蜜雨

飛んできたボールを追いかけて茂みに入ったら、何かに躓いた。草木に音が吸い込まれていって鈍い音しかしなかったが、足元が冷たくなった。 見るとどうやらバケツを倒してしまったらしく、その中の水がかかってしまったらしい。最近躓いていいことがない。 おれはため息を吐いて、しゃがんでバケツを起こそうとしたら、白い手が飛び出していた。多分バケツを起こそうとしたのだろう。 思わずその手を凝視していると、か細い声が聞こえた。

「あ、の…」
「…あ、ああ…ごめんバケツ倒しちゃって」
「あなた…わたしが、見えるの?」
「え…?」

言動からするとこの子は妖らしい。真白な髪に真白な肌。顔は長い前髪に覆われててよく見えなかった。 幼い頃から様々な妖を見てきたが、おれはこんなにきれいな妖は見たことがなかった。 いつも見ている妖は、もっと黒くてどろどろしている者たちばかりだったから。この子は人間よりもきれいに思えた。ああ、きっと心がきれいなんだな。 おれはこの子をこれっぽっちも知らないというのに、そう思ってしまった。

絵描きに使っている筆洗い用のバケツを倒してしまったらしいおれは、代わりの水を汲みに行った。 ちょうど汲みに行くところだったからと遠慮する彼女は、とてもやさしい子だなと思った。妖に会ったら襲われるか泣きつかれるかのどちらかなのに。 この子に会ったおれは、おだやかな気持ちでいっぱいだった。彼女に教えてもらった近くの川で水を汲むと、小さな穴から水が飛びだしていた。 今のところ位置的にあまり支障はないが、小汚いバケツだ、底の方にも穴が開きそうである。色移りもひどい。何十年、…いやもっと使っているのだろう、彼女は妖なのだから。

「汲んできたぞ、水」
「ありがとう、夏目…」
「いや、倒して悪かったな……お前、おれを知っているのか?言っておくがおれはレイコさんじゃ…」

いつもの科白を言おうとしたら彼女は遮るように口を開いた。

「うん、わかるよ。わたしは、レイコの友だちだから」
「友だち?ってことは友人帳に名前が…」
「ううん、わたしは載ってない。レイコがわたしなら名前を縛らなくてもいいって言ってたから」
「そうか…」

祖母にも友人がいたのがうれしかった。祖母もひとりじゃなかったことがうれしかった。 他の者からの話を聞くといつも祖母はひとりでいる印象しか無かったけれど、そうか、名前を書かなくても友人と呼べる妖もいたのか。 ニャンコ先生もヒノエも名前を書かれてはいないが、友人とはまた違った感じだった。

「名前、なんて言うんだ?」
「……」
「そうか、か。きれいな名前だ」

特に考えもせずにするりと出た言葉に、は照れて顔を赤くした。前髪でよく見えなかったのだが、白に赤は目立つ。 おれはそんな素直なの反応に笑ってしまった。それに身を乗り出したは、足を折り曲げて立て掛けていた物を落とした。

「…スケッチブック?」
「そ、れは…!」
「見ていいか?」
「…つまらない物だよ?」

それを合意と受け取り、おれは裏返しになって落ちていたスケッチブックを見た。 そこには青々とした木々と、その隙間から差し込む光が描かれていた。 そこからそよ風や鳥の鳴き声、虫が動く姿がおれの中に流れ込んできた。 触れればみずみずしい葉から露が垂れてきそうで、おれが動けば鳥たちが飛び去ってしまいそうで、この絵には自然が生きていた。 鮮やかな生命がそのまま閉じ込められた絵だった。


「…きれい、だ…」


には悪いがそれだけしか言葉が出来なかった。もっと他に何か上手い言い回しが出来ればよかったのに。 けれどは、はにかむように笑った気がした。表情は前髪で見えないはずなのに、そんな気がした。

「これ、…お前が描いたんだよな?」
「…うん。わたしは絵を描くことしかできないから…夏目、よかったらそれもらってって?」
「いいのか?」
「うん。レイコの縁のある人だもの」
「わかるのか?おれがレイコさんの…」
「ううん、なんとなく。名前は?夏目って呼んでしまっていたけど…」
「いや、合ってるよ。おれは夏目貴志。レイコさんはおれの祖母にあたる人だ」

ふわりとおれの顔を両手で包んで、前髪で見えない顔を近づけてきた。 前髪の所為で相変わらず顔どころか目すら見えないが、まじまじとおれを見つめる視線を感じた。 やがてくすりと笑った。

「レイコに似ているけれど、やっぱり違う。あなたはそれほどわたしたち妖や人を憎んでいないみたい…」
「レイコさんは、…レイコさんは憎んでいたのか?」
「はっきりとはわからないけれど、きっとそうだったんだと思う。ずいぶん無理をして強がっていたから。…本当はあの子はとてもやさしくて弱かったの…」

驚いた。なんだかと話していると、どんどん祖母の新しい一面が見えてくる。 今まで祖母の悪名高い話しかあまり聞いた時なかったから、おれと違って逆境に立ち向かって強く生きた人だと思っていた。 祖母もおれみたいに辛くてかなしい思いをたくさんしたはずなのに、聞いた話だけで勝手にそう思い込んでしまった自分が恥ずかしい。 おればっかり、おれだけ、そういう独り善がりがおれの中で闊歩していたのだ。祖母と同じく妖を見る者として、おれは祖母を理解してあげられたかもしれなかったのに。

はおれから手を離すと、スケッチブックからびりびりと絵を切り離した。その絵に血を垂らすと、紙に赤が滲んだ。 あ、と声をあげたら一瞬だけ絵が光った。あまりの眩しさに視界が揺らぐ。それが落ち着いたら、紙の上の赤い血は無くなっていて、絵はきちんと額縁に納まっていた。

「…すごいな」
「ふふ、…はいどうぞ」
「ああ、ありがとう…なあ、また明日会いに来ていいか?」
「っ!…もの好きだね、夏目も…」

は妖にしてはずいぶんとかわいらしい、人間らしい反応をする。レイコさんも、のそんな所が好きだったのかもしれない。






*






「あら貴志くん、それどうしたの?」
「あ、これは…友達からもらったんです」
「まあそうなの!きれいな絵ね」
「ええ…」

塔子さんはよほど気に入ってくれたのか、あとで滋さんにも見せてあげて欲しいと言ってくれた。 なんだか自分が描いたわけでもないのに妙にうれしくて、明日に教えてあげようと思った。



「なんだ夏目、ニヤついて。気色が悪いぞ」
「うるさいぞニャンコ先生」
「…む!お前とその絵から妖のニオイがするぞ!」
「ああ…この絵はっていう妖からもらったんだ」
「何?!か…久しいな、その名を聞くのは」
「先生、知ってるのか?」
「ああ、レイコとよく一緒にいたしな…ふむ、そうかこの間のあの絵も多分が描いたものだな、同じニオイがする」

巳弥のあの八坂さまの絵もが…。そうか、どうやらおれはよっぽどの絵に魅かれるらしい。 またと話す話題が増えてうれしかった。おれは気の利いた話が出来るほど、口が上手くないから。 今度は先生もこのの絵を気に入ってくれたらしく、しっぽを振りながら眺めていた。 さて、どこに飾ろうか。考えているうちにご飯の時間になったらしく、しょうがなく壁に立て掛けておいた。 絵をどこに飾るかで悩むなんてくだらないかもしれないけど、おれはそれが楽しかった。






その日、おれは夢を見た。あれは―――…と、レイコさん?


「まーたは絵を描いていたのね?」
「あ、レイコ」
「あ、レイコ。じゃないわよ!あんた分かってんの?絵を描き続けるとあんたは死んじゃうんだよ?」
「…分かってるよ。だからわたしは絵を描き続けるの。命を吹き込み続けるの」
「意味分かんない。、あんた馬鹿じゃないの?」
「かもしれない。だけどね、わたしは絵を描かないと多分死んじゃうんだ。だって、だいすきなんだもの」
「だーかーらー、死ぬって言ってんじゃん!」
「死んでしまうのなら、わたしはひとつでも絵を完成させて死にたい」
「はー…まったく、と話してると、こっちまで馬鹿になりそうだわ。帰る!」
「ふふ、そう言いながら明日も来てくれるくせに。レイコはやさしいくせして意地っ張りなんだから…」
「なんか言った?!」
「なーんにも。ばいばい、レイコ」
「ふんっ!」


――――――目を開けて横の壁を見れば、そこにはきちんとの描いたあの木洩れ日の絵があった。相変わらず、きれいだ。(それはの命そのものだから…?)






おれは学校帰りに、のいるあの茂みに寄った。そういえば今日の夢でレイコさんと話していた場所もこの茂みだったな。



「夏目…本当に来たんだ」
「ああ。それと…これ」
「…これ、は?」
「バケツ。この間水汲んだら穴が開いてたから…」

安物だけど、と付け足したらは受け取りながら笑った。

「ふふ、さすが血の繋がった者同士…」
「なに?」
「このバケツはね、レイコがくれたものなの」

ぼろぼろのバケツを愛おしむように撫でた。

「レイコさん、が…?」
「ある日突然ね、これ拾ったから使いなさい!って渡してきたの」

明らかに拾ったものではない新しいバケツを乱暴に押しつけるレイコさんが頭に浮かぶ。

「はは、会った時もないのにレイコさんらしいと思うのは、やっぱりおかしいのかな」
「ううん、きっとあなたにはなんとなくわかるんだよ。どこかレイコと繋がるものがあるから…」

やさしい、おだやかな空気が流れる。なぜこんなにも彼女の纏う空気は澄んでいて、それでいて心が休まるのだろう。 の前では笑顔を作ることも、妖だということも忘れてしまう。



「冬の並木道に男の人が立っている絵、知ってるか?」
「もしかして…巳弥にあげた絵のこと?あなた、何か知っているの?」
「やっぱり」
「…ふふ、その絵は偶然が重なって出来た絵なの。たまたま散歩をしていたら男がさびしそうに、けれど愛おしそうな目をして何もない冬の桜を見つめながら立ってて…なんだか無性にその男が描きたくなっただけ。春になってまた来てみたら今度は巳弥という者が、あの男と同じように立っていて男を探していたから、その絵をあげたの」
「おれがその絵を見つけたのも偶然でね」
「ずいぶんと偶然を呼ぶ絵だね、我ながら」

おれたちは笑い合った。



おれは塔子さんや滋さん、それからニャンコ先生についてしゃべった。は手を動かしながらおれの話を相槌を打ちつつ聞いて、時々顔を上げて笑った。といる時間は少しだけど、まわりの雰囲気とか言葉の抑揚で今どんな気持ちなのかなんとなく読み取れるようになっていた。

「なあ、今度は何の絵を描いているんだ?」
「ふふ、秘密。完成したら夏目にも見せてあげる」

のぞきこもうとするおれをやんわりとは拒んでいたが、のまわりの空気が見てはいけないと言っていた。お楽しみは最後というわけか。でも、見せてくれなくてよかったのかもしれない。それだけと一緒にいられるということだから。



は、人が憎くはないのか?」
「…確かにレイコをいじめる人は憎かったけれど、みんながみんなそうではないことは知ってるつもり。少なくとも夏目、あなたは信じられると思えるの」

今度はおれが照れてしまった。ただは気づいていなかったみたいだけど。



のまわりはいつだってあたたかで、やさしい。悲しみも苦しみもなかった。 だからおれは気づかなかったんだ。彼女が弱っていることに。おれの前では決して見せない、強がりな部分。だからもうすぐやってくる別れに、気づけなかった。






*






「なあ、…お前薄くなってないか?」
「ああ、もうすぐなのかもしれない…」
「もうすぐ、お前は消えてしまうのか?」

独り言のように言ったの言葉におれは淀みなく問いかけると、の空気が震えた。はおれが知っていることを知らなかったから、驚いたのだろう。

「夏目、あなた知っていたの?私が絵を描き続けると…」
「ああ、夢で見たんだ。とレイコさんが話しているのを」
「そう…」

相変わらず薄くなった手を黙々と動かし続けている。よっぽどこの絵を完成させたいのだろう。きっと、にとって最期の絵になるだろうから。






からん。

とうとう筆が持てなくなるほどが薄くなってしまった。

「なつ、め…お願いがあるの…少しだけでいいから夏目の身体をわたしに貸して欲しいの…あと、空を描いたら完成するから…」
「ああ、おれの身体でよかったらいくらでも貸してやるから、…完成させてくれ」
「…ありがとう……やっぱりあなたはレイコと似ているね…容姿ももちろんだけどそんなところが…とても」
「…最後にお前の顔を見せてくれるか?」

おれは答えも聞かずに、前髪を髪飾りで止めた。意外にもは抵抗しなかった。 白い肌に大きな碧い瞳の色。小さなあかい唇に春色の桜の頬。きれいだ。の描く世界のように、の心のように。 はおれと目が合うと俯いてしまった。それに少なからずショックを感じたのは、きっと気のせいじゃないだろう。

「夏目、髪飾り外して」
「え…」

よっぽど嫌だったのか、と今度は明らかにショックを受けた表情をしていたら、俯いたままぽつりと囁いた。

「よく…見せて?」
「!……ああ」

髪飾りを外すとぱさりと前髪が流れてまた顔を隠した。、かわいかったな…。

小枝のように細くて少しの衝撃でぽきりと折れそうな腕と、雪よりも白そうな小さい手に髪飾りを乗せてあげた。 の身体はまるで髪飾りについているガラス細工のようだ。とてもとても壊れやすそうで、ある意味こわい。 はそんなの関係なくはしゃいでいた。当たり前というかもちろん、壊れたりはしない。 曲がりなりにも彼女は妖なのだから。むしろおれよりも丈夫だろう。が髪飾りを木洩れ日にかざすとその光が反射して、おれももちらりと絹の様な髪の間見える碧い瞳を眩しそうに細めていた気がする。

「き、れい…」
「よかった、嫌がられたのかと思った」
「昔…昔レイコにも前髪がうっとおしいとか言われて切られたことがあって…」
「そ、そうか…レイコさんもずいぶんひどいことをするな…」
「ううん、せっかくかわいい顔してんのになんで隠そうとするのよ、ってその時レイコは言ってくれたの…お世辞でもうれしかった」
「違う。レイコさんはお世辞なんか言わない。きっと本当にそう思ったんだよ。…おれも、…おれもがかわいいと思うよ」
「っ!………ありがと…夏目、ありが、と、…ぅ…」

言葉がだんだんとちいさくなり、すうと消えた。そうしたら急にずしりと身体が重くなった。

?」
「うん?」

頭の中で声がした。そうか、消えたと思ったら限界が来て乗り移っただけか。

「絵、完成させるぞ」
「っうん!」

完成したらきっとは消えてしまう。もう二度と、おれの前には現れてくれない。恥ずかしそうに、照れくさそうに遠慮がちに笑ってはくれない。 白くてわたあめのような髪を梳いてみたかった。その瞳をもっとじっくりと覗き込んでみたかった。今ではもう目を閉じて思い出すしかなかった。 触った時もないから、感触は想像するしかなかった。でも、を思うだけで、おれはこんなにも愛おしいと思えた。 この空気に触れることも、あの高くてやわらかで細くて軋みそうな声も二度と聞けなくなる。けれどおれは完成させたかった。 が命を懸けてまで描いたこの絵を、なんとしてでも完成させてあげたかった。おれにその手助けができるならば、おれが役に立てるならば、とてもうれしい。



おれはが落とした筆を拾って、バケツの水で洗う。はレイコさんのよりも一回り大きかったおれのバケツを、レイコさんのと重ねて使っている。 筆をきれいに洗い終えたのはいいが、ここまではおれの意思での行動だ。は一向におれの身体を使おうとしない。

「どうしたんだ、?」
「夏目、あなたが空の色をつくって」
「なっ?だってお前これが最後の絵に…」
「だからこそ、つくってほしいの!…それ、表にして」

スケッチブックのことだろう、の意思がおれに流れ込んでくる。おれは裏返しにされているスケッチブックを表にした。あれだけ隠していたあの絵を、今はじめて見る。 ずっと気になってた絵。


「これ、は…おれと………レイコさん…?」
「そう…わたしの最期の絵はレイコと決めていたんだけど、夏目も描きたくなって…」
「そう…か。なんか恥ずかしいな、自分が描かれるなんて…」
「ふふ、…さあ色をつくって。あなたの思う空の色を」
「…ああ!」



おれの望む空の色は決まった。






*






「この色…夏目、本当にこんな色でいいの?」
「ああ、この色がいいんだ。の、瞳の色が」
「意外と恥ずかしいものだね…自分の体の一部の色で最期を飾るなんて」


前髪で隠されて見えないけど赤くなっているのがなんとなく分かるが想像できてしまって、笑ってしまう。 けれど目の前でそれが見れなくなってしまったことが、やはりかなしかった。






「―――できた…完成した、夏目…っ!」
「ああ、…きれいだ。とても…きれいだ」
「ありがとう、夏目。………そしてさよなら」
「…いってしまうのか。人の命は妖よりも短いのに、先にいってしまうんだな…」
「そうだね、でもたまにはいいでしょう?見送る側も」
「よくないよ、おれはいまだに慣れない。別れは人にとっても、そして妖にとってもさびしいものだ」
「…そうだね。では、また、とでも言っておくよ、夏目」
「ああ、またな…といた時間も、が話してくれたレイコさんのことも、(そしての瞳の色も)、全部この絵に詰まってる。忘れない」


身体がふっと軽くなった。がおれの身体から抜けて目の前にぼんやりと現れた。 最期まで前髪で表情が見えなかったけれど、おれたちは互いに笑い合えた気がする。


「ありがとう、夏目」


瞼に落とされた唇が、なんだかあたたかかった気がする。おかしいな、の身体はおれに触れられないくらい透明に近かったのに。






浅いみどり






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