ふわりふわりと漂う煙をぼーっと目で追う。木曜日午後十二時三十三分。スマホの画面にはそう記されている。五限開始まではあと二十二分。でも授業開始ギリギリまでここにいると友人にいらぬ心配をかけてしまうだろう。一本終わったら大人しく教室に戻るか。
 取り留めなく考えつつ、煙を長く長く吐く。

「……さんか?」

 唐突に、午後のぬるま湯のような平和な静寂を破って、凛と澄んだ声が響いた。反射的に振り向く。振り向いてから後悔した。鮮やかな赤い髪、金と赤のヘテロの瞳。

「……」
「……」

 沈黙が流れる。右手の人差し指と中指で挟んだ煙草からぽとりと灰が落ちた。




「喫煙者だったのか」
「うっ、いや 、これは、そのっ」
「喫煙者なんだろう?」
「……はい」

 赤司くんの声に侮蔑するような意味合いは感じられなかったけれど、なんとなく叱られているような気になってしまう。左手の携帯灰皿に煙草を押し付けながら私は顔を俯けた。
 こんなところに人が来るなんて思ってなかった。完全に油断していた。
 昼休みの半ば、部室棟の裏、特に廃部になった陸上部の真裏は人が来ることが滅多にない。高校入学当時、受験生だった中三の頃に喫煙の習慣がついてしまった私には、昼間に一本でも吸える場所が必要だった。うろうろと探し回った挙句、漸く落ち着いたのがここだったのだ。今まで人が来たことは片手で足りるほどしかなかったし、人が来そうになったらすぐ片付けその場を立ち去っていたから、今日こうして赤司くんに見られたことは本当に、予想外だった。

「……もう吸わないのか?」
「えっ?」

 煙草を片付ける仕草をじっと見つめていた(らしい)赤司くんは、どこか残念そうな 声音で言う。表情は知覚できるほど変わらないが、僅かに小首を傾げて。

 赤司くんは同じクラスの男の子である。中学は東京だったと聞いているので京都の人ではない。尤も、この洛山高校は名のある学校であるから、県外からの学生は大学並みに多い。事実、私も京都生まれではなかった。赤司くんが東京の人であることを何故私が知っているかだが、それはひとえに彼が有名であるからだ。彼は入学当時から新入生代表挨拶でその容姿の美しさからまず目立ち、後に彼がバスケ界では名高いあのキセキの世代の主将であることが広まり、さらに新入生ながらバスケ部名門であるうちの主将になったことでその有名さに拍車をかけた。
 彼に逆らえばありとあらゆる学生は何故か転ばされるという噂も流れ、 そんな人物と私は何故か二年連続で同じクラスなのであった。そのくせ一度も会話らしい会話をしたことはない。だってなんか怖いし。
 というわけで、今、何故か片付けようとする私を見て怒るでも機嫌を損ねるでもなく、むしろ愉快げな赤司くんを私はきちんと理解することができなかった。

「えっと、うん……」
「僕のことなら、気にする必要はないが」
「いやぁ……」

 無理でしょ。心の中だけで呟く。口に出して言う勇気はない。

「意外だな。さんは真面目な人間だと思っていたんだが」

 バカにする、というよりは純粋に驚いている、寧ろ感心しているような口ぶりだ。

「……不真面目なわけじゃないよ?」
「ああ、だから意外だと言ったんだ」

 赤司くんの仰る通り、私、はそこそこ真面目な人物として通っている。成績も赤司くんに次いで学年二位という位置に収まっているし、生活態度も良好、服装検査などで引っかかったこともないし遅刻もしたことがなかった。生徒会に入ってバリバリ活躍する、というような真面目人間ではなかったが、成績がいい以外は特に大した特徴のない、無難な人間なのだ。
 煙草だって、別に悪ぶって吸っているわけではない。私の家は両親兄全員ヘビースモーカーで、小さい頃から副流煙とともに育ってきた。家にはいつだって全員分の銘柄の煙草が置いてあったし、私が吸い始めるのも自然の流れといえば自然の流れだったのだ。それを良いことだとは思ってないけれど。健康にも悪いし、何より未成年の喫煙は法律的 に禁止されている。
 一般に“悪いもの”とされている煙草を見て、赤司くんがいい顔をするはずはないのだが、何なんだろうかこの状況は。

「銘柄は? 何を吸ってるんだ?」

 煙たがられる(両方の意味で)と思っていたのに、何故だか興味津々の様子でこちらに近づいてくる。綺麗な赤司くんが近づいてくるのに戦いた私は、腰かけたブロックの上で身じろぐ。立ち上がりこそしなかったが、その場を立ち去ってしまいたい気分でいっぱいだった。

「え……っと、マルボロのメンソール。ライトだけど」

 赤司くんが手を差し出してくるので、その手の平に煙草の箱をそっと差し出した。面白そうにそれを眺める彼がそのまま没収する気でそんなことを聞いているんだろうな、とふ と思い至った。まだ二本しか消費していないのに没収されるのは財布に痛いが、それを教師陣に持っていかれて告げ口される方がもっと痛い。赤司くんの言うことなら誰だって信用するだろう。

「他のは? 吸ったことないの?」
「あるけど……」
「お兄さんのとか?」
「うん、お兄ちゃんはセッター吸ってて……え、なんで知ってるの!?」
「いや何となく」

 兄がいるという話は全くしてなかったというのに。何となくで当てるのはやめていただきたい。心臓に悪いから。

「やっぱり銘柄によって味は違うものなのかい?」
「あー、うん。まあ、かなり違うよ」
「どんなふうに?」
「どんなふうに……? いや、私も喫煙歴長いわけじゃないから……えっと、甘いのとか すごい渋いのとか」

 あの赤司くんと煙草トークをしている。普通に会話したことすらないというのに。しかも何故かとても興味深そうなのである。

「あ、あの赤司くん、あのね、お願いなんだけど……」
「別に誰にもバラすつもりはないよ」

 さらりと、私の言葉を遮ってマルボロの箱をこちらに返してくる。私がびっくりしながら受け取ったら、赤司くんは眼を細めた。――いや、微笑ったのだ。
 赤司くんがこんなふうに笑うところなんて、一年と半年の間、一度も見たことがなかった。いかにも美少年という風貌だったので、私はますます混乱した。なんでこんな人としゃべっているんだろうか私は。

「えっと……なんで?」
「なんで? バラしてほしいのかい?」
「いえ! 滅相もございません!」

 敬礼でもせんばかりの勢いで背筋を伸ばし首を横に振る。そんな様子の私を見て、赤司くんはまた笑うのだ。愉快そうに。美少年にこうも笑われるとなんだか居心地が悪くなる。

「君は面白いよ。僕の周りに今まで喫煙者はほとんどいなかった。そのうえ君は恰好付けるわけでもなく、ただ純粋に煙草を楽しんでいるような雰囲気で吸っているものだから、興味が湧いたのさ」

 なんだか面白い人認定されてしまった。何と返していいのかわからず、「はあ……どうも」と間の抜けた返しになってしまう。何はともあれ、とりあえず明日からここを喫煙所にするのはやめておこうと候補の場所をいくつか頭に思い描く。どの場所も何度か試しているのだが、やはり 安全性+居心地の良さはここが一番だった。

「場所を変えても無駄だと思うけどね」
「えぇっ!?」

 ここ十分間くらいの会話の中で一番驚いた。心臓が妙な跳ね方をして、つい大袈裟な声をあげてしまう。完全に心を読まれたとしか思えない赤司くんの言葉。赤司くんの二色の瞳には未来が映るのだという噂も一時期まことしやかに流れたが、それは本当だったということなのだろうか。
 私が何も言えずに口をぱくぱくやっていたら、赤司くんは堪えきれないとでも言うように、肩を震わせて笑い始めた。クツクツと、愉快そうな笑い声が静かな部室棟の裏に響く。

「単純な思考くらいなら読めるさ、僕じゃなくってもね」

 心なしか馬鹿にされてやいないだろうか。

「無駄って?」
「僕には分かるよってこと」
「……だろうね」

 最早何も言うことはできなかった。赤司くんだからしょうがない。
 彼はちらりと腕時計を覗くと、私の方を向いて「そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」と言った。私もスマホの液晶で時間を確認する。十二時四十七分。始業まであと八分しかなかった。そろそろ行かないとまずいのは赤司くんも同じだと思う。

「うわ、いつの間に……それじゃあ赤司くん、……」
さん」

 立ち上がり、煙草と携帯灰皿をポケットにしまい込みながら赤司くんを見たら、引き止めるように呼ばれた。

「また来るけど、いいかい?」

 ああ、赤司くん、そんな笑顔は反則ですよ。


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photo by:Quartz

(13/08/31)