蜜雨

「ただいま、おじさん、おばさん!」

小春を連れたわたし達を迎えてくれたおじさんとおばさんは泣きながら笑顔を浮かべて小春を抱きしめた。その様子をわたしと不二山くんは笑って見守る。おじさん達はお礼におばさん特製のご飯をご馳走したいと言ってくれて、一回は断ったんだけどおじさん達があまりにも悲しそうな顔をするからふたり揃ってお言葉に甘えることにした。よっぽどぐちゃぐちゃな格好だったのか、見かねたおばさんにご飯の準備の間お風呂に入ってと言われてお風呂まで頂くことに。

「あ、でも着替えもないしやっぱりお風呂は…」
「そうねえ…私のじゃあババくさいし…あ!嵐くん、ちゃんに服貸してくれる?」
「えっ?!いや、別にわたしこのままで…っくしゅ!」
「ほらあ、やっぱりちゃんとあったまらないと。嵐くん、悪いけど持ってきてもらっていいかしら?」
「わかった。、少し待ってろ」

あれよあれよと言う間にわたしを放っぽりだしておばさんと不二山くんで話が進み、わたしは話の流れで不二山くんの服を借りることになった。このふたりの間にわたしに拒否権はないのだろうか。まともに発言も出来ないまま、不二山くんはわたしに貸す服を取りに家へと帰っていった。

「いいわねえ、ちゃん、頼れる彼氏で!」
「おお!やっぱり嵐くんとちゃんは…!」
「かっかれ、彼氏?!」

彼氏って、アノ彼氏、だよね。女子高生になったらできると噂される…いやいやどういうことだ。にこにこしているおばさんと妙に納得した顔をしているおじさんに挟まれ、史上最高に困惑している。

「不二山くんはただのクラスメイトです!」
「そーお?ふたりが協力して小春を見つけてくれたし、嵐くんはちゃんを気遣ってブレザー羽織らせてるし…何より、ちゃんに電話が通じなくて一番焦っていたのは嵐くんなのよ?あんな嵐くん、おばさん初めて見たわあ」
「まるで昔のわしらみたいだったなあ」
「あらやだよこの人は!」

おばさんの発言の所為で目の前で昔の青春話に花を咲かせるふたりの会話は全く耳に入ってこなかった。確かに今日おじさんの家の前で会ったのも半ば偶然で、同じようなタイミングであの公園に来て、私のために真剣に怒ってくれて、偶然小春を見つけて、帰る途中寒そうにしていたわたしにブレザーを羽織らせてくれた不二山くんとは不思議な縁を感じるけど、彼氏なんて飛躍しすぎだ。彼氏なんかじゃなくて、もっと昔から知っているような友達――昔から…?

、ジャージでいいか?」
「っうわ!びっくりした!」
「どうした?が後ろを取られるなんて」
「いや、不二山くんはわたしのことなんだと思ってるの?」

ゴルゴ13か、という突っ込みは胸にしまって着替えを受け取り、余計なことは考えずにさっさとお風呂を頂くことにする。おじさん達からの生暖かい視線からも、この濡れ鼠の状態からも一刻も早く脱出したい。逃げるようにお風呂に滑り込んだが、ベタベタ肌に張り付いていた衣服を脱いで湯船でしっかりと温まったわたしは、お風呂から出る頃にはさっきのことなんて忘れて最高の気分になっていた。なんとも単純だが、やはりお風呂は万人を幸せにする薬だと思う。鼻歌を歌いながら長い間雨に打たれた所為で少し湿っぽい下着を身につけ(これだけはしょうがない)、不二山くんが持ってきてくれた着替えを手に取る。広げてみるとやはりサイズは明らかに大きく、ズボンはずり下がるし裾は引きずるしで白いTシャツはワンピースみたいになった。不二山くん、身体大きくていいなあ。
昔はよく、身長がもっともっと伸びればいいと思っていた。柔道は身体が小さくても自分より大きい相手を投げることが出来る。わたしも自分より大きい相手を投げてきたけど、やはり体格が良いに越したことはないと思う。小学校高学年くらいには、あの小柄だった男の子もわたしと同じくらいになっていた。それでも負けなかったけど、力も強くなっていて、ああこれが男女の差ってやつなのかと子供ながらに悟ったっけ。
最近不二山くんと話すようになってから、あの男の子を思い出す。なんとなく似てるのかもしれない。雰囲気とか、ブレないまっすぐさとか。あの男の子が成長したら不二山くんみたいに強くなっていて欲しい、柔道を続けていて欲しいという願望も混ざっているが。
不二山くんの服を着て、不二山くんの匂いに包まれ(柔軟剤の良い匂いがする)、不二山くんのことを考えるって、なんだかただの変態みたいだ。急に恥ずかしくなってひとりで慌てて、ズボンの裾を何回も折り曲げてずり下がらないようにウエストの紐をきつく結んで脱衣所から出た。すると、これまたすごいタイミングでトイレから出た不二山くんとばったり遭遇してしまった(脱衣所とトイレは隣同士なのだ)。今まともに目を合わすのは得策じゃないと考えたわたしは、俯き気味に不二山くんに着替えのお礼を言うと、わたしの緊張が伝わったのか不二山くんまでも少しだけ張り詰めた声色で押忍、とだけ言葉にした。なんとなく居心地の悪い空気が流れるが、不二山くんがお前…!と声をあげると空気が変わった。その声につられて顔を上げると気のせいだろうか、目を見開いていつもより頬の血色が良い不二山くんと目が合い、わたしまでつられて熱が顔に集中してきた。

、お前そのまま脱衣所の中に入ってろ!」

その言葉だけ言い放つと、不二山くんは足早に玄関に向かった。あまりに一瞬すぎて頭での処理が追いつかなかったが、身体が先に動いて脱衣所の戸を開けていた。普段どっしりと構えていて、慌てることなんてそうないであろう不二山くんがこうもバタバタするなんてどうしたのだろう。ふと脱衣所にある鏡に映る自分を見ると、下着の色が白いTシャツから浮かび上がっていて、思考が停止した。
その後脱衣所のドア越しに声を掛けてくれた不二山くんは、わたしの姿を見ないようにしてドアの隙間からジャージの上着を渡してくれたのだった。



「おばさんの料理、美味しかったね」
「あの角煮がとろとろしてうまかった」

あれからすぐにおばさんに呼ばれてご飯になったおかげで、あの気まずい空気が再来することはなかった。
ご飯を食べてすっかり調子を取り戻したわたし達はおばさんの料理をこれでもかと堪能して、もう遅いからとおじさん達に言われ不二山くんに送ってもらっていた。その時も彼氏なんだから当然の務めとおじさんに言われ、なんとか彼氏じゃないと否定しつつ不二山くんにお前はただでさえ危なっかしいんだから送るとさらりと言われておばさんのテンションがピークに達したのはまた別の話。

「その…気が利かなくて悪い…」
「え?」
「服」
「あ、いや、わたしも不二山くんが言ってくれなかったら気づかなかったし助かったよ!」
「お前、色々無防備すぎて心臓に悪ぃ」

そんなことを中学の時の後輩の男の子にも言われた気がする。わたしはその意味がいまだにわからないから、よくその後輩を困らせていた。そして現に不二山くんも眉をハの字にして困り顔だ。こんな不二山くん滅多に見ない。

「わたしそんなに無防備かなあ…隙は作らないようにしてるんだけど…」

ぼそっと呟いた。

「ああ、柔道家としては隙がねーけど…今日のはダメだ」
「ええ?」
「濡れた制服で下着は透けてるし、体の線ははっきり分かるし、体やわらけーしいい匂いするし、俺のダボダボの服着てるのなんかモヤモヤするし、キラキラした笑顔で飯うまそーに食うし、小春が胸に顔埋めてもなんも言わねーし、むしろちゅーとか言ってキスするし「ちょ、待って待って!不二山くん自分が何言ってるか分かってる?!」
「電話には、出ねーし」
「そっ…れは…本当にごめん…」
「また、俺の前からいなくなるかと思った」

また――不二山くんはそう言った。まるで以前にもわたしが不二山くんの前からいなくなったかのように。

「不二山く「ーっっ!!」

もしかしてわたしと前にも会ったことある?
そのセリフはわたしの名を呼ぶ声によって遮られた。この声はもしかして。少し遠目でも分かるあの背格好がもの凄いスピードでこちらに迫ってくる。

「おっお兄ちゃん?!」

そう、一流体育大学に通う現役柔道部の兄である。

「お前こんな遅くまで何やってんだバカ!」
「何って…ちゃんと連絡したでしょ?!」

わたしの前に着くなり掴みかかろうとする腕を弾き飛ばし、また襟ぐりを狙う腕を叩き落とす。顔を合わすなり組み手争いをしてくる兄は相当な柔道バカだ。

「もう!やめてよ!これ不二山くんの服なんだからね?!」
「不二山だあ…?」

突然繰り広げられたわたしと兄の攻防戦に巻き込まれないように距離を置いて一連の流れを無言で観戦していた不二山くんを眉を顰めて睨みつけるように数秒見つめた後、兄はスッと構えをといてわたしに先に帰ってろと言い放った。いきなりなんなんだ。訳がわからずその場でまごついていると、もう一度わたしに帰れと、しかもジェスチャー付きでしっしっと虫でも追い払うように言うと、流石のわたしもムッとして横暴な兄に喰ってかかろうとした。しかし兄はもう既にわたしの存在など眼中になくて、ただただ不二山くんと目を合わせている。不二山くんも兄の眼光に怯むことなく兄を見つめていた。そんなふたりの間に入ることも出来ず、わたしは不二山くんに簡単にお礼とまた明日と挨拶をして後ろ髪を引かれる思いでもう目と鼻の先の自分の家へと走った。

「久しぶりだな、嵐」
「押忍。お久しぶりです、アキさん」
「随分見ない間に成長しやがって!一瞬誰かわかんなかったぞ!」
は、覚えてないみたいっスけど…」
「あー…あれも柔道のことしか頭に残んねータイプだから…」
「…は、なんで柔道やめたんですか?」
「お前こそ、はば学だろ?柔道やめたんじゃねーのか?」
「確かに俺も一度柔道をやめてはば学に行きました。でも、やっぱ俺にとって柔道はそう簡単にやめられるモンじゃなくて…はば学で柔道部を創ろうと思ってます」
「だからを勧誘してんのか?」
「…っス」
「お前も昔から頑固だったが、あいつも相当頑固だ。もし、そんな頑固な柔道バカを説得したかったらアイツの中学に行って顧問の先生に話を聞くといい…俺がお前に協力するのはここまでだ」
「!ありがとうございます!!」
「彼ジャー着せたくらいで勘違いすんな。のこと泣かせたら俺がお前を泣かす」
「(カレージャー?)押忍!また稽古つけて下さい!」
「ああこのど天然め…わかったら帰れ。妹が世話になったな」
「ありがとうございました!」
「(嵐…もしかしたらお前ならに何かしら道を与えてくれるのかもな。まあでも、まだ恋愛のれの字も自覚してないお前に妹はやらねーけど)」



「お兄ちゃん、不二山くんと何話してたの?」
「お前の恥ずかしい話」
「はあ?!もしかしてちっちゃい頃頭重すぎて釣り堀覗き込んだら頭から落ちて足つく深さなのに溺れかけたって話した?!!」
「(こいつも嵐と同レベルだな…)」






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