何かにぶつかった時、何かを成し遂げた時、よくここに来ていた。生まれて初めて出た柔道の大会では緊張して一回戦で負けてしまい、悔しくて猛練習したら次の大会では入賞して、その次の大会では優勝した。そのたびにここに来ていた。いわば願掛けと、そのお礼参りをこの神社でずっとしていた。地獄の千段階段の所為でこの小さな神社にあまり人は寄り付かない。だがこの無駄な雑音がない静かさが染み込んだこの場所をわたしは気に入っていた。昔はよく下の駄菓子屋でラムネとお菓子を買って、頂上で夕日を見ながら飲み食いしたのは良い思い出だ。思い出補正かもしれないけれど、ああいう時に食べた物ってやけに美味しかった記憶がある。そういえば、ここに来る時もよく隣に誰かいた気がする。その子は、その男の子は――
「」
「不二山くん?!どうしてこんなとこに?」
この神社ははば学から結構離れている。こんな辺鄙な所に来る人間はそういない筈だ。それなのになぜ不二山くんがここにいるのだろうか。
「俺はトレーニングも兼ねて願掛けしに来た」
わたしは目を見開いた。決意に満ちた顔をした不二山くんが、何故だか昔一緒に柔道をしたあの男の子と重なったのだ。
「そっ…か…よくここに来るの?」
「今はそんな来ねえ。昔はよく来てたけどな」
ラムネと菓子買い込んで。ニヤリと口角を上げて、たくさんのお菓子で膨らんだ袋をわたしに見せてくれた。その袋は多分、麓の駄菓子屋の物。不二山くんがわたしとまったく同じことをしていることにびっくりして、まともに声が出せなかった。
「は?」
「え?」
「は何かあってここに来たんだろ?」
「な…んで…」
「昔からがここに来る時は何かしら理由があるからな」
夕日に溶け込んだ身体の線はあの頃よりも逞しく、幼さが残るが精悍な男の顔つきへと変化していて、瞳の奥には静かな炎が宿っていた。そう、師範の教えだ。怒りや力に任せた柔道は柔道であって柔道で非らず。精神は常に静かに、技は風の如く。
「…わたしは昔から諦めの悪い男が諦めてくれるよう神様にお願いしにきたの」
「そうか。大変だなも」
そうだ、体力もなくてよく泣いていて、試合にもなかなか勝てない男の子をよくトレーニングがてらここに連れて来ていた。たとえ勝てなくてもポイントが取れなくても、最後まで諦めずに踏ん張るその子にだけ教えたわたしだけの場所で、一緒に次の試合に勝てるようお参りをした。わたしはその子をこう呼んでいた。
「なきむしあらし」
「!」
「相変わらず諦めが悪いんだね」
階段を無理やり上らせ、泣こうが喚こうが最後は手を引くことになろうが、絶対に頂上まで来てよく一緒に夕日を見ながらラムネを飲んだ。たまに瓶を開けるの失敗してラムネで手がびちゃびちゃになってたっけ。
「やっと思い出したんか、」
くしゃりと嬉しそうにはにかんだ嵐の顔には昔の面影がしっかりと残っていて、どうしてわたしは今まで思い出せなかったんだろう。
「アキさんはすぐわかったぞ」
「ごめん、多分――」
柔道と向き合うのが怖くて、柔道と向き合う嵐を避けて、今まで気づかないふりをしていたんだ。そうでもしなければ嵐のまっすぐな気持ちに負けてしまいそうになる。
「今日、の中学に行って来た」
「っ!?」
「アキさんに、が柔道やめた理由を知りたかったら行くといいって言われた」
お兄ちゃんのばか。嵐のまっすぐな性格を知っていて、そんなこと言うなんてずるい。
今の状況を嘲笑うかのような兄の顔が浮かんだ。
「それと…もう一か所行ってきた」
嵐はポケットに手を突っ込んで、携帯を取り出した。一緒に小春を捜した日以来に見る、あまり使用感がない携帯だ。案の定慣れていないのか、ぎこちない手つきで操作をしてからわたしに携帯を渡してきた。携帯を見ると、どうやら動画が再生されているようだ。最初白い床が写り、ガタガタと画面が揺れて次に、すまん、という嵐の声が聞こえた。パッと場面が切り替わったと思ったら、病室の一角が映った。その中心には、手術が成功してお見舞いに行った以来会っていなかったかつてのライバルがラフなジャージを着てベッドに座っていた。
「ちゃんと映ってるー?」
「ああ。今度は大丈夫だ」
「ごほん…えーっと…!あんたほんっとバカね!!?今さっきそこの彼氏から聞いたんだけど、柔道やってないんだって?!しかもあたしの所為で??!冗談じゃないわ!あたしの怪我はあたしの責任よ!!あんたにとやかく言われる筋合いないわ!あんたが勝手に悲劇のヒロインぶってんの、あたしが惨めで可哀想な奴に見えて腹立つ!もう一回言うわ…腹立つ!あたしに負い目感じて柔道やらないのなんて、逃げてんのと一緒よ!んなもん即指導!はい指導!あたしは柔道に打ち込む姿勢だけはあんたのこと尊敬してた!だからそんなあんたに勝ちたいと思ってあたしも頑張れた!あんたはあたしが唯一認めたライバルなんだから、勝ち逃げなんて絶対に許さない!学校に部がなくても、選手じゃなくても、マネージャーでもなんでも、柔道に触れてなさいよ!あんたもあたしも不器用で、柔道でしか会話できないんだから!!いつか、きっと近い将来、あんたに勝ちに行くから、ちゃんと待ってなさいよ!!」
あと、彼氏出来たんなら一番に報告しろ!と締めくくられてプツリと動画は切れた。画面が真っ暗になるが、わたしは嵐の携帯を握り締めたまま動けずにいた。一気に色んな出来事が襲いかかってきて、まともに処理ができない。
「」
スッとわたしの手から携帯を抜き取る動作につられて顔を上げると、あの嵐のまっすぐな眼差しに刺されて身動きが取れない。あの激しい瞳から逃げられない。
「お前の周りの人たちに会って思ったんだ。やっぱお前は柔道から離れちゃダメだ。みんな、が好きで、の柔道が好きなんだ。それに…俺もお前と約束した。次会ったらぜってー勝つって」
いつの間にか太陽は地平線に呑み込まれそうになっていて、月と星々が薄く顔を覗かせている。
あの時と同じ顔だ。引っ越す前の最後の練習はわたしの勝ちで終わり、それからここまで嵐とふたりで頂上まで競争して、それもわたしが勝った。嵐は次会うまでにぜってえ強くなってやると決意と覚悟を決めた顔でまっすぐとわたしに宣言してきたので、わたしもこう返した。
「…わたし、嵐が強くなるのなんて待たないから。早く強くなんないと、もーっとわたし強くなってるよ?」
「ははっ!忘れてねーみたいだな!」
嵐がわたしに勝とうと躍起になってたのは知っていた。あんなに嫌がっていたのに、いつしか道場に一番最初に来てひとりで練習する姿を見てから、わたしも嵐を意識するようになってお互い認め合って強くなっていった。
「嵐はこんな情けないわたしのことなんて忘れてしまえばよかったのに…」
「忘れられるかよ。お前自身も、お前の柔道も、全部俺が強くなれたきっかけなんだから」
風がわたしと嵐の間に荒々しく吹き抜けてゆく。ぽかんと口を開けていたわたしの口に自分の髪の毛が入ってきて、慌てて振り払おうとすると嵐の大きな手がそっと髪を耳に掛けてくれた。なんだかその動作があまりにも優しくて、嵐のくせにと腹が立つくらい格好良くて、少し胸が震えたのは内緒だ。
「嵐、それ、他の子にすると勘違いされるよ」
「ん?、髪伸びたな」
全然人の話を聞かずにさらに髪の毛を触ってくる嵐はきっと無自覚なのだろうけど、距離が近い。このど天然め。
「はあ…一本取られたわ…」
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