大学から帰ってきてテレビをつけると、ニュースでドラフト会議の様子がダイジェスト版で放映されていた。結果はネットニュースの速報でわかっていたが、つい見てしまった。あ、寿くん。
吾郎は本場の野球を求めて渡米し、寿くんもドラフト会議の超話題選手。大きくなったものだ。二人とも、ちっちゃい頃は私よりも背が低かったのに、いつのまにあんなに大きな背中で日本を背負うようになったのだろう。二人がどこまでも上へ上へと成長していく一方で、吾郎の姉である私はしがない大学生。情けない姉だというのに吾郎は憎まれ口を叩きながらも、ずっと私のことを気にかけてくれていた。この世に残された、唯一の肉親。
大学に進学すると同時に家を出ることになった私を、誰よりも渋い顔して見送った吾郎の顔は忘れない。よくブラコンと言われるが、あっちも大概シスコンだ。相思相愛ってやつ。
寿くんのインタビューを見つつ、今日の夜ご飯はどうしようかと思案していると、インターホンが鳴った。来訪の予定も宅配が来る予定もない。一体誰だろう。
「はーい」
サンダルを履いて、ドアを開けた。
「相変わらず無防備だね、ちゃんは」
としくん。
「なっなんでここに?!」
「とりあえず中入れて」
さっきまでテレビの中にいた有名人が突然目の前に現れれば、たとえ弟の親友であろうが慌てる。そんな私をよそに、寿くんは静かに部屋に入り、ご丁寧に鍵とチェーンを掛けた。何回か部屋に来ているから、淀みなく足を進め、座布団を引っ張り出してテレビが見える位置へと座った。呑気に「あ、僕だ」とテレビ画面を見て呟くまでの一連の動作を終えるまで、私は一歩も動けずにいた。
「ちゃん、お茶淹れて」
寿くんはくるりと振り返って玄関先で固まっていた私に一声掛けて、またテレビへと視線を移した。物腰が柔らかいだの、育ちが良いだの言われているが、実は私と吾郎に対してだけ少し雑な扱いをするきらいがある寿くんは、我が物顔で私の部屋に居座った上、お茶を要求してきた。しかしいつものことなので、調子を取り戻した私はやっと体を動かしたのだった。
「で?突然うちに来てどうしたの?」
冷たい麦茶を寿くんの前に置いて、向かい合うように座り口を開いた。
「それよりもちゃん。僕この間来た時に言ったよね?ちゃんと相手確認してから開けること、鍵とチェーンは必ず掛けることって。全部守られてないんだけど?」
「えっ?!(忘れてた!!)えーっと、あ!寿くん、一位指名おめでとう!!お祝い何がいい?」
「…(忘れてたな)ありがとう。そうだなあ…お祝いは、これで良いよ」
絶対に忘れていたことを勘付かれているだろうけど、今日はそれが本題で来たわけじゃない寿くんは、案外とすんなり私の逸らした話題に食いついてくれた。そして初めからその流れを読み取っていたかのように、滑らかな手つきで寿くんが持ってきた茶封筒から紙切れをペラリと出した。うん?なんでお祝いなのに寿くんが私にくれるのだろう。ほのかな疑問を抱きつつ、その紙を見つめた。
「こっ!?、んいん、とどけ?!」
婚姻届。小さい子でも知っているだろう。言わずと知れた、日本において法的な結婚をしようとする者が提出する書類だ。いや、うん、それは理解している。綺麗な文字ではっきりと夫になる人佐藤寿也、妻になる人茂野と記入済みなのはこの際置いておく。
「寿くん、何かなこれは?」
「うん。本当は僕の18歳の誕生日の時に提出しようと思ったんだけど、まだ進路も明確に決まってなかったし、も不安かなって思って…」
「あれ?もしかして私の話聞いてないのかなあ?」
「でも、今日やっと進路も決まって方向性定まってきたから、今のうちに籍だけでも入れちゃおうかなって。とりあえず僕も初めは寮生活して結果出して、が卒業したら一緒に住んで…その方がも今の大学生活に支障出ないし、僕も目の前の野球に専念して生活リズムも作っておけるから、お互いの為にも一年くらいは「ちょ、ちょっと寿也さん?!いつ私が結婚するって?!てか私たち付き合ってもないよね?!」
「ん?ちゃん、僕のプロポーズ受けたでしょ?」
「そんなの記憶にございません!こんな悪ふざけ今すぐやめて!今なら冗談だって笑ってあげるから!!」
年甲斐もなく声を荒げる私に寿くんははあと大きなため息を吐いて(ため息を吐きたいのはこちらの方だ)、パンツのポケットから携帯を取り出し、何回か操作をすると、スピーカーから音声が流れてきた。いきなりどうしたのだろうと首を傾げたが、寿くんが意味もないことをするわけがないので、黙って耳を傾けた。
『ちゃん、二十歳おめでとう』
『んん~?どしたの、改まって』
甘く優しく響く声は寿くんで、ふわふわと、上擦った声は、私?
二十歳おめでとうということは、寿くんが個別に成人のお祝いをしようって誘ってくれた時のものだろうか。寮住まいで、野球で忙しいはずなのに、特別に外泊届を出して、わざわざ私のお祝いをしにきてくれた。それが申し訳ないと思う一方、嬉しくて、はしゃいでしまった記憶は鮮明に残っている。しかし、こんな会話したっけ?
『ちゃんの二十歳のお祝いが出来て嬉しいんだ』
『なになに?うちの吾郎よりも弟らしいこと言ってくれちゃって、おねーさん嬉しいなあ』
間延びした、舌ったらずな声と、かん、と小気味よい音が広がる。その後すぐに空気を切り裂く音が聞こえた。あ、これ缶チューハイ飲みきってすぐ次の缶飲み出してるわ。私、もしかしてあの時相当酔っ払ってたんじゃ…?
『ずっと僕らのことを見守ってくれて、支えてくれて、ありがとう。吾郎くんに野球の楽しさを教えてもらって、ちゃんには家族の暖かさを教えてもらった。初めて食べたちゃんの焼きそばの味、今でも覚えてる』
『えー?肉ちょっとしか入ってない!って吾郎によく怒られてたやつ?もやしだらけの貧乏焼きそばが思い出の味かあ…近い将来プロ野球選手になる寿くんにあんなの出してたなんて恥ずかしいわあ…』
『そんなことないよ。あの時から、僕の中での存在はかけがえのないもので、ずっと、生涯をかけて守っていきたい大事な女性なんだ』
『あはは!なあに?寿くん酔ってるのー?』
『好きなんだ、が』
『私も寿くんだーいすきよ』
だんだんと語尾が重たくなっていく。眠そうな声。しかし携帯から漏れ出す真実に、現実の私の目は冴え渡って背中の冷や汗と手汗が止まらない。私酔っ払ってこんなことほざいていたの?えっふざけてるの私の方じゃない?
『僕はの全てが欲しいんだ』
『えー?全部は困っちゃうなあ…せめて吾郎とおとーさんと、おかーさん、それと真吾とちはるの分取っとかないと…』
『いいよ、の全部受け止めるから』
『わあ寿くん、かっこいー!』
『、結婚しよう』
『う、ん………』
ぷつり。そこで音声は切れた。
「ね?」
何もかもを含んでいるであろう寿くんの、ね?に私はどう立ち向かおうかと思考を巡らせていた。
「いやいやいやいや、ただの酔っ払いをからかっちゃダメじゃない、寿くん」
「僕はいつでも真剣だよ。からかってはぐらかすのはの方だろ」
ほんの少し、声に怒りが混じっていたのはきっと気のせいでは無い。
「だ…って、寿くんは弟みたいなもので…」
「それはが勝手に思ってただけ。僕は幼い頃からひとりの異性としてが好きだった」
「きっとプロになっても活躍して、新人王とか獲って、メジャー行ったり吾郎なんかとタッグ組んでチームの優勝に貢献したり…」
「それはいずれ必ず成し遂げるように努力する」
「綺麗な女子アナと結婚して、有名人とか呼んで、盛大な結婚式の隅の方に私も呼んでくれたら嬉しいなって…」
「結婚式もするし、も呼ぶ。もちろん新婦として」
「私は友達に自慢するんだ。テレビに映る吾郎は弟で寿くんも家族みたいな付き合いしてて、二人は生涯のライバルで、昔はよく私が世話してたのよって」
「君は本当に僕と家族になるんだ。友達に旦那をいかに愛してるか一から百まで惚気ていいよ」
「あの、寿くん…私の話聞いてる?」
「うん、それで?僕の何が不満なの?」
逆ギレし始めたー!!!
あからさまに拗ね始めた寿くんほど面倒くさい生き物を見たことがなかった。拗ねてるくせして、その態度のでかさはどうかと思う。こんな拗ねている寿くんを見る場面なんて、吾郎の時の方が応援の声が大きいと言われた時と、バレンタインの時吾郎よりも小さいチョコをあげた時と、誕生日を忘れていた時と、海堂の子たちとアドレス交換してた時(ちなみに全部消された)と、男友達と一緒にファミレスで勉強してるのを見つかった時と、あと…あれ?結構拗ね寿くん見てる?うんまあとりあえず、こんな子供っぽく意地けている寿くんはそう見ない。はず、なのに。
「不満って…だって寿くん私のこと好きって嘘だよね?!それで結婚とか!!」
「…僕割と分かりやすいと思ったんだけど…ここまで気づいてないとは…」
本当に可哀想なものを見る目で見られた。おおよそ、好きとか愛してるとか囁く女性に対して向ける眼差しでは決してない。そんなだから疑いしかないんだけど。
「僕がこんな事で嘘を吐くと思われてるなんて心外だな」
「だっだって、そんな素振り見せなかったじゃない」
「僕はわざわざ好きでもない人間に連絡もしないし、お祝いもしない。こうやって押しかけたり、執着もしない。アドレス交換だって、男と出かけてたって、どうでもいい。だから、が好きだから、鈍感で真剣に取り合ってくれないにイラつくんだ。いつだって吾郎くんを優先するの一番になりたいって思ってしまうんだ」
テーブルの上の行き場のない私の手が寿くんの大きな手に包まれた。私の頼りない小さな手をすっぽりと覆い隠す掌の皮は思ったよりも分厚くて、硬い。ピクリと動くと、私が逃げようとしてると思ったのか、更にぎゅっと力を込めて握ってきた。熱い。
「とし、や…」
「そんなだから、外堀から埋めようと思って」
「へ?」
にっこりと笑う寿くんはぱっと私の手を離すと、もう一度携帯を操作して、今度は動画なのか私に見えるように画面を突き出してきた。そこには吾郎以外の茂野家が集まって、ソファに仲良く座っていた。最近忙しくてなかなか帰れていない実家は、懐かしいなんて思い出を振り返る暇もなくお父さんが喋り始めた。
「おう!、元気か?俺がお前の父親になってからもう何年だ?そんなお前がもう嫁に行くなんてな…でもまあ、こんなにのこと理解して大切にしてくれる男、寿也くんしかいないもんな…幸せになれよ」
「、プロ野球選手の妻は思ったよりも色んなことがあるけど、きっとあなたは大丈夫…だって母さんの娘だもの。でももし、何かあったら、いつでも帰ってきていいのよ。それで、いつもの元気なになって寿也くんのこと支えてあげてね」
「おねーちゃん!けっこん、おめでとう!!」
「おでめとお!!!」
お父さん…お母さん…真吾、ちはる…
「って!なんで私差し置いて家まで行ってるのよ!!しかも既に嫁に行くムードだし!!!」
「うん、のお義父さんとお義母さんは僕が相手ならって喜んでくれたよ。ちなみに僕のおじいちゃんとおばあちゃんも。喜び勇んで婚姻届の証人にも名乗りを上げてくれて…」
寿くんの言葉に(さりげなく私の両親をお義父さんお義母さんと呼んでいるのはスルーしよう)、今まで薄目でしか見ていなかった婚姻届に今度こそしっかりと目を通すと、証人の欄にお父さんの字で名前が書かれていた。しかも、現実を突きつけるかのように実印が押されている。隣にはきっと寿くんのおじいちゃんの字だろう、達筆な文字が並んでいた。こちらも実印らしい、複雑な判子が押されていた。
「なんなの?!当事者である私の蚊帳の外感!!」
「ちなみにずっと前から僕はおじいちゃんおばあちゃんはもちろん、君の両親にも将来と結婚するって宣言してたから」
ガッデム!!!!
じわじわと積み上がっていく外堀というやつに追い詰められている私は、さながらサスペンスでよくある崖っぷちに立たされたヒロイン。そこで、ヒロインが取った行動は…携帯を取り出し、どこかへ電話をかけた。なかなか繋がらない。今あちらは朝早いから仕方ないが、猛烈にピンチな姉の想い、届け!!
『…あんだよ、姉貴…こんな朝っぱらから』
「吾郎、助けて!!あんたの親友が、用意周到に結婚を迫ってくるんだけど?!!」
『はあ?何を今更…』
「今更って何?!今更って!!!」
『だって寿也のやつ、はなからにゾッコンだったじゃねーか。俺はてっきり寿が18になった瞬間に無理矢理にでも姉貴と結婚すんのかと思ったぜ』
「う、そ…」
呆れた声色の弟の言葉に打ちひしがれた私は、落としそうになる携帯を寿くんにキャッチされ、そのまま寿くんは何食わぬ顔で吾郎と話し出した。
「無理矢理だなんて失礼だな。まあ、どんな手を使ってでもを丸め込んで誕生日の時に提出しようと思ったんだけどね。でも、まずは男としてケジメをつけてからと思って」
『お、寿!ドラフト一位指名だってな?』
「まあね」
『そんな将来有望な佐藤選手はうちの鈍くせえ姉貴で本当にいいのか?』
「ああ、がいいんだ」
『へーへーお熱いこって。んじゃま、姉貴をよろしくな、旦那様』
「言われなくても。お義兄様?」
『うわっやめろよ!気持ちわりい!!』
最後にふたりして軽口を叩いて通話を切ると、テーブルに私の携帯を置いた。え、なにこれ。誰も私の話聞いてくれないんだけど。
「」
「はっはい?!」
寿くんの笑顔が怖くて思わず敬語になる。
「僕もが納得して書いて欲しいんだ。だから、署名欄だけ空けておいたから」
ほら、と指差した先は言葉の通り、空欄になっている。いつの間にか寿くんの手にはボールペンと、そして茂野の判子と朱肉が握られていた。
ラブソングの終止符は鳴らない(もう、逃げられない。)
BACK / TOP