。逃げんな」
不二山くんが息を切らしてわたしの目の前に立ちはだかる。トレーニングして流れた汗を拭ってから大迫先生にお礼を言って、わたしの手を取ると足早に体育館を抜けた。後ろで大迫先生が青春だあ!!と声を出していたが、その声に応えることは出来ず、少しだけ後ろを振り返って会釈しただけだった。残念ながらわたしの青春はとうにあの時あそこに置いてきたのだ。
「やっと捕まえた。お前、全然隙見せねーから」
「隙を見せたら捕まっちゃうじゃない。現に捕まってるし」
「なんで体育館に居たんだ?」
捕まえられた手首を軽く持ち上げて不二山くんをじとりと恨めしそうに睨みつけるが、彼はどこ吹く風であっさりと話題をすり替えた。本当にちゃっかりしている。
「別に。カレンのバレー観戦」
あまり感情を込めずに、端的に答える。わたしの言葉の後、ぐっと手首を掴む手に力が入ったのがわかった。
「本当は柔道見にきたんじゃねーの?」
「…不二山くんは本当に柔道が好きなんだね…」
「それは、お前もだろ」
不二山くんのまっすぐな瞳が苦手だ。なにもかも見透かして、わたしが頑なに守っている領域を平気で踏み荒らしてきそうで、これ以上関わったら何もかも壊れてしまいそう。
「わたしは…わたしは柔道なんて嫌い…大っ嫌い!!」
声を荒げたわたしに思わず不二山くんの手首を掴む力が抜けると、その瞬間にわたしは全速力で逃げた。目の前がぼやけているのは気のせいなんかじゃない。あれだけ大好きな柔道を大嫌いと口にするだけでこんなになるなんて、本当にわたしはバカだ。
「大っ嫌いなんて顔じゃねーだろ…」
不二山くんはひとり取り残された場でわたしを掴んでいた掌を見つめ、苦しそうな表情でぽつりと呟いた。
戻る / 最初