体育館での出来事があってから、不二山くんとはなんとなく気まずい。不二山くん自身は変わらず勧誘してくるから、わたしが一方的に気まずくなっているのだけれど。
いい加減諦めてくれないかなあ、とは思う。コウくんやルカくんのことも勧誘しているみたいだし、そっちに専念してくれたらどれだけ気が楽か。と言っても、彼らは柔道を始めたら確実に強くなりそうではあるものの、始める可能性は絶望的だ。それがわかっているから、コウくんとルカくんはわたしの身代わりにもできない。そんなことをちょっと考えてしまうのも、不二山くんがあまりにも柔道柔道と言うからだ。おかげで新聞記事の女生徒は説が出てしまったのだ。不二山くんはそこのところ、うまく誤魔化してはくれたけど。いや、うまくはなかったな。
は均整が取れた筋肉のつき方をしていて気配りが出来て物怖じしない性格がマネージャー兼柔道選手に向いているけど、たまに抜けて鈍臭い所があるからひったくり犯を投げる芸当はできねーって、不二山くんなりのフォローなんだろうけど、褒められてるのか貶されているのか。不二山くんのことだから、ほぼほぼ本心から言っているだろうという点が嫌だ。確かに何もないところで転んだり、ぼーっとしてる事も多いかもしれないけれど、それを不二山くんに指摘されるとは思わなかった。柔道とご飯のことばかりで他人に興味がなさそうなのに、意外と人を観察している。
「って、なんでわたしの思考にまで不二山くん登場するのよ!」
思わず自分にツッコミを入れてしまい、慌てて辺りを見渡した。大丈夫、周りに人はいない。せっかく不二山くんから逃げて来たのに、これでは学校で不二山くんに勧誘されているのと一緒ではないか。やめやめ、今日はバイトもないし、小春ちゃんの所に行こう。
小春というのは芝犬のことだ。飼い主である老夫婦はアンネリーの常連さんで、よく小春の散歩の途中にお店に寄って玄関に飾る花を買って行ってくれる。小春は利口な子で、老夫婦が買い終わるまで無駄吠えせずきちんと座って待っているのが可愛くてよく撫でさせてもらっているのだ。この間たまたま学校から家に帰る途中でその老夫婦とばったり会って、わたしの通学路の途中にご自宅があることを知ってから、時間がある時は顔を出していた。
「あれ?おばさん?そんなに慌ててどうしたんですか?」
老夫婦の家に差し掛かると、おばさんが門の外でキョロキョロと辺りを忙しなく見渡していた。いつもおっとりしているおばさんからは想像がつかないくらい動揺している。
わたしがおばさんに駆け寄りながら声を掛けるとおばさんもこちらに駆け寄ろうとしたが、うまく足が動かずもつれて倒れこみそうになった。なんとかわたしの体で支えることが出来てお互いホッとしたのも束の間、おばさんが震える手をわたしの肩に置いた。
「小春が…っ小春がいなくなっちゃったのよ…!!」
「ええっ??あの小春が脱走?!」
「今日雷ちょこちょこ鳴っていたから、あの子怖がって思わず飛び出しちゃったんだと思うわ…首輪も緩んでたのかも…!」
「夜は激しい雷雨って天気予報で言ってましたよ?!早く捜してあげないと!!」
「今お父さんが捜しに出てるわ!私はもしかしたら小春が家に帰ってくるかもしれないから家で待つしかなくて…でもじっとしていられなくて…」
不安と焦燥で声が震えるおばさんを安心させるように、優しく背中をさすってあげるとありがとうと小さくお礼を言われた。大切な家族がいなくなる辛さは痛いほど理解できる。わたしもそうだったから。
「おばさん!わたしもこの辺捜してくる!!」
もしも小春が見つかった時はお互いに連絡するということで、おじさんの携帯と自宅の番号をわたしの携帯に登録した。おばさんにはわたしの番号を書いたメモを渡して、鞄をおばさんの家に置かせてもらって門を通り抜ける。すると、スポーツバッグを肩にかけた不二山くんが目の前に飛び込んできた。
「えっ不二山くん?!」
「なんでが向かいのおばさん家から出てくんだ…?親戚か?」
「向かい…ってことはそこ不二山くんの家?!!」
驚きの連続で今日はもう心を落ち着かせる暇がない。さすがの不二山くんも目をまん丸にして驚いている。なんとおばさん家の向かいの一軒家は不二山くんの家だったのだ。とんだ偶然だ。
「嵐くん!」
「おばさん、どうしたんだ?てかと親戚だったんか?」
門の前で出したわたしの大きな声がおばさんの家にまで伝わってきたのだろう、思わず顔を覗かせたおばさんがこれまた驚いた表情を携えながら今度は転ばないようにしっかりとした足取りで玄関からこちらに歩いてきた。
「ちゃんとはちょっとした知り合いで…」
「不二山くん!今はそんなこと悠長に話してる暇はないの!!小春がっ小春が…!!」
「?!小春がどうしたんだ!」
わたしの剣幕に圧されつつ、小春の名前を出すと不二山くんも身を乗り出す。
「いなくなっちゃったの!!おじさんは捜しに出てて、わたしも今から捜しに行こうとしてたんだ!」
「小春が…?!そんなら俺も手伝う!はあっち捜せ!俺は反対に行く!おばさん、カバン預かっといて!!」
不二山くんと連絡取れないと不便だからという理由で、ここで初めて連絡先を交換した。同じクラスであろうと今までお互いに必要なかったから、交換していなかったのだ。携帯でも柔道部に勧誘されたら困るというのもあったが、今はそんなこと言っていられない。緊急事態だ。素早く連絡先交換を終えて、何かあったらお互いに連絡とおじさんとおばさんに連絡ということと、大体捜す場所とルートを決めて出発した。
まずは散歩コースを辿って行きながらアンネリーへと向かう。その途中の道でも小春がいないか捜したが、残念ながら見つからなかった。
「ルカくん!」
「あれ、ちゃん?今日シフト入ってないよね?俺に会いに来たとか?」
今日のアンネリーはこれから天気が崩れるからか、いつもより人が疎らだった。ルカくんは丁度店先に置いてある花たちを室内に移動させていて、すぐ声を掛けることが出来た。いつもふわふわと冗談を飛ばす彼に今は付き合う余裕がない。
「あのね!常連さんの老夫婦の小春ちゃんが迷子になっちゃって今捜してるの!」
「小春ちゃんて、あの柴犬の?」
「そう!だからもし見かけたら連絡して欲しいんだ!」
事情を手早く伝えるとルカくんはわかったと頷いて、小春ちゃんを知っている常連さんが来たら見掛けたか聞いといてくれると言ってくれた。用件を手短に伝え終わったわたしは再び走ろうとルカくんに背を向けたら、手首を掴まれて少しだけ後ろへ倒れそうになる。まだ何かあるのかとルカくんに顔を向けると、にこりと小さく笑っていた。
「ちゃん、焦らないで。小春は賢いからさ、きっと大丈夫」
もし小春が車に轢かれてたら、もし保健所に連れていかれていたら、不審者に暴行にあっていたら、独りで雷に怯えて震えていたら――心配しても始まらないことばかり、嫌なことばかり頭の中で反芻されてうまく思考も働いてくれないし、視界も狭くなっていた。ルカくんはそんな状態のわたしをしっかり見抜いていて、わたしは一度深呼吸して頬をパチンと叩き、ルカくんと一緒ににこりと小さく笑う。うまく笑えてるか分からないけど、わたしの顔を見たルカくんはぐっと親指を立ててファイトと言ってくれた。
「ありがと!行ってくる!」
ルカくんのおかげで見つからないかも、という一抹の不安が払拭された。見つからないじゃない。絶対見つけてあげるんだ。だから待ってて、小春。
その後、商店街も回って顔馴染みの店員さんにも聞いたが、今日は小春は見てないとのことだった。商店街のアーケードを抜けると、雲が幾重にも重なり合った空はどんよりと暗く、雨風のコンクリートを叩く音は強くなっていた。遠くで雷が唸り声をあげると、小春の泣いている顔が頭を過る。散歩コースにもいないし、多分近場の公園はおじさんが捜したはずだし、不二山くんから連絡がないからわたしと反対方向の道でもない。とすると、何回かおじさんが連れて行ったことある少し遠い広い公園かもしれない。おじさんの家から距離があるから、なかなか連れて行けないとおじさんは言っていたけど、あそこはフリスビーを投げてもらえる唯一の場所だから小春はいたく気に入っていたはずだ。小春の体力と脚力だったら、あそこまで行けなくはない。ここからでも結構距離はあるが、柔道で鍛えた足腰を今発揮する時。気合いだ、気合い。
もしかしたら、という希望が見えて、さっきまで石のようにのし掛かっていた濡れて重くなったブレザーは気にならなくなっていた。
公園に着く頃には夜の帳が下りて、完璧な夜を作り上げていた。こんな荒れた天候の中、公園に人影はないが、不気味だと恐怖を覚えることはなかった。小春の方がきっともっと怖いだろうから。
髪の毛から顔に落ちる滴を払いのけつつ、木々が揺れる音に負けないように小春の名を呼び続ける。
「!」
一筋の光がわたしの姿を捉える。懐中電灯を持った不二山くんだった。息を切らした不二山くんはわたしと同様ずぶ濡れで、まさか不二山くんまでこの公園に来てるとは思わなかったわたしは目を見開いて声をあげた。
「不二山くん!」
「お前!こんなとこひとりでうろつくなよ!」
「不二山くんだって!」
「俺は男だからいーんだよ!」
少し怒気を含んだ声が雷のように落ちてきた。
「ッわたしは小春が心配で…!!」
「心配なのはみんな一緒だ!でもお前のこともおじさんやおばさんは心配してんだぞ!!」
「わたしのことも…?」
「携帯!見てねーのか!?」
不二山くんに言われてポケットに入れっぱなしの携帯を見ると、おじさんとおばさん、そして不二山くんからの不在着信が並んでいた。走るのに夢中で携帯見ていなかったんだ。
「小春を捜しに行ったお前まで居なくなったらそれこそ本末転倒だろ」
「ご、めん…走るのに夢中で…」
「俺はいいから後でおじさんとおばさんに謝っとけよ」
風のざわめきに掻き消されてしまいそうな声で返事をすると、居たたまれなさで不二山くんの顔が見れない。普段無神経にわたしのこと追いかけ回しているくせに、こんな時は的確に正論をついて、実直に怒って、周囲にも気を遣って、わたしのことも心配してくれた。
「…ごめん、ありがとう…」
「だから、いーって」
「でも…っ!」
その時、雲の隙間から閃光が駆け抜け、激しく鼓膜を刺激した。
「きゃあ!!」
地鳴りのような轟音に驚いたわたしは思わず不二山くんに飛びついてしまった。わたしの勢いに負けて不二山くんごと茂みに突っ込んでしまったが、咄嗟に不二山くんはわたしの体を庇うように背中に手を回して抱き締めるような体勢で倒れてくれた。そんな体勢では絶対に背中を打ったはずだ。
「不二山くん!ごめんね!!大丈夫?!頭打ってない?!背中痛いよね?!!ほんっとごめん!!」
反射的にすぐ起き上がって不二山くんの身体の状態をチェックする。
「ははっ!、今日謝ってばっかだ」
こんな時にのんきに笑ってる不二山くんは大物である。
「だってわたしの所為でまともに受け身取れなかったでしょ?!」
「ちゃんと顎引いたから頭は打ってない」
「でも背中とか…!!」
「こそ大丈夫だったか?」
「わたしは不二山くんのおかげでどこも痛くないけど…」
「なら、いい」
今日はどこまでも不二山くんに助けられてばかりだ。
「ちゃんとに言われた通り顎引いて背中丸めて…手は流石に出来なかったけど、基本は守ったからな」
「え?あ、うん、受け身はだい、じ…」
誇らしげな表情の不二山くんからは真意が全然読めない。わたしに言われた通り――受け身のやり方なんて不二山くんに教えた覚えはない。なんだろう、この引っかかる感じ。
「くう~ん…」
ほんの小さく、気のせいかと思うくらいの小さい鳴き声が耳元までなぜか鮮明に、だが確かに届いて一気に現実に引き戻された。
「小春っっ?!」
「どこだ?!」
わたしと不二山くんは上体を起こし、声の発信源を探す。絶対に近くに居るはずだ。我武者羅に手当たり次第茂みを掻き分けていくと、そこにはいつもぴんと立っている耳を垂らして伏せをした状態で震えている小春がいた。黒々としたお月様のようにまん丸な眼からは雨なのかそれとも涙なのか、滴が零れている。落ち着かせるように身体全体を撫でてあげると目立った怪我もなさそうで、ふたりで顔を見合わせてほっとすると不二山くんは小春を抱き上げた。
「小春、帰るぞ。おじさんも、おばさんも待ってる」
「もう大丈夫だよ、小春」
小春は安心したのか身体の震えは止まり、わたし達に応えるようにぎゅっと不二山くんに抱きつく。
わたしはおじさんの家に連絡して電話に出られなかったことを謝り、小春を見つけて不二山くんと一緒に帰っている途中だと伝えて電話を切った。あとルカくんにも無事見つかったとメッセージを送っておく。
おじさんの家に帰る頃には荒れた空もすっかり泣き止んでいた。
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