昔から親の決めたことに従って生きてきた。柔道もその一つだ。今でこそ自分の意志で柔道を続けているが、はじめた当初は稽古に行くのが憂鬱で仕方がなかった。その日がいつまでも来なくていいのにと願ってばかりいた。昔は病気がちで身体も小さくて自分に自信もなくて、そんな俺を見かねた親が柔道を勧めてきたのがきっかけだった。その気持ちが幼いながらも伝わってきたから、簡単に辞めるなんて口には出せなかった。泣いたり、逃げ出したりと態度には出していたが。
「嵐、柔道辞めたい?」
道場に通うようになってしばらくして母が問いかけた。その頃には大分身体も壊さなくなっていた。
「おれ、アイツを倒すまでぜってえ柔道やめねー」
「ふふふ、それはいつになるのかしらね?」
「明日だ!明日こそぜってー勝つ!!」
やがて俺は柔道が楽しくてしょうがなくなった。それは師範のお陰もあるし、ある女子のお陰でもあると思う。背丈は俺と同じくらいなのに、小学生の部で飛び抜けて強い奴がいた。しょっちゅう大会でも優勝とかして、それでも人一倍努力して努力して、そしてなによりも柔道が大好きだった。
「一本!それまで!」
「嵐、またわたしの勝ちだね!」
「くそっ!技ありまで取ったのに!」
「いくら技ありを取ったところで一本には勝てないっていつも師範言ってるじゃん!」
「そうだけどよ…」
「でも、受け身すらまともに取れなかった嵐がこんなに強くなったのは本当にすごいと思う!ま、それ以上にわたしも強くなるけどね?」
俺は最初こそそいつが怖かった。容赦なく投げてくるし、泣きそうになってると男だろ!!とすぐ怒るし。ただ、そいつは俺に柔道の楽しさを教えてくれた一人でもあった。なんだかんだ言いながら面倒見が良かったそいつは、いつも受け身が上手くできない俺と一緒に基礎練に付き合ってくれたり、技の掛け方とか組み手争いのコツとか、師範に習ったことを反復して根気よく教えてくれた。多分、そいつがいなかったら今の俺はここまで強くなれなかったと思う。俺はそいつに勝つのがいつしか目標になって、躍起になって柔道に打ち込んだ。そうしていたらいつの間にかそいつも俺を認めてくれて、ひとりの仲間としてライバルとしてお互いを高め合う存在になっていた。だが、それもそいつが引っ越しで道場を離れるまでで、ついに俺はそいつに勝つことが出来ないまま別れることとなった。
「さん?」
「はい。去年までこの中学校で柔道をやっていたと思うんですが…」
「ああ!あのさんね!柔道強かったものねえ…でもさんは卒業したわよ?」
「その柔道部の顧問の先生に用があって…」
「ああ!井上先生ね!多分体育館の方にいらっしゃると思うから、ここ出て右手にある大っきな建物に行ってね。青い柔道着着て坊主の男性がいるわ。見たらすぐ分かると思う」
「ありがとうございます。行ってみます」
「ええ。帰りはまたここに寄って首に下げてる来客用の札返しに来てね」
受付のおばさ…おねーさんにお辞儀をしてドアの取っ手に手をかけると、ねえ、と再度声を掛けられた。何か伝え忘れだろうか。振り返ると、にっこりと笑いかけられた。
「さんはあなたの彼女なの?」
「…っは?」
カノジョって、あの彼女、だよな。
俺が口をぽかんと開けていると、そのおば…おねーさんは続けた。
「だってわざわざさんのこと知るために学校まで来ちゃうなんて…ねえ?」
ねえ、と意味ありげに目を細められても返答に困る。いや、困らないか。とは昔同じ道場に通っていて、今はクラスメイトで、の兄に中学に行ってみるといいって言われて来た。そうだ、そう言えばいいのだ。何を戸惑う必要がある。
「ただのクラスメイトっス」
そうきっぱり言い切って今度こそ失礼します、とそそくさとドアをすり抜けた。お…ねーさんは何か言いたげだったが、これ以上追求されてもいい気分はしなかったので、半ば逃げるように。なんだか短時間のやり取りにもかかわらず、柔道の後とは違う疲労感がどっと襲ってきた。
気を取り直しておねーさんに言われた通り、受付を出ると右手にはでかい体育館があって、近づいていくにつれて畳に叩きつけられる独特な音と地響きが伝わってきた。靴を脱いで解放されている扉から顔を出す。はば学にはない柔道部専用の畳と大勢の部員に、見てるだけでわくわくしてきた。もここで練習してたんかな。あの小柄な体躯から繰り出されるダイナミックな技と、それに至るまでの緻密な連続技はここで磨かれたのだろう。自分もあの時から大きく成長していると思うが、それはも同様だろう。ああ、早く組んでみてえなあ。
「君、もしかしてはば学の不二山くんか?」
青い柔道着に坊主の、いかにも柔道やってますという体格の良い男性教師が俺に声を掛けてきた。
俺はアキさんに言われた通りの中学に行こうとしたが、いきなり知らない高校生が中学に押し掛けるのはどうかと思って大迫先生に相談をすると、の卒業した中学に電話を1本入れてくれた。おかげで話が早く済んだ。本当に大迫先生には頭が上がらない。
「お忙しい中すみません。はばたき学園1年の不二山嵐です」
「ああ。話は大迫先生から伺っている…ん?不二山嵐?もしかして去年何回か大会に出ていたか?」
「あ、…はい」
「優勝もしたことあっただろう?どうして君みたいな有望な選手が柔道部のないはば学に…」
「今日は俺のことはいいんです。のことで話が…」
の名前を出すと、先生の表情が曇った。立ち話もなんだからと近くのパイプ椅子を引っ張ってきてくれて、腰掛けるよう勧めてくれた。お礼を言ってからちゃっちい作りのパイプ椅子に座ると、軋んだ音がやけにこの沈んだ空気に落とされる。先生は相変わらず険しい表情は変えずに、生徒たちが練習している様子を見ながら重々しく口を開いた。
「は、本当に強い選手だった。もちろん柔道もだが、精神力もそこらの男に負けないくらいに…」
この中学に入学した時点での実力はずば抜けていた。なによりも、その実力に驕らず努力を重ねる所がの強さだった。他校にと同等の実力を持つ選手がいて、大会ではいつもと優勝を争うほどの実力者であった。去年の全中もとそいつは決勝で戦うことを約束して、そしてふたりは約束通り決勝で戦うこととなった。
「本当にいい試合だった。お互いが持つ力を存分に発揮した技の掛け合い、手に汗握る死闘…だがな、そこで相手選手がが放った技によって負傷してしまった」
柔道ではよくあることだ。いくら経験を積んでいても、気をつけていても、怪我をする時は怪我をしてしまう。だがその時繰り出した技の入り方が悪く、膝の靭帯をやったと同時に頭を打ってしまった。膝に気を取られて受け身が取れなかったのだ。しかし周囲には頭を打った様子が見えず、膝の様子を見るため一時中断はしたものの試合は相手選手の意向により続行。はすぐ医務室に行くよう諭したが、相手選手が押し切った。当然試合を続けても残された気力だけで動いている相手選手にキレはなく、の一本勝ちでその試合はの優勝で終わった。礼とともに崩れ落ちた相手選手はすぐに病院に運ばれ、関係者は膝だけの負傷かと思ったが、が脳震盪を起こしているかもしれないから頭の検査もお願いしますと申告してきた。相手選手の親御さんにも謝罪と共に一週間は目を離さないであげてくださいと頭を下げた。
「その相手選手は前十字靭帯断裂と…急性硬膜下血腫を発症していた」
急性硬膜下血腫――柔道で脳震盪を起こした際に気をつけなければならない症例だった。発見が遅れたり、状態によっては手術出来ない場合もあり、死に至ることや一命を取り留めても重度な後遺症が残ってしまうこともある。たとえ脳震盪を起こした後、無症状でも一週間は競技復帰出来ないのである。脳震盪を起こしてから24時間は、もしかしたら知らない間に血腫が広がって取り返しのつかないことになる可能性がある為ひとりになってはいけない。脳震盪とはそれくらい軽く見てはいけない重要疾患だとは知っていたのだ。
「の的確な助言のおかげで早期に血腫が発見され、無事手術は成功した。少し麻痺が残ったが、リハビリを行えば日常生活には問題がないくらいだ」
親御さんも試合での事故だし、のお陰で娘の命は助かったとお礼を言っていた。だがは人一倍柔道が好きで、人一倍責任感が強かったせいで、自分がライバルの選手生命を絶ってしまったと思ってしまったのだ。いくら命は助かったとはいえ、これから待つリハビリを考えると、一番実力が伸びる時期全てをその時間に充てなければいけない。自身に悪気はなかったとはいえ、直接その原因を作ってしまったのは自分だと責め立てたのだ。全中が終わった後、もう本気で柔道をするのがこわくなりましたと静かに言い残し、数多くの柔道強豪校の推薦を蹴っては柔道部のないはば学に一般受験する事を決めた。
「…正直、には柔道を辞めて欲しくなかったよ。あれほど柔道を愛している子だ…なんらかの形でもいいから、また柔道に関わってくれればと今でも願っている…」
淡い寂寥をその瞳に浮かべながらも穏やかな表情からは、に対して深い情愛を感じた。きっとこの先生にも葛藤があったはずだ。まだ若くて将来のある選手が自らの手で柔道家として生きる未来の芽を摘み取ってしまった。指導者にとってこれ以上悲しいことはないだろう。あの時きちんと向き合って話していたら、無理矢理にでも柔道を続けさせていたら、もしかしたら未来は変わっていたのかもしれない。考えれば考えるほど、どれが最良の選択かわからなくなる。たらればの話をしたらキリがない。
まだまだのことをわかってやれないこともあるが、柔道を大嫌いと口にしただけで泣きそうになる奴だ。絶対にまだ柔道を捨てきれないはず。そう、自分のように。だから俺はその一縷の望みに縋るしかない。
「自分も、に柔道を続けてもらうために今日は先生のお話を聞きに来ました。おかげで色々のこと、知れました」
「ははっは柔道をやっていなくても、人をこうまでさせる力を持っているな。まあの彼氏になる奴だ、このくらい骨のある男じゃないと先生も認められんからな」
また彼氏とか言われて慌ててただのクラスメイトだと弁解するが、ただのクラスメイトがここまでするもんかと受付のおねーさん同様聞き入れてもらえなかった。挙句の後輩の奴らにまで彼氏だと紹介され、後輩連中に先輩と付き合うなら自分を倒してからだと勝負を申し込まれて急遽柔道部の練習に参加することとなった。さすが全国に名を轟かせる強豪校だ、つえー。けど、俺も負けてらんねえ。ひとり、またひとりと一本を取り続けると、皆一様に先輩をよろしく頼みますと最後の一礼と共に言い放った。その表情は真剣そのもので、どれだけが後輩に好かれてるかがビシビシ伝わってくる。こんな立派な後輩の姿は俺なんかじゃなくてが見るべきなんに、なんでいねーんだよ。
「不二山先輩!オレは彼氏だなんて認めません!!男と男の勝負です!!!」
人一倍声を出している3年の男が真っ正面から向かってきたが、隣にいた女子がこそっとなぜこの男がこんなにも熱くなっているのか男の詳細を教えてくれた。なんでも卒業するまでにに柔道で勝ったら付き合うという勝負をしていたらしい。だがついに卒業まで勝てず、そしてには柔道をやめるから諦めろと言われあえなく玉砕したとのことだ。なるほど、だからの彼氏と名乗る俺が気に喰わないのか。や、彼氏じゃねーんだけど、なんとなく真実を伝えるのも癪なので黙っておく。そもそも恋愛ごとに柔道を使うな。
「オレが勝ったら先輩と別れて下さい!!」
「…別れねーよ。俺が勝つ」
の名前を呼んでいることや、俺が知らないを知っているこいつになんとなくいい気分がしなくて、ついに彼氏じゃねーと否定することをしなかった。
もちろん試合は俺の一本勝ちで終わった。
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