部屋の外からは中の様子は窺えない。しんとした空気はまるで部屋の主がいないかのようだが、きっとこの中に彼はいるだろう。誰もいないときの彼はやけに静かだ。

「悠一、入るよ」
「おう」

 声をかけたらきちんと返事が返ってきた。そのことに一つ息を吐いて、ドアノブに手をかける。冷たい金属のノブはすでに冷えていた私の指先をさらに冷やした。

 部屋の中はわりに殺風景だ。積まれたぼんち揚げを無視すれば、の話だが。ぼんち揚げさえなければ、この部屋が誰のものなのかは分からないだろう。
 薄暗いのでベッドに横たわる悠一のことはぼんやりとしか見えない。空気を揺るがさないように悠一に近づく。ベッドの隅に腰掛けると、彼は薄っぺらい笑顔を貼り付けた顔で私を見上げた。その顔が一等嫌いだった。
 悠一には私が何を考えているのか、これから何の話をしようとしているのかなんて分かり切っているんだろう。そのくせ何も言ってくれないのだ。ただいつもの笑みを浮かべているだけ。

「どうした?」

 音色だけは優しい声で、でも決して自分から核心には触れない。
 あくまで私が話すのを待っている。

「風刃、何で手放したの」

 彼はしばらく黙っていた。すでに答えは用意していただろうに、あの薄っぺらい笑顔を崩さずに考えているふりをしている。頭の下で腕を組んで枕にしたまま、動揺はひとつも見られない。

「可愛いウチの後輩の為かな」
「……最近玉狛に入ったって子たち?」
「そそ。その中で一人近界民のヤツがいてさ、そいつを入隊させる為にはこれが一番丸く収まるやり方だったんだよ」

 簡単に言うけれどその内容は全くもって簡単じゃない。
 言われて、先ほどすれ違った見知らぬ子たちを思い出した。男の子二人に女の子が一人。たぶん彼らのことだろう。私は彼らのことを紹介されるよりも前にまっすぐこの部屋へやってきてしまったから、彼らのことは欠片も分からない。でも、だからこそ、思ってしまう。
――彼らにそこまでする価値はあるのか。
 意地の悪い考えかもしれない。でも本心だった。悠一が風刃に抱く思いを察しているからこそ。

「いいんだよ。未来はもう、動き出してる」

 静かな声からは悠一の感情は読み取れない。
 私には分からない未来を描いて、その為の最善の選択をしている。それを最善と決めるのはいつも悠一ただひとりだ。どんな選択肢があって、その中からどうしてそれを選んだのか私に理解することはできない。悠一が与えてくれなければ。
 悠一の静かな横顔を見ていたら、決して言うつもりのなかった言葉がほろりと零れた。日常の合間に不意に考えてしまうことだったけれど、それを悠一に伝えるつもりなんて毛頭なかったのに。

「いつか悠一は、私のこともそうやって終わらせそうね」

 みっともなく震えた声に、悠一が少しだけ眉を顰める。
 彼はこれをくだらない考えだと思ったのか、それとも。
 私は彼からそっと目をそらして、自分の膝頭を見つめた。
 悠一にだけ視えるものに、もし私がいない未来が最善だと描かれてしまったら私にはどうすることもできない気がする。彼が今回、風刃を手放したように彼が私を手放す日が来るとすれば、私はそれをどう受け止めることができるだろう。

にそんな顔させるほど不安にさせてたなんて、思ってなかったよ」

 悠一が身体を起こしたせいで顔が近くなる。きっちりと真正面から視線を合わせてきた彼の顔は、さっきの笑みを消して少し寂しげに見える。薄暗い部屋の中で、悠一の瞳だけが発光しているように見えた。

「確かにオレには未来が視えるけど、たとえどんな未来が視えようとオレはお前を手放す気はないよ」

 ひとつひとつ丁寧にかみしめるように説かれた言葉は、言い聞かせるような口ぶりだった。その相手はきっと私と、そして彼自身も。
 だから、と続けた声は戸惑いを押し隠せていない。

「そんな泣きそうな顔、すんなよ」

 恐る恐るといったふうに伸ばされた悠一の手が、私の頬に触れてそっと目元をなぞる。目の奥が燃えるように熱い。せり上がってくる涙を到底堪えられそうもなかった。悠一の指が濡れる。涙に触れて、彼こそが泣きたそうに顔を歪める。彼の指から逃れるように頭を振ろうとすると、空いていた左腕がぐっと私を引き寄せてますます悠一にくっつく形になった。ぎゅっと回された腕の力が強くて、少し息苦しい。

「悠一、肩濡れちゃうよ……」
「オレがお前を手放す気がないって分かるまで放してやんない」
「わ、分かった。分かったから!」

 慌てて降参の声をあげる。私の訴えを聞いた悠一が腕の力を緩めたのでようやく彼の顔を見れるほどの余裕ができた。鼻が触れ合うほどの近さで見つめる。

「いくら未来が視えるからって、大人しくそれに従うほどオレは素直じゃないよ」

 極めて自然に悠一の口唇が頬に、目蓋に、口唇に触れる。ごく当たり前のことを言うように、何の疑いも浮かべない瞳が強い光を帯びている。
 この人を信じたい。強く強くそう思う。いつか分かれ道が来るかもしれない。悠一にだけ視える分かれ道。そうだとしても、みっともなくても彼にしがみつけるだけの強さが、彼の選択を信じられるほどの強さが欲しい。
 両手で力を込めて悠一の背中を掴む。今はただ、それを放さないように。


(15/11/30)

Thank you!! photo :quarz