蜜雨

俺の家庭は所謂冷めた家庭というやつで、結構なエリート家系だったので当然世間体ばかりを気にしていて、外では一見して仲の良い夫婦を演じていたけれど、 実際のところそんなに仲はよくなかったし、食事だって別々に摂ることが多いし、堂々と浮気だってしている。 そういう人でもお金は稼いでいたので生活面においては何不自由なく過ごせていたし、そんな裏と表を使い分ける親だったから自然と自分の悪いところをうまく包み隠して良い所ばかりを前面に押し出すのに苦労はしなかったし、勉強だってスポーツだって人に褒められるほどには出来た。 つまり何が言いたいのかというと、俺の性格は人よりも少しだけ、いや、少し話を盛ってしまったかな、人よりも数倍、いや、これは多すぎか、じゃあその間くらい、俺は性格が歪んでいる。

俺とタイガはとても対照的な存在だった。
タイガの考えはわかりやすくて単純でストレートで思ったことは大抵口にして、でもタイガが思っていることなんてそんな酷いものではなく、人を傷つけることもなく、素直な奴だなぁくらいにしか思えなくて、バカ正直というか、なんでも直感で動くタイプだった。 だからこそ俺はタイガをバスケに誘ったのかもしれないし、俺には決して持ちえない才能に惹かれたのかもしれないし、もう少しタイガのことを知りたいと、俺と全く違う生き方をしているタイガはどんな風にこれから人とかかわって成長するのか少し興味があったのかもしれない。 自分でも何か理由がないと人と付き合わないのかとつくづく打算的な人間だと思うのだが、これは家庭環境の所為だと、親の教育がなってないからだと、そういうことで誤魔化しておいた。本当は、ただ自分がきたない大人たちを見てそんなふうに育っていっただけなのだけれど。

には悪いのだけれど、俺はどうしても自分の両親を本心から好きとは言えなかった。 自分がそういう罪悪感を片隅に持ってと一緒にいるのかもわからないが、両親が亡くなって果たして俺は声が出なくなるほどのショックを受けるだろうか。 そりゃ、一瞬、声は出なくなると思うが、それも一瞬だ。人生のうちの、ほんのわずかな、一歩足を進めたら、忘れてしまいそうなくらいの。 一瞬声が出なくなって、そのあとにそうか死んでしまったのかと現実を受け止めて、悲しみはあるのだろうけど、涙は、涙は出て来てくれるのだろうか。 いや俺にだって情くらいはあるからきっと流れてくれるはずだ、そうやって自分を演出して着飾ってきたのだから。

ここまで言うと俺がひどく歪んでいて、いや、さっき自分で自分は歪んでいるとは言ったけれど、他人に歪んでいると思われるのはちょっと嫌なので、 ここで少しまともなことを言うとすれば、あれこれ理由づけてしまうのだけれど、とタイガとアレックスとなつるさんのことは好きと素直に言えるのだ。 俺に対して無条件に好意を持って接してくれているから、という気取った、もっともらしいことしか言えないけれど、ほんとうに、本当に好きだと思えるのだ。
別に嫌味でもバカにしているわけでもなく、そう言うといかにも嫌味でバカにしているように聞こえるのだが、一応俺にそんな気持ちは一切ないことを頭に留めて聞いて欲しい。 俺は家の事情でよりもタイガよりもお金のかかる学校に行ってたりして、 そこは俺の親に似たような、俺の親も子供の時はこんなふうだったのかと思えるくらいの、見栄っ張りで肩書ばかりを気にするクラスメートしかいなくて、 俺はそれにいち早く気づいたが、いや、みんな執拗に腹の探り合いをしているからきっと一様に思っているだろうが、なんせ頭だけは賢いから、 上辺だけの付き合いをして、笑いたくもないのに笑って、自分が上だと思いつつも人を持ち上げて、そんなことをして、楽しいかといわれれば楽しくはないし、 気分も悪いのだが、そういう中で俺たちは生きてきたので、誰もそんなくだらないことを気にせずに、ただ自分の為に親の面子の為に学校に行って、接待をするように人と付き合う。

そんな連中しか周りにいなかった俺にとってやタイガ、アレックスになつるさんの存在は俺に衝撃を与えた。
心底人を想って、人と接して、たまにその人のことで考えあぐねて、声を出して笑って、泣いて、落ち込んで、必死になって、わかりもしないのに、 すきとかきらいとか、その人の考えてることを考えて、考えてかんがえて、結局わからないくて、やきもきして、それは人間らしい行為であると思う。 俺たちのやっている人付き合いも、人間らしいと言えば人間らしいのだが、たちのとは全く違っていて、俺たちが人間の汚らしい部分を担っているとすれば、 たちは人間のまともな方を担っていると言えばいいのだろうか。 とにかく、たちの存在はとてもうつくしくてかがやいていて、いくら俺が優秀な人間だと他人に言われても、 失態を犯せばすぐにそんな立派な肩書が消し飛んでしまうのは火を見るよりも明らかで、 そんなことよりももっと重要でたいせつなことのように思えるくらい、俺にとってたちの存在は大きかった。

も、アレックスも、なつるさんも、いっぺんに良くない事が絶望的なことが降り注いで、それぞれ思う所があって、その所為でいろんな事がうまくいかなくなって、 どうにでもなれと自棄になって、自分も他人も傷つけて、それでも今そうやって関係を修復しつつあるのは、決して俺とタイガの力ではないと思う。 よくもアレックスもなつるさんも、こうやってみんなで一緒に過ごせるのは俺たちのおかげと笑うが、俺は結局は3人が3人でいたからだと思う。 傷つくことも傷つけることも恐れて、それでも人をきちんと想いやることができるから、俺はこうやって慕っているわけだし、好きだと思えるのだ。 自分の弱い所を見せることを決してしてこなかった俺は強がりな臆病者で、それを自覚していながら、いや、自覚しているからこそ、 やはり弱い所を見せれなくて、たちの、そうやって弱いところをお互い認め合って、支え合っていく生き方に憧れた。

散々、と言ったが、俺はここでその子の事についてほんの少し触れようと思う。 とてもちいさくて、かわいそうで、かわいい、女の子だ。
さっきの俺の饒舌ぶりからは想像ができないくらいに簡素な言い方をしてしまったのだが、なぜだろうか、について考えれば考えるほど、俺はまともでなくなっていくような気がしてならない。 俺にだってわからないことは、それこそ、星の数ほどだってある。人間自体がバカである限り、俺だって同様にバカなのだから。

は、親が亡くなって声が出なくなって、甘ったれた弱い存在なのかと思えば、はっとなるくらいの激情をその瞳に込めている横顔をしていて、 楽しそうにバスケを見ていると思ったら、ふと辛そうに目をそむけて、でも顔をあげればやっぱりすごいすごいと訴えるような表情で俺たちを見ていて、よくわからない子だった。 アレックスからの声が出ない原因を聞いて、それから芋づる式になつるさんのこともアレックスのことも聞いて、改めて聞いてもやっぱりのことはよくわからなかった。 は結局何を思って何がしたいのだろうか。なぜについてこんなに思うことがあるのかというと、それは俺がよくを見ている所為でもあるし、ただ単に興味深いと思ったからだ。

もっと君のことが知りたい。
深々と、心の奥に入り込んで、君をひっかきまわして、君がどんな思考で、どんな行動を起こして、どんな表情をするのか、眺めていたい。 そんな欲に突っ張った自分が頭を擡げて、を見ていたことに最近気がついたけれど、もう後戻りはできなかった。
ああ、いつのまにかこんなにも好きになってしまったのだろうか。こんなにも自然に、は俺の頭をいっぱいにしてしまったのだろうか。


今日はアレックスもなつるさんもいないので、にお昼ご飯を一緒に食べないかと言われたので、断る理由も特になく俺はと向かい合ってなつるさんが作っていったクラムチャウダーとキャセロールをつついていた。 も同年代の子と比べると料理はできるが、なつるさんの料理は凝ったものが多くておかんスキルハンパねぇと思いつつ、ほんとあの人妹好きだなと思わざるを得なかった。

「そういえばなんでタイガは呼ばなかったんだ?」
【タイガは今日お父さんが帰ってくる日だから、いろいろと忙しそうで呼べなかったの】

そういえば昨日の帰り際にそんなことを言っていた気がする。
タイガのお父さんも家を空けがちで、忙しそうだが、親子仲は良いらしく、そのおかげかタイガは俺みたいにならずまっすぐに育っていた。 タイガは既に俺の家庭事情を知っているのであまり家族についてお互い話はしなかったし、は俺の家庭事情を知らないが、家族について聞かれたことはなかった。 自身もあまり家族の、両親のことについて口にしないので、俺にもタイガにもそんな詳しいことは聞かないのだろう。

「それにしても日に日に料理の腕をあげてくな、なつるさん」
【ね!でもむかしはなんにもできなかったんだよ。卵焼き作ってって言ったら、スクランブルエッグになってたもん】

いくら口にしないと言っても、やっぱり話題を振ればは嬉しそうに答える。でなつるさんのこと好きだよなぁ。

のお母さんは料理が上手かったの?」

意地悪な質問をしてしまった。こちらが見ていてかわいそうになるくらいに、のペンを持つ手には力がなかった。

【お母さんの料理は、世界一おいしいよ!タツヤにも食べてもらいたかった!】

それをどうにかこうにか押し込めて、スケッチブックいっぱいに文字が書いてあった。俺の目にはか細くて、悲しい色にしか映らなかったが。 俺は残酷なことをやさしい顔して言っている自覚はあるが、そのたびにがああもわかりやすく虚勢を張るものだから、それを崩してみたくての強がりを知ったうえであんな質問をするのだ。 打ちひしがれた顔をするとわかっているのに俺はを弱い存在だと認めつつもつよく儚いものだと信じていた。

【タツヤこれから予定ある?】
「バスケしようかなって思ってたくらいだけど…何かあるのか?」
【たまにはゆっくり散歩でもどうかなって思って…でもタツヤバスケしたいよね…ごめんね】
「いや、いいよ。たまには息抜きしないとな。アレックスの言った通り脳みそがバスケットボールになるのも困るし」

は俺の言葉を聞くと笑って頷いた。

「…公園…」

計算尽くされた人工的な景観でもなく広大な湖があるわけでも東西に美術館や博物館があるわけでもない、至ってごくごく普通の公園に俺たちは来ていた。 けれどもは思いのほか嬉しそうにぐるりと公園を見渡して、俺の手を引っ張って小さな噴水まで小走りで駆け寄って石の囲いに腰を掛けた。 そしてごそごそとポケットをあさってクッキーの入った子袋を手で細かく砕いて、それから近くにいたハトに向かってポイっと投げた。 ハトはすぐにの投げたクッキーの存在に気がついて、首を傾けてくちばしで掴んで口の中に入れた。 はそれを見て次々とクッキーを投げつけると、ハトが群がってきて、クッキーをあげるのがおっつかなくなったは、俺にも用意していたらしいクッキーの子袋を渡してきたので、俺は2枚あったクッキーのうち1枚を自分の口の中におさめ、もう1枚を4等分してその4分の1をとりあえずハトの群れに向かって投げた。 ハトは俺を恨めしそう見る組とクッキーに夢中になってる組に分かれていたので、その俺を恨めしそうに見る組に向かって今度は投げたら、すぐさま俺のことなんか忘れてクッキーに釘づけになったので、本当にハトは3歩歩いたら忘れてしまうのだなぁと失礼なことをふと考えていた。

クッキーを2枚ともハトにあげたは、今はその手にペンを持っていて、何か書いていた。 俺はそれに気づきながらも、書き終わるまでこのハトの相手をしていようとの方は極力見ないようにした。 近づけば飛びあがるし、かと言って残りのクッキーをあげなかったら、恨めしそうな目でこちらを見るし、なんとも我儘でそれでいて警戒心が強く愚かで自尊心が高くて欲望に隷属的なのだろう。

【この公園、よくみんなで来た場所なんだ。ハトにエサやるの好きなの】
「……なあ、。実は俺、自分の親が嫌いなんだ」

あ、唐突過ぎた。俺らしくもなくなんの前置きもなかった。
それだったらまだ「実は俺、お前のこと好きなんだ」という台詞の方がまだ唐突過ぎても格好つくような感じだった。 俺にしては珍しく何の考えもなく、頭で考えるよりも先に口が動いてしまった。さっきまですこしだけしあわせそうだったの顔が曇ったのが誰が見てもわかるくらいだった。

「ごめん。でもには知っててもらいたいんだ」

俺がどれだけの男で、どれだけと育った環境も、考え方も、性格も、人間性も違うということを。
俺はあれほど見てきたの顔を見ずに、今は見たくもないハトの動きを目で追って、そして再度口を開く準備をしていた。 今度はきちんと考えているのだけれど、それでもなんと言っていいのかわからなかった。 に嫌われないようにできるだけきれいな言葉だけを選択して語ろうとしている自分がもう既にきたなくて、そんな俺がいくら繕って小奇麗な言葉を吐こうとも、きっとそれは無意味なことなのだ。

【タツヤが自分のこと…家族のこと話すなんて珍しいね】
「そうだな。誰だって好んで嘘つく奴なんていないさ」

それくらい俺の家族は嘘でがちがちに塗りかためられているおかげで均衡を保っていた。 それを溶かしていくように俺はたっぷりと時間をかけて、目的を失ったハトが1羽、また1羽と飛び去っていって、ついにはいなくなるくらいの時間をかけて、話をした。
はそんな俺をじっと見つめていたが、ついに俺は話し終わるまでをちらりとも見なかった。 俺の目の前にたくさんいた薄情なハトもいなくなって目で追うものがなくなって、そこにあったなんの変哲もない小石をのかわりに見つめていた。

【タツヤがそんな話したあとにどんな完璧な言葉を使っても、わたしですら嘘に聞こえるのだから、タツヤにはもっと嘘くさく聞こえると思うのだけれど、 わたしはタツヤが好きだし、わたしがタツヤを護れるくらいにつよかったらどれほどよかっただろうと、ずうずうしくも考えてましたごめんなさい】

ごめんなさい。
丁寧な長文の下に、またごめんなさいを重ねられた。 とても、とても慎重に言葉を選んでくれたのだろう。俺の話と性格を踏まえて、こんな話聞かされて、答えづらいだろうに、反応しづらいだろうに、むしろ俺はたいした期待をしていなかったのに。
すごくちんけなことを書いてしまったと、は思ったのだろう。びり、とその紙を破いてぐしゃぐしゃに丸めて、さっきクッキーが入っていたポッケに突っ込んだ。 そしてペンを持ってまたうーんうーんと考えだしたから、俺はからペンを取り上げた。 は俺からペンを取り戻そうと、躍起になって腕を伸ばしていたが、同年代の子よりもさらに小柄ながかたや同年代の奴らより背が高めな俺からペンを奪えるわけもなく、俺を睨みつけて大人しく座ったので、俺も側じゃない方の手でペンを持って自分が座っていた所にまた座った。

「俺はこんな自分を好きになれそうにないけど、を好きと思える自分は好きになってもいいかなと思う」

だから、護るのはじゃなくて、俺の方。護られるのは、俺じゃなくて、の方。 の為と、自分の為にを護るなんて、なんとも俺らしいじゃないか。

は立ち上がって、さっきまで俺が文字通り穴があくほど見つめていた小石を掴んで、足元の砂場に文字を書き始めた。 が身体の位置をずらすたびに文字がちらりと見えて、少しずつ少しずつ俺は読んでいった。さっきのよりも長い文章だった。

【タツヤはそうやってまわりも、自分すらも、皮肉るけれど、わたしはタツヤがそこまで歪んだ人間とは、どうしても思えない。 だって、わたしはこんなにもタツヤに救われて、わたしだけじゃなくて、お兄ちゃんだってアレックスだって、すごくすごくタツヤ、それにタイガに感謝してる。 そう他人に思われるのはタツヤがタツヤという人間だからだと思う。それがたとえ自分がよく思われたいからわたしたちにそうしただけだと言っても、それもタツヤだし、 歪んだタツヤも、今こうしてわたしの目の前にいるタツヤも、まだ表に出ていないタツヤも、関係ない。全部ひっくるめて、タツヤなんだから。 正直わたしは、タツヤみたいにそんなむずかしいこと、考えてない。ただ、好きだなぁって思う瞬間があれば、それでいいと思う】

うわ、この子、自分がどれほど殺し文句言ってるのかわかっているのだろうか。 俺相手によくもこんなことつらつらと書けるな。もはや人間のあらゆることを批判しそうな勢いなのに。
バカだなぁ。ほんとうに。いまさら、自分がこんな我儘でそれでいて警戒心が強く愚かで自尊心が高くて欲望に隷属的なことに気がつくなんて。 さっきハトに思ったこととまったく同じことを自分に対して思うなんて、馬鹿以外の何者でもない。ばか。

も俺も同じ血の通った人間で、つまるところ、たいして変わりはない。 少し優秀とか、少し不器用だとか、そういう差はあるけれど、人に愛されて、人を愛して、そういう感情の基本的な動作は誰しも持っていて、 当然その感情の中には嫌ったり嫌われたりもあるわけで、それを目の前の人間が持っていても何ら驚きがないはずだ。 はその事をきちんと知っていて、俺はいままで知らずに生きてきたようなもので、そう考えるとずっとは俺が考えるよりも早熟で大人びているのかもしれない。 それに俺は無意識に気づいていたから、こんな話をして、こんな自分を受け止めて欲しくて、甘えて、縋って、弱い自分に気づいてもらいたかったのかもしれない。

ああ、俺の方がよっぽど、お前に救われたよ。のこと、こんなにも護りたいのにな。


<<