夜の十一時を回った時計を見てどうしようもなくなりに助けを求めた。昨日のオールが祟ったのかこんな時間から睡魔に襲われて仕方なかったのだ。しかし無抵抗に寝るわけにはいかない。このレポートが終わりさえすれば晴れて自由の身、冬休みが待っている。反対に提出できなければ今学期の単位修得が一気に崖っぷちに立たされるのだ。そのことから目を逸らして学部の仲間とオールしたのは馬鹿だったと後悔の念にはとらわれるが、大学生とはそういうものだと開き直ってる節があるのも否めない。何が言いたいかと言うと、レポートやばい。
何としてでもの存在を欲していた俺は最初のメッセージから返信が来る気配のない相手に対し半ば嫌がらせのように短文の追撃を仕掛けた。そのあと何度目かでようやく返ってきた「分かった」との了承の返事を目にしたときは、満足してふんと笑みを浮かべたものだ。もちろん俺にはある種の確信があるので、こんな夜更けに常識知らずな呼び出しをしても彼女が応じてくれると最初からわかっていた。 それから彼女を出迎えてこたつに座らせ、任務を仰せ遣わし、食糧の餅を焼いてもてなし、俺もしばし休憩と称して海苔を巻いて醤油をつけた餅を頬張った。「やっぱ一人より誰かと食うとうまいなあ」暖かいこたつにもぐってそんなことをしみじみと零した。何か言いたげにしかめる顔のの口から餅がびょんと伸びるのが面白くて笑った。一人暮らしの孤独なレポートとの戦いが一気に晴れやかになったのだ。さすが、俺の判断は間違ってなかった。そしての存在には感謝だ。 「太刀川、起きてよ」 脳内でそんな記憶が再生されていたんだろう。突然、の声が脳天の方から聞こえた。気がする。働かない頭のまま聞き返してそちらを向く。と、なかなか深刻そうに眉をひそめる彼女と目が合った。 「レポート、やらなきゃ」 その言葉に、脳はカッと覚醒した。「そうだった!!!!やべえ!!!」自分を叱咤するように声を上げ閉じたノートパソコンを開く。閉じたらスリープモードっていうのになることは最近知った。よかった、固まってはない。それから近くに散らばったレジュメたちをかき集めて適当に目を通すが、頭の中の構成には少しも役立ってくれなかった。どれ見ればいいんだっけと零すとが溜め息をついたのがわかった。やばい。まるで思い出せない。仮眠を取る前の俺は何を考えてたんだ。サアッと血の気が引いていく感覚がする。ちらっと目をやると、パソコンの画面の右下に表示されてる時計が、朝の五時十六分を告げていた。……ああ、そうだ、歴戦の感覚でわかってたんだ。仮眠して予定通りに起きれた試しがないと。 とにかく過ぎたことをぐだぐだ言っても仕方ない。ということも経験上わかってるので俺はおとなしくレポートに向き合うことにする。昨日の夜から手をつけ始めてもうここまで書けてるのはなかなかの成長じゃないか。大学に入るまでまともにパソコンと向き合ったことがなかった俺だが、紆余曲折を経てなんとか一人前にワードを使いこなせるようになっていた。ときどき予想外のアクシデントに見舞われる(電源が入らずパソコンが壊れたと思ったときはなかなかに冷やっとした)こともあるが、大学生活も二年目に突入してかなり経った身として、そこまで悪くないだろう。あとはこの後回しにしがちなレポートとやらを上手にこなせるようになれば…。まあ家に来たときでこそ「計画性を持って取り組まないから」とか小言を垂れてたも今では静かに…って、 「おい寝るな」 あぐらをかいていた足を伸ばして向かいの足をドンと蹴る。なに船漕ぎかけてるんだ、許さん。ハッとしたを睨むとやや驚かれたが、こっちも死活問題なのだ。 「おまえが寝たら俺も死ぬ」 おまえの任務は来たとき伝えただろう。俺が寝ないよう見張ってくれ。おまえが俺の砦なんだって。「なんで一心同体みたいな言い方なの」不服そうに低いテンションのに俺とおまえの仲だろと即答すると彼女はその言葉にちょっと考え込んだようだった。何を今更考えることがあるんだ。だからこうしておまえは今もここにいるんだろ。ワード画面を見ると枠下には課題である文字数まであと500字の数字が表示されていた。あとは考察で埋めれば何とかなりそうだ。ここまで無感動で書いてきたけどいける。俺なら自分の考えを500字書ける。 「あんたみたいな息子の母親には絶対なりたくないけどね」 そのセリフにレポートへの意識を一度切り、つられるようにへ目を動かす。割といつもだが、今日は輪をかけてテンション低いな。というか何つった?おまえ、その歳で母ちゃんと一心同体って発想は、やばいと思うぞ。 「なんでおまえが俺の母ちゃんになんだよ」 「なんでって…例えばの話でしょ」 「照れてんのか?」 「意味わかんないんだけど」 相当可愛げのない照れ隠しかと思ったがそうではないらしい。「あんたがダメ息子で私が母親みたいだって話。あんただってそう思ってんでしょ?」やや自棄っぱちとも思わせる言い草に真剣さを感じさせる、が、……ん? 「えっ、おまえ俺のこと好きなんじゃなかったの?」 「えっ」 「えっ」 沈黙。思わず目を丸くしたが相手も同じ顔をしてる。え、何で驚いてんのこいつ?もしかしてバレてないと思ってたのか? 「だっておまえ、俺と会った頃はなんかこう、ソンケーの眼差しみたいな感じだったじゃん」 「……気のせいじゃない?」 「いや絶対そうだった。あ、コイツ俺に気があるなって思ったもん」 確信なら最初からしてたんだよ。大学一年の最初の講義んとき近くに座ったろ、あんときからちょくちょく視線受けてて、そのあと話すようになってからはボーダー忙しいだろうしとか何とか言って色々助けてもらってたし、あれは確実に俺に気があった。 「だから俺も調子に乗って色々無茶言ったりして愛想尽かされるかなって思ってたのに、なんだかんだ助けてくれんじゃん。やっぱコイツ俺のこと好きじゃね?って思うだろ、男なら」 「……で、あんたは私のことを都合のいい女だと思って今回も呼びつけたわけ?」 「まあ確かにそう思わないでもなかったけど、」 さりげなくノートパソコンを閉じる。さっき上書き保存したから固まっても大丈夫。体よく筆休めしたことをに咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。どうやらこいつは相当余裕がないようだ。都合のいい女、確かに実際、ちょっと端から見たらそんな感じだしなあ。もちろん、俺にとってはそうじゃないからこんな話をしているわけだが。 「ただの母親だったり都合のいい女だったら目の前にいるだけでレポートできないだろ」 「え」 餅もわざわざ焼いてやったりしない。何が言いたいのかと言うと、いいとこを見せたいってことだ。レポート終わってない時点で何をと思われるかもしれないが、俺的には餅を焼いてもてなして、ちゃんと真面目にカタカタやってるのが「いいとこ」に値するのだ。と、いっても相手に伝わってなきゃ意味ないが。でもこいつも今更、ダメな俺でもいいんだろって感じだしなあ。「で、」呆けたまんまの相手よ。 「おまえは?」 問い返す。「はぐらかした気でいるなよ」もうここまで来たら観念しろって。にやっと笑うとムッと口を尖らされた。そのまま逃げようとこたつの掛け布団に顔を隠そうとするから、しょうがないなと呆れながら「餅でも食うか」と時間を与えてやることにする。立ち上がるとき見えた赤い耳は、ずっと入ってるこたつのせいじゃないんだろうなと思うと心底愉快だった。 ![]()
( title:国境の南 )
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