嵐山准というひとは私を寂しくさせる天才だ。
 真夜中、とうに日付も変わってしまった頃。常夜灯の明かりだけでぼんやりとしている部屋の中で、枕元のスマートフォンの液晶が音もなく眩しく光った。マナーモードにしていたそれが画面を明るくさせたのは、受信したラインのメッセージの為だった。うとうとと夢と現の狭間をゆらゆらしていた私は、寝ぼけ眼なまま、その小さな明かりに手を伸ばして画面を確認し――堪えきれずに大きくため息を吐く。
 受信されたメッセージは、恋人からのもので、約束していたデートがダメになったという報告と形ばかりの謝罪だった。
 用のなくなったメッセージ画面は閉じて、手グセでSNSを開く。SNSというのは他人の楽しそうな状況がいつでも伺えるので精神衛生上よろしくないらしい。見下ろす画面の中には楽しそうな情報ばかり……というわけではないが、楽しそうな情報ばかりかやたらと目につく。いつかのバラエティ番組か、それこそSNSか何かで見た話だが、正しくそのことを痛感しながら、スマートフォンをぽいっと枕元に放り出す。少し経てば目映く光る液晶はその明かりを落として沈黙する。

 恋人の嵐山准はボーダー隊員の中でも特に忙しい部類に入る男だ。その整った顔立ちや、愛想のいい彼の性格がボーダーの「表の顔」として非常に優秀で、所謂広告塔としての働きを十二分に努めているのはよく知っている。同じ三門市に住む人なら大抵の人が知っているだろう。私の恋人がその彼であることを知っている人からは口々に「いいなぁ」「絶対に尽くしてくれるタイプだよねえ」と羨望の言葉をかけられる。いちいち否定して回るわけにもいかないので、言われるたびに笑って誤魔化すが、世間一般の人が想像するような「対恋人の嵐山准」と、実際の私の恋人は別物だ。強いて言えば、普通なのだ。ボーダー隊員という肩書きとは関係のない、恋人という枠の中で、彼はヒーローでもなければ王子様でもない。

「……会えないなぁ」

 デートを断られたのはこれで三回連続だった。いつだって理由は正当なものなので、私は文句も言い出せない。分かった、仕事頑張ってね。テンプレートのような文章で毎回彼に了承を伝えている。嵐山くんには会えなくて寂しいという感情はあるのだろうか。いつも飄々としているものだから、私には彼が何を考えているのかちっとも分からない。恋人になれば分かるようになるものだと無意識のうちに思い込んでいたから、尚更そのことが悲しい。
 溜息を枕に吸い込ませて、冴えている目を無理やり瞑った。

 デートのはずだった翌日は実に良く晴れた、快晴としか言いようのないデート日和だった。窓から見える完璧な青空を睨み付けても嵐山くんに会えなくなったことは変わりようがない。クローゼットを開けると一番取り出しやすいところに今日着る予定だったワンピースが掛けられている。昨夜嵐山くんからの連絡が来る前の私の意思を無視して、それとは別の、特別お気に入りのスカートとトップスを取り出した。家に引きこもってじめじめしていても仕方がない。気晴らしに買い物にでも行こう。思い立ったら嫌になるうちに行動しようとてきぱき朝ごはんを食べて、洗濯して掃除機かけて……と腰を落ち着けずにすべきことを終えた私は、いっとうお気に入りのサンダルを履いて家を後にした。
 向かった先のショッピングモールでは、夏物のバーゲンセールを行なっていて常より人の入りも多いようだった。いつも行くお店から普段はあまり覗かないお店まで、あちこち見て回る。

 目ぼしいところは概ね回って、ひと息つこうとカフェエリアに移動していたときだった。
 ショッピングモール内の広場に、大勢の人がたむろっていた。子供連れが多いように見えるその人集りを見るともなしに見ると、見知った赤い服装の人が目にとまった。黒い癖っ毛が風にふわふわと揺れている。スタッフらしき腕章を付けた揃いのパーカーの人たちに囲まれて笑顔で応対しているのは、今日会う予定だった恋人だった。
 仕事か。と思う。広報係としてこのショッピングモールで行なわれていたイベントにでも参加していたのだろう。よくよく見ていなかったが、そういえば入り口付近などに貼り紙が掲示されていた気がする。ボーダーの関わるイベントだとは思っていなかったが。
 分かっていたことなのに、本当に心から理解していたわけではなかったのかもしれない。仕事なら仕方ないよね。頑張ってね。約束を断られるたびに、付き合い始めた頃はそう答えていた。今はもう、「頑張ってね」を上手く伝えられる気がしないのであまり言わなくなってしまった。そんな自分の気持ちを深く見つめることも何だか怖くって、仕方がないと言い聞かせては気持ちに蓋をしてきたけれど。
「……帰ろ」
 忙しそうに仕事をする嵐山くんはこちらに気づきそうもない。吐きそうになったため息を飲み込んで、お茶をしようと考えていたことも忘れて家に帰った。帰り道はやたらと眩しい日差しが鬱陶しくて、手に下げた荷物は邪魔に思えて仕方がなかった。


――夜、そっちに行っていいか?

 そうメッセージが来たのは、家に帰り着いてから二、三時間経った頃だった。晩ご飯の用意を始めるには少し早いような、料理内容によっては丁度いいような、そんな頃合い。
 今日のデートドタキャンしたくせに、とか、急すぎる、とかいろいろ言いたい文句はたくさんあるのに、結局それらは一つも外に出せずに「うん」としか返事ができない。
 なんで私ばっかり、って月に一度は思っている気がする。嵐山くんは別になんともないんだろうか。分からない。嵐山くんのことが分かった試しがない。どうしてもっと分かりやすく私を好きでいてくれないのか。
 そもそも待つばかりは苦手なのだ、行動を起こす勇気もないくせに。
 それから嵐山くんがうちに来たのは、20時も回ろうかという頃合いだった。もう少し早めに来るかと思っていたが、予想より遅れるところが嵐山くんらしい。20時程度の時間であれば、遅くなる、などの連絡が事前に入らないところも。嵐山くん基準では、20時は連絡をするほどの時間ではないのだ。

「今日、悪かったな行けなくなって」
「ううん」

 和かに謝られると許してあげるしかなくなる。本音も一欠片だって口に出せなくて、顔を見られないように俯いてキッチンに立った。用意してあった鍋を温め直そうとコンロに火を灯す。

「なにしてたんだ、今日は」

 座椅子に腰を落ち着けた嵐山くんが、持ってきたコンビニの袋を開けながら、まるで仕事終わりの父親のようなことを言う。――今日は学校どうだったか? 私の口下手な父親は、仕事から帰ってきてビールを飲みながらよく私にそう問いかけた。

「うん、まあ、普通」

 だからそのときのことを思い出して、あの頃と全く同じように答えた。

「普通? そっか」

 思春期の娘のような回答に、嵐山くんはおかしそうに笑う。とんとん、とテーブルの上に飲み物の容器となにやらが置かれる音。ええまあ貴方にデートふられましたけど普通でしたよ。嫌味は胸のうちだけでとどめておく。あんまりにも可愛げがない。
 今日はハヤシライスだった。鍋の中身は私の手によってぐるぐるかき回されている。キッチン中に漂ういい香りは、カウンターで仕切られた向こう側の彼にももちろん届いてきたらしい。「いいにおいだな」座椅子から立ち上がった嵐山くんが近づいてきて、カウンダー越しに私の背後から声をかけてきた。

「今日、昼飯食いっぱぐれちゃってさ」
「え、そうなの?」

 驚いて、思わず振り向いてしまった。ようやく目が合った先の嵐山くんが、機嫌良さそうにニコリと笑う。いつものくりくりした大きな目が、優しげにきゅっと細められた。

「そ。だからのハヤシライスすごい嬉しい」
「イベントでお弁当出なかったの?」
「ああ……うん? 俺、に今日の仕事イベントだって言ったっけ?」

――言ってない。
 ハッとして、ぐるんと顔を鍋のほうに戻した。鍋の中のハヤシライスはぐつぐつと音を立てていた。ひと混ぜして、焦げ付いてないのを確認して火を止める。炊飯器は、カウンターの上にあるので、ご飯をよそうためには振り向かなければならない。火を止めて固まっていたら「」とかけられたくないお声がかかった。

「なんか変だぞ。どうかしたのか?」

 どうかしたのか? だって。
 自分が何かしたとはこれっぽっちも考えてないのだろうか。

「どうも……どうもしないけど、」
「そうか……? 今日の仕事のことは?」

 なぜ知っているのかと、どうしてそこまで問われなければならないのだろう。ただ、嵐山くんは疑問を口にしているだけなのかもしれないが、今の私にはいやに詰問されているように感じられてしまった。

「……買い物に行ったら、見かけたから」
「ああ、来てたのか。なんだ、声をかけてくれればよかったのに」

 振り向く。言いかえしたいことがあって、口を開いたけど、二三口をぱくぱくさせてもうまい言葉は出で来なかった。
 声をかけてくれればよかったのに。確かにそうだ、何にも間違っていない。

「ああいうのって、もっと早く予定が分かってたりしないの?」
「……、何怒ってるんだ?」
「言いたくない」

 自分でもまるで子どものようなことを言っていると分かっている。でも一度口を開いて言いかけてしまったことは、簡単には収まらない。振り向いたついでに目の前の炊飯器の蓋を開け、手にした深めの皿にご飯を盛る。嵐山くんはそんな私の一挙手一投足をじっと見ながら、その美しく形の整った唇で正しい言葉を紡いでいく。嵐山くんの言い分が正しくなかったためしなどあっただろうか。

「言ってもらわないと俺だって分からないさ」
「察してよ……」
「それは、あんまりじゃないか」

 炊飯器に視線を落として、目も合わせずに言い返したのだが、嵐山くんの次の声にもう顔を上げることができなくなってしまった。
 いつもどおりの穏やかだった声に、苛立ちの色がジワリと、唐突に滲む。滅多に聞かない声色に、深皿と杓文字を掴んだ手はぴくりとも動かせなくなった。



 カウンターの、わずか十数センチ先におそらく私が見たことのない顔をした嵐山准がいる。俯いたつむじ辺りにひしひしと視線が刺さる。漂う夕飯の優しい匂いだけが場違いだった。
「言いたいことは?」

 最後通牒のように感じられるセリフに、手の中の杓文字がぽとりと炊飯器の中に落ちる。炊きたての米が入ってるおかげでカランとも音を立てない。なんだか間抜けだった。今言わなければ、別れようという選択肢を軽々と口にしそうな気がした。彼の決断力の高さはよくよく知っている。ひどい人だ。恋人なのに、私を追い詰めるのが誰よりもうまい。嵐山くん以上に私を苦しめる人なんてこの世にはいないだろう。

「……寂しくさせないで」「私が話しかけるより先に話しかけて」「私のこと、忘れないで」「こんなこと、言わせないで」「ずっと私のことを好きでいて」

 炊飯器の中の米を見つめながらぼそぼそとした声で言いたいことをしぼり出す。さて本当にこれだけだろうか。考えてみるが、きっとこれだけではない。これだけではないが、そのときになってみないと出てこないだろう。最後のひとつさえ、守ってくれるならそれで良いような気もする。いや、それで良いと思わなければ、あまりにも贅沢だ。贅沢だけど、今はその贅沢を言わせてほしかった。
恐ろしいような気持ちでそろりそろりと顔を上げると、嵐山くんはちょっと笑っていた。

「なんだ、そんなこと」

そんなこと、とは随分な言いようだと思った。だが嵐山くんはほんとに、なんてことないように笑っている。ちょっと安心した、とでも言いだしそうなくらい緩みきった空気で。

が望むならいつだって叶えられるよ」

 だから、叶えてほしいことは、口に出してくれ。俺はスーパーマンじゃないから。
 嵐山くんがスーパーマンじゃないことくらい、私は他の大勢の人よりもよくよく知っている。正しくあらないでほしいと思ったけれど嵐山くんを正しくあらしめているのは、もしかしたら私のほうだったのかもしれない。
 嵐山くんが希うように言った言葉を、私はしっかりと心に留めて、頷いた。頷いた私を見た嵐山くんが実に満足そうに笑って、カウンターから伸ばした手でぐりぐりと私の頭のてっぺんを撫ぜた。
 こういう時は、抱きしめてほしいんだけとなぁと思ったので、さっそく私は先ほどの嵐山くんのお願いを守るべく、口を開いたのだった。


(17/10/29)
♪B.A.A.B. / KARAKURI
title :リリギヨ  sozai :0501