この国の夜は渇いている。深い谷と埃っぽい空気に沈み込むように暗やみが染む。風で砂塵が吹き上げられると時折けものの鳴き声のような音が響いた。浮かび上がるいくつもの明かりがぼんやりと尖った谷間に影を刻んでいる。砂のにおいを巻き込んだ風が頬を過ぎていく。ざらつく肌を手のひらで確かめながら、遊真は近付いてくる足音に振り返った。
「ユーマ」
「。よく来るな、毎日毎日」
横顔から走らせた視線が捉えたのはひとりの少女だった。ところどころ崩れて荒れた街には到底似つかわしくない、どこにでもいるような、殺気の欠片も持つことなど出来ないような、ごく普通の少女だ。この国の防衛団員のひとり娘だが、彼女からはまるで争いの気配がしない。
「だって、昼間はユーマ、忙しいでしょう」
「だからっておまえ、眠くないのか」
「ちっとも」
時刻は真夜中より幾分深い時間だった。は当然生身の身体だ。普通なら今頃は眠りについているはずの時刻なのだが、毎日決まって深夜、遊真をたずねてくる。
「お昼はずっと寝てるの」
「……よく寝れるな」
「うるさいのは慣れちゃった」
はじめのころは父親の了解は得ているのかとか安全面での問題がとか、レプリカが諭そうと試みていたのだが、まるで聞く耳を持たないので早々に諦めた。むしろ父親が夜番で不在であれば遊真のそばにいる方が安全とも言えた。
「ここに来たっておもしろいことなんかないだろ?」
「おもしろいっていうか」
はそこで唇を閉じて、遊真と同じように、切り立った崖に沿って作られた柵にもたれかかった。ひとりぶんの間を空けて。は隣に来るとき、いつも必ずその距離を守り、破ることはなかった。誰に命じられたわけでもないのに。まじないを織り重ねるように。
「ユーマを見てたいの」
「おれを?」
「そう」
神妙に頷くと、重大な隠しごとを打ち明ける、といった顔つきで、は遊真に向き直った。
「あのね。晴れてるときはね、ガラスみたいに髪の毛がきらきらするの。まぶたとかほっぺたは鳥の背中みたいに明るくて、くぼんでるところはベッドに潜ったときの色になるの。曇りの日は魚。雨の日は」
「雨の日は?」
「ナイフのお腹みたい」
そう告げて今日の遊真を確かめる目が、濁っているのか澄んでいるのか、遊真にはどうしても判断がつかなかった。近いような遠いような、しかし手を伸ばせばすぐに触れる距離で、視線は例外なく遊真を褒め称える。
「のたとえ話はよう分からん」
「ユーマはきれいだよってことだよ」
「毎日聞いてる」
「毎日思ってるんだもん。嫌ならやめるけど」
「いや」
が並べる言葉と音の強弱を、遊真は少なからず好ましく感じていた。寝物語に聞く調子に似ていると思った。そんなものを聞かされて育った記憶は少しもなかったが。
「今日はレプリカは?」
「ライモンドのところ」
「ふうん。レプリカの背中もね、好き」
「そうか」
大人たちが集まって軍事会議をひらくとき、決まってレプリカが駆り出された。今日はずいぶん長引いているらしかった。遊真も出席することもあったが、気が乗らないときはレプリカに任せていた。それで誰ひとり困らないだろう。求められているものが何であるか、遊真は正しく理解していた。
「戦争が終わらなかったらいいのにって、ほんのすこし、思ってしまうことがあるの」
ひとつも濁りのないはっきりとした声だった。平等ににも砂を吹き付けて、風は後ろへ遠ざかり、また静かになる。唐突にはじまる話題に慣れた遊真は、の横顔を目でなぞる。頭上では惑星が列なり、ふたりを影に抑えつけるように明か明かと浮かんでいる。
はその続きを口にすることはなかった。遊真も訊ねようとはせず、さっきが言った讃辞を思い返していた。の髪の一本一本が、陽を受けてさざめく波のようにきらきらと光っているのを見ていた。それを伝えてやろうかどうか迷ってやめた。
「ユーマは月と同じ色してる」
「色」
「明るいのと、影になってるところと」
「そうか?」
影、と口にしながら、まぶたや鼻すじを指で示す。食料としてしか魚を見たことのない、海を知らないこの娘が、いつか、同じようにこの髪と海を重ねることがあるだろうか。閉ざされた砦の内側で、眠るように息をしているこの小さな目玉が。
「月が出てるんだからおまえだって同じだろ」
瞬間、は知らない言語を聞かされた顔をすると、困惑を含ませて糸をほどくように笑った。何も言わなかった。月を映して影をつくりながら、の手のひらは、泳ぐように遊真の髪へ伸ばされた。
薄雲が紺色の空を覆い尽くし、ぼやけた夜が重く広がっている。遊真はひとり暗い夜をかき分けて進んでいる。細い道々は頼りない明かりでまだらに浮かび、知った順路も曖昧にさせた。知っていると言っても数回訪れたことがある程度だ。の暮らす部屋。いつだってたずねてくるのはの方だった。
戦争が終わりに近付くにつれが深夜に現れることは少なくなった。静かすぎて眠れないのだと言う。以前には羽毛のように騒音がをくるんでいたのに、平らな音がずっと広がっている真昼が、恐ろしくて眠れないのだと。そうして昼をずっと覚醒して過ごした彼女は、夜が来ると眠ってしまう。
正しい周期を手に入れて健やかに眠るの姿を、遊真は一度だけ窓から見たことがあった。もし起きているならチェスでも何でも、長い夜を減らす相手をさせようと思ったのだ。窓から見えるの輪郭は、幼いかたちからすこしずつ変わろうとしていた。あのときと同じように月の明かりを受けながら。遊真はしばらくそれを見ていた。そして黙ってきびすを返した。
しかし今日のは眠ってはいなかった。街路に面した窓から遊真の姿を見つけると、窓を開いて身を乗り出した。
「ユーマ」
床の高さが違うからか、の身長が伸びたぶんの差なのか、遊真が見下ろされるかたちになる。一歩距離をあけて遊真が立ち止まる。風は乾いていたが、たかが数年の間に澄んでいた。
「久しぶりだな」
「うん」
「眠くないのか」
「一日じゅう眠いの。ユーマのぶんかもしれない」
「なんだ、それ」
「でも何だか今日は、曇ってるのに、夜がまぶしくて」
ユーマが来るからだったんだね。眠たげに微笑んだの顔も身体も、指の輪郭も、細くやわらかく変わっていた。しかし両の目は変わらず真っ直ぐに遊真を確かめようとしていた。遊真はほんのわずかに視線の角度を深くする。夜が翳る。
「親父の故郷に行こうと思う」
唐突に話し始めるのはの癖のはずだった。ここまで抱えて来た言葉を手放すと、思っていたよりずっと素直に転がって、すとんとの元へ届いた。靴の底で小石が擦れる音が小さく響く。
「そう」
の表情は動かなかった。睫毛が空気を掻いただけだ。手をついていた窓の縁にもたれると、まばたきが重たく繰り返された。
「やだって言うと思った?」
「思わなかったって言ったら、まあ、ウソになる」
「よく分かってる」
「おまえのことだからな」
短く声を上げて笑うと、はじっとまぶたを閉じた。丸いまぶたを見て、遊真は、ああ、と思う。夜がまぶしいということ。目を細める。
それはおれのせいじゃない。おまえのせいだ。
「連れて行ってって言ったら」
気がつくとのまぶたはひらかれて、掬い上げるようにこちらを窺っていた。隠された月を背にして立ったまま、遊真は、に与えるまばゆさについて考える。大人になっていく少女。
「おまえとおれじゃ、流れてる時間が違うよ」
月を仰ぎながら遊真を見上げるは、確かにあのとき遊真の髪を撫でていた少女だった。海を知らないこのひとみに、海を映してやりたかった。暗い夜があまりにもまばゆい。少女が笑う。
「そうだね」
一拍。「でも」と続いた声色は決意を述べるためのそれだった。遊真を見上げたままのひとみがたちまち深くなり、まばたきが止み、幕が下りるように笑みが消える。
「それでもわたしの時間を全部ユーマにあげたかった」
雲が切れる。の目に白のような、銀のような光が宿って、すぐに深い色に沈み消えた。月が晴れて、それでも夜は全て飲み込もうと手を伸ばす。
遊真の足が一歩踏み出される。たった一度だけ取り払われた透明な隔たりが、夜に覆われて再び薄れていく。遊真はの髪を払うと、贖うようにしずかに額に口づけた。
はゆっくりとまなじりを下げ、眠りに溶けるように薄く笑う。
「今日のユーマは、夜みたい」