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作品ID:148

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約33093文字 読了時間約17分 原稿用紙約42枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

血の子ども

作品紹介

はじめまして。投稿させていただきました。るいです。



どっしりとした長い話です。

重かったら済みません。

どうやらこうした文体は翻訳調のように読めるらしく、読み辛いようでしたら謝ります……!



ファンタジーっぽい話で、結構へヴィーです。

読み通していただけるだけで嬉しいです。

よろしくお願いいたします。


   

  



 



 その日もジョージは同じ夢を見ていた。

 大きな屋敷、美しい庭、闇をため込む地下書庫、威圧的な父、空気のような母……それらが彼を覆い、押しつぶす夢。表現が違うだけで、テーマはいつも同じだ。夢とは人に警告を与えるためにあるのだと、つい最近まで思っていた。

 彼の祖父、ミスター・ウェストウッドは半世紀と少し前、ロンドンの片隅で小さな印刷業を始めた。パン屋と洗濯屋に挟まれた小さな場所だった。始めたばかりの頃は、パンが焦げ付く度、洗濯屋が落ちないしみに出会う度、ミスターは冷たい視線に曝されることとなった。しかし彼はそんなものには構っていられないほどの才能を持っていた。彼はわずか五年でパン屋と洗濯屋の敷地を買い取り、店を拡大した。そして彼の息子が字を覚える頃には、ロンドンでも有数の事業家としてその名を知らない者はいなくなっていた。彼は手に入れた確かな信用と生まれ持った明晰な頭脳、そして万人を惹きつける人柄で、たいした労を経ないまま政治の世界に入っていった。数年前まで下水の鼠のように物の数にも入れられていなかったミスターは、瞬く間にロンドンで最も成功した人物になっていた。今や彼を悪く言う人間は彼によって自らの存在を脅かされているものだけであった。こうした目覚ましい成長によってウェストウッドの名に価値がついてから王室が専属の業者として起用するまでそう長い時間はかからなかった。

 結局、彼は五十歳でウェールズの北、カナーヴォンの海辺に小さな領地を受けることとなり、ウェストウッド卿と呼ばれるようになった。そして領地を息子に任せ、卿は79歳で亡くなるまでロンドンに住み続けた。彼の墓はインク壺の形をしている。

 領地を任された卿の息子、アーサー。彼には父ほどの才はなかった。しかしアーサーは偉大な父から任された美しい領地を持ち前の保守性で必死に守り、父の財産と安定した税収で、家が彼のものになる頃にはウェストウッドは当時の貴族たちの中でも豊かな財産を持つ家となっていた。父の死後、事業はかつての勢いを失うこととなったが、アーサーは父の店を決して切り離さなかった。どれだけ赤字が続いても、店を品格のある由緒正しいウェストウッドの記念碑として存続させ続けた。

 アーサーの息子でウェストウッド卿の孫、それがジョージだった。偉大な祖父の血はアーサーで途絶え、ジョージには祖父のきらめきの数万分の一も見当たらなかった。彼らとのあまりの落差に、ジョージの体にはインクが流れていると囁く使用人さえいた。息子に大して彼の両親はそのような態度を見せることは決してなかったが、ジョージは常に得体のしれない重責と抑圧を感じていた。彼は優秀ではなかった。しかし愚かだったわけでもない。まったく普通の子どもだったのだ。だからその分、肖像画の中の祖父と、その遺産を損なわせずにいる父、その血をひく子として、自分に違和感を持っていた。

 アーサーは年を経るごとに気難しくなっていった。保守的な上に人を疑うようになった。それは彼の父が亡くなってから激しくなった。一日のうちの半分は、自室にこもり深刻な顔で書類に目を通していた。しかし領地に特別な問題が起こっているわけではなかった。彼は年を重ねるほどに創始者の名の重さを実感し、自分の能力の劣りを意識するようになっていった。自分は父の名声の上に住み、遺体の上で生きていると妻に漏らしたこともある。血栓のようなコンプレックスは彼の新規開拓への意思をも閉ざした。

 ウェストウッド卿は爵位を得た後も、その印刷技術を利用して通信業界へも参入し、すばらしい手腕と才気でもって見事な業績を治めていた。しかし彼の死後、ぴんと張りつめていた弦が切れたかのように、瞬く間に業績は悪化、アーサーは事業を縮小せざるを得なかった。明らかに後退を示した最初の数年は、彼にとって身が磨り減るような辛い日々だった。観念して領地を治めることだけに専念し、ようやく安定期が訪れた。そしてそれきりアーサーはその安定から動くことなく、瞬きすら罪であるかのように必死に身を固くして家を守ってきたのであった。

 彼は自分に才がないことを知っていた。思慮が浅いわけではなく、人並み以上に勉学を治め、人一倍本を読んでいた。しかしだからこそ、若いうちに彼は自分の限界と父の眩い才気に半ば諦念のような感覚を持っていたのだった。自分の息子に全てを託した。家の復興と父の才気と、さらにその先までをも夢想した。

 そして希望を託すべきである彼の息子。しかしアーサーは、息子が言葉を喋り、文字を読むようになるにつれてその血が、自分のものよりさらに薄いことに気づいていった。

 しかしそれでも彼には選りすぐった家庭教師を付け、ラテン語、経済学、政治学等々、自分が受けたものより上等な教育を施した。

 土地の訛りが染み付いてしまわないようにと、使用人はすべて都市部出身のものを雇い、そこでは庭師でさえ美しいキングスイングリッシュを口にしていた。凡庸がさらに一層悪いものにならぬよう、アーサーのやり方は願を掛けているかのように強迫的だった。

 しかし、そこまで尽くしたとしてもジョージはあくまでふつうの子供だった。アーサーはさらに気難しくなっていった。

 ジョージの母、クリスタベルはそのような夫に従順な女性だった。口数も少なく、いつも穏やかに微笑んでいた。ジョージの問題についても自分からは決して触れず、深い海のような態度でジョージを包んでいた。アーサーの急く気持ちはこの妻によってある程度先送りにされていた。しかし深い海にはどこまでもたどり着けない秘密がある。ジョージは母の静かな微笑みに全く身を預けてしまうということができなかった。息子のどのような姿を見ても優しく許し続ける母の心の内を思うと、ジョージは時々ひどく恐ろしかった。

 

  













「暗記は済ませましたか」

 ラテン語の家庭教師が分厚い辞書を抱えながら尋ねる。ジョージは庭で風に吹かれる綿毛に見とれていた。そっぽを向いたまま「やってないよ」と答える。綿毛は流されるままに流れ、曇り日をバックにすると見えなくなった。

「これは前回からのお約束だったはずですが」

部屋の隅で家庭教師がため息をついた。ジョージは机に身体を預けたまま、肘を枕にぼんやり答えた。

「昨日は……庭のスイセンの根元に穴があいてて、それをずっと見ていた。モグラが出てくるんだと思って、ずっと見ていた。そうしたらラテン語のことはすっかり忘れてしまって……」

「それで、モグラは出てきたのですか?」

「ううん。昨日は天気だったから、地上に出てくるのは難しかったんだ」

「それは残念」

 それだけ言うと教師はラテン語の辞書と文法書をまとめ、立ち上がる。そして窓から見えるスイセンの群れを眼鏡のレンズを通して厳しく眺めた。

「今日は曇り日ですけれど、きっとモグラは出てきませんわ。モグラはスイセンの根元には寄り付かないのです。毒がありますから。分かっていただけましたら、どうか今日こそはラテン語の暗記をお忘れになりませんように」

 冷たい音をたてて部屋を出ていく家庭教師をジョージはぼんやりと眺めていた。彼女のため息には慣れていた。教師は怒りっぽくて、ジョージに暗記しか指示しなかった。そのせいでジョージはラテン語をたいそうつまらない言語と思っていた。

「ああ、ロンドンに行きたい」ため息をつく。

 ロンドンへは5年前に行ったきりだった。父に手をひかれ、祖父の店を見に行った。北の田舎で育ったジョージにとって、ロンドンは異国だった。ウェールズにはないあの活気、様々なものが混じり合ったにおい、見たこともない巨大な建築――全てが新しかった。

遠くから硬質な足音がだんだんと近づいてきてジョージの部屋の前で止まり、ノックが二回響く。

「失礼いたします。坊ちゃま。お茶を――」

 扉の向こうから現れた人物は怪訝そうに部屋を見回し言った。

「先生はどうなさいました」

 やってきたのは乳母のガートルードだった。彼女はジョージが生まれる前からウェストウッドの家に仕えていた。

「怒って帰ったよ。なんであいつがずっと教師をやっていられるのか不思議だ」

「言われたことをやらないからですよ」

 柔らかく笑った。そこに非難の色はなかった。

 この乳母はジョージの平凡もわがままも、子供らしい性格も、そのすべてを心得ており、愛していた。彼女はラテン語をやらないジョージを叱りつけ、モグラを待つジョージを見守る、そのような女性だった。

「いずれ坊ちゃまはロンドンの学校へ通うことになります。そこでおそらく今の勉強が何より坊ちゃまを助けるのだと思いますよ。こののどかな景色に負けてしまわないように、今はお父様の言いつけを守るべきです」

「でも、ラテン語を学ぶのに暗記しか方法がないわけはないよ。ただ覚えるだけなんてつまらない。もし言葉を覚えるのに暗記しか道がないんだとしたら、僕は何の言葉もしゃべれないはずだよ」

 ジョージは体を机に預け、庭を眺めながら言う。何かを注視しているというわけではなかった。ガートルードはジョージの目の前にカップを置いた。

「そのうち勉強にも意欲が出ますよ。その時が来さえすれば、すべてがうまくいくようになります。それまでは最低限のことだけこなしておけばいいのです。あとは未来のご自分にお任せしておけばいいのですよ」

 そういうものかと思う半面、そんなわけはないと思う自分もいた。しかし乳母のその言葉は膿んだ傷口から膿を出すかのようにジョージを楽にした。何より、そこには彼の両親が持ち合わせていない類の愛があった。

 給仕が終わるとガートルードは出て行った。ジョージはそのまま庭を見続けていた。スイセンが風になびいている。

「あ」

 スイセンが根元から揺れていた。そこは昨日ジョージが熱心にモグラを待っていた場所だった。よく見ると黒い動くものが見える。ジョージはテラスへ飛び出し、スイセンの群へ駆け寄っていった。スイセンは五十株ほどで群生している。根元に小さな影が見えた。

「やっぱりあいつの言うことは嘘ばっかりだ!」

 ジョージがそう叫んだとたん、影がうなった。それはモグラではなかった。子どもだった。

 それを人と認識した途端、ジョージの足はぴたりと止まった。子どもの顔は土で汚れていて、肌の色が判別できないほどだった。スイセンの群に突っ伏すように横たわっており、髪も土にまみれていた。冬がまだ去りきっていないこの時期にしては、子どもはひどく薄着で、小刻みに震えていた。

ジョージはしばらく言葉をなくしていた。得体のしれない子どもから目を離すことができなかった。冷たい土に押し付けられた子どもの顔には色がなく、青ざめていた。スイセンが風に揺られ子の顔に触れる。すると指がわずかに動き、土くれを握りしめた。瞬間、子どもはまるで土に噛みつかれたかのように飛び起きた。そしてジョージと目を合わせる。ジョージは小さく叫び声をあげるが、周囲には誰もいない。助けを求める悲鳴にはなり得なかった。

 身動きの取れぬジョージに対して、子どもの腕が腹を減らした蛇のようにうねり、その足を掴んだ。小さな手のひらではあったが力は強く、ジョージは腰が抜けてしまったかのように座り込んでしまった。子どもとの距離がさらに近付く。彼は緑の眼をしていた。

「――、」

 声で聞いたことのない言葉を発した。それは、様々な言葉が混じっているようだった。しかしそれきり子どもは気を失い、目をうっすらと開けたまま、懇々と眠り続けた。不幸なことにジョージの足を握る力だけは変わらなかった。















 ジョージの叫び声を聞いてまっさきに駆けつけたのはガートルードだった。彼女は素早く子どもの手を引き離し、倒れているジョージに何があったのかを尋ねた。しかし彼はまともに喋れる状態ではなく、顔は驚くほど青ざめていた。

 ガートルードはジョージについた土を払い、およそ日常聞くことのないような大きな声で庭師を呼び、彼にジョージを運ぶよう命じた。老齢の庭師がよたよたとジョージを連れて屋敷に向かうのを見届けた後、ガートルードは残った子どもの手首に触れる。脈は不整だが確かに打っていた。しかし体の冷たさと全身の硬直に異常を感じた彼女は子どもを抱きあげ屋敷に向かっていった。その乳母は女性にしては大柄で子ども一人くらいならば軽々と持ち上げることができた。彼女の腕の中で子どもはぴくりとも動なかった。



 人が転ぶことでさえ珍しい穏やかな田舎である。得体の知れない子どもと古株の乳母の大声、そして恐怖で言葉を失った一人息子。これらのニュースは瞬く間に家中に広まった。ガートルードはすぐに手頃な客室に子どもを運び、医者を呼んだ。そして暖炉に薪をくべた。橙の火が灯った頃、騒ぎを聞きつけたアーサーが部屋に入ってきた。

「旦那さま」

「ガートルード、ジョージに何があった? その子どもは」

「わかりません、ただこの子どもが庭に倒れていて、その近くに坊ちゃんがいました。体が冷えてだいぶ弱っているようなので、勝手ではありますがお屋敷に入れさせていただきました」

「……ジョージの様子を見てきた。ずいぶん怖がっているようだった。何かされたのか? 君は何も見ていないのか」

「ええ、私が駆けつけたときには二人ともこのような状況で、とりあえず坊ちゃんをこの子から離しました。ひょっとしたら、この子どもは坊ちゃんに何かをしようとしたのではなく……」

 わずかな逡巡ののち、乳母は言葉を継いだ。

「誰かに助けを求めたかったのではないかと。お二人の様子が、とても普通ではありませんでした」

 報告を聞きながら、アーサーはいらいらとした足取りで部屋の中を歩く。目線は常にベッドで眠る子どもにあった。彼は息子に危害が及んでいなければそれでよかった。しかしこの段階では何もかもがはっきりとしていない。

「とりあえず二人の回復を待たねば。でなければ何も始まらん。いまジョージには妻がついている。じきに落ち着くだろう。この子どものことはしばらく君に任せる。しっかりと責任を持ってくれ。それと、あまり騒ぎを大きくするな」

「ありがとうございます。お任せください」

 アーサーは釘を刺すかのような忠告を残し、部屋を出た。こうした対処はすべてガートルードの信用に依るものであった。事実彼女に任せておけば大抵の問題はいつの間にか処理されていることが多かった。

 子どもと二人きりになったガートルードは、ひとつ大きく息をつき、それから燻ったままなかなか点かない火を見ようと暖炉にかがみこんだ。

 そのとき彼女は妙な視線を感じた。まるで自分に何かの焦点が絞られるような緊張を感じたのだ。しかし振り向いても、そこには変わらず懇々と眠る子どもがいるだけであった。

 彼女は違和感を覚えながらも、子どもの看護を続けた。熱いタオルで顔を拭いてやると今まで隠れていた子どもの顔が顕になる。

 そのまま乳母は子どもの顔を長い時間みつめていた。



 まもなくして、数キロ離れた町から医者が到着した。その日、ガートルードは片時も子どもの傍から離れなかった。彼女は見知らぬその子を守るかのように付き添い続けた。

 













 医者の診断によると、彼は低体温の症状を見せており、加えていくつかの軽い外傷が見られるという。意識はまだなかったが重篤な状況ではなく、あるいは極度の疲労がそうさせているのかもしれない、ということであった。歳はおおよそジョージと同じくらいであろうと医者は付け加えた。診察のために少年に触ることがあっても、彼は少しも反応を見せなかった。

 その日の夕には少年の顔に色が戻り、夜までには健康的な子どもの容貌になっていた。

 一方ジョージは、母に一晩見守られ、翌朝になってようやく起き上がることが出来た。母は息子に無理やり喋らせることはしなかった。父はジョージに医者は呼ばなかった。



 翌朝、アーサーがジョージの部屋を訪れた。クリスタベルはかけていた椅子から立ち上がり、アーサーの傍らへ移動した。

「ジョージ、具合はどうだ? 一晩たった。もう整理はついたろう。あの子と何があった?」

 父との対面での会話に緊張するようになったのはいつからだろう。父は自分の仮病を見抜いていると直感し、その緊張はさらに重くなった。

「……僕はなにもしらないよ。昨日は……スイセンの根元にいる何かが気になって、駆け寄ったらあの子がいたんだ。びっくりしてそのまま動かずにいたら、あの子が起きて、足をつかんだんだ。すごい力で。そして彼が、何か、よく分からない言葉をしゃべった。そしてそれきり気を失って……本当にそれだけ」

 アーサーは眉をしかめ、何か考えるように「ふん」とうなった。

「……まあいいだろう。今からあの子をここに連れてくる。彼はもう歩けるほどに回復している。一晩ついていたガートルードによるとどうやら危険な人間ではないようで、今日も朝から彼女と話をしていた。もう寝ているのはお前だけだ」

 父のその物言いにジョージは顔を赤くした。

「いいよ、連れてきて。僕はかまわない」

 ジョージは消え入るような声で答えた。父はそうかと言って、ガートルードに少年を連れてくるよう言い、椅子をベッドサイドに引き寄せ、腰かけた。ジョージは何かを言わねばと思ったが、父の無表情に気圧され、結局その場は無言となった。

 しばらくしてガートルードがあらわれた。彼女の背後から現れたその子は昨日とはまるで別人であった。青ざめていた顔は瑞々しい色を放ち、そこには少しのくすみもなかった。上着やズボン、靴などは使用人のものをつけられ、ずっと人間的になっていた。長かった髪は切られていた。これはガートルードの仕事だった。昔からジョージの髪も彼女が切っていて、それは本物の理髪師のような完璧な腕前なのだ。しかしその少年の前髪に限っては完璧と言うには長すぎていた。整ってはいたが、まだ少し目にかかっている。髪の狭間から垣間見える彼の眼は、吸い込まれそうな黒だった。

 少年が口を開く。

「はじめまして」

 その言葉はジョージが昨日聞いたような未知の言語ではなかった。訛りのない美しい英語だ。何かだまされたような気がして、ジョージはもっと彼から言葉を引き出さなければと思った。必ずあの時のおかしな言葉が出てくるはずだ。

「君……名前は……?」

 少年は困惑した顔でガートルードを見上げる。するとガートルードが少年をかばうかのように「坊ちゃん」と声をかけた。

「どうやらこの子は記憶を失っているようで、自分の名前も生まれも、思い出せないようなのです。持ち物も、しいて言えば昨日まとっていた少しの衣服だけで、他には何の手がかりもないのです」

 ガートルードの口添えを受けて、少年は黒檀のような眼でジョージを見つめ、語った。

「でも、この通り言葉は不自由なく扱えて、日常的なこともこなせます。今朝からずっと、こちらのミスがこのお家のことやあなたのこと、今の状況などを事細かに説明してくださっていたのです。それで、まず僕はあなたと、僕をお屋敷に招いてくださったご主人様にお会いしなければと思ったのです」

 少年はまっすぐに伸びた背筋を品よく曲げ、手を胸に添えた。

「昨日は驚かせてしまって、本当にごめんなさい。おそらくひどく混乱していて、寒さのせいか体も思うように動きませんでした。それで咄嗟に目の前のあなたを掴んでしまった。ずいぶん恐ろしかったと思います。お怪我はありませんでしたか」

 どれほど単語を発しても少年の発音に非の打ちどころはなかった。この屋敷で認められる言語に完璧に沿っていた。その現実に圧倒されたジョージは何も返すことができなかった。アーサーは再び、ふん、とうなって代わりに答えた。

「とりあえず分かったことは、君は極端に低い身分ではないということだろうか。きちんとした教育を受けていないものが、こんな田舎でそのような言葉を話せるわけがない」 

 少年は恥じ入るように頬を赤らめ「いえ」と答えた。アーサーは足を組みなおし、葉巻に火を点けた。そして父譲りの愛想のいい顔に友好的な皺を作って言った。

「とりあえず、君は体力を完全に回復するまでここにいたらいい。部屋は今使っているところをそのまま貸してあげよう。君のことは警察に話を通しておく。じきに君を探す人も見つかるだろう。それまでの間、行く当てがないのだったら、私は追い出すようなことはしない。さあ、どうする?」

 アーサーは普段よりずっとやわらかな表情をしていた。このようなアーサーにジョージもガートルードもいくらか驚いた。この父は得体のしれないものには決して気を許さない。明確に言葉で説明出来ない事物に対しては排他的とも取れる態度を示す人間だった。しかしこの少年に関してだけは例外のようであった。

 当の少年は目を輝かせて答える。彼の背筋は再びまっすぐに伸びていた。

「ありがとうございます。本来なら僕のような素性の知れない人間は敷地の中にも入れてもらえなかったはずです。ご好意に甘えさせていただきます」

 少年は全身を使って喜びを表現した。手が歌うように動き、彼の感情を助けた。少年はその空間できらきらと輝いていた。

 アーサーは顔に作った皺をほどかないまま頷き、少年の喜びを頷きでもって受け取った。

「よろしい。では、滞在中の君の待遇についてなのだが、もしかすると君は高貴な身かもしれない。可能性はゼロではない。となると家として君を迂闊に扱うわけにはいかない。

 また別に、医者に言わせると、どうやら君はジョージとあまり年齢も変わらないとのことだ。この環境のせいか、私は今までジョージに相応しい友人というものを作ってやれずにいた。だから、短い間でも君がジョージとよい友人になってくれたらと思うのだが、どうだろう」

 アーサーにはしばしば強引なところがある。ジョージはこの得体のしれない少年と友人になりたくはなかった。そもそも友人というものは父親が作ってやるものなのだろうか。そう思いながらも、少年が好意的な視線向けたので、心にもない妙な笑顔を返してしまった。少年がジョージを見つめながら言う。

「もし……彼が構わないのなら、僕は喜んで従います」

「いや、君は従うのではないよ。君はもう、私の提案を聞き、受け入れるかどうかを考える立場だ。ガートルード、彼に上等な服を出してやってくれ」

「かしこまりました」

 乳母が静かな声で返事をした。



 こうしてウェストウッドはしばらくの間少年を受け入れることとなった。少年はジョージの友人となり、彼は客人として敷地を自由に歩くことを許された。アーサーが許せば、この家は全てがそのようになる。ガートルードに連れられて部屋を出ていく少年にアーサーが声をかける。

「先に名前がいるな。さて」

 葉巻を指にかけたまま、アーサーはしばらく考え込んだ。

「ふん、アダムはどうだ。君は土から生まれた」

「もったいない名前です。よろこんでいただきます」

 少年は恭しくお辞儀をした。顔をあげた彼は不思議な笑みを湛えていた。ジョージは一人、気分が晴れなかった。乳母に打ち明けようにも、そのあとも彼女はアダムに付ききりであった。

  

  





 





 翌日、アーサーはジョージに休みを与えた。その日予定されていた授業はなくなり、全ては来週の課題となった。アーサーは朝からロンドンへ出かけてしまい、家の中はひっそりとしていた。朝食を終えたクリスタベルは窓辺で籐製の揺り椅子に腰を掛け、刺繍を刺している。彼女は朝に弱かった。しかし夫の起床に合わせる毎日を頑なに貫いていたため午前の調子があまりよくない。ジョージはそのような母に話しかけるのは気がとがめ、一人で遊ぶことが習慣になっていた。

 その日、未だアダムは寝室から出てこない。まだこの家に慣れていないのだ。ジョージはアダムがこのままずっとここに慣れなければいいのに、と思う。彼はコートを引っ掛け庭へ出かけた。

 ウェストウッドの庭は広く、高い塀と常緑樹が敷地をぐるりと囲んでいた。花好きの妻のために、アーサーは庭を一年中花の咲く場所にしていた。冬薔薇、椿、ユリ、スイセンもあった。ジョージはスイセンの群には向かわず、低く刈り込まれた芝生を越えて裏のハーブ園へ向かった。園は窪地にあり、石段を下って入る。ぱたぱたと乾いた靴音を響かせ進んでゆくと、枯れた色合いのハーブの群が現れた。ペパーミント、ラベンダー、ローズマリー、ジギタリス……窪地に吹き込むゆるい風が彼らのにおいを混ぜ合わせ、ジョージに打ちつけた。「あまり長い時間ここにいてはいけない」いつかアーサーが家族に忠告していた。ハーブの過度な摂取は時として中毒を引き起こす。ジョージは窪地には入らず石段に座り込んだ。何かの淵にいるような気がして、この場所は彼の気に入りだった。

「すごいね。香水が調合できてしまうんじゃないか」

 それはアダムの声だった。いつの間に後ろに立っていたんだろう。

「わざわざ足音を消してここまで来たの?」

「風にのったんだ」アダムはくすくす笑う。それはジョージには馬鹿にされたように響いた。

 しかしこれは昨日からの鬱積した気持ちをぶつけるいいチャンスだとも思った。ここには自分たちしかいない。ジョージは振り向き、アダムの顔を睨みつけ、言った。

「君は、恐ろしくないのか」

「恐ろしい?」

「君は、自分が何者か分からないんだろ、それってとてもあやふやで恐ろしいことじゃないのか? 悪いけれど僕はまだ君が怖い。初めて会った時の、君のあの恐ろしい顔、すごい力、あれはいったいどこに行ったんだ? どうして父はあんなに単純に君を受け入れたんだ」

 しんとした空気が流れる。アダムはジョージを見つめたまま動かなかった。目にかかるほどの長い前髪のせいでアダムが何を考えているのか読み取ることが出来なかった。しばらくしてアダムが口を開いた。

「初めは僕も混乱していた。でも君の乳母の、あの素敵なミスが心をこめて僕の面倒を見てくれたんだ。彼女には不思議な力があるね。目を覚ました時の混乱が今では嘘のように整理されている。全てはあの人がじっくり僕と会話をしてくれたおかげなんだ」

 アダムは春の日差しを受けた野花のような、幸せそうな顔をしていた。顔を綻ばせ、手を組む控え目な仕草。しかしジョージはまだ足りないと言わんばかりに質問を続けた。

「それと君、庭でおかしな言葉を喋っていなかった? 僕は確かに聞いた。けれど今の君は一向に英語しか口にしない。本当は何か覚えているんじゃないの」

 アダムはうすい唇を噛み、少し考えてから訴えるように言う。

「あの日、僕何かおかしなことを言ったかい? 実はあの庭でのこと、あまりはっきりと覚えていないんだ」

 そして少しの間をおいて、目線を上げ言った。

「ひょっとしたら、その時の僕は今の僕がなくした記憶をまだ持っていたのかもしれない」

 その時のアダムはどこともつかない遠くを見ていた。ジョージも風に揺れるハーブも、彼の目はとらえていなかった。彼の視点はまるで風を見ているかのようだった。

 ジョージはふとアダムはとても哀れな子どもなのではないかと思う。ひょっとしたら孤児なのかもしれない、こんなふうに風に乗ってあちこちを彷徨う定点の取れない子どもなのかもしれない。その時のアダムはそれほど圧力のない存在だった。

「ごめん……言いすぎた。父はふだん人をあまり信じない。だから君を受け入れた父の態度に、僕は少し混乱していたんだ。それに」

 ジョージは少し戸惑ってから続けた。出だしが震えた。

「初めて見た時の君と、昨日改めて会った時の君、僕の中でそのふたつがどうしても結びつかなかった。昨日の君はとても印象がいい。僕が昨日の君しか知らなかったらなんともこんなこと言わなかったと思う。でも昨日の君ですべてを納得できるほど、一昨日の君の印象は弱くなかった……その」

「おそろしかった?」

 突然詰まってしまった言葉をアダムが助けた。ジョージは頷いた。すでにアダムの視点は定まっており、決まり悪そうなジョージを黒檀のような眼で見据えて言った。

「きっと僕も一昨日の自分を見ていたら、恐ろしくて君のような対応をしたと思う。

でも見て。僕はすっかり落ち着いた。僕はこれ以外の何にもなれる気がしない。今の僕が自信をもって言えることはそれだけなんだ」

 しばらく、誰も何も言わなかった。ジョージの中の鬱積はいくらか晴れ、アダムの存在は確かなものになっていた。二人ともずいぶん長い時間沈黙したまま向かい合っていた。

 遠くからガートルードの声が聞こえる。お茶の用意ができたと言っているようだった。そして次には、どちらともなく声の方へ駆け出していた。ハーブに酔ったジョージにアダムの手が伸びる。二人は庭の表側に駈けていった。



  









 その日の午後中二人は遊んでいた。その様子はまるで兄弟のようだった。乳母の見たところによるとどうやらアダムが年長者の勤めを果たしているようだった。彼はジョージをうまく誘導し、二人はずいぶん長い時間、衝突することなく遊んでいた。

 その様子を見たガートルードは「アダムには弟か妹がいるのかもしれませんね」とクリスタベルに言った。クリスタベルはやわらかく微笑んだだけだった。

 庭のメイズに飽きるころには日が暮れかかっていた。ようやく家の中に落ち着き、ジョージは母のそばに座る。アダムは居間に据えられているガラス張りの本棚に寄りかかり、熱心に分厚い本を繰っていた。

「書物に興味があるのかしら?」

 刺繍の手を止めてクリスタベルが声をかける。彼女がアダムに話しかけたのはこれが初めてだった。

「ええ、頭が空っぽなので。何か情報を入れたいのかもしれません」

 アダムが子どもらしい顔で答えた。

「北の地下に大きな書庫があるの。好きなのならのぞいてごらんなさい」

 アダムの顔がぱっと明るくなる。クリスタベルは刺繍を膝に置き、ジョージに「案内してあげて」と言う。疲れて窓辺でまどろんでいたジョージは曖昧な返事をしてから、目をこすり立ち上がった。



 書庫は屋敷の北、その地下にある。重厚な木製の扉を押し開けると暗闇の中に石の階段が現れる。ひたひたと二つの足音が響き、明かりが進む。地下はあまり好きな場所ではなかった。

「お母さま、すてきな方だね」

 アダムはジョージから少し遅れてついてくる。いちいち四方を確かめてから進んでいるためだった。

「そう……よく分からないけど」

「お母さまなのに?」

「何も言わないんだ」



 階段が終わり、再び大きな扉が現れる。ランタンをアダムに持たせ、重い扉を開けた。古い本のにおいが鼻をつく。ぎっしり詰まった本たちの上に橙の火の色が落ちた。止まっていた時間がざわざわと目覚めたかのように流れ出し、影が濃くなる。ジョージは部屋に明かりを点けた。するとアダムがその横をすり抜け、おびただしい蔵書の群れに駆け寄る。そしてため息とともに言った。

「すごいね……君のご先祖からの収集?」

「これは旧版がほとんど出回っていない……入手困難が過ぎてかえって名を落としたという名著だよ。名前だけ有名で、誰も内容を知らない……」

「あっち、あれは原書ではないの?」

 言葉は次から次へと溢れてきて、どうやら彼自身も止められないようだった。

アダムは雪に喜ぶ子犬のように書庫中を駆け回っている。その知識は失われなかった記憶なのだろうか、ジョージは圧倒され、しどろもどろで答えた。

「……ここの蔵書はもちろん、屋敷も領地も全て僕の祖父が築いたものなんだ。ものすごく立派な人で……ここの本は、たぶん祖父のやっていた事業の関係で手に入れたものなんじゃないかな。いろいろな世界の人から愛された人だったみたいだから」

 アーサーに事あるごとに祖父の偉大さについて語られていたので、ジョージは会ったこともない祖父のことをよく知っていた。しかし祖父を語る父の姿はどこか歪んだ感情を湛えているような気がしてあまり好きではなかった。いつのまにか祖父に対してもあまりいい印象を持たなくなった。

 ジョージが目を上げるとアダムの姿がない。奥の方に行ってしまったのだろうか。いくつかの棚を通り過ぎ、気配のある方へ行く。書庫の果て、哲学の棚に寄りかかり、変色した背の本を抱え熱心に読み耽っていた。

「それは?」アダムは目を上げず「ドイツの……」とだけ答えた。その姿はジョージに不快を与えた。「面白い?」アダムは答えない。ジョージはアダムの抱える書物に目をやる。そこには見慣れたあの嫌な言語が記されていた。「君はラテン語が読めるの?」そこでようやくアダムは顔をあげ、ジョージを見た。そして今気づいたかのように、言った。

「そうだね……言われてみればこれは英語じゃない。でも自然と訳が頭に入ってきていた……」

「頭がいいんだ」

 ジョージは出来るだけ意味がなさそうに軽く言った。

「そうなのかな」

 アダムの答えにジョージは口角を歪めて小さく笑った。

「尋ねているんじゃないよ。君は賢い。父の好きな種類の子だよ」

 ジョージは、祖父と父を除いて、この書庫を有効に使えるものはこの世に誰一人としていないと思っていた。しかしそうではない。

 ジョージは上に戻ると伝え、そこから去ろうとした。その時、

「君はラテン語が読めないの?」

 アダムの言葉が書庫に響いた。ジョージの手からランタンが滑り落ちる。それはまるで投げ捨てたようにも取れた。火は落下中にかき消され、燃料のきついにおいだけが周囲に漂う。

「ごめん、気を悪くした?」

 開いていた本を音をたてて閉じ、アダムが尋ねる。今のは手が滑ったんだ、怒ったわけじゃない。ジョージは素早くランタンを拾い上げた。ブリキのランタンには傷一つ付いていない。

「どうして怒らなきゃならないんだ。手が滑っただけだよ」

 ジョージは背伸びをして近くの明りから火を移した。書庫での無言は、わずかな時間でもずっしりと湿気のような重みを含む。

「ガートルードも」言いかけてジョージはやめた。

「も?」

 昼間と同じく、アダムが助ける。

「ガートルードも、そのうちやる気が出て真剣に取り組める日が来るって言っていた」「でも僕はそんなの、嘘だと思ったよ」

 明かりを手にしたジョージはアダムを残して書庫を出た。





 その晩、ジョージはスイセンの群の中にいた。足もとにアダムが倒れていてジョージは足をすくめる。しかしすぐにこれが夢だと気づく。幾陣かの風が通り過ぎ、スイセンは彼にひたひたと触れるが、このアダムは動かなかった。目は開いたままで、息はしていないように見えた。このアダムの眼は緑色をしていた。ジョージは何の反応も取れず、死んだアダムを眺めていた。

すると突然、死んだアダムの目玉がぎょろりとジョージに向き、色のない唇が歪んで動いた。

「ラテン語なんてじきに問題なくなるよ」

 彼の腕はおかしな方へ曲がっていた。土で汚れているせいかと思っていたが、よく見るとこのアダムの髪は漆黒だった。小さなところが少しずつ違っていた。「ねえ」アダムは続ける。「人はね、ジョージ」

「人は、日々変わるものだよ。人は、昨日がどうだったかなんてすぐに忘れてしまうんだ。ねえ」

 それきりアダムは動かなくなった。ジョージはアダムに土をかけ、埋めた。

  













「ええ、かなり」

「あの教師が言っていたのですもの。やはり相当上等な教育を受けていたのではないかって」

「とても初めて学問に触れるようには見えなかった」

「まあ……」

 アダムが現われてからというもの、ウェストウッドでは彼の噂が尽きることがなかった。あの派手な登場に次いで皆の話題をさらったのは彼の優秀さについてであった。アダムはスポンジが水を吸うように、教わることを端から全て吸収していった。その様子を見たアーサーがしばらく何も言えなくなるほどであった。

 そして終いには「君はもう3分の1の書庫の本を読み切ったという噂を使用人がしていたのだが本当かね」と真面目な顔で事の真偽を尋ねたことも、噂の種として大いに家を舞った。それはアダムが滞在して四日目のことだった。

 アダムは「噂です。一年あっても読み切れません」と答えた。その顔には大きな誇りがあった。しかし彼はその誇りを子どもらしい恥じらいでうまく覆い、決して嫌な感じを与えなかった。そのせいか、ジョージも自分のコンプレックスを刺激する存在を毛嫌いするということはなかった。

 それでもジョージはどこか晴れない気持ちを持ち続けた。アダムの滞在のために、乳母とゆっくり会話をする機会も減ってしまった。

 アダムの前髪は目にかかるくらいの長さが保たれており、どうやら乳母がこまめに整えているらしかった。ジョージは一度アダムに、もっと切ってもらったらいい、と愚痴をこぼしたことがある。

するとアダムはくすくすと笑いをこぼしながら答えた。

「ミスがこの長さが一番いいと言って、これより先へは切ってくれないんだ」



 アダムが家へやってきて一週間目の朝、朝食をとるアダムにアーサーが言った。

「警察のことなのだが、どうやら今までに君のような子を探す届けは出されていないようだ。もしかしたら君はもっと遠く、ロンドンの方の出身なのかもしれない」

 アダムは手を止め、じっとアーサーを見つめていた。特に感情のある顔ではなかった。

「ふん……もちろんあちらにも話は通してあるのだが、何にせよここは田舎だ。情報も流通も何もかもが鈍い。そこで、どうだろう。一度ロンドンへ出向いてみては。こう毎日屋敷に籠っていては、記憶も何も変わりはしないだろう」

 アーサーはいつもより一回り太い葉巻に手を掛け、煙をくゆらせる。アダムは「ロンドン」と呟いたきり言葉を止めてしまった。ジョージは目を輝かせ、ロンドンの情景を頭に巡らせていた。素晴らしい、もしまたあそこへ行けるのなら、どんなに素晴らしいか。いつの間にかジョージの手も止まっていた。アダムが口を開く。

「ロンドンに行ったとして、もし何の手がかりも得られなかった時、僕はまたこのお屋敷に置いてもらえるのですか?」

 アダムは両手を揃えて膝の上に置いた。アーサーは眉をしかめ、言葉を返した。「いつ私が追い出すと言った」

「届けが出されていないということは、誰も僕を探していないということで……ここでの毎日があまりにも楽しくて、つい」

 アダムが俯く。ガートルードがアダムの肩に手を置き、言った。

「旦那さまはそのような方ではございませんよ。お約束は最後まで守られる方です」「そうだよ」思わずジョージも口を出す。

「父も母も、家のものはみな君を受け入れているよ。君が心配することは何もないよ」

 アダムは緊張した顔の筋肉を緩め「そうだね」と笑った。

「一滴の血の繋がりもない僕をこんなにもてなしてくれているんだ。きっと急に不安になったんだと思います。僕の中にロンドンのイメージが全くないから」

「ロンドンはね、こことは全然違う。匂いも景色も物の速さだって全然違うんだ。僕は五年前に行ったきりだから、きっともっと変わっている……!」ジョージは思わず身を乗り出す。

「ロンドンには祖父の店があって」

「ジョージ」アーサーが遮るように名前を呼んだ。

「今回、お前は連れて行かない。お前には他にやることがあるだろう。今はそれを片付けなさい」

 アーサーの言葉は鉄格子のようにジョージを阻む。その表情はかたまり、言葉が詰まった。何かを訴えるかのようにジョージの唇は震えるが、ついに言葉は出なかった。確固としたアーサーにジョージはそれ以上何も言うことはできなかった。









 







 ロンドン出発の前日、ガートルードは遅くまで働いていた。アーサーの言いつけで一週間分のアダムの荷を作っていたのだ。出来れば彼女もロンドン行きに同行したかった。申し出れば受け入れられただろう。しかし彼女は、今のジョージを残してロンドンに行くことはどうしても出来なかった。アーサーは旅中、アダムの世話に別の手伝いの者をつけると言っていた。

 要領よく大きなトランクに次々と荷物を詰めてゆく。しかしすぐに手は止まった。最近、彼女はある記憶に縛られていた。ふとした瞬間に初めてアダムがこの屋敷に来た時のことを思い出してしまうのだった。

 アダムを庭先で抱き上げた時、そこにジョージと同い年というほどの重みは感じなかった。きちんと測ったわけではないが背もジョージほどはなかった印象がある。肌は本当にあのような色だったか、眼は、髪は? すべてが違うような気がしてくるのだった。そしてアダムの顔。おそらくこの家で彼の顔をしっかりと見たのはガートルードだけであった。だからこそ彼女はアダムの前髪をあの長さに揃え続けている。ジョージとしっかりと話をしてやらねばと思いながらも、彼女がアダムから目を離すわけにはいかなかった。

 旅先、もしアーサーがアダムを理髪店へ連れて行ったら。アダムが髪を後ろへなでつけたら……ガートルードは手にしていた帽子を握り、意を決したように立ち上がった。

 しっかりとアダムに言っておかなければ。言いつけておきさえすれば、きっとあの子は逆らわない。ガートルードはアダムの部屋へ向かった。

 屋敷は静まり返っていた。ガートルードの足音だけが硬く廊下に響く。アダムの部屋はエントランスを抜けた屋敷の西側にあった。彼女が最初に運び込んだ部屋だ。

エントランスにはこの家を築いたウェストウッド卿の肖像が飾ってある。その日は何故かその絵がこちらをじっと見つめているような気がした。

 ガートルードは常々、彼を屋敷にかかった呪いだのようだと思っていた。彼女は晩年の卿をほんの一、二度見かけただけに過ぎない。人々は、卿は人の心を掴むのがとても上手かったと称えた。しかしガートルードには、卿が放った光、そこからぽとりと落ちた念のような影が、アーサーやクリスタベル、そしてジョージ……彼の子どもたち全てを脅かしているように思えた。彼女は今まで痛々しいほどに、この家の血溜まりを目にしてきた。卿から垂れた一しずくは今やアダムにまで及んでいた。彼女は今まで幾度となく、屋敷の真ん中でアーサーに怒鳴りつけてやりたかった。「貴方たちが恐れているものはしょせん影だ」と。しかし彼女の乳母という役目が何とかそれを阻んでいた。

 ガートルードは卿の肖像を見上げた。彼女がここまで批判を向ける理由は、おそらく卿の肖像が、噂で聞く本人よりもずっと陰鬱な顔をしているからだった。眉は暗雲のように顔に印をつけ、眼光は暗く鋭かった。卿はなぜこのような肖像を良しとしたのか。ガートルードは生涯、彼については何一つ理解できそうもなかった。

 エントランスを抜けると通路の果てで揺れる明かりが見えた。ガートルードは足音を静め、自分の明りを消した。灯は居間で揺れていた。人物はどうやらアーサーとクリスタベルのようだった。ガートルードは思わず息を潜める。アーサーの声が、普段より少しトーンを抑えて響いてくる。

「アダムのこと、どう思う」

「利口な子どもです。私よりもよっぽど物事を分かっていますわ」

 クリスタベルは夜の波のように静かに笑った。

「そうだが、特に頭がいい。書庫の本、あれは果たしてあの年代の子どもがすすんで読むようなものなのだろうか。私がジョージほどの頃、やはりあそこの価値は分からなかった。しかしアダムは二日に一度あの書庫へ下り、数冊の本を持ち帰り部屋で読んでいると聞く」

「もしかしたら、年よりもずいぶん幼く見えているのかもしれませんね」

「だとしてもだ。実際のところ、ジョージがあと五年経たとして、アダムのようになれるとは思えない。実の子への贔屓目を加えたとしても、これは変わらない」

「ええ……」

 クリスタベルの声に抑揚はない。半ば答えを知っているのだろう。

「……もし今回のロンドンでこのままアダムの身元が分からなければ、私は彼を養子に入れようと思う」

 ガートルードは自分の心臓が大きく音をたてた気がした。しかしアーサーたちは気づいていない。そのまま息をのんだ。

「アダムの才能を知ったとき、私はやっと何かができると思った。ようやく自分のものを築ける素材が揃ったのではないかとね。

それで、君はどう思う? 賛成してくれるね」

 しばらくの沈黙が流れ、やがていつもの柔らかな声が響いた。

「私は家に従いますわ。ジョージもきっと喜びます。兄弟ができるということですもの」

「妙なことは起きないだろうか」

「わかりませんけれど……でもあの子、いつも寂しそうでしたから」



 ガートルードはゆっくりと扉を離れ、自室へ戻った。自分が何をしようとしていたかも忘れ、部屋に広がる荷物の山を一つずつトランクへと詰めた。そして、ジョージのことを思い、涙を流した。



  











 翌日の早朝、アーサーはアダムを伴いロンドンへ発った。ジョージは姿を見せず、アダムとは言葉を交わさないままだった。ガートルードは結局アダムに忠告らしい忠告は何もできず、ただ「出来るだけ外では脱がぬように」と、ビロードの帽子を深くアダムにかぶせただけであった。ガートルードは、自分と同じく隣で見送るクリスタベルをちらと見た。昨晩の会話など何もなかったかのように、アダムに微笑みを向けていた。水仕事をしない白い手がショールの下からアダムへ伸びた。「気をつけて」アダムは少しびっくりしたようにその手を見る。しかしやがて彼女の手をとり笑って「いってきます」と言った。ガートルードはこの光景を、どのように取っていいのか分からなかった。

 霧の雨が一行を見えなくして、残されたものは屋敷に戻った。中に入ると、ジョージがエントランスからこちらを見ていた。ちょうど自室から出てきたところのようだった。

「おはようございます、坊ちゃま」ガートルードが声をかける。

「父たちは今?」

「ええ、たった今お発ちになられました」

 そう、とジョージは言って身を翻し、屋敷の奥へ消えていった。

眼の下には隈が浮かび、顔は紙きれのように色がなかった。ガートルードはその様子がひどく気にかかり、奥へ消えるジョージを追った。

 その日の廊下は足音が全く響かず、すぐにジョージを見失ってしまう。自室をノックしても応答はなく、居間の暖炉の前にも勉強部屋にもジョージはいなかった。

 ジョージの勉強部屋にはここのところ椅子が二つ用意されていた。まったく同じ椅子が二脚。新しい方はアダムのものだった。ガートルードはここで自分がジョージにかけた言葉を思い出す。

 その時が来さえすれば、すべてがうまくいくようになります――。

 ジョージの椅子は冷たくて小さかった。どのような思いでジョージはここにいたのか。ふと眼の端に白いものがちらつき、ガートルードは庭を見遣った。スイセンが揺れている。そしてその中で佇むジョージを見つけた。



「お風邪をひきますよ」

 黒い上着がジョージの肩にかかる。見るとガートルードが両肩に手を据え、こちらを見ていた。上着はジョージのものだった。馴染みのもののはずなのにひどく重く感じる。

「重いよ……」ジョージは上着を払う。しかしガートルードは手を動かさなかった。

「しばらく坊ちゃまとお話をしていないような気がして。昨晩、あまりよくお眠りになれなかったのですか? ひどい隈ができています」

ガートルードはジョージが幾重か小さくなっているように感じた。

「ほら、お寒いでしょう」彼女は上着の前をとめようと視線を移す。するとジョージの口から「昨日……」小さな言葉が漏れた。

「養子が……」

 凍りついたようにガートルードの動きが止まった。

「ガートルードも聞いていたね」

 彼女は昨晩、あの妙に張りつめた緊張のために、あそこにもうひとつの小さな影があったことに気づいていなかった。

「……お聞きになっていたのですか?」

 ジョージはガートルードの目を見て確かめるように頷く。ひょっとしたら、あの時アーサーの言葉に鳴った心臓の音は、この子のものだったのかもしれない。「近頃……」ジョージが言う。

「夢、ばかり見る。夢にはたいていアダムか、祖父が出てくる。昨日は祖父が出てきた。祖父が肖像画から抜け出て僕の部屋に来る夢。背景と、祖父にかかる陰影がちぐはぐで、とても不気味なんだ。

 祖父は低い声で「私が額の中に戻れるよう手を貸してくれ」と言うんだ。「額の前の番犬が唸っていて戻れない」と。それで僕は部屋を出てエントランスへ行こうとして、途中、あの会話を聞いた。夢はどこかで覚めていたみたいだけど、とりあえずそういう夢だった」

 それは本当に夢だったのだろうかとガートルードは思った。唸る犬とは自分のことではないか?

 ガートルードは座り込むようにしてスイセンの上に膝をつき、ジョージと目線を等しくした。そして手に力をこめ、言った。

「坊ちゃま、大切なものは血ではありません。受け継いだ能力でもありません。アダムはこのままではこの家の道具になってしまいます」

 ジョージは眉をひそめ、しかしその他の表情はないままガートルードを見つめていた。彼女は自分でもまともなことを言っているとは思えなかった。彼女の言葉の裏には、彼女だけが知る秘密があった。坊ちゃま、と懇願するかのような姿勢で訴える。

「大切なものは時間であり、記憶です。それが人に絆と、居場所を与えるのです。アダムにはそれがありません。

 私と坊ちゃまの繋がりは血の一滴にもありません。しかし私の思いのどこに肉親との違いがありますか? 人は血で、愛するのではないのです」

 ガートルードは一度、空を切るかのように言葉のないまま唇を動かす。そして一呼吸置いて、言った。

「お父さまとお母さまが追い求めている、あれは死んだ者の影です」

 言い放った途端、ガートルードの顔色が青ざめた。ジョージの肩から手が浮き、彼女は無意識に自分の口をふさぐ。思いを留めていた堰がどこにも見当たらず、ガートルードは足から力が失せていくのを感じた。そして気づくと膝をついたまま自分の顔を手で覆っていた。

「これから、何が起きましょうとも、そのことだけはお忘れにならないでください」

 何とか伝えたその言葉は、震えに満ちて、そこに彼女の武器である威厳も力強さもなかった。



  







 それから、ずいぶんと長い時間、ガートルードはジョージの手を握りしめていた。動こうとしなかったのはどちらだったか、それは分からないが、ガートルードはジョージの手に涙を流し、ジョージはその光景を他人事のようにぼんやりと眺めていた。

 そのせいか、疲れのせいか。その晩ジョージは軽い熱を出した。ガートルードは赤い目を眼鏡で隠し、看病に励んだ。実際、そこまでの手厚い看護がいるような状態ではなかったのだが、ガートルードは何かを隠すかのように寝ずの番をし、ジョージはその姿をやはり他人事のように見つめていた。

 今回もジョージはぐずぐずと小康を保ち、なかなか回復のそぶりを見せない。熱は微熱と平熱を行き来し、一日中ベッドの上から外の景色を見ていた。三日目には使用人たちがざわめき始める。

「ロンドンのことがよっぽどショックだったのかしら」「嫉妬よ」

「ガートルードも大変ね」「でもあの人が風邪をひかせたって話よ」





 そのうちに、群生していたスイセンが一つ一つ姿を消していった。茶色く変色したものを庭師が摘み取る。首のない株は掘り起こされ、球根は次の年のために選別、乾燥される。毎年の風景だった。まばらなスイセンの隙間から見える地面が日に日に大きくなる。その様子はジョージに何かを思い起こさせた。

 ラテン語の教師は、毎朝訪れるたびにジョージが臥せっていることを確認して、何もせずに帰る日々が続いた。彼女ももう何も言わなかった。



 四日目の夜、クリスタベルがジョージの寝室に訪れた。うとうととしていたガートルードに「もういいから、お部屋でお休みなさい」と声をかける。部屋はジョージと母だけになった。

「具合はどうかしら」いつもと同じはずの母の声になぜか強張ったものを覚えた。ジョージは何も答えない。

「もうすぐお父様たちが帰ってくるわ」

 母は編み目を一つ一つ数えるように語る。

「元気な姿を見せてあげられたらいいわね」

 クリスタベルはベッドサイドに椅子を置き、いつもの微笑みでジョージを見た。しかし心なしかその日の表情には柔らかさがなかった。ベッドランプのほの暗さが母の顔に深い陰影をつけた。記憶の中の母よりもいくらか痩せている気がした。

「母さん、痩せた?」

「いいえ」静かな答えが返ってくる。

「あのね、ジョージ」

 返した波がざわざわと寄せてくるような響きだ。

「お話があるの。聞いてちょうだい」

 ジョージはゆっくり頷いた。

「この前、あなたのお父さんとお話をしたの。アダムのお話。あなたたち、とても仲良くできるみたいだし、アダムはとてもいい子だわ。でも身元が分からないままでは、いつか遠くの施設へ入れることになってしまう。こんなにあなたたち仲良くなれたのに、それではあまりに可哀そうだと思ったの。それでね、それで、私たちは」

「アダムを養子に」ジョージが言葉を継ぐ。

 クリスタベルの顔に悲しげなしわがよる。とても老いてしまったように見えた。母のつららのような 冷たい手がジョージにのびる。「ジョージ、あなた。知っていたの」

「アダムを養子にしようと言ったのは父さん。でもその理由は今母さんが言ったことではなくて」

 ジョージは冷たい母の手を振りほどく。

「例え五年経ったとしても、僕がアダムのようになることは決してないから。僕がアダムと仲良くしていなくてもこの話はいずれ出たことでしょう?」

 クリスタベルの顔は凍りつき、その手の冷たさと相まって、彼女はまるで冬のようだった。

「あそこにいたの? ジョージ、あなた」

「いたよ、ずっと聞いていた」嘘をつくべきだと分かっていたがジョージは事実を言った。

 するとクリスタベルの手がジョージの両腕を掴む。その力はあの母のものとは思えなかった。母の手が細かく震えている。「違うの」爪がジョージの体に食い込んだ。「違うのよ」その様子にジョージは思わず後ろへ退く。

「私たちにとって全ては、大切なものはあなたなのよ。一番愛しているのは私が生んだ、この顔、この手足なの」

 震えた母の手はジョージの頬へのびる。氷のような手で挟まれ頬が固くこわばった。

「アダムがどんなに優秀でも、あの子のなかに私の血は一滴もないわ。あなたのなかに私の血が流れているから、私はこんなにあなたが愛おしいのよ」

 その時ジョージは母の瞳をのぞき込んだ気がした。そこは深淵、海の底だった。時間も何もない、ただ闇にだけ慣れた生き物がそこに暮らしていた。地を這う蛇のような生物や化石の魚。目は退化しており、岩肌はグロテスクなほどに奇形であった。哀願するようにジョージを見つめるクリスタベルの眼の中に彼らは住んでいた。

「分かった……もういいよ。僕は何も言わない。もともとたいして気にしていなかったんだ」そう、周りが大騒ぎしていただけだ。

 その言葉を聞き、徐々に頬にかかる力が緩んでゆく。そして最後は枯葉が飛ぶかのように、ふっと重みがなくなった。やがて彼女はもとのような穏やかな海に戻る。「そう……」深海魚はまた彼女の奥深くへ潜っていき見えなくなった。眼は優しくジョージを見る。

「明日は天気がよいみたいだから、一緒にお散歩でもしましょう」

 それは全く静かな母であった。



 









 結局、翌朝ジョージは回復したことになり、外出した。母の調子はやはり悪く、声をかけることができなかった。

「こんにちは、ジョージ坊ちゃん。すっかりお元気になられて」

 庭木の手入れをしている庭師がこちらを見つめるジョージに気付き帽子をとった。

 この庭師は、アダムが現れた日、ガートルードに命じられてジョージを運んだ者だった。ジョージは庭師の名を知らなかった。しかし向こうは自分の名を呼ぶ。ジョージはこのようなとき、どう返すすべきか、未だに戸惑う。庭師は白髪の穏やかな老人だった。

「お久しぶりですね。ああ、覚えてらっしゃらないかもしれませんが、坊ちゃんが庭で倒れられた時、私がお屋敷までお運びしたんです。あの時は何事かと思いましたがね。――ええと、それで一体あの子は何者だったんです?」

 庭師は全く善良そうな顔で巨大な鋏を芝生に置き、汗をぬぐった。その問いにジョージは怪訝な顔をした。

「あなた、何も知らないんですか?」

 庭師はにこやかな笑みを崩さず、帽子を正した。

「ええ、申し訳ない。私はご覧のとおり一日外仕事をしておるもので、屋敷の中のことに疎いのです。私物も倉庫に置いてあるので屋敷に入ることは本当に稀で……」

 ジョージは「そう」と呟いた。ここでの噂は主に屋敷の中で生まれ、その中だけに充満するものだった。

「あの子……元気になったんだけど記憶がなくて、身元も分からないので父がしばらく家に置くことにしたんだ。名前もアダムとつけてね。とても優秀らしくて父の気に入りになった。今は父と一緒にロンドンへ行っているよ」ジョージは特に何でもないことのように、かいつまんで話した。庭師は「ほお、ロンドンへ」と相槌を打つ。

「となると、先日の朝早く旦那様と一緒に屋敷を出て行った少年、彼がアダムということですかな? ふうむ……」

 庭師は丁寧に剃られた髭の痕を撫で、考え込むように言った。

「どうかした?」

「ああ、いえ……その日はちょうど裏のハーブの新芽を摘まねばならない日でして、私も朝早く出ていたのです。それでたまたまご出発なされる旦那さま方を見かけたのですがね。はあ、あの少年が」

「なにか?」ジョージは引っかかりを覚えた。庭師の言わんとしていることは、前に自分も感じたことのような気がしたのだ。

「ふうむ、いや、勘違いかもしれませんが……うん、その少年、坊ちゃんよりも背は低いですか?」

「いや、同じくらいかな」

「髪は黒で?」

 スイセンの傍らに横たわるアダムがこちらを見ていた。

「違う。髪は明るいブラウンで僕と同じ年。眼は黒……」

 すると庭師がそれは違うとでも言いたげに、大きく手を振った。

「いえいえ、違いますよ。彼が倒れていた時、見えた少年の眼は確かに緑でした。きれいな色だなと思ったんです。

 出発の日、あの子は黒い帽子をかぶっていたので、髪の色は気にとめませんでしたが、旦那さまの隣で、あの背丈で、私はてっきり坊ちゃんかと思っていたほどです。でも、黒い眼にブラウンってそりゃあまるで……」

 庭師は言いさして言葉をきった。

 夢の中、スイセンの隣で死んでいたアダムは、ジョージから見ても子どものような手足をしていた。髪は土に汚れていたが、確かに黒で、ブラウンでは決してなかった。そして厳しい緑眼でジョージを睨んだのだ。しかし、果たしてその眼で睨まれたのは夢の中だけであったのだろうか。風の冷たさ、小さな手のひらに足をつかまれるあの痛みと恐怖、それらと共にジョージはあの緑眼に睨まれたように思えた。あれにはもっと現実的な痛みが伴っていた。

「坊ちゃん? 大丈夫です?」

 呆然としたまま反応を返さないジョージに恐る恐る庭師が声をかける。しかしジョージの頭の中では様々な要素が駆け巡り、とても庭師の言葉に返している余裕はなかった。

「違う。アダムは……」それだけが一言、言えた言葉であった。

 ジョージは庭師には何も告げず、おぼつかない足取りで屋敷へ向かった。











 屋敷に戻ったものの、ジョージは結局何も出来ないことに気づく。母に言っても仕方がないことだった。ガートルードはあのスイセンの群れでの出来事以来、何かを気にして口を噤むことが多くなっていた。ジョージは家の中での味方の少なさを痛感した。

ジョージは自分でも気付かぬうちに書庫へ続く階段を下っていた。一人で考える時間が必要だと思ったのだろう。あそこはアダム以外、寄り付く人間がいない。そのアダムも、今はロンドンだった。



 長い石段を下り、重い扉を開ける。暗い部屋に光が差し、時間が音をたてて流れ出す。ジョージは明かりを点けた。

 書庫で放つ音は、すぐさま何兆という印字に吸い込まれ消えてゆく。蔵書たちは今も静かに餌を食み、どくどくと脈打つ血脈のように何かを増やしている。



 ラテン語が読めるの?

 父の好きな種類の子だよ

 気を悪くした?

 手が滑っただけ でも僕はそんなの嘘だと思ったよ

 君は、ラテン語が読めないの?



 沈黙が針のような鋭さでジョージの鼓膜を刺す。本たちが甲高い声で笑っているのではないか。ジョージは書庫に置いてある粗末な椅子に腰を掛け、今にも飛び出してきそうな圧迫感のある空間を眺めた。

「死んだ者の影……」

 いつかガートルードが言っていた言葉を呟く。ジョージはこの意味がよく飲み込めないままであった。

「それはきっと君のお祖父さんのことだろう」

 心臓を衝かれたかのような衝撃を受ける。アダムの声だ。ジョージは振り向いた。そこにはやはりアダムが立っていた。彼は出発した時と同じ格好であった。帽子も、同じように深くかぶったままだ。

「いつ戻ってきたの? 父は……」

 アダムは口だけで笑い、肩をすくめ、知らない、と仕草で答えた。ジョージは息をのみ、呼吸を整え、尋ねた。

「君の眼は緑色?」

「いいや」冷え切った空気が震えた。

「いいや、黒だ。君とおなじ黒檀のような黒」

「髪は?」

「ライトブラウンだよ。君と揃いのね」

 アダムがこちらへ歩み寄ってくる。ジョージは椅子から立ち上がり、後ずさる。アダムの進みを制するようにジョージは言う。

「思い出したんだ、いろいろなことを。君はいつの間にそんなに大きくなった? 最初に口にしていたあの言葉、あれはどこへやった?」

 二人は向かい合った。彼らは、同じ背、同じ手足、同じ厚さをしていた。相違を見つけるほうが困難であった。しかし肝心のアダムの顔は黒い帽子で陰り、よく見えなかった。

「それは本当に君が思い出したことなの? 庭師の記憶違いじゃないのかい」アダムがくすくす笑いながら言う。

「違う」「僕を睨みつけたあの日の眼は違うものだった」

ジョージは感情を抑えつけて言った。するとアダムは少し俯き、含み笑いをした。

「君のお父様は、亡霊に取り憑かれている、かわいそうな人だね。本当はここの本もロンドンの店も全部売り払ってしまったほうがずっといいんだ。使わないんだから。肖像画だってあんなところに飾っておくべきじゃない」「僕がここの主人だったら、そうするね」

 ジョージは体中の血が頭に上り詰めたのかと錯覚するほど、顔が熱くなり、それをそうと自覚する前にアダムに掴みかかっていた。そして今まで出したこともない大声で怒鳴った。

「おまえ、間違ってももう二度と、そんなこと口にするな」

 ジョージの声はいつもより掠れて、それが言葉に強さを与えた。アダムは驚いたように目を見開く。しかしすぐに表情を取り戻し、ジョージに襟元を掴まれたまま、関係ないとでもいうように笑いながら言った。

「君のお母様はひどい我に取り憑かれている。哀れだ」

 アダムの帽子が飛んだ。彼の口から赤い血が滴る。ジョージは慣れない拳でアダムの顎を打っていた。骨を打ちつけた震動が数秒遅れてジョージの体を巡る。出会ったことのない類の痛みにジョージは弾かれるようにアダムから飛び退き、拳を押さえた。しかしアダムに堪えた様子はなく、血のついた口でげらげら笑いながら顔をあげた。そして髪をぐしゃぐしゃと乱し、前髪を後ろへかきあげた。ジョージは初めてまともにアダムの全貌を見た気がした。

「なぜ君の大好きなあのミスが、僕の髪を切らなかったか分かった? 僕としてはいつ切られてもよかった。けど、彼女が最初に僕の顔を確認した時の顔、その後の必死な様子、それらに免じてしばらくは彼女に従ってあげようと思ったんだ。なぜ彼女があそこまで僕を隠そうとしたんだと思う?」

 アダムの顔は嘲るように歪んでいた。しかしそれを抜きにしても、その顔はジョージと同じものだった。眼の色や髪の色の問題ではない。それはまるで鏡であった。視線を逸らすことができないジョージを見て、アダムは二、三度軽く咳ばらいをした。それが注目を求めるためのものでないことはすぐに分かった。

「それは君の母上が、何よりも血を大切にするということをミスが気付いていたからさ。ジョージという子どもの個ではなく、君の形式を母は愛していた」アダムの声は先ほどよりも少し掠れ、低くなっていた。「……声」ジョージが呟いた。

「君の声が変わったのなら僕も変わらなければ。君が片目になれば僕も」

 アダムは指で口についた血を拭い、ジョージに向けた。

「この血は君に流れるものと全く同じものだ。出来るのなら調べたらいい。初めて君と会ったとき、随分恐ろしい目に遭わせてしまって申し訳なかったね。あそこで僕は君を自分に移した。黒髪も緑眼もあれは僕の前の器だ。君よりすこし年が若かった。君が聞いた言葉は、今までのものが混ざって出てしまったんだろう。どの言葉で喋るべきか、僕も少し混乱していた」アダムは滔々と語る。新しい声にはもうすっかり慣れていたようだった。

「君は一体何のためにそんな……」ジョージは茫然として尋ねた。いつだったかアダムを定点のない子どもと感じた時のことを思い出す。

「僕は自分を持たない。人の容れ物を拝借しないと生きていけない。そういう類の生き物なんだ。でも問題なのは、容れ物ならば何でもいいというわけではないということだ。ここに置いてある伝記のいくつかに僕の過去の名があるように、容れ物にはそれなりの魅力が必要だ。そうでなきゃ、意味がない。

君の魅力はあの底の抜けたような両親にこの遺産。僕が築いた遺産をあのアーサーが保ち続けていたことは予想外だったけど、どちらにせようまく利用できた。ここの領地を賜った時のことは今でもよく覚えているよ」アダムは目をつぶって溜息をつく。家の呪いは過去の恍惚を辿っていた。

 ジョージは肖像画から抜け出た祖父の夢を思い出す。いや、あれは確かに祖父だったか、アダムではなかったか?

「同じことだよ、元は同じ。ただあのミスのような人間がいることは少々やり難いことではあったな。でもまあ彼女もここで僕と君とが入れ替わったとして、きっと気付かないね」

 アダムは切れた唇を何度かなぞり、血の跡を消した。

「ガートルードは、人は記憶で絆を作ると言っていた。時間と記憶で愛すると言っていた。君は愛されない」ジョージは震える声で言った。アダムは興味深そうに、ふん、とうなった。

「じゃあやってみよう。スタートは同じく、あのスイセンの群れの中だ。きっと君は失望する」

アダムは手に付いた血を数回指でこする。すると血が流れた痕跡はすべて消え去り、その指をアダムは一度ぱちんと鳴らす。

 途端、書庫の本が崩れ落ち、棚が歪んだ。しかし轟音が鳴り響くわけではなく、アダムはそのまま姿を消した。それは物が歪んでいるのではなかった。歪みはジョージの視界から来ていた。

きっと君は失望する。アダムはそう言った。ジョージも心の底でそうかもしれない、と思った。

やがて上下左右の区別がなくなり、その時には視界すら消滅していた。









 頬に冷たく湿った土の触感を感じた。甘い匂いが鼻腔に満ちて、何かが視界の隅で揺れていた。地中深くで低くうごめく音がする。モグラか、蛙か。ジョージはあたりを見渡そうと、体を起こす。しかし景色は変わらない。湿った土が視界を占める。足はわずかも反応せず、辛うじて親指がぴくりと動いた。すると視界に人の足が入る。子どもの足だ。何とか動く親指を頼りにジョージは起き上がろうとする。すると足が声をかけてきた。「ねえ」聞き覚えのある声だ。「起きてよ、そろそろミスが来る」声の主が顔を覗き込む。それはジョージの顔をしたアダムだった。彼はもう完全にジョージの姿形をしていた。「さあはやく。あの日みたいに足を掴んで」

 しかし体は簡単に動かない。それを見たアダムは軽く舌打ちをしてジョージの手を掴み上げ、自分の足にやった。そして大声をあげる。ジョージは自分がそんなに情けなく叫んだのかと思う。ようやく動いた口で「違う」と呟くも、アダムは「違わないよ」と小さく笑っただけだった。

 間もなくして、青い顔をしたガートルードが駆け寄ってきた。

「坊ちゃま……これは」

アダムは何も答えられないふりをする。ジョージはいつの間にか自分がひどく緊張していることに気づく。

 ガートルードはすぐさま庭師を呼びつけ、アダムを運ばせた。庭師は倒れるジョージをじっと見つめていた。

彼が――、とジョージは思う。彼が、この最初のアダムの顔を覚えていて詳細に語ることができたからこそ、アダムの目論見の全てが明らかになって、今自分がこんなところにいる――。

その視線から顔を背けてしまいたかったが、やはり動くことはかなわなかった。歯車がゆっくりと回り始める音がどこからともなく聞こえた。それは古く軋んで、血のにおいのする歯車だった。

 やがてアダムたちが去り、ジョージは乳母と二人きりになった。彼女は横たわるジョージをしばらく見つめていた。その視線は、いつもの包むような乳母のものではなく、疑念と不審に満ちたものだった。それだけでジョージは不安になる。ガートルードの好意がないことが、すなわちこの世の全てに見放されたことを宣告されているような気がしたのだ。

 不意にガートルードがかがみ込み、手首に触れてきた。険しい顔で彼女愛用の腕時計を見つめながら、器用に拍動をはかる。触れた乳母の指先は熱と湿気を帯びており、凍りついたジョージの動脈にじわじわと広がる。温かい血が心臓に届き、強張っていた身体が緩んでいくのを感じた。

脈を測り終えたガートルードは険しい顔のまま、確かめるように眼鏡をただした。そしてエプロンを整えてから、ジョージの小さな体をふわりと抱き上げた。

 その時、ジョージは何とも不思議な感覚を覚える。人に包み込まれ、抱きしめられることはこんなにも温かいものなのか、人間を一つ持ちあげることは、これほど容易いことなのか。そして自分の幼い頃を、ガートルードに守られていたころの自分を思い出す。ジョージはガートルードの顔をのぞき見る。それは強ばった表情ながら、目じりのしわも頬の質感もすべてが彼の見知った乳母であった。その目で微笑み、大きな腕で悲しむジョージを百合畑で抱きしめてくれた。ジョージの凡庸を責めることなく、いつかその時が来ると言って包み込んでくれたのだ。それだけで、自分は他に何が要るというのだろうか。

 ジョージは誰にも気づかれていないことを願いながら涙をこぼした。

 



 それから、深刻な顔をしたアーサーが部屋にやって来て、続いて医者がやって来た。部屋の外では小鳥のさえずりのようなおしゃべりが聞こえる。ジョージは休むことなく世話を続けるガートルードを意識で追った。ジョージの前髪を上げ、顔の全貌を見た時の彼女の不穏も感じた。そこには驚きと悲しみ、未だ言葉に発見されていない複雑な感情があった。しかしそれでも彼女の眼差しは、繊細な糸のようにジョージを包んだ。

 彼はその晩で多くのことに合点がいった。





 深夜、煌々と燃える暖炉の前に、ジョージの顔をしたアダムが立っていた。彼は見覚えのある寝間着を身に着け、愛に充たされた顔をしていた。しかし彼にかかる陰影はいつかのように背景とちぐはぐに落ちており、妙に滑稽に映った。

「ガートルードは?」ジョージは横になったまま言った。体が重くてまだうまく動けない。

「ミスには帰っていただいた」

 アダムは静かに言った。ぱちぱちと音を立てて火が揺らめく。その顔は逆光でよく見えなかった。

「さて、君はどう思った? こんなに手の込んだことをしてやったんだ。感想くらい聞かせてくれよ」 アダムがせせら笑う。

 ジョージは目線だけ動かし、淡い影が伸びる天井を見た。

「君は、かわいそうだ。君は自分に失望すべきだ」

 アダムの顔がみるみる歪む。「なに」鼻で笑う。

「誰が、なんだって」

「君が初めてこの家に来た時、こんなに手厚くもてなされて、ガートルードの体の温かさにも、父の……アーサーの対応にも、何にも心を動かされず、ここまで来てしまったことが、僕は理解できない。君は暗い部分ばかり見つめていて、一番見るべきところを見ていない。きっと今、後ろに暖炉があることにだって君は気付いていないね」

 アダムはひどい目つきで後ろの暖炉を睨む。暖炉の明かりは彼に映らず、顔には死んだような影がこびりついていた。

「じゃあ、なに。君はこの家に未来があると思うの」

 馬鹿にするようにアダムが吐き捨てる。

「何も……」

 ジョージが呟く。

「何もないのかもしれない。君の言ったとおり、父は祖父の陰から抜け出すことはできないのかもしれない。君に取り憑かれたまま終わってしまうのかもしれない」

 ジョージは頭の中で一つ一つ物事を整理しながら呟く。語尾は弱い。それが体のせいか心のせいか分からなかった。

「母もこのままではいつか海に沈んでしまう」ジョージは母の中に住む深海魚を思う。暖炉の前のアダムは、いつの間にか個性のない能面のような顔になっていた。表情はない。「じゃあ、君はどうする」

「君がこの家を築いたんだろう」そこまで言ってジョージはやめた。個性のないアダムの小さい目は、睨むようにこちらを見ていた。

「アダム、書庫に連れて行ってくれ」

 アダムは小さく震えていた。表情に色はなかったが、顔はジョージのものから遠く離れていた。容れ物を失くしてしまったのか。

「見返りは? 僕はどうなる」

 闇に陰った眼でジョージを睨む。この子どもが求めていたこと、全てはこれだった。ジョージは乾いた声で答えた。

「みんなが恐れることだよ」



 アダムは暖炉から離れ、恐る恐るジョージに歩み寄った。近くで見るアダムは青ざめてひどく不安そうな顔をしていた。そしてアダムがジョージの手に軽く触れる。すると呪いが解けたかのように、指先に熱が戻ってきた。ジョージはベッドからすり抜け、アダムを連れて北の地下室へと向かった。

「今の君、それがもともとの君?」

「知らない。忘れた」二人の子どもの声が廊下に響く。

 その晩も地下室はやはり気味悪く、本たちはジョージを待ち構えていたかのように息を潜めた。ジョージはいつものように書庫に火を灯す。そしてランタンの油を抜きながら、アダムに言った。

「君はみんなに火事だと知らせて。なるべく早く。できるだろ」

 アダムは頷く。そして音もなく書庫から消えた。ジョージは椅子を崩し、木片に油をかけた。本がぴたりとおしゃべりをやめる。一冊の本に火を移し、椅子の残骸に放った。火は乾いた空気を喰らうかのように、周囲の灯りを巻き込み書庫を巡った。ジョージはその様を夢の中の出来事のように見つめていた。祖父が収集した本が朽ちてゆく。いや、アダムか。では祖父は存在しなかったのか? では父は?自分は? 

 自分が炎に取り囲まれていることに気づいたのは、熱さが耐えがたいものになってからであった。「ジョージ」と呼ぶ声がした。振り向くと小さな子どもがこちらを見ていた。様子はずいぶん違ったが、それがアダム以外であるはずがなかった。

「みんなは?」「もう誰もいない、みんな眠ったまま外にいる」

 アダムの顔には不安があった。燃える書庫を見つめ、涙を流す。そこに音はなかった。大きく穴のあいたような眼から、後を追うように一粒、ひと粒。しかしアダムは顔を覆わない。自分が泣いていることに気付いていないのだろうか。

「何が悲しいの」ジョージが尋ねる。

「容れ物を失くす時は、いつも」言葉はそこで詰まった。涙は幾つもの道を作り、こぼれ落ちた。途絶えた言葉を継いでくれるのはいつもアダムであった。

「悲しいの?」ジョージは尋ねる。

 するとアダムは、嗚咽を堪えながら横に首を振った。苦しそうに肺に空気を送り込む。

「どこへ行って何をしても、結局自分は何にもなれないのだと、思う」

 言ったきり、アダムは小さな子どものように、ジョージの腕に顔を埋めすすり泣いた。二人の肌に炎が揺らめく。

 飲み込む対象であるはずのジョージに、すがりつき絶望を嘆くアダム。ジョージは、アダムは自分にとてもよく似ていると思った。姿形ではなく、彼の持つ血の意味が、とてもよく。

 果たして人に型は必要なのか。ウェストウッド。偉大な血脈。父母の血。燃え盛る蔵書を読みたいと思ったことは一度もなかった。父のように生きたいと思ったことも決して。書を喰い終わった炎はジョージの型をも焼いていた。ジョージはそれを実感する。その時、ふと、だれかに言われた言葉がジョージの口をついた。

「すべてうまくいく時が、くるよ」

 かつて掛けられたその言葉は、ジョージに温かいものを与えてくれた。アダムにも伝わるだろうか。

「時が来ればそんなこと、忘れてしまう。容れ物なんて本当は必要ないんだ」

 こちらを見上げたアダムは既に力のない小さな子どもになっていた。その彼の中には、確かに自分と同じ血が通っているのだと、ジョージは思う。

 片方の子どもがもう一方に何かを言った。しかし言葉は轟々と唸る火にかき消され、分からず仕舞いであった。









 一夜にしてウェストウッドの屋敷は焼けおちた。

 美しいウェールズに黒煙が上がり、騒動はなかなか収まらなかった。出火は地下書庫、一時間で火は屋敷を覆った。書庫は損傷が激しく、直接の出火の原因はいまだに解明されていない。書庫には数万の書籍が保存されていたらしく、地下は粉のような灰で埋め尽くされていたという。

 家は財産の多くを失った。しかし謎は多いままである。まず、事件前後の当事者たちの記憶が非常に曖昧で要領を得なかった。何者かの誘導があったことは確かなのだが、はっきりしたことは誰も、何も言えなかった。避難後、その場に眠りこけていた者がいたほどだった。夫婦に大きな嘆きや絶望は見られず、ただ空虚な顔をしていたという点が周囲の注目をひいた。

 その日、家には客が訪れていたという証言もあるが、どのような客でどこから来たのかなど、話は一つも一致しなかった。証言者の一人はその家の乳母であるという女性であった。この乳母であるという女性の嘆きはたいそう深く、警察の注目を集めた。そしてまた、事件の晩の客について最も多くの証言を持っている人物もこの女性であり、警察は彼女の取り調べを行った。女性はこのように語った。











 とても不思議な子どもでした。私が抱きかかえると、じっと私を見つめて涙を流すんです。私もなんだかその子を知っているような気がして、随分丹念に面倒を見てやった気がするんですけど、ええ、なんでしょうね。顔を思い出そうとするとだめなんです。何も思い出せない。

 ただ、涙が出るほど悲しくなるんです。













後書き

未設定


作者 るい
投稿日:2010/01/19 02:35:31
更新日:2010/01/21 06:40:25
『血の子ども』の著作権は、すべて作者 るい様に属します。
HP『未設定

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作品ID:148
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