蜜雨

クーラーのきいた綱吉の書斎に足を踏み入れると、軽い空気が体内に入る。 先程までの重苦しい空気とは比べものにならないほどで、からだからおもりを差し引いたみたいだ。 血と骨と皮でできているように軽いわけではないが、気持ち程度足は速く進んだ。 分厚い本を抱えながら、めがねをかけて文字を追う姿に苦笑する。数年前までは教科書すらまともに読まなかったのになあ。 綱吉はゆっくり顔を上げて少しだけあたしの姿を見遣りる。そして何処も外傷が無いことを確認してから、まっすぐにあたしの瞳を綱吉の瞳は突き刺す。

「おかえり。支障はないみたいだったね、ドイツは。」
「うん。あっちの人もあたしが来てくれたおかげで助かったって言ってたわ。」
「君を必要とする人達は数え切れないほどいるからね。」
「でも、それがあたしの存在理由だから全然苦じゃないよ」
「よかった。あ、報告書は近日中に出してくれれば構わないから。」
「誰に出せばいいの?」
「リボーンだよ。」
「そっか。久しぶりに会うなあ、リボーンに」
「オレもに一ヶ月ぶりに会うよ。」
「昨日電話で話したじゃない」
「オレは依存症患者だからね」
「それじゃあ、あたしが診てあげましょうか、綱吉くん?」
「是非お願いしますよ、先生?」
「え・・・?」

視界にある世界が揺れ動き、真っ暗になった。ばさりと本が音をたてて落ちる。このキスを邪魔するでもなく、ただ自然の摂理にまかせて。 あたたかい温もりと、ほっそりとしたからだであたしを抱きしめていた。 ごつごつとした男性特有の手のひらであたしの腕をつかんで抱き寄せた、ってわかったときには完全にあたしは封鎖された状態だった。 こわばるからだと血のめぐる速さと心臓の音は比率していて、落ち着かない。痺れとともにくる真白な意識。 気がつけば目をつむっていて、酸素とつなよしを求めていた。

「んん・・・ふ・・っ!」


油と熱気の間の生き地獄に唇を求められたみたい。 それよりももっとロマンチックで、もっと複雑で、人間の構造を説明するよりもずっと頭を使った。 思考の渦は際限なく深まるばかり。そのうち思考停止のシグナルがあたしの中で発生した。くたりと唇と心臓が疲れて、けれども廃れたりはしなかった。 さらりとあたしの目に掛かる綱吉の前髪に現実を感じて、ゆめうつつな甘さがちっちゃくなって消えていった。 ぎゅっと裾をつかむ力を入れて自分の限界を知らせる。自分でもよくこんな力を入れることができたもんだ。ほとんどの気力をキスで吸い尽くされるようだったから。

「っはぁ・・つなよし、っ、の、ハナ・・タレ・・・っ!」
「人間の欲求ってこわいね」

くすくすと目を細めて綺麗なラインができた。すこしだけ、ほんのちょっと、綱吉の瞳がかくれると安心する自分がいる。 多分綱吉の目は冷えきっていて、夏の暑さの中ではとびぬけて目立っていたからなのかもしれない。 冷たさを求めるあたしはすこし、わがまま。人間の冷たさにはなれていない。きっと死ぬまで人間のつめたさを嫌うのをあたしは確信する。 そりゃ確かに人間が冷たくなったら、自分の血の気も失せる気持ちにもならなくはない。だが、そうではないのだ。 人間の冷たさ、それははなしの流れからすると死をあらわすのだが、違う。 違わなくはないのかも、しれないけど、だからこそあたしはこわがるのかもしれない。 綱吉の瞳に死を見出すというのが気に喰わないのだ。 それが根拠もヘチマもなく、紛れもない真実であったとしても証明できないというもどかしい感情。

「キミがこわいよ、あたしは。」
「オレもがこわいよ」

どうしても、人の恐怖はそそりたつものだから。それが得体のしれない自分のからだのどこかから沸き起こるものだとしても。 キスと吐息の狭間が熱いのは愛がぶつかりあって生じたものだからと言う。あたしと綱吉の間には今なにが起こって生まれるのだろうか。 最近は銃しか握っていないだろうそのてのひらに、あたしは縋った。両手で綱吉の片手を包み込むようにして、久しぶりのまともな体温に感動を覚える。 いつも、この体温が失われる間近にあたしは直面するのだ。ゆっくりゆっくりなだらかな坂のように体温は失われているのに、時間は吹雪の如くはやく過ぎ去って消えてその人の時間まで奪っていくのだ。

「ほんと、どうしようもないね、人間は。」
「どうしたのきゅうに」
「ううん。リボーンとこ行ってくる。」

綱吉は黒いレザー仕様の椅子に座っていて、椅子にはスーツがかかっていた。 ほんと、綱吉は変わった。なにが、って言われると口を噤むけど、それでも変わった。 スーツ、髪の長さ、強さ、とか、それは明らかな変化。人を殺すのにももう戸惑いは生まれない。 ああ、だからあたしはあんなにもこわがったのだ、自分の知らない綱吉をみて。 あの日から随分時間が流れた。ここの仕事とかイタリアの生活にも慣れた。 瞼の裏には並盛の情景すら浮かび上がってくるのに、それでもあれから数年も経っていた。

「ねえリボーン、綱吉は変わったよね。」
「誰しも変わるだろ、月日が流れるにつれてな。」
「うん・・そうだね。綱吉は成長した、よね。」
「アイツは殺しを覚えちまったからな。」

心臓が口からとび出る、とはこのような状況をいうのだろうか。ああ、現実逃避はするもんじゃないなあ。 からん、とアイスコーヒーの氷が揺れた。こんなふうに、綱吉の世界が透けて見えれば、すこしはあたしの世界も変わるのだろうか。 のどに含めたアイスコーヒーは、薄かった。

「それでもやっぱり、あたしは綱吉がすき。」
「惚気かよ。」
「ごめんね、リボーン。それじゃ、明日までに報告書は仕上げちゃうから」

がたりといきなり音をたてて、テーブルからすぐさま離れると、ドアに一直線に巨歩した。 ばたんと部屋に響いて、また静寂が訪れる。規則正しい時計の針が動く音とため息が交じり合う。 頬杖ついたリボーンはあきれてものも言えないようだ。テーブルに置いてあった銃器を手にとってまじまじと見つめた。 自分にとっては全然珍しくもなんともないただの拳銃を見て、それからやがてフッと悟り笑う。

「報告書は明後日になりそうだな。」






ごめんね、僕はキミだけに生きれない






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