蜜雨

それはとても難儀なことだったのだと、おもう。どうしてもやらなければならないことを強いられる人間って実は少ないんだ。人間は逃げる生き物だから。 でもそんなもんをもっている人って実に有能で、天才肌で、なんでもできる、世に言う勝利者だ。あのひとはその一員だ。 逆にわたしは敗北者。勝利者の山となり糧となる餌でも言いましょうか。とにかく誰が何を定めたわけでもなく、それは横からでも縦からでも降ってくるのではないんだとおもう。 それは約束でも掟でもない、ただ在る。でも、そんなできた人間のあのひともわたしの前ではただのおとこだったに過ぎない。 逃げたのではないといくら弁解しようが、わたしは頑なにあのひとの望む答えを返さないことにしよう。それは女の意地であり、あのひとが愛してくれたお返しでもある。 だから今こんなとこにいるんだ。まったくの無ではないが、ひとに虚無という虚無をからだン中いっぱいに詰め込ませるとこだ。 このちいさなかたまりを星屑の記憶だなんて思わない、たとえ夜に月が泣きべそをかこうが、このうえにそれを垂らそうが知ったこっちゃない。 ただありありとした証拠を人々にみせつけるだけだ。冷やかしもどよめきもない夜になんでおびえるって、それはひとりだからだよ。あのひとがいないひとりの夜だからだよ。 でもあの人は世の闇に生き、夜に身を潜ませているんだとおもう。だってあのひとのバイクの爆音はキッと澄んだ夜闇の空気がいちばん馴染んでいちばん美しくのたうちまわるからだ。 獣の雄叫びの様にそれは力強く、夜の男を思わせる。そのたんびにわたしは抱かれたいとおもう、女の性ってやつさ。でも半分は夜とあの人の所為。

「感傷に浸るんですか、貴女は。またあの男のことを考えているんでしょう、こんな世界の大恐慌が一気にこの地で起こったみたいなところで。」
「浸らなければ人間っていう形を継続させられないような気がするからよ。良心とか慈しみとか、そんなもんをね、模る気力もなくなるってモンよ。」
「じゃああの男のものじゃなくなればいい、僕をただ一途に愛するただの女になりなさい。」
「それじゃあ生きている意味も私の価値も蟻んこがモアイを運ぶ並に無意味になり、死ぬわ。」
「じゃあ歩けばいい。」


そうやってぐっとわたしの腕を持ち上げた。意外にもわたしには抵抗する理由が思いつかなかったので目先の世界がぐんと景色を変えた。といってもあまり代わり映えはしなかった。 あ、立ってる。すこしわたしの重みでへこんだ砂。すこし涼しい砂漠にくるのはひとたびではなかった。あのひとといっしょにいったときとはあまり景色が違わない。 時間を感じさせない場所だった。なんとも不思議でもしかしたらココはつくりものなのではないか、とおもった。朽ちることが無い最高のつくりもの。にんげんもそうであればいいのだが、それでは人間の意味が無いか、とおもった。 ひとはいっしゅんいっしゅん違うのだから。同じなんてない。人も、場所も時間も。それは喜ばしいことなのか、それとも否か。 あの人だったらどう考える、どんな答えを出すだろうか。ふと考えてみた。あのひとは経済新聞が好きだと言っていた。そして政治も好きだった。 あのひとはとても頭が良く優秀で、行動力もあった。カリスマ性もあった。なにより人を動かす強さと人望と信頼。なにもかも揃っていた。 あのひとを妬む人も多かった。人間ていつもそうだ、エゴばかりが強い。いつだって自分の存在意義を探し保ち、そうやって自分を形成していく。 なにもかもうまくいくのだ、あの人に任せておけば。あのひとが動けば政治も経済もいっしゅんで数字を変えた。ものすごく単純に世の中はつくられているんだとあの人は言っていた。

「どうしていなくなっちゃったんだろうね、あのひとは。わたしの前から姿を消して、きっと今も世を弄んでいるんだろうなあ。所詮裏のあのひとには闇がいちばん腹に合うんだろうなあ。」
「あの男は闇から生まれたんですよ、には到底理解しえない者なのです。そしてあの男にを中和することはできない。」
「むく、ろにはできるっていうの?」
「そうですね、僕も選ばれた人間。あの男と一緒。だがひとつだけ決定的に違うものがある。」
「あのひとはわたしを受け入れてくれなかった。あれだけ情熱的に愛してくれたのに。」
「勘違いも甚だしいものです。あの男は所詮には相応しくないんです。」


ふさわしいとか、ふさわしくないとか、人間それでその人をわけてしまう。それは自分より優れているとか優れていないとか、劣等感と優越感とか、そんな人間の良し悪しを分類するのと同じ。 あのひとはそういう考えでいきてきたんだ。だって世をバカにすることができる人間だもの。そしてわたしはそのなかに住む一人。あのひとを捕まえておくことなんてできるはずないじゃないか。 ひとつの場所になんか固定できない。きっとこの世界にいるのもやがて億劫になるのだ。ひとたびその地を踏みしめればふたたび踵を返すことを知らぬ。つまり、ひとたびその人間に触れればもういらないのだ。 この人間の構図や思考なんてすぐにパッとわかってしまうものなのだ、あのひとは。もうひとたびわたしを抱いてくれることはない。


「さあ、愛し合いましょう。」






愛よ、ファラウェイ






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