蜜雨

『初恋はいつですか?』


身近な疑問を街行く人に答えてもらうコーナーが朝のニュースで流れていた。それまで昨日の仕事やお笑いの話で盛り上がっていた兄貴や義姉、両親までもが【ハツコイ】というワードに喰い付いた。各々が訊いてもいない恋愛遍歴を語り出したので、俺は素知らぬふりして甥っ子の口の周りの離乳食を拭いた。自分がこんな性格なのはこの家族のせいなのかもしれない。自分が騒ぐ必要がないほどに騒がしいのだ。瞬く間に流れる会話を傍観する癖がいつのまにかついていた。

家族はそんな俺を許すまいと、「光の初恋はちゃんやろ?」無理くり俺に話題を吹っかけてくるのだ。

先刻まで我先にと喋っていた家族が、俺に矛先を向けた。甥っ子までもがわけもわからずつられて俺を見ていた。兄貴の言葉に答えずにご飯に目玉焼きのを乗せ、黄身を潰してその上から醤油をかけて掻っ込んだ。兄貴はなおもにやにやとやらしい笑みを浮かべて続けた。

「でも、初恋は実らんてほんまやな。ちゃん、テニス部のかっこえぇ部長さんにとられたんやろ?」

兄貴が連呼する【ちゃん】とは、近所に住む一個上の女のことだった。
俺が幼稚園の年長の時に関東から引っ越してきてからだから、付き合いはそれなりに長い。認めたくはないが、兄貴の言う通り初恋はだった。だが、その初恋が今でも続いていることは俺しか知らない。
兄貴がこうも囃し立てるのは俺の初恋を過去のものだと思っているからと、がもう【テニス部のかっこえぇ部長さん】のものだからだ。

俺は最後まで兄貴の言葉に返事をせずに、席を立って学校へ行く準備をしに部屋へと戻った。



「光、おはよっ」

耳に突っ込んでいたイヤホンを片方取っ払われたと思ったら、が勝手に耳に入れていた。いつものことだ。
は朝練がある日は一人で、ない日は部長と登校していた。だからいつもより早く起きる朝練はだるいが、と並んで歩けることに少なからず喜ぶ自分がいた。もちろんそんなこと言葉にも顔にも出さないが。

「お、この曲めっちゃ好きー」

一人っ子であるはよく俺ら兄弟と遊んでいたため、趣味が似通っていた。CDもよく貸しているから、音楽の趣味は俺ら兄弟の影響が大きい。機嫌良さそうに歌詞を口ずさむに見えないようにイヤホンを外し、音量を最大限まで引き上げた。

「ふわあぁぁあ!!」
「やかましいわ」
「やっ、かましくしたのはお前だろうが!」

イヤホンを慌てて外して心臓あたりを押さえながら顔を赤くして声を荒げた。よっぽどびっくりしたのだろうか、心なし息も乱れている。

「いつもいつも心臓に悪い悪戯ばっかりして…あーもう、軽くショック死したわ」
「ショック死に軽いも重いもないやろ」
「そうやって人の揚げ足ばっかり取ってるから傍若無人だの無愛想だの生意気だの言われるんだよ」

音の大きさをうかがいながらイヤホンを入れ直す。

「なんでこんなのがモテるんだかねえ…」
「そらと顔の造りが違うからやろ」
「うっざ!イケメンうっざ!」

笑いながらやっかみと褒め言葉を混在させた冗談を零した。
は俺のことも、そして部長のことも決して他の女子のように騒ぎ立てることも媚を売るようなことも、甘ったるい声でべたべた触ってくることもなかった。ただ正直に思ったことをそのまま舌にのせて言葉にするタイプの人間だった。
俺のように波風を立てるような発言はさすがにしないが、かわいいと思ったら素直にかわいいと言うし、かっこいいと思ったらかっこいいと恥ずかしげもなく言うのだ。部長はそんなの竹を割ったような性格に惹かれたらしい。実質俺もそんなと一緒にいるのが楽だった。

「そーいえばさー、朝のニュースで初恋はいつですかー?ってやってたんだけど…」

ああ、さっきのあれか。
俺の家もの家もいつも同じ朝のニュース番組を食卓で流していた。

「そしたらお母さんがの初恋は財前さん家の弟くんの方――」(………え。)「じゃなくてお兄ちゃんだったわよねえって言い出してさあ…もういつの話だっての!」

最悪。今ので朝練に行く気が完全になくなった。
変なとこで切って思わせぶりなこと言って、もしかしては俺の気持ちに気づいたうえで会話をしているのだろうか。だとしたらとんだ悪魔だ。思考が明後日の方向に急降下したせいでありもしない考えに至ってしまう。
俺のテンションがだだ下がりしたことを知らないのん気なに、もう一度爆音を聞かせて少し気分を晴らすことにした。






日常はくだらないことがたくさん積み重なってできている。その中に恋愛という事柄を挟み込むだけで、きっと女は綺麗になるのだろうけど、男は駄目だ。ひたすらに情けなく、器用に振舞えなくなる。

「ぶっきらぼうな字」

今日は日直だった。放課後には残って日誌を書いて職員室まで持って行かなくてはならない。部活に遅れると謙也さんがうるさいからいつももう一人の日直に任せるのだが、今日に限ってそいつが風邪で休みやがった。だから渋々教室に残って日誌に今日の出来事を適当に書いていたら、同じく日直だったらしいが通りかかった。どうせならば一緒に遅れて部活に行こうということになって、は俺の前に座って日誌を眺めていた。

「昔から、字だけはそんなに上手くないよね」

が《昔から》という言葉を使うとひどく安心する。部長に対して使わない言葉だからだ。俺は《昔から》を知っているし、も《昔から》俺を知っている。
こんなんだから俺はいまだにを諦めきれないのだろう。

「謙也なんかもへったくそでさ、蔵は女子みたいな字だからこの間ノート提出したら女子と間違えられてたんだよ」

蔵は、蔵が、蔵を、蔵に、蔵と。

の口から部長の名前が出てくるたびに小さな傷ができる。やがて傷が熱を持ち痛みが化膿していく。






サッカリンの甘さ






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