※長編用に書きましたが気力が続きませんでした……
まるで泥の海だ。
血や屍に埋もれ、だんだんと自由を失い、溺れ朽ち果て溶けて、やがて自分もその海の一部となっていく。
最後に残るのは何か――魂か。いや、自分は何も残らない。目玉と臓器は売られ、肉は業火に焼かれ、骨はしゃぶられ、魂は悪魔に捧ぐ。
母なる海には何も還せない。還すものが何一つとして残らないからだ。
また泥が重く圧し掛かる。
薔薇は薔薇
眼前に飛び込んできたのは、アップルグリーンのキャッツアイそのものだった。
「ぅわっ!」
あまりに距離が近いため、そのアップルグリーンは鮮明さを欠いていたが、それでも十分この世界に異色の輝きを放っていた。
シエルは驚きのまま思わず身を起こすと、そのスピードに合わせてアップルグリーンも動いたようで、その小さな額を痛めることはなかった。
すっとそのアップルグリーンは離れ、シエルはやっとその色から逃れられた。次いで、先刻から感じていた気だるさもどこかへ去ったようだった。
はあ、と朝から疲労の色を示した当主にアーリーモーニングティーを差し出したのはファントムハイヴ家のメイド、である。
アイスクリームブロンドをシニヨンにし、白にまた白を足したような肌に、睫毛がふんだんにあしらわれている枠内にアップルグリーンの瞳がぽっかりとふたつ綺麗にはめ込まれていた。
スラリとしなやかな肢体に黒と白をバランスよく使用したメイド服を纏っている。
「失礼致しました。つい昔の悪い癖が…」
「ついうっかりで主人の魂をつまみ食いするメイドがこの世界のどこにいるというんだ…」
シエルはげんなりと深いため息を吐いた。に会ってから、――いや、遭ってから、何度命の危険を感じたかわからない。
魂を少し喰われたからといって寿命は縮まらないと言うが、いかんせん悪魔の言うことは信じられない。
彼らは奸黠で醜悪で、平気で人間を喰い物にするからだ。
先刻の気だるさの正体はが魂をつついた所為だろう。
数日おきに繰り返される悪戯――とも思えないブラックさだが、とにかく即刻やめて頂きたいものだ。
【・】――セバスチャンと契約を結んでいる悪魔である。所謂首輪付きの悪魔だ。
シエルと契約を結ぶ以前に、はとある事情でセバスチャンと契約を結ぶことになった。
彼らが言うには、悪魔同士が契約を交わすのは稀なことらしい。
その理由として第一に挙げられるのは、契約を結ぶことで生まれる主従関係だろう。
それによりいくつかの制約に縛られることになるのだ。
――従者は主の命令に逆らうことはできない。
――主に核(心の臓)を捧げ、主はその従者の核に苦痛を与えることが可能である。
――主が従者の力を掌握し、主が力の解放を許さない限り従者の力は常に半減している。
――契約破棄は主の死亡以外一切認めない。
――従者は主を殺すことができない。
――契約の第三者の介入及び、従者による二重契約は禁ずる。
――などといった服従者側の絶対の不利な条件が悪魔同士の契約にはあった。その他にも枚挙に遑がないくらい細かな規約があるらしい。詳しくは当の悪魔たちも覚えておらず、曖昧に事を済ませている。
その契約によって、シエルがセバスチャン呼び出したときに付いてきたのがである。
現在彼女は自分の主であるセバスチャンの主のシエルに仕えている。
悪い癖、と称して魂の味見をしようとするのは昔の血が騒ぐかららしい。聞いた話によれば、あちらの世界にいた頃は相当のおてんばをやらかしていたそうだ。
その所為でセバスチャンと契約を交わすことになったというのに、懲りずにまた主の餌に手をつけるとは。
「ささ、それよりも今日のお召し物に着替えましょう」
シエルは小言の矢をに突き刺しつつ、アーリーモーニングティーに口をつけ、一通り朝の読み物に目を通す。
はそんな小言を右から左へと受け流し、シエルに服を着せる。手を動かしながら今日の予定をつらつらと述べていく。
なんだかんだ言って、このメイドはよく働く。契約を交わしていない人間のシエルにも従順だ。もちろんそれはセバスチャンからの命令でもあるためだが。
だからこそ、たまのつまみ喰いは多少は目を瞑らないでもない。
ただし、つまみ喰いの犠牲者は別の人間にして欲しいというのがシエルの願いだ。
彼女曰く、他人の――特に自分の主人であるセバスチャンの獲物の味はそれはもう美味らしい。
しかしそこで問題なのは獲物ではなく、主人の餌を喰っているという何とも言えないスリルが極上のスパイスなのだろう。
人も悪魔も、いけないとわかっていていることをするのは楽しいものだ。
「――以上が本日のご予定でございます。では、朝食に参りましょう」
朝食の卓に着くとセバスチャンが出来たてのスコーンや温かいスープ、新鮮な野菜を使ったサラダを並べた。はその横で熱い紅茶を注ぐ。
その場をセバスチャンに任せ、はすぐさま次の仕事へ取り掛かる。――はずだったのだが、食堂の扉を閉めたところでセバスチャンに捕まった。
紅茶色の瞳が真っ直ぐとを見ている。それはすでに支配者の眼と化していた。
今すぐにでも逃げ出したい。が、足に釘を打たれたはセバスチャンと対峙するほかなかった。まさしく、ヘビに睨まれたカエル状態である。
「あの、何か?」口内の潤いは半分以上失われていた。
「今朝、坊ちゃんの魂をひと舐めしたようですね」
「身に覚えがございま「主に嘘をついてはいけない。いつ何時でも主に信頼を、真実を与えなければならない」
「っずるいわよ。悪魔は嘘吐きな生き物なのに…!」
こんなときに《契約》を持ち出すとは、卑怯極まりない。は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「貴女は口で何回言ってもわからないようですから、身体に教え込むしかありませんね」ぞっとするほど冷え冷えとした静かな声だった。
《》名を呼ばれた瞬間、身体の自由が全てセバスチャンの手の中にあった。
――さあ、靴をお舐めなさい。
セバスチャンの声が全神経に染み込む。は無様にも床に膝をついて犬のように主人の靴を舐めはじめた。
くすくすと小馬鹿にしたような笑い声が頭の中に転がる。
「薄汚い貴女にはその格好が一番お似合いですよ」
《》また名を呼ばれる。ああ、憎い憎い憎い!悪魔が悪魔と思うなんて、どうかしてる、何もかも。
結局、はシエルの朝食が終わるまで靴を舐め続けさせられた。
不運にもそんな時に限って、他の使用人たちはその廊下を通ることも、騒ぎを起こすこともなかった。
さすがファントムハイヴ家の使用人といったところか、優秀だ。セバスチャンの日頃の教育の賜物である。は全くそうは思わなかったが。
やっとのことで許しを得たは、大急ぎでシエルのベッドメーキングをしなくてはならなかった。
名家であるファントムハイヴの主様はそれはもう毎日忙しい。
今日も今日とて、ファントムハイヴ家の名に恥じぬよう教養を身につけなければならない。
朝食を終えた後はヴァイオリンのレッスンが入っていた。
指導者として現役を引退した元ヴァイオリニストを専属で雇っていたのだが、耳を悪くしてつい最近やめてしまった。
そこで急遽代理に、本人たっての希望でデリック・ワーグマン氏を招くことになった。
デリックは英国内でそこそこ名の売れてきているヴァイオリニストだった。
彼の奏でる音色はまるで砂糖菓子のように甘美なものであった。それと相まって彼の整った顔立ちに、英国中の女性は一様に陶酔していた。
その色男は時間きっかりに屋敷に訪れた。
「ようこそデリック様、お待ちしておりました。」
「いやあ、すごいお屋敷ですね。それに大変お美しい…」
デリックの最後の言葉はに向けたものだったが、彼女はそれに気付いたのかそれとも気付かないふりをしたのか「恐縮でございます。」とだけ応えて、デリックに恭しく頭を下げた。
はデリックの荷物や上着を手に持ち、流れるように足を動かして部屋の案内をする。
他の使用人たちは各々の仕事をセバスチャンの監視の下行っているため、廊下を静かだった。
なるべく足音を立てぬよう、デリックの前を静かに歩いているといきなり肩を掴まれた。
「デリック様…?」
「来て早々すまないが、少し馬車に揺られ過ぎて気分がすぐれないんだが…」
「まあ、大変! すぐにお部屋をご用意致します!」
ここで待っているようデリックに告げると、はぱたぱたと廊下を走っていった。
部屋でレッスンを待っているシエルに報告と、部屋の準備をしにでも行ったのだろう。
の姿が見えなくなると、弱弱しげな表情が一変してデリックは含みのある笑みを湛えていた。
デリックは間もなくして客室に通された。
部屋の窓ガラスには曇り一つなく、床は埃も塵すらも見当たらない。
皺が取り去られたベッドは真白で柔らかそうで、調度品は華美過ぎず上品で質の良さそうなものばかりだった。
「何かご用があれば、なんなりとお申し付けくださいませ。では、ごっゆくりお休みください」
「待って!」
の背中にぴったりと密着し、ドアノブに掛けたの手を上からデリックの手が包み込む。
ゆっくりと撫でるように、の白魚のような指を一本ずつドアノブから引き剥がしていく。
もう片方の空いた手での顎に手をかけ、指で薄い唇をなぞる。
は声を上げることもなく、されるがままだ。それに気を良くしたのか、デリックは更に行為を進めていく。
「僕は君がずっと欲しかった」
家庭教師とは名だけで、本当の目的はだった。
デリックは美しいものが好きだった。女、宝石、絵画、美しければ美しいほど彼は求愛し欲は深まる。
彼がを見つけたのはまったくの偶然であった。
たまたま市場をぶらついていたデリックは、一際目立つアイスクリームブロンドを目にした。
野菜や果物を選別している彼女の瞳は魅惑の宝石が埋め込まれていた。一瞬で彼女を忘れられなくなった。
「君、名前は…?」
「…貴方、ずいぶんと安っぽい誘い方するのね」
思わず声をかけると、彼女は手に持っていた野菜を置いてこちらを向いた。
情熱的な恋愛映画で、そっぽ向いているヒロインと駆け引きをしているようだった。さらさらと溶け込むような音色がデリックの耳を甘く刺激する。
悪魔の囁きにも思えるほどだった。そう、デリックは《悪魔》に出遭ったのだ。
彼女の名は・といい、ファントムハイヴ家に仕えるメイドであった。
いくらメイドとはいえ、上流貴族に奉仕しているのだ、そう簡単に会えることはできなかった。
まだ駆け出しの彼がファントムハイヴ家と関係を持つことはまずあり得ない。
諦めかけていた彼に、ファントムハイヴ家のヴァイオリンの家庭教師に穴が開いたとの噂が流れた。
すぐに彼はそれに飛び付き、晴れてファントムハイヴ家の家庭教師となった。
「、君はとても美しい。この髪も瞳も肌も声も名前も、君のすべてがすべて美しい」
レトリックさの欠片も感じられない科白であった。
ベッドに場所を移し、デリックは一つ一つを隠している装飾品を丁寧に紐解いていく。
雪が敷き詰められた柔肌が顔を出すたびに、彼は興奮したように息を出し入れする。
その瞳はまるで何者かに取り憑かれたように、ギラギラと光っていた。
デリックは美しいものに対して欲求と破壊を同時に持っていた。
手に入れた瞬間に彼は早急にそれを取り壊しにかかるのだ。
彼は手に入れる過程と壊していく過程に、一種の悦びを感じているのであった。
ファントムハイヴ家の屋敷に出入りすることを許され、そして念願のが今この目の前に在る。
デリックは衝き動かされる。を自らの手で醜く、ぐちゃぐちゃにしてしまいたいと。
この世の女どもはの代替品にすらならない。デリックの頭は始終で埋め尽くされていた。
デリックはすっかりの身ぐるみをはがし、造形品のような流れる曲線を描く総身を見詰める。
ふと彼はの細い首筋に巻きついているチョーカーに目を付けた。彼女の美しさが少しでも薄れていることに彼は苛立ちを覚える。
「こんなチョーカーよりも、もっと君に似合うものを買ってあげよう」
ルビー、サファイア、それともダイヤモンドか。デリックが厳ついチョーカーに触れると、今まで何の起伏も生まれなかったの表情に変化が訪れる。
口角を上げ、目を細めた。デリックはやけに固く締められているチョーカーを、必死に解こうとしていてそれに気づかない。
どうにかこうにかチョーカーを外し終えると、デリックの視界は色を変え、気がつけば床に叩きつけられていた。
臓器が食道を通って全部吐き出されるような感覚に声も出なかった。眼球も無理矢理下を向かされているため闇を見ているだけだ。
神経細胞が断裂して身体中が軋み、鈍く鋭い奇妙な痛みが彼に襲いかかっていた。
「そんなものはいりません――私は…悪魔でメイドでございますから。」
人間の持つあらゆる間隙に滑り込むような脅威的な声が男を容赦なく嬲る。
部屋に女はおらず、猫のような容貌に、漆を塗りたくったような尨毛、鷲のような翼を背に持ち、肢端の前は鉤爪で後ろは蹄といった風采の獣がいた。
アーモンドにかたどられた金色が二つ並んで男を黙視する。その瞳の奥には悉皆光が届くことのない底知れぬ闇が住み着いていた。
それを人間は《悪魔》と呼ぶのだろう。禍々しい姿形に畏怖しながらも、時に縋り付いてくる。その醜さに魅入られる。
男は歯を鳴らし、目を見開いた。相変わらず視界は闇ばかりを映していたが、耳だけが正常に彼に真実を伝えていた。揺るがぬ死を。
黒い影が男に重なった。
【契約に第三者は介入できない】
*
デリックは人身売買、裏金、女性の殺害を繰り返していた。
そんな男がファントムハイヴ家の当主の家庭教師に名乗り出るとは、あまりにも恐いもの知らずな所業である。
本来ならばヤードに任せるところだが、当主であるシエルはせっかくだから素知らぬふりしてヤードに借りを作っておくのも悪くないとの意向を示した。
デリックが仕掛けてきたら、相応の制裁を与えるだけだ。
「まったく、魂ごと食べてしまうとは…昔から貴女は意地汚くて困りますね」
「封印を解いたのはあの人間よ」
それに、封印を解くことを許したのはセバスチャンだ。
本来についている首輪を無理にでも外そうとしようものならば、血を流すことは免れない。
デリックは八つ裂きにされてもおかしくはなかった。そうされなかったのは主であるセバスチャンが封印を緩めていたからだ。
「きちんと餌はあげているでしょう」
「悪魔が人間と同じもの食べてお腹いっぱいならないのはわかってるでしょ」
「《》黙りなさい」
待てもできない頭の悪い猫には、きちんと躾を施さなければならない。
は今更ながら気がついた。封印をわざと解かせたのは、自分に魂を喰わせるためであることに。
の空腹を満たしてあげるなどという親切心はまるでない。決してない。断じてない。
この恐ろしく合理的な悪魔は自分の奴隷に正当なお仕置きをするために、主の許可なく魂を喰った従者への折檻をするために、に魂を喰わせたのだ。
「愚かですね、あの男も、…貴女も」
「ふん、知ってるわよそんなこと!」
「最も愚かなのは、貴女があの時から何も変わっていないことですね」
――そんなお馬鹿な貴女を躾けるのは、嫌いじゃありませんよ。
何度も反復しなければ覚えられない学習能力の低い下僕を躾けるのは主の務め。
時間も腐るほどある。ゆっくりたっぷり時間をかけて調教をする。
これほど有意義な暇の潰し方はあるだろうか。
「そうそう、貴女は私のモノのくせに、あんなに他人に身体を許すのは頂けませんね」そこに表情はなかった。
が手に持っていた外された首輪を奪い取り、セバスチャンはまた同じようにの首に巻き付けた。
きつく、跡を残すように。血が滲んでしまえばいい。赤く染まればいい。悪魔は息などしないから、在るのは痛みだけだ。
「ぃ、っあ!、ぐ」
「もっと啼きなさい。醜く、美しく」
の首に張り付いている薄い肉は喰い込み、首に通ってる血管と管が引き千切られそうだ。
せめてもの抵抗をと、セバスチャンの手に爪を食い込ませると細くて赤い線が走る。
そこでやっとセバスチャンは手を緩めて、の首のサイズに合わせてチョーカーを巻き付けた。
「…ちょっと激しすぎよ、痛いったらありゃしない」
「激しいのはお好きでしょう?」
「…――ええ、とても。そう躾けられましたから」
その言葉にセバスチャンは笑みを深めた。
ファントムハイヴ家には有能な執事がいる。その執事には従順なメイドがいる。だが、そのどちらもあくまで服従者でしかないのだ。
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