※小鳥遊事務所所属前。幼馴染

 部屋の荷物は大方昨日来た業者に引き渡してしまっていた。がらんとした部屋をぐるりと見渡して、そのどこを見ても誰かとの記憶に結び付けることができることに、後ろ髪を引かれるような思いでドアを閉める。
 両親ともそれぞれ別の場所へ長期出張中の家は、朝六時という時間も相まって、どこもかしこも耳が痛くなるほどにしんと静まり返っている。今日、この日に家がからっぽになることを両親とも心配していたが、別にいつもと変わらない。私がこの家を出た後は、来月両親が帰ってくるまで、隣町の祖母がときどき家の様子を見に来てくれることになっていた。
 玄関にしっかりと鍵をかけて、門扉も静かにきっちりと閉めて道に出たとき、行く先に見えた人影に、歩き出そうとした足はぴたりと止まってしまった。
 私の家から三軒向こうにある小さな洋菓子屋さん。小さな頃から大好きなその店の前に、さっきまで部屋で思い描いていた人が立っていた。ようやく明るくなり始めた、まだ薄青い空気の中にたたずむ温かなオレンジ色に、不覚にも涙がにじみそうになる。

「なんでもうそんな顔してるんだよ」

 少し離れた位置の三月の、わずかに笑う息遣いさえ聞こえるようなしんとした朝の道に、そっと響かないように足音を忍ばせて近寄る。眉間にぎゅっと力をこめていると、三月はそれをおかしそうにくしゃりと笑った。

「だって……一昨日荷造り手伝ってくれたときが、最後だと思ってたし」
「そんなこと言ってないだろー」

 三月が朝に強いのは知っていたけれど、ようやく昼の気温が二十度に届くか届かないかといったこの時期はまだまだ早朝の空気は冷たい。そんな時間にこうして見送ってくれるだなんて、贅沢すぎて期待すらしていなかった。至極単純なもので、こうやって誰とも口をきかないまま辿るはずだった駅までの道のりに、三月が笑って話しかけてくれるだけで、体温が一度上がったかと思うほどに嬉しい。
 大阪への引っ越しが決まったのは、ようやく念願の大学に合格することができたためだった。一年浪人した私にとっては、この上ない朗報であったが、引っ越し先を決めて、引っ越しの業者や日取りを決めて、荷造りをして……と着々と現実に作業が進んでいくうちに、だんだんと「このまま、ずっと4月が来なければいいのに」という気持ちが澱のように胸に積もっていった。
 ずっと、息をとめるようにしてその澱と向き合わないようにしてきたのだ。こんなところで、不意打ちを食らったら、うっかり涙だってにじんでしまう。

「今日、おじさんもおばさんもやっぱいないって聞いてたしさ。駅までだろ?」
「うん」
「俺も、駅まで散歩。案外荷物少ないな、手伝うつもりだったんだけど」
「うん……ありがと」
「どういたしまして」

 ほとんどの荷物は昨日引っ越し業者にお任せしてしまったから、今の私は鞄ひとつだ。三月は手持ち無沙汰になった両手を上着のポケットに突っ込んで、隣を歩き始めた。

 日曜日の早朝は通り過ぎていく家々から微かに物音が聞こえたり、新聞配達のバイクの走る音が聞こえたりするけれど、私と三月の話す声が昼間以上に響いて聞こえる。
 何となく、私も三月も声をひそめるようにしてぽつりぽつりと話しながら歩いた。4月からの大学のこと、引っ越し先のアパートのこと、三月が先週受けたオーディションのこと、今度受ける予定のオーディションのこと、ダンスのこと、一織くんのこと。乗る予定の新幹線の時間が決まっていることはわかっていても、もっとゆっくり歩いていたかった。
 駅前の桜の木は五分咲きくらいになっていた。きっと来週末には満開になっているだろう。大阪の桜はどうだろう。もう見ごろを迎えているんだろうか。

「切符、予約してんの?」
「あ、うん。発券だけする」

 自動券売機に並んで予約した新幹線の切符を発券する間、三月はぼんやりと駅の掲示板にかかったポスターを眺めていた。来週文化ホールで行われるクラシックコンサートのポスター、火災報知機をつけましょうという防災ポスター、公園で来月行われるフリーマーケットのポスター、最近流行りのアイドルグループのコンサートのポスター。じっとポスターに視線を注いでいる三月の隣に立って、同じようにポスターを眺める。私が切符を握っていることに気づいた三月が、「時間は?」と言うので「あと十分」と答えた。
 道を歩いていたときはほとんど感じなかった人通りも、さすがに駅構内までくれば、始発の電車に乗る人たちが行きかっており、時間が動いているのを感じられた。もっと早く家を出ればよかった。でもそうすると三月と出くわさなかったかもしれない。

「じゃあ、これ」

 ポケットに突っ込まれたままだった三月の右手が、何かを掴んで目の前に差し出される。彼の指先に摘ままれて差し出されているのは、四つ折りにされたメモ用紙だった。

「これ……」

 受け取って開いてみると、三月の書く四角い文字がメモ用紙いっぱいに並んでいた。
 〈チョコチップクッキー レシピ〉と一番上に書いてある。材料、作り方が丁寧に並んでいるそれを眺めただけで、三月がクッキーを焼いてくれるときの、あのあったかくて甘い匂いがふんわりとよみがえる。まるでそこにあるように。

「レンジ、アパートにも置くだろ。簡単に作れるからさ」

 とん、と背中を押されたように涙が一粒、ころんと落ちた。メモを大事に戴く手に落っこちたそれに、ああ、もう、と腹立たしさにも似た感情が湧きたつ。
 なにか言いたかったけれど、なにも言えないでいる私の代わりのように、三月が「あー」と笑い交じりに手に落ちた涙を拭った。顔をあげた瞬間にまた涙がひとつ、ふたつ頬を濡らしていく。
 三月は笑っていた。朝の駅の白けた蛍光灯が照らす景色の中で、三月だけが優しいひだまりみたいな温かさを持っていた。柔らかい三月の上着の袖口が頬を濡らした涙を、ちょっと雑に拭う。ついでみたいに鼻をつままれて、む、と睨もうとしたけれど自分の吐く息が震えていたのでだめだった。

「大学、がんばれ。俺もがんばるからさ」
「うん……がんばってね」

 頑張って、早く有名になって、それで私がどんな場所にいたって三月の元気に笑う顔が見られるような、そんな未来に届いてほしい。
 今、駅の蛍光灯に照らされて泣きべそをかいている私も、掲示板のポスターを射抜くような目で見つめている三月も、全部全部通過点だ。いつか、褪せていくかもしれない過去のひとつ。でも、あんなこともあったなって、私も三月も穏やかに笑って霞んだ思い出をなぞれるような、そういういつかにきっと繋がっていると信じたい。

「ほら、それ、ちゃんとしまって」
「うん。行ってきます」

 鞄の内ポケットに貰ったメモは大事に大事にしまった。改札口に爪先を向ける。――一番線に列車がまいります。ありふれた構内アナウンスに、手の中の切符を確かめる。

「行ってらっしゃい」

 改札口を通る前、振り向いて見えた三月は、やっぱりひとかけらの曇りもなく笑っていた。



(20/04/26)
Clover×Clover / サンボンリボン
title :オーロラ片 / sozai :Unsplash