接吻。をすると、とげとげちくちくした空気に豹変する。とろとろの甘やかな、真夏にほっぽいた飴玉の封をあけてでてきたもののような、すこしだけ固形が混ざっている空気。
それはとても流れやすく、また、誰かに気づかれやすいものだ。高杉の煙管からゆらゆらとでた煙のように、すぐ誰かにみつかって、すぐになにかと混ざり合い融合する。
畳のにおいはすぐに掻き消される。なにぶん、やけに物静かで引込思案で、反発よりも中和を望むのだ。障子の薄さよりも、土壁の厚さに気が滅入る。
自分のにおいが尊重される気分になった。だけど、其れはただ単に自分の弱さを見下されて、莫迦にでもしているのだろうという愚考には至るのだ。
酒のにおいは煩わしく、そして花の微弱なにおいでも自分の存在証明が消されるのだという、不安定さ。
絹のような優しさは、絶望が。されど、ごわごわしたものは拒む。所謂坊ちゃん性分のようなもので、簡素な言葉で我儘という。
蝶でもなったかのように、かろやかにゆるやかに、そうなるこころは持ち合わせていない堅物となりつつ、遊女にほのめかされる。
「趣味の悪い。」
ただ其れだけを包み隠さず言う。言葉を透明な何かで守ったみたいだ。糠に釘(ここではまるで無意味、という意)。
透けて見えるのだから真実も嘘もひとつとなり、其れはやはり人間だからなのだろうか、真実という真実は未だにわからぬ。
嘘ばかりの世だからこそ、安心はできぬが、人の子か、やはり親密な中では到底はかりしれない真実を前にしてでもぼやけるのだろう。
例えるならば、紙に書いた真実の如くは水に弱ひ。のみこむ酸素は真実を与えないかわりに、生というものを捧ぐ。
「、男のにおいがするぜェ?」
「あらいやだ、嚇しですこと?」
ふふ、高杉様もお人が悪い、とまたのびた語調で口元の赤いくちびるが疼く。目を細めて、自分を美しくする道化。
なんと愚かしいと思いつつも、絶対に口外はせずただひっそりとこっそりと陰鬱に物事を考えることが日常茶飯となり、やはり其れは耐え難いことなのだ。
自分はなんとしても、世界を正さなければならぬ秩序だというのに。
ほどよいのではなく、口汚く、嘔吐を誘うほど胸糞悪い。度が過ぎた莫迦な女の名はと言って、それは其れは見事に自分の陰を隠す人間だった。
気分が悪くなる上に、この色香にはほとほとあきれが生じるものだ。女は常に自我が強く、自分の存在の彩を強く魅せようとする。穢れは一切応じず、自分の利益に飛びつきやすく浅はかで物事を軽くとらえ許される砂糖菓子のようなものだ。
だからと言って、知能は低く、また低脳なものなどではない。自分をよく知る、大人、でもあるのだ。謀ることに至っては、天下をとれるのである。
女は人面もよければ、性行為もまた、昇天であることが、女の悪行を果たすことの悪いところであった。憎めぬかわゆいやつ。愛でて愛でてまた愛でたくなる。
どうしても、男というものは自分の前に立つことを許せず、だからと言って隣にいても満足するとすればそれは賃金で人生が揺らぐ男娼のようだ。
常に自分の後ろにいる女こそ本来望むべき構図であり、それは理想というものだ。
(桃源郷、とも言うのだろうが、それではあまりにも夢見がちで定まらず、現実との区別がついておらぬ夢遊病者のよう。)
所謂、男女の在り方、というもので、性行為と同じである。自分の性というものを理解する前の幼子だろうが、それは本能というべきものでことが進むのである。
「俺がいねェ間に何人の男をたぶらかしたんだかなァ、ちゃんよォ」
咎める様に、けれど憤怒は含ませずただ悪びれもなく筒抜けに高杉は言う。思わしくない、芳しくない言葉だ。実に不愉快だ。
は目を伏せる。睫毛が頬にちいさい影を作る。そのうしろにはおおきい影が潜む。
おしろいが落ちない程度の汗をかいたあとが残る。じわり、と染み込むように、高杉は頬を猫撫でする。
拒絶するのではなく、ただすべてを受け入れたわけではなく、は高杉の手をそっと健気に弱弱しく握る。
綺麗に整えられた顔も髪も爪も着物も、すべてこの男には無意味なのだ。嘲笑うのがどうにもこうにも好きな性分で、まるで亀が兎を嗤うようだと思った。
口元とのどの奥を緩めて、クツクツといやらしく。
「あたしにはあなただけしかいないのよ、なんて、恰好の良い捨て台詞でも吐いてみようかしら?」
「っは!喰えねェ女だ、愛も変わらず」
「褒め言葉として受け取っておくわ。」
焼酎が切れるころに、は高杉に迫った。接吻までには至らない曖昧な距離と呼吸と瞬きと酸素の間で、声を転がす。
ちりん、と鈴が響くような高らかで高貴な会話はまだ続く。夜はふけることもなく、惜しみなく朝を忘却させる。
夜が月に勝てぬように、朝は夜には勝てない。すべては時が勝る。ひたひたの劣等感に溺れながらも、意識の端にはまだ劣情が残ってる。
「・・・なァ、俺が死んだらどうする?」
「上等なお方は死すらも恐れ戦くのではありませぬか?」
「とんだ戯言だなァ、どこまで俺を落胆させる気だ?」
脱力、する。斬っても斬っても、際限なく血は流れ、人は死に、そして無力と化す。
侮蔑するように見下げた。はすこしだけ、微弱な変貌を遂げる。乾いた感情に、水を一滴たらすかのような、さしてかわらぬごじっぽひゃっぽの様な。
目を見開いて、高杉を凝視する。喀血した血を凝視したのか高杉自身を凝視したのかわからぬままはざわつく。
汗はやはり、おしろいを剥がない。真赤なつくりもののような唇は動かない。しかしよくみれば白い歯がちらりと覗いていた、は震えている。
目に見えてわかる。触れた先から振動が伝わり、だが高杉は知らぬフリをする。其れが彼なりのわからぬ優しさなのであろう。
取り繕うことは、修復、と同じ意味で、だからこそ困難極まりないのである。あかい舌は目立たぬまま、口が少しだけ開いていた。
暗がりに暗がり。体内の暗がりまで見えるほど、人間の目はそうそううまく、実に機能的になんてできておらず、ただ、目の前の色を在りのままに形容するだけであった。
呼吸など、生まれたときからしていたものだが、其れが今となってはできぬ、赤子よりも下等な人間であった。言葉を紡ぐことすら危うく、声にならなかった。
「生涯に何度も見てきた血だぜェ?俺がこわいか、?」
「あなたは命を命とも思わず一生を終えるのですね。」
「其れが侍ってもんじゃねェか?」
「痛みを知らぬあなたがここまで生きてこれたのがとても不思議でなりません。」
「そのぶん人を斬る痛みを覚えて生きてきたんじゃねェかよ。」
「随分綺麗なお小言を言って誤魔化されるんですね。」
「、眠らせろ。今だけは客でいてやっからよォ。」
そう言って、自分の負った傷口の深さも色も痛みもなにも知らぬ坊ちゃんのような意識で闇に落ちた。
メロウ(そしてそれはさながら蝶の様に、飛び去っていくのだ、命とともに)
BACK / TOP