あなたの名前に夏と冬が与えられなかった理由

01

恋愛って、したことがないからよくわからない。

小学校のときからずっとそう。人を好きになったり好きになってもらったり付き合ったり、友達がそういうのをしてるのを見たり聞いたりしたことはあってもわたし自身にその経験は一切なかった。大学に入ってもなお、だ。でも、どの友達も恋愛の話をするときは表情がころころ変わって、大変なんだろうけど楽しそうだなっていつも思ってた。

もサークル入ればいいのに」
「それはおっしゃる通りです」

言ってからドーナツを齧ると正面で座っていた友達が肩を落とした。チャイムが鳴ってから数十分。さっきまで学生の声で溢れかえっていたラウンジはすっかり静まり返って、そのおかげで彼女のため息が広い空間に響き渡ったような気さえする。

「軽部とかどう?あそこだと男女同じくらいいるし、楽器やってたでしょ」
「軽部かあ……」

確かにギターもベースも弾けることには弾けるけどほとんど初心者のようなものだ。ドラムなんて論外。歌うのだって好きだけど得意でも上手くもない。何よりも入学したばかりならともかくわたしは入学から一年近く経ってしまっている。そんな学生が入ってきたってサークル側のほうが困惑するんじゃないか。

「あっ先輩!」

うだうだと考えていると友達が声を上げたのでわたしは顔を上げて、それから心臓が一回だけ飛び上がったのを感じた。視線の先のほう、ラウンジの入り口には男の人が二人並んでいて、そのうちの一人が手をひらひらと振っている。その人が友達が所属しているサークルの先輩であるということは知っていた、けど。問題はその横にいるもう一人。彼は遅れて本から顔を上げて、わたしを認識した途端に瞳を丸くしたと思ったら次の瞬間に微笑んだ。その直後、正面にいたシルエットが驚いたようにこっちを向く。「あ、まずい」と思ったのも束の間。

、知り合いなの?」
「……顔と名前だけ」
「そんなの私だって知ってるよ!東春秋さんでしょ!?ボーダーに入隊することになったって去年散々騒がれてたんだから顔と名前なんか知ってて当たり前でしょ!」
「それは……まあ、そうだね」
「っていうか、男の知り合いいるじゃん!大学入ってから男の人と関わり一切ないって言ってなかった!?」
「だってほんとに一言話しただけなんだもん」
「人間関係の始まりなんて全部そこから始まるでしょ!」

ああもう。やっぱりこうなると思った。サークル必死に勧めた私がばかみたいじゃないと友達が言うのを宥めていると、さっきまで遠くにいた二人が歩いてくるのが視界の隅で見えた。まずい。逃げたい。ネガティブな文字が頭を埋め尽くしていく。寝耳に水ってこういうことなのかな。違う?わからないけど、まさか二回目の会話がこんな唐突に始まるなんて。今すぐに友達を引っ張ってでも走ってラウンジから逃げていきたいけど、この状況で立ち去るなんて不審だし何より失礼だろう。それはわかってる。わかってるんだけど、何故だかあの人と初めて話したときから、その姿が視界に入るたびにそわそわしてしまって身体が落ち着かない。キャンパスですれ違ったり後ろ姿が見えたりしただけでも一瞬息が止まるのに。目の前で話すなんて、

「おう、お疲れ。授業待ち?」

友達の先輩が目の前に立つなり友達に話しかけたのを聞きながら隣に視線を移すと、わたしを見下ろしていた東さんが目を細めた。爪の先が薄い包み越しにドーナツの生地に食い込むのを感じながらわたしは小さく会釈をする。

「東、こいつサークルの後輩。ほら話しただろ、同じバイト先でお客さんの前ですっげえ派手にコケてさ、」
「あーっ!先輩それ言わないって約束したじゃないですか!」

ああ、お客さんの前で転んでジョッキごとビールぶちまけた話か。二週間前くらいにそんな話聞いたな。そう思っていると、過去の記憶と繋がったのか東さんが「ああ」と声を上げた。その後すぐに友達と自己紹介をし始めて、知ってる人同士が繋がる瞬間を目の当たりにしてなんだかくすぐったいような気持ちが湧き上がってくる。わたしが友達の先輩に初めて挨拶したとき、それを見ていた友達もこんな気持ちだったんだろうか。ドーナツを小さく齧るとコーティングされていた砂糖が崩れて膝の上に落ちる。それを払って顔を上げると東さんと目が合って、東さんは小さく笑った。

「先輩、いい人いたら紹介したいって言ったののことなんですよ」
「え?のことだったの?なんだよ、何人かいたんだけどが相手なら無理だな……東、誰か知ってるやついない?」

わたしが相手なら無理って振り落とされる人ってどんな人ですか。と、聞きたくなるのを飲み込みながら東さんを見ると東さんはわたしを見つめてから首を傾げて、少し考えた後にいないと答えた。ええ、と声を上げる友達に先輩は「やっぱり」と笑うだけで返事をする。

「そうだ。東の彼女さんとかいい男知ってるんじゃねえの。彼女さん年上だし知り合いに男いっぱいいるだろ」

先輩の言葉に東さんは言葉に詰まって、それから苦笑いを浮かべた。その様子に先輩は首を傾げてわたしと友達もつられて頭の上に「?」を浮かべる。東さんの唇はどこか言葉を選んでいるように行き場を彷徨って、何かに観念したかのように数秒かけてやっと着地した。

「実は別れたんだよ」

次の瞬間先輩がラウンジ中に轟かせるほどの大声を出して、突然の爆音に周りにちらほらいた学生が一斉にこちらを振り返った。でも周りの様子にまったく気づかず先輩は東さんににじり寄っている。よっぽど驚いたのだろう。わたしだって付き合ってると思ってた友達が別れてたら驚くだろうけど。

「別れっ、……お前、いつ!?」
「えっと……二ヶ月くらい前か?」
「結構前じゃん!」

先輩が頭を抱えたのを見てわたしは友達と顔を見合わせた。

「二ヶ月も話してもらえないとか……先輩と東さんって実はそんなに仲良くないんですか?」

あーあ、聞いちゃった。正直なんだからもう。可笑しそうに口を開いた友達に心の中で呟きながらドーナツの最後の一口を口に投げ入れた。

「東!そうなのか!?」
「そうなのかって、そんなことないだろ」
「だったら二ヶ月も黙ってんじゃねえよ!」

先輩と東さんが会話を弾ませて、友達がけたけたと笑う。ドーナツの包みを小さく折りながらわたしはぼーっと三人の会話を聞いた。そしてたまに会話の隙を縫って東さんの表情を盗み見た。笑うと大きく開く口も、たまに零れ出る茶化すような言葉も仕草も、東さんは何から何までどこにでもいる大学生みたいだった。

、東さんって面白い人だね」
「うん」

だんだん拗ね始めた先輩とそれを鎮める東さんに手を振って、わたし達は次の授業が開かれる教室に向かった。ドーナツの包みは、捨てるタイミングを失ってわたしのバッグに突っ込まれた。

「実は」

授業が始まってからもその声はずっとわたしの頭の中で響いていた。言葉を選んでいた割に感情が伴っていなかったように感じたのはわたしだけだったんだろうか。友達も先輩もあまり気にしていなかったみたいだった。大学生になったらそんなものなのかな。東さんとわたしは三歳も離れてるから、大人になるにつれてそうなっていくのかな。東さんの横顔がやけに瞼に焼き付いている。わからない。わたし、東さんのことよく知らないし。東春秋っていう名前と、外見と、学科と、ボーダーに所属していることと、キャンパス内の図書館に行くといつもいることと、二ヶ月前に年上の彼女さんと別れたってことしか知らない。恋愛にはあんまり執心しない人だっていうだけのことだったのかもしれない。恋愛をしたことがないわたしがこんなこと考えたって何にもならないってわかってるけど。でも、

「別れたんだよ」

付き合ってる人と別れたのにあんなに何とも思ってなさそうな人、はじめて。




***

随分若い先生だな、というのが最初の印象だった。

初めて見かけた時、その人は図書館の椅子に座って本を読んでいた。一度にたくさんの本を机に持って行っていたからもしかしたら文献を探していたのかもしれない。とにかく必死に何かを読んでいたのだ。本を捲る指先や積まれた本の上に更に本を積んでいく手。遠目に見ていてもその仕草全てが洗練されていることがわかって、レポートに使う本を探す手を止めて見惚れてしまったのを覚えている。学生と呼ぶにはあまりにも大人っぽいからわたしは別の学部の先生なんだろうと推測して、名前も担当学科も知らないその人を「先生」と呼ぶようになった。以前ホームページで大学の教員を一人残らず調べたことがあったんだけど、彼らしき人はどこにも載っていなかったからもしかしたら外部講師とか非常勤講師の人かもしれない。図書館の外で見たことがなかったこともあって、そもそもこの大学には関係ない、図書館に来ているだけの外部の人なのかもしれない。そんなこととか、どんな声してるんだろうとかどんな話し方をする人なんだろうとか考えていくうちに、わたしは空き時間ができるとふらっと図書館に向かうようになった。そのたびにその人は図書館にいて、もしかして年中ここにいるんじゃないかと思ったこともあった。

「すみません。隣いいですか?」

その日は突然訪れた。いつものように図書館にふらっと来て、いろんな授業でレポートの締め切りが近づいているのか、普段よりも人が多い館内を見回して「今日はいないのかな」と思いながら本を読み始めたところだった。小さな声で返事をしながら顔を上げると先生がそこに立っていたものだから、わたしはびっくりして意図せずその顔を見つめたまま固まってしまった。思っていたよりもずっと低い声。相変わらずの綺麗な姿勢。予想内と予想外がせめぎ合う中、先生が不思議そうに首を傾げたところでやっと我に返る。広げていた本を慌てて自分の身体の方に引き寄せたら手元が狂って一冊の文庫本を床に落としてしまった。ばさっという音は幸い普段より賑やかな図書室の音にかき消される。先生は柔らかい笑みを浮かべながらそれを拾ってから隣の椅子に腰を下ろした。すっと差し出された本を両手で受け取りながら先生に頭を下げる。

「す、すみません……ありがとうございます」
「どういたしまして」

先生は浮かべている笑顔と恐ろしいくらいに相応しい柔らかい声を出すと持っていた本を広げた。どくんどくんという心臓の鼓動が今にも皮膚を破りそうで変に汗をかいてしまう。心臓ってほんとに動いてるんだなと今更なことを考える。至極当然のことなんだけど。今この瞬間ほど心臓の存在を感じたことはない。机に広げた本に視線を落とすけど、視界の隅に先生の手が映り込んでいてまったく文字が頭に入って来ない。先生の手は遠くから見るよりずっと大きくて、指も太くてごつごつしていた。もっとこう……しゅっとした指だと思ってたんだけど。いや別に不満とかそういうんじゃなくて、…………あれ、わたしに誰に言い訳してるんだろう。というか、わたし、この人の顔をずっと前に見たことがある気がする。……いつ?どこで?
ふと気が付くと賑わっていた図書館は静けさを取り戻していた。時計を確認する。五時半過ぎ。すっかりバイトに向かわないといけない時間になっていた。せっかく先生が隣にいるのに帰らなくちゃいけないなんて。別に話したいとか思ってたわけじゃないけど、もう少しこのままでいたかったと思っている自分もいる。わたしの馬鹿。立ち上がると隣の席から物音がした。わたしとまったく同じタイミングで先生も立ち上がったのだ。先生はわたしに少し驚いた表情を向けるとすぐに小さく笑った。わたしもつられて笑い返してみるけどもしかしたら顔が引きつって不自然になってしまったかもしれない。

「図書館にはよく来るんですか」

続いて耳に飛び込んできた言葉にぎょっとする。「話しかけられた」という事実と「何て返したらいいんだろう」という焦りがぶつかって、少し間を置いてから「はい」という二文字が口から出た。その間も先生は微笑みを浮かべてわたしの返事を待ってくれていて、待たせたのに返事がたった二文字なんてと自分を叩きたくなった。もうちょっとなんかあっただろ、って。しかも心臓に影響されて声まで震えちゃって、どうしようもない。先生はそうですかと小さな声で言うとまたにっこり笑った。

「たまに見かけるので、どういう本を読んでるのかなと思ってたんです」

先生はそう言うと会釈程度に頭を下げて、大きな手で数冊の本を抱えて歩いて行った。わたしはというと、先生の最後の言葉が呪いみたいに身体を縛ってしまって何もできずただただその背中を見つめていた。

その顔に見覚えがあった理由を思い出したと同時に外部の人でも先生でもないと知ったのは、それから一週間ほど経った頃。ネットで紹介されていたのは、二つの季節を持ち、もう二つの季節を持たない名前の人だった。





02

「おはようございます」
「ああ、東くん。おはよう」

研究室に入ると先生が俺に顔を向けた。光っていた画面を消すなり先生は俺に座るように促してきて、俺は軽く頭を下げてから椅子に腰かける。

「手伝ってくれて助かるよ」
「いえ、こちらこそ声をかけてくださってありがとうございます」
「その年で大学院を志望してる学生は少ないからね。ボーダーも設立したばかりで忙しいだろうに」
「はは。そうですね」

世間話をしてから先生から資料を受け取る。目を通した限りだけど内容はそこまで難しくない。今後自分一人で研究をするための練習だと思えば、費用もかけずに研究の経験ができるだけ有難い。研究の要件や手伝いの内容を一通り聞き終わって先生がまた世間話をし始めた頃。

「そういえば東くん。彼女と別れたって?」

唐突な質問に危うく紅茶を吹き出すところだった。淹れてもらった本人に吹きかけなくてよかった。心の底からそう思った後に同じ研究室の友人の笑顔が浮かんで、恐る恐る先生に尋ねてみると俺の期待はあっさりと打ち砕かれた。身体から一気に力が抜けていくのを感じる。……くそ、やっぱり話されたか。

「もう先生にも話したんですね、あいつ……」
「はは。色恋沙汰なんてそんなものだよ」
「……わかってるつもりではいたんですけど」
「でも驚いたよ。東くんみたいな子でも別れたりするんだね」

俺みたいな子ってどういう子だ。と聞きたくなるのを抑えるように紅茶を口に運ぶ。そしてその話が事実なのか聞かれ、真意がわからないまま頷くと先生は「そうかあ」と残念そうに息を吐いた。

「何かありましたか?」
「いやあ、実は知り合いに映画のクーポンをもらってね」
「……はあ」
「僕は映画にあまり興味がないし、研究室で交際をしているのは東くんだけだから東くんにあげようと思ったんだよ」

ほら、これ。先生が鞄から端末を取り出してその画面を差し出してくる。その画面には映画館で特定の期間内に二席での映画鑑賞が無料になることが書いてあった。しかも。

「観られる映画が決まってるんですか?」
「そうなんだよ。だから余計に見る気が起きなくて」

確かに先生が見るには少し対象年齢が低いようだ。羅列されている映画は俺もあまりわからないけど、タイトルから察するに恋愛映画が多く、明らかに恋愛関係にある二人組での鑑賞を前提にしているようだった。

「あ、先生。これ回数は限られてますけど席の一つを譲渡してもいいみたいですね」
「うん?本当だね」
「……先生、本当に不要だったらいただいてもいいですか?」
「もちろん。僕が持っててもしょうがないし、元から東くんにあげようとしていたんだから好きなようにしていいよ」
「ありがとうございます」

恋愛映画を一緒に見に行くような知り合いもいないし、これなら一つを知り合いに譲って俺は一人で行けばいいだろう。クーポンの詳細を見たところだと、席が決まっているだけで必ず二人で同時に観に行かなくてもいいようだし。思えば最近大学とボーダーの往復ばかりしていたから気晴らしでもしよう。頭を下げながら研究室を出て、背を伸ばしつつ廊下を歩く。さて、どれがどういう映画なのか調べてみるか。そんなことを考えながら、俺が別れたことを先生に話した張本人に「やってくれたな」とメッセージを送った。




03

「え?」
「……えっ?」

男の人の声がしたほうに顔を向けると、びくっと肩が跳ねた。

「そんなに驚かなくても」

薄暗くなった照明の中、東さんは立ったまま苦笑いを浮かべている。あ……東さん?なんで?いや、なんで?って、東さんが映画観に来る理由を知ったところでどうするの。そんなことよりこの人と、今日この時間に観る映画が重なったことのほうが驚きだ。東さんもこういう映画観るんだ。東さんの学科ってこういう非現実的というか非科学的なものと真逆の立ち位置のイメージがあったから、もちろんこの類の映画を観るイメージもなかった。

「ご、ごめんなさい。びっくりして」
「いや、こちらこそ。驚かせてごめんな」

東さんが笑いながらわたしの隣のシートに座ったので、わたしはさらにびっくりした。まさか隣だったなんて。映画、集中して観られないかも。……というか問題は映画が始まるまでの時間だ。レイトショーとはいえこんなに座席が空いてるのに並んで座っているのは今のところわたしと東さんだけで、後はところどころ人がいるくらいだ。先輩なんだからわたしから何か話すべきなんだろうか。東さん、こういう時に話しかけられるの嫌な人じゃないかな。大丈夫かな。でもまったく話さないのも不自然じゃない?

「……あの、東さんSF映画好きなんですか?」
「いや、映画自体そんなに観たことないんだ。今日はたまたま貰って、」
「……え」
「ん?」

貰って、という言葉に引っかかって自分の端末を取り出すと東さんは東さんらしからぬ声を出した。

「そうか。巡り巡ってさんに渡ってたんだな」

どうやらわたしが友達からもらったクーポンの源は東さんにあるようだった。わたしに行き着くまでのルートは簡単にわかったらしく、東さんは静かな映画館の中で雑音にならないようにくつくつと笑う。その表情がいつもより子どもっぽく見えた。……意外。この人もこんな顔するんだ。話しかけたのは正解だったみたいだ。よかった。

さんは?映画はよく見るのか?」
「はい。特にSFは小さいときからよく見てたので……こういうの好きなんです」

東さんはわたしの返事を聞いてから「そうなんだ」と目を細めて肘置に腕を置いた。その仕草はさっきまでの子どもっぽい表情とは打って変わって大学生らしからぬ大人っぽさを孕んでいて、忘れかけていた緊張感が一瞬で戻ってくる。そのせいで考えていた話題も全部吹き飛んでわたしの頭は真っ白になった。心なしか東さんが背中を預けている赤い椅子の背に重厚感があるように思えてくるくらいだ。色も質も同じ椅子に腰かけているけど、きっとわたしはこんな雰囲気をこれっぽっちも出せない。どちらかというとチャイルドシートに座らされているように見えるかも、……。そうか。この人に感じていた緊張感の元はこれだったのか。圧倒的な年上感というか、威圧感というか。自覚した途端にこの人の隣に座っているという現実に眩暈がしてドリンクホルダーに置いていたジュースで頭を冷やす。

「どうした?具合悪いのか?」

急にわたしがストローを銜えたことに驚いたのか東さんがわざわざ身体を起こして懸念そうな顔をしたので、わたしは慌てて首を横に振った。それでも東さんが表情を崩さないのでドリンクの容器を握っている手に思わず力が入る。大丈夫って言えばいいのに何故か嘘がつけない。東さんといると、彼の思うがままに操られているような気がする。

「その、東さんが大人っぽくて」

誰が聞いても言い訳とは言い難い言葉が飛び出す。手の中から水滴がぽたりと落ちた音すら周りの人に聞こえたのではないかと思うくらいその瞬間は静まり返っていた。水滴とわたしのばかな言葉がシートにどんどん染み込んでいく。東さんはきょとんとした顔でわたしを見つめていて、その表情からわたしの真意が分かったんだろうということが十分に伝わって来た。そしてわたしはわたしで自分が言った言葉にショックを受けて東さんを見つめたまま硬直する。視界の隅で、わたしと東さんよりも一回りほど年上の男の人と女の人が入ってきて、何列か前のシートに座ったのが見えた。

「……さん」
「……はい……」
「嘘吐いたらすぐ分かるってよく言われないか?」
「……はい……」

わたしの言葉を聞くと東さんはさっきよりも可笑しそうに笑って体勢を戻した。ごめんなさいと口早に言うと東さんはわたしを見ていつものように目を細める。嘘ばっかり言う人間のほうがよっぽど困るよ。そんなことを言いながら東さんはわたしと同じように容器を手に取った。

「……東さん、何買ったんですか?」
「ん?アイスティーだよ。さんは?」
「ジュースです」

さっき入ってきた男の人と女の人がわたしと東さんを振り返って、何か話している。突然照明がふっと暗くなって、さらに暗闇が室内を覆っていく。

さん、」

隣から声がしてわたしは東さんに顔を向ける。だんだんその表情が見えなくなって、それにあわせてわたしが返事をする声も小さくなっていく。スピーカーから大きな音が奏でられる直前、低い声がわたしの鼓膜を震わせた。




***

東くんのことを好きになったのは中学校三年生の時だった。東くんは中学でも高校でもいつも学年のテストで一位だったからある意味で目立っていて、知り合う前は「頭がいい人」という印象しかなかった。でも、その印象が変わったのは同じクラ スになってすぐ。物静かな人だったけど同じ教室にいる東くんは笑っていることが多くて、そのせいか何かと周りに人がいた記憶がある。好きになったきっかけは何だったっけ。もう覚えてない。でも夏休みに入る前にはもう好きだったと思う。でも夏休みにばったり会って、お互い家に帰る途中だったから道が分かれるところまで一緒に歩いたことは今でもハッキリと覚えている。その間ずっと心臓がドキドキしていたことも。

「ああ、東かあ」

東くんのことが好きだと打ち明けた時に、友達は皆そんな反応をした。好きなっても不思議じゃないよねと言う子もいた。後から知ったことだけど、東くんのことを好きな女の子は私の他にも結構いたらしい。中学でも、高校でも、大学でも。東くんはよくいろんな人の相談に乗っていたからそれで好きになった子がいるとか、いないとか。東くんは年齢の割に大人びていて同じ学年の男の子とは全然違う雰囲気があって、だからその気持ちは痛いほど分かった。私だってそういうところに憧れていたから。

「ねえ、東と同じ中学校だったよね?」
「東くん?うん、同じ中学だったけど……東くんがどうかしたの?」
「東ってあの子と付き合ってるらしいんだけど、知ってる?」
「あの子?」

高校一年生の冬。違うクラスの東くんが同じ学年のある女の子と付き合っているという噂を聞いた。それを私に話してきた子は私が東くんのことを好きだということを知らなかったから、その噂のことをいろいろ聞かせてくれた。隣のクラスのある女の子が最近よく東くんと一緒にいること。それも学校内だけじゃなくて、二人が夜一緒に歩いていたこと。その子が良くない意味で目立っていること。その理由が、男の人と関わっていること。名前を聞いた瞬間に顔が浮かぶくらい、その女の子は学年中でも有名だった。東くんはああいう子が好きなのかなと一瞬でも思ってしまった私はしばらく自己嫌悪に襲われた。

「えっ、俺が?」

一ヶ月後。東くんと廊下で鉢合わせた私は思い切って噂のことを聞いてみた。噂をそのまま鵜呑みにするのも嫌だったし、何より私にとっては失恋するかしないかの一大事だったからだ。私の質問に東くんはひどく驚いたみたいだった。あんな表情をした東くんを見たのは後にも先にもあの時だけだった。東くんが大きい息と一緒に吐いた「そんなわけない」という答えに私は飛び跳ねたくなるくらい嬉しくなって、返事をした声が高くなってしまった。その女の子と仲が良いというのは本当だったみたいだけど、そんなこと私にとっては何の壁にもならなかった。けど、その直後に東くんの口から年上の先輩と付き合っているという言葉が放たれた。見事に上げて落とされて、失恋したと思いきや結局私は東くんのことを諦めきれずに好きなままだった。高校二年生で同じクラスになって、三年生でまた別のクラスになって。いい加減諦めなきゃと思った矢先に同じ大学を受験することがわかって、良いのか悪いのか私の恋心には延命処置が成されたのだ。

「おめでとう」
「東くんも」

東くんとはそれまでで一番仲良くなった。受験発表を一緒に見に行って、違う学部ではあったけどお互い合格したことを確認すると東くんは優しく微笑んでくれた。まるで二人とも合格することがわかってたみたいだった。付き合っている人に報告をしないのか聞くと東くんは言葉を濁した。その時は何でだろうなあと思っていたけど、大学の入学式の日に彼女とどうなのか聞いたら「別れたんだよ」と気まずそうに打ち明けられた。合格発表の時にはすでにそういう関係になっていたんだろう。……口には、出していなかったけど。それから東くんとは一ヶ月に一回はご飯を食べに行くようになった。お昼に大学の外でっていう時もあったし、夜の居酒屋という時もあった。東くんはその身体の大きさの通りよく食べる人で、一方の私は少食だったから少し食べたらすぐにお腹がいっぱいになってしまった。でも、二年生に進学した頃からだんだんそれがなくなってきて、三年生になった時にはもう会うこともなくなって、同時に東くんがボーダーに入隊することになったという話が大学中に溢れるようになった。ボーダーは設立されたばかりで近界民のことすらよくわかってない時期だったから私は死ぬほど心配だったのに、彼に会いにいく勇気が出なかった。私と会わなくなったのもボーダーのことで忙しいからなんだろうって、そう思い込むようにした。そうこうしているうちにあっという間に一年が経ち、四年生の春。東くんには新しい彼女ができていて、大学院への進学がほとんど決まっていることを聞いた。

「おめでとう東くん」
「ありがとう」

私もそのときには就職が決まっていたので東くんも「おめでとう」と言ってくれた。ラウンジで偶然会って久しぶりに話せたというのに、私は言いたいことも聞きたいことも全部伝えられないままぎこちなく別れてしまった。また飲みに行こうと言ってくれたのに、結局それも叶うことはなかった。その後、卒業式の日にちらっと東くんを見かけたけど、相変わらず彼の周りに人がいるのを見て話しかけるのはやめた。中学校の時と比べて東くんは背も伸びて、髪も長くなって、恋人ができて、今までで一番大人っぽくなっていた。私は中学校の時からそんなに背も伸びてなくて、髪は伸びたけど恋人はいないままで、大して変わっていなかった。たぶん東くんは私のことを本当にただの友人の一人としか見ていなかったのだろう。その日の夜、大泣きしたら東くんへの気持ちも少しだけすっきりした。素敵な人だったなって、諦めきれた今でも思い出す。彼は今どんな人になってるんだろう。今となってはボーダーの活動を続けているということしかわからないけど。それでも、私の初恋の人だ。





04

って見た目の割に食べるほうだよな。騒がしい声に紛れて東さんの声がさらりと流された。開いた口をそのままにしてわたしは視線を上げる。正面では東さんが相変わらずせっせとお好み焼きを作り続けていて、その様子をしばらく見つめてからわたしはお箸と一緒にお好み焼きをお皿に戻した。

「ん?どうした?」
「いえ、その……食べすぎたかなって……」
「は?」

言われてみれば、今日お店に来てからお好み焼き何枚分食べた?少なくとも東さんと二人で五種類は頼んでいる。とすると半分こしたとしても一人で二枚半。いま東さんが焼いてるのを含めると三枚。追加でもんじゃ焼きも食べたし、……。でもだからといって目の前で焼かれているお好み焼きを見逃していいのか。あんなに美味しそうに作られているのに。

「何だよ急に」
「……だって東さんが」
「俺?……あっ!?違う!そういう意味で言ったんじゃない」

わたしの言葉を半ば遮るように東さんは慌てた様子で声を荒げた。お店が賑やかなおかげでそこまで大きい声に聞こえなかったけど、大学のラウンジだったら相当響いていただろう。わたしの誤解を解こうとして東さんは数分ぶりにお好み焼きから目を離した。

「別に悪い意味じゃないよ。純粋によく食べるなと思っただけだ」
「……そうですか?体重は平均的ですけど……」
「そうなのか?」
「そうなんです」

じゅうじゅうと鉄板が音を立てて「交代しましょ」と言って東さんの手からヘラを奪い取って今度はわたしがお好み焼きを見つめる番になる。何か言おうとしたのか東さんが息を吸った気配がしたけど、気づかないフリをしていたらそのまま何も言わないでくれた。大きい手がビールが注がれたグラスに向かっていったのがちらりと視界に映って今度はわたしが口を開く。

「あの、東さん」
「うん」
「付き合ってた彼女さん、あんまり食べない方だったんですか?」

うっ、というのか何なのか。文字にできないような短い呻き声が耳に入ってきた直後に、グラスが乱暴に机に置かれて一緒に咽る音が聞こえてきた。見ると東さんが、なんとあの東さんが、口元を手で覆いながら咳き込んでいたものだからぎょっとしてしまった。東さんがここまで動揺するなんて。そこまでタブーな話題だったのかと思いながらおしぼりを掴んだけど、東さんはすぐに落ち着いたようで大丈夫と小さく言って深呼吸をした。

「ご、ごめんなさい」
「大丈夫だって。……俺も自分で驚いた」

東さんは苦笑いをしながらビールを飲み直して「そういえばは知ってたんだったな」と呟いた。すみません。知ってるんです。今まで何人の方とお付き合いしたのか知らないけど、少なくともそのうちの一人は東さんの口から別れたって聞きましたよ。思ったことを胸にしまったまま頷くと東さんは今度はちゃんと笑って鉄板の上を見つめた。

「付き合ってた彼女は……そうだな。今思うと食べる量は多くなかったな」
「東さんってそういう人と付き合ってそうですね」
「そういう人?」
「うん。美意識が高そうな人というか、お好み焼きとか食べなさそうな人」
「はは、確かにお好み焼き屋には一緒に行ったことはなかった」

でも俺が今まで仲が良くなった女の人とか女の子でみたいによく食べる子は一人もいなかったよ。東さんがぽつりと言って、わたしはそれが良い意味なのか悪い意味なのかわからなかったからお好み焼きの焼き加減を見る仕草をしながらわざと曖昧に返事をした。ここがお好み焼き屋さんでよかった。騒がしいお店じゃないと、沈黙が余計に重苦しくなって東さんとこんな話できない。

、そこまで焼けば十分だよ」
「はあい。こっちで切り分けちゃいますね」

東さんと映画館で鉢合わせした日、レイトショーだったこともあって夜遅いからと東さんはわたしを家まで送ってくれた。「あんまりこういう時間に一人で出掛けないほうがいいぞ」という小言付きで。それから数ヶ月。わたしは東さんと中途半端に仲が良くなって、中途半端に彼のことを知るようになった。例えば、東春秋っていう名前の由来と、ただ縦に長いだけだと思っていた身体が鍛えられてることと、大学院ではトリオンとか歴史とかを広く研究していることと、ボーダーでは既に実力者になって地位が確立していることと、よくいる大学の図書館では文献を探す合間に古い小説を読んでいることと、東さんが今まで付き合った女の人はみんな年上だということ。そして、この数ヶ月のうちに変化したこともあった。大学のキャンパスですれ違うときに声を掛け合うようになったことと、東さんといるときに緊張で身体が強張らなくなったこと。あと、


「はい」

さんという呼び方がに変わったこと。東さんにとってわたしの存在が前と違うものになったんじゃないかと、これはわたしが勝手に思っている。どんな存在がどう変わったのかはわからないけど。

「そろそろ帰るか。あんまり遅くなると親御さんに悪い」

通りがかったお店の男の子に向かって東さんが声をかける。その子は露骨に億劫そうな表情を見せて、でもちゃんと返事をしてくれた。彼はこのお好み焼き屋さんの息子さんで東さんにとってはボーダーの後輩でもある。カゲウラマサトくんという名前らしい。教えてもらったときこういう子もボーダーにいるんだなってちょっと意外だった。……その、怖い子だなって思ったから。でも様子を見ていたらお店の手伝いはしっかりしてるし、馴染みのお客さんもいるようだし、やっぱり人を見た目で判断するのは良くないなって反省した。

「東さんなら大丈夫なのに」
「あのなあ……付き合ってもいない男のことそんなに信用するなよ。危ないから」

東さんはたまにこうやって親みたいなことを言う。信用するなって、東さんは数えきれないほどたくさんの人に信用されてるくせにわたし一人に信用されるのは嫌なんですか。喉の途中まで出かかった言葉は面倒な彼女みたいだなと自分で思って、ぐっと堪えて押し流すように残っていたりんごジュースを飲み干す。

「アンタ趣味悪いな」
「えっ」

お店の人に挨拶をしつつ先にお店を出た東さんの後を同じようにしながらついていって、その途中で後ろから急に声をかけられる。振り返るとレジの前に立っているカゲウラくんがじっとわたしを見つめていた。しゅ、趣味?……服、そんなに変だったかな。胸元から足元をさっと見降ろした瞬間「あっちのことだよ」とカゲウラくんがお店の外の東さんを指差した。え、とわたしが声を上げた直後に外からわたしの名前を呼ぶ声がした。少し歩いてからわたしがついてこないことに気づいたようで、開いたままのドアの向こうで東さんがわたしを見ている。どうしよう。何か。カゲウラくんに何か言ってから出ないと失礼だ。でも何て返事をするべきなんだろう。「そんな関係じゃないです」?「東さんのどこがだめなんですか」?目の前にいるカゲウラくんと遠くにあるシルエットを交互に見ながら必死に考えたけど、まったくいい返事が浮かんでこない。結局、数秒立ち止まった挙句に「ご馳走様でした」とカゲウラくんに二度目の挨拶をしてお店を出た。ごめんなさいカゲウラくん。返事に困ったわけじゃなくて東さんを待たせるのが嫌なだけだったんです。そういうことにさせてください。駆け寄ると東さんは安心したように息を吐いた。

「東さん、さっきの続きなんですけど」
「ん?」
「男の人ってそんなに危ないんですか?」
「続きってその話か……危ないに決まってるだろ。ほら、こっち」
「でもわたし、東さんのこと信用して困ったことないです」
「今はそうかもな」

今はってどういう意味?わたしがさらに尋ねようとするのを遮るように、生返事をしながら東さんはわたしの腕を引いて車道側を歩き始めた。その行動があまりにも自然で相変わらず慣れてるなと感心する。東さんってこういうのどこで覚えたんだろう。年上の彼女さんと付き合ってるうちに学んだのかな。興味本位だけの質問をしてみたいけどさすがにこんなこと聞けるような仲にはなってない。付き合った彼女さんがよく食べる人だったのかという質問でさえあんなに動揺されたんだから。それにしてもさっきのカゲウラくんの言葉、何だったんだろう。「趣味悪い」。東さんってボーダーではそう思われてるんだろうか。でもいろんな人に信用されてる人だって、ボーダー内の東さんを知っている大学の後輩が言ってた。その後輩自身も……風間くんもボーダーの人なんだし、何より彼は嘘をつくような性格じゃないから事実のはずだ。確かに東さんはただの「良い人」ではないけど。本当に思ってることがわからないことがあってたまに怖いし、付き合った人と別れても何とも思ってないみたいだし。カゲウラくんは東さんのことが嫌いなんだろうか。

、本当に誰かと付き合ったことも誰かを好きになったこともないのか?」
「ないですよ。嘘ついてどうするんですか」
「信じられないんだって。本当に」
「ふうん……」

腑に落ちないと感じているのが伝わったのか、東さんはため息を吐いた。

「そもそもこんなに仲良くなった男の人だって東さんが初めてなんですよ」
「……なあ。本当に付き合ったことないんだよな?」
「東さん今日どうしたんですか?お酒飲みすぎました?」
「酒は、……。……それなりに飲んだな」
「やっぱり。帰ったらちゃんと水分摂らないとだめですよ」

さっきの仕返しに親みたいなことを言ってやったら東さんは小さく笑った。でも、本当に今日の東さんはいつもと違う気がする。わたしが彼女さんの話持ちかけたから調子を狂わせてしまったのだろうか。明日以降のボーダーの活動に影響が出ちゃったらどうしよう。東さんの身に間違って何か起きてしまったら大変だ。東さんはボーダーの人だから内部事情とかいろいろ知ってるんだろうけど、わたしからしたらボーダーの人達があの近界民侵攻から二年近く経っても怪我人を出さずに活動できているのが不思議でしょうがない。だから東さんと会うたびに本人がけろっとしているのが奇跡だと感じてしまう。東さんにとってはわたしはきっとあくまで今まで仲が良くなった女の人とか女の子のうちの一人なんだろうけど、わたしは東さんのことを特別に思っている。博識で尊敬できる人であり、先輩であり、お父さんであり、お兄ちゃんであり、初めて仲良くなった男の人であり……あとはいろいろ。そもそもこの人はボーダーの人で、替えのきかない人だ。だからどうかこの人の身に何もありませんようにって東さんと会うたびに思ってる。

「あ」

頭上を見上げると空とわたしの間に桜の木が伸びていた。脚を止めると隣を歩いていた東さんも数歩遅れて脚を止めたようだった。はやく帰ろうと言われるかと思ったけどいつまで経っても東さんからそういう言葉はかけられなくて、わたしもまだまだ東さんのことわかってないなあって思うとなんだか少し寂しかった。でも、中途半端な仲だから当然か。

「もう桜咲きそうですね」
「そういえば開花まであと一週間くらいだって言ってたな」
「一週間かあ……」

少し間を置いて一本の枝から東さんに視線を移動させると、東さんも桜を見上げていたようで後からわたしを見た。

「東さん、桜が咲いたらお花見しませんか?わたしお弁当作りますから」
「はは。いいな、それ」

俺も何か作っていくよ、大したもの作れないけど。東さんが笑って言ってくれて嬉しくなる。わたしは東さんと会う時こうやって最後に次に会う約束をしている。そうじゃないと本当に明日突然会えなくなるような、東さんがどこか遠くに行ってしまうような気がする。理由はそれだけだ。多分こんなこと言ったら笑われるんだろう。わからないけど。わたしのマンションの前に着くと東さんは手をひらひら振って、駅に向かって歩いていく。

「東さん」

その背中を呼び止めると東さんはきょとんとした顔でわたしを振り返る。

「お花見、約束ですからね」

乱反射するようにわたしの声がアスファルトやらコンクリートやら無機質なものの間を跳ねていく。わたしの声に包まれた東さんは「大袈裟だよ」って言いたそうな顔をして、それでも口に出さずに笑うだけで返事をしてまた歩いて行った。今のはたぶん「大袈裟だよ」で合ってるはずだ。仲の良さは中途半端だけど、わたしだってそれくらいならわかるもん。




05

「あー……」

ベッドに身体を沈ませると反射反応かと思うくらいすぐに声が漏れた。身体が重い。文字通り朝から晩まで論文の計画作成に時間をかけたせいか頭も目も疲れている。書くこと自体は苦痛でも何でもないのにどうしてこんなに疲れるんだ。頭に身体が追い付いていないからか?

「……」

仰向けになって腕を広げながら息を長く吐くと頭がまた余計に重くなったように感じた。……そういえば昼だけは食べようと思ってたけど、結局起きてから何も口にしていない。とにかく何か腹に入れ、……いや、面倒だ。空腹感はあるけど我慢しようと思えばできる。もうこのまま今日は寝てしまって明日の朝に何か食べれば、

「ちゃんと食べないとだめですよ」

突如聞こえてきた声に自分でも笑ってしまう。これが親から言われた言葉ではなく後輩から言われた言葉なのだから可笑しな話だ。自分で言うのもなんだけど俺は昔からしっかりしていると思われがちで、こういう言葉を親以外の人間にかけられることなく育ってきた。だから随所で手を抜いても見つからずに済んできたんだけど、は俺のことをよっぽどよく見ているらしい。不思議な子だ。深呼吸をして重い身体を起こす。は会うたびに次の約束を取り付けてきて俺に少しでも何か変化があると会うなりそれを見抜いてくる。次に会うのは明後日だから今日一日飯を抜いたことも気づかれるだろうし良い顔をしないだろう。食事の話をしたときに栄養が偏っているのではないかと言ってきたくらいだから一日一食も食べなかったなんて聞いたらどんな反応をされるかわからない。それはそれで見てみたいけど。

「っあつ、」

熱したフライパンに指先がほんの少しだけ触れて腕ごと手が勝手に飛び上がった。くそ、油断した。自分に悪態をつきながら蛇口を捻り流水に指を突っ込む。から「フライパンと材料があれば3分で作れるクロックムッシュ」を聞いたときは何だそれと思ったけど、確かにこれはすぐ作れていい。クロックムッシュという食べ物も、女性が言う「3分で作れる」という言葉も、正直ピンとこなかったけど。そうか、こういうことだったのか。水で指先を冷やしている間に出来上がったクロックムッシュを皿に乗せようとして、でも後の片づけを考えると億劫になって皿が入っている棚とは別の棚を開けた。すまん。これだけは許してくれ。焼き上がったばかりの熱が伝わってこないようにキッチンペーパーとアルミホイルで食パンの半分を覆ってそれを片手で持ちながらベランダに向かう。

「満月にはなってないか」

丸になりかける直前のもどかしさを感じるような月がそこにいた。ベランダの手すりに腕を乗せながらクロックムッシュに歯を立てる。さく、という音の直後にバターの香りが身体を満たしていく。これ、食パンは二枚使ってる上にチーズとハムが挟まってるから腹持ちがいいな。これからも今日みたいな日があったらクロックムッシュを作ればいいんじゃないのか。あまりにも安直なことを考えてしまい、自慢げに笑うが脳裏に浮かび上がってなんだか負けた気がした。風が首元を駆けていくのが心地よくてしばらく目を瞑る。再び瞼を持ち上げると変わらず月が空に浮かんでいた。こういう時、煙草でも吸ってたら手持ち無沙汰にならなかったんだろうか。空になった手でアルミホイルを丸めて、ベランダからそのまま部屋のゴミ箱に投げ入れる。コンと軽い音を立てて身を縮めたアルミホイルが底に落ちていく。息を吐きながらベランダサッシに腰を落とすとまた風がシャツの裾を揺らした。年上としては恥ずかしい話だけど今日はのおかげで何とか生物として生きられた気がする。人間として生きる力は彼女は俺を遥かに上回っているだろう。……そうだ。人間として。

「はあ……」

ため息に近い呼吸をする。最近、と会う時に何故かやけに緊張している自分がいる。今まで良い意味で誤魔化せてきたものが見透かされるようなあの瞳。あれに見つめられると俺は調子が狂ってしまうらしい。前に会った時も前に付き合っていた彼女のことを突然尋ねられて自分でも驚くくらいに動揺してしまった。心の底で思っていることをすべて知られてしまう感覚というか、何というか、とにかくそういったものが原因で緊張しているのだということは分かっている。別に誤魔化してきたものがに暴かれたとしても俺が困ることは一切ないはずなのに。……いや、困るから知られたくないのだろう。だけど、何に困るんだ?俺のことを知ったところでが俺に何をするというのか。彼女はきっと何もしてこないはずだ。

「嫌われるだけか」

そう、俺のことを知ってがすることがあるとしたら俺を軽蔑することの一つだけだろう。は俺よりもずっと人間らしい子だから。……だとしたら、俺はに嫌われるのが困るのか?どうして?生きていくのに必要な人間でもないのに?ただの大学の後輩って、それだけなのに?そこまで考えてからはっと我に返って急いで思考を制止する。こうやって人間関係を考えてしまうのは良くない癖だ。自分としては自覚しているだけでもまだマシだと思うけど自覚したのは高校三年の時だからもう何年も前で、でも、だからと言って自分の行動は何も変わっていない。そもそも変える気がないのだ。

「……」

この癖を自覚させてくれたのは高校に入学して一年目に知り合った同級生だった。海の向こう、惑星の反対側と言っても過言ではないくらい遠くの国に住んでいるはずの彼女のことは今でもたまに思い出す。もう顔も薄ぼんやりとしか思い出せないけど、それでも俺の人生を変えてくれた子だ。あの子と初めて会ったのももう六年前なのか。六年前って、は……中学生か?中学生のはどんな子だったんだろう。今と変わらないのか、それともまったく違うのか。少なくとも俺は幼馴染に変わっていないとよく言われるけどはどうなんだろうか。正直今のまま小さくなったしか思い浮かばないけど。俺みたいにどうしようもない子どもじゃなかったことを祈る。そんなことを考えながら立てていた膝をベランダの端まで伸ばして、一緒に背も天に向けて伸ばす。

「……本当に、どうしようもないな」

思い返してみると、中学生の時から俺は感情がひどく希薄だったと思う。試験の結果が良くても、同じ学年の誰より速く長く走っても、どれだけ賞状をもらっても何とも思わなかった。本当に、何の感情も生まれてこなかった。ただ、それをそのまま伝えると周りが不気味がるだろうと直感的に理解していたから感情を表すフリには気を遣っていた。幸い、中学でも高校でも誰にもそれが気付かれることがなく過ごせていたけど、我ながら嫌な子どもだ。そんな子どもが好きだと告白されても何かを感じるわけがなく、ただただその場で最適だと思った感情を探しては相手に差し出すだけだった。単純に付き合うのが面倒だからと断ることもあれば、断ったら泣かれるだろうとか後で大変な事態になりそうだとかを想定して受け入れることもあった。好きだと言ってもらえることは有難いけど、だからと言って自分に新しい感情が芽生えることもなかった。それだけだ。だから当然付き合った後も俺が相手のことを好きになるわけがなく、むしろ付き合うのは面倒だと思っていたくらいだからできるだけ労力を使いたくなくて、相手の様子を伺いながらつかず離れずの距離を保った。そういう付き合い方をしていたせいで別れ話を切り出すのはいつも相手だった。理由は……最後に付き合った人は「春秋くんが完璧すぎて辛くなったから」だったか。それ以前はもはや覚えてすらいないのだから救いようがない。きっとはこんな俺を軽蔑して、嫌うだろう。あの子はこれでもかと言うほどに嘘を吐くのも誤魔化すのも下手で、短い間でも感情がころころ変わるしそれがすぐ顔に出る。俺とは真逆の人間だ。真逆の、最も人間らしい子だ。俺と違っていろんな感情を持つ、この世で他に一人としていない子だ。ああいう子こそが幸せになるべきだ。

「……」

風が吹くたびに手元でカーテンが揺れてたまにレースが指の先に触れた。まずい。余計なことばかり考えている。数回の呼吸を繰り返した後、深呼吸を一回して立ち上がる。考え事は夜にするなってよく聞くけどその通りだ。寝る準備をしようと部屋を横切ったとき、ゴミ箱の底でアルミホイルがやけに光っているのが視界の隅に見えた。




***

受験期の生徒はおおまかに二つに分かれる。張り詰めているか、余裕か。どちらかだ。その中でも東春秋という生徒は後者に属していた。一時期は不真面目になるのかと危惧されていたくらいなのに、まったくそんな心配はいらなかった。そのきっかけも、一年の時にある女子生徒とつるむようになったということだったけど。それにしても、あの時の職員室のざわめきといったら。俺は東が一年の時に彼の担任ではなかったから当時の彼のことはよく知らなかったけど、挙がった女子生徒の名前はよく知っていた。要注意生徒として会議でもよく名前が出ていたからだ。

「いえ、ありません」

気になっていることはないか。受験前の面談で尋ねると、東ははっきりと答えた。しかしその回答は予想外でも何でもなかった。他の生徒と話している時も教師と話している時も、どんな場面で目にしても東は悩みを抱えているように見えなかったからだ。成績は優秀でこの前の全国模試に至っては結果は二十三番。人間関係の揉め事は一切ない。家庭にもまったく問題なし。校則に反したことも一度すらない。積極的な性格でもない割に気づくといろんなことをしている。目立つ言動はしていないはずなのに常に異彩を放っている。そんな印象だった。こちらから言うことが何もないくらいに東は手がかからない生徒だった。三年に進学した東の担任になっても、他の教師と同様に俺は彼のことをまったく気にかけていなかった。

「東はさ、将来どういう仕事をしたいとか考えてるのか?」

あまりに面談が早く終わったので、次の生徒との面談まで東と話してみようと思った。それまで東と話す機会もほとんどなかったから。俺が尋ねると東はいつもの表情で呼吸と瞬きを数回繰り返して、それから小さく笑った。

「それが……あまり考えていなくて」

この返答には少し驚いた。東のことだからどういう仕事がしたくてどういう勉強をするのか、そういうことまで考えて受験に臨むのだろうと思っていたから。

「こういうことがしたいとか、あんまりないんです」

東はそう言うと眉尻を下げた。誰に対してそういう表情をしていたのかはわからない。誰に対してもしていなかったのかもしれない。

「勉強をしている時に楽しいと思うのは自分でわかってるので、勉強はしばらく続けようかなと思いますけど」

自分から話を終わらせた。直感でそう感じた。当たり障りのない、しかしそれ以上話を続けさせないような。故意なのかそうじゃないのかはわからなかった。俺は思わず曖昧な返事をしてしまった。そしてその次の瞬間に東と目が合い、全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。おそろしいほどに何も宿していない瞳だった。それなのにこちらの一挙一動をすべて見透かしているような。脳味噌を引きずり出されて、解剖されて、思考回路の細胞を奥まで観察されているようだった。首元を刃物が這っているかのように身体が強張ったのも束の間。東はいつもの表情と声色で俺に問いかけた。

「先生はいつ教師になろうと思ったんですか?」

俺は、高校三年生を「子ども」だと思っていなかった。けれど、「大人」とも思っていなかった。どの生徒を見てもそれを感じていた。みんな何かを抱えて、悩んで、もがいていた。勉強。恋愛。部活。人間関係。家庭。もちろんそれら以外のことでも。東もその一人であるはずだと、何も悩んでいないように見せているだけで本当は何かに悩んでいるはずだということはわかってた。わかっていたと、思っていた。

「……そう、だなあ」

目の前に座っている、俺よりも大きい身体を持った生物の輪郭が急にぼやけ始める。東春秋という人間の内側に、葛藤はあったのだろうか。十八年という年月を生きて、その中で少しでも胸の内に何かを秘めたことはあったのだろうか。綺麗なものでも汚いものでもいい。あの人間の中には何が詰まっていたのだろう。

あの時投げかけられた質問に自分が何と答えたのか、もはや覚えていない。

彼がボーダーの一員になったという話を職員室で聞いたのは、その数年後だった。その頃のボーダーはまだ隊員も少なく、隊員が増えるたびに様々なメディアで大きく取り上げられていた。東が入隊したと聞いた時も例外ではなく彼が話す言葉を読んだり聞いたりしたものの、やはりその内側に何があるのかわからないままだった。誰が聞いても納得したり感心したりする言葉を吐いて、周りに一切の迷惑をかけないという東の特徴がそこでも滲み出ていた。かつての生徒が何を思って、何を見越して、どんな顔をしてあの組織に入ったのか。俺にはまったく分からないままだ。教師からの信頼も厚く進学した大学が大学だったこともあって、今でも「東はいい生徒でしたね」と話を持ち掛けられる。俺はそのたびにあの瞳を思い出して、曖昧な返事をすることしかできない。





06

うだるような暑さの日だった。天気予報がその日はやけに熱中症に気をつけろと繰り返していたのを覚えている。東さんの車に乗せてもらっている間も夕日がずっと眩しかった。

「わたしもう何もできない……」

助手席でどろどろに溶けた声を発したわたしに東さんが笑った。こっちは瀕死に近い状態だっていうのに何が可笑しいの。言い返す気力もなく頭の中だけで反抗する。

「体力使うって言ってた意味がわかっただろ」
「じゅーぶんわかりました……。川釣りでこれだったら海釣りなんて一生できませんよ、わたし」
「そんなことないよ。今日だって何匹も釣れてたじゃないか」
「川釣りなんて何匹も釣れるものじゃないですか?」
「川だろうが海だろうが運と体力がないと釣れないときは釣れないよ」

半信半疑に返事をすると東さんは小さく笑って何回か経験すれば慣れると教えてくれた。そういうものなのだろうか。釣りをしただけで体力を使い果たしたわたしに対して東さんは行きの運転だけじゃなくて帰りの運転までしてくれて、その上にわたしと一緒に釣りもしていたのだから信じられない。今だってけろっとした顔でハンドルを握っていてこの人は本当に同じ生き物なのかと思うくらいだ。これは男女の差なのか、初心者と経験者の差なのか……。……どっちもかな。東さんが最近よく海に釣りに行ってると聞いて興味が湧いたというだけで「行ってみたい」と言った数週間前のわたしを殴ってやりたい。まさか釣りがこんなに体力を使うものだったなんて。東さんが即座に「まずは川釣りから行こう」と提案してきた時はわからなかったけど、今はその根拠がわかる。半日川釣りしただけでこれなんだからいきなり海釣りなんてしたらどうなっていたことか。

「でも、東さん」
「ん?」
「疲れたけど楽しかったです。今日連れてきてくれてありがとうございます」
「それならよかった。が楽しんでくれたなら俺も嬉しいよ」
「……また連れていってくれます?」
「はは、もちろん」

ドアに寄りかかって、東さんの声を聞きながら目を閉じるとまだ瞼の裏で水面がきらきら光っていた。ロッドを握った感覚。糸が引かれた感覚。生きた魚を手に乗せた感覚。今日初めての経験がやけに身体に沁みついて離れない。でも、初めて魚を引いて、釣って、興奮するわたしを嬉しそうに見ていた東さんの顔が一番焼きついている。東さんって人が成長していくのを見るのが好きなのかな。そうなんだとしたら本当に尊敬する。東さんのことを知れば知るほどわたしみたいな凡人とは違ってこの世に欠かせない人なんだなって思う。

「東さん」
「うん」
「東さんって、どうしてボーダーに入ろうと思ったんですか?」
「うん、……ん?」
「なんか……東さんって何でもできるからその分無限に選択肢があるじゃないですか」
「何だよ急に」
「どうしてその中からボーダー選んだのかなって思って」

目を開けて、でもなんだか東さんのほうは見ることができなくてひたすら窓の外の景色を眺めた。東さんはしばらく何も答えなくて、さすがに突っ込んだことを聞いてしまったかなとちょっとだけ後悔した。でも、ずっと聞きたかった。四年前の当時、東さんがボーダーに入隊する時のインタビュー動画とか新聞の記事とかが毎日目に入ってきたけど、東さんって良い意味でも悪い意味でも機転が利く人だから。きっとそのときに話していた入隊の理由なんていくらでも思い付いただろう。高校生のときは東さんがこういう人だって知らなくて全部鵜呑みにしてたから「正義感の強い人だな」って、それだけしか思ってなかった。でも、今は違う。東さんがあの時言っていたことは本心じゃないんだって、この人と過ごしているうちに分かってしまった。だからどうして危険な場所にあえて進んでいったのかが知りたかった。

「向いてると思っただけだよ」

何分かは経っていただろう。それが数分だったのか数十分だったのかはわからないけど、東さんにしては珍しく返事までの間が随分あったように感じる。わたしは顔を上げて久しぶりに運転席に視線を向けた。高速道路を運転しているから当然のことだけど東さんはわたしと目を合わせない。嫌な予感がしたのに、勝手に口が開いてしまった。

「向いてるって?」
「そのままの意味だ」
「……戦うのが?」
「ああ。戦略を考えるのも性に合ってたし」
「……死ぬかもしれないって、」
「考えたことはある」
「……怖くないの?」
「そうだな」

会話を強制的に終わらされた。まるでこれ以上踏み込んでくるのは許さないって言われてるみたいに。そうだ。東さんはこういう人だ。ありとあらゆることを「頭」で考える人だった。感情ではまったく動かない。感情自体が滅多に動かない。心臓の音が大きくなっていくのと比例してわたしは東さんの横顔に釘付けになる。数時間前の嬉しそうな表情が嘘みたいだ。これならまだ大学で他の人に見せている顔のほうがマシだろう。そう思うくらいに東さんは冷たい顔をしていた。この人、こんな顔するんだ。……ボーダーだといつもそうしてるの?いつかカゲウラくんに言われた「趣味悪い」という言葉は、まさかこのことなんだろうか。そう思った瞬間、一気に血の気が引いて汗が背中を流れていく。身体が緊張して上手く動かない。呼吸もちゃんとできてない気がする。それすら自分でわからなくなった。この人から威圧感を感じたのは何年ぶりだろう。

……最後は、いつだった?

「……東さん」
「悪い。変なこと言ったな」

笑う場面でもないのに東さんは笑った。何が可笑しいの。そう心の中で呟いてやっと自分が怒っていることに気づいた。怖いはずなのにわたしは一体何に対して怒ってるんだろう。東さんが笑ったことの何がそんなに不快だったの?

「死んでもいいって思ってるんですか?」

わたしの質問に東さんは今度は数秒間を空けて笑った。は素直だな、相変わらず。前だけを見ていた目が細められて、一瞬だけわたしを捉える。その瞬間に瞳が大きく揺れたのをわたしは見逃さなかった。

「何をそんなに怒ってるんだ?」

東さんはまったく怒ってない。わたしに比べたら微塵も感情を揺さぶられていない。威圧感だって少しも弱めてくれない。でも、動揺だけはしてる。



こんなに仲良くなった男の人は初めてだって言ったじゃない。東さんが言う「仲が良い」とわたしが言う「仲が良い」の重さにどれだけ差があるかわかってるでしょ。ばか。何を怒ってるって、わかるでしょ。わからないならほんとにばかですよ。東さん。

「……にそういう顔されるの、苦手なんだよ」

知ってますよ。だからこういう顔してるんです。東さんはこういうときに頭が真っ白になるって、わかってるんだから。この数年で、わかったんだから。膝の上で握った手に力が入って爪が手のひらに食い込む。痛いのに、そうしてないと威圧感に耐えられなさそうで力を緩められない。

「……、頼むから」

東さんの声が震えているように聞こえて、わたしのタガはそこで完全に外れてしまった。何で東さんがそんな声出すんですか。泣きたいのはわたしのほうですよ。さっきまであんなに怖い顔してたのに何ですか、その声。視界が急に滲み始めて瞬きをした拍子にそれが急に鮮明になる。それを二回繰り返したら頬の上を水がぽろぽろと流れていった。それでも東さんから視線は離さない。離してやるものか。もはや意地になっているわたしに東さんは深く息を吐いた。さっきまで冷たかった顔はいつの間にか苦しそうに歪んでいて、ずっと見てたはずなのにいつからそんな顔してたんだろうともう一人のわたしが首を傾げる。

「そんな顔しないでくれよ……」

わたしと東さんと照らす夕日がただ、ただ眩しく光っている。




***

セックスを他人に直接見られた初めての経験だった。

ドアが開いた瞬間、脚の間にあった先輩の身体がびくりと跳ねたのがわかった。音がした方向に目をやると地味な顔立ちのやつがこっちを見ていた。あたしはてっきり先輩が追い払ってくれると思いきや、彼は舌打ちをするなり「萎えたわ」と言いながらあたしの中からソレを引き抜いてズボンを直しながらもう一つのドアから出ていった。ドアの前で突っ立っていたそいつは何も言わずにその一部始終を眺めて、先輩が部屋から出ていくのを見送った後に机の上で脚を開いたままのあたしをちらりと見た。それから何も言わずに部屋に入ってくると抱えていた資料を棚に仕舞うなり何も言わずに部屋を出ていった。あたしはその間ずっと何も言えずに呆然としていた。

「ちょっと」

翌日、セックスを中断させられたことに腹が立っていたあたしはそいつを死ぬ物狂いで探した。寝坊したから二限の授業くらいの時間から体育館とか授業中の教室とか、片っ端から探した。たまに廊下を歩いている先生に見つかったけどあいつらは余計なことしか言わないやつだったから最初から無視することにしていた。そして、やっと見つけた。昼休みに同じ学年の階を歩いていたそいつが目に入った瞬間、脚がずんずんと進んだ。思いっきり手首を掴んでやるとそいつは驚いたように振り返って、それから一瞬眉間に皺を寄せた。それが更にあたしの苛立ちを膨らませた。ぐいっと手首を引っ張るとそいつは戸惑うような声をあげながらも素直についてきた。何を気にしていたんだか知らないけど、あたしには関係ない。あたしはその時その場の怒りをおさめることでいっぱいだった。

「名前は?」
「は?」
「名前聞いてるの」
「……東、だけど」
「昨日のアレ、謝ってくれない」

昨日あたしと先輩がセックスをしていた資料室に東を連れ込んであたしは口を開いた。東はあたしを見下ろして、それから息を吐いた。

「悪かった」
「はあ?ほんとにそう思ってんの」
「邪魔して悪かったって。本当に」

東を追い詰めるようにその顔を覗き込むと、あからさまに目を逸らされた。……こいつ、もしかして緊張してる?東の反応を見た瞬間に、そう確信した。こいつから謝罪の言葉を聞いても腹が立っている状態は変わらないし、昨日セックスを中断させられたこともあってある種の欲求不満状態だったあたしはスカートの裾を持ち上げた。こいつを馬鹿にして、今までいろんな男にしたみたいに翻弄してやろう。モテなさそうだからどうせ童貞だろうしすぐ落ちるだろう。そうすればこの苛立ちもおさまると思った。地味なやつだからまったくタイプではなかったけど、もうこの際誰だっていい。セックスできれば。そう思って東の手を触った瞬間、東は思いっきり手を振りほどいた。ドキドキして、っていうんじゃない。本当に嫌悪感から振りほどいたっていう感じだった。今まで一度も男にそんな反応をされたことがなかったあたしは突然の出来事にぽかんとして東を見上げた。この部屋に入ってきてから一切変わっていなかった表情を未だに変えないまま、東は口を開いた。

「悪いけど、そういうのは他の人でやってくれ」

そう言うなり東は大きく息を吐いて部屋を出ていった。馬鹿にしてすっきりするつもりが逆に馬鹿にされたような気分になってあたしはその後学校を飛び出すなりその時間から会ってくれそうな男に連絡をして遊び呆けた。ムカつく。ムカつくムカつくムカつく。なにあれ。地味なくせに。偉そうにして。ムカつく。あの日セックスしていた先輩とはそれ以降ギクシャクしてセックスできなくなったし。せっかく一番セックスの相性がいい男だったのに。別に変わりの男はいっぱいいるけど。それでも。何様のつもり。東。翌日午後から学校に行ったら早速先生に見つかって説教をされた。その時に東が近くを通りかかって、目が合った。昨日と同じように東の表情は一ミリも動いてなかった。でも心の中であたしのことを馬鹿にしてるんだろうって思った。ムカつく。

「……」

秋、だったと思う。文化祭の用意をしているクラスメイトを横目にあたしは教室を出た。資料室でサボっていたら誰かがドアを開けて、机に座っていたあたしはドアのほうに目をやった。東だった。さすがに怒りはおさまっていたけど、東に対する敵対心は変わっていなかった。あたしの自尊心が傷つけられたことに変わりなかったから。あの時以来顔を合わせるのは初めてで、あたしは顔を背けた。東は前と同じように腕に抱えていた資料を棚に仕舞っていった。前に教室で寝てるフリをしている時、前の期末テストで東が一位だったと誰かが話しているのを聞いたことがあった。だからきっと成績が良いこともあって先生達から信頼されて、その分いろんなことを頼まれてたんだろう。あたしは東から背を向けたまま端末に表示されているメッセージを無意味に眺めた。しんと静まる部屋が気まずくて、でもだからといってムカつく奴と話したくなかった。

「文化祭の手伝いしないのか?」

東の声だということがわかるまで、少し時間がかかった。振り向いたけど東はあたしに背を向けて相変わらず本を仕舞っていた。それが気にくわなくてあたしは無視することを決めた。

「もしかして、あの時のことまだ怒ってるのか?」

そんな声が聞こえてきて「うるさい」と反射的に返事をしてしまった。しまったと思った瞬間、今度は東があたしを振り向いた。それから目を丸くして「お前そんな大きい声出るのか」とよくわからないことを言った。

「この部屋、陽射しも入らないし冬になったら寒くなるだろ。サボるなら部屋変えたほうがいいぞ」
「……関係ないじゃん」
「あと、そんなに脚出して寒くないのか?冬になったら風邪ひくぞ」
「ねえ、あたしの話聞いてる?」
「それから、前の。学校でやらないほうがいいんじゃないのか?見たこっちが困る」
「先生みたいなこと言わないでよ。……もしかして先生からそう言えって言われたの?」
「そんなこと先生から俺に言うわけないだろ」
「……どこで誰とセックスしようとあたしの勝手でしょ」
「人に見られて怒るくらいならせめて見られないところでやってくれ。あと、相手は選んだほうがいいよ」
「なにそれ。男だってセックスできるなら誰でもいいと思ってるじゃん」
「……俺は少なくとも付き合ってる人としかしたことないけど」
「は?」
「そういうやつしかいないと思ってるんだったら、なおさら一緒にいる相手は選んだほうが良い」

棚を閉めて部屋を出ていこうとした東を、あたしは慌てて追いかけた。ドアに手をかけた東の服を引っ張ると東は「なんだよ」と声をあげた。

「あんたセックスしたことあるの!?」

思っていたよりも大きい声が出て、東の表情が大袈裟なくらいに引きつった。それまで涼しい顔か困った顔しかしてなかった東の表情が大きく崩れた、初めての瞬間だった。あそこまであからさまな顔をした東を見たのはあれが最初で最後だった、ってくらい。きっと廊下にまで響いてたらどうしようとでも思ったんだろう。でもあたしはそんなことよりこの地味な同い年の男がセックスの経験があることに驚くしかできなかった。こんなクラスの隅にいそうなやつが。付き合ったこともなさそうなやつが。誰かは知らないけど付き合ってる相手がいて、しかもあたしと同じように高校一年で既にセックスの経験があるなんて信じられない。東は静かにしろと言うように人差し指を立てたけどあたしの頭は今しがた東の口から放たれた言葉が頭を占めていて他のことなんて考えられなかった。早く答えろと急かすと東は溜め息をついて「そうだよ」と口早に答えた。あたしはショックを受けて東の制服を握りしめたままその場で唖然とした。

「し、信じらんない……あんたみたいな地味な男って死ぬまで童貞だと思ってたのに……」
「悪かったな……」
「年齢でも誤魔化して風俗にでも行ったの?」
「行くわけないだろ」

文化祭の手伝いがあるからと東は部屋を出ていこうとして、でもあたしは東のセックスの相手がどうしても気になって精一杯引き留めた。東は困ったようにしていたけど、最後は折れて「明日の放課後、ホームルームが終わってから五時までの間ならここで話せる」とあたしの要求を飲んでくれた。それまで地味な男なんて一切興味がなかったけど、そんなやつがどうして童貞じゃなくなったのか純粋に興味があったあたしは喜んで次の日学校に行った。それも朝から。一限が始まる前に教室に行ったのなんて高校に入ってから初めてだったしクラスメイトからは変な視線が向けられたけどあたしはそんなこと気にならなかった。

「ええ?八時から来てた?」
「そうよ」

朝早くから学校に来て楽しみにしていたことを伝えると東はとても驚いていた。あたしが不真面目なのは学校中に知れ渡っていたから東も例外じゃなかったんだろう。あたしの予想通り東は「遅刻するなってよく廊下で怒られてたやつがなあ」と零した。でも肝心の東のセックスについて聞いても有耶無耶にされて、気付いたら五時になっていて東は文化祭の準備があるからと教室に行こうとした。そんな東にあたしは「明日こそ教えてよ」と駄々をこねて、東ははいはいと軽い返事をした。そんな日が文化祭が終わるまで続いて、でも文化祭が終わった時にはあたしはもう東と過ごすことに慣れてしまっていて、どちらから提案することもなく毎日ホームルームが終わるとあたし達は誰も来ない放課後の資料室で話をするようになった。それまで一緒に過ごしていた男と違って、東の話はまるで雪みたいだった。ただひたすらに静かで。すぐ消えてしまうこともあればずっと心の中に残ることもあった。肝心の話の中身は……楽しいかと言われたらそうではないこともあったけど。でも東がしてくれる話はあたしにとっては新鮮だったし何より一緒にいると居心地が本当によかった。そのおかげと言うべきなのかそのせいと言うべきなのかわからないけど、その頃からあたしは学校でセックスをすることがほとんどなくなった。学校だけじゃなくて、外でも。その分それまで構ってくれていた男達はみんないなくなっちゃったけど、離れてみれば案外その人達があたしにとって重要な存在ではなかったことに気付いた。東がいなかったらそれさえも気づけないままだったかもしれない。その頃になってずっと有耶無耶にされていたセックスの相手を東はようやく教えてくれて、そのうち廊下で会った時も話しかけてくれるようになった。きっと学校にも慣れず友達もいないと思ってあたしを気にかけてくれていたんだろう。実際に友達が一人もいなかったあたしは純粋に嬉しかった。中学の時から同級生と馴染むことができなくて寂しいと思い続けてきたけど、東と一緒に過ごすようになってから寂しいと思うことはめっきりなくなった。あんなに知りたいと思っていたはずの東のセックスの相手も「ふうん」の一言で終わらせてしまうくらい、東といろんな話ができるのが嬉しかった。

「東ってあたしの親より親みたい」
「何だそれ」
「あたし小さい頃からそれなりに頭良かったから結構ほっとかれたんだよね」
「へえ」
「今もほとんど家にいないし」
「……お父さんもお母さんも?仕事忙しいのか?」
「うん。だからスカート短くしたら風邪ひくぞ、とか言われたことないの」
「スカート短くするなって、それは先生によく言われてるだろ」
「でも先生達は身体のことは心配してくれないもん」

そう言った時、東はあたしのことをじっと見つめた。まるで本当か嘘か探るみたいに。でもそれ以上そのことについては何も聞かれなかった。ただ帰る時に「何かあったら連絡してほしい」って端末のアドレスと電話番号と、家の住所まで教えてくれた。それが面白くてあたしは笑いながら「いらないよ」って言ったけど、東はいつになく真面目な顔で「いいから」って押し付けてきた。冬になっても結局あたしのスカートは短いままで、東はしつこく「風邪ひくぞ」って口うるさく言ってきた。そして東が言った通りあたしは風邪をひいた。けど風邪をひくのが久しぶりで、どうしたらいいかわからなくて、お父さんもお母さんも仕事で誰もいなくて、しばらく感じていなかった寂しさがどんどん募って、怒られそうだなと思いながら東の家に行った。二月の夜っていう、よりによって一番寒い時に。家で寝ていれば今までと同じように寂しさなんて紛れるはずだったんだけど、甘えられる相手がいる喜びを知ってしまったから他に選択肢がなかった。この世の何よりも東がくれるあの居心地が安心できたから。それで東の家の前に突っ立って、ここが東の家なのかと思いながら電話したら東はすぐに家から出てきてくれた。東に怒られながらこいつもこうやって慌てることあるんだなあって呑気にその言葉に包まれて、コートやらマフラーやらかぶせられて、ホッカイロまでこんなにいらないってくらい持たされた。結局東はあたしの家まで送ってくれて、おかゆとかいろいろ作ってくれた。本当に、親みたいだった。

「俺達、一年の時に噂になってたらしい」
「えっ?」

卒業間近になって、いつもの放課後の資料室で東がぽつりと呟いた。あたしと東が?聞くと東が心底嫌そうな顔で頷くのであたしは笑ってしまった。その時あたしはすっかり東の生真面目さが伝染してしまっていて、先生に怒られることもなくなって、授業もテストもきちんと受けて、友達もできて、元から頭が良かったこともあって成績は東とワンツーを飾るようになっていた。あたしと東が噂になっていたことが可笑しくて笑い続けるあたしに対して東は「呑気だな」と言うように息を吐いた。なっていたということは既に過去の話ということだ。東がその噂のことをいつから知っていたのかは知らないけど、丸く収まってから教えてくれるところも東らしかった。

「付き合ってる先輩とはどうなの」
「特に変わったことはないよ」
「東ってよくわからないから、あんまり不安にさせないようにね」
「……そうなのか?」
「えっ?」
「俺ってよくわからないのか?」
「なにそれ。今更すぎない?」

少なくともあたしは、東が何考えてるか全然わかんないこと多いよ。あたしが口にした言葉に東は瞬きを繰り返した。東は本当に、自覚がなかったらしい。東って本当によくわからないと思うことがそれまで何回かあったけど、その原因がなんとなくわかった気がした。周りを見すぎて自分が今どう思っているのか気付いてない、みたいな感じ。東は周りを客観的に見るためにあえて他の誰との間にも壁を作っているような気がしていた。付き合ってる先輩もそのうち東から離れていくだろうって、東から話を聞いてるだけでなんとなくわかった。こんなあたしのことを気にしてくれてたり、優しいのに。本当に優しい人なのに。でも三年も一緒にいたら嫌でもわかってしまった。東はきっと、誰かを心から好きになることはないんだって。

「風邪ひくなよ」

卒業式の日、東はいつものように親みたいなことを言った。あたしはそれを聞いて笑った。でもその直後にすぐ横にいたあたしの両親に向かって東が「彼女のおかげで楽しい学校生活が送れました」なんて言うから恥ずかしくて、照れ臭くて、死んじゃうくらい嬉しくて、泣いてしまった。その翌日あたしは両親の仕事についてって、住んでいた国を離れた。東はわざわざ見送りにまで来てくれて、また泣き出したあたしに「そんなに泣くと目腫れるぞ」と笑った。

遠く離れた国でも「ボーダー」の活動はたまに報道される。そのニュースを見るたびに東の名前がないか探して、あの日々を思い出している。東は、愛せる誰かと会えたんだろうかって。

そんなことを、考えている。





07

「え、東さんとまだ仲直りしてないの?」
「……だから、別に喧嘩してないってば」
「喧嘩じゃないなら何なの?もう半年経ってない?」

半年というのは合ってます。言いたくなるのを抑えてココアが入った紙コップを傾ける。ラウンジに溢れ返る学生の真ん中で返事をしないわたしに友達は呆れたようにぱちぱちと瞬きをした。

は思ってることすぐ顔に出るからなあ」
「……自分では上手くやってるつもりなんだけど」
「知らない人から見たらね。でも喧嘩する前の東さんとを知ってたら誰でもすぐわかるよ」

喧嘩する前の東さんとわたしを知ってる人ってこの大学内に数人しかいないじゃない。このラウンジ内にだって一人いるかいないかくらいの割合だし、そんな多くないなら別に……。いやこんな言い方じゃ興味を逸らせないだろう。そう思って別の話題に変える方法を必死に考える。

「ねえ、喧嘩って言い方やめない?せめてギスギスしてるとかさ、」
「はいはい」

東さんとって仲良いと思ってたんだけど。そんな追撃の言葉を聞きながらわたしは「失敗した」と思いながら何も答えなくていいようにわざとココアをちびちびと飲んだ。東さんとは仲が悪くなったわけじゃない。争ったわけでもなくて、半年前一緒に出掛けた帰りにわたしが踏み込んだ質問をしたせいで東さんとの居心地が悪くなっただけだ。……それを喧嘩だと言われればそれまでなんだけど。

「もう数ヶ月であたし達卒業だし、それまでに仲直りできないの?」
「……どうなんだろうね」
「ええ?どんな喧嘩したらそんなに長引くの。しかもあの東さん相手に」

そんなのわたしが聞きたいくらいだ。あの日、結局わたしのマンションに着くまで東さんとは一言も口をきかなくて、でも踏み込んだのはわたしだからと思ってその場で謝って、そしたら東さんも謝ってくれて。なんだったら次に会う日の約束は東さんからし始めた。……もしかしたら気を遣ってくれただけかもしれないけど。でも、それで少なくとも自分の中では収まったと思ったのに。その数日後に東さんがボーダーを辞めるとか辞めないとかいう根も葉もない噂を聞いてしまって、そして真っ先に「わたしのせいかもしれない」と根拠もなく思ってしまった。そう思ったことが自分でも衝撃だった。東さんの噂一つでこんなに狼狽えるなんてどうしちゃったんだろうって。だって、今まで東さんの似たような噂なんて死ぬほど聞いてきてたのに。とにかく、東さんを見る目があの日を境に変わってしまったことをまざまざと理解させられたのだ。だからできるだけ東さんに関わらないようにしようと思って、大学では東さんと顔を合わせないように迂回するような道を選んだり、約束も仮病を使って無かったことにしてもらったり、……キャンパス内で会ってもできるだけ早く会話を切り上げるようにしたり……、あとは……。過去の東さん対策を思い返していると、ある事実に辿り着くような気がしてわたしは記憶を掘り返しては埋めるを繰り返す。いや、そんなこと……。だってわたしなりに結構上手くやってた……と、思って……。

……あれ。もしかして、……。

「……ねえ、もしかしてわたし隠すの下手なのかな……?」
「さすがにそれは今更すぎ」

友達が間髪入れずに答えてくれたおかげでわたしの罪悪感は一気に爆発した。数週間前に図書館で鉢合わせしたときも東さんが露骨に顔を引き攣らせてたけど、もしかしてわたしのほうが先にひどい顔をしたのかもしれない。そう思うとこの半年で自分の行動がすべて裏目に出ている気がしてきて眩暈がした。どうしよう。東さんと会わないように避けてることも、約束を取り消したことも、声をかけられてもできるだけ会話をすぐに終わらせていることも、東さんはわたしが東さんのことを嫌いになったからだと思っているのかもしれない。決してそういうわけじゃない。嫌いになったわけじゃない。誤解を解かないと。こういう時ってどうしたらいいんだろう。会って話せるならそうしたほうがいいのかな。でも今になって会いましょうなんて、不自然すぎる。じゃあ、どうすればいいんだろう。家族以外の人とこんな仲になったの初めてだから、どうしていいかわからない。

「あ、やば。バイト行かなきゃ」

そうだ、目の前の人に相談すればいいんだ、と思って口を開いたけど一歩遅かった。困惑しているわたしを置いて友達はバッグを肩にかけ直すなりわたしに手を振ってラウンジを出て行く。バイトに向かう友達を引き止めるわけにもいかず、わたしはラウンジの中で端末を握りしめたままその姿を見送った。

「……はあ……」

何してるんだろ、わたし。息を吐きながら椅子にもたれる。ラウンジの軽い椅子はその衝撃に耐えられずにほんの少し鳴き声を上げた。わたしは不貞腐れた子どものように口を結んで昔の東さんとのメッセージをひたすらに遡った。この頃は仲が良かったなあとか思いながら。……全部自業自得なんだけど。どうしてあんなこと聞いちゃったんだろう。聞かなきゃよかった。そしたら今も東さんと一緒に過ごせてたかもしれない。釣りだって、今まで行ったことがない場所だって行けてたかもしれない。好奇心だけで質問するもんじゃないな、わたし。ばかなことした。

「……さん」

突然低い声が上から降ってきて顔を上げると、視界に端正な顔が映った。わたしが「あ」とばかみたいな声を出すと鋭い目が少し不快そうに動く。

「二宮くん」
「……こんにちは」
「こんにちは。二宮くんがラウンジいるの珍しいね。お昼ごはん?」
「はい」
「そっか。……あ、よければ座る?他に空いてる席なさそうだし」

正面の席を勧めると二宮くんははっとしたような表情を浮かべてから辺りを見回した。でも、ちょうどお昼の時間帯ということもあってやっぱり空いている席はない。二宮くんはちょっと嫌そうな顔をしたけど軽く会釈をしてから椅子に腰を落とした。二宮くんって東さんと同じで表情があんまり顔に出ないけど嫌な時だけ例外なんだな。でもわたしだって顔見知り程度の先輩と相席になったら気を遣うから気持ちは少しだけわかる。しかも、直接の知り合いならともかく間接的な知り合いだもん。これを機に仲良くなれたらいいなとは思うけど二宮くんとは仲良くなるのに時間がかかりそうな気がする。二宮くんと会話が弾むところもあんまり想像できない。そういえば二宮くんって兄弟いないって言ってたしわたしと同じで一人っ子なんだよね。一人っ子ってそういう人多いのかな。……いや、東さんは一人っ子だけど嫌とか思わないだろうな。そもそもあんまり気にしなさそう。二宮くんが炒飯を食べるのを眺めながらそんなことを考えていると二宮くんが不意にわたしの顔を見た。どきっと心臓が大きく鳴って思わず息を呑む。

「……何かありましたか」
「えっ!?あ、いや……えっと、二宮くんって炒飯好きなの?」
「……いえ。別に」

知り合いがよく作っているので、味が違うのかなと思って。二宮くんはそう答えるとまたレンゲを口に寄せた。変なことを考える子だ。違う人が作ってるんだから味は違って当たり前だろう。……あれ。もしかして今のって言い訳なのかな。少し考えて、二宮くんが嫌な顔をしないで済む言葉を探す。

「ここの炒飯どう?その、知り合いの子が作るのと比べて」
「特にどうというわけでもないです。あっちのほうが美味いとは思いますけど」
「それはそれは……」

二宮くんって素直なのかそうじゃないのかわからない。あっさり返ってきた答えに特に返す言葉もなく端末に視線を落とすと、さっきまで遡っていた東さんとのやり取りが表示されていた。

「あ」
「え?」
「ねえ、二宮くん。最近東さんって元気?」
「東さん?……特に変わったところはありませんけど」
「そっか。ならよかった」
「……?東さんのことなら、今は俺よりもさんのほうが詳しいと思いますよ」

二宮くんは律儀に食事の手を止めてわたしの何の意味もない質問に答えてくれる。それを見てわたしは食べるように勧めた。二宮くんは少し首を傾げてから口を開けて炒飯をまた食べ始める。東さんとわたしが今こういう状態だってこと、二宮くん知らないのか。それにしても二宮くんって結構口大きいな。東さんと会わなくなってから男の人が目の前で何か食べてるところも滅多に見なくなったから新鮮な感じがする。……ちょっと、わたしさっきから東さんのことばっかり考えてない?いい加減にしないと。この半年東さんといかに接触しないかを考えてたから今に始まったことじゃないけど、誤解が生まれているかもしれないけど、そうだとしても考えすぎだ。冷静にならないと、

ビーッ──

唐突に。本当に何の前触れもなく、けたたましい音がラウンジに響き渡った。聞いたことがない機械音に肌が粟立つのを感じる。目の前に座っていた二宮くんがその音を聞くなり立ち上がって、周りの学生も驚いて声を上げたり立ち上がったり、外で何かあったのではないかとラウンジから走り出していく子もいた。なに、この音。気持ち悪い。理由はわからないけどぞわぞわする。不協和音のせいなのか、音量のせいなのか。それとも。また同じ機械音が鳴ってラウンジの窓が震えた。

さん」

周りにつられて不安に駆られてきたわたしに向かって二宮くんが声を上げる。二宮くんの後ろではどんどん学生が外に向かって走っていて、見たこともない光景に眩暈がした。……なに。何が起きてるの?これ、

「二宮くん、これ……っわ!?」

今度は地面から音がしてきた。数秒遅れて身体が大きく揺れて、二宮くんがわたしの身体を机に押し付ける。……地鳴り。地鳴りだ。二宮くんが支えてくれてるから何とかなってるけど、一人だったら椅子から放り出されていたかもしれない。それくらい大きく地面が動いている。机の上に置いていたコップが音を立てながら倒れて、飲みかけのココアが床に広がっていく。ガチャン。と、二宮くんが食べていた炒飯もお皿ごと派手な音を立てて落ちた。

さん、揺れがおさまったら外に出てください」
「えっ……え?」

二宮くんは他の学生と正反対で、至っていつも通りの顔をしていた。まるで慣れているかのような口ぶりに嫌な考えが過って、数年前に世界中で流れたであろう映像がフラッシュバックのように蘇る。

……やだ。うそ。嫌だ。うそだって言って。だってこの四年間何もなかったのに。どうして今になって。

「に、のみやくんは」
「ボーダーに行きます。この音はよほどの事態でないと鳴らない」
「ボーダー……ボーダーって、」
さん」

言うことを聞いてください、あなたは東さんにとって大事な人だから何かあったら俺が嫌です。二宮くんの言葉を聞いて息を吹き返したばかりの光景が消し飛ぶ。近界民が来たんじゃないかとか、死ぬかもしれないとか、隣の県で暮らしている家族が心配するんじゃないかとか、この一瞬で考えたことが全部どこかに行ってしまった。もうわたしの頭は一つのことしか考えていなかった。

「……東さんも、ボーダーに来いって言われてるの?」
さん」
「やだ。わたし、まだ東さんと仲直りできてない」
「……さん、」

二宮くんが眉間に皺を寄せたのが見える。この人と東さんって喧嘩してたのかと思われてるのか、これからボーダーに行くのに愚図られて面倒だと思われてるのか、でも全部どうでもいい。地面がぐらぐら揺れて、またあの不快な音が身体中に広がっていく。生存本能なのか瞼がぎゅうっと強く閉じられる。もう立っているのかそうじゃないのかもわからない。二宮くんの返事すら聞こえない。

「東さん」

大きくなっていく機械の音と学生の叫び声の中で叫ぶように訴える。ガチャガチャといろんなものが落ちたり揺れたり、世界が一気に崩れていくみたいだ。

「わたし、東さんに死んでほしくない」

東さん。東さんはもっと生きないと。生きて、もっといろんな人を育てないと。だってあんなに嬉しそうな顔してたんだから。東さんはきっとそういうことをするのが好きなんです。人が成長していくのを見るのが好きなんです。自分では気づいてないのかもしれないけど。ボーダーでは言われるがままにやってるのかもしれないけど。東さんはもっと生きて、好きなことをして、好きな人と生きてほしい。別れたくないって思うような人と一緒に生きてほしい。それがわたしじゃなくていいから。あんな、何も思ってないような顔で「別れた」なんて言わないで。そんな寂しいこと言わないで。東さん。




 さ
      ん、




08

「東さん。いま忍田さんから東さんに召集命令が、」
「ああ、直接俺のところにも通信がきた。今から行くよ。小荒井は?」
「今のところ生身に影響はなさそうです。さっき奥寺くんと一緒に身体検査を受けに行きました」
「そうか。それならよかった」

ボーダーに戻ると早々に本部から召集がかかった。休ませてくれる気はないのかと思いながらもこんな事態が起きれば当然かという気持ちが勝る。四年半ぶりに近界民が侵攻してきた上に、通信を聞いていた限りだと民間人ではいなかったもののボーダーで死者が出ているのだから。小荒井も捕獲されそうになったし、……あの瞬間はさすがに生きた心地がしなかった。あんな思いはしばらくしたくない。

「っ、うわ」

人見と話しながら作戦室を出ると急に人影が見えて思わず声を上げる。普段は落ち着いている人見もさすがにこの状況では緊張していたらしく俺とほぼ同時に短い悲鳴を零した。いつから待っていたのか、廊下の壁にもたれていた二宮が身体を起こす。俺に叫ばれたことが不服だったのか、彼はほんの少し眉を顰めていた。

「二宮か……驚かすなよ」
「……すみません」

言いながら二宮がちらりと人見に目をやって、人見は何かを察したように作戦室に戻っていく。作戦室のドアが閉まったのを見届けてから二宮に向き直ると「東さんに頼みがあって」と告げられて今度は俺が眉を顰めた。わざわざあの二宮が一人で。通信も介さずに。忙しいのは俺と同じはずなのに。よっぽど他人に聞かれたくないことなのか。

「……さん」
「えっ?」
さんが、心配してました」
「……と一緒にいたのか?」
「はい。大学のラウンジで、」
「無事なのか」

二宮の言葉を遮るように口が開く。俺が我に返ったのと二宮が目を丸くしたのはちょうど同じくらいで、でも先に元に戻ったのは二宮だった。

「無事です。ただ相当狼狽えていたので、直接避難所に連れて行きました」
「……そうか……。ありがとう」
「東さんのことを心配していました」
「……は、」
「自分のことはいいから東さんを助けてくれとしきりに言ってました」
「……」
「トリオン体のことを話せたら俺も楽だったんですけど」

二宮が要件以外のことを口にするなんて珍しいこともあったものだ。しかも、気まで遣ってくれているらしい。きっとここに来るまでに何かあったのだろう。と大学のラウンジに一緒にいた時に本人から何か聞いたのか?いや、でもが自分から俺とのことを話すとは考えられない。何かきっかけがないと、……いや、それよりがどうして俺のことを心配するんだ?半年前のあの時、俺のことを嫌いになったんじゃ、

「……東さん、喧嘩してるんですか」

二宮が続けた言葉を聞いて頭を抱えたくなる。くそ、何で知ってるんだ。

「二宮」
「はい」
「それ、誰から聞いた?」
さんが言ってました。まだ仲直りできてないと」
「……はあ?」

が?聞き返すと二宮はこくりと頷いた。どうなってるんだ。仲直りできてないって、それじゃまるでは俺と話したいと思ってるみたいじゃないか。この半年散々俺のことを避けてきたのはだ。なのに、どうして。混乱している俺に向かって二宮は平然と言葉を続ける。

「俺はさんのことをまったく知りませんが、それでもあんなに動揺しているのは異常だというのはわかりました」
「……」
「後味が悪い。東さん、何とかできませんか」
「……そこまで酷かったのか?」
「はい」

二宮がここまで言うのだからそうなんだろう。そうか、頼みってこれのことか。気分が悪いからその原因である俺に何とかしろと。そしてが落ち着いたのかどうか教えてくれと。そういうことか。目の前の不愉快そうな表情をなんとか戻せないかと必死に頭を動かしたけど、結局ため息を吐くことしかできなかった。

「二宮、はどこの避難所にいる?」

聞いてみると二宮の顔が少しだけ緩んだ。会いに行けるのは今日になるか明日になるかわからない。ボーダーから解放されるのがいつになるかわからない上に既に憂鬱だ。当たり前だろう。好き好んで自分のことを嫌いになった人間に会いにいく物好きがこの世にいるか?しかも相手はあのだ。俺が今この世で一番どうしたらいいかわからない相手だ。でも俺が行かないときっと二宮は納得しないし、……。いや。違う。二宮を理由にするのはおかしいだろう。むしろ二宮には感謝しないといけない。近界民と戦っている間も頭から離れなかったの顔を見る口実を作ってくれたのだから。

「そういえば二宮の彼女は?大丈夫だったのか?」
「はい、さっき連絡が来ていました」
「そうか。……二宮も早く会いに行ってやれよ」

俺の言葉に二宮は頷いてから「あいつはそんなに心配ないと思います」と平然と答えた。二宮の彼女とは一度だけ会ったことがあるけど、確かに二宮の言う通り落ち着いた子だった。

「ありがとう。二宮」

俺の言葉に後輩は心なしか顔を明るくさせたように見えた。気がした。




09

さん、さん」

呼ばれた気がしてあたりを見回す。すると体育館の入り口で女の人がわたしに手招きをしているのが目に入って慌てて立ち上がった。この避難所に避難してきた人の面倒を見てくれているボーダーの人の一人だ。彼女がわたしを名指しで呼ぶなんて何かあったんだろうか。床に寝転んだり座ったり、時間を持て余している人の隙間を縫って駆け寄ると彼女はわたしの顔をじっと見つめてから口を開いた。

「人が来てる。さんに会いたいって」
「わたしに?……もしかして家族ですか?」
「ううん。ボーダーの隊員」

危ないから来るなとあれほど言ったのに両親が来てしまったのかと思ったのも束の間。彼女の返事に心臓が止まった気がした。ある人の顔が浮かんで、どうしようと髪を耳にかける。だって、まさか来るなんてこれっぽっちも想像してなかったんだから。……待って。まだあの人だと決まったわけじゃない。

「……どうする?もう夜だし帰ってもらう?」
「……え、」
「あいつは……会いたそうにしてたけど」

あいつ。あいつ、って言うってことは知り合いなんだろうか。今度はわたしが目の前の女の人をじっと見つめる。すると彼女はわたしを真っ直ぐに見つめ返して、そのせいでなんだか嘘をつけないような気持ちになった。会いたくなかったと言えば嘘になる。まだあの人だと決まったわけじゃない。でもわたしに会いに来るボーダーの隊員で、他に思い当たる人がいない。もしかしたら後輩のボーダーの隊員の子かもしれないけど。それでもどうしても期待してしまう。わたしが短い返事をすると彼女は頷いて外を指差した。会釈をして、少し乱れている髪を直しながら外に出る。どうしよう。大規模侵攻が起きた昨日からお風呂入れてない。大丈夫かな。服だって着替えられてないし。体育館の外に出ると冷たい風が頬を刺してきて思わず目を瞑る。そして再び瞼を開くと少し離れた街灯の下に見慣れた姿を見つけた。吐いた息が白い煙になって空に浮いていく。

「……東さん」

東さんがわたしを振り返って、それから驚いたように目を丸くして声まで上げたものだからわたしもつられて驚いて脚を止めた。そんなわたしに東さんは足早に向かってきて自分の上着に手をかける。

「こんな寒いのにコートも着ないで出てくるなよ」
「ご、ごめんなさい……何も考えないで来ちゃった」
「何もって……」

東さんは呆れたように息を吐きながら、まるで子どもを心配する親のように着ていたコートをわたしの肩にかけた。断ったけど「いいから着ろ」と言われた。「すぐボーダーに戻るから」とも。その言葉に、この人がボーダーの隊員である現実を改めて突き付けられたような気分になった。

「怪我は?大丈夫なのか」
「は……はい。あの時のこと、あんまり覚えてないんですけど……二宮くんが連れてきてくれたみたいで」
「ああ。二宮から聞いたよ」
「……さすが、東さんの後輩ですね」
「……」
「東さんがたくさんのことを教えたからです、よ……」

苦し紛れのわたしの言葉を聞いても東さんは何も言わない。それがさらにわたしの居心地を悪くさせて、どこを見ていいのかわからずに東さんのお腹のあたりに視線を落ち着かせる。街はわたしの気持ちなんて知らないみたいでただただしんと静まり返っている。カゲウラくんのお店みたいに雑音の一つでもあればこの沈黙を埋めてくれるのに。それにしても東さん、何しに来たんだろう。わたしが東さんのことを避けてたことは東さんはとっくに気付いてたはずだから今わたしに会いに来る理由は一つもないはずだ。むしろ会いたくないと思ってたって不思議じゃないくらいだ。

「……
「……」
「俺のこと、どう思ってる」

なんて正直な質問なんだろう。東さんってこういう人じゃなかったはずだ。いつも頭だけで物事を考えて、直接的な物言いはしない。本心なんて尚更安易に口にしない人だった。いつから東さんはこんな人になった?初めて会った頃は全然そんなことなかったじゃない。当たり障りのない話ばっかりして、相手を自分の思う通りに動かすのが得意で、隠すのが上手くて、付き合った人と別れても何とも思ってなくて。そういう人だった。こんなに不安そうな声を出す人じゃなかった。答えを返すだけなのに喉のあたりが熱くなっているせいか声が出ない。言えない。言えるわけないに決まってる。だって言うのが怖いんだから。わたし初めてなんだもん。人のことこんな風に思うの、初めてなんだから。どうしていいかなんてわかるわけない。

「嫌いになったのか」

必死に首を振ると頭の上から息を吐く音が聞こえた。わたしはさらに視線を落として東さんの靴をじっと見つめる。嫌いなわけない。ずっと、ずっと心配だった。東さんはボーダーに呼ばれてどうなったんだろうって、今朝避難所で配られた新聞を読むまで気が気じゃなかった。嫌いになんかなってない。なるわけないって言えばいいのに、言えない。その代わりにアスファルトにぽたぽたと染みが出来ていって東さんがまた息を吐いた。


「……」
「何で泣いてるんだよ」
「……」
「俺は、を泣かせるために来たわけじゃない」

じゃあ何で来たの。わたしは会いたくなかった。会いたかったけど、会いたくなかった。こんなこと言ったらまた呆れられるだろうか。それとも何言ってるんだよって笑ってくれるんだろうか。後者だったら嬉しいんだけど。

「ごめん」

何を謝ってるんだ、この人は。何も悪いことしてないのに。謝らなきゃいけないのは急に態度を変えて避け始めたわたしだ。何も言わなかったわたしが悪いんだ。自分は死んでもいいって東さんが思ってるって知ったあの時、わたしは東さんのこと好きなんだってわかっちゃって、どうしていいかわからないで一人でばかみたいに空回りしたわたしが悪いのに。何で謝るの。

「俺はと話さなくなってから、ずっと寂しかったよ」

この半年、ふとした時に思い出すのがのことばっかりで嫌になったくらいだ。東さんが自嘲するような笑い声を出すのが聞こえる。やだ。そんなこと言わなくていい。気休めの言葉なら余計に聞きたくない。聞けば聞くほど頭が動かなくなる。こんなみっともないとこ、見られたくない。そう思うほどにぼろぼろ涙が落ちていって必死にそれを拭い続けるけど、なかなか止まってくれない。

「相手を泣かせたことなんて何回もあるのに、が泣いてるとどうしていいかわからなくなる」

何回も女の人泣かせてるなんて最低な男じゃないですか。どうしたらいいかわからないならボーダーに戻ったらいいのに。すぐ戻るってさっき言ったばっかりなんだから。そもそも昨日あんなことが起きたばっかりで東さん忙しいはずでしょ。なのに何でそんな時期にわたしなんかのところに来たんだ。わたしだって、東さんの言葉を聞きたくないならさっさと体育館に戻ったらいいんだ。戻ったらいいのに、脚が動かない。こんなに泣いて東さんのこと困らせてるのに動きたくない。東さんと、もっと一緒にいたい。生きててよかったって今すぐに抱き付きたい。この人が生きていたことが何よりも嬉しい。

「俺はに嫌われるのが怖いんだ」

東さんがわたしのことを呼ぶ度に苦しくなる。今まで感じたことのない感情が、わたしのかわりに泣き声を上げている。嫌い。嫌いだ。東さんのことが、大嫌いだ。東さんが生きてることが嬉しいのに、嫌いになんかなってないのに、嫌いで仕方がない。自分の中が矛盾ばっかりで嫌になる。この人のことでどうしてこんなに心が動かされるんだろう。こんな気持ちにさせられてもわたしは何で今もこうやって東さんの前から動けないでいるんだろう。

「もう死んでもいいなんて思ってない」

当たり前だ。東さんが死んじゃったら困る人がどれだけいると思ってるんですか。今回の大規模侵攻でも東さんがしたことは新聞で読んで知ってるんだから。東さんがいなくなったら大変なことがたくさん起きるんだから。死んだら絶対許さないんだから。

と一緒に生きたいんだって、わかったから」

何でよりによってわたしなの。わたしが東さんに何をしたって言うんですか。何もしてない、ただの後輩の一人じゃない。なのに何でそんなこと言うの。とうとう呻き声みたいなひどい声が自分の声が漏れて、その拍子に身体が揺れたせいか東さんがずれたコートをかけ直してくれる。

「きらい……」
「……」
「きらいです、東さんなんて」
「……うん」
「自分は死んでもいいなんて言うし、本当のことは言わないし、付き合った人と別れても何とも思ってないし、」
「……
「……きらいなのに、……きらいになれない」

「東さんのこと考えると、苦しい……」

言い終わった頃に後頭部に何かがすべり込んできてそのまま東さんの胸のあたりに引き寄せられる。わたしは東さんにもたれて彼の香りがする服に額を擦りつけながら泣き続けて、東さんはわたしの頭を撫で続けた。

「ばか」
「馬鹿でいいよ」
「きらいです」
「嫌いでもいい」

俺はのことが好きだよ。東さんがそんなことを言うのでわたしも同じことを口走ってしまった。ばかなのはわたしのほうだ。こんな人好きになっちゃってどうするの。この先苦労しかしないじゃない。でもそんな不安も東さんの手で丸め込まれてしまって、わたしは涙を流しながら目を閉じた。東さんの手がするりとわたしの髪の間をすり抜けてはまたすべり込んで来る。

「泣かせたくなかったのに、結局泣かせちゃったな」

東さんはそう言って小さく笑った。




***

ハルは小さい頃から欲がなかった。二十年以上ハルと一緒にいるけど、「あれがしたい」とか「これがほしい」とか、そういうことをハルの口から聞いたことはただの一度だってなかった。それどころか、さっきまで一緒に遊んでた友達を少し離れたところから眺めたり、転んで泣いている友達を背負って保健室まで連れていったり、子どもの中に大人が混じっているような空気をハルは持っていた。友達の親はもちろんオレの親も口をそろえて「春秋くんはしっかりしてるね」とよく言っていたし、お前も見習えと叱られたこともあった。オレがハルと正反対でヘラヘラしてて馬鹿なのもあったと思うけど、それくらいハルはオレ達と違った。でもオレとハルはそれなりに仲が良いと思う。今までも、これからも。

「ハルってさ、好きなやついるのか?」
「え?」

中学二年の時、性に興味津々だったオレはハルに恋愛の話を持ち掛けたことがあった。兄の部屋であるものを見てしまったオレはその秘密を誰かに言いたくて仕方がなかったのだ。ハルはオレと違って兄弟がいないし、親との距離も良い塩梅だったから、言ってもいいだろうと思ったのだ。しかも、ハルは人に話しても良いことと悪いことの区別をつけるのが異常なほどに上手い。誰彼構わずべらべら口を開くようなやつじゃないことをオレはわかっていた。

「ハルだって好きなやつとか気になるやついるだろ」

ハルはミネラルウォーター。オレはコーヒー。お互いに自転車に寄りかかって、好きなものを飲みながらそんな話をしていた。学校の帰りに制服を着たままそういう話をして、なんだかオレはそわそわしていた。ハルは相変わらず落ち着いてたけど。

「付き合ってる人はいるよ」

ハルの答えはオレの予想を遥かに超えていた。この時、ハルはオレとは違う次元にいるんだということを改めて思い知った。だって、好きな人をすっ飛ばしてハルには付き合っている人がいるなんて、オレはこれっぽっちも知らなかったからだ。実際にハルが女子と二人きりでいるところなんて見たことがなかったしそんな噂も一度だって聞いたことがなかった。きっとハルはそういうことを隠すのが上手だったんだろう。それからオレはハルを質問攻めにした。相手は誰なのか、いつから付き合ってるのか、どっちから告白したのか、どこまでしたのか、とか。細かく覚えてないけど、とにかくいろいろ。今思い返すととんでもないことを聞いていたと思う。それでも事の流れに沿ってそれらの質問に律儀に全部答えてくれたハルは本当にすごい。同じことをされたらオレなら鬱陶しいと思うだろう。ああ、でもハルにだったら話していいと思ったかもしれない。何はともあれ、ハルは当時一つ上の先輩と付き合っていたそうだ。しかもその先輩は美人なことで有名だったので、その人だと知った瞬間にオレはぶっ倒れるかと思った。オレだったらしぬほど自慢するのに。ハルはそれを人に打ち明けるどころか、聞かれない限りは自分から話すことはないと言ったのだ。しかもただ好きだと言われたから付き合っていて、その先輩とキスをしたいとかセックスをしたいとか、そういうことをしたいということはまったく考えたことはないということだった。それを聞いてオレはまたぶっ倒れるかと思った。

「……ん?」

人生で唯一、ハルが女子と二人でいるのを見かけたことがあった。高校にあがった年の冬だったはずだ。その日、オレは昼間に部活用のシューズを干していたのを思い出してベランダに出た。すっかり冷たくなったシューズを摘みながら部屋に戻ろうとして、外に一人の女子が立っているのが視界に入ったのだ。休日の夜にも関わらずその子は制服を着ていて、真冬なのにコートも着ないで短いスカートのまま脚を晒していた。見るからに寒そうだったその出で立ちは今でも妙に頭に残っている。その子はハルの家の前でじっと立ってしきりに端末を気にしていた。どうしたのかと思って見ていたらハルが家から出てきて、その子にコートやらマフラーやらを被せた後に並んでどこかに歩いて行った。

「違う。彼女じゃない」

翌日、親の旅行のお土産をハルの家に持って行ったついでにハルにそのことを聞いてみた。オレとハルは中学は同じだったけど高校は別で、でも家が隣だったから顔を合わせた時に立ち話をすることも多く仲の良さも変わらなかった。遠目に見てたからその子の顔がよく見えなかったけど、てっきりハルが当時付き合っていた先輩かと思っていたオレはハルが珍しく強い口調で否定をしたので少し驚いた。

「ハルがそんなにムキになるなんて珍しいな」
「……ごめん」
「謝ることじゃないだろ」
「……この前も同じこと聞かれたんだよ」
「誰に?」
「同じ高校の……ほら、中三のとき同じクラスだった」

その名前を聞いて、数秒経ってからやっと一人の女子の顔が浮かんだ。そうか、あの子ハルと同じ高校だったっけ。そういえばあの子がハルのことを好きだって噂を聞いたことがあったけど実際どうだったんだろう。結構可愛い子だったよな。そんなことをぼんやり考えながら、それならあれは誰なのかと聞いてみるとハルは少し複雑そうな顔をした。そして「隣のクラスの女子」とだけ答えた。ただの隣のクラスの女子があんな夜に一人で家に来るのかと思ったけど、さすがに中学の時よりも少しは成長していたオレはその疑問を口にはしなかった。それにハルが複雑そうな顔をしたのを見て何かあったのだろうとは感じつつもハルのことだからなんとか丸く収めるんだろうと確信していた。それからあの子のことを見ることもなく、大学受験が二人とも無事に終わった頃にさりげなくあの子はその後どうなったのかと聞いてみたら「なんとかなった」と返って来たので安心した。それよりもその時にハルが彼女と少し上手くいっていないと零したことが気になって、その数ヶ月後にやっぱりハルは彼女と別れてしまった。大学も違ったから詳しいことはわからなかったけど。偶然家の前で会った時にさらっと聞いただけで。でもハルは別に悲しそうにしているわけでもなく、「別れたいって言われたんだからしょうがない」と困ったように笑うだけだった。オレはこの時初めてハルには人間関係においても欲がないことに気付いた。

「マジで死にてえ……」
「酒を浴びるほど飲めば死ぬと思ったのか?」
「酔っ払ったら脚すべらせて車道に飛び出せるだろ!」
「死ぬなら家族のためにも人に迷惑かけないほうがいいぞ」
「迷惑かけないって……どうすんだよ、首吊ればいいのか?」
「それだと死体の処理が必要だから樹海に迷い込んでそのまま餓死とか、」
「うっわ!暗すぎるだろそれ!ハルが考えそうなことだな!」
「さっきまで死にたいって言ってたくせに元気だな」

今まで何度もハルを困らせてきたけど、一番困らせたのは社会人一年目の冬だった。正直まったく記憶がないから全部ハルに聞いた話なんだけど。二年半付き合って結婚まで考えていた彼女にフラれたオレは自暴自棄になって居酒屋で死ぬほど酒を呑んでいた。そこで何故かハルに電話をして今すぐ来いと叫んだらしい。ハルが駆け付けた時には酷い有様だったそうで、店員や周りの客に謝りながら会計までしてくれて俺を担ぐように店を出たらしい。さすがのオレも本気でハルに申し訳ないことをしたと思ったけど、あの時にハルが来てなかったらオレは本当に死んでたかもしれない。それくらい彼女と別れたのは辛かったし、ハルが幼馴染でよかったと思った。既に「恋人と別れる」という体験を何回もして尚且つ毎回落ち込んでいなかったハルがオレにとっては死ぬほど羨ましかった。後日どうすればそんなに落ち込まずに済むのか聞いたら、ハルはきょとんとした顔をしてから少し考えこんで、それから困ったように笑ってこう答えた。

「俺は本気で誰かと一緒にいたいと思ったことがないからなあ」

その時ハルの執着心の無さを痛感した。オレはそれまでハルと言い合いをしたことがあっても喧嘩はしたことがなくて、でもきっと喧嘩して絶交してもハルは彼女と別れた時のように「しょうがない」で終わらせるんだろう、って。オレだけじゃない。この世の誰に対しても。ハルの周りにいる人はみんな等しくハルの心に触れることができないのだ。そして数ヶ月後。ハルは当時付き合っていた年上の女の人と別れた。詳しくは聞かなかったけど、初めて付き合った彼女である先輩と同じことを言われて別れたらしい。俺も懲りないよなあってハルは笑ってたけど、ハルはオレと違って頭がいいからどうしたらいいのかわかってるはずだ。わかってるはずなのに、それをどうにかしようとしない。本気で誰かと一緒にいたいとハルが思う日はいつか来るのだろうか。オレは怖かった。ハルがどれだけ自分と違う人間なのか思い知って、きっとこの世の誰であってもあいつの耳には言葉を届けられないことを思い知って、怖かった。ハルが心の底から「誰とも一緒にいなくていい」って思ってるなら、それでいい。ただ、そうじゃないとしたら。本当は誰かと一緒にいたいって少しでも思ってるなら。オレができることがあるなら何でもするのに。でも、オレの言葉はハルの耳には届かない。ハルは小さい頃からオレよりもずっとずっと遠い場所にたった一人でいたのだから。

「なあ、人を好きになるって、どんな感じなんだ」

二十五になって、久しぶりに連絡をとりあったオレ達は飲みに行くことになった。普段は酒を飲む量を抑えるハルがその日は結構飲んでいたから驚いた。オレは社会人三年目。ハルは大学院に進んで三年目。二年ぶりに会ったハルは髪が伸びていて印象が驚くほど変わった。もちろんいい意味で。その髪型似合ってるなと伝えたらハルは「ありがとう」と笑った。その表情は以前よりもずっと柔らかくなっていた。ハルといるとオレは自然と気が緩んで、それはもしかしたらハルも同じだったのかもしれない。飲み始めてから二時間くらい経った頃、ハルが口を開いてそんなことを言い出したのだ。オレはその言葉を理解できず、ビールのジョッキを片手に持ったままハルの言葉を必死に解体した。周りの音を必死に遮って、その言葉を一つずつ紐解いていって、やっと出たのが「え?」という死ぬほどみっともない声だった。オレのバカ丸出しの声を正面から受け取ってもハルはいつもの表情を保った。

「三つ年下の女の子がいるんだ」

もしかしたらその子のことが好きなのかもしれない、こんなの初めてだ。ハルの言葉はしんしんと降りつもって、でもその表情はどこか戸惑っているようだった。ハルがあんなに感情をむき出しにしているのを見たのはあれが初めてだったかもしれない。ハルが自分から恋愛の話を持ち出したのも、相談らしい相談をされたのも、初めてだった。オレは興奮を抑えきれずにハルの話を根掘り葉掘り聞いた。中学の時に聞いたように。ハルは「落ち着け」とか「うるさい」とか言いながら、それでも事の流れに沿ってすべての質問に答えた。律儀に。丁寧に。本当に、中学の時に答えたように。でも、あの時とは何もかもが違った。ハルはその子のことで頭を悩ませて、どう接していいかわからないとか嫌われているかもしれないとか嫌われたくないとか言って、その口から吐かれる言葉のすべてからその子のことを大事にしていることが伝わってきた。それが嬉しくてオレは途中で泣き始めてハルのことを困らせた。彼女と別れた時の次くらいにハルを困らせたと思う。でもハルは泣いたオレを笑ってくれた。ハルが本気で一緒にいたいと思う誰かと出会えたことが、本当に嬉しかった。

「前話した子と付き合うことになった」

それからしばらくして、ハルからシンプルなメッセージが届いた。ハルらしいメッセージだった。それに対してオレは死ぬほど長い返事を送った。同じことをされたらオレでも鬱陶しいと思うくらいに。でもハルは笑って許してくれると確信していた。その結果「俺よりお前のほうが嬉しそうだな」と、また簡素な返事がきた。そうだよ。と思ったけど、それは送らないでおいた。それはまた次に会った時に直接言いたかったから。まだ見ぬその子のおかげでやっとあいつの耳に人の言葉が届くようになって心にも触れるようになったんだ。どんな子なのかまだ分からないけど、その子に会えたらきっとオレはまた泣くだろう。でもハルのことを大事にしてくれる子だったらハルみたいに笑って許してくれるはずだ。そしたら泣きながらありがとうって、オレの大好きな幼馴染のこと大事にしてやってくれって、そう言いたい。





10

「……え」

ボーダーは続けるよ。春秋さんの声にわたしは瞬きを繰り返した。一方の春秋さんはハンドルを握って変わらず正面を見たままで、しばらくしてからウインカーの音を鳴らした。春秋さんの向こうで風景がどんどん流れていって、わたしはそれをしばらく眺めてストローを咥えて冷たいミルクティーで乾いた口を潤した。

が心配してくれてるのはわかってる」

が言ってた通り、死んでもいい……というか、何かの間違いで死んだらそれはそれでいいかと思ってたのは本当だよ。春秋さんは懐かしいものを見るような目をしながらそんなことを口にした。わたしは足元に視線を落として何も言わずにストローを咥えながら春秋さんの言葉を聞いた。春秋さんに好きだと言われた日にわたしは春秋さんに「あんなことがあったのにまだボーダーに残るんですか」と聞いた。春秋さんが人を育てる場所は何もボーダーだけに限らないのではないかと思って、そう尋ねた。春秋さんはその場では少し考えると返事をして、それから一ヶ月間何も言ってこなかったのにその答えをいま唐突に出してきたのだ。勝手な人だ。でも春秋さんはそう言うだろうと心のどこかで思っていたからわたしはその返事に特に驚くこともなかった。ストローから口を離して容器をホルダーに戻す。

「絶対死んだりしない。約束する」

絶対なんてこの世に存在しないんですよ。春秋さん。春秋さんのほうがわかってるくせに。ずるい。勝手で、ずるい人。この人がいつかボーダーの活動中にわたしの手の届かない場所に行ってしまう可能性はゼロじゃない。そんなことになったらわたしがどう思うか本当に理解してるんだろうか。そう思いながら途中で寄ったコンビニで買ったドーナツを齧る。美味しいんだけど、春秋さんの車にドーナツの欠片落としたらどうしよう。とにかくそれだけは気をつけないと。チョコレートがコーティングされたドーナツを慎重に食べていると、隣から「零しても気にするなよ」という声が聞こえてきた。春秋さんはいつもわたしが言いたいことを先回りして言う。

「俺はどこにも行かないから」

春秋さんを見ると春秋さんはちらりとわたしを見て微笑むとすぐに視線を正面に戻した。初めて会った時と比べて長くなった春秋さんの髪を見つめる。その髪先はわたしの気持ちも知らずに呑気にゆらゆら揺れていて、なんだか憎たらしかった。

「春秋さん、わたしが春秋さんのことどう思ってるか分かってて言ってますよね?」
「ああ。俺のこと好きだって言ってくれたときは泣くほど嬉しかったよ」
「泣いてなかったじゃないですか」
「……そうか。はあの時俺の顔見ようとしなかったもんな」
「……は、」

春秋さんが口角を上げる。その横顔を見つめても彼の意図することが本当なのか嘘なのかもはや知る術はない。これから海釣りに行くというのに既に帰りたくなってきた。わたしやっぱりこの人のことが嫌いだ。好きだと思った途端に嫌いだと思うことも増えてきて、ままならない。恋愛ってこういうものなんだろうか。わたしが想像していたものと何もかもが違う。もっと、楽しいだけのものだと思ってた。

「そういえば、この前影浦とボーダーで会った時におっさんの彼女って趣味悪いなって言われたんだ」
「……おっさん?」
「ああ。影浦は俺のことおっさんって呼ぶんだよ。高校生からすると俺ってもうそんな年に思われるんだな」

いつかカゲウラくんのお店に行ったときのことを思い出す。アンタ趣味悪いな。確かそう言われたはずだ。

「あんたと付き合ったら大変そうだって俺ですら思うのに、わざわざあんたと付き合うの選ぶなんて趣味悪いとしか思えねえ、だってさ」

そうか。そういう意味だったのか。カゲウラくんって鋭いな。わたしは今になって自分の趣味が悪いことをわかってきた。あの時もっとカゲウラくんから話を聞くべきだった。……多分、聞いても春秋さんのこと好きになってただろうけど。


「はい」
「俺は……もしかしたらのことを最期まで幸せにできないかもしれない」
「……」
「幸せになってほしいって、心の底から思ってる。それは本当だ」

それに。春秋さんは言ってから息を吸って、でもしばらくその後の言葉は吐かなかった。何となく続きの言葉が予想できたわたしはドーナツの最後の一口を口に入れて包みを折り畳むことに専念する。ちまちまと、爪を使って。あんまりそういうことは聞きたくないなと思いながら。

「俺といたら幸せになれないんじゃないかとも思ってる」

ほら、やっぱり。そう言うと思った。薄い紙をできるだけ小さく折り畳み終わったわたしはそれをバッグの中に放り込んでまたミルクティーを口に運んだ。

「いいですよ、別に」

春秋さんに幸せにしてほしくて一緒にいるんじゃないんだから。言うと春秋さんがわたしを見た気がした。運転してるんだからよそ見しないでください。そう言おうとしたけど、春秋さんに目を戻した時には既に春秋さんはもう正面を向いていた。もしかしたらわたしのことを見たのも気のせいだったのかもしれない。

「わたしは勝手に幸せになるから、春秋さんも勝手に幸せになってください」

わたしと一緒にいて幸せだって思ってくれたら一番嬉しいけど。その言葉はミルクティーと一緒に飲みこんだ。わたしの返事を聞いて春秋さんは横で小さく笑った。まるでわたしが言おうとした言葉が聞こえたかのような、ひどく優しい笑い声だった。

「多分わたし、この先も春秋さんには泣かされると思うし」
「それ、俺としては不本意なんだけどな」
「今まで散々彼女さん泣かせてきたんだからわたしだって泣かされますよ」
「なるほど」

何がなるほどだ。納得しないでくださいよ。溜め息を吐きながら窓の外を眺める。だんだん街中の風景より自然の風景が多くなってきて、海までもう少しなんだということがわかった。でもこんな寒い日に海釣りなんて。また連れて行ってくださいとは言ったけど付き合ってから初めてのデートが釣りになるなんて予想もしてなかった。春秋さんとならどこにだって行くけど。何ならどこに行かなくてもいい。家でもどんな場所でも一緒に過ごせるだけで、それだけでもいい。

「でも、少なくとも別れ話で泣かせる気はないよ」
「……え」
「そもそも別れ話もしないと思う」
「何でそう思うんですか」
「だっては死ぬまで俺のこと好きだろ。俺もそうだし」
「……ばか」
「でも、万が一から別れたいなんて言われたら死ぬほど悲しいだろうな」

春秋さんが何気なく言った言葉がなんだか怖かった。本当にこの人はわたしと別れたら悲しさのあまり死んじゃうんじゃないかって、自惚れかもしれないけど本気で考えてしまった。冗談ならやめてくださいと言うと春秋さんは可笑しそうに笑った。冗談でこんなこと言うわけないだろって言われてるみたいで、やっぱりカゲウラくんが言った通りわたし趣味悪いんだなって心底後悔した。それでもこの人のことが好きだって、一緒にいたいって思うんだから本当にどうかしてる。恋愛は人を狂わすものなんだろう。きっと。

、一つだけ頼みがある」
「……何ですか改まって」

春秋さんの低い声に緊張しながらわたしは春秋さんの口が動くのを待つ。わたしがこの人のことを好きになってしまってからどうかしてるように、きっと春秋さんもわたしのことを好きになってからどうかしてる。どうかしてるのを頑張って隠しても、お互いに嫌でもそれに気づいてしまう。わたしがそうであるように春秋さんもわたしのことならきっと何だって気付いてしまうんだろう。

「仮病使ってデートを断るのはやめてくれよ。単純に心配するから」

ほら。やっぱり気付いてた。




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