「恭弥さんは神様かしら?」
僕がこの偽善染みた救済を与えているのはずっと前の話で(もう思い出すことも出来やしない。)
(いや、思い出したくなるほどそんなに美しいもんでもなかったような気がする。だから思い出さない。)、
きみとドイツであってからももうずっとそれ(=人間にとっての希望というものだろう)を与え続けている。
きみはいいところのお嬢さんらしく、いつもすました顔をしてしゃんと背筋を伸ばしていた。
その顔はどことなく翳っているようにも見えた。(職業柄そういうのには敏感なんだ。)
僕がきみの父親の治療をする位までの地位を確立するまでに、そんなには時間を要さなかった。
(僕の医者としての技術、知識は自分でも少なからず他のひとたちよりもずば抜けていた。もちろん周囲のひとたちも僕の才能を認めていた。)
みなが囃したてるようにして(責任を押し付けるようにして)、僕はきみの父親の治療に取り組んだ。
きみの父親も医者だったから、当然僕の仕事を口をすっぱくして何かとあてつけをしてきた。
事あるごとに、なにかときみが僕の元へやってきて父親のことで頭を下げていた。
だから僕はそれほど苦にはならなかった。けれど、僕は、彼が僕に対して好意を抱かなかったように、僕も彼と同じくきみの父親をあまり慕ってはいなかった。
その父親がやっと僕のことを尻の青い小便臭いガキじゃないと思ったころには、僕とは駆け落ち3秒前といったところの、情熱的で激しい、まるでヴェートーベンがするような恋に落ちていた。また彼の指揮する音楽も然り。
僕はきみと心の底から結ばれたいと思った。だけどきみのおとうさんがそれを赦してくれなかったらしい。
僕は触れてはいけない逆鱗と、世の不自由さと、不平等さにまだ抑えられる静かな怒りをおぼえた。
きみと僕との間に何の差があるというんだ。身分、名誉、金、地位、それらすべてを差別というかたちで終わらせることが出来る世の中。
一体、地球の秩序は何時何分何秒に地球が何回回ったときに変わるというんだ。
変化はおとずれないと言うのか、それとも人間が変わらない生き物だからか。(いつの世の人間誰しもが愚かだということ。人間自体が藁みたいに心が折れやすいということ。)
「恭弥さんだめ、ですよ。」
「・・・なんで?」
「父が、みて、ます・・・」
「みてないよ、みてない。だから―――」
「恭弥さん、ごめんなさい」
*
僕は無理強いをしてきみを抱いた。僕は僕が男としてこの世に生まれてきたことを何よりも幸福だと思った。ちいさくておおきい、しあわせだった。
たとえきみに嫌われようがどう思われようがそんなことは眼中になかった。そんなことを気にしていられるほど、僕に余力は残っていなかったんだ。正直、焦燥しか生まれてこない。
きみを目の前にして、ちらちらと見える真白な肌をほっといて、僕は正直苦痛でたまらなかった。
何回もきみを抱こうと緻密な計画まで立てたときもあったし、夢精もしてしまったし、もちろん(というのは忍びないが、)自慰もやった。
自分は精神病患者みたいに、「・・・っ、くぁ、・・!」「っ、ん・・は、ぁ・・・・・・っ!」
と、残酷にもいつもきみの名前を言った。そうでもしないと自分がいつ何処でを抱くかわからなかったからだ。
もしかしたら父親の目の前でやってしまうかもしれない、そればかりか、女子便所個室で押し倒してしまうかもしれない、
庭の草むらが深い茂みなことをいいことに虫のような声できみのことを喘がせてしまうかもしれない、お手伝いさんが見ていないすきにきみを食べてしまうかもしれない。
いやらしいぼく。かっこわるいぼく。汗が僕のからだをつたうたびにきみは泣いているんだろう、こんな僕を見て。そう思いながらずっと僕はこらえた。
こらえてこらえてこらえてこらえてこらえて、こらえて、またさらにこらえて。そして僕は君を抱いた。こらえきれなくて。
ながくけわしい獣道に迷って、一生懸命もとの道に正そうと必死こいてみたけど、結局きみを抱いた。結論はやけにあっさりと僕の目の前に落ちてきた。
挙句に僕は自分のことを棚にあげて、自己暗示をかけてきみを抱いた。僕は十分我慢したんだ。
僕はわるくないわるくないわるくないわるくない、悪くないんだ、決して。(わるいのは僕なんかとであってしまったきみの運命、)
そうだ、あの日、おぞましい日が来たのはいつごろかとおもいたった。僕にとってもきみにとっても、とてもおそろしく目も向けられないほど。
強い吹雪のようだね、目を開けたらきっと痛い目にあうよ。(だから僕の背中に隠れていてよ)
もうずっとしあわせなんだと夢見てた。溺れてたんだ僕は。いままで味わったことのないしあわせといとしさに。(そのまま溺死するべきだった、僕だけ。)
きみの父親はとうとう、僕たちの関係を目の当たりにした。きみのおとうさんは怒濤の如く怒り狂った。ああ、このひとは娘を溺愛していたんだ。
僕の耳には雷のように鋭く突き刺さる奇声の混じった怒声が矢のように刺さった。
もともときみには似ていない父親は(彼女は母親似でとても見た目麗しゅうひとだった)、病気の影響もあって肥えており、あまりからだを思うように動かせない人だった。
発作は、そのとき起こった。今までにないくらいの大きい発作が。僕は駆け寄ってからだを支えてやると、きみのおとうさんは僕を見事に拒絶していた。
悶え苦しみながら我武者羅にめちゃめちゃに腕を振り回した。いままで見たことのない剣幕に僕は呆然とした。
同時に愚かだと思った。死にたいのか、殺されたいのか、いきなり、このひとを今更ながら侮蔑視した。
きみは僕のほうを見て必死に声を出そうとしてたけど、かぼそくてよく聞こえなかった。
けど、「きょ、・・やさ・・」「父をっ・・たす・たすけ、っ」ときれぎれに必死に訴えていたんだと思う。(これは決して僕の妄想なんかじゃない。)
だから助けたかった。きみが助けて欲しいと言った父親を。きみの唯一の家族を。でもきみのおとうさんはそれを僕に望まなかった。
まもなくして、彼女の父親は僕宛てに絶望を残して去った。彼女は咽び泣いた。そして僕は日本へと帰国した。(きみのおとうさんが残してくれた僕宛の絶望と一緒に)
きみをただひとり残して。
僕はドイツからもうひとつ地位、というものを持ち帰ったらしい。ちやほやされ、超一流の国立病院の院長に就任も果たした。
この歳で、この若さで、尋常ではないスピードで出世していく僕を芳しくないと思う人間は一人や二人ではなかった。
そんなひとたちが僕を院長という地位から引き摺り下ろそうと、権力争いが多々起こるのは言うまでも無い。ああ、醜い人間はやはりこんなにもきちんと生きているんだなと思った。
僻み妬みは人間の持つべき負の感情だ、仕方が無い。そうやってちんけなことをやっているうちに自分は蟻んこになっていて、ゆっくりとずっしりと僕に踏み潰されるんだろう。
あれは雨の日だったかな。そうだ、僕が心臓病の個室で寝たきりの老人のカルテをつけているときに、ドアが無遠慮にガラガラと、その場にはとてもうるさい音を出して開いた。
姿を見せたのは僕よりも年配の医者だった。この顔には少なからず見覚えがあった。そうだ、僕が来る前に院長に就任することが確定付けされていた奴だ。
僕が来たことによってそれは無効となったが。その医者がドアの前に忽然と姿を現した。僕は怪訝に眉に皺を寄せた。なぜこんな奴が僕、またはこの患者の所に行く必要があるというんだ。
「どうしたんだい、藪から棒に。」
「今日からわたくしがこちらの患者の担当になったんですよ雲雀院長。」
「それは誰の了承を得てのことだい?」
「ドイツでの一件の話が病院内で持ちきりですよ。心臓病を患っている患者さんの安全のためとしての処置ですがなにかご不満でも?もちろんこれはわたくしめの独自の料簡ではなく院内全員の意見です。」
ドイツの一件・・・ああ、つまりあの無駄に偉かったあのひとが死んだ件か。どうせ院内全員の愚考の寄せ集めで下らない妄想でもしたんだろう。
僕があの人のカルテ(死亡したまでの記録)を報告しなかったからだろう、きっとみなが僕が医療ミスかなんかでその人を殺したんだと思い込んでいるのだ。
とんだ傍迷惑な奴らだよほんとうにまったく。人殺しだと僕を嘲るつもりだろうか、ふん、ぬるい奴ら。
反吐が出る。勝手に死んだ人間を今更どうこうするわけでもないし、見苦しく言い訳もしない。
あれは最後にが僕に告げた願いだったからだ。だからあの人のことは一切話さなかった。もちろんこれからも。
その願いを踏みにじって奴らは僕を陥れようとしているのか。莫迦な奴ら。僕がどんな人間だか知らずしてそんな行動をするからだ。殺されても文句は言えない立場だよ。
どうやら僕はこの世の人間の秩序というものにイマイチなじんでいないようだ。それがいまはっきりと浮き彫りにされた。だからこんなにも僕は脱力し、虚無感を覚えている。
僕の世界は僕の秩序はいまだおかされてはいないよ。大丈夫だ、まだ僕はやれる。あのときのきみに大丈夫だと声がかけられたらどんなによかったんだろう。
きみのおとうさんは助かるから、僕に任せておけば、だいじょうぶ。(そう言えたら僕はきみを―――、)
ありもしない(望んではいけない)願望が僕の胸にはあった。もしきみのお父さんが僕を拒絶する腕を振り払ってでも助けられて、何事もなく今も一緒に笑い合えていただろうか。
あの人に限って僕たちの関係に目を瞑ることは無理だと思うから、その前の時間に戻って永遠にループしたいと思った。もう十分遅すぎるけれど。
*
院長室から見えるサクラが僕は結構好きだった。サクラクラ病にはいまだかかっているけれど、離れている分には気分は悪くならない。
それに、僕は遠くから眺めるサクラのほうがずっと綺麗だと思うんだ。ああ、きみにもこのサクラのうつくしさをみせてあげたかった。(また僕のくだらない望みがはじまった)
くるくると片手でペンを回し、うつらうつらしていると、ペンが僕の回していた手から飛んで床に落ちた。ころころ転がっていくペンの行く先を見つめる。
ペンは捨てられる運命にある。そして人間は死ぬ運命にある。それらが遅いか早いかの違いだけだ。きみのおとうさんはただ早かっただけの話。
それだけじゃないか。なぜこうも落胆しているのだ撲は。自己嫌悪に苛まれるなんて、一度もなかったはずなのに。(いや、むしろ逃げいていた、と言うべきか。)
少々暖まりすぎなのかもしれないこの部屋は。僕はどうにもあたたかい海にいるような気分がして、途轍もなく不快になった。冷たい僕には冷たいほうがお似合いなんだと思う。
ああ・・ねむい・・・。こんな日は素直に寝よう。それでそのあと仕事を片付けて、ああ、ご飯はどうしようか・・ねこまんまでいいやもう、どうにでもなれ。
そうやって僕はだらしなく夢についらく。
あれ、僕はどうしたんだろう。
持っていたペンは床へと転がっていて、それどころか僕は背凭れに身を任せ手と足を組んで随分と偉そうに堂々と寝ていたらしい。
ペンを拾おうと身を起こそうとした瞬間ノック音が聞こえた。座りなおしてよだれがたれてないかをしっかり確かめて、僕ははい、と事務的な返事を返した。
ドアノブを回す音が聞こえて、そして、きみがあらわれた。ひどくびっくりした。どうしてなんで、きみがここに?いつ日本へきたんだろうか。
勝手に君の前から消えてしまった僕を追ってきた?それは最も可能性が低い選択肢だ。僕を父を殺した殺人者だと訴えにきたのだというのなら話は簡単だ。
「僕を殺しにきたのかい?」
「そうだと言ったらあなたは殺されるの?」
「もちろん」
「じゃあ、殺してあげる。目を瞑って。」
「・・うん。」
ああ、僕はやっと死ねる。きみのために、きみのほんとうのしあわせのために。そして僕の魂は地球を巡ってまたきみを不幸にするだろう。
だから、また僕を殺せるきみになって欲しい。(きっとこれが最後のきたない望み)
ずっと死とは何だと思った。死んでその罪が洗い流せるのか、死んだら罪が償えるのか、ほんとうにきみの幸せがくるのかわからない。
けれど、きみに殺されるなら本望だ。僕を逸早く殺してよ、。きみにはその権利も僕を始末する義務もある。
何か迫る気配がした。ああ、今僕に近づいているのは僕に死を齎す物。
頬がじりじりと熱い。目を開けたら、きみはすこしだけ哀しそうにして泪をこぼして言った。
「恭弥さんは死んじゃいけない人なんですよ。」
「そんなの、誰が決めたの?」
「神様です。雲雀恭弥という、わたしだけの神様です。」
「きみ、本気?ばっかじゃないの、ほんとに」
「な、恭弥さんこそ、あなたがわたしに押し付けた約束を破ろうとするなんて酷い仕打ちですよ!めいよきそんざいで訴えますよ!」
「それよりも殺人罪じゃないの?名誉毀損って、僕がきみの何を傷つけたのさ。」
「わたしのこころを傷つけた恭弥さんは一生わたしのお手伝いさんをやってもらいます。」
「はぁ?」
「わたしのお嫁さんになってください。」
「・・はぁ、きみはおとうさんのおがつくくらいのお莫迦だよ。おまけにきみのおとうさんの腹みたいにおおばかものだよ・・・」
「父のこと、嫌いだった?」
「うん。とても、大がつくほど、おとうさんの腹が地球を埋め尽くすほど、嫌いだったよ。」
「そう。だからあの時助けなかったの?」
「それは、違うよ。あれは彼自身が僕という存在を拒否したんだ。どうにもならなかった。どうしようもなかった。」
「きょう「・・・ほら、行くよ。」
「・・え?あ、はい?ど、どこに行くの?(いますごく失礼なこと言われたような気がする・・・)」
「ドイツへ。」
「い、今から?」
「今から。」
「い、院長、そ、そんな辞職だなんて・・・!」
「きみさ、前々から言いたかったんだけど、すべて顔に書いてあるんだよ、僕がやめてくれて大変嬉しいってさ、これで院長はわたしだ、とかそんな野心が。いい加減自分のその上辺の薄さに気付きなよ。それじゃこどもひとり詐欺に陥れることだって出来やしない。」
「な、そ、そんなことはありありません!わたくしはほんとうに・・・!」
「そうその下品な笑い、きみの胡散臭さがにじみ出てるよ。この病院の上に立つんだったらもう少し道化師として人間の仮面塗りつぶせよ。」
「院長っ!」
「それじゃ、いままでお世話になったね。どちらかと言うと、人間よりも建物にお世話になったな。僕の居場所を一時的に提供してくれたからね。」
「もうこの地に立つときはないと思うから、・・・永遠にさよなら。」