さて、ちょうどいい時間になった。


時間を潰す目的で適当に立ち読みしていた雑誌を棚に戻してコンビニを出る。何も買わずに出てきたが、こんな時間だから店内の客は俺を含め二人だけで、店員も暇なのか頻繁に裏に引っ込んでいたしこちらのことなんて全く気にしていない様子だったからまあいいだろう。目的どおりにいったら、時間を潰させてもらった感謝がてら何か買わないといけないような気もするけど。

スマホの電源を入れて時刻を確認する。あと五分で午前二時。明日は土曜日でよかった。学校もないしバイトも夜だから朝起きれないという心配はない。しかし、心が浮き立つのは別の理由だということはわかっていた。

吐く息が少し白い。もうそんな季節になっていたことに少し驚く。この時間に外を歩くのはさすがに寒い。しかも、今日はマフラーを忘れたから余計にそう感じる。コンビニの中では全く気にならなかった首をすくめながら、あの人はこんな時間まで外にいたのか、と改めて二日前のことを思い浮かべる。そう、ここの信号で、寒そうに指先を擦り合わせながら歩いていて・・・・あれは、もしかして、



さん」



思わず声に出してしまっていた。この辺りでさんに会うかもしれないことはわかっていたのに、呼び止めなきゃという焦りと、思い浮かべた人が気づいたらいたという驚きのせいだ。期待はしていたけど、まさか。さんの肩がびくりと跳ねる。こんな時間に人と会うとはまず思ってないだろうし、少し声が大きくなってしまったせいで驚かせてしまったかもしれない。烏丸くん、と俺を認識したさんの肩の力がふっと抜けた。すみません、驚かせてしまいましたか。そう一言言えばいいだけなのに、出てこない。謝罪の本当の理由が必ずその後ろに付いて回るせいだ。



「こんな時間に何してるの?」
「・・・・・・さんこそ」



さんから話題を提供してくれて助かった、が、その問いに冷静に対処できるほどの余裕はまだなかった。質問を質問で返すはめになる。準備していた言い分を持ち越すことになった。くそ、かっこ悪い。



「バイトだったの」



さんは素直に答えてくれた。しかし、一時的に回避しただけに過ぎない。もう一度されるであろう問いに身構えていたせいで、随分と適当な返事をしてしまった気がする。



「そういう烏丸くんは?」



ほら、きた。



「俺もバイトすよ」
「えっ・・・・・・こんな時間まで?大丈夫なの?」



一瞬見抜かれたのかと思ったけど、その心配はすぐに打ち消した。ああ・・・と思わず声を零す。この人はごく普通に俺の心配をしているだけだ。確かに、世間的に高校生が出歩いていい時間じゃない。



「知り合いの店なので遅くまで出してもらえるんです」
「そっ・・・・・・か」



少し、嘘をついた。
バイトがあったのは本当。遅くまで出してもらえるのも本当。でも俺は、さんを待っていた。



さん」



さっきは口走るようにしてしまった名前をもう一度呼ぶ。今日は、この一言を言うために待っていた。



「途中まで一緒に帰りましょう」






さんとはほとんど話したことはないけれど、俺は一方的に彼女のことを知っていた。知っていたというより、見ていただけだけど。二日前、バイト帰りのこの時間、さっきの信号で偶然さんを見たのが始まりだった。あの日は店長の「烏丸くんがいてくれると売上が倍になるから本当にありがたい」という言葉から始まった長話に付き合ったせいで遅くなった。さんだとはすぐ気づいたし、こんな時間に一人で歩くなんて危ないんじゃないか。俺も人のこと言えないけど、彼女は女性だ。俺より四つくらい上の、女性。声を掛けて送った方がいいのだろうか。でもさんとは顔を知っている程度の関係だし、かえって迷惑じゃないか。ためらっていたら、さんは点滅し始めた信号を走って渡って行ってしまった。カチカチと点滅する光が、さんを連れ去っていくように見えた。俺はその信号を右に曲がらなければならなくて、信号も赤になってしまったし追いかけるのは憚られた。今はさんには嘘をついて三つ先の信号まで一緒に歩いているけど。

あのさんの後ろ姿が離れなくて、次のバイトのときは声を掛けてみようと思った。さんがどうしてあの時間いたのかも、次も会えるかも当然わからないし確証もない。ただ、期待が膨らむばかりで会えなかったときのことなんて想像もしていなかった。



「烏丸くん、マフラーは?」
「忘れました」
「寒いでしょ。マフラー貸すよ」
「いや、」



マフラーを忘れたのは単なる俺のミスだ。今日はこの前より早くバイトが終わって控え室で時間を潰させてもらったけど、それでもいつまでも居座るのもなんだか気が引けてコンビニに移動した。今日は最初からそうしてさんを待つつもりでいたのに、やはり浮かれていたのだろうか。なんとなく居心地が悪くなって特に意味もなく首に手をやる。だからさんからマフラーを借りるなんてとんでもない。そう思って慌てて自分のマフラーに伸びたさんの手首を掴んだ。コートの上からでもわかる、女性の細い手首だった。



「だめです。さんが風邪ひきますよ」



言い訳に近い言い分だったけど、本当のことだった。さんを待っていたのも、マフラーを忘れたのも全部俺自身が勝手にしたことだ。好意はありがたいけれどもしさんに風邪をひかれてしまったら、待ち伏せしておいて言えることではないが、俺の勝手さに巻き込んだことになりそうで、それは本当に困ると思った。



「俺は大丈夫なので」
「わ、わかった」



さんはなんとか納得してくれたようだった。とりあえずほっと胸を撫で下ろして手首を離す。力を入れすぎてはいなかっただろうか。そんなことにも気を配れないほど必死になってしまった自分が恥ずかしい。なんだか思うようにいかないことばかりだ。たださんに声を掛けて一緒に歩いているだけなのに。嘘を二度もついた罰だろうか。そうでなければ、あの日のさんを見てからおかしくなってしまったのかもしれない。青から赤に変わろうとする光を思い出す。色の意味通り、さんと俺を阻もうとする光だった。



「えっと、それじゃあ・・・」



さんが気まずそうに切り出す。いつの間にか三つ先の信号まできていた。しまった、ここまで沈黙を貫いてしまった。今さらしても遅い後悔が襲ってくる。歩行者信号は青を示していた。ということは、さんはこの信号を渡るのだろう。俺は偽りの帰路をなんと説明しただろうか。さんの言葉から察するに信号を渡らないようだけど、右に曲がるのか、左に曲がるのか。いや、そんなことはどうでもいい。あの青い光に従ってさんは行ってしまう。ただ、声を掛けてみよう。最初はそう思ったが、それだけでよかったのかと自問自答する。一緒に歩いただけだ。何を話そうだとか、そんなことまで考えていなかったし、実際何か話すわけでもなくここまできてしまった。そんなことに今さら気づき、慌て、戸惑う自分がいる。



「あの、」



カチカチ。青信号が点滅するのを視界に捉えたら、勝手に言葉が出ていた。



さん、って呼んでもいいですか」



このまま別れたくない。あの日俺とさんを阻んだ光を遮るように向き合ったけれど、いくらなんでも唐突すぎたし、不自然だ。少し不安になってさんを直視できなくて視線を落とした。



「・・・・・・いいよ」



実際には数秒程度の沈黙だったのだろう。しかし、その沈黙が痛くて耐え難かった。だから、さんが言葉を発したと同時に思わず勢いよく顔を上げた。目が合う。少しだけ緊張したような面持ちだったけれど、拒絶の色は見受けられなかった。ああ、今、いいよと言われたのか。言葉の意味を理解するのに数秒要した。そして同時に、胸が圧迫されるような高揚感が襲う。



さん」



車が走り去った音が背中から聞こえた。風が首元を撫でるように吹く。寒いとは思わなかった。むしろ、一言名前を呼ぶだけで火照ったこの身体を冷やしてくれるならちょうどいい。今日はマフラーを忘れてよかった。次の一言を言えば、さらに身体が熱を帯びるに違いない。



「やっぱり、家の近くまで送らせてください」



最初からこう言えばよかった。言葉の順序を間違えた。それがなんだか可笑しくて、さっきからうまくいかない自分自身に笑えてしまう。さんの家までの話題についてではなく、この一時だけではない、確実に次に繋がる言葉を考え始めるあたり、散々かっこつかないところを披露したおかげで少し余裕が生まれたかもしれない。いや、少しどころではない。返事をもらう前から先の先まで考えているのだから。でももう、沈黙は痛くなかった。








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16.01.13
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