「もうそんな季節なのか」

 久しぶりに会った年上の幼馴染は、私が左手にさげている鞄を見て目を細めた。そういう彼の方も依然に会ったときよりもかなり軽装になっていて、会っていなかった間の時間の流れを感じる。

「ひさしぶり、慶ちゃん」

 目線を上げた先にいた彼は、黒いトートバッグを肩に掛けていた。それが薄いタブレット型PCを入れているものだということは経験から知っている。大学に入学してから愛用し始めたものだ。

「俺もプール入りたいなー」

 言いながら慶ちゃんが見てくる鞄の中には今日の体育で使った水着が入っている。夏の間だけ活躍する、私がいつも水着を収めている鞄だ。慶ちゃんも私と同じように経験則で判断したんだろう。

「入ってくれば?」
「高校のプールってなんであんな楽しいんだろう」
「今行ったら犯罪だよ」

 慶ちゃんが高校の先生に捕まるところを思い浮かべる。すごい、絶対に捕まる。捕まるところしか思い浮かばない。面白いからそれでもいい気がする。

「捕まるのは……まずい……な」
「まずいね」

 慶ちゃんも捕まる絵しか浮かばなかったらしい。意外と自己を理解しているのが彼である。
 視線を逸らした慶ちゃんがふっと駅前の時計を見上げる。そう、ここは駅前だった。駅から出てきた慶ちゃんは、これから帰るところか或いはどこか用事を済ませに行くところなのだろう。

「どこ行くところだったの?」
「別に、どこも?」

 相変わらず変な人だ。答えになっていない答えに私が顔を顰めると、慶ちゃんはへらっと笑った。

は今から真っ直ぐ帰るところか?」
「そうだよ」
「じゃあおじちゃんとちょっと散歩してから帰らないか?」
「おじちゃんって……まだ若いでしょ」
「そうかな? それで、返事は?」
「いーよ」

 快諾すると慶ちゃんはもともと笑ってた顔をさらに緩ませて迷わず一歩を踏み出した。どこに向かうつもりなのかよく分からなかったけど、行く先が分からないくらいは大した問題じゃない。記憶にあるよりも背が高くなっているように感じる慶ちゃんの背中を追いかけた。
 夏の空気はすがすがしく胸を空く。傍らでニコニコしながら歩く幼馴染は私を少し見下ろして「最近学校はどうだ?」とかおじさんくさいことを聞いてくる。

「別に、普通」
「そうか、それなら良かった」

 何が良かったというのだろう。昔はもっと慶ちゃんと上手く話せていた気がする。何の気も遣わず、自分の身の回りに起きたことはなんだって話せたしどんなことも相談できた。今はそれができない。時間が経って、慶ちゃんが中学に入学して一緒に投稿できなくなってから? それとももう少し経ってからだったろうか。慶ちゃんに話せないことってなんだろう。慶ちゃんもなんでも話してくれている、訳ではない気がする。もっと、私と慶ちゃんはお互い何を考えているのか分かるくらい近い存在だったはずなのに。

、コンビニ寄ろう」

 いつもの帰り道じゃないからあまり寄ったことのないコンビニだ。慶ちゃんは私よりも来ることがあるのかもしれない。コンビニのドアをくぐって迷いのない歩みでアイスの置いてあるところまで進んでいった。私は慶ちゃんの意図がいまいち分からないし別に行きたいところもないから後ろをついていくだけだ。慶ちゃんはアイスのケースの前で立ち止まるとどれを買うか吟味し始めた。

「慶ちゃんアイス買うの?」
「迷い中。は?」
「慶ちゃんが買うなら買う」

 私は別に食べたい気はそこまでなかったが慶ちゃんが買うと言うならそれに付き合おうかなぁくらいの気分だった。近頃ようやく蒸し暑くなってきたから、そろそろ氷菓系のアイスが恋しくなってくる。考えていたら慶ちゃんが前触れなくガラッとケースの戸を開けた。冷気のこもる空間に手を突っ込んだかれは躊躇いなく一つの袋を取り出す。

も食べるんならこれがいいだろ?」

 二つひと組になったアイスだった。真ん中からちぎって、それぞれの口も引きちぎって開け、中のシャーベットを吸い込んで食べる例のアレ。
 私がハテナという顔をしていると慶ちゃんは「これが好きだったろ?」と念を押して確認してきた。言われて思い返してみれば小さい頃はしょっちゅう慶ちゃんとはんぶんこして食べていた。最近ははんぶんこする相手もいないから忘れていたけれど。

「うん」
「じゃあこれ」

 慶ちゃんはうんうんと頷いて一人満足そうにレジに向かう。結局自分でアイスを選ぶ機会を逸してしまった。

「ほら、はんぶん」
「ありがとう」

 コンビニを出てさっそく包装を破った慶ちゃんが半分にちぎって渡してくれたのを受け取る。ひんやりとした感触が手のひらを一瞬で冷たくさせた。隣の慶ちゃんはさっそく口を開けている。もう大学生のお兄さんのはずなのだが行儀が悪いところは変わってないらしい。

「……歩きながら食べるの?」
「ダメ?」
「ダメじゃないけど……私は座って食べたい」
「それならあっちだ」

 彼は一度踏み出しかけた足をくるりと反対方向へ向けて歩き始めた。この近くには少し広い公園がある。恐らくそこに向かっているのだろう。アイスが融けないようにだろうか、さっきまでより少し早足になっている慶ちゃんに私も意識して早足にしながら追いかける。
 頭一つ分高い位置にある慶ちゃんのふわふわ揺れる頭を、灯台のように見上げながら私は先週見かけた光景を思い起こしていた。

「けーいちゃん」
「……あ?」

 公園について、真っ直ぐに向かった東屋のベンチに二人で腰掛ける。なんとなく、言い出したい話題ではなかった。でも、それを思い出してしまうと、その他に沈黙を埋められる話題が思いつかない。しばらくぶりに会ったのだから話せることはもっと他にありそうなもんなんだけど。

「慶ちゃん、彼女、できた?」

 訊ね方を考えたつもりだったけど結局上手な訊ね方にはならなかった。慶ちゃんは食べかけだったパピコを半分くらいひと息で食べてしまって、奥歯が痛くなったのか、片頬を押さえて顔をちょっぴり顰めている。いや、もしかしたら私の質問に顔を顰めているのかもしれないけれど分からなかった。

「なんで?」

 なんで。
 はい、か、いいえ、で答えて欲しかったのに返ってきたのはどちらでもなかった。質問に質問で返すのは、こう、ずるい。

「いや……別に、できたかなって」
「ふーん」

 なかなか答えてくれない。私も今、答えを誤魔化したけれど慶ちゃんの方がもっと誤魔化している。できてないならいないとスッパリ答えそうなので、やっぱりあの日見たのは慶ちゃんの彼女だったのかもしれない。あの日の人じゃなくても、別の人かもしれないけど。
 手の中のパピコの容器は、私の体温で少し温められたせいで水滴が多くなっている。手のひらから伝った水滴は手首まで滑ってきて、少しむず痒かった。
 はっきり答えない、ということはそうなのなろう。まあ、私と慶ちゃんって、そんな話を今までしてこなかったので、急に話すのも気恥ずかしいのかもしれない。

は?」
「なにが?」
「いや、彼氏」
「いないけど」

 いやいや、聞いてるのはこっちなんですけど。
 言いたかったけど、自分の口は慶ちゃんの質問に実に素直に答えていた。へえ。私の返事を聞いた慶ちゃんがちょっと笑う。その笑いがどういう笑いなのか、なんの「へえ」なのか分からなくてさすがにちょっと腹が立った。

「いないの? 欲しくないの?」
「……なんかさっきから慶ちゃん変だよ」
「そう? 変なこと聞いてきたのは夏流でしょ」

 変なことを聞いてしまった自覚はあったので、ちょっと言い返す言葉に詰まってしまった。私が口を噤んで反論を探す間に、慶ちゃんのパピコの残りは全部平らげられてしまった。

「聞いたけど、ちゃんと答えてくれてない」

 空の容器を咥えたまま、お行儀悪く空気を送り込んでぽこぽこ遊んでる慶ちゃんにかける言葉をようやく見つけて、そう言ったら、慶ちゃんは「んー?」と空惚けた。

「いないけど。なんでそんな事聞いてくんの?」

 いないのか。
 いるという答えが返ってくるものだとばかり思っていた。
 半開きにした口を閉じることも忘れて、手首を伝う水滴を左手で拭う。いつの間にか手の中のパピコはかなり柔らかくなってしまっていて、少しでも力を込めたら大惨事になりそうだった。そうだ、まだ半分も食べてない。

?」

 そういえば、慶ちゃんから質問口調で訊かれていたのだった。不思議そうにこちらの顔を横から覗き込んでくる男の、いつもの覇気のない目に、ようやくそのことを思い出して「ああ……」と間の抜けた声がこぼれ出た。

「や、なんか、見かけて」
「見かけた? 何を」
「慶ちゃんが……」

 私はもしかして今物凄くあほなことを言おうとしているのではないか。
 このままではいけない。ちょっとでも冗談っぽくならないかと、

「慶ちゃんが可愛い子と二人で歩いてるの見たから、彼女かなーって」
「可愛い子ー? 誰のことだ?」
「知らないけど……」

 知らないけどお似合いだった。
 ふわふわの茶色の長い髪、綺麗にお化粧された横顔、スカートからすらっと伸びた綺麗な脚が眩しくて、細っこい腕は冗談でも言うかのように隣の慶ちゃんの袖を引っ張っていた。先週、駅前の交差点で見かけた姿だ。
 私は通り過ぎようとしていた足を思わず止めてしまうくらいの衝撃を受けた。私と慶ちゃんは下手な親戚よりもずっとずっと近くに居続けていた存在で、お互いのことなんて自分のことのように理解していた、はずだった。なのに、それなのに私は慶ちゃんに恋人ができる図を全くもって想像していなかったのだ。考えてみれば、私にも学校や部活という慶ちゃん以外の世界もあるし、慶ちゃんにだって私の知らない慶ちゃんの世界があるに違いないのに。そこで彼がどんな人とどんな関係を築いていようと、慶ちゃんが教えてくれない限り私に知る由はない。

「何を見たのか分かんねーけど彼女はいないよ」
「そうなんだ……」

 自分の膝頭を見下ろす。頬に痛いくらい慶ちゃんの視線が刺さっているけど、隣を見上げることはできない。気まずくて口に運んだパピコはだいぶ溶けていて、甘ったるさだけが舌に残った。もっとずっと前、私も慶ちゃんがランドセルを背負っていたくらい昔、二人ではんぶんこして食べていたこれは、もっと別の味だったような気がする。

「俺は、」

 言いかけて、また沈黙が下りる。まだ蝉の声も聞こえない時期だから、沈黙を埋めるのは目の前の通りを走る車の走行音くらいしかない。

「俺はずっとが彼女だったらいいのにって思ってた」

――思ったよりも衝撃はなかった。
 心のどこかで分かっていたのかもしれない。
 私にとって慶ちゃん以上に大切な男の人なんていなかったし、当然、慶ちゃんにとっても私以上に大切な女の子なんていないだろうという、自信ではないが、奇妙に思いこんでいたのだ、無意識のうちに。だって、あまりにも長い間当たり前に一番近い位置にお互い居たもので。
 私は慶ちゃんのことを彼氏だったらいいなぁとか具体的に考えたことは今まで一度もなかった。「彼氏」とか「恋人」とかではなかったのだ。なかったのだけれど。
 知らない綺麗なお姉さんの後ろ姿が脳裏を過ぎる。私がぼけっと、当たり前だと信じ切って安心しているうちに、慶ちゃんの一番を誰かに奪われる危険があることに漸く気が付いて、そわそわとしていたのだ。

「……私は、考えたことなかったけど」
「だろうな」
「でも、何ていうか……私もだって返事をしたら慶ちゃんはずっと私と一緒にいられるの?」
が望むなら」
「わ、わたし慶ちゃんの、彼女になりたい」

 一緒にいるだけなら、幼馴染のままでも良かっただろう。だって、恋人よりも幼馴染の方が永遠に続けられる。続けられるけれども、それはお互いにとっての一番で在り続けられることとはイコールではない。
永遠と一番を天秤にかけて、今、このとき、一番を選んでしまったけれどもこれが本当に正しい選択だったかどうかは今の私には分からない。
 いざ、声に出そうとしたらみっともなく喉が震えてどうしようもなかった。どうしようもなかったけれど、慶ちゃんは見たことないくらい嬉しそうな顔で笑ってくれたから、きっと正しい答えだったのだと思いたい。



(17/06/25)

♪さよならレイニーレイディ / SiSH
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