雲一つない、快晴と呼ぶにふさわしい空だった。 煙がとろけるように漂っては空気に馴染んで消えていく。それを眺め始めてどれほど経っただろう。眠りこけているスマホを起こすとそれは目を覚まして現在の時刻を教えてくれた。しかし日陰といえど太陽の光の存在は大きく、うっすらと浮かぶ文字がよく読めない。スマホを自分に近づけて角度を変えてみると……うん、やっと読めた。午後十二時三十三分。五限が始まるまで二十分くらいあるけど、時間ギリギリに教室に戻ったら友人達に詮索されそうな気もする。これで終わりにしてすぐ戻ろう。そんな、煙と同様にぼんやりとしたことを考えている時だった。 「……さんか?」 真っ直ぐな声が静寂を貫いた。反射的に振り向いて、直後に後悔が全身を包む。視界に映ったのは鮮やかな赤い髪。そして金と赤のヘテロの瞳。撃ち抜かれたはずの静寂は再生し、右手の人差し指と中指で挟んだ煙草が耐え切れなくなったように灰を落とした。 ![]() 昼休みの時間というものはどこに居ても賑やかだ。教室も、廊下も、中庭も、職員室でさえも。その中で、一つだけその喧噪から逃れる場所があった。それがこの部室棟の裏の、特に廃部になった陸上部の真裏。 家族全員が喫煙してて全員分の銘柄の煙草が置いてある環境で育ってきたわたしにとって、喫煙はもはや時間の問題だった。よりにもよって受験まっしぐらの時期に喫煙の習慣がついてしまうとは思わなかったけど。とにかく、そんなわたしには昼間に一本でも煙草を吸う場所が必要だった。でも流石に「中三から喫煙してて」なんて人に言えるわけがなく、高校に入学してからというもの喫煙場所を探すために一人で校内をうろうろしたものだ。そして見つけたのが程よい薄暗さと人気のなさを兼ね備えたこの場所。実際に今まで人が来たことなんて片手で足りるくらいだったし、しかも人が来ると砂利の踏む音がするからすぐに片づけて立ち去ることも可能だった。素晴らしい学校に入学出来たと自分を褒めてやったくらいだ。 ……それなのに。 「喫煙者だったのか」 「いやっえっと、これは……そのっ」 お昼ご飯を食べ終えるとすぐここに来て、ブロックに腰かけて時間を気にしながらも煙草を吸う。そんなわたしの楽園に彼は何の前触れもなく現れた。わたしを守ってくれた砂利でさえ彼の前では無力なのかもしれない。 赤司くんはなんというか、正直に言えば怖いという印象だ。新入生代表として挨拶をした日から端正な容姿によって彼は学校中に知れ渡り、それに加えてバスケットボール界隈ではとても有名な人であること、更には強豪として知られているこの高校のバスケ部に入部して一年生ながら主将になったことがその存在を際立たせた。彼との共通点と言えば「京都出身ではない」ことだけで、二年連続で同じ教室で過ごしているにも関わらずわたしは一方的に彼を敬遠していた。まともな会話一つしていないくらいに。彼に逆らうと屋上で宙づりにされるという噂もあるし、関わらないのが一番だろうと思っていたのだ。 「喫煙者なんだろう」 「……はい」 確認するかのような口調にわたしは大人しく頷いた。まさかこんな形で彼に接する日が来るなんて。それにしてもクラスメイトなのに先生に見つかったような気分になるのは何故だろう。赤司くんは侮蔑するような目も仕草もしていないはずなのにわたしは居たたまれなくなって携帯型の灰皿に煙草を押し付ける。だって、こんな気分で煙草なんて吸っても意味がない。一方の赤司くんは片づけ始めたわたしを興味深そうに眺めている。わたしはその不可解さに完全に浮足立っていた。 「……もう吸わないのか?」 「えっ?」 赤司くんはいつの間にかわたしの横に立ってこちらを見下ろしていた。僅かに傾いている首を見る限り純粋に疑問を抱いているらしい。もう使い物にならない煙草と灰皿、そして赤司くんを交互に見てから、返事をしつつ頷いてみる。僕のことなら気にする必要はないと赤司くんは言ったけどそういうわけにもいかないだろう。だけどそれをはっきりと口にする勇気もないわたしは曖昧に笑ってみた。 「意外だな。さんは真面目な人間だと思っていたんだが」 「……不真面目なわけじゃないよ?」 「ああ、だから意外だと言ったんだ」 そう言うと赤司くんはわたしの手元に視線を落とした。赤司くんが言った通り、わたしは学校ではそこそこ真面目な人間として通っている。成績は赤司くんに次いで学年二位。生活態度も良好。服装検査で引っかかることもなく遅刻早退もゼロ。ただ、生徒会や部活に所属して表立ってバリバリ活躍するタイプではない。成績以外は大した特徴のない所謂「無難な人間」だ。赤司くんがそんなわたしの横に腰を落としたものだから、二つの意味で煙たがられると思っていたわたしは面食らった。そして彼が座る仕草があまりにも綺麗で少し見惚れてしまったのは、気のせいだろう。 「銘柄は?何を吸ってるんだ?」 「え……っと、マルボロのメンソール。ライトだけど」 再び綺麗な仕草で彼は手のひらを差し出した。それに答えるようにわたしの手が勝手に動く。手に乗せられた煙草の箱を面白そうに眺めている赤司くんの横顔を見ながら、「没収されるんだろうか」ということを考えた。封を開けて二本しか消費していないけどそれよりも先生に告げ口されるほうがよっぽど痛い。わたしと違って赤司くんは成績も一位だしバスケ部の主将として活躍してるのだからわたしより赤司くんのほうが先生達に信用されてるだろう。 「他の銘柄を吸ったことはないのか?」 「あるけど……」 「お兄さんか」 「うん、お兄ちゃんはセッター吸ってて、……えっ!?なんで知ってるの!?」 「何となく」 別に隠しているわけじゃないけど、兄がいることは仲が良い友人にしか話していなかった。何となくで家族構成まで当ててくるのだからやっぱり赤司くんは怖い。今も心臓がどきどきと音を鳴らしている。全知全能という言葉は彼のために存在するのかもしれない。 「銘柄によって味は違うものなのかい?」 「あー、うん。まあ、かなり違うよ」 「どんなふうに?」 「わたしも喫煙歴長いわけじゃないけど……甘いのとかすごく渋いのとか……?」 わたしの解答に赤司くんは彼らしくない締まりのない声を漏らして頷いた。こんなに会話を交わすのは初めてだ。それにしてもどうしてこんなことを聞いてくるんだろう。……もしかして純粋に煙草に興味があるんだろうか。吸いたいとかそういう意味じゃなくて。もしそうだとしたら頼めばわたしの願いを聞き入れてくれるかもしれない。 「あの、赤司くん。お願いなんだけど……」 「別に誰にもバラすつもりはないよ」 わたしが願いを口にするより早く赤司くんは応えた。しかもマルボロの箱を返してくれる素振りまでしてくれたからわたしはびっくりして口をぽかんと開けてしまう。はい、と箱をわたしに手渡すと赤司くんは綺麗に眼を細めた。それが微笑みだということに気付くまで、少し時間がかかった。一年と半年の間彼と同じ教室にいたはずなのにこんなふうに笑うところを見たのは初めてだ。あまりにも綺麗な微笑みで、別の意味の恐ろしさをわたしは心の隅で覚えた。 「えっと……なんで?」 「なんだ、バラしたほうがいいのかい?」 「いっいえ!滅相もございません!」 身体全体で否定すると赤司くんはまた整った顔で笑った。赤司くんの怖いイメージは彼の美しさが産みだしたものだったのかもしれない。彼が本当に愉快そうに笑うからわたしもつられてちょっとだけ笑ってしまう。さっきまであんなに緊張していたのに現金なやつだと自分でも思う。 「僕の周りに今まで喫煙者はほとんどいなかった。その上君は格好付けるわけでもなく、ただ純粋に煙草を楽しんでいるようだったから」 赤司くんはわたしに近づいた理由をそう結論づけた。わたしは間の抜けた返事をしてから彼に手渡された煙草の箱を見つめる。何はともあれ喫煙場所は変えたほうが良さそうだ。明日からもここでゆっくり喫煙できるかと考えると素直に肯定できない。きっと今日のことを思い出してしまうだろうから。候補場所は一応いくつか思いつくけど、ここがベストポジションだっただけに残念だ。 「場所を変えても無駄だと思うけどね」 十分ほどの会話の中で一番驚いた。変な跳ね方をした心臓の音と共に大袈裟な声を上げる。一時期「未来が映る」という噂も流れていた二色の瞳は真っ直ぐにわたしを見つめていて、噂は本当だったのだろうかと思ってしまう。何も言えずに口を開けたり閉じたりしていたら赤司くんは堪えきれなくなったように笑い始めた。震える肩は教室にいる時よりも少年染みているのに皺一つないワイシャツがそれを隠しているみたいで、わたしは少し寂しい気分になる。静かな部室棟の裏に彼の幼い笑い声が響いた。 「単純な思考くらいなら読めるさ、僕じゃなくってもね」 「無駄ってこと?」 「いや、僕には分かるよってこと」 「……だろうね」 馬鹿にされているような気もしたけど、赤司くんが楽しそうだから……まあ、いいだろう。わたしが思ったより彼は少年の心を残していたのかもしれない。呼吸を整えた赤司くんは腕時計を覗いて「そろそろ行かないとまずいんじゃないか?」とアドバイスをくれた。思わず時計を確認すると彼の言う通り始業まであと八分しかなかった。 「うわ、いつの間に……」 急いで立ち上がって煙草と携帯灰皿をポケットに仕舞いながら赤司くんに目を向けると、赤司くんもいつの間にか立ち上がっていた。じゃあ赤司くん、わたし先に行くね。そう言うと赤司くんはこくりと頷いた。……というか、行かないとまずいのは赤司くんも同じのはずだけど。でもわたしが教室に行ったら赤司くんが先に教室にいた、なんてこともあり得そうだ。彼は全知全能で、……そう、神様みたいな人だから。 「さん」 身体の向きを変えたわたしを凛とした声が引き留める。振り返ると赤司くんの姿が目に映った。本当に同じ人間なのかと思うほどに彼が浮かべている微笑みは綺麗だった。わたしは神様とか信じないけど、もし存在してるならこういう姿をしているのかもしれない。そんなことを頭の隅で考えた。 「また来るけど、いいかい?」
( title by alkalism )
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