蜜雨

わたしに最初バスケを教えてくれたのは当然のことながらお兄ちゃんだった。
お兄ちゃんは帝光中学で三連覇を成し遂げ、高校に上がろうという時にわたしが生まれ、そしてすぐにお父さんの仕事の都合で家族みんなでアメリカに移り住んだ。 生後間もないわたしにNBAの試合を延々と見せてろくに言葉も理解できないのにらんらんと目を輝かせて細かく解説したりどこがかっこいいとかどこがすごいとか選手の技術一つ一つを熱く語ったり、 重たいバスケットボールでボール遊びをさせたり、立ったばかりのわたしに軽くパスをしたら見事顔面キャッチされて鼻血を出させてお母さんに怒られたり、 ようやくまともにバスケできるようになったわたしは毎日ストバスに連れられて、しまいには晩ごはんまでバスケをしてたらこんな夜遅くまで小さい女の子を連れ回すなとお母さんに怒られ、それにも反省せずまた次の日にはけろっとわたしをストバスに連れて来ていた。 わたしがこんなにもバスケが好きなのはお兄の所為だ。お兄のバスケバカっぷりがうつったのも、ぜんぶ、ぜんぶ。

けれどもお兄ちゃんはだんだんと苦しそうにバスケをするようになった。 わたしがストバスに誘っても、庭のコートでバスケをやろうと誘っても、お兄ちゃんがバスケをすることはなかった。

そんな兄の姿を見て、わたしはお兄ちゃんと初めて派手な喧嘩をした。
何日も目も合わせない挨拶もしない喋りもしない日が続いた。 その間わたしはバスケをして、お兄ちゃんはバスケの練習に行ったり行かなかったり、学校も休みがちになった。 そんな時わたしは目に違和感を覚えてお母さんと一緒に病院に行った。
わたしは生まれつき優れた動体視力を持っていた。 だからバスケをするには小さすぎる身長を補うために、わたしの唯一無二の武器である動体視力を最大限に生かすプレイを幼い頃から兄に叩き込まれていた。 その目をあまりにも酷使しすぎて疲れ目になりやすくなっているみたいで、これからもこのような状況が続けば視力が著しく低下して失明するとまで言われた。 普通にプレイする分には何も問題はないのだがプロを目指すならば自分の為に諦めなさいとドクターに言われたが、わたしはそれでもバスケがしたかった。 けれどもお母さんは自分を犠牲にしてまでバスケをやってほしくないと懇願してきた。 いつもわたしを尊重してくれた母がはじめてわたしの主張に反対したのだ。母の泣き崩れる姿を見てバスケでプロを目指せるほどわたしは強くなかった。

わたしは部屋に閉じこもっているお兄ちゃんとドア越しに、本当に久しぶりに会話をした。とても静かで、抑揚のない声で2人であてもなく喋った。

「ねえ」
「わたしの目じゃプロになれないんだって」
「だからさ」
「お兄ちゃんがプロになってよ」
「そしたらわたし、将来じいちゃんみたいになって、お兄ちゃんが怪我した時とか、サポートするからさ」

お兄ちゃんの声がだんだんと近くなって、ついにはドアが開かれて、久しぶりにお兄ちゃん見たなとぼんやり思っていたら、後ろから抱きしめられて本当にほんとうに小さく「ああ」と返事をした。兄ちゃん、頑張るからな。


それからお兄ちゃんはまたバスケをやりだして、苦しそうだったり辛そうだったりってことはあったけど、それは前みたいな感じじゃなくて、それを含めてバスケを楽しんでいて、いつも挑戦の繰り返しだった。 お兄ちゃんは昔っから大事なことはなにか後押しがないと言えないタチで、大学の州チャンピオンになった時に初めてわたしにアレックスを紹介してくれた。もちろん、彼女として。 あのときは驚いたなぁ。きっと隠してたんだろうけど一時期荒れていたお兄ちゃんは女遊びがひどい時があったから、こいつまともな恋愛出来んのかとか思っていたもの。 お兄とアレックスを見ていたら、そんな考えは吹っ飛んだけど。結婚とか、するのかな、とか思っていた。というのも、お兄の部屋から結婚関連の雑誌を見つけてしまっていたからだ。

でも、2人は結婚しなかった。正確には、できなかったというのが正しいだろう。
お兄ちゃんのデビュー戦のあとに詳しく日取りとかいろいろ決めようと穏やかに幸せそうな顔で計画していた。のに。 お父さんとお母さんが飛行機事故で亡くなって、アレックスは病気で視力が著しく低下したため引退を余儀なくされ、いろんなことが重なって、結婚はしばらく、少なくとも身の周りが落ち着くまで延期になった。 お父さんとお母さんが亡くなってからわたしはお兄ちゃんとアレックスと一緒に住むようになったけれど、お兄ちゃんはプロになったばかりで家は空けがちで、アレックスは事実を受け止められず荒れていて賭けバスケ場にばかりいた。 子どものわたしでもわかるくらいにあの頃の2人は見事にすれ違っていて、前のようなしあわせな顔は見られなかったが、わたしも精神的ショックで声が出せずにいたし、2人のことを気にかけるほどの余裕は持ち合わせていなかった。
あぁ、もう、だめ、だ。何もかもがうまくいかない。こういうとき、ひとってどうすればいいのだろう。もう、疲れたよ。大好きなバスケも、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもアレックスも、みんなみんなどこかわたしの知らない遠くへ行ってしまった。

いつも通り賭けバスケ場でアレックスの荷物を抱えながらベンチに座ってぼうっとしていたら、わたしと同じくらいの男の子の2人組がアレックスと何か言い合いをしていた。 最後にアレックスの勝手にしろという怒鳴り声が聞こえて、こちらにずんずんと歩いてきたからもう帰るのかとアレックスに荷物を渡すと、悲しそうな困ったような、自分でも受け入れきれない感情に戸惑っている表情をしていて、心配そうに見上げていたわたしの頭を撫でてその日はあまり試合もせず帰った。

2人の名前は氷室辰也と火神大我というらしい。2人ともわたしと同じ日本人で、タツヤは一個上だけれど、タイガと同じように接してくれと言われたので(あと名前呼びも)、お言葉に甘えてそうすることにした。 わたしはスケッチブックとペンを持って、【】と書いて2人に握手を求めたら、笑顔で応じてくれた。

はバスケやらないのか?」

タツヤが単純な疑問をわたしに投げかけてきた。 アレックスと一緒にいるわたしがバスケをやらないのを単純に不思議に思ったのだろう。
なんて答えればいいのだろうか。素直にするよって答えたらじゃあ一緒にって流れになってもちょっと困るし、しないと答えてもじゃあ教えてあげるからやろうよって有り難いんだけど、この2人の性格なら言いいそうだし。 まだあまり2人のことは知らないけれど、この2人もきっとおにいちゃんみたいな相当なバスケバカだ、きっと。そんなにおいがする。

「おーまーえーらーを口説こうなんぞ10年早いわガキがっ!!」

どうしようかと考えあぐねていたら、アレックスが気を利かせてくれてタツヤとタイガの首根っこを掴んでコートに引っ張り込んだ。なんとか助かった…
わたしはお父さんとお母さんが亡くなってから一度もバスケをしていなかった。 あんなに大好きでしょうがなくて、いっそいつまでもバスケやりたいって思っていたのに、そんな気持ちはいつの間にかなくなっていた。


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