研究室に入るとむわっとした空気に混じってコーヒーの匂いが鼻孔をくすぐった。コーヒーの香ばしい匂いがこの重苦しい空気と化学反応を起こしてなんだか胸やけがしそうだ。黙々とパソコンのキーボードを叩くこの部屋の主――厳密には違うがそれでも教授以外で一番ここに入り浸っているのは間違いない――は、俺が入ってきたことにも気づいていないようだ。「」そこまで広くないこの部屋で呼び掛けるには少々大きい声で彼女の名前を呼ぶと、ずっとパソコンと向き合っていた身体がくるりと髪を揺らしてこちらを向いた。



「ああ、東。おはよう」
「おはよう。早いな、まだ8時だぞ」
「うん、昨日からいるから」
「徹夜か?」
「まあそんなとこ」
「・・・そうか。あと、空気入れ替えたほうがいいんじゃないか?」
「あ、ごめん。そういや昨日からずっと閉めっぱなしだった」



そう言って颯爽と立ち上がり、シャッと勢いよくカーテンを開け、それから窓を開ける。窓を開けることを提案しただけで、自身にそれをさせる言ったつもりではなかったんだけどな。朝の冷たくて新鮮な空気が部屋を浄化していくのを感じながら、俺が手伝う暇もない勢いで次々とカーテンを開け、窓を全開にしていくを見つめる。
立ち上がったときも思ったが、とても徹夜したとは思えないてきぱきとしていて、かつ大胆な動きだった。仮眠はしたのかもしれないが、人の性格は動作にも出るというけれど、清々しさを感じるほどらしいと思える動きだった。



「なに突っ立ってんの?」
「・・・いや、そういや、朝飯は食ったのか?」
「今コーヒー飲んでる」



窓を開け終えたが訝し気に尋ねてきた。それもそうだ。俺は鞄も置かずにを見つめていただけなのだから。その颯爽とした姿に見惚れていた、そんなことを言えるわけもなく適当にはぐらかせば、少々ずれた回答が返ってきた。そんなことだろうと思った。うまく話題が反れたことに対する安堵と、呆れの息を吐く。何か買ってきてやろうか、と言おうとした俺の前をカツカツとヒールを鳴らして通り過ぎ、椅子を引いて再びパソコンと向き合う。その一挙一動がまるで精錬されているようで、思わず口を噤んだ。
の性格が表れているのは動作だけではない。はこの研究室で教授一押しの優秀な院生だった。自分の研究だけでなく、学部生を巻き込んだ共同の研究発表でもはその力を発揮した。俺はボーダーの仕事と被ってあまり手伝えなかったけれど、とにかくが仕切ってくれたおかげで助かった、キャリアウーマンってああいうやつのことを言うんだろうな、ともう一人の同期がしきりに口にしていた。
とことん一つのことに注ぐ熱意と集中力。そして鋭く大胆なように見えて的確で、どこか品すら感じるような所作。それがの魅力なんだろう。強い奴だと思う。精神的にも、身体的にも。空気の入れ替えを忘れたり、きちんと三食摂っているのかどうか疑わしいところはあるが。一度も止まることなくキーボードを叩き続ける綺麗に伸びた背筋を見ながらそう思った。



「それは次の学会で提出用の論文か?」
「そう。二週間後。東は?」
「俺も少しは自分の研究進めとかないと後が大変そうだからな。ボーダーに行くまでの間だけでもやろうと思ってさ」



俺が入ってきたことにも気づかなかったくらいだ。返ってこないかもしれないと思われた返事だったが、即座に返ってきた。しかしその片言のような端的すぎる物言いに笑ってしまう。ついこの間共同の研究発表が終わったばかりだと言うのに、今度は研究室生代表として論文を提出しないといけないとは、優秀であるのも大変そうだ。しかし俺もあまりボーダーを言い訳にはできないな、と思いつつパソコンを起動させた。


この一週間は昼から防衛任務が入っており、元々午前の時間を使って研究室には通おうと思っていた。もしかしたらと思っていたが、やはり。研究室に入るとコーヒーと重い空気が混じり合った中には必ずいた。そして、俺に気づいたが窓を開ける。そのときに少し会話をして、数時間後に俺が研究室を出る。次の日どれだけ俺が早くきても必ずはいた。もしかして家に帰っていないんじゃないか、きちんと寝ているんだろうか、飯は食ってるのかという疑問が湧き上がるが、本人は「ちゃんと帰ってるし寝てるし食べてる」の一点張り。それが疑わしいのもあったし、俺自身の休息がてら奢るからと言って半ば無理矢理昼飯に連れ出したことが一度あったが、論文が気が気でないのか全く休息にならずむしろ逆効果であることが分かったのでとやかくの世話を焼くのはやめた。が一番生き生きしているのは研究に没頭しているときであることは、今までも分かっていた。それに、相変わらずは疲労を感じさせないあの颯爽とした動きをしていたし、本人の言う通り俺が心配していた程の無茶はしていなかったのかもしれない。
それでも、この一週間が終わった翌日も久しぶりのオフであるのに早起きして研究室へ出向いてしまうのは、への心配が捨てきれないのか、思わず見惚れてしまうようなあの姿が見たいがためなのかは、俺自身よく分かっていなかった。

ドアを開ける。重い空気は相変わらずだが、何かが足りない。コーヒーの匂いだ。はいつも通りパソコンと向き合っている、いや、キーボードは叩いていないし、姿勢もいつもと違う。なんだか、今にも倒れそうな、不安定で、



「あ、東。今、窓開けるね・・・」
「っ、おい!?」



嫌な予感は的中した。おぼつかない足取りで立ち上がったは腰が砕けたかのようにデスクに倒れ込むような形で座り込んだ。デスクに捕まり額をくっつけて身体を支えており地面との衝突は免れたが、それでも倒れたことには変わりない。慌てて駆け寄り顔を覗き込む。そして、目を疑った。はまるで幼い子供のような穏やかな顔で寝息を立てていたのだった。







「・・・・え!?東!?ここは!?」
「お、起きたか。ここは俺の部屋。お前、朝研究室で倒れたんだぞ」
「東が運んだの?どうやって」
「おぶってに決まってるだろ」
「・・・・今何時・・・?」
「17時。8時間くらい寝てたな」



真ん丸に目を見開いて俺をじっと見つめるはなんとかこの状況を整理しようとしているようだった。いつも研究に向き合うはもっと凛とした佇まいだから、そのギャップが何だか可笑しい。どうやらそれが顔に出ていたようで、じろりと睨まれた。普段からポーカーフェイスなところがあるせいか、ただ睨まれただけでもなかなか迫力がある。慌てて笑いを引っ込めると、突然「帰る」と言い出すものだから今度は慌てるはめになった。が、がそう言い出すのはなんとなく予想していたので、大学の医務室でなく徒歩15分の俺の部屋に連れてきてよかったと思う。



「帰るって、研究室に行くんじゃないだろうな」
「・・・・」
「疲労が溜まってるんだ。今日は寝たほうがいい」
「・・・・」
が研究熱心なのは知ってるが・・・少し無茶しすぎじゃないか?」



段々諭すような口調になっていたのは、自分自身どこか腑に落ちないところがあったのだと思う。いくらなんでも追い込みすぎとかいうか、躍起になっている気さえする。



「・・・研究者になりたいの」



ベッドの上で上半身だけ起こしたまま、布団をぎゅっと握りしめて吐き出されたその台詞は、聞いたことがないくらいか細かった。そして何より、が自分のことを話したのもそうだがその内容に驚きを隠せなかった。



「私には、ただ一つのことをコツコツとやっていくことしかできないから・・・。女の研究者が肩身狭いのも知ってるけど、男だから女だからって諦めたくないの。だから次の学会も私にとってはチャンスなの。手は抜きたくない」



男女の差異というものは、ある程度は仕方のない現実もあると俺は思っている。トリオン体という生身でない身体に関しても同じだ。戦闘員からオペレーターになった同期を思い浮かべる。それでも、は自分が夢中になれることをずっと追いかけたいんだろう。昼食も気軽に摂れないくらいに。何を話しかけても上の空だったを思い出す。はずっと、戦っていたのか。
男だとか女だとか囚われずにただ一直線に突き進もうとするを強いと思うのはあながち間違っていなかったのかもしれない、と思う。しかし、そうあろうとすればするほど立ち止まることも、人に頼ることも、できなくなってしまったのだろう。自分の弱さを他人はおろか、自分でも気づかないくらいに。



「だからって、倒れたら元も子もないだろ」
「それは、そうだけど・・・」
「結果を出すには自分の管理も大事だ」



意固地になっているのか、は複雑な顔を浮かべたまま黙っている。、とたしなめるように名前を呼ぼうとしたと同時に、ぎゅるる・・・と力が抜けるような情けない音が聞こえた。の顔が真っ赤に染まっていく。複雑に見えた表情は、まるで泣き出すのを我慢しようとしている子どものようだった。布団を握りしめる手には更に力がこもっているように見える。いつも一寸の迷いも見せず行動するが、こんな表情をして、こんな様子を見せるのか。の強さが、どんどん剥がれていく。にとっては恥ずべきことだと思うかもしれない。でもそれが、俺には嬉しかった。



「飯食いに行くか。奢るよ」
「・・・東は、何でそんなに私に構うの」
「何でって、気になるからかな」
「・・・・・・・・・私の研究が?」
「・・・まさかそんな典型的なボケではぐらかされるとは思わなかったんだが」
「東だって人のこと言えないでしょ」



唇を尖らせて恨めし気に俺を見ると目が合う。



「研究室の窓開ける私のことじっと見てるの、知ってるんだからね」



驚いた。それをに言い当てられたことに。研究に集中しすぎて周りに目が向いてないと思っていたが、案外そういうわけでもないのかもしれない。ランク戦の戦略を考えるときとも、実験の結果を考察するときとも違う感情が湧き上がる。知りたいと思った。ができること、できないこと。好きなこと、嫌いなこと。自身のことを、もっと。



「そういやこれ、東のベッドなんだよね」
「ああ。おっさん臭いとか言うなよ」
「言わないよ。・・・ただ、東の匂いってこうなんだ、って思っただけ」



ほらな、こういう台詞もなんでもないように言って俺に不意打ちを食らわす。正直、恋愛偏差値は高くないと思っていたが、先ほどのはぐらかし方といいあまり侮れないかもしれない。いや、高くないからこそこんな台詞が出てくるのだろうか。そう考えている時点で、既に俺は負けているのかもしれない。の口が動いたが歯切れが悪く聞き取れなかった。今何か言ったか?そう問えば、ありがとうって言ったの!とむきになって返された。そのままベッドから飛び出して、早く行くよ、と俺を通り過ぎて玄関へ直行する。全く、初心なのかそうでないのか、よく分からない。しかし、その後ろ姿は背筋がとても綺麗で、いつものに戻ったことに安心した。さて勝負はここからだ。まずは飯でも食って、この間の昼食のリベンジでもするとしますか。勝負に勝って試合に負けるとは、まったくよく言ったものだ。





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15.01.09





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