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作品ID:176
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約119546文字 読了時間約60分 原稿用紙約150枚
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創作論二千九?フォーエバーウィズミー?
作品紹介
例えばこのサイトで鍛錬をしている方。車もほとんど通らない地方での建物の一室で、机に向かって孤独に執筆をしている方。愛を叫ぶ方法を小説で表す方。金はないけど夢はあって、素晴らしい物語で読んだ人の感情を荒らしまくりたい方。物語のキャラに恋をしちゃう方。とにかく創作にたずさわるすべての人に向けて、ナボナから噴出したイメージの文章化したものです。たくさんの人の目に触れたいと願っています。ナボナはこの文章を一文字でも読んだ人を愛しています。添加物ゼロの愛。そしてその愛をたくさんの人に配りたい。世界は愛で溢れるのです。そしてSPARTA LOCALS(スパルタローカルズ)に愛を込めて。誤字脱字はあると思います。許してください。
『創作論二千九?フォーエバーウィズミー?』 ナボナ著
執筆の狙い
一
太陽太陽、僕は太陽になりたいんだ。
なんのため? もちろん幸せになるためさ。しかし、あくまで人間であるので、これはつまり比喩である。太陽のように照らし、生きとし生けるものすべてに、エネルギーを注ぎ込むような、エネルギッシュな人間になるのが目標というか、スローガンといいますか、やっぱり目標です。
そんなの無理だよとか思う輩もいるかもしれないね、でも考えてみて、そして思い出してみて、あなたの周りにもいたでしょう。学校のクラスメイトや、職場の大先輩、優秀な同僚とかさ、こいつ一人いるだけで、場が盛り上がる活気づく笑顔が溢れる。ムードメーカーかな分かりやすい単語でいうとね。それが僕の言う太陽なのね。理解してもらえた?
僕は誰に言っているのだろうね、誰に言っている設定にすれば僕は円滑に進める事ができるのかな? わかった! 僕は僕に言っているのだ。未来の僕がこれを読むときにわくわくできるすばらしい文章と切り口で進んでいきたいものである。今これを読んでいる僕はいくつ? 三十四? 四十三? ちなみに僕は二十五歳。そうだよ、あなたがいっていたじゃん、新社会人が始まって心が躍る年齢になったぞって感じって言っていた歳だよ。なんてさ、回りくどいねこの書き方。
話はそうだよ、太陽のような人間になりたいって事だよ。僕一人いるだけで、周りは笑顔で溢れ、ざわざわと活気だち、人間関係が円滑になり、伝達ミスもなくなり、些細な言葉や行き違う仕草で、すれ違う思いをせき止める人間になるのさ。白馬に乗った王子様のようなサラサラヘアの八頭身なおかつ容姿端麗、頭脳明晰、文武両道の完璧人間を見た時に、まるで腹のすかした肉食獣かのごとく急変する女の、その急変する部分だけを抽出して、老若男女問わず、うれションを漏らしちゃうくらいいかれちゃう、魅力たっぷりの太陽人間に僕はなりたい。
だがしかし、相当なハードルである。若造中の若造である僕にとって、そんな大それたこと、かなり厳しい。イメージとしては、四十歳くらいでそうなれたらいいね、つまり十五年スパンのビッグプロジェクトなんだよね。そもそも若いうちから無理して太陽になろうものなら黒太陽になってしまうのが関の山なのである。そう、黒太陽ね。例えば、僕が二十歳のころであった。なんのへんてつのないフリーターである僕は、新宿にある、串ものを全面的に押し出した居酒屋でアルバイトをしていた。そこにリーダー的アルバイトで働いていた白岩さん当時二十七歳はそれはもう、リスペクトが具現化したような素晴らしい人物だった僕から見て。平成のパーフェクト超人と心の中で呼んでいた。不器用な僕は、串をひたすら焼く役割の仕事を中心に教えられて、元来真面目な性格のため必至にやるにも関わらず、仕事が成立しないというウルトラCをぶちかますが、白岩さんはそんなクズに優しく語りかけてくれる。人それぞれ慣れるまでの時間は違うし、お前は一生懸命やってるから大丈夫だよ。そんな意味あいだったと思われる。
白岩さんは早稲田大学を中退し、フリーターにクラスチェンジしたタイプの今から思えばよくあるあるある、なのだけど、低学歴の僕からすればおしゃかさまに見え、なおかつ劇団に所属し、俳優になる夢を追いかけながら、仕事も人の二倍し、居酒屋での全ての仕事をマスターしたオールマイティで、他の学生バイトにも散々慕われ、まさしく太陽の人なのだった。でも本当の姿は黒太陽であった。震えるぜ。発覚したのは串焼き屋でバイトをして半年ほど経った時での飲み会事変である。つまり単なる飲み会であるのだが、その飲み会に僕は参加しなかった。なぜなら酒が嫌いだからであるのだが、とにかくうまいこと用事ということにして、行かなかった。するとその三日後だ。同年代のバイト仲間が飲み会の話をしてきやがって、いじられキャラである僕に言いやがった。『お前白岩さんに使えないって言われてたぞしっかりしろよ』最初その言葉の意味がわからず、周りの景色がぼんやりとうすくなって、聴覚が水の中に入った時のようにノイジーになり、鼓動が小動物のように早く鳴り、顔もおそらく呆けていたでしょう。黒太陽に黒光線で精神を焼かれた。身体が熱くなり消し炭のように瞬間的には完膚なきまでにまっ黒に染まりきった。ダークサイドに心を持ってかれたアナキンスカイウォーカーの気分と自分を重ねてみたりした。太陽の人であった白岩さんは黒太陽で危険極まりない恐ろしい男だったのだ。
普段が素晴らしくてリスペクトしていたので、ギャップで効果は倍増したのである。とはいえ、安易に他人の言葉を信じていけないと思い至った。白岩さん本人からそう聞いてないし、太陽の人間である白岩さんはそんな事は思っていても口に出さないはずなのだ。むしろ、他人の言葉を信じてしまうのは白岩さんを裏切る行為になる。白岩さんがそういったかどうかの判断は僕の基準で行うのだ。と思ったら白岩さん、あっさりと僕ではないアルバイトの奴の悪口を言っていた。その様子で分かった。この人は太陽ではない黒太陽だ。まあいいさ、自分でも使えないガキだとは承知していたし、そりゃあ白岩さんのような素晴らしい人材にはより一層使えないと見えたでしょうね。でもさ、真実とはいえさ、太陽の人はけっしてそんな事を言ってはいけないんだよ。もう、だめだ、ギブアップ、リタイアさ。明らかに心閉じてその二ヶ月後に居酒屋はやめた。
過去を語るのも飽きた。これを見ている僕もそろそろイライラしているだろう、妙な前振りを書くんじゃねえぞとね。そもそも今は昼間で仕事中であった。
元来真面目な性格をしている僕としては、給料をもらっている身分、勤務中は会社に尽くさなくてはいけないのだ。そんなスタイルを常に頭の隅っこにおいとかねばならぬ。さて仕事仕事。
キャラクターを考える仕事。社長が言うにはキャラクター週間とかいう、けったいな一週間なので頭を抱えるぜ。しかも血の通った奴らを創りたいとかいって履歴書と百の質問に事細かく記載しないといけない。よくよく考えたら大層な仕事量かもしれないが、ぬるい会社なのでよかった。重く考えず気楽に書いていこう。
名前 楊貴妃妖子 名前の通り楊貴妃の如く美しくかつ怪しく艶めかしい女。
生年月日 1992年四月二日 バルセロナオリンピックの年。そして学校のクラスの中では一番のお姉さんなイメージで四月二日生まれ。
血液型 AB型 天才が多いと言われるので。あと二面性があるとも言われるね。
職業 高校生 もちろん裏の顔有り。
そんな感じで特技、趣味、長所、性格、口癖、髪型、好きな男性女性、嫌いな男性女性、好きな雑誌、好きなテレビ、好きな季節、などなど、社長が作ったフォーマットになる百の質問を埋めていくと、キャラクターのプロフィールはけっこう細かくできていくね、しんどいけど。
これらの情報をキーボードでタイピングしていく。孤独との戦いでもある。頭を使うので集中力が破滅的にない僕としてはきっついぜ。だがしかし、わが社には確固たる目標があるのでやりがいはあるのである。
ついしてしまう行動 気を許した相手にはビンタや拳骨などで打撃ダメージを与えてしまう。けれども楊貴妃ばりの魅力でやられた方はなぜか喜ぶのである。
ところどころ空欄もあるが、どうにか質問を埋め終わる。そして今度は履歴書と同じ形式のワードデータがあるので埋めていく。そう、あの転職する時に書く履歴書ね。学校名を書くのが気が狂うほどめんどくさいので、都立きらめき高校などとフィーリングで打ち殴った。
ようやく一人完成した。履歴書と質問の二つでワンセット。かなりスムーズに、タイプする手があまり止まる事なく進んだってのに、一時間もかかってしまったよ。もうお昼近い。腹が減った。さてこのキャラクター週間で一体何人の使えるレベルのキャラが創られるのだろうか。
十七時が定時になるので、会社を出た。結局今日は三人しか作ることができなかったがまあよしとする。
貧乏をこじらし、金持ちに嫉妬をし、ベンツのエンブレムを折りタイヤをパンクさせる青年を創り、自分でも気に入った。もう一人は、円グラフで人間の感情を見透かす事ができる少年漫画に出てきそうな特殊能力系のキャラ。明日は四人創る事を目標にしよう。
十八時からバイトが入っている。簡単な腹ごしらえとして、カツオ出汁がたっぷりと効いた立ち食いソバ屋でかき揚げをトッピングし食う。これほどうまいものが三百八十円だなんて、僕は幸せだなぁ。いい時代に生まれたものだ。
十五分前にバイト先である駅前の中型本屋に辿り着いた。裏口から入り、控室で店の制服に着替え、五分前にタイムカードの役割の名札バーコード読み取りを無事すまし、レジに入る。遅刻はしない絶対に。なぜなら僕は太陽のような人になるので、遅刻をして、バイト先の皆のモチベーションを下げてはいけないからである。太陽は常に皆にとってエネルギッシュであるべきなのだ。十八時から四時間の労働だ。
仕事自体はなんのへんてつもなくレジ作業である。中型サイズの本屋なので、レジ打ちの人数は常に三人。
三メートルほどの、細長いテーブルの左側、レジターミナル一号機が僕。間抜けなダックスフントみたいな顔の二十歳位の学生の男が真ん中レジターミナル二号機。その隣にサラサラロングの佐藤ちゃんが右側レジターミナル三号機。
佐藤ちゃんは本屋のバイトの中でマドンナ的存在で、モデルのような細い体形をしている。犬のような学生はあきらかに佐藤ちゃんを狙っているのがわかって少し面白い。そして、犬は隙あらば佐藤ちゃんに話しかけようとしているのが僕からみて、仕事しろよクソガキってなるのだが、太陽になりたい僕としてはそんな事は決して言わないし顔にも出さない。仕事優先だ。
客が本を持って来るのを待ち、来たらバーコードを読み取り本の冊数と値段を告げる。喉を少々開き、それによって普段より甲高い声を発することが大事だ。僕はお客であるあなた達の味方ですよ。害意ゼロですからオカマのようななよなよした声を出すのですよ。あなた方も僕がレジだと買いやすいでしょ? そう心の中で問いかけると客は声に出さないまでも、ええそのとおりです。あなたのような優しい声色の店員さんのおかげで大変気持よく買い物ができますわいセンキュー、とテレパシーが聞こえてくるものだ、というか頭の中で勝手にアフレコしている。 しかし、まあ、話は変わるが、なんというか、似たような内容のライトノベルばかり売れる。さっき売ってカバー掛けた本もやっぱりそうだよ。
本屋でアルバイトをするほどの本好きの僕は、バイトのない日などは大型書店で立ち読みをし、作品をチェックするのだが、まったくもって、最近のライトノベルのワンパターンで他の作品からキャラとシチュエーション組み替えただけでなおかつ媚びるようなボーイミーツガールばっかりでもううんざりのお腹いっぱいゲロまみれ。
とはいえ、ライトノベル作家もプロフェッショナルなわけで野球で言うと一軍選手だ。僕は二軍だ。いやその例えは違うな。僕はアマチュアリーグという大きな括りの中の一つのチームに一応所属しているだけって感じか? いやそれもどうかな。特殊なチームだな。つーか野球で例えるのがそもそもの間違いだった。
ライトノベルか。いいのはすごくいいのに、だめなのはほんとだめだね焼き増しだね。つまり、いいのはいい、悪いのは悪いとはっきりと断言できる眼力を持つ僕ならば、自分でいいね! と心から言える作品が書ければ、そりゃあもう、大賞とっちゃうんじゃないのこれ? 絶対いけるって。よーし、そうときまれば。
レジ打ちをやりながらも意識を店内の奥に向ける。この場所からは見えない角度に存在する注文カウンターという本の予約などを受け付けるコーナーで週五で働いているメガネ天使の顔を想い浮かべる。クラゲのようなシルエットの髪型。猫のようにマン丸とした眼。フグの腹のように白い肌。ラブ。ただ純粋なラブ。添加物ゼロのラブ。彼女は二十時で帰っちゃうから話す機会もありゃしないけれど、帰る時にレジを横切るその瞬間で恋に落ちる男がいたんです、僕です。
メガネ天使をモデルとして、僕と素敵なデートを繰り広げ、悪漢にぼこられ、筋トレして悪漢をぼこり返す話を壮大なスケールで描き切り、電撃文庫で賞をもらうんだ。テーマはねちっこい愛。よしそれでいこう。
すると時計は二十時二分。メガネ天使がクラゲヘアを揺らし今横切った。僕の胸がときめきで暖かくなり彼女が去る後ろ姿で空洞がバキューンと作られた。やられた、かわいい。僕の天使で太陽だ。彼女がいるから頑張れる。何故彼女が太陽なのか分析し、パクッて自分のモノにしてやるぜ。ああしかし、左手の薬指の指輪が腹立つ。にっくきエンジェルリング。
バイトはこどとおりなく終了した。犬面はマドンナに話しかけ軽く流され、へこんだ犬は僕になんか言っていたけど、適当に肯定して元気にあいさつして家に帰り、シャワーを浴びて、元気がでる骨盤体操をし、二時に夏目漱石の文庫を読みながら布団でまどろみ寝た。
会社は十時出勤が決まりとなっている。超がつくほどの低血圧なのだが、どうにか、今日も遅刻しないでこれた。
『有限会社直木』というふざけた名前の由来は、会社ぐるみで直木賞を取ろうというコンセプトのもと、命名されたものだ。ていうかそれがすべて。社員は僕を含めて五人しかいないどちらかというと同好会と呼べるレベルの、とても小さな会社だ。とはいえ、設立してからまだ二ヵ月ということなので、まだまだ社員は増えると思われる。
場所は杉並区梅里の住宅街でビルの上から見下ろす景色は、一面墓場というある意味爽快な中層マンションの五階になる。本来、外国人むけの安い賃貸物件で、とても重々しく湿った空気が常に漂う辛気臭い殺風景な部屋なのだが、社長が持ってきたチェックの布によりリフォームされ、ほんじょそこらの高校で行われる学園祭の飾り付けされた教室っぽくなった。皆唖然としたが僕としては社長がいいならそれでいい。
会社のビル手前の自動販売機でつめたい缶コーヒーを買い、エレベーターで五階に上がりのれんのようになっているチェックの布をくぐる。十時十分前で一番乗りだ。イエイ、自分のデスクに座る。北欧デザインとかいって、木の質感があたたかいのが特徴的で、値段も高いらしいが、座わっていて尻が痛くなりやすいのであまり好きではない。仕事で使うパソコンも最新型なのだがテキストやワードといった、軽いソフトしか必要としないので宝の持ち腐れとかいうやつだ。でもデザインが今風でおしゃれだから好き。オフィスにパソコンは四台。どれも新品。あと最新型の空気洗浄機。資料を置く本棚。あとは細かいのが色々。インターネットにつながっているのは、部屋の真ん中においてある共通パソコンのみで、仕事に専念してもらうための配慮らしいが、見事な策である。
朝のまどろみを感じながら缶を開ける。この一杯のために生きてる。おおげさに思ってみた。さて、する事もないし、仕事に取り掛かるとしよう。今日は水曜日。昨日に引き続きキャラクター週間だ。四人は作りたい。うーんしかしどんなキャラにしようかな。まったくの空っぽでテキストソフトに向かうのは無謀であった。ちゃんと策を練ってくるべきだった。どうしよう、マジでどうしよう。昨日会った人を思い出す。本屋の客にしよう。でも昨日の記憶があまりねえ、メガネ天使しか思い出せねえ。にっくきは左手薬指にはめられた、エンジェルリング。となると、仮にあの子に恋人がいるとして、どんな奴だ? 口のうめぇ渋谷野郎か? ありかもしれない。エンジェルは人を疑う心がないんだ純粋すぎて。そりゃあ口だけうまいナンパさんや、不幸自慢する軽口やろうや、寝てない自慢する大学生にも心を許してしまう状況すらありうるよ。なんだってありうるよ。となるとだ。もしかして、僕にもチャンスはありうるわけだ。こりゃあいい。デートを誘うならどこにしようか、映画とかいって無難なデートにはしたくねえ。だって、僕だぜ? 奇をてらったすごいデートにしたいよ。向こう十年は誰も手が出せなくなるようなすごいデートにしたいと思います。遊園地、水族館、おいしいレストラン、乗馬教室、美術館、ハイキング。それら全部を同時にこなせる夢のような施設ってないかな。逆に間を取って、オンラインゲームを一緒にやりましょうなんていうのはありかな? いやなしかな? いやまてやっぱりありか?
すると隣からキィという蝙蝠の鳴き声のような音が聞こえる。ふりむくと、ピンクのボーダーシャツを恥ずかしげもなく着こなす女が北欧の椅子を引いていた。蝙蝠の声は椅子を引いた時に床とこすれた音なのだと気づく。
腕時計を見ると時刻は十時四十五分。おやおや、松嶋さん今日も遅刻ですよ。口に禁煙パイポなんてくわえて、高級なボーズのヘッドホン耳に掛けて、堂々としてますな遅刻者のくせに。なんてことを顔には微塵もださない。
「おはようございます」
椅子から立ち上がりななめ四十五度のイメージでおじぎをする。元気でよい挨拶ができた。今日は喉の調子がいい。派手目のガールズロックスタイルの松嶋さんは、おっくうげに首を揺らし挨拶を返しデスクに座る。エナメルの黒い靴が光を反射してまるで艶やかな虫を履いているようだ。距離にして一メートル、僕の隣だ。デスクが近いのは社長の方針による。雑談から生まれるアイディアを期待しているとのこと。とはいえ雑談は始まらなかった。ヘッドホンを付けたまま松嶋さんもキャラクター創作作業を始める。僕も創らねば。遅刻をしていないのに関わらず進行状況は松嶋さんとなんらかわっていないからだ。
すると天からアイディアが降ってきたかの如く閃きが炸裂した。内容をそのまま書き殴る、キーボードで。
女、独身、大学生、プライドの高い美女。自分は美人なので特別扱いされるべきと思っている。自分以外の人間はすべてバカだと思っている。例外として五つ年上の従兄弟のお兄さんを尊敬と同時に愛している。(とはいっても所詮十代の恋)高校一年の時初めて肉体関係を持ち、それは二人の秘密となりその後もズルズルと続いた。従兄弟からするとただ性欲をもてあます時期に現れた都合のいい女としてしかみていない。自意識過剰で我がままなので大学でも友人と呼べる存在はいない。自分につりあう男もいないと思っているから恋人もいない。孤独なのは周りの人間がバカで、レベルの高い自分のことが理解されないからと思っている。従兄弟ができちゃった結婚をし、その妻を殺したいほど怨み、客観的に見ても自分の方が女として勝ってると思っている。だが従兄弟夫婦の子供は可愛く感じ愛している。従兄弟の結婚がショックで、出会い系サイトでいわゆるパパを三人作った。時折デートをしてお金をもらうが自分を買うパパが悪くて、自分はまったく悪くないと感じる。暗い歌が好き。怒りや不満のストレスをミクシィなどの手軽なネット媒体で排出する。
おおまかな女キャラクター概要が書けた。あとはフォーマットである百の質問と履歴書に当てはめれば一人完成だ。ちまちまと時間をかけて質問をうめていく作業に没頭する。
「ねぇ」と横から声がする。
松嶋さんしかいない。現実に戻された感覚がし、同時に腹が減っていた事に気づく。
「なんでしょう」
話しかけやすい人になるため、嬉しそうに答える。彼女は億劫そうに
「近くにいい店見つけたんだけどさ、いかない?」と呟く。
「いいですね、ちょうど腹減ってたんですよ。いきましょうか」
イエスマンと言ったら僕。一点の曇りもなくイエス。しかし、こいつ、もうちょっと元気に喋れないものか。まるでこの世界を丸々恨みきっているかのような面持ち。バカか。
すると歯車がカッチリとはまる感じがした。さっき唐突に女キャラの設定が浮かんだのは、松嶋さんの中身を無意識に予想して思い浮かんだのだ。つまりかっこいい言葉でいうとインスパイアされたとなると、ありがとうだよ松嶋さん。彼女の事が少し好きになった。
いい感じの店とはファッショナブルなカフェで、パスタもおまけ的に出すみたいな、店だったのだが、満員だったので入れなかった。週刊誌で紹介されたせいだと松嶋さんはぼやいていたが、話を聞く限りこの店にくるのは今日が初めてのようだ。お前も週刊誌を読んでこようと思ったくせに、常連みたいな言い方すんなよ、などと悪態をつきたくなったが、それは言っちゃダメ。それを言う僕を僕はけっして許さないからだ。太陽になるのだ。
結局ファーストフードになった。昼時だが、タイミングよく二人掛けの席が空き座れた。てりやきバーガーをパクつきながら僕は訊ねた。
「どうすか仕事、キャラクター創れてます?」
すると松嶋さんは興味がないように顔を横に反らし「まあそれなりに」とぼそり。この話題は外れだ。
「それなりですか……」
オウム返しでなんとかやり過ごす。
すると驚く事に彼女から口を開いた。
「それよりさ、あの会社どう思う?」
仕事についてではなく、会社自体の話題にしたいらしい。話を合わせられる男つまり僕。 彼女が会社をどう思っているかは知らないが、好感度高い男を演じるのだ。
「素晴らしい会社だと思います」
「どこが?」
納得のいかないようなしかめっ面で言い放つ松嶋さんはあの会社が気に入らないらしい。
「いやいや、そんなあからさまに嫌な顔しないでくださいよ」
「あなた本当にめでたいわね。羨ましい」
「ありがとうございます。そういわれると嬉しいです」
「皮肉で言ってんだけど」
うるせえなあ、こっちも作ってんだよ。年下のくせにうるさいアマだ。こいつには友達いないぜ絶対。
小さく笑ってごまかし、誘導するように話を振る。
「松嶋さん会社が気に入らないんですか?」
すると喋りやすくなったぜと言わんばかりのうきうき顔で、
「気に入らないわけじゃないんだけどさ、社長と副社長がいるでしょ。あいつらが妙に怪しくて」
「童顔とかわいいイケメンの二人が?」
「そうその二人、うさんくさくてしょうがないわよ、何をたくらんでるのかしら」
「スカウトされた時に散々説明されませんでした? 質問も出尽くすまでしぼりださせられたし」
入社前の面接で会社についての仕組みはうざったいぐらい聞かされた。その後社長と副社長がもういいと納得するまで、こちらから質問を言わされるシステムで会社概要をとことん聞いた。
「そんなのでまかせかもしれないでしょ。人間なんてすぐにウソつくしさ」
出た。私、かわいそうな子アピール。
「まあ、そうかもしれませんけど」
一度肯定してから自分の意見を言う方程式をかます。
「でも、ちゃんと契約通り給料もくれますし、仕事も楽っつーか、ほとんど趣味をかねてますからこっちとしても都合いいじゃないですか」
すると、松嶋さんは見下したように言う。
「ほんと、めでたいわね」
めでてえめでてえ、過疎化の村で産婆でもやって一生めでてえとほざいてろ! と鼻の穴に指をつっこんで、罵倒してやりたい気持ちを抑え、ニコニコしてると、松嶋さんは言う。
「そもそもちょっと頭おかしいのよね。三億円当たったからってこんな採算の望みのない会社作ってさ、まあいいけど、私は給料もらうだけもらっていい仕事見つけてとっとと去るし、どうせ簡単に文学賞なんてとれっこないしさ。金がなくなるまで同好会みたいな会社やってればいいのよ。つーか、社長と副社長できてるっしょ絶対。気持ち悪い」
ちょっと顔が可愛いからって性格わるい女だなという感想と、あの二人できてるのか? という疑問が浮かんだ。
「できてるって、恋人ってことすか?」
「当たり前でしょ。私こういうの昔っからわかるのよね、雰囲気でさ」
松嶋さんの場合は、話題通りに話がすすんでいるのではなくて、話題を通して自分を語る感じがして本当にダメ。結局何が言いたいんだこの人はとなる。社長と副社長がホモだろうが純愛だろうが本気だろうが、なんだっていいのさ。そして僕にはバイト先のメガネ天使がいるからただそれだけでいいのさ。
「はぁ、色んな愛の形があるんですね、松嶋さんもよく気がつきますね」
穏便に対応した。
すると松嶋さんは溜息をついたのち、
「私だってね、今好きな人がいてさ――」
僕をランチに誘ったのは、ただ話を聞いてもらいたいがための面倒くさい女の典型的なパターンであったと気づく。よくないのは、松嶋さんの話はつまらないということで、相槌を打つのすら苦痛であったということだ。
僕の持論で、人間は自分以外の誰かに認めてもらいたいという欲求がある。松嶋さんのことは今のところ好きでも嫌いでもないけれど、認めてもらいたい対象とされているのなら少し嬉しいなんてポジティブに思ったりしたけど、まわりくどい話し方と、自分が自分がというエゴ丸出し感がやっぱり面倒だったので、やはり好きでも嫌いでもないといった枠から脱することはなかった。早くメガネ天使と仲良くなりたい。
会社に戻り新キャラを二人作った。しかしパクッたに近い。とは言ってもこの世には星の数ほど物語は存在するので、もうパクッたとかどうでもよくて、借用とか引用と言えばいいと思う。もちろん借用した作品は尊敬とか敬愛といった単語の意味が含まれているし、感謝の気持ちを忘れてはいけない。
一応、簡単にキャラの説明を書いちゃおうかな。
『羊達の沈黙』に出ている、レクター博士の立ち位置の引きこもり。IQ百七十。家が資産家で美形。本が好きのため知識は豊富。潔癖症なので外に出たくない。金持ちなので使用人が面倒を見てくれる。好きな人は自分が持ってないものを持っている人。自分でやっているブログが生きがい、外の他者との唯一のつながりになるから。プライドが高いので自分の部屋が一番居心地がいいとか言っているが、本当は外にでたい。白馬に乗ったお姫様を待っている。
そしてその相方にあたる『羊達の沈黙』に出てくるクラリスの立ち位置。私立探偵の助手で美女。仕事で分からない事をレクターに聞いて事件解決に役立てている。正体を隠してレクターのブログにもコメントを残し、裏でレクターをいいように操る何気にすごいやつ。それからヒントを得て、病んだ現代人のブログを見てあげて、反応してあげるという商売を始め、その行動から事件のヒントを得たりして、探偵助手としても武器になっているし、金も潤っている。この時代だからこそ成り立つ商売なのだ。もちろん美女。
キャラを創り終えた後から、こんなのでいいのかな? といった罪悪感に襲われた。とはいえ、就業時間を過ぎたので本日もバイトに向かう。バイト先の道すがら労働賃金の事を考える。十時から十七時で一時間の昼休憩ありの週休二日で月給二十万。実質六時間机に座って作業するだけだし、楽だし良い仕事だ。元々僕は文芸作家希望の投稿の日々だったのだ。金も貰えて適度なプレッシャーもあるなんて、願ったり叶ったりだ。そして、会社の原則として、他の副業をしないといけないという社長の方針も理に叶っている。外部との刺激によって、創作意欲を向上させるという寸法だ。すべては文芸賞をとるためだ。
本屋のバイト代が月に大体五万円なので、会社との給料を合わせて月収二十五万。年収三百万。悪くない悪くないよ。素晴らしい世の中だぜ。そしていつかは、直木賞をとってやるんだ会社ぐるみで。それがわが社、有限会社直木のアイデンティティだから。
今日もメガネ天使とは一言も会話をする事もなく過ぎた。そして昨日とはまた別の、レジ内のバイト大学生男女は、軽い青春を始めていて、ジェラシーを感じたが良くない。自分をどうにか抑えた。
帰りぎわの控室で制服から私服に着替えていると青春真っただ中の男が相談をしてきた。「前会った時はすごくいい感じだと思ったのに、今日会ったときすごくよそよそしいというか、もう、女ってなんなんすか?」
僕は、聞こえなかったフリをし「へ、なんて?」とすっとぼけた。青春君はムッとした様子で同じセリフを一語一句違えず言い終わったあと、そのタイミングを見計らい携帯が右ポケットの中で震えた風にみせかけ、悪い電話だと言い電話に出る一人芝居。
「へ? 何々、どうしたの突然、珍しいな。へ? 今日、マジでか、結構遅い時間だけど、うん、うん。それは楽しみだな。分かった分かった。となると、コンビニでつまみと酒を買うか。あと、どうする、うん、なるほど、そっか」
チッという舌打ちが聞こえ、青春君は帰っていった。まったく、ああいう輩には分からせてやらねばならぬ。いくら僕が素晴らしい太陽人間だとしても、自分の青春を他人に自慢するようにひけらかす奴の話を広げてやるほどお人よしではないのだ。逆に人間性をこういった行動で分からせ修正してやるほうが、よっぽど太陽になるとも言える。将来的に考えると今はこういった行動をとってやるほうが彼のためにもなると言い聞かせ僕はとても良い仕事をしたと思い込むポジティブ方法とも言える。そしてどこか切なくなる、早く家に帰る。
今日のようなやるせない気持ちになった時の慰め方を僕は持っている。家について左肩に背負っていたショルダーバッグを定位置に置き、手を洗い、うがいをしてから行動に移る。
押し入れの上の棚のメインを占める洋服入れの手前、無造作に置いてあるDVDケース。二ヵ月ほど前、アマゾンを駆使し手に入れたB級映画のDVDだ。とはいえ、B級というのは世間一般の認識であり、僕から見たら墓にまで持っていきたい、遺伝子レベルで組み込まれた僕の一部ともいえる世界遺産並の感動超大作である。
その映画のワンシーン、谷村美月の演じるヒロインが、主人公に慰められるはずなのに、逆にその言葉に傷つき、普段は無感情なくせに、その時だけは感情を露わにして叫び涙すら見せるシーン。そのシーンを何回も何回も何回も何回も見るのだ。ヒロインが怒るきっかけとなる瞬間やセリフ、間やカメラワーク。背景の小道具やBGMの出るタイミングなどすべてを意識し、何回も眺め、その結果谷村美月演じるキャラを僕が守るんだという考えに至る。今日で何百回目だろう、そう思ったのは。悲しいのは本物のヒロインに僕は未来永劫、対面する事はないということだ。涙をポロリとこぼし儀式は終了。完全無敵な鉄のマインドを取り戻した後、芥川龍之介を蒲団のなかでまどろみながら読み、眠りにつく。
本当に眠り落ちる直前、読書用の小さな照明も消して暗黒の中、考えが浮かぶ。一生の内、一作でもいいから自分で納得ができるほどの、魂を埋め込んだ、感情動きまくりのやばすぎる作品を生み出してみたい。太陽の人間が生み出す太陽の作品。見る人の心を照らすのだ。今のところ小説で表現できたらいいなと考える。そしてその作品で直木賞をとるのだ。ヒロインのモデルはすでに考えてある。ギガトン級の可愛らしさを誇るメガネ天使。 つまり、今の僕の脳から生まれるヒロインは全部メガネ天使になってしまうほどハマっているのだ。メガネ天使中毒である。そしてその直木賞を見事にかっさらった作品は当然の事ながら映像化される。全国流通の映画となってスクリーンで暴れまくるのだ。するとヒロインは本物のメガネ天使を採用。といきたいところだが、さすがに演劇畑にド素人を突然入れてはいけない。いくら原作者とはいえ、演者まで口出しするのはいささか失礼にあたる。そこで登場するのはやっぱり谷村美月。女優としての演技力は見事というか僕は彼女が好きだ。映画の役柄としてのメガネ天使のラブと、演じる女優側としての谷村美月のラブが融合し、ラブとラブの二重構造で甚大な磁場とかそんなのが発生し、核融合とかブラックホールとかすごいの、そう、ビッグバンが起こるのですよ僕の中で。つまりそういうこと。奇跡がおきるのです。モーゼが海を割ったようなすごい奇跡がおきるのですよ。いつのまにか寝た。
あっという間に目覚めた。夢をまったく見なかったのであっという間に感じたのだが、時計を見る限りすっきりとバッチリ七時間は寝た。本日は金曜日、花の金曜日とか世間で言う例のアレだ。しかし酒を飲む事を習慣としていない僕としてはどうでもよいし、これと言って酒を飲む相手も今日はいないっつうか、友達っぽい存在も二人位しかいないし、どうだっていいさそんな事は。砂糖たっぷりのモーニングコーヒーを足を組みながらダンディズムに飲み干し、寝まきから外に出るようの私服に着替え会社に向かった。
出勤時刻の二十分前に着いた。とても優良社員、またしても一番ノリだ素晴らしい。本日は十五日なので、社内会議が行われる。僕は会議が好きなのでご機嫌になる。何と言っても意見を言葉にできる場があるというのは気持ちがいいものだ。普段は人の話を聞いてばかりで不完全燃焼なんだ、発言するのが仕事というのはやりやすい。
デスクに座りウキウキしていると社長と副社長が来た。二人仲良く同時出勤とはこれもしかして、昨日松嶋さんが言っていた例のカップリング説の証拠となるのか? まるで湯水のように溢れる僕の中での疑惑。いやそこまでは思っていない。まあどうだっていいさそんな事は。僕は会議が楽しみなんだ。社長と副社長の後は天然パーマでお馴染みの同僚、大塚君も来て、松島さんも珍しく、遅刻しないで十時に来た。これで有限会社直木の社員全員が姿を現したことになる。総勢なんと五名だ。少数精鋭といいたいところだが、僕基準から見て少なくとも僕と松嶋さんの二人は精鋭ではないから少数精鋭ではないのだ。社員である僕と松嶋さんと大塚君がデスクに座ったのを確認してから社長は言う。
「どうやら全員そろったみたいだね、それじゃあ会議を始めるよ、ペンとメモを持って会議室に来てね、すぐに来てね」
今日も今日とて、少年のような顔と声をした二十六歳は、遠慮しがちに我々を促した。そのおももちは完全に草食男子とかいうやつだ。僕ら三人もどちらかというと草食というのにあてはまる佇まいで従った。バッグからメモとペンを取り出し、オフィスの奥にある会議室に足を進める。
天井には会議室としてはかなり不似合いな、レストランの天井にある金メッキの竹トンボのようなシャンデリアが絶え間なく回転し続け、気がつくと無意識の内に目で追っているものだ。やはり社長のナンセンスさには度肝を抜かれる。わざわざ取り付けたとの事。業者に頼んで総額五十万かかったと悔しそうでありながら誇らしそうに言っていたのを思い出す。
北欧風と思われるとても高そうで細長く大きいテーブルの中央にスポットライト。部屋の角に間接照明。空気洗浄機と二メートルほど高さがある植木鉢の中の樹。それが会議室の造りだ。
一番奥、配置的にはお誕生日席に少年のような童顔の社長がすわり、その斜め左にノートパソコンをいつでも打ち込めるぜといわんばかりの顔をした痩身の美青年でお馴染みの副社長。その向かいに天然パーマの大塚君。その隣が今日も今日とてヘッドホンを首にかけたガールズロックスタイルの松嶋さん。その向かいで副社長の隣になるのが僕だ。
副社長からはとてもいいにおいがして、とても男とは思えない。社長がこの人に恋愛感情を抱くのは自然の摂理と理解した。
僕は何気ない視線を装い、椅子に座っている福社長の下半身、正確には尻と太もものラインを眺める。痩身の上半身と腕に比べ、とてもふっくらとし、崩れないプリンを連想してしまう。キュッキュッボンというスリーサイズ。下半身デブとは言ってはいけない。妙な色気がムンムン出ているので、意図的にそのスタイルを目指したというか、初めからその形は神の黄金比と言わんばかりの美しさなのだった。ていうか副社長女じゃねーの、顔に髭もまったくないし指も女特有の白くて細くて横幅が狭くつるつるとしているもの。
「なにか?」
どきりとした。副社長の凍えるように冷たく、突き刺すように鋭いといった、残酷な声が僕に向かってきたからだ。おかしいな、僕の目線は自然だったはず。なにかと言われる筋合いはない。
「いえ、逆に、なにかとはなんですか?」
クールに言い返してやると、彼というか、限りなく彼女に近い彼は顔をこわばらせて、あまり関わりたくないオーラを出し、
「いえ、なんでもないです」と呟いた。
僕の勝ちだった。
「はいそこ、おしゃべりしてないで、これより定例会議を始めたいと思います」
社長が会議の始まりの挨拶を述べた。そして肘をテーブルにのせ両手を組み、演技かかった面持ちで口を開く。
「我が社、有限会社直木のさらなる飛躍……ゆくゆくは文芸界に言葉の弾丸をぶち込むために……物語を紡ごうではないか」
社長的にはビシッと渋く決めたつもりかもしれないが、客観的に見てびっくりするほど決まらなかった。カッコつけてますよって雰囲気がいかにも痛かった。言葉もダサかった。まわりを見るとそれは松嶋さんと大塚君も同じような事を思っている顔だった。白けた場の空気を察した社長はあせる。
「いやその、話題は突然変わるけどね、昨日お風呂でシャンプーをしている時に気がついたんだ。みんなない? 後ろに誰かがいるような気がする状態。ちょうどその日は心霊系のミステリーを読んでいたせいか、シャンプーをしていて目をつぶっている時いるんじゃないかと想像したら急に怖くなってね、そもそもおばけはずるいんだよ。あっちからは触ることができるくせに、こっちはなにもできないされるがまま。むこうしだいだよ。ずるいっていうか卑怯の域だよここまでくるとね、許せない。でも許せないなんて思っていることがばれたら殺されちゃうかもしれないから思うことすら許されない。圧倒的だね、どうしょもないね――」
「社長、始めましょう」
「あ、うん……そうだね」
副社長のフォローによりようやく話はもどりそうだ。
「それではいまから資料をくばります」
ホッチキスで止められた三枚つづりのプリントだ。全員にいきわたるのを確認すると、得意気に社長は語り出す。
「一枚目のプリントは、我が社の資本ね。つーかぶっちゃけていうと、通帳の残額」
プリントには大きく二億七千三百六万四千四十円と記載されている。
「減っていってるよ俺の金ぇ」冗談チックに泣きを入れる声をだした社長は続ける。
「えー、ご存知の通り、年末ジャンボで当てた三億を元手に会社を作り、会社ぐるみで直木賞を筆頭とする様々な賞を網羅しようという試みで始めたわが社ですが、あいも変わらず収支はなし。そりゃあもちろん他社に商品を売っているわけではないからで当たり前なのですが、しかしなんといっても、一生分のラッキーを使い得たといって過言ではない大事な金が、減っていくのみの状況は精神的にまいる。その気持ちをみなさま社員にも理解していただいて、モチベーション向上をもくろみとし、さらけ出しています」
プリントには貯金の残高の他に、今月分の支出が記載してあった。社員の賃金はもちろんのこと、家賃、光熱費、経費、設備費などなど様々が事細かに書いてあった。社長のプライベートの買い物などは一切見当たらず、どうやらこの通帳は純粋に会社経営のためのもののようだ。潔し。
「お金が使われているという事を認識して、日々仕事に励んでください。一枚目に関しては以上です。なにか質問があったらどうぞ」
副社長が閉めた。
皆ぽつりぽつりと質問をひねりだしたが、もはや特筆するような事はなかった。僕はひたすら社長の思想を肯定するようなスタンスであり、本心でもあった。しかし想定外の事が起こる。
「いやぁ、社長の経営法には驚きを隠せませんよ。素晴らしい、いいお金の使い方だと思います」
といったおべんちゃら風の事を僕が言い終わった途端だ、斜め向かいに座っている天然パーマの大塚君がこっちを見て、目尻を吊り上げあきらかに敵意がある目線をむけるのだ。それはほんの二秒にもみたない短い間だったのだが、だからこそねっとりとした確信的な敵対心を予想してしまう。なんたる事だ。大塚君に嫌われるような事を無意識の内にしてしまったのだろうか? それとも僕の顔が気に入らないのだろうか? 中学生の頃、骨とあだ名を付けられたほどの華奢なスタイルがしゃくにさわるのだろうか?
その事が気になり大塚君をちら見するが、普段通りの秀才気質漂うクールなオーラが彼を纏っていた。
「そんなわけで二枚目の資料を見てください」
二十六歳とはとても思えない少年的な社長の声で僕の思考は会議に戻る。
プリントをめくる。紙一面に人の名前と思われる単語が書いてある
「この資料は見ての通り、キャラクター週間によって皆さんに創られた者たちです。そう、あなた達は神様になりました、よかったね、そもそも脳内と宇宙というのは限りなく近いものがあるよね、そもそも幸運というものは宇宙からのチャクラつまり宇宙チャクラをひきよせて――」
「社長!」
「あ! うん」またもや限りない脱線をみせた社長の動向を副社長が止めたというやりとりだ。冷静になった社長は続ける。
「まあつまり、今週の成果をみんなで確認しようということね」
資料を見ると、この四日間で松嶋さんが創ったキャラ人数は七人。僕は十二人。そして大塚君がなんと二十三人も創ったとの事だ。やはり、大塚君はすごい。僕は入社当初から大塚君をリスペクトし、彼の仕事に対する姿勢を真似る事を当面の目標としているほどだ。とんでもない集中力の持ち主だ。そして社長が七人、福社長が十人を創りだしたということだが、この二人は会社経営もしている中での創作作業である、僕より少なくて当然だ。そもそも、キャラの人数が大事なわけでもないのだけれど。量より質って言葉もあるくらいだしね。そう考えていたら怒られた
「真下君の考えるキャラは濃くて好きなんだけど、ベンツのエンブレムを折りタイヤをパンクさせる青年ってキャラって、まんまカイジじゃん。あからさまなパクリはいけないよ、イエローカード」
指摘されて初めて気づくくらい、もう脳みその働きがにぶくなってしまったのか、無意識に完全パクリといえるほどのものをやってしまった。ちくしょう最低だ。
すると秀才気質のオーラが澱んだ気がして、そちらに視線を向けると、意地汚い笑いを大塚君が浮かべていた。その間コンマ五秒といったところか、完全に僕に向けられていた。嫌われるほどの接触すらしてないのに、何故だ。人間はやはり不思議でありおもしろい。
キャラクターについての意見を一人ずつ順番に発言をしていき、福社長がノートパソコンにリアルタイムで打ち込んでいく。その行動は僕からみたら新鮮で、しぐさの一挙一動が美しく、副社長も謎の多い人だと思った。 もちろんそんな人物と一緒に会社を経営している社長は幼すぎるのも含めもっと謎だし、松嶋さんもどこか浮世離れしている。この会社は変な人が多いな。もっとも、変な人である社長が変な人を見つけてきてスカウトしたから当然といえば当然だ。
「それじゃあ最後三枚目の資料を見てください」
大きなフォントで『狙うは日本ファンタジーノベル大賞』と書いてある。
「ようやく目標が定まったよ、みんなの創るキャラはけっこう特殊な境遇の方々がおおいし、締め切りの間隔も手頃かつ、内容に沿ってるのは日本ファンタジーノベル大賞だとおもうんだよね」
「なるほど」
珍しく大塚君が自主的に声をだした。何か思い入れでもあるのかな。社長は続ける。
「そんで意見がほしいんだけど、どういう傾向のストーリーが受賞しやすいかとか知っている人がいたら教えて」
ここで反応したのはやはり大塚君だ。普段のクールさからは想像もできないほどの饒舌ぶりで、賞を受賞した作家の経歴や作品の内容やテーマを、円周率を信じられない桁数暗記しているクソガキの如く、まくしたてるのであった。文芸知識が大してない僕としては、途中から何言ってんだこいつとなり、大塚君の言葉を雑音と判断しあくびを二回した。松嶋さんを見るとヘッドホンをしていた。意外と気が合うかもしれないと初めて思った。
収集がつかないと判断したのか社長は言う「わかった、わかった、傾向と対策は大塚君の意見を参考にし、オレと副社長でまとめるよ。完成次第社内メールを送るから目を通しといて」
言葉を遮られ少々不完全燃焼気味な大塚君を尻目に会議は終了を迎えた。
会議室から出て自分のデスクに戻りつつ考える。日本ファンタジーノベル大賞は賞金は五百万円。優秀賞で百万円。仮にうまくいって大賞をとったとしても会社の金は減るばかりだ。社長はとんでもない博打をやっているようなもんだ。せっかくの三億円も、もうその額に届く事は二度とないだろうね。会社内でプロが生まれたとすると印税の三割を還元するルールとなっていて契約書にもサインを書いたけれど、このなりたいなりたい産業のなかライバルも多いし、大ヒットは難しい。雀の涙ほどの印税にしかならないでしょうね。などと卑屈になっている場合ではない。社長は社長の考えがあっての行動だし、雇われている身分、自分は自分の力はフルに発揮するのが一番なので、勝手に人にケチをつけるような事はするべきではない。あぶないところだった。今日までがキャラクター週間なので、素晴らしいキャラを創ろう。そして来週からは名シーン週間が始まるとの事だ。けったいなこと考えやがる。いやまて、また愚痴をこぼしてしまった今のはなし。
花の金曜日といっても、いつもと変わりなく過ぎ去り、土日は二連休になる。日曜には予定が入っていた。一般的にはデートと呼べるしろものになるのだが、僕にとっては慈善事業でありつつ、自分のエゴを満たすものになるが、デートと判断してもらって構わない。
土曜日には一般的に彼女と呼ばれる存在のためにプレゼントを買った。一人で渋谷に行った。人が増水した川のように溢れていて、こいつら一人一人に理性があるのかと思うと世界はとんでもない可能性にあふれているのではないかと考えさせられた。なんて、その時はわくわくするものだが、次の日朝起きたばかりの低血圧状態だとどうだってよくなるもので、僕はなんて刹那的で我がままなのだろうと寝ぼけまなこで考えた。
日曜日なので十時まで寝れた。朝のシャワーを浴びて髪の毛をワックスで立ててさらに無造作ヘアにする。風呂は夜派なのだが、髪を整える時はシャワーでガッツリ濡らし、セットをしやすくするのだ。服装も今日ばっかりはこの部屋にある物の中で高価な物をチョイスし全身鏡で確認したりする。インナーが柄ものだから、シャツは派手ではないものにしようなどと、ないファッション知識を無理やりひねりだしたりして、新宿に向かった。
財布の中には十万円。金を多くもっているだけで無敵感が溢れ出る。そして、右手にはプレゼント。電車に乗っているみなさん、僕はこれから美しい女性と待ち合わせ場所に向かうのですよ、うらやましいでしょ? などと独り言のような事を大きな声で頭のなかで喋った。年齢に関係なく色んな人が僕を見ている気がする。だがとまどいはない、理由は分かっている。僕の髪型が最高にイカす無造作だし、なにより顔にマッチしているのだろう。今日は決めてきたから当然といえよう。普段は全く異性にもてないのだが、それはビシッと決めてないからだというのはすでに、立証されているのだ。僕の頭の中の弁護士がそうである! と弁護をし、僕の頭の中の裁判長が判決をそうだ! と、くだしたし、最近出てきた僕の頭の中の裁判員達の全員がそうだ! と認めたので完膚なきまでにそうなのだ。僕が携帯を取り出し耳にあてると誰かもわからぬ声が聞こえ、そうだよ! と言うから、圧倒的にそうなのだ。しつこいか。
電車を降り改札を出て、働きアリの列のような人ごみの中を、並んでついていくかのように歩く。左右にエスカレーター、中央に広い幅の階段がある、新宿東南口といったらここといわんばかりの場所を降りた広場に着いた途端、カウボウイが被るような、帽子を恥ずかしげもなく堂々と装着した三十歳くらいのお兄さんが僕に近づいてくる。黄色と白を基調としたハイトーンな服装が目にささるようだ。
「あのちょっといいですか、芸能界とか興味ありません?」跳ねるように身体を近づけながらの一言だった。バネのような男の仕草に僕はどうしていいか分からず戸惑っていると「あ、私はファッション雑誌のピカリや、アシガルマガジンに出るモデル事務所のスカウトなのですが」と名刺を出して、僕に渡す。名刺には厚生省認定とも書いてあった。瞬間、さすがの僕も嬉しくなる。僕の中の弁護士や裁判長は正しかったというのが外部からも認められたのだ。お兄さんはぺらぺらと続ける。名前をフルネームで教えてだとか、三時間後に名刺の電話番号で連絡するから考えておいてだとか、ウチはちゃんとしている会社だよだとか。
嬉しい僕は謙遜をする。そうする事によって、自分の美に気づいていないヤマトナデシコ的な美しい男となると踏んだからだった。
「僕なんかでいいんですか」
「もちろん! 髪質固めですよね、モデルとしてはそういうのも大事なんですよ。ちなみに年齢はいくつですか?」
「二十五です」
「……そ、そうです、か」まさかの展開を見せた映画を見たかのような様子で、明らかに勢いが止まったのを察する。
「二十五歳ですね、わかりました。それではモデルの件考えておいてください」そういうとお兄さんはそそくさと去った。当てが外れたと言わんばかりの後ろ姿に見えた。
僕は名刺をズボンの後ろポッケに入れて待ち合わせ場所に歩きだす。なんか釈然としない気持ちになったが、新宿には用事があってきたのだ。気にする必要はない。そう自分に言い聞かせ歩いた。
待ち合わせ場所に、僕のベイビーはいなかった。やれやれ困った子猫チャンだと小さく呟いてみるものの、いないのは当然だ。約束の時刻から一時間以上早く到着してしまった。快晴とはいえ、三月の寒さを太陽光が暖めきる事はできなかったのだろう、肌寒い。ぶるぶる震えながらコマ劇場の広場を見渡す。休日のせいか、頭の悪そうな学生やらで溢れかえり、やれやれと深く息をはく。
左手にはグッチの袋。右ケツポケットには十万円が入った五千円の財布。さてと、自分ルールでも作り待つとしようか。これほど莫大な財産を持ち歩く富豪が、一時間もの間、一歩も動かず微動だにしなかったとしたら、どうだ? 周りの赤の他人にツッコミを入れられるほど微動だにしない覚悟だ。ある意味ギネス!
そこから二時間がこれほどまでにかと、あっさりと淡々と経過した。僕のベイビーは一時間の遅刻をしたのだった。その間ですら僕は自分ルールを守り切り、足はもう棒のようになってしまったのだが、ルールを守れたことを誇りに感じ、遅刻したベイビーに怒りちらすなどしない。
「一時間って一日の何分の一になるか知ってる?」しかし皮肉は言う。
ようやくコマ劇場の広場に現れた申し訳なさそうに下を向けたベイビーは言う。
「すいません、寝坊しちゃいました」
「でも大丈夫、待ったぁって聞いて」
「へ?」
「待ったぁって聞いて」
「よくわかんないですけど」
「いいから」
はてなという音が今にも聞こえてきそうな顔でようやくベイビーは言う。
「待ったぁ?」
「僕もちょうど来たとこさ」セリフのケツを食い気味で言うのがミソである。
なんといっても恋人との待ち合わせといったら、待った? ちょうど来たとこ。このやりとりが楽しいのであって、それをやらないのは、デートをデートと呼べなくなるようなものだ。ハンバーガーにトマトが入っていないようなものだ。
「キモいんですけど」度肝を抜かれるセリフが飛び出した。あいもかわらず、彼女とは意思疎通ができていない。
今さらながらベイビーをベイビーと呼ぶのもわかりづらい。呼び方を変えよう。フルネームは高円寺千尋なので、千尋と呼ぶことにする。
「キモいって、そんな、僕のどこかキモいのさ」
すると千尋は、にが虫を奥歯ですりつぶしてしまったかのような顔をして言う。
「自分を僕と言っている時点でかなりキモいです」
ふふーん、なるほど、キモいね。省略語だったかな、キモい。『気持ち悪い』の頭の二文字と終わりの一文字でキモい、と。なるほどね、しかしだ、その条件で表現するならば、『気持ちいい』だってキモいと呼ぶことになるし、千尋が僕をそれほどまでに否定する理由がない。あり得ない。つまり彼女が僕に向かって言うキモいの真意は、『気持ちいい』と断定しても誰も文句を言わないでしょうね。でもだ、きめつけはよくない。確かに僕はどちらかというと気持ちいいナイスガイだ。先ほどもモデルとして声をかけられたほどだ。しかし人間には好みというのがある。『絶対などない』というセリフもどこかから聞いた覚えがある。僕基準でおそらく確率の割合的には二対八ってとこかな。『気持ち悪い』の可能性は二割、『気持ちいい』が八割って意味だ。そこまでは説明する必要はないか。
などと考えていたら彼女から話しかけてくれた。
「それで、今日はどこにいくんですか?」
「それは行ってからのお楽しみ」
反射的につなぐセリフを吐いたが、僕はどこにいくつもりだっけか。プレゼントを渡す事ばかり考えて呼び出したので、デートの内容を全く考えていなかった。
「そりゃあチミ、アレだよほら、新宿といったらやっぱりさ……」
沈黙を生まないためにもどうにか言葉を発していると、千尋は探し物が見つかったかのような晴れやかな顔をして、
「新宿といったらなんですか?」
「いやぁ、それはほら、アジア一の歓楽街で、その、なんていうか、都会だよね! 新宿新宿、新宿西口、池袋、ひがーし西武で、にし東武♪」
リズミカルに元気よく歌うかのように奏で始めたころ、彼女は溜息をして呆れた後、鬼の首を捕ったかのように、
「本当は、なんにも考えてないですよね!? 適当な事言って調子合わせないでください!」
わぁお、ヒステリック! ちっちゃい体してなんて迫力。もしかして、親御さんは極道系統の方ではないかしらん。と思った三秒後、いや、親がどうこうよりも、極端にキレやすい訳ありのティーンエイジャーだったなと記憶が判断する。いいよ、いいよ、こうでなくてはいけない。
僕が太陽の人間になるための試練は大きければ大きいほど良い。はっきりいうと、僕は千尋の事がこれっぽちも好きではないのだ。メガネ天使と比べたら、サーロインステーキとインスタントラーメンのチャーシューほどの絶望的な差がある。しかし、十五年スパンで太陽の人間になるため、計画的に自主的に困難に立ち向かって経験値をあげていかなくてはいけないから、強敵を探してどうにかここまで持ってきたのだ。再びはっきり言うと、千尋と僕はとても良い物語的な関係性でとても気に入っている。千尋自体は好きではないがシチュエーションが気に入っている。本屋のバイト中に売れまくるライトノベルのお決まりパターンヒロインなんかより、ずっと、ドラマチックだ。お前を僕は逃がさない。
「ごめん、ごめん、そんなつもりではなかったんだ。ただ、君とデートを取り付ける事が目的になっていたみたいで、目的達成したせいかな、行く場所をあまり考えていなかったよ、タハハ。でもプレゼント持ってきたんだぜ。ほらこれ、グッチの袋だよ、良く見てごらん、偽物なんかじゃないよ、一流ブランドだから買うのも緊張したよ。だって僕の見た目こんなんだもん、学生かっての。分不相応だよね、昨日雨の中、渋谷にあるグッチの専門店にいってね、まいっちゃったよ。ビニール傘をさして幅が狭いせいか、かなり濡れちゃってさ、自分で言うのもなんだけど自分の格好がすっごく小汚くてね、ジーンズなんか洗わないから微妙に臭うし、そんな男がピカピカのグッチの専門店に入るんだから驚きだよ。店員さんも驚いていたよ。あきらかにキョトンとしてるんだもの美人の店員さんが。普通だったら、声高にいらっしゃいませのセリフがあるはずだけど、まったくなかったからね、へ、何? 掃除夫? みたいな空気をビンビン感じるの。でもこっちからするとグッチを買いに来てるわけだし堂々としてればいいんだけど、なんせ初めてだからどう買っていいかわかんなくて、緊張だよ。トイレ行きたくなっちゃったよ。まるで本屋に行くと必ずトイレに行きたくなる。って状況だね。んで、トイレにでも行ってから買い物をしようかと考え見渡すと一階にはトイレがないっぽいんだよね、なので二階に進んでいくと、そこは一階に比べてさらに高級っていうの? なんかお得意様専用みたいなディスプレイしていてさ、やばかったね、でも本当に買いに来ている客だから堂々と、しようと思って、トイレも後回しにしようと思ってきょろきょろと品物をみていると、上品な髭をはやした、清潔感たっぷりの男の人が、プレゼントですか? と優しく声をかけてきてくれて、でもその声からは、君間違えてこの店に入っちゃったよね? ここはグッチだよ、君のような学生風のひょろひょろのモヤシ野郎には縁のないところだよ。だからはやく畑におかえり、そして大豆からやり直せモヤシ野郎! って口を動かさないでどなるんだよね、まじ怖いよ東京の人は。まあ僕も東京生まれの東京育ちなんだけどね、タハハ」
セリフの半ばで、千尋は僕を路傍の石を扱うように、興味なさそうに、自動販売機まで歩いていき、五十円硬貨を一枚と、十円硬貨七枚をゆっくりと、じらすかのように取り出し、リプトンミルクティーを購入し、半分ほど飲みほして。
「長いし、何を言ってるか理解できません」
「なるほど、そうくるか、さすがだな千尋ちゃんは」
確かに、卒業式の校長先生の言葉バリに僕のセリフは長かったが、ちょっとつれないぜ。
「とりあえずこれプレゼント」
ズイっと紙袋を差し出す。この紙袋の中はびっくり箱になっている、なんてくだらないことはしていない。本物のグッチのハンドバッグで二十万円した。しかし、真の意味で太陽人間を目指す僕としては貯蓄などという小細工よりも、人を輝かせるために財産を浪費するべきだと思うのだ。千尋は愛不足で心が病んでいるから僕が分けてあげなくてはいけないのだ。千尋の荒んだ心が澄んだ心に変化をし、千尋からマイナスイオンが出る事によって、千尋の周りの人々も澄んだ心に変化をし、そいつらがマイナスイオンを出す事によって、どんどんと色んな人の心が澄んでいくのである。マイナスイオンがあふれ世界中が平和になった時、平和の元凶である神は誰だ? 僕だ。
ウダウダと神とかゴッドとか宗教だとか考えている内に、千尋は僕のプレゼントをなんの断りもなく開封していた。
「私、高級ブランドとか嫌いです」
「へ、ちょっと待ってよ、前会った時ショーウインドウにあったグッチのバッグを眺めてほしいって言ってたじゃないか!」
「そんなこと言ってません。勝手な妄想しないでください」
「ごめん、じゃあ捨てよう」
僕は千尋の手からバッグを強引に奪い取り、十メートルほど先にあるクズ入れに向ってロングスロー、ヒュー。あっ!! はずれた! 取りに行ってもう一回投げて、ヒュー。またはずれた! 畜生! どうなってやがる! バッグの形の空気抵抗が目測を狂わせる。ガッデム! 来世があるなら空気抵抗を計算する数学者になるよ、今決めた。
「なんであなたはそんなめちゃくちゃなんですか!」
千尋がハンドバッグを拾ってきて説教のようなものを僕に垂れる。年下のくせに生意気だ。彼女の手から強引にバッグを奪い、走る、走る、ロングスローはもうダメだ。行くぜ! ダンクシュート! ガサッとクズ入れのビニール袋が音を立て、二十万円のハンドバッグはクズになった。ミッションコンプリート。
二十万円のグッチのハンドバッグが見事にクズに変わった? おい、まてよ、すると、月の給料が二十五万の僕だってクズに変わるのが道理ではないのか? そうだ君はクズだよ、と、僕の頭の中の弁護士がつぶやく。わしの意見も聞けと言わんばかりに、頭の中の裁判長が判決をクズだ! と、くだしたし、最近出てきた僕の頭の中の裁判員達の全員がクズだ! と認めたので完膚なきまでにクズなのだ。僕が携帯を取り出し耳にあてると誰かもわからぬ声が聞こえ、クズだよ! と言うから、圧倒的にそうなのだ。僕は飛んだ。ガサッとくず入れのビニール袋が音を立て、月収二十五万円の男もハンドバッグ同様にクズになった。
どういうわけか人が集まってきた。見知らぬアベックの女がクズを指差し、男が「マジかよ!」と雑魚が言うセリフを恥ずかしげもなく吐く。
社長、副社長、大塚君、松嶋さん、すいません僕はクズになってしまったので、もう会社にはいけません。これからはクズとしてクズの一生を過ごしていこうかと思う所存でございます。今まで本当にありがとうございました。日本ファンタジーノベル大賞を取れればいいですね、できる事ならもっと長い時間をみんなと過ごしたかったけどクズになってしまったのですから、それもこれも千尋のためです。言うなれば彼女は僕の忘れ形見です。どうか彼女を幸せにしてください。自然と涙がちょちょぎれた。
「一度あなたの頭を開いて中を覗いてみたいんですけど」
「どういうこと? 千尋ちゃんの人格の中に医者でもいるの?」
「いや、そうじゃなくて!」
そのタイミングでマンゴーが大量に搭載されたフルーツタルトと、アイスコーヒーが届く。外でひと騒ぎしてしまったのを恥ずかしがり、千尋が僕をお勧めのカフェへエスコートしてくれたのだ。とても優しい僕のハニー。
きょろきょろと周りを見渡す。すると僕のようなクズが来るのは場違いな店内、黒の壁と黒の床が光沢よくつやりとし、テーブルは真っ白、そのギャップが映える中、赤いライトの光が店内を明るく照らし、西洋の雰囲気を醸し出しつつ、店のドセンターには十数種類のフルーツタルトが全方位で眺めあられるショーケースの中、ホールのままで存在感をアピールしているではないか。しかしそんな事はどうでもよかった。
千尋に愛を捧げるのが優先である。先ほどは二十万のグッチをクズに変える事によって、君のためなら金など関係ないよというアピールをしたというのに、本人は全く感謝をしていない上に、どういうわけか呆れられてしまっている。彼女という人間がさっぱり理解できないのだ。そもそも彼女は多重人格者なので、理解するのには相当な労力を必要とするのだが。
「最近は精神の方は落ち着いているのかい?」
じっくりと優しく、ナイーブな心に触れていこうかと思ったが、よい言葉が見つからなかったので面倒くさくなり、直球ど真ん中に叩き込んだ。
「……べ、べつに、普通ですよ」
無性に腹が立った。普段の千尋ならもっと強気に反応する、それこそライトノベルに出てくるツンデレ娘のようにだ。にもかかわらず中途半端な照れのようなものを出しやがって、どういうつもりだ。
「普通って、多重人格者が言うセリフじゃないよね。今はメイン人格の千尋でいいんだよね?」またしても、照れをいれて、うぅう、とか、あぁあぁ、などともらしてから、
「……そうです」とつぶやく。
「なるほどね、千尋は素直じゃないところもあるけど逆にそれが可愛いよ」とりあえずほめておいた。
「なんであんたにそんな事言われなくちゃいけないんですか!」
ひぃぃ、何をいっても怒られる。だがそれでこそ千尋だ。ようやく安心した。
しかし問題は山積みだった。冗談のような本当の話。この高円寺千尋という名の可愛い系ショートカット美女の頭の中には様々な人格がある。僕が知っているのは千尋以外に七つ。恥ずかしがり屋の響子。甘えん坊な杏奈。泣き虫のマキ。お母さん気質のサザエ。無知で大胆なアンシー。下ネタバリバリの雅治。残酷無比の雅美。
おそらく小さい頃の両親虐待の影響で別の人格を形成したのだろう。もしくは残酷な子供達の学校でのいじめ。はたまた、ロリコン教師の信じがたいえこひいきから発展した性的体罰。ことによると狂犬病の一種。もしくは新型インフルエンザかもしれない。いずれにしても哀れな事だ。僕が救わないで誰が彼女を救うというのだ。神は死んだのか? いえ、神は僕だ。そして太陽だ。
「千尋ちゃんさ、この店のケーキ好きなんだよね? よかったら、ホールごといっちゃおうよ、僕もスウィーツに目がないんだ。心配は御無用、お金ならたくさん持ってきたし、魔法のカード(クレジットカード)だってあるしね」
甘いセリフが決まった。ついでにウインクも決まった。言うなればウインクという名のデザート付ってやつだ。うまい事を書いちゃった。
「…………」
「ほら、遠慮しないで、ショーケースのケーキを見に行こうよ、威風堂々とドセンターにあるショーケースを覗きにいこうよ! あ、一つじゃ嫌だって事だね、じゃあホールを三ついっちゃうぜ、今日は特別だよ」
すると千尋はわなわなと全身を震わせる「あれ、本当にどうしたの?」
聞いてみたものの、だいたいの予測はついていた。人格変化の瞬間だ。変わるぞ、誰が出てくるのか。男の人格である雅治かな。彼の職業はラジオDJとかいって、巧みなトークをしてくれるのだ。雅美だったらやっかいだ。なぜなら彼女は猟奇殺人鬼だから危険なのだ。僕が初めて千尋と会った時は雅美で手には文化包丁が握られていたりして恐怖で戦慄したものだった。
一体全体、誰が出てくるんだよチクショー! 自分の鼓動がエイトビートほどのリズムでビート刻む緊張の一瞬だ。
「もぉーーーー!! なんなんですかあんたは!」
「……へ?」あまりにも、もぉーが長いので牛かと思った。
「絶対わざとやってるでしょ! 私をおちょくって笑ってるんでしょ! もぉーー!」
「絶対わざとやってるでしょ? 私をおちょくって笑ってるんでしょ? もぉーー?」
復唱をしたのは意味がさっぱりわからないからだった。
「そうやってバカにして!!」
フム。涙をうっすらと浮かべているところを見ると泣き虫のマキかな。はたまた、カフェの中で堂々と叫ぶと言っていいレベルのデジベルで声を出せる大胆さはアンシーという可能性もある。
「もう、寝る前とか朝起きてすぐとか、講義中とか、食事中とか、あんたの顔が浮かんできてイライラするんですよ、集中できなくて! なんなんですか! なにが目的なんですか! ハッキリしてくださいよもぉーーー!」
十九歳の小娘が怒った様は、男子小学生高学年のようなボーイッシュさをみせた。
「おちついて、マキちゃん、それともアンシーちゃんかな。君を攻める危険な人はここにはいないよ、ほら、カフェオレだよ。オレのカフェオレだよ」
アイスコーヒーにガムシロ三つとミルクを四つ入れる事によって、苦いコーヒーをカフェオレと錯覚させるという、僕なりの錬金術でカフェオレを作る事に成功した。マキちゃんは十歳位の人格なので甘いカフェオレを好み、アンシーだったとしても無知の帰国子女なので勧めたものはなんでも喜ぶ。
「ほらあまーいケーキもあるよ、よしよしよしよし」
「もういいですっ!」
どうやらマキでもナンシーでもなかったようだ。すると、マキでもないアンシーでもない人格不明の千尋は、とたんに落ち着きを取り戻し、僕をしっかりと見据えて目を合わせてくる。あまりに真っ直ぐな眼光に僕も真面目に対応しなければいけない気がしてしっかりと見つめ返す。
「私は、あなたの事が好きです」
一瞬その場が完全な沈黙を見せ、千尋の声だけがはっきりと耳に響いた。
「だから……、恋人にしてください」後ろからライトを瞬間的に当てられる演出のイメージだ。
僕の脳が猛スピードで回転する。恋人ね、恋人か。外国だと二人っきりで何度かお出かけする事により、何も言わなくても恋人とお互い認識すると言われる。その情報を耳にした僕は、カチッと何かがハマったような音が聞こえるほどの納得を覚え、世間的にもそうなんねえかな、などと思った事もあって、いつのまにやら世間的にもそうだと、思いこんでいた。
なるほどね、僕と千尋は恋人同士ではなかったのか。新たな事実に震えるほどのショックを感じた。僕はなんて早とちりの思い違いのクズなのだろう。太陽の人間になろうなどと、今日に至っては、神になるとか宗教だとか、トチ狂ったことまで。
そんな僕を好きと言ってくれている千尋はなんてバカなのだろう。バカがバカなりに勇気を出してバカな事を言っているのだ。評価しないわけにはいかない。これほどのバカを救えるのはクズしかいない。
「僕でいいの?」
そんな、僕なんかがあなたに釣り合うわけがありません。といったニュアンスを含める事により、バカのプライドを傷つけないように配慮をしつつ、バカの要望に応えてあげるという高等技術なのだ。
「はぁ……」溜息がもれた。千尋の口からだった。
「どうしたの?」反射的に僕は聞く。
「もういいです」
「何が?」
「全部ウソです。私は人にウソをつくのが生きがいなんです」
なるほどね、イソップ寓話のひとつの『オオカミ少年』のような人格が表れたか。
「ほらやっぱり、あなたって何をやっても全然驚かないからウソの突きがいがありません。久々に面白い人みつけたから手間暇かけてとびっきりのウソついて、あなたの価値観がまるっきりひっくり返すのを目標にしてたのに、やってられませんよ本当に」
かわいそうに、一体いくつの人格がこの美女の中に隠れているのだろうか。
「あんたのイカレ具合に合わせて多重人格とかいって、バカみたいな演技をしてたのですが、騙されていたと知っても反応薄いし、あなた一体何者ですか?」
「騙された? 僕は騙されたのか?」
するとあの駅近くにいた、カウボウイ風のスカウトマンは狐かなにかで、名刺は今頃葉っぱになっているのではないか? 尻ポケットに手を入れて確認をしてみると、名刺は葉っぱではなく、四角い紙、つまり名刺のままだった。騙されていないじゃないか、いやまてよ、スカウトマンは本物だとしても、モデルになりませんかという名目で事務所に所属させられるが、あとになって登録料やらレッスン料で何十万もの金を請求される、つまり騙しとられるのではないのか? そういった意味では完全に騙されているといっていいだろう危ない。
「騙されるとこだった。ありがとう千尋、いい忠告だよ」
「なんですかそれ! あなたと喋ってると頭が混乱してきます……」
再び千尋がため息をついたので元気付けるために店員をジェントルに呼びつけ、ケーキをホールでたのんだ。店員が「ホールでいいのですね?」と確認してきたのが面倒であると同時に誰かに自慢した時の誇らしさを感じたので気持ちよく「ええ、そうです」と元気一杯に言い放った。ついでにウインクというデザート付だ。
しかし妙なことだ。千尋と一緒にいると、普段の僕だったらしないような、アグレッシブで無駄な行動までしてしまうものだ。
「気持ち悪い」
千尋のつぶやきが聞こえた。なるほど、彼女のいう『キモい』は気持ち悪いの方だったか。遺憾だな。
二
ようやく『日本ファンタジーノベル大賞』の投稿が終わったと思ったら、あっという間に『このミステリーがすごい!大賞』の締切が迫ってきた。
この三ヵ月、社内ではそれなりにバタバタしたようだったが、そうやすやすと小説のような事件は起きないものだ。はたまた自分だけ話題に取り残された脇役の状況かもしれないという事だ。誰しも主観で人生を過ごすわけであり、客観的には見れない。つまり自分の感覚だけで断定はしてはいけないという謙虚な姿勢をとっているのが僕であり、素晴らしい考え方をしている青年である。
さて、せめて主観でみた株式会社直木のこの三ヵ月間の動向を書き記すとしよう。
千尋が入社した。松嶋さんがヘソピアスを空けた。大塚君がストレートパーマをかけた。社長の身長が伸びた。こんなところか。
それにしても、『日本ファンタジーノベル大賞』には、社員全員が一作品送るとは思ってなかったので、かなりしんどかった。てっきり、会社ぐるみで一作品にし、仕上げると思っていたのだが、なかなか社長もスパルタだ。しかし、短編小説しか書いた経験が無かった僕が原稿用紙三百枚を超える大作を書き終える事ができたというのには大変誇らしく思える。それに何年もかけて書いた作品よりも、一気に書き上げた作品がいい評価をもらったなんて話もよく聞くし、僕のじゃなくても大塚君や松嶋さんの作品がかなりいいところまで行くかもしれない予感が、なんとも宝くじを買った後のようなウキウキ感を彷彿させる。
応募し終わった次の週に、会議室で各々の作品を読み合った。
「先週はお疲れ様でした。終わるまでは辛かったけど、自分でも信じられないほどの達成感を味わう事ができて、なんていうか、生きている実感をこれほどかというほどに感じたよ。だってさ、毎日毎日、似たような繰り返しでさ、これをあと六十年も続けるのかと思うと、面倒くさいの一言に尽きるよね。別に辛いとか苦しいとかそんな事ではないけどさ、悩み事も少ないけど、ただ、世界に張り付いているだけのような、生きていても意味が感じられない、いっその事、消えてしまった方がいいかもなんて、そんな極端な事もまで考えちゃったりなんかして、でね――」
「社長、始めましょう」
「あ、うん……そうだね。それでは会議を始めるよ」
暴走した社長を止める係が副社長という認識でいいのかもしれない。そして会議は始まった。いつもの通り、僕は副社長の隣りなので、かぐわしい香りを堪能してのご機嫌な話し合いになる。やはりこの香りは女性ホルモンからくるものではないのかと僕は想像するのだが、そもそも女性独特のいい香りは一体なんなのだ。もしかしたら、シャンプーの香りなのか、それともやはり、女性ホルモンからくるものなのか、どっちなのかも未だに謎だ。シャンプーだとしたら、副社長は男で問題ないのだが、女性ホルモンだとするのなら、やはり女なのかと思うのだが、男でも女性ホルモンはあるというし、限りなく女に近い男ならば、いい香りをまき散らしていてもなんら不思議ではない。
横顔を覗く。くっきりとした鼻立ち、白と黒のメリハリが効いた健康的な瞳、陶器のように白い肌、若葉からひっそりと顔を出すみずみずしいイチゴのような唇。美しい人だやはり。すると限りなく彼女に近い彼のミドルな髪の毛が少々揺れたので、視線を右にずらし社長に向ける。予測通り副社長が僕の方をいぶがしげに見やがったが、すでに視線はずしてある。あなたなんて見てませんよ自意識過剰なのではありませんか? といった空気がでる顔をする事によって、どうにか今回もごまかせただろう。
「そうだ、紹介がまだだったね、そこにいる子は本日から出勤の高円寺千尋さんです。ほら立って立って」
そうなのだ、僕の隣には千尋がいるのだった。社長からの新入社員を探したい発言と、僕からの推薦により、本日初出勤となっている。
少年のような声に促され千尋は自己紹介を始める。
「えーと、高円寺千尋です。よろしくお願いします」
「それだけ? もっと色々言ってよ」
「何を言えばいいんですか?」
その物言いには、女独特のしなりが入っていて、媚を売っているかのような雰囲気がぷんぷんとわきたち、胸がいらっとするものだ。
「じゃあ、社員も全員いることだし、一人ずつ質問をして答えてもらおうか。じゃあ俺から時計回りね、好きな食べ物は?」
「辛子明太子です」
僕が聞いた事のない情報だぞ。ただそれだけのことなのに胸がいらっとするものだ。
次は天然パーマでお馴染みの大塚くんが、いつも通りのクールな面持ちと秀才のオーラを放ち、興味がないねと言わんばかりの素振りで言う。
「年齢は?」
「十九です」
すると、クールで女には興味がないのだ、というイメージの大塚君が、十九と聞いた瞬間、瞳に光が増した。時間にしてコンマ三秒ほどの変化だったが、僕は見逃さなかったし、胸がいらっとするものだ。
「好きな音楽は?」
音楽依存症と言っていいレベルの松嶋さんの発言だ。
「好きな音楽ですか? Jポップしか聞きませんけど」
「例えば?」
「最近レンタルしたCDだと、エグザエルです」
「ふーん」
エグザエルと聞いた瞬間に興味がなくなる様子がはっきりと見て取れて、胸がいらっとするものだ。自分と趣味が合わないからってそりゃないだろう。
すると僕に質問がまわってきた。
「恋人はいますか?」
僕のキャラを考えて、この場でこう言うのはありかと思い言ってみた。
「いないです」
はっきりと躊躇もなく言いやがった様子に胸がいらっとするものだ。確かに、僕と千尋は付き合っていないし、いますって言われてても、僕の事を指しているのか、他の誰かなのかなどと、くだらない事を考えてしまうのも予想できるし、かといって、はっきりといないと言われるのも腹が立つ。何を言われていらっとくるという、信じがたい我がまま野郎が僕ということになる結論に到達し、カルシウム不足なのか、ストレスをため込んでいるのか、欲求不満なのか、パニック症候群なのか、ラブコメ小説の読みすぎなのか、難しいところだな。
その後、副社長が趣味の質問をし、社長がもう一周しようと言ったのだが、僕はイライラを解消させるべく、情報遮断モードに入り自問自答モードに突入した。
心の病んだ千尋の面倒を見てあげようという僕の慈善事業はこれにて第一章完という事にする。そうだ、その通りだ。なぜなら会社が面倒をみるからだ。会社とは責任を負う場所であり家族のようなものだ。家族の大黒柱である父親が社長のようなものだ。もちろん息子であり兄妹に当たる僕も、それなりには面倒をみるが、あのエキセントリックな千尋の性格についていくのは少々疲れた。社員の皆が均等に彼女に翻弄されればいいし、その事により創作の刺激になればいいと思う。僕はメガネ天使を追いかければいいし、芸能人だと谷村美月を追いかければいい。何一つ問題はない。いらっとする必要性もない。
自問自答モードを終了させたころ、ようやく自己紹介が終わり、会議が再開する。
『日本ファンタジー大賞』に応募した作品を全員で配役をわけて朗読するとの事だ。会議というか、朗読会だ、感情も込めろと社長はいう。
「照れるから、思いっきり感情を込めろとは言わないけどさ、せっかくだしね、こうした方が頭に入るし楽しいよ」
松嶋さんは横を向き否定を表し、大塚君は眉毛をピクリとさせたが考えは見えない。千尋は自分の作品がないからだろうかサディスティックな笑顔を浮かべ、僕は恥ずかしい気持ちと見せつけてやるという気持ちがブレンドされた表情を浮かべた事だろう。
作者に登場キャラを教えてもらい配役を決める。この会議室には六人分の声があるので、大抵のパターンでも対応できて、『主役』と『ヒロイン』と『サブキャラ一』と『サブキャラ二』と『その他の脇役全部』と『セリフじゃない文字』で振り分けた。限りなく彼女に近い彼でお馴染みの副社長は、『セリフじゃない文字』で固定された。社長の提案だし、二人は幼馴染だし、滑舌がいいからだ。僕の作品には中学生が喜びそうな下劣なワードが多種多様かつ多角的に活用されているので、こりゃあ楽しみだぜ。
しかし長編なので一日一作品が限度だった。順番は公平にじゃんけんで決めて、大塚君の作品が読まれる事になった。
無職のニートがネットで知り合った仲間とジェラシッコパークという嫉妬に駆られた集団を作り、街に溢れるふしだらなカップルに制裁をする痛快な物語だ。ファンタジーとつくほどの個性溢れるキャラが極端に暴れまわり、細部まで描写される流れるような文章で、どっぷりと心を持ってかれた。
主人公の伊藤は、左手に師匠と敬愛する人面疽を持っていて、独り言のよう会話をするサマが特徴的でダサキモかっこいい。僕が役をした。ヒロインのエリナは売れっ子マルチタレントで、だからこその悩みや不満を抱える。匿名のネットで関わりを持つことこそ純粋な関係であると思いつつも、最終的には仮想現実と現実との関係を絡めた成長ヒューマンドラマにつながる、素晴らしいキャラ。千尋が役を任された。
物語の終盤、伊藤が言う。つまり僕が言う。「好き……なんだけど」
エリナが言う、つまり千尋が言う
「は? 聞こえないもう一回言って」
「だから、好き、だって」
「声が小さくて聞こえない」
「好きだ!」
「あと十回」
副社長が言う
「胸の内側が信じられないほど熱い。全身から彼女に対する愛情が溢れているのを伊藤は感じていた」
「チューしてみる?」
「エリナの顔が近づいてくる。全身の血液が沸騰したかのように脈打つ。顎のあたりにくすぐったい鼻息が当たる。次の瞬間には、自然と二人は目を閉じ唇と唇がふれあった。エリナの唇は想像以上に柔らかくて、気持ちいい。いつまでもこうしていたいと伊藤は願った」
「んっ」
「エリナの甘い声が合図になり、自分を止められなくなる。舌を入れるとお互い軟体動物のように絡み合った。十秒ほど経って、ようやく唇をはなす」
「キスって、すごいな」
「……うん」
新発見だった。こいつは、エンターテイメント界にムーブメントを起こすほどの高ぶりを予感させる、れっきとしたプレイだ。
顔が真っ赤になったのが、感覚で分かる。正直に書くとアマ勃起もしてしまった。ああ、エリナ、好きだ好きだ好きだ。いや、この気持ちはエリナ役の千尋に向かうのか? いや、エリナという人格が千尋の中に存在して、エリナが好きと言う事は千尋も好きという、大は小を兼ねるという格言のようなものか。違うよ、エリナは人格ではなくて、大塚君の物語のキャラだった。つまり千尋ではなくてエリナは役の中だけで現実には存在しないから、好きだとかどうとかいう時点でおかしい。つーか、ここまでくると、現実だからいるとか妄想だからいないとかってなんだ? 存在ってかなりあいまいだよね。
ふと気付くと、斜め向かいに見える秀才気質漂うオーラが真っ赤に燃えていた。視線を送ると肌の色が赤銅色に染まった赤鬼が小刻みに震えているではないか。大塚君だった。 尋常ではない様子だ。そしてだからこそ大塚君の思考はさっぱり読めない。赤に染まり恥ずかしがっているかのようにも見えるし、怒りで震えているかのようにも見える。
病んでいる千尋は、あいかわらずサディスティックな笑みをうかべ、目はまるでスナック菓子のカールのような形のエロ目になっていてどこか艶めかしく、限りなく彼女に近い彼の副社長は普段と変わらぬ冷静さだったのだが、なんとなくエロく見えたのは僕がエロの気持ちになっているせいなのだろうか、難しいところだ。副社長をエロい目で見ている僕は、ゲイかもしれないのも含めて大変難しいところだ。
などと思考を巡らせながらも朗読会は進み、大塚くんの力作『聖なるアウトロー』は読み終えた。
「はい、無事一つの作品を読み終えたわけだけど、あえて、感想を求めたりしないから。お話の楽しみ方は人それぞれで違うものだし、主観を言い合うよりも、むしろ何も言い合わないからこその、頭の中での発酵といいますか、そうする事により、より今後の創作にプラスになると思うんだよね。むしろこれ以上の事を行ってしまうと、蛇足にしかならないと思うんだ、俺はね。人それぞれの個性的で濃厚な考えってやつは、誰かの思想が交わることにより薄くなると思うんだよね。これがさ、何十人何百人も関わる大所帯の仕事だったら、客観性も必要だと思うよ、でもさ、文字だけで表現される小説ってやつは、自由でいいんじゃないかって思うんだ。なんかの本で読んだんだけど、あのスティーブンキングがいうには小説とはテレパシーなんだって。作者の頭に浮かんだイメージを文字に変換して、読者は文字からイメージに変換して脳の中で同じ情景を浮かぶ。確かにこれってテレパシーだと思うんだ。これってすごい事だよ、だからこそ――」
「社長、その話が蛇足です」
「あ、うん、そうだね。そんなわけでちょっと早いけど、今日のお務めは以上で結構。じゃんけんで決めた通り、明日は俺の作品を朗読するからよろしくね。それではお疲れ!」
社長と副社長のいつものやりとりがあって、本日の労働は終了した。
朗読をしてみて、みんなが大塚君の作品をどう思ったかは知る事はできないが、僕はすごく楽しめた。起承転結がはっきりしているし、物語の始まりから終わりにかけて、主人公の伊藤は人間的に成長しているし、伏線を無駄なく回収しているし、最後はヒロインと幸せになるハッピーエンドだ。文体も読みやすく、欠点を指摘しようと探しても見つからない。ヘタな小説よりもよっぽどお金を出して読む価値がある。もしかしたら有限会社直木で早々に賞をとる事ができるのではないかと期待をしてしまうほどだ。
会議室から出て自分のデスクに向かう途中、ヘッドホンをした松嶋さんの後ろ姿が視界に入る。そういえば朗読中の彼女は元気がなかったような。
「なんか元気がないですね」
ほとんど無意識に声をかけていた。すると亀のようなゆったりとした動作で振り返り松嶋さんは言う
「……ああ、真下か」
普段から元気な人ではないが、それを考慮してもあきらかにテンションが低い。
「どうしたんですか? 寝不足ですか」
「……寝不足もなにも、睡眠薬も効かないっての」
「……そうなんですか」
自虐ともとれる言葉になんて答えていいかわからない。話題を変える
「大塚君の作品、面白かったですね」
「まあね、面白いとは思うけど……ね」
「ハハ、なんすか、含みのある言い方しちゃって」
「別にいいじゃん」
「いやいや、気になりますよ。松嶋さんの考えを教えてくださいよ」
「…………」
「ちょっとー! 無視しないでくださいよ」
「いいって言ってるでしょ!」
デジベル的には普通の声だったが、松嶋さんなのでこれは叫んだと判断できるレベルだ。
「あんたってさ、前から思ってたんだけど誘導ばっかりするよね、それってわざとやってんの?」
作品の話題からいきなり僕についてシフトチェンジか。
「自分の考えを出さないよね。気を使われてる感じがして嫌だからほどほどにした方がいいよ。じゃあね」
ポカーンという間の抜けたフレーズがこれほどまでにしっくりくる状況はない。理不尽な轢き逃げをされたかのような気分になり僕はしばらくフリーズをしてしまった。
おかしいな、松嶋さんにあんな事を言われるなんて。太陽人間として話しやすい人間になるように徹していたのに、怒られるほどの逆効果とはなんたる事だ。年下に呼び捨てにされても黙認している僕に対してあの仕打ち。僕は一体いつから間違ってしまったのだろう。
十五秒ほど経って、ようやく動けるようになったのだが、ショックのあまりか、ふらふらと酔っぱらいのように歩いてオフィスについて、帰り支度をしていると、大塚君と千尋がなにやら二人で楽しそうに喋っているではないか。具体的な会話までは分からないが、まるでアルバイト先の本屋にいる、青春大学生のようにキャピキャピと見えるではないか。さっきまで赤鬼だった大塚君の肌も普段通りの肌色に戻っている。病んでいる千尋も入社初日だってのに環境に順応するなんてとんでもないことだよ。
よかったよかったよ。ついさっきの松嶋さん問題が発生したせいで、トラブルが増えて、心のメモリが足りなくなりそうだったんだ。会社が千尋を支えてくれそうだ。狙い通りだ。心の荷がおりた。とりあえず今日のところは任せたよ大塚君。千尋と仲良くやっておくれよ。カフェにでも行って親睦でも深めておくれ。千尋はロイヤルミルクティが好きだからね。
僕はまっすぐ家に帰った。何が松嶋さんに悪かったのか、どうすればあの事態を回避できるのか考えたのだが、分からなかった。なんとなくつけていたテレビのクイズ番組の問題も分からなかった。お菓子の袋の裏に書いてある妙な雑学クイズも分からなかった。
次の日には、予定通り社長の作品を朗読した。
教科書に載るような出来事を起こすのが夢という鈴木は、偶然にも年末ジャンボ宝くじで三億円を当てる。その金で仲間たちと遊び狂うのだが、どうにもこのままでは教科書に載るようなことはできないで、浪費家のダメ人間になると判断。そこで一大決心をし、ヘリコプターで上空から金を全部投げ捨てて、歴史に残る事件にしよう大作戦を練るのだが、投げ捨てる前に金が盗まれたり、奪い返したり、あいつが裏切ったり、冤罪だったりの、ドタバタジョットコースターコメディ。
僕はこの作品をあまり良いとは思わなかった。話のスジ自体は問題はないのだが、文体のせいなのだろうか、あまりイメージが頭に入ってこなかった。僕と社長のフィーリングが悪いのかもしれない。そして、本当に三億円を手に入れた体験がある社長なのに、作品中の主人公が宝くじを当てたシーンで全然リアリティを感じられなかったのも気になった。大塚君と比べて全体的に心理描写が薄く、感情移入しきれなかったので、まだまだ社長は修行が足りない。などといった本心は誰にも決して見せず、朗読会二日目は終了した。
三日目になり次の作品は副社長だった。
高校生の頃、女に手ひどく組織的に騙された影響で、主人公である古郡の生きがいはウソをつくこととなった。二十台の中頃にもなると、性別すらも偽る天然自然体ウソつきとなる。オムニバス形式でウソのエピソードを何個か並べ、メインとなる最後の話では先に書かれた短めのウソエピソードがフリになる。加えて小説ならではの読書を騙すトリックで古郡の性別がそもそも女だったという、どんでん返しにすっかり度肝を抜かれた。素晴らしいエンターテイメント作品だった。
あえて口を出すとすると『日本ファンタジー大賞』というより、『角川スニーカー大賞』や『電撃大賞』のようなティーン向けな気がしないでもないといったところだ。
朗読会四日目になり、ついに僕の作品が読まれることになった。
バイト先のコンビニで知り合ったちょっと不思議な友達二人は、今まで正体を隠していたが魔王なんだとカミングアウトをしたり、宇宙の向こう側にいる存在の陰謀で自分は幸せになれないと本気で語ったりと、かなりうざい。しかしだからこそ、今までに見たことのない妙な一体感の友情のトリオで、様々なトラブルに顔をつっこみ、メチャクチャにして解決をしたり、よけいこじれたりさせる日々。主人公の猫田からすると、友人の二人は頭のネジが緩んでいると思っていたのだが、次第に本気でこいつ等の言ってる事は正しいのではないかと思わさせられるほどの活躍をみせる。いわゆるハチャメチャ青春コメディと呼んでいいだろうね。
『人生って考え方次第で楽しいよ』といったメッセージ性を含ませたオチが、ズシリと入ったのだろう。読み終わりの会議室は静寂に包まれ、天井のシャンデリアが滑稽なほどクルクルまわるよ。
余韻を堪能してくれているのだなと察した僕は、誇らしげに周りの人達を窺った。もしかしたら、全員が全員、上質なエンターテイメントに笑顔が溢れ、無意識の内に口角が上がり、楽しすぎて目の瞳孔は開いているかもしれない。
しかし、なかなかどうして、ただ反応がイマイチなだけだったというのが顔で分かる。副社長は普段と全く変わらず姿勢よく凛とし、社長は欠伸を噛み殺し、大塚君はメガネを上下させ、松嶋さんは指のささくれをいじり、千尋はプリントアウトされた僕の作品の冒頭部分をペラペラと読み返し興味があるようなフリをしているが演技に違いない、僕にはわかる。
勝手に期待していたせいか、理想と現実とのギャップにより恥ずかしくなり、身体全体に火を放たれたかのように熱くなった。そして心の中でなんてこったと絶叫した。自分的には悪くないと、いやむしろかなりいいと評価していたのに、客観的な目で見ると、最初から何も存在しなかった、あってもなくても関係ないほどの駄作だというのか? 好きの反対語は嫌いじゃなくて、興味がないという事らしい。と、なんかの漫画で言っていた。つまりそういうことか?
でもさ、原稿用紙三百枚以上を一か月半で書き上げたんだぜ? そりゃあ、多少の粗い部分だって出てくるし、破綻したストーリー展開だって、仕方ないじゃないか。躊躇して書いてたら間に合わないって、あんたが言ったんじゃないか! 同じ境遇のあんた等だって知っているだろ? だったらもっと甘く判定してくれてもいいじゃないか、僕は褒められて伸びるんだよ! そりゃあ下ネタだって縦横無尽に取り入れるよ。新宿の裏ビデオ屋に勇気を出して入った途端に閉店だから帰れと怒られてへこむ流れがよくないってのか! 『イチモツ』とか『マイサン』やら『人肌のポークビッツ』がいけなかったのか! 『運気が落ちるからオナニー禁止』というフレーズが、はしたないって事なのか?
「すごい、面白かったです」
どこの誰だが知らねえが、あからさまなおべんちゃらを言いやがって、七代先まで祟ってやろうか! 声が発せられた方向を反射的に睨む。目頭に力を入れることにより眉と瞳の間が狭まり、きりっと引き締まった顔になり、本気モードとなったと言わざる負えない顔になったのは、言うまでもあるまい。
くわっという擬音がしっくりくる勢いで声の主をにらみつける。すると相手はビクッという擬音がしっくるくる勢いで身体を強張らせる。どこの馬の骨だか知らねえが、なかなか可愛い顔しやがって……千尋じゃないか!
そこで我に返る。危ないところだった。昔の悪い癖が出た。同時に爆発したかのように脳がフラッシュバック。
それは一年ほど前、作家になるぞと決めてから、初めて短編小説を書き上げた日の事だった。
もしかしたら、常識の枠を超えた名作を生み出してしまったのではないかと、自室で一人、喜びにうち震え、十秒後に自分の才能に恐怖を覚え、震えが二百パーセントになった。文芸業界の発展と未来の責任を僕一人で支えるのはプレッシャーだ。などと早くも苦悩し始めた次の瞬間、作家志望が自作の小説をアップして感想を言い合うサイトの存在を思い出す。こりゃあタイミングがいい、神様も中々、味な演出をしてくれるものだ。名作を全世界に発信してやろう、ありがたく思いな。そして作家志望者共は皆ようように、悔し涙を浮かべて「面白い」と言うんだよ。投稿した。
【初めまして、遼です。さて、内容としては、うん、うん? といった状態。なんというか、これを読んでどう感じてほしかったのかなーというのがまったく伝わってこない。あなたは書かれたときに、読者が読み終わった後、どんな気持ちになってほしいか、というのを考えたでしょうか。私はこれに何も感じませんでした。小説ではなく文字の羅列。つまり、一体、何の話を主軸にしたかったのかが分からない。正直、あなたはライトノベルしか読んでないのではないか、と思えました。後、書き終えたら、ちゃんと読み直して推敲しましょう。辛らつで失礼。では】
一件だけついた感想コメントがこれだった。読んでいる途中で怒りなのか恐怖なのか分からないブレンドされた感情の波に翻弄され、視界がマーブル模様に歪み、飲んでいた缶コーヒーのジョージアエメラルドブレンドコーヒーのパッケージが歪みながらもアップで映し出された。なるほど、今の感情を命名すると、エメラルドブレンドの感情ということか、神様も中々、味な演出をしてくれるものだ。 ふざけやがって雑魚共め。
全身をわなわなとわなめかせ咆哮をあげた。
「だったらてめえが書いてみろ!」
フラッシュバックから帰還、脳がフル回転していたため、その間一秒足らずというまさかの夢気分だ。
感情を高ぶらせたおかげか、僕は驚くほどすっきりと冷静になっていた。性欲を完全に抑えきった坊さんのような気分になっていた。冷静な頭で考え直してみる。
おもしろかったですとわざわざ口に出して千尋は言ってくれた。口または鼻から取り入れた酸素を肺から放出し、喉を震わせ大気に振動させてという手間をかけて、わざわざ僕に伝えてくれたと言い変えていい。おせじにも小説と言えない文字の羅列をだ。本心から言ってないにしても、わざわざ気を使ってくれているという事実に喜びを感じた。
「そう言ってくれてありがとう高円寺さん。コーヒー買ってくるね? ジョージアエメラルドブレンド」
冷静になろうとも、ついつい僕だけに分かる皮肉を口走る。
「……いえ、いいですよ。会議中ですし」
平淡な口調で、あっさりと正論で断りやがった。
千尋の野郎、調子に乗りやがって。最近は僕からの電話は無視するくせに、あっさりと大塚君とキャピキャピしやがって! そんなに天然パーマが好きなのかよ。わかった、わかったよ。お手上げだよ。お前らは精々、時間の限りキャピキャピでもいちゃいちゃでもしていろ。あんた等が止まっている間に僕は、猛スピードで文芸界の階段を駆け上ってやる。今に見てろ。
マグマのように煮えたぎっている心情とは裏腹に、明るい作り笑顔をふりまいて、室内の雰囲気はいつも通りのほのぼのした空気となった。太陽になりたい人間はこのくらいできなくてはいけないのだ。
しかし不思議なものだ。自分の作品を人に読まれる、つまり作家側というのは、読者側とこれほどまでに差がでるのだなと初めて認識できたし、よい勉強になった。
原稿用紙三百枚以上の長編を読みあげたので、そろそろ帰社時間となる。社長がいつものように、長々しい締めの言葉を放つ
「やっぱり、会社はいいね。創作ってやつは、皆で切磋琢磨していくのが一番だと思うんだ。自分一人では、決して今のように創作活動に没頭する事はできないよ。お金だけあってもダメだし、アイディアだけでもダメだ。意志と行動がないとダメなんだよ。それは決して一人ではできないんだ。皆の協力があって初めて成立するものだし、みんなの意思がオレをいい方向に導いてくれるんだ。一人が暴走したら、みんなで軌道修正をしあえる関係、それがつまり、会社であり、チームなんだ。オレってさ、一人じゃ結局なんにもできなくて――」
「社長、いい事を言いたい気持ちは分かりますが、そういうのは自分のブログの中だけでお願いします」
「へ!」
副社長の言葉は日に日に酷になっている気がする。ショックのあまり社長は完全に固まり、本日は終了となった。
会社からの拘束はなくなり、自由の身となったにも関わらず、今日はバイトなので、バイト先に向かう。その途中、それなりに人通りの多い商店街の店を横目に歩いていると自然に思考が浮かび上がってきた。
この四日間、朗読会をしてみて感じたのは、作品には作者の『我』がかなり濃く含まれるという事。例えば、社長は三億円を手に入れた実体験があって、三億円を投げ捨てる話に反映したと考えられるし、大塚君は、秀才気質を漂わせているが、本当は女にもてたくてしょうがない男子高校生のような中身を持っていると十分に予想できるし、そうだとしても違和感はない。となると、例外なく副社長だって作品の主人公のように、性別を偽っているのではあるまいか? なんといっても、かわいいイケメンではすまされない色気がぷんぷんするからだ。ならば、千尋は一体どんな作品を書くのだろうか。謎の行動ばかりする多重人格の彼女には何が隠されているのだろう。今後の有限会社直木の動向が楽しみとなった。そして大塚君とキャピキャピしているが、千尋の中にいる、残酷無比の雅美が出てきたらどうなるのだろうか。警察沙汰は勘弁だ。明日の松嶋さんで朗読会は終了だな、長いといえば長かったし、短いといえば短いし、時間ってなんなんだろうね。
ふと前を見ると視界に、お母さんとその息子と思われる二人が手をつないで、前から歩いてくる様子が見える。子供はつないだ手からお母さんに思いっきり体重をかけ、もたれかかりながらも、自分の足でどうにか進み、しかしながらその歩き方は普通ではなく、大幅や小幅に不規則に変えながら、何かを避けるような、またいでいるかのような、興奮したげっ歯類の動きを彷彿させる。子供は地面を意識しているらしく、下ばかり向いて、ピョンピョンと跳ねる。
ははーん、なるほど、分かったぞ。二千年代に生まれた幼子もなかなか捨てたものではないな。てっきり小さい頃からコンピュータに触れているロボットのようなデジタルチルドレンばかりなのかと思い込んでいたが、なんら僕と変わらない、同じじゃないか。幼子に影響され久々に僕もやらせてもらおう。
商店街の床は歩行者の気分を良くするためなのかなんだか知らないが、煉瓦のような材質のタイルで構成され、比率的には四枚に一枚は色の違う床で、全体の赤色に色違いの白が混ざるという感じだ。自分ルールで、白のタイルは足場、赤のタイルは断崖絶壁で下三十メートルは溶岩。落ちたら焼かれて溶けて死ぬ。僕は白いタイルだけを踏んで歩く。落ちたら焼かれて溶けて死ぬ。落ちたら、おや! 前方にヨボヨボの老婆だ。老人に道を譲らなくちゃ、ああしまった、赤いタイルに両足が乗ってしまった、落ちていく、アーレー、助けて、熱いよ、溶岩に焼かれて、死ぬ、ゴボゴボゴボ。ふざけてないで、普通にバイトに向かおう。職務質問でもされて、遅刻してしまったら僕のポリシーに反する。警察沙汰は勘弁だ。
結局その日のバイトもメガネ天使と話す事もなく、青春大学生の自分忙しくて寝てない自慢にイラつくなどして、比較的、普段通りに過ぎて行った。
次の日、松嶋さんの作品は異質だった。
『退屈だらけのラジオ、ますます冷めてくレモンティー。部屋中をめちゃくちゃにして、ドアも閉めずに出て行った。「またくるねまたくるね」と、こっちは返事もする間もなく消えた。君がほしがるものは、もうないのにな、もう来ないんだろうな、もう来てほしくないな、初めからいなかったらよかったのにな。となりの住人の声が聞こえる。「だめだできない、そこちょっとおかしいんじゃないの!」無感情な声がよけい耳にさわる。「だめだできない、ここそこ、くずれてんじゃない?」耳障り以外のなんでもない。そのとなりの住人の声すら聞こえる。「青い光に撃ち抜かれただけ……青い光に撃ち抜かれただけ!」その男は銀幕の男。「俺の人生はボタンのかけ違い。そんなに急かすなよ、今さら踊れない」銀幕の男はまだそこに立ってる。完全に終わってる。どいつもこいつも生物として終わってる。外も退屈だ。それでもここよりはマシかもしれない。外はミサイルによって、一面焼け野原となっていた。太陽は眩しく熱い。喉はガラガラに痛む。炭酸水を流しこむ。何かそこに引っ掛かる。無理やり奥に飲み込む。広辞苑で怪しい老人でひくと出てきそうな老人がなんの脈絡もなく現れて、皺くちゃの手を上にかかげ、私に向かって言い放つ「ワシの中には百八つの掟があって、周りに小さい遺物の世界ができあがった。そこで狂ったダイヤモンドごっこをして遊ぶのだ。その気があるのなら輪の中に入りな」こいつも終わってる、なんのリアクションもとれない。「あんた一体どこから来たんだ? あんた誰だ?」ふざけてる、こっちのセリフだ。老人は独り言を私にぶつけ続ける。「ジミーはギターと一緒に燃えカスになって、ジムが開けたドアノブは腐って外れてしまった。お前はどうする?」とりあえず逃げた。「あなたがどこに行こうと悪いけど全く興味なし」唐突に私の前に現れた少年はそんなことを言う。お前もどこから現れたのだ。さっきの老人と少年が私の眼前で仁王立ちをし、道をふさぐ。唐突に現れたライオンが言う。「毒を塗ってダーツゲーム、ど真ん中狙ったつもりでも、一周してあんたの背中に突き刺さったとする。でもそれは因果だぜ」逃げ場はない。ならば寝よう。これは夢かもしれない。太陽に網膜を焼かれてもかまわない、奴らの精神攻撃を逃れられるのなら。「パーティーは始まったばかりなのさ、君の頭の中の住人は僕たちなんだよ」ライオンのイガイガした声に、老人のしゃがれた声が徐々に混ざり、艶やかな少年の声も加わり、三つ音のシンフォニーが完成される。ミキサーで頭を粉々にシェイクされているような、ガンガンと頭痛が生まれる。気づかぬうちに暗闇に包まれる。永遠の眠りにつけたらいいな。願いは届かず目が覚めてしまう。太陽に焼かれた焼け野原から一変、白銀の世界、吐き出す息は白く、冬の気配を感じる。己の浅はかさ、後悔すれどおそい。足音も立てずに季節は変わった。女たちは泣きわめき、薄情な男たち、上空で騒ぎ立てる。残酷な夏から冷酷な冬。世界は凍りついていく。街の灯は消え、人影も見えない、時間が止まった白い世界。私は一時間で凍え死ぬほどの薄着で、絶望を知る。長く厳しい冬、辛く厳しい冬。上空の男たちは私を指差し笑う。時折、おちょくるかのように、地面付近まで下降し、私が近づくと上がる。下がっている。上がっている。何がしたいのかわからない。私は震えている。下がってくる。驚く。私と同じ顔をした男がいたからだ。「地上五センチで飛ぶのが粋なんだ」私と同じ顔をした男は意味の分からない事を言う。「ヘイ! 異世界の俺、女の気分どうなんだい? 男には一生わからねえ感覚だからな女になるってのは」耳鳴りがひどくなってきた。うんざりだ。こんなところにいる暇はない。私は永遠探しの旅にでるのだ。私と同じ顔した男のジャケットとマフラーとニット帽を強引に奪い取り、寒さをどうにか和らげる。歩く、ひたすら歩く。ひもじくなる。ジャケットに手をやると、板状の物が入っていた。後ろから風を切る音が響く「僕のチョコレイト、とっておきのチョコレイト、食べないでよ、君のチョコレイトじゃないんだよ、僕のチョコレイト、食べちゃやだよ、僕のチョコレイトそれを地面に置いてどっかいって」私の顔をした男が、憤怒の顔で迫りよってきた。でもすでに、このチョコレイトは私のチョコレイトだ。とろけるように甘い。
「アアアアアアアアアアアアァァァァァァ!!!!!!!!!!!!」男の断末魔の叫び。絶叫が合図のように、言い終わるか終わらないうちに、男は空気の抜けた風船のようにしぼみ、一本の無機質な棒になった。おもわず立ち止まってしまう。言葉がこぼれ落ちた。「明日は最高の日、明日は最高の日」自分に言い聞かすように。三つの声のシンフォニーが聞こえる。老人と少年とライオンだ。「そうだよ、明日だって、今日だって最高の日なんだ」私は何も答えない、沈黙に意味のあるふりをして。「明日は最高の日」再びつぶやく。風の音が頬に吹いた。名前を呼ばれた気がした。聞こえないふりをして、なんてことないと欠伸でもしているだけ。思い出した「私はモノカキになりたいんだ」すると風は突然、大笑いをはじめた。私は風を睨んだ。すると一変、獰猛な目つきで風はこう言ったんだ「なあ若いの、芸術家はいつだって冴えてるわけじゃないんだぜ、感情を高ぶらせてペン先から煙を出すためにはそれなりの覚悟が必要だ。おいヒヨッコ、お前に一ついい事を教えてやる。凡才は天才に従う、天才は歴史に従う、そして狂人はノイズに従う」「だったら私はなんなの」「自分で考えろ! アディオスアミーゴ」風は去った――』
「ふざけるな!」
朗読の途中にも関わらず、大塚君は声を荒げたのも分からないでもない。脈絡のない支離滅裂な内容は、序章だけだったら問題ないかもしれない。しかしこの作品は全編に渡ってこうなのである。
松嶋さんは朗読を始める前に言った。
「キャラの数が自分でも把握できてないので、役割決めができないんすよ」
気だるそうに、代名詞は低血圧の妖精と言ってもいいくらいの気だるさだ。
「えー! じゃあどうすればいいの?」
連日の朗読会のおかげで、素が出せるようになったのか、社長は陽気でお茶目で幼児のようなかわいらしさを醸し出すようになった。「従うから指示をお願いだよ」
しかし、過剰に可愛らしさを出すのでイラつく時はイラつくもので、僕も明るいキャラを出す時は、嫌味っぽくならないように気をつけよう。
首にかけたボーズのヘッドホンをこねくり回し松嶋さんは言う。
「……セリフじゃない部分は変わらず全部副社長で、カギカッコのセリフは時計回りに順番で……」
松嶋さんの指示は分かりやすかった。そして副社長の小さな溜息が可愛かった。さすがに、長編を毎日読んだら疲れるだろうね、代わってあげられるものなら代わりたいと思わなくもないが、朗読が美しいのはダントツで副社長なのだから、代わりたくないし、むしろあの声でないと聞きたくないし、僕はゲイじゃない。そして朗読が始まって、原稿用紙百枚を超えた辺りで大塚君が声を荒げたのだった。
「この作品は小説ではない。悪質だな」
「…………」
松嶋さんは黙っていると大塚君は続ける。「試行錯誤をして、成立してないのなら仕方がないにしよう、しかしこれは小説にしようという気がまったく感じられない」
「……あんた、何が言いたいの?」
平和な会社、有限会社直木に務めてから少々経ったが、初めて対立した感情のぶつかりあいを垣間見た。
「こんな悪質な文字の羅列を小説として、投稿するなんて、文芸賞の審査員の人達に失礼だ。それに日本中に五万といる作家志望者の創作の思いを愚弄している。むろん、我々も例外ではない」
手を振りかざしての熱弁ぶりだった。彼は続ける。
「同志だと思っていたのに、ひどい裏切りだ。こんなふざけた行為を、俺と同じ創作活動で括らないでくれ!」
そのままの勢いで、グーになった拳を机に叩きつけた大塚君は扉に向かって歩き出す。ドラマでよくある、ケンカをして出ていくシーンを抜き出した感じだった。
上品なグレーの、Tシャツワンピとかいう長いシャツに、ショートパンツでまるで下は何もはいてないような、色気タップリのガールズロックスタイルの松嶋さんは、特に変化のない低血圧の妖精なのだが、ちょうど扉に手をかけた瞬間の大塚君に言葉を投げかけた。
「自分の言いたいことだけ言って、逃げるのかよ、ガキだな」
室内の温度が下がった気がした。
「なんだと」
「…………」
「何か言いたい事があるのなら聞くが?」
二人のやりとりに発生する、絶妙な間がよけい室内をヒリつかせる。
「あんたの考える表現って……なに?」
口調だけを聞くと、おっとりとしているのだが、あきらかに怒りが含まれているのがわかる。僕は周りを見回した。社長はどういうわけか嬉しそうにウキウキと眼を輝かせ。対象的に千尋は眼をキョロキョロさせておどおどしていた。意外なのは副社長で、いつでも動き出せる臨戦態勢のような強張りを見せ、頼もしさを感じた。大塚君は、ドアにから手を離し身体を向け、ハッキリと松嶋さんを見据える。
「ふん、そんなの決まっているだろ」
「……なに?」
「自分の感情や思想、意志などをメッセージ性として媒体のルールに沿って宿し、相手側に伝える行為の事さ。単純明解だ」
「……ふーん」
それから、松嶋さんはだんまりを決め込んだ。口喧嘩に勝った中学生のような誇らしそうな面持ちで大塚君は言う。
「社長、申し訳ないのですが、本日は早退をさせてください。我がままを言ってすみません。今日の分は給料から引いておいてください」
「うん、いいよ」
なぜかご機嫌の社長は動揺もなくイエスだった。
「それではこれで失礼するよ。じゃあね高円寺さん」
急に振られた千尋は驚いた様子で、
「あっ! はい、お疲れ様です」と反射的にあいさつ返し、大塚君は去った。
頭上に飾られた回転するシャンデリアのかすかに聞こえる風を切る音がこの時ばかりはゴージャス感どころでなく静まりかえった室内に重みをます演出に思える。空気が悪い。
なるほどね、ここは太陽人間になりたい僕の出番としか思えない。逆境で強く成長するのが人なのだ。オホン、よしいくぞ。
「いやー、タハハ、まいっちんぐですね、いやー、まいっちんぐです、まいっちんぐだなぁ……ハハハ…ハハ」
フォローの言葉が続かなかった。ここで大塚君を否定して悪口を言うのは簡単だが、どうにも安易すぎて、やってはいけない行為かなと、僕の本能が告げる。
「それにしても、松嶋さんの今日も服装、イケてますね!」
言ってから気づく、これも違う。
バツが悪いのをごまかすように僕はテーブルにあるお茶を飲み干した。
「あら、水分が切れた。高円寺さん、コーヒー買ってこようか? ジョージアエメラルドブレンド」
一時退散するのが得策と僕の脳が判断した模様で、飲み物を買いに行くを口実にして、この部屋から出ていこうという作戦だ。ついでに、千尋に昨日のお返しだと言わんばかりに皮肉を込めたのだった。
「いや、いいです」
千尋の毎度お馴染み「いいです」が炸裂したため、僕のテンションはガタ落ちしたが、そうやすやすとあきらめたりしない。僕の逃走したい欲求はこんなものでは止める事はできない。
「あっそう? じゃあコーヒーを買ってきますんでちょっと失礼します」
僕の言葉が言い終わるか終わらないかのタイミングで、千尋は何かに気づいた顔をした。「あっ! やっぱり飲みたいです。私も行きます」
自分も逃げたいからってゲンキンな奴め。
ちなみに、朗読をするのだから、テーブルの上にはもちろんお茶は用意されている。コーヒーじゃないとダメなんだという、コーヒー好きならではの理由で自然に抜け出すわけだ。
椅子から立ち上がる時、横目で松嶋さんをチラ見する。彼女は下を向いていて、さらに前髪の影が目を被い、表情は見えない。
三人を尻目に僕と千尋は会議室を出た。僕等は顔を一度見合わせてから、同じタイミングで小さな溜息をついた。でもここで喋ってしまったら会議室に会話が聞こえてしまうかもしれないので、目で合図をしてエレベーターまで向かう。オフィスに飾られたチェックの布がいつもより二倍ほど無駄な物に映った。
「あの二人って、いつもああなんですか?」
エレベーター待ちをしていると、千尋が訊ねてきた。二人とはもちろん大塚君と松嶋さんのことだ。
「いや、むしろあんなに喋ってるの初めて見たけど、それがああだなんてね」
エレベーターがついたので入る。一階のボタンを押す。
「どうするんですか?」
「どうするって何が?」
「すごい気まずいじゃないですか、会社が。せっかく入社したのに続けていける自信がないんですけど」
「そんなこと僕に言われても」
まるで会話の区切りの合図とばかりに、扉が開く。石造りの玄関を抜けると、雲に覆われた薄暗い空が見えて、余計気持ちを滅入らせる。歩いて二十秒ほどの自動販売機に向かって歩く。
「あんたがこの会社で年長じゃないですか、なんとかしてくださいよ」背後から千尋の声だ。
「なんとかしたい気持ちもあるけど、今の僕では力不足かな、分不相応だよ。それに年長は社長で二十六歳だよ」
「齢なんて関係ないですよ、なんとかしてください。このままだったら私、早々と会社をやめます」
わがままな女だ。
ハートの柄が入った白のスエットワンピースに濃い紺のショートジーンズが似合っているからって、多少のわがままは愛嬌だと考えているのではないか。僕の電話を無視するくせに、いや待てよ、ワンコールで留守番電話になってしまうことから考えると、もしかしたら着信拒否かもしれない。絶対そうだ、僕からの電話を着信拒否に設定しているよ、だから折り返しもしてこないんだ。着信の履歴がないからね。そもそも拒否にしてる時点で電話をしたくないってことだしね。ぬけぬけとなんとかしろだとかぬかしやがって。大体、二人で歩いているのに横に来ないで僕の背後をキープというのはどういう事だ。
ああ、曇り空がまるで僕の心の中を表わしているかのようだ。ここは真っ向からぶつかってはいけない。ずらさねば、話題を。
「彦星と織姫は恋人同士にもかかわらず、一年に一回しか会えないから悲しいよね。ところが、ある人は言ったんだ。恒星である彦星と織姫の寿命は、何十億年と気が遠くなるほど長い。つまり二人にとって、一年に一回は会えるなんて、どんだけ顔を合わしてんだよ、もう見飽きたよ! っとなるんじゃないかってね。しかしだ、僕の考えはその上をいく。いくら寿命が何十億年あるといっても、時間の比率としては三百六十五分の一というのは変わらない。一年に一日だからね。大雑把に分かりやすく計算して、六分に一秒会えるといったところか。これは僕の経験からすると、深夜のコンビニのバイトにジャスト該当するんだ! そのコンビニには深夜に全然客が来なくてね、レジでボーっと突っ立ってる。たまに配達された弁当を並べたりするけど、ほとんどレジでボーっと突っ立ってる。一時間に一組か二組くらいかな、レジを打つのはさ、つまり、レジ打ちである僕が彦星で、客が織姫ってことさ。客が来たら、心の中で織姫!!! と叫ぶ遊びがブームだったよ、僕の中だけでね」
「気持ち悪い」
広辞苑で『しかめ面』と引いたら出てきそうな顔を向けられた。目頭が盛り上がって片方の頬が歪む、例のあの顔だ。するとしかめ面が何かに気づく。
「あれ?」
僕も思わずとんまな声を出す
「なんだー」
僕達が向かっている自動販売機のすぐ横、私有地と思われる煉瓦造りの花壇に腰を掛けて丸くなるように、うずくまって座っている人がいる。
厚い入道雲を連想させる髪の毛の巻き具合、なかなかの天然パーマだ。右手にはここで買ったと思われるコカコーラ。言わずもがな大塚君だった。そして我ここにあらずといった暗い表情で念仏でも唱えているかのように、ブツブツと声を出している。
よく聞くと「やっちまった、くそ、やっちゃった、あーもぉ、やっちまった」と、なにやら後悔をしているようだ。
ふふーん、なるほどね、頭のいい僕は一瞬ですべてを理解し、こんな会社の近くで何やってんだよ素直になれない中二病め、とも思った。
「くそ、直さなきゃ、やっちゃった……!? 高円寺さんと、真下! なんでここに、うわぁー!」つむじ風のように走って去った大塚君は、まるでコントを演じているかのようだ。
「おもしろい人多いでしょ?」
「そ…、そうですね……」千尋は軽く呆れながらも、楽しそうな笑顔をしていた。
それからコーヒーを三本と紅茶を二本買って、会社に戻り、松嶋さんの朗読の続きをした。
最後の一文が『生きる事が生きる理由で生き甲斐』という、意味不明なフレーズで締めくくられていたのが印象的だった。
伏し目がちの松嶋さんだったが、朗読の途中で開き直ったのか、次第に顎が上がり、最終的には会議室にいるすべての人間を見下ろす角度で、周りを見渡していたし、堂々としたたたずまいに、強さを感じた。
途中はどうなることかと思ったけれど、そして、大塚君を欠いてしまったが、まあなんとか朗読会は終了し、土日を挟んで、来週からはトラウマ週間という、キャラクターのトラウマを考える週にするとの説明があって、本日の有限会社直木の勤務時間は終了となった。
会議室を出て、自分のデスクに戻り、帰り支度をしていると、コーヒーを買いに行った時の千尋のセリフが自然と頭に浮かんできた。「なんとかしてくださいよ」エコーがかかって、重要なセリフと思わせる演出のイメージだ。
なんとかしたほうがいいのか? 会社内の人間が揉めるなんて初めてのことだった。そして僕はケンカの仲裁をした事が生まれてこのかた一度もない。
例えば、高校二年の時。同じクラスの片岡と、隣のクラスの今田が殴り合いのケンカをしていた。今田とは一年のころ同じクラスで、何回か遊んだことがあるが、無駄に不良ぶって万引き自慢をするような奴だ。そして片岡はというと、楽器をやっているオレってカッコいいだろ? と口にださないが、態度で言っている奴だ。そんな二人なら意味もなくケンカをするものだ。
「調子こいてんじゃねえぞコラ!」
「誰に口きいてんだよ!」
漫画から借用したセリフを吐いてヘッドバットをくらわす片岡。
「何してくれてんだよテメェコラ!」
襟をつかむ今田。
「やめなよ!」叫ぶ女子二人。
現場は廊下だ。歩いてくる僕。つかみあって硬直状態の片岡と今田。なんとかしてと僕に訴える女子の目。それに気付く僕。受け流す僕。歩き去る僕。教室に入る僕。机に座る僕。考察にふける僕。
止める理由はないからあれで正解だったはずだ。むしろケンカをしたい奴等は勝手にしていればいいはずだ。暴力にビビったわけではないはずだ。理由が必要なんだ。止める理由が。止めなくちゃいけない理由はなんだ。松嶋さんと大塚君の仲裁をする理由は?
僕は大塚君がとても後悔している様子を笑ってしまうくらいはっきりと見た。そして松嶋さんは心が弱い人間だって事を僕は知っている。
僕達は文芸界に風穴を空ける伝説のメンバー、有限会社直木の光栄なる社員だ。そのためには皆がバラバラになってはいけない。だから僕は仲裁をする。些細な言葉や行き違う仕草で、すれ違う思いをせき止める人間になるのだ。太陽の人になるのだ。
帰り支度をしている松嶋さんに声をかけねばならない。そして、居酒屋で酒でも酌み交わそうと誘うべきなのだ。だがしかし、本日は本屋のバイトがあった。バイトとはいえ、仕事をドタキャンするのは皆さんに多大な迷惑を被ることになるのは当然のことだった。一人分の穴が空いてしまうと、それを埋めるため、まじめに仕事に来た人の労働負担が増える。いい人ほど損をくらうという、とんでもない事態だ。僕の美学では決して許されるものではない。
「なんとかしてくださいよ」
エコーがかかって重要なセリフを思わせる演出のイメージの千尋の声が再び頭の中に響く。
どうやら選択の時が来たらしい。二つのものを同時に手にすることはできないって、小説の物語でもよくある事だし、ことわざの二兎追う者は一兎をもなんとかとかいうやつだ。
携帯電話を取り出しバイト先にかける。コール音のたびに緊張感が強まる。今から美学に反する事をしなくてはいけないなんて辛すぎる。
「すいません、真下ですけども、本日六時からのシフトに入っているのですが、緊急にですね――」
電話に出た社員さんは、申し訳ない感がたっぷりつまった僕の渾身のセリフを妨げるかのように言い放つ。
「はい! 全然大丈夫ですよ、はい、お休みですね、わかりました、はい、はい、今日だけで大丈夫? なんだったら明日も休んだら? うん、うん、そお? わかった、それではー」
詳細も何も言ってないのにあっさり休みはとれたのだが、それはそれで、必要のない人間だと言われているかのような気がして、へこんだ。いてもいなくてもどっちでもいい人間と認識されているのかもしれない。あのファッキン本屋め、近いうちに絶対に辞めてやる。僕の心は真っ黒に染まった。だが今はそれどころじゃない。都合よく休みは取れた、松嶋さんが帰ってしまわないうちに声をかけねば。
どうやって声をかければいいか、今のうちにパターンを備えておかなくてはいけない。そうしないとテンパってしまうからだ。まず一つ目の案。
【松嶋さんちょうどよかった、僕昨日、すごくお洒落なお店見つけたんですよ。いやーほんとうに、ちょうどよかった、グッドタイミングですよ】
ちょうどよかったというフレーズは魔法の言葉なのだ。なにか理不尽な要求をされたとしても、ちょうどよかった、が入ると、まあいいか、となるのが人間なのだ。
【大塚君の事なんか気にする事ありませんよ、酒でも飲んで忘れましょう!】
直球ど真ん中にぶち込む、いわゆるKYってやつなのだが、そのKYぶりが逆に安心するという反対の反対は賛成なのだ的な効果を狙うってのも悪くない。
もう一つくらいパターンを考えたい。とても考えたい。うーんしかし、残念ながら何も思い浮かばなかった。たったの二つのバリエーションで、メンへラーと予想される松嶋さんに挑むのは不安になるのだが、僕等は文芸界に風穴を空ける伝説のメンバーなので、気を使う必要はないし、失礼に当たるし、段取り考えている時点で全然自然じゃないよね。もうめんどくさい。大声を張り上げる。
「松嶋さんちょっと待ったー!」
ところが、ボーズのヘッドホンを耳にかっちりとはめていたガールズロックスタイルの松嶋さんには僕の声が聞こえなかったのか、一ミリの躊躇もなく、オフィスを抜けて歩き去った。
あぁぁ、もういいや、バイト先にも必要ないとされたし、めんどくさい、ねちゃおう、もうねちゃおう、今すぐねちゃおう。
その場にゴロリと寝っ転がる。床はタイルなので、顔をつけるとヒヤリとするのだが、気持ちいいと言えなくもない。土足で歩く床なので、小さな砂利が、肌にめり込むのだが、今のみじめな気分にちょうど合っている。
「なにやってるんですか?」
角のない丸みを帯びた特徴的な口調は千尋なのだが、目をつぶって狸寝入りを決め込むとしよう。そういう気分だからだ。
しばらくは、何か言っていたようだが、狸寝入りの術の効果が見事に炸裂したおかげか、千尋は去った。ウダウダと小言をいいやがって、小娘め。今は松嶋さんのターンなのだから、貴様には用はないのである。しかし、目当ての松嶋さんが帰ってしまったのだから、どうしようもないか。本当に寝ようかと思う。
体感時間にして三分。ようやく睡魔に襲われ、頭がぼんやりとし始めた頃「ゲッ」といった驚きを表現した声が僕の感覚的に左上から聞こえた。声の高さから言って女だ。丸みを帯びていないことから千尋ではないのはすぐわかったし、低血圧っぽいので松嶋さんしかいない。
「あんた床でなにやってんの?」
やはり松嶋さんだ。忘れものでもしたのだろうか、帰ってきてくれた。このチャンスを逃す手はない。何か気の利いた一言を放たなくては。
「あれぇー、間違ってたらごめんなさい、お姉さんもしかして、ビョークでしょ? アーティストのビョークだよね!」
音楽好きの松嶋さんにとって、ロックアーティストに間違われるのはけっして嫌ではないはずだ、むしろ嬉しいはずだ。瞬間的に出たセリフとしては悪くない。
「あんた頭大丈夫? ウジでもわいてんじゃないの」
松嶋さんの反応は、すこぶる冷たかった。だが無視されるよりはマシだと思い込むことにより、僕は次なる手に移る。
とりあえず、寝っ転がっているのはよくないということに気づいたので、仰向けの状態から、両足をあげて、反動でぐいっと立ち上がる、中国拳法家がやりそうな、起き上がり方をチャレンジして、頭を思いっきり床にこすって、のたうちまわってから、普通に立ち上がり、まくしたてるように言う。
「ビョークだよね、ビョーク! マジかよビョークだ」
「それはもういいから」
僕のしつこさに、松嶋さんは呆れていたが、どうにか会話がつながった。無視をされなくてよかった。
「じゃあ、居酒屋でもいきますか? こんな日は酒を飲むのがマストですよ」
「もしかしてあんた、私に気を使ってる?」「いえ、ただマストなだけです。マスト的には酒です」
「マストって言いたいだけじゃん」
独り言のように、遠い目で言う松嶋さんであった。しかし予想外になかなか的確な突っ込みを入れてくれるものだ。
「で、マストってどんな意味なんですかね?」
僕は脳味噌が発する命令のまま何も考えずに喋った。
「あんたって、友達少ないでしょ?」
「へ?」
「会話が成立してないもんね、でも安心して、私はそういう人嫌いじゃないよ」
このアマ、調子に乗りやがって。勝手に僕を決めつけただけでは飽き足らず、嫌いじゃないよと上から目線か! 気を使ってやってるんだよこっちはな。
「タハハ、それはよかった。つーわけで、行きましょうか飲みに」
すると松島さんは首を縦に揺らした。なかなかものわかりのいい女ではないか。
会社を出て駅付近に向かう。居酒屋などに行く習慣はないのだが、駅前ならば何かしらあるだろうという考えである。歩いて十五分くらいたったころ、さすがに駅前は人ゴミでごった返していた。逆にいうと会社付近は住宅街で人が少ないという事であって、駅前の混みようが通常というべきなので、つまりここは東京なのだと思い知った。
僕は松嶋さんより四つも年齢が上だし、男らしくエスコートを決めてやろうかと思ったのだが、どこに入っても文句を言われてしまうかも、という被害妄想に襲われ、ぐるぐるぐるぐる駅前を歩き回った。駅付近を三周してからしびれを切らした松嶋さんに、「ここでいいでしょ」と言われ、安いチェーンの居酒屋に入った。なんだよこんなところでいいなら最初からそう言ってくれればいいのにと思ったのだが、悪いのはあきらかに僕であるとはさすがに理解した。
店内は和の雰囲気だった。木造の柱に木造のテーブル。赤い炎のような照明によって、会社とは違う別の次元の異世界にいるようだ。それは言い過ぎか。
ドリンクオーダーを店員さんに急かされたので、僕は何となく好きでも嫌いでもないビールを頼み、松嶋さんはメニューを見て完熟マンゴーサワーなるモノを注文した。
それにしても、よくよく考えると女性と二人で酒を飲むなんて久々だった。いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。それほどまでに僕は酒を飲まないし、女性とも無縁に近かった。すると途端に胸がつまるような感覚になり、つまり緊張してしまったのだと認識する。なぜ、女性と二人でこのような状況になったのだっけ? なんの目的で僕は松嶋さんを誘ったんだっけ? 自分が何をするつもりだったのかわからなくなり、額からは汗がにじむほど焦る。
松嶋さんは店内に入ったにも関わらず、ヘッドホンを首にぶらさげたまま、店内をキョロキョロと見回し、その様子はサイボーグ、もしくはアンドロイドに感じられた。店内をあらかた見終わると向かいに座っている僕に目を合わせてくる。パッチリ二重と奥二重の対照ではない瞳はまるで、右目で僕の感情を見抜き、左目では衣服を透かして裸を見られているのではないかと妄想をしてしまうものだ。メイクとは裏腹に、意外に低い鼻と、意志の強そうな厚い唇がまた、瞳の強さを倍増させる造形で僕の緊張は、授業参観の日と同等になった。何か話題を作らねば耐えられない。
「……大塚の奴、怒ってたね」
そう、それ! 今日まさに僕が言おうとしていた本題は大塚君のことだったのさって、なんで松嶋さん自ら、傷口のような部分に粗塩を塗りこむかの如くの触れ方をするのか驚きを感じた。
「あの男なんなの! 自分は頭いいですよってオーラ出してさ、作家たるものこうあるべきだみたいな口調でさ、えらそうに、自分だってただのアマチュアのくせに、ダサ眼鏡! ムカツク!」
まだアルコールは入ってないのに、なかなかのヒートアップっぷりだな。そういや、松嶋さんとランチした時もなかなかの愚痴をいう人だったというのを思い出した。
しかしだ、愚痴が外に出るというのはいい事なのだ。不満を吐き出さない人間は、心にため込むということになり、なにかしらで、影響が出てしまうとどっかの本にも書いてあったし、聞いてあげるだけでも違うという。とりあえず僕は話を聞いてあげて、さらに肯定する事にする。
「そうですね、そうですね、そうですね、そうですね」
「と、今までの私だったら文句を言うばっかりなんだけど、最近は違うのよね」
「そうですね、そうですね、そうで……へ!?」突然の切り返しに耳を疑った。
そのタイミングでジョッキのビールと完熟マンゴーサワーの到着だ。エネルギッシュさを感じさせる濃いイエローの液体には、サイコロ大のマンゴーの果肉が入り、かなりゴージャスで酒というより、スイーツと呼びたい見た目であった。それを笑顔で掲げて僕に向かって乾杯と言う松嶋さんは、とても今までの低血圧の妖精である松嶋さんではなく、キツネが化けているポジティブな何者かと疑うほどだ。
スイーツのようなサワーを一度で三分の一ほど飲みほして、ぷはぁーとおいしそうに息をもらし、テーブルをグラスで打ちつけた松嶋さんは、この一杯のために生きてると言わんばかりの飲みっぷりだ。
「こう見えてもね、最近ごきげんなのよ」
彼女の目は早くもグルグルし始めて見えるのは気のせいだろうか。
「ちょっとこれ聴いてよ」
すると、仕事中にも首から外した事のなかったボーズのヘッドホンを僕に渡してくる。テーブルにはアイポッドが置かれ、何やら操作をして聴かせたい曲をかけるもようだ。
僕は音楽にとても疎かったので、玄人が好むようなマニアックな曲を聴かされた場合、よいリアクションがとれなくて困る。
音楽なんてものに期待などしていないし、もはや興味もない。百万人の心を打ったミリオンセラーの曲を真剣に聴いても、僕の心は少しも動かない。そもそも、誰かも分からない奴に『少しでもいいから一歩ふみだせ』とか『君ならいける未来へ』などと、励まされても余計なお世話だし、聴けば聴くほど心が冷めるだけだ。
あくまで僕の理論だが、音楽は単体では成立できない不完全な娯楽であって、映画やゲームといった他の媒体のサポート役でしかないのである。BGMなのであって、料理でいうと調味料だ。
そんな僕に、松嶋さんは普段とは段違いのウキウキっぷりで、音楽の感想を求めてくるのだろうな、面倒くさいことこの上ない。挙句の果てにはリュックから歌詞カードも取り出している始末だった。
「じゃあいくわよ、聴いてなさいね」
「はい、楽しみだな」心とは真逆の事を言って、ボーズのヘッドホンを装着し、歌詞に目をやる。
『青春四十切符
とうとう俺は這い出た。それつまり四畳半。築三十年の三十路賃貸アパートは、それはもう麻薬のように甘美であり抜け出すのに相当な労力を必要とする。それでも俺は確固たる意思を提示し、壁に決意を貼り付け、どうにかこうにか、脱出に成功した。外に出るのは一か月振りである。乾パンと水のみでどうにか生命活動を維持していた俺は、シャバにでた爽快感から、好きなものを買って食ってやるという、たいへん動物的な衝動に駆られ。三十メートル先には赤と白で緑で施された、七とある、奇怪な看板。奴は俺に喧嘩を売っているのか? それとも、食糧を売っているのか? ここで考えていてもらちがあかん。虎穴にいらずんば虎児を得ずとかいうやつだ。自動に開くドアつまり、自動ドアを入り、俺様はコンビニに入っていった。飛んで火に入る夏の虫、それつまり俺。金がねえ、まったくもって、金がねえ。そこで閃いた。金はあった。レジの中にあるじゃねえか、たっぷりと。金ならある。おい、小僧、そこの小娘でもいい。金ならある。ブリトーを百個くれ。ついでに水分も必要だ。いいちこをたのむ。ついでにアクエリアスだ。もうめんどくせえ、この店をよこせ。変わりに俺をくれてやる。俺をくれてやると言っているんだ。好きにしていいぞ。そのかわり店は俺のだ。ククク。なんだよ、すべて冗談だよ。これだから平成生まれは困るぜ。俺が若い頃には、そりゃあもうすごかったんだぜ。わかったわかった。出てくよ。おじさんお手上げです。しかしおいそれと従うわけにはいかねえなぁ。店の商品全部、上下逆さま裏返しに陳列していっちゃうよ。悪いことではない、盗むわけではないのだし。頼むから俺を止めてくれよ。おい、そこの小娘、止めてみろよ、小僧。うひょ。全部ジョーク。こんな店どうでもいいわい。コンビニを出ると、偉いよ俺ってと、顔に書いてあるクソガキのにやけ顔にゲロを吐くほど、イラついて、人としての性能の違いを見せつけるためにも、ラリアットをかます衝動にかられ、実行に移す。とんでもない邪魔がいた。電信柱このやろう。腕が折れた。俺様の黄金の右手が粉砕骨折だなこの感覚。水と乾パンではなく、牛乳とカロリーメイトにしとけばよかったのであるが、時すでに遅し。俺の名前はただし。ペットボトル潰し。ガキをふっ飛ばし。俺も必死。しっしっし。素晴らしい世界だし。向こう千年は生きていたいものよ。生きることが生きる理由で生き甲斐。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ。生きがい、気違い。ナイスガイ』
歌詞もそうだが、なかなかカオスな曲だった。音は割れているし、なかなか早いリズムのギターとベースとドラムの他に、生暖かい風のような音も混ざり、心霊写真を音楽にしたようだと言うとしっくりくるかもしれない。
「どお?」
曲を聴いている間の四分あまりで、酩酊レベルに達した松嶋さんは、スロウに揺れる頭と半開きの目で僕に感想を求めてきた。
正直な感想としては、確かにまあストーリー仕立ての歌詞で、情景が頭に浮かぶ。言葉のセンスも悪くないのだが、個人的には音楽ではなく小説でじっくり読んでみたいなんて事を思った。しかし、それでも松嶋さんとしては、肯定してもらいたいのだろうから思いつく限り褒めよう。
「最高ですね、斬新で革命的なメロディと歌詞だと思います。ボーカルの声もいい。しかしなんといっても、生きがい気違いナイスガイのゴロがやばいです。不思議な中毒性を感じます」
松嶋さんの顔がくしゃっと笑った。おべんちゃら作戦は大成功だ。
突然、僕の頬に衝撃が走り、視界が強制的に右向きになる。一瞬、何が起こったのか分からなかったが、この感覚はビンタをされたのだと経験上気づく。
「んなわけねえだろ!」
舌足らずに言いやがって。やれやれ、一杯でこれほどまでに酔っ払うとは、先が思いやられる。
「最高のわけがないんだよ、バカタレ!」
「いえいえ、素直な気持ちを言ったまでですよ」
「私が言いたいのはそういう事じゃなくて、わっかんないかなー」
分かるわけねえだろボケ! と思いつつも彼女のセリフを促すようにする。
「わかんないですよ、どういうことなんですか?」
「この歌はさ、私のバンドの歌なの……で、えーと、……で」
言葉が続かないほど酔っているようだ。
「はい、それで?」
「で、あれよ……つまり」
「はい」
「つまり……さ、こんな歌はクソなのよ! 自己満足で面白くもなんともない、雑音……ノイズ」
「いや、そんな事はないと思いますけどね」
「自分の曲をそう言ってんだからそうなんだよ!」
「はあ、そうですね、ノイズですか」
「んで、こんなくだらない歌のために、わざわざ週一で集まって、練習しているわけ」
「集まるって、バンドメンバーとですか?」
「他に誰がいるのよ! 当たり前でしょ! モッサリヘアの小汚いベースと、トリガラのようなガリガリのドラム」
当初の計画通り、喋りたいだけ喋ってもらおうかと思う。聞いてあげるだけでも違うのだ。
「そして、アイドルのように可愛い、ワタシがギター」
自分で可愛いとか言うなよとも思ったが、アルコールが入っているので大目に見る。
「聞いてるのかマシモ! つまり、私が言いたいのは……」
「はあ、なんでしょう」
「この歌は、誰のものでもない私達のモノだってことよ!」
そう言い切ると、アイポッドをパシパシと叩く。
酔っぱらいの言う事はなかなか要領を得ない。完熟マンゴーサワーをグビっと飲みきり、松嶋さんは続ける。
「あんたからしたら……、わけのわからないノイズかもしれないけどさ……、私からしたら……、大事な、大事な、可愛い息子だっていいたいわけよ私は! あんたに分かる? 電車とか街角で曲を聴いて……、笑みを我慢できない感じ。知らないでしょ? あんたバンドやってないものね、あーあ、もったいない。……あっ! おねーさん、おかわりください!」
ありがとうございますと言って店員は注文を機械に打ち込む。
「あー、楽しくなってきちゃった」
「酒、弱いですね、松嶋さん」
段々と饒舌になっている気もする。
「んなことどうだっていいのよ。だから、ようするに、悟ったってわけ。誰かに評価されて褒めてもらえるのなら嬉しいけどさ、結局の所、自分がどう思うかが一番重要なんじゃなかってね。……しょうもない歌でも、創ったってことの喜びだけでやる価値はあんのよ絶対」
「…………」
彼女の言葉を僕に照らし合わせ、噛みしめるように考えてみる。そのせいで沈黙を生んでしまった。
「ぶっちゃけ言うと、今日朗読された私の小説なんだけどね、あれ全部、ワタシの大好きなバンドの歌詞を丸写しして、膨らませて、曲と曲の接続部分だけ接着剤みたく考えて、なんとかつなげてさ、これが味ですみたいにして、いつのまにやら原稿用紙三百枚を超えていたの」
「それって、やばいじゃないですか!」
「やばいもなにも、しょうがないじゃない、そうしたかったんだからさ」
「怒られますよ!」
「誰が怒るっていうのさ! そもそもね、その、私が大好きなバンドのライブに行った時にさ、バンドTシャツの後ろに文字が書いてあって、影響を受けちゃったんだから責任を持つのはそのバンドよ! ノーエンターテイメント、百パーセントジャンクサウンドシステム!」
「つまり、松嶋さんの小説にはノーエンターテイメント、百パーセントジャンクサウンドシステムを使っているっていう事ですか?」
「サウンドではないけどねー! ハハハ! そうよ! だから大塚が何を言おうとも私は知ったこっちゃないのよ! ジャンクなんだし、書いてて私はすごく楽しかったし」
なるほどね、そういうことか、スジは通っている。いや法的には通っていないだろうけど、言いたい事は分かる。確かに、この考えなら僕もぶち当たっていた壁みたいなモノを突き破ってかなり自由にはばたける。翼をもらったよ。文芸界の大空を自由に舞う翼をもらったよ。
感銘を受けていると、新しい完熟マンゴーサワーが届いた。松嶋さんは一回で半分ほど飲みほし、手の甲で口の端から滴るサワーを拭って言った。
「凡人は天才に従う、天才は歴史に従う、そして狂人はノイズに従う。天才じゃないんだからさ、天才に従うか、ノイズに従うかどっちかにしよう! とりあえず私はバンドのノイズに従うとする。見てこれ」
すると酔っぱらいは、すっくと立ち上がりTシャツワンピを腹までめくり僕に見せてきた。
「ライブのキャラ付け用に空けたんだ」
骨身にしみ込んだむっつりスケベ体質のため、一度目を背けてから、松嶋さんの脂肪の少ない、キレイな腹を見る。ヘソの中にはゴマではなく銀色にきらめくドクロのピアスがところ狭しと主張していた。
「今週の頭に空けたの可愛いでしょ?」
アルコールのせいだろう、今まで見たご機嫌という概念をブチ壊すほどのご機嫌の笑顔だ。
すると恨みつらみをけっして忘れない僕の頭脳が動き出す。そういや、あの日僕は松嶋さんに怒られたな。となると、もしかしたら、ヘソピアスを空けるため医者に行く前の多少の恐怖や緊張でナーバスになっていて、だからこその怒り。だったら僕はそれほど悪くないってことか。つながった。なんだそういうことだったのか、胸のつっかえが取れた。
飲みに誘って本当によかった。有限会社直木で共にやっていくメンバーとして、松嶋さんとはお互いを高めていける存在になれる。
「もっと曲があるなら聴かせてよ」
「またまた、マシモはうまいこと言うわねー、いいわよ、オリジナル曲が全部で五曲あるから、全部聴いてもらうからね」
音楽が少しだけ好きになれた日だった。
土日を挟んでの月曜日、僕はそれなりにご機嫌で、いつもよりも一時間も早く家に出て、会社に向かった。道すがら、曇っていた空から太陽が顔をだし、まるで僕の心を表現しているかのようだったので、なんとなく遠回りしながら、イケメンの映画俳優にでもなったかのように気どりながら歩く。空は広くて素晴らしいなあ。
松嶋さんとなら切磋琢磨してやっていける、確信めいたものがあの日、僕の中で確定した。書くという行為自体の喜びや楽しさを、純粋だったあの頃を、忘れかけていたあの気持ちを思い出させてくれたのは彼女だ。
そもそも、金銭的利益ばかりを優先し、効率の良さばかりを求めるやり方が、社会全体に広まっているがとても良くない。去年あたりに露呈された中国の偽造やら毒素やらの事態だって、結局は安い金で利益を得ようとした日本やアメリカが、自ら引き起こした自業自得だとも言えなくもない。その恩恵として、かきあげソバが三百八十円で食える世の中になったのかもしれないが、僕の個人的意見としては、高くてもいいから、丁寧な仕事をしてもらって、おいしくて安全な物を食べたい。まったくもう、利益利益の世の中で大事な物が分からなくなっているのだろう。たまりにたまったつけが、いつかまとめて返ってきそうで恐ろしいものだし、僕ってなんて社会派なのだろうとウットリだ。
会社に着いて、朝の缶コーヒーを堪能する。最近の微糖コーヒーは名前のわりにはなかなか甘く感じるのだが、それは、僕の舌が大人になったのか、はたまたコーヒー業界では甘目なのがマストになっているのか、それとも大衆を太らせてなにかをやらかすという陰謀めいたものが裏で働いているのか、謎が謎を呼ぶ世の中だ。
自分用に用意されたパソコンのメールボックスを見ると、先日の朗読会で言っていた、トラウマ週間をやれとの指示だ。これは読んで字の如く、トラウマのパターンを考える週間になる。さすが社長だ。キャラクターの起こす行動の理由付けとしては、トラウマというのが都合がいいのだ。とんでもないご都合主義のようなあり得ないストーリー展開を見せても、トラウマがあったからと、名探偵に言われれば、じゃあしょうがないよねとなるものである。とは言え、わざわざ考えるとなると大変っていうか面倒だよね。しかし、給料をもらっている身分、文句は言わないし、言ってしまうことは僕の美学に反する。不満を口に出してスッキリするのと、美学に反してしまうのを天秤にかけた場合、掲げられるのは不満を口に出してしまう事になるだろう。天秤というのは面白いもので、掲げられたほうが優勢ではないという仕組みが、皮肉めいていて僕にあっている気がするね。
などと、なんの役にも立たない思考を繰り広げていると、エレベータが上がってきた音が響く。誰かが来た。松嶋さんか、大塚君か、千尋か、社長と副社長のペアか。
オフィスの入口にのれんのようにかかっているチェックの布の隙間から、サラサラヘアがなびいているのが見えた。身長から考えて、松嶋さんや千尋ではないのがわかったが、一体誰だ? 社長と副社長はいつもペアでくるし、髪型も二人とは違う。分かりやすい髪型でお馴染みの大塚君は厚い入道雲を連想させる天然パーマなのだから絶対に彼ではないし、まさか、また新入社員か?
チェックの布を通り抜け、正体不明の人物の全貌が明らかになる。上から見ていく。髪型はそうだな、いうなれば外でたまに見かける超大型の犬なのだが、一見では犬に見えない爬虫類から進化しましたと学者に言われたら納得の容貌のあの変な犬だな。髪の毛のような頭部の毛がとても長くて、ロン毛の犬、ロン毛なのに犬って奴の髪型だ。分かりにくいのでもう一パターン。上流階級の髭を生やした英国紳士なのだが、いつの日かトチ狂って、髭を伸ばす事が美しいと勘違いしてしまい、金も時間もあるから、手入れに抜かりはなく、サラサラキューティクルで、八の字になって、胸まで伸びてしまっている髭。それをきちんと頭部から生やした髪型が僕の目の前にいる奴の髪型といえよう。目は鋭く攻撃性を持っているのだが、損をするのを理解して、あえて柔らかく見せてますといわんばかりの、事情を経ての目。それを黒ぶちメガネで覆いマイルドに仕上げている。鼻は高くもなく低くもないのだが、土台がしっかりしていて、ハーフと言われればハーフだし、日本人といえばそうだし、パーツ単体としてみると、イケメンタレントさんに適用されていてもおかしくない端正な鼻だ。口は少々残念で、左右非対称でだらしなく下に垂れ歪んでいる。
ここまで描写したらさすがに分かった。どう考えても大塚君だった。
「おはよう真下君」
皆さんは好青年といったらどのような人を思い浮かべるだろうか? 僕だったらこういうだろう、この日の大塚君だってね。そのくらい、さわやかだった。
「……おは、おはよう、あの、大塚君だよね?」
あまりのさわやかさと、なびくようなサラサラヘアに戸惑いがあふれでた。
「ああそうさ! ごめんよ、今までの俺はちょっと変だったのだ。妙なプライドに縛られ、自分はこうでなくてはいけないという強迫観念に襲われ、挙句の果てには周りの人をも巻き込んでしまった。だけど、今日から俺は生まれ変わるのだよ。だからさ真下君、改めてよろしく頼むよ、このブランニュー大塚礼二を!」
漫画だったら、コマ一杯のサイズでビシッと擬音が描かれるなと想像させるほど、力がみなぎった親指による自分指しを見た。
ハハーン、なるほどね。頭の良い僕は大体の事を察した。そしてあの日、嘆いていた大塚君の姿を想い浮かべる。
そういやこいつ、逃げ去る時に僕の事を真下と呼び捨てしていたな、一個年下なくせに生意気だ。うらみつらみを決して忘れない僕の頭は、小さな事にひっかかったが、もう二十五歳で、四捨五入すれば三十歳にもなる、許してやるか。
「当然だよ! こちらこそよろしくね、共に切磋琢磨して会社を盛り上げていこう!」
「ありがたいよ真下君。今までまともに話をしなくて申し訳ない。実のところオレはものすごく人見知りなのだよ。だがブランニュー大塚礼二としては過去の自分を乗り越えるため、どんな困難にも立ち向かう! 気兼ねなく話しかけてくれよ、がんばって応えるから」「わかったよ大塚君」
大人の僕はさらっと流したが、何気に失礼な事を言われたのは確かだった。されど彼なりに良い方向に持っていきたいという気持ちが表れているし、はっきりと伝わった。大塚君同様に僕もブランニューな気分で過ごしていきたい。
ついては、ブランニュー的に質問でもしてやろうかと思う。ブランニューではない僕だったら『そのサラサラヘアは一体全体なんなのさ?』と相手が喋りたい事を探ってあげるのだが、大体予想できたので別にいい。ブランニューな僕としては僕に関わる質問をしたいっていうかさっきから使っているけどブランニューってどんな意味なんだろね。
「早速大塚君に質問なんだけど、なんで僕が話しかけてもそっけなかったり、たまに睨んだりするの?」
すると大塚君は、とてつもなくおいしい物を食べた人のリアクションのようにピクンと一度だけ大きく揺れ、十秒ほど静止した。
「……どうしたの?」
あまりの不自然さに僕は驚きを隠せない。
「……らいだからさ」
「はい?」
「嫌いだからと言ったんだよ!! 大体君はいつもヘラヘラと薄気味悪い笑顔を浮かべて、いやまあ、周りの人からしたら自然な笑顔かもしれないよ、でもねえ、俺にはわかるんだ不自然極まりない不愉快な笑顔だよ! そうやって君は色んな人を騙してきたのだろうね、時折入れる気の利いたセリフも自分の株を上げようという魂胆が見え見えなのさ! それに加えて松嶋さんとランチに出かけるし、高円寺さんだって君が連れて来たらしいじゃないか! 女ったらしとはまさに君のためにある言葉だよ! そもそも高円寺さんに恋人はいますか? なんて質問をしていたけど、君が恋人なのではないのかい? ひどい茶番劇だ。お天道様が許してもこのオレが許さない! 金輪際ふざけたマネはしないでくれたまえ!」
ストレートパーマでまっすぐになった髪の毛が、彼がまくしたてる度にサラリサラリと流れていた。なんだこいつ朝から酔っ払ってんのか? 仮に僕が警察だとしたら職務質問レベルだ。
「すまないね、ブランニュー大塚礼二はこの髪の毛のようにまっすぐな男なんだ。今まではひねくれていた分、反動がものすごい事になっているのだよ。許してくれたまえ」
口から泡が吹きでる勢いから一転、秀才気質溢れるクールな彼に変わった。僕としてはそのギャップに底知れぬ恐怖を感じた。
「許してくれないのか?」
これは一種の脅迫だな。ノーいった瞬間に暗黒古武術で喉笛を切断されてもおかしくない気配が、夜の山に立ち込める霧のように充満している。
「許すさ……、もちろん許すよ! そもそも僕達は会社を共に大きくしていくための同志なんだよ? 心を開いてもらえて嬉しいよ! これからもよろしくね」
おべんちゃらではなく本心から出たものだったけれど、不自然になってないかと心配になった。それほどまでに大塚君に一目を置いてしまったのだ。
僕の言葉に大塚君は、眉間にしわをよせ何か言いたそうな顔をしていたが、どうにか納得した模様でお互い握手をした。岩のようにゴツゴツした手だったらどうしようかと思ったが、意外にもスベスベとしていたので、格闘技はやっていないようだ。少し安心した。
ひと段落したので僕はデスクに着く。
なんだろう、大塚君のこれはいい事なのかな。ポジティブに考えて、心を開いてもらえたと捉えれば問題はないのだろうがなんとも言えない。
ワードを起動させてキーボードを打ち込む。
『トラウマ? 天然パーマの秀才メガネ、自分の持っていないモノを持っている人物を妬む』
僕も大概性格の悪い野郎なのだと実感するのだった。
それはともかく、具体性がないからトラウマとして成立していないなどうしようと、頭を抱えているとエレベーターが上がってきた証拠の音が響いた。誰かが来た。ブランニューな大塚君も意識しているらしく、しっかりとエレベーター方向のチェックの布を見据えている。
「おはようございまーす」
オフィス全体に呼びかけるような挨拶。なかなか良い挨拶で聞いた人はもれなく好感度を上げるだろうね。丸みのある特徴的な声の主は千尋だ。僕はデスク座ったままおはようと返す。大塚君は立ち上がり彼女に近づきブランニュー大塚礼二の説明を始め、聞き上手の千尋は髪型どうしたんですかと盛り上がっている。僕はトラウマの続きでも創作するとしよう。
『幼いころから英才教育を受け、親の期待を一身に背負い育つ。小学校に通い始めた時、同世代の人間が愚かに見えて、自分は特別だと思いあがる。友達ができない理由は自分に釣り合う人間がいないからと自己完結をする。思春期の兆しが見える小学校高学年になるとクラスメイトの女子に恋をし、ようやく自分にふさわしい人間が出てきたと喜ぶ。接触を試みるが、頭の中のリハーサルと現実での本番が噛み合わずイラつく。その様子からクラスメイトの間で妙な噂が立ち始め、撤回する術も見つからず悪循環のまま中学校に上がる。他人とのコミュニケーションを遠ざけ本ばかり読む。学力は伸びるが自分には人として足りないモノがあることに気づく。改善しようとするが習い事に時間を取られ、それに時間を当てられず高校生になる。自分は人生を楽しめていないと実感するのだが――』
書いていて違うなと自覚をし、タイピングの手が止まってしまった。
ふと壁にかかっている時計を見る。勝手に大塚君のトラウマを膨らませていたら、三十分ほど時間が過ぎていて、十時二十分過ぎになっていた。松嶋さんはまた遅刻か、飲みにいってから友人になれたと僕は思っている。友達に会いたい。
すると願いが届いたのかもしれない、エレベーターがこのフロアに到着した証の音が聞こえた。おそらく松嶋さんだ。よくよく思い出したら社長達は大体十二時頃に来る社長出勤だったりするのだ。最近は朗読会で定時に来ていたので忘れていた。ほぼ間違いなく松嶋さんが来ただろう。
ブランニューな大塚君もやはり意識しているらしく、しっかりとエレベーター方向のチェックの布を見据えている。その刹那、彼は椅子をふっ飛ばし、すごい勢いで走り出した。まるでクラウチングスタートでもしたかのダッシュだった。
現れたるは、今日も今日とてボーズのヘッドホンを耳に装着し、黒と黄色のしましまのカーディガンと白のインナー、下は珍しく藍色のロングスカートで、靴は年季の入ったラバーソールのオシャレ娘の松嶋さん。低血圧も手伝ってか、まったく動じることなく、大塚君と対面した。
なぜか大塚君は息を切らし、呼吸に合わせて上下に揺れていた。六メートルほどで疲れるなんておかしい、もしかして緊張をしているのかもしれない。
「あの、先日はゴメン……、執筆でストレスがたまっていたのかもしれない、本当はあんな事言うつもりは、全然なくて、その、今更謝っても……、ひどい事を言っちゃったのは取り消せないってのは分かっているのだけれども、どうしても、一言だけ謝りたくて、松嶋さん、本当にゴメン!」
そう言うと、謝罪の気持ちとエネルギーがたっぷり詰まった汗臭いおじぎを大塚君は見せた。客観的に見て誠意の伝わる良いおじぎで、はたから見てるだけでも、僕に対しての暴言を綺麗さっぱり許そうと強制的に思わせる太陽のような奇跡のお辞儀だ。
やっぱりだ。思ったとおり大塚君も悪い奴ではないな。仕事はまじめで優秀で、入社当初から僕は尊敬をしていたんだ。ブランニュー大塚礼二と言って、変なテンションの変態かもと疑ってしまったが、松嶋さんに謝る前の緊張からああなってしまったのだろうし、気持ちは分かる。そして安心をしてくれ。松嶋さんは気にしてなんかいないよ。なんでだと思う? 分かるかな? 分からないよね、僕もつい先日に気づいたばっかりなのだから。いや、正確には松嶋さんに忘れていたものを思い出させてもらったと言うべきか。書く事の純粋な喜びを取り戻して僕は羽ばたくよ、この素晴らしい世界を。飛ぶよ。だから大塚君も顔をあげて一緒にきなよ。僕と松嶋さんと一緒に三人で空を飛ぼう。ほら、松嶋さんが手を差し伸べるよ。お辞儀なんてやめなよ。
いつの間にか僕は立ち上がり、拍手をしていた。無意識の内にスタンディングオべーションをしていた。素晴らしい演奏や演技、プレイに感動した観客による最大限の賛辞と同等の感動を、この一連の流れで感じたのだった。
松嶋さんはにっこりと微笑んで、大塚君を優しく見下ろした。そしてゆっくりと慎重に右手を振り上げ、拳を力いっぱい固め、左足を浮かせ全体重をかけたと予想される態勢で、お辞儀中の大塚君の白い首筋を叩きつけるようにインパクトした。
「ブゴッ!!」
動物のような奇声を上げて、大塚君は墜落するように床に崩れた。
「謝るくらいなら最初っから何も言うんじゃねえよ!」
目が点になるという描写ってすごいなと感心するほど、僕はビックリした。
低血圧の妖精から一転、反抗期の僕の姉というキャッチフレーズを進呈したいと思う。
「大体お前、うぜーんだよ! 人の小説に文句垂れるほど偉いんかテメー!」
そりゃないぜ松嶋さん。先日の悟りきったあなたはどこに?
「死ね!」汚い言葉とセットで大塚君の腹にサッカーボールキックが炸裂される。一回、二回、三回。ハットトリックだと僕は思った。
「グポォ! ケパァ! ニリョモン!」
大塚君の呻き声も変だった。何故そんな声が?
「そしてその髪型が、癇に障るのよ!」
フィニッシュは仰向けになった大塚君の、メガネをはさんだ顔面の上部を、年季の入ったラバーソールが踏みつぶすという容赦のない攻撃だ。
「ペサーーー!!!!」
聞いた事のない単語を叫んで大塚君は気ぜつをした。
激情の後、時間が止まったかのように沈黙が流れた。僕はもちろん、千尋も微動だにできなかった。
数えきれないほどの無数のひびで、白く濁ったメガネが哀れな大塚君を象徴している。
「……大塚君、大丈夫?」
どうにか声をかけてみたが気ぜつしているから聞こえないか。
すると僕の声が合図になったかのように、大塚君のストレートな髪が、キュルンと一気に巻き上がった。最後のケリの効力でこうなったとしたら松嶋さんこそが暗黒古武術の使い手なのかもしれない。
哀れな事に出社して一時間足らずで、ブランニュー大塚礼二は天然パーマに戻った。さっきとは違った意味でスタンディングオべーションを送りたくなったが自重した。
三
「大好きな恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないような夜があるんだよ、天の一番高い所から世界を見下ろすような一夜があるんだよ!」
両手では数えきれないほどのアルバイト経験がある僕は、酔っ払って持論を垂れる、モアイのようなクッキリとした顔の、雇われ店長の発言を思い出していた。なんの前兆も表れずやってくる思考ってやつはは一体何なのだろうね、携帯電話のように電波なのだろうか、会議中だというのに突然浮かんできたのだ。
当時の僕は、居酒屋の座敷の中で説教でもくらっているかのような感覚でそのセリフに耳を傾けていた。イヤイヤだったが、それなりに心のこもったあいづちを打たないとモアイに勘付かれるので、自分のためにもちゃんと聞きつつ、モアイのセリフを冷めた頭で分析をした。
店長という立場を利用し、僕に主観を押しつけて、えらそうに、セクハラみたいなもんだ。自慢も入っているじゃないか、素敵な異姓と夜を共にできるほどの魅力が俺にはあるんだという自己主張が見苦しいほど入っていて、さらに、美談のように気持ちよく語る、聞かされている方からしたら最悪の方程式だな。ここの勘定が割り勘だったら詐欺なんてものじゃない、強盗と言っても大げさではないだろうね。まったくもう、ふざけた輩がはびこっているものだ、それでいて、コンビニ店という小さい世界ながらも、店長ときたもんだ。
逆に考えると小さな器でも責任者に任命される世の中だなんて、昔の貴族社会と比べたら素晴らしく自由な世界だな、逆に元気が出る。予想外の所から生きる活力が生まれた。
いやさ、それでも僕は、文士として生きていきたい。小説という媒体は見事だ。主観の押し付けは傲慢だ。それはもちろんの事だ。それでも小説ならば読むか読まないかの判断は圧倒的に受け取る側の自由なのだ。嫌になったら、本を破って焚き火の中にでも投げ込んでしまえばいいし、そうでなければ、洗いたての水気を含んだ靴にねじ込んで、乾かすのに一役買わせればいい。どうしようかなんて当人の自由だ。灰になったパルプ繊維はどうしたって、主観を押し付けることは不可能になるのさ。ぐしょぐしょにインクがとろけたパルプ繊維には傲慢なんてありゃしないのだ。モアイも酔った席でほざくより、小説にすればよいのだ。この僕のように、僕に向けてのエンターテイメントとして具現化すればそれだけで僕にとっては価値がある。
そんな事を会議の合間に考えたりした。
「まさかの展開だよ。いや、王道と言っていいかもしれないね。物語でも壁にぶつかるのは必然だし、困難を乗り越えるからこそおもしろいのだけれど、いやしかしまいった、実際に目の当たりにすると戸惑うものだね。まさかこうもそろいもそろってスランプになるなんて思ってもいなかった、想定の範囲外だよ」
ボーイソプラノを室内に響かせて、社長は嘆いた。
「でも安心して、そういう期間はあってこその創作活動だし、表現なんだ。絶好調の時もあればスランプの時もある。セットだよね、ハンバーガーにポテトがつくバリューセットとおなじだよ。ていうか、スランプがあるから、相対的に絶好調があるわけだし、悪い事ではないと思うんだよね」
社長の言うスランプの詳細はまだ聞いてはいないが、大方の予想はつく。
有限会社直木の動向を簡単に説明をすると、三月中旬から四月の下旬にかけて、『日本ファンタジーノベル大賞』の投稿を力の限り頑張った。応募が無事に済んだあと、ちょうど一週間で朗読会をし、次の週には『トラウマ週間』。しかし週間と名づけているにもかかわらず、三日で打ち切って、『特殊なお店週間』に切り替えるが、それも二日で打ち切る。翌週に『個性的な殺人方法週間』を経て、五月三十一日に締切の『このミステリーがすごい!大賞』に向けての執筆が各々に任せられたのだが、その時はすでに五月二十二日。締め切りまで十日も残されていないというのに、何をトチ狂ったか社長は容赦なく指示をしてきた。「書ける所まで勢いで書いてみようよ、やる前から書けないなんて思っていたら書けっこないよ、精神で負けているのだからね。さあ自分の限界にチャレンジしてみよう!」
それから四日ほどたっての会議なのだが、どうにも皆の執筆が進んでないのだろう。だからスランプと社長は言っているのだ。ボーイソプラノで社長は続ける。
「実はかなり強引に限界にチャレンジとか言っていたけど、さすがに十日足らずで完成できるわけないとは分かっていたんだ。だけど、ここで執筆意欲を焚きつけることにより、二ヵ月先の『横溝正史ミステリ大賞』では爆発するんじゃないかと狙ってたんだけど、そううまくはいかないかもね。なんだろうね、人間っておんなじ風にできてるのかな。ペンが進まないんだね。この五日間では誰もかれもが、一枚たりとも原稿を書き上げてないんだよ」
ほう、驚いた。僕は自分で一枚も書けてないのは知っていたが、まさか全員がそうだなんて。一か月で『日本ファンタジーノベル大賞』の作品を一人も落とすことなく送れた猛者集団である有限会社直木の社員として考えると、スランプと判断してもしょうがないレベルだ。
「私は少し書けてますよ」僕の隣から声が聞こえたかと思ったら千尋じゃないか。
そうだ、彼女はマスコット的な存在かと思っていたけど、立派な社員ではないか。執筆をしているのは当然であった。
すると僕の斜め向かい、天然パーマの大塚君が絶妙な顔をした。
「ほう、高円寺さんは一体どのような話を書いているのかね、興味がある」
プライドの高い大塚君の事だから、自分の位置と千尋の位置を把握したくてしょうがないのだろうね、だから過剰に反応したと思われる。
「まだちょっとしか書けてないですけど」
自分からアピールをしておいて、自己弁護するかのように照れる千尋。あどけさながなんとも可愛らしく、計算だとしたら大したものだ。
「よーし千尋君、せっかくだから読み上げちゃおうよ」
社長がジャニー社長のような口振りでいうと、副社長はノートパソコンのネズミのような周辺機器、要するにマウスをいじり、あっという間にプリントアウトを終えた。どうやら会議室においてあるプリンターはワイヤレスでつながっているようだ。超能力的な世の中になったものだな、昔のヨーロッパなら魔女狩りされているね、絶対。そのうち人間の頭の中のイメージや思考でさえも、パソコンが具現化してくれるのかもしれない。
「へっ、読むんですか? ここで? 今?」
何を思ったか、驚いてやがる。社長の命令を拒否するかの言動、一体全体どうしたのだ。賃金をもらっている身分、自分の作品においての恥じらいなどもっての他だというのは、大前提じゃないか。丸い顔しやがって。
「もちろんミステリーなのだろう?」
完全に大塚君は食いついた。
「人数分のプリントアウト、終了しました」
追いうちをかけるかのような副社長のセリフが決定的になり、状況としては完全に千尋の作品が読まれることになった。
「あぁぁぁうぅぅぅ」と声を漏らして同情でも引こうとしたかもしれないが、もう流れは一ミクロも傾かない。
冒頭は一室で歓喜する女子大学生、こいつが主役。とんでもない馬鹿をみつけたのが嬉しくてしょうがない、好物のサラダプリッツを小気味よく食べながら観察日記を書き記していく。その馬鹿との出会いは、昼間の江古田の商店街。演劇サークルの小道具役として活動している主役は、電車から降りて劇場に向かう途中にドジなので小道具袋ごとぶちまける。銀紙で作られた包丁を拾って、若干の曲がりを直していると、「通り魔行為はやっちゃいけないよ」と馬鹿が言ってきた。馬鹿の目は冗談ではなく本気だった。小さな頃から人間観察を趣味としている主役は、こりゃあ都合がいいわよとばかりに、サンプリングナンバー?と馬鹿を命名し、自分は多重人格者のフリをして、馬鹿の言動を操り研究をし始める。馬鹿は思い込みが激しく、自意識過剰で、勘違い野郎で、人の話を聞かなくて、お人よしだった。
詳細は端折ったが、千尋の作品はざっといくとそんな感じ。僕はどうにも腑に落ちない、小バカにでもされているような、笑われているかのような、屈辱的な気分になった。
次第に話は進み、様々なエピソードが消化されていく。馬鹿は二十五歳なのにコンビニの前でヤンキー風の高校生に絡まれたりとか、アイドルの握手会に行って鼻息を荒くしたり。そして、突出して僕の頭の中に残ったのは、魔性の女になる『モテ本』を読んで学び、馬鹿に高級バッグを買わせるようにけしかけて、いざ買ってきたら否定する実験と、精神が不安定でバイトもできないと言って馬鹿に仕事を仲介させ、同僚になる事でより馬鹿の実態にせまる実技。
戦慄した。恐ろしい事をしやがる。疑うべくもない、完全に僕をモデルにしているじゃないか。ヤンキーと握手会の流れはフィクションだが、それ以外は全てノンフィクションではないか。冷や汗がでるぜ。腹が立ったので著作権料でも頂きたい気分になったが、著作の申請をしてないのでそうは言えずだし、そもそも、著作の申請って何? とにかくあんまりじゃないか千尋め。
「今のところここまでです」
と、すっかりといつものように丸みを帯びた声で、当初のあぁぁぁうぅぅぅなんて小動物的な戸惑いは、きれいさっぱりなくなり、堂々と胸を張り小娘は言い誇った。開き直りやがった。
「ほお、人間観察が趣味とは、その設定、なかなか面白い展開を広げられそうだ。よかったら今後のアイディアを提供しようかと思うのだが、いかがかな」
メガネを上に揺らしインテリ気取りの大塚君である。
「いえ、自分で考えるので大丈夫です、ありがとうございます」
お前考えてないだろ! モデルを写しているだけだろ!
僕は怒りの感情に支配されたが、今この状況で千尋に怒りをぶつけてしまってもなんのメリットもない。ならばここはあえてすべてを僕の胸の内に潜めておくことにしよう。しかし千尋よ、時が来ればこの怒りは雷になり襲うぞ。クックックッ、僕の頭は小さな恨み事すらけっして忘れぬ、ざまぁみろ。
おそらく『殺』『呪』『恨』といった、色でいうとブラックやどどめ色のイメージの文字が僕の瞳の中に憑依したのだろう。向かいに座る松嶋さんが、いぶかしげにパッチリ二重と奥二重の目で見つめてくる。お返しにハッキリと視線を合わせて心で叫ぶ、届けテレパシー。
おお友よ、君がバイオレンスを働いた日を『サディスティックM嶋暗黒古武術の変』と名づけ、歴史の出来事みたいだと、一人盛り上がったんだよ。あの日のおかげで凝り固まりつつあった僕の確固たる思想が分解され、構築され、また分解され、構築されと、まるで渋谷の明治通りのような工事作業を行い、世の中と人間が何がなんだか分からなくなったのだよ。へっへっへっ、居酒屋で見せた酔っ払ったあんたの発言、
『他人にとっては無価値でも自分にとって価値があるのならそれでいいじゃないか』
その言葉にウソは感じなかったし、今でも僕の細胞に流れこんだまま、まったく薄くなっていないんだよ。にも関わらず、無価値と断じた大塚君に、怒りをぶつけるってどういう意味なんだ? 深い意味はあるのか? 証人喚問してやろうか? 久しぶりに僕の中の裁判官と裁判員と弁護士を呼んでやろうか?
松嶋さんは目を反らした。
ヤンキーのメンチの切り合いってこんな気分なの? 勝ったという爽快感が腹の奥から沸いて出た。松嶋さんを制したのか、この僕が? 女子からも『骨』となめられていた僕が? 大塚君を一方的にボコボコにしたドエス女を? すると、リスペクトの対象である大塚君よりも必然的に僕のがすごいの? マジで? いいの? 千尋の前でクズ入れにダイブしてクズになった僕が上? それとも二人が僕以上にクズなの? クズの中のクズなの? 選ばれたクズなの? 伝説のクズなの? 宇宙のクズなの? スペースデブリなの? デーブスペクターなの? フリーメイソンなの? 二人はフリーメイソンなの? どうなの? そうなの? 陰謀に落とし入れるの? なんなの? 文学ってなんなの? 文学の偉人達はなんで非業な最期を迎えるの? なんでまんまと自滅をするの? 地位も名誉もお金もあるのになんでなの? バカなの? トチ狂っているの? 天才が自殺するのはなんでなの? 作家の歩む道の頂上は命を散らす事なの? 死ぬために必死になるの? 命を削った結果、命を消すの? 死ぬ事に気づくために生きてるの? 生きることが無価値なの? 生きてる事と死んでる事は実はそんなに変わらないの? 芥川龍之介、太宰治、川端康成、ヘミングウェイ、こいつらは死ぬことに価値を見出したの? それともその先に何かが見えたの?
ハハ、アホくさ。天才とか文学の偉人だか知らないが、現実の恐怖が本能を超えたのだろう。地位も名誉もお金もあるのに、自らかなぐり捨て去って、本能を凌駕して、何かから逃げたのだ。そんな恐ろしい何かには一生遭遇したくないものだ。天才じゃなくてよかった。
すると僕の頭の中の弁護士が違うだろ! 君は天才でありたいと願っているじゃないかと弁護をし、僕の頭の中の裁判長がウソはいかんぞ! と木づちを打ち鳴らし、最近出てきた僕の頭の中の裁判員達が、どういうこと? 訳が分からないんですけど? と、ざわめき立った。弁護士が唾を飛ばしながら言う。世界を変えたいんだろ! お前のペンで世界を変えるんじゃなかったのかよ! 裁判長が本当かねと弁護士に訊ね、裁判員達がペンじゃなくてキーボードじゃね? つーか検事はいねえの? とヤジウマのようにざわめき立つ。弁護士はガッツポーズをして、ガンバレ! 裁判長は木づちを四回打ち鳴らし、リズムに合わせて、ガ・ン・バ・レ。裁判員達は組み体操のピラミッドを作って、頑張れよ、頑張れよ、などと完全な無駄の労力で応援をしてくれた。熱いエールだったが、僕はひねくれているのだろうか、余計に文を書くのがおっくうになり、どうせやったところで意味はないしなと頭を垂れた。
「――だから過程を楽しもうよ」
白昼夢の終盤に、社長の少年的な声がすらっと耳に入り込んだ。『カテイヲタノシム』とな。
「千尋君以外全員がスランプになった原因はわからないけどさ、もしかしたら、先月の投稿で全部絞り出しちゃったのかもしれないけどさ、やっぱり、書けてないとつまらないよ。動きがないもん。物語だって話が動いた方がおもしろいでしょ? 会社だって本格的に動き出してから五カ月しか経ってないのに、動けなくなるなんてダメだよ。といっても俺も書けてないんだけどね。でも若いうちは苦労を買ってでもしろっていうし、がむしゃらに突き進んで行こうよ」
大塚君が深刻そうに応える。
「お言葉ですがね社長、我々は先月、かの有名な『日本ファンタジー大賞!』への投稿を終えたのですよ。原稿用紙にして三百枚以上の大作を、一ヵ月強ほどの期限の中、圧巻のクオリティで誰も穴をあけることなく、書きあげたのですよ。いささか駆け足すぎやしませんか? おそらく、現段階の我々の力量を超えた結果がスランプという形を成しているのでしょう」
『サディスティックM嶋暗黒古武術の変』以降、彼もなかなかおしゃべりでオープンになったものだなと、感心をしていると、社長が大笑いをし始めた。笑い袋を連想させる極端な笑いだ。
「ハッハッハッ! びっくりしたよ! 夏目漱石の生まれ変わりと自負する大塚礼二が臆病風に吹かれたっての?」
「……いえ、その、皆の前で何を言うのですか……」
社長が斜めにアゴをしゃくった。合図だったようでノートパソコンをリズミカルに叩き出したのが副社長だ。
「二千九年三月十日、大塚礼二の面接。表示されました」
「読んじゃって、大塚語録を」
福社長は淡々と読み上げる。
「漱石が生きていたら十中八九、俺に嫉妬したでしょうね」
「失敬な! 誰にも言わないと言ったではないか!」
福社長は淡々と読み上げる。
「これは事件だ。大塚礼二という個人を組織に変えたのだから。お二人はもっと誇っていい」
「やめてくれ! その発言は撤回したいのだよ」
福社長は淡々と読み上げる。
「将来的にはいかなる文士も這いつくばる事になるだろうね、俺は規格外の化物ですから」
赤銅色の鬼が完成した。どうやら大塚君は恥ずかしさが顔色に表れるようだな。心成しか室内の温度と湿度も上がったみたいで、すごいエネルギーを発している。ついでに眼鏡も雲っている。
「まだまだすごい大塚語録があるよ」
「書きましょう、がむしゃらに」
大塚君が屈した。
ぱっと見は、脅しで従わせているようだが、会社という家族の中で、お父さんが生意気な息子に制裁を加えた形式と考えると嫌いじゃないね、僕は社長を支持するよ。
千尋も松嶋さんも内心はわからないが、抵抗する気はない様子、今後の活動は社長の独断により決定する。
六人中五人がスランプとはいえそれでもやはり『このミステリーがすごい!大賞』を見送るつもりは社長にはないようで、千尋の作品をベースにし、残り九日、全員の力を総動員させて完成させようという事だ。応募規定枚数は四百字詰め原稿用紙で四百枚から八百枚。六人がかりで取り掛かるわけだから、一人当たり七十枚のノルマをこなせばまず問題はないし、帳尻合わせをするときに足りなくなる事はないよね、とのことだ。
「ノルマは決まったところで、決めなくちゃいけない事がいくつか」
やり方を説明していた社長は皆に訊いてくる。
「皆で一つの作品を書くことになるから全員で大まかなストーリーを今決めちゃおうよ。やっぱりそうしたほうが統一感がでるし、全員のスランプを脱出する策としても有効だと思うんだ。長丁場の会議になるけど、異論はないよね」
もちろん、会社と言う家族のお父さんのアイディアには従わなくちゃいけないし、アイディアとしても良いアイディアではないか。むしろわざわざ訊くなよとイライラするほどだった。それにも関わらずまたもや小娘はえええぇぇぇだとか、うううぅぅぅだとか、さも新しい呼吸方法を私が開発しましたと言わんばかりの声をうめきやがった。そうやってね、逆らう癖はよくない。会社内の兄として後でガツンと言ってやらねばなるまいな。
めっきりと自分の立ち位置を確立した大塚君は、「異議なし」だとか「実に素晴らしい」と声を発し、順番的に皆の視線が自然に松嶋さんに集まると、彼女も無言のまま、したり顔でボーズのヘッドホンと一緒に頭を縦に揺らし頷き、肯定を意味するものと判断できる。
小娘一人がうううぅぅぅなどと恥じらったところで、つまりは五対一だ。有限会社直木においての高円寺千尋という社員個人の処女作は蹂躙される。フフ、処女作は蹂躙されるって、イヤラシイ響きだな。
社長の指示により会議室の照明を消すことになった。僕が壁沿いのスイッチを押したので北欧風テーブルに照らされていたスポットライトがスパッと消える。部屋の四隅の間接照明も余韻もなく消える。光の量が百からゼロになるイメージ。
すっかり真っ暗で僕の目には完全な闇に見えた。あるのは音だけで、頭の上のシャンゼリアがくるくるまわる風を切る『ビュン』。しかしこの『ビュン』も僕の脳が覚えている記憶から風を切る音だと認識しているわけだけど、今現在も宇宙は膨張していると言うし、『ビュン』の正体だって、シャゼリアではなくエイリアンやプレデターの、鼻息の可能性もゼロではないよね。それでも、照明を消す前のテーブルの配置をたよりにして、暗黒の中、自分の椅子に戻れたので記憶も結局のところ誠実で真実だと思われる。
「フフフ、ずっと前からやりたいと思ってたんだよね、暗闇の中での話し合い」僕の記憶が社長と判断する声である。
彼の意図は要するにこう言う事だった。視覚がなくなる事により、脳にかける負担がへるので、空想の世界にどっぷりつかれるし、相手の表情が見えないから、遠慮がなくなって発言だってしやすくなる。
「一つルールを作るよ。この空間においては否定する言葉を禁止する。例えば、俺が会議前に気持ち良く喋っている時に『自分のブログの中だけでお願いします』とか『そのセリフが蛇足です』とか言ってストップをかけることね。絶対にやってはいけないよ。ここは魂の解放区になるんだ。それでは始めよう」
暗闇の中『このミステリーがすごい大賞』に応募する作品の世界が六人の脳で作られる。
「主人公は馬鹿の事を恋愛感情ありきで好きって事でいいんでしょ? 観察日記をつけているわけだし」
「好きとかそういうのではないです」
「何故だね? 人の行動の原理は突き詰めると好意が根本にあるものなのだよ?」
「とにかくそういうのではないんです!」
「ああそうか、今回の作品ではその部分をピックアップする気はないってことだね、分かるよ」
「勝手に分かった気にならないでください!」「あんたの中ではどこまで話を考えてあるの?」
「すいません、あんまり考えてないです」
「やっぱり、ラブの要素を入れるべきだと思うんだよ、話が盛り上がるからさ」
「なんとか他の方法はありませんか?」
「じゃあ多重人格のフリをしているけど、本当に多重人格だったというトリックはどうすかね?」
「安易だし陳腐だ」
「社長、今のは否定する言葉になりませんか、むかっときました」
「意見のぶつかりあいだからしょうがないよ」「そもそもなんで主人公の女は観察日記が趣味なのだね? そのルーツを決めるのが重要だと思うのだよルーツを。高円寺さんどうなのだね」
「愛が不足してるからでしょ? 高円寺さん」「世の中を少しでも理解したいからでしょ? 高円寺さん」
「ハハ、何それくだらない」
「私にばっかり訊かないでください。好きなように考えていいですから」
「そうはいかないよ、一つの作品にするんだから統一しないと、いいのを創りたいんだよ」「時間が一週間もないのにいいのなんかできっこないじゃん」
「ねえ! さっきからチャチャ入れるのだれ!」
「社長、ここは魂の解放区なので……」
「わかったよ怒らない。でも話が進まないからテンポよく俺が決めていっちゃうね」
「はい、それでいいです」
「ジャンルはミステリーなので、どんでん返しがあった方がいいよ、ミスリードをしていこう」
「…………」
「魂の解放区だから閃いたのを遠慮なく言っちゃって」
「ていうか、登場人物の名前をきめないと分かりづらいんですが」
「じゃあ仮でヒロインは花子、主役の馬鹿は太郎。その他を次郎、三郎、四朗で増やしていけばいいでしょ、仮だし」
「女が増えたらどうするんすか?」
「そしたら好きなように呼べばいいでしょが!」
「社長、怒らないでください」
「怒ってないよ」
「とりあえず決めてしまいたいのはハッピーエンドでいいかどうかですね」
「もちろんハッピーエンドですよ、最後は」「異論はない、先日の朗読会で思ったが、この会社にはバッドエンドを好む輩はいないようだからな、決定でよいだろう」
「そうだね、ハッピーエンドで」
「はい、ハッピーエンドで」
「となると、花子と太郎が幸せなカップルになるってことでいいんですね」
「カップル!?」
「いや、結婚してしまうというのも、飛躍していて面白いかもしれない」
「結婚!?」
「花子が二十歳の女子大生で、太郎が二十五歳の会社勤め。それほど飛躍はしてないじゃない。もっといい終わらせ方があるんじゃないの」
「じゃあ、両想いになったと思ったら、実の兄妹だったとか」
「冬ソナじゃん。まともに見たことないけど」
「とんだ茶番劇だな。俺の美学が許さないのだよ」
「それでは大塚君はどうしたらいいと思うの」「急に言われても、もう少し時間をください」「まあね」
「ちょっとすいません、ハッピーエンドだからって、二人はくっつかないといけないんですか? 私いやです」
「あなたって結構、我が強いのね」
「えええぇぇぇ、そんなつもりはありませんけど……」
「アイディア次第だね」
「じゃあ、……太郎は宇宙人で宇宙に帰って行っちゃうとか?」
「ETパターンだね、おもしろい!」
「そうすか? 無理やりすぎやしませんか?」「前半でミスリードしても、急にSFになっちゃうと読者はポカーンとなっちゃうんじゃないの?」
「おいてがれやすいよね」
「じゃあ、吸血鬼」
「どっちが?」
「どっちがって、もちろん太郎の方だけど、花子が吸血鬼なのもおもしろいかも」
「愛がテーマなのが多いよな、吸血鬼映画は」
「いっその事、二人とも異能者にしてしまって、お互いの思惑をすれ違わせればおもしろいかもね。観察日記を書くのが趣味というのを使ってミスリードさせてさ」
「太郎も裏の思惑があって花子に近づいていると?」
「そもそも、なんで太郎は花子に付きまとっているの?」
「私の中ではですね、その、ヒーローになりたいと思い込んでる設定です」
「どゆこと?」
「どういうことって、どういうことですか?」「あのその、ヒーローってやつが、異能者なのか、普通の人間なのか」
「普通の人間です。精神が少しアレだけど肉体的には現実的な人間です」
「ふーん、で、太郎の中のヒーローの定義は」「定義っていうか、理想があって、それに近づくために頑張るみたいな感じで」
「うん」
「理想は、弱きを助け、それで、平和になるためにどう動けばいいとか? そんな感じです。あんまり考えてないです」
「そっか」
「太陽だけどな」
「太陽?」
「今思ったんだけど全然ミステリーにならないよねこのままだとさ」
「ならば多重人格を生かすべきだと提案する」「例えばどんな風に?」
「花子は太郎を騙すために多重人格と偽っているだろ? ボロが出ないように花子の中で設定を事細かく作っていたら、現実に通り魔として出現してしまうのだよ」
「突発系か」
「突発系?」
「通り魔が連続殺人として街を戦慄させ、住人を恐怖のズンドコに落としいれるわけさ」「ズンドコって」
「人を殺すんすか?」
「殺すよ。ミステリーだよ? 殺さなきゃ話は始まらないよ」
「人を殺さなきゃ始まらないって、とんでもないシステムですね」
「残酷なシステムね」
「現実にも通じるよね」
「主要キャラも殺そう」
「殺めるの精神上よろしくない」
「ミステリーだよ?」
「そうすか」
「もちろん太郎は、犯人が花子だって考えるでしょ? ヒーローならどう動くかな? カッコいいシーン考えようよ」
「名シーン週間でいいの結構ありましたよ、あの中から抜粋しましょう」
「一人称でしょ? 表現が難しくない?」
「なんとかなるでしょ」
「犯人像が閃いた。花子と太郎がよく行くカフェの店員さん。二人の変な会話を聞いていて、異常殺人サイコの気がある店長は便乗して通り魔するって理由」
「理には適っているが、安易な展開だね。それも伏線にしてトリックを考えようではないか」
「伏線って、あんたってなんでもかんでも詰め込みすぎて不自然よ」
「なんだと」
「また喧嘩するの? この状況で喧嘩はやめてよ。メインはストーリー決めなんだから」「すまなかったよ松嶋さん」
「うざすぎ」
「ほらほら、ストーリーを決めようよ。主要キャラって誰がいたっけ?」
「まだ書けてなかったんですけど、花子の友達に恋愛相談を持ちかけてくる友達がいます」
「主要キャラなの?」
「はい、一応、その娘の恋愛と並行して、照らし合わせて花子も成長させたいと思っています」
「結局恋愛を入れるつもりだったんじゃん」「違います、恋愛感情のない成長です」
「よし殺そう、その友達と彼氏を。猟奇殺人」「え!?」
「ミステリーだから、バラバラとか縫合とか溶解とか」
「妖怪?」
「でもミステリーって難しいよね、心理描写や人物描写を細かくしないと迫力が出ないしさ、構成も複雑、トリックだって全然思いつかないもの」
「確かに」
「だからみんなスランプだったんじゃない? 向いてないのかもね」
「違うと思います」
「何が?」
「スランプの理由」
「なんで?」
「褒められたいから」
「うん」
「は?」
「僕が思うに、人間は第三者に認められたいと本能的に望んでいるんです」
「で、太郎と花子はくっついてどうなるの?」「くっつくのはやっぱりいやです」
「ライブしたい、パッションが噴き出るライブがしたいわ」
「はぁー、こんな生活がいつまで続くのかしら」「それは言わない約束でしょ」「自分の書いた小説は自分のモノなのだが、読者は脳で構築して自分のモノにするものだ」「マイベストCDを作るのはいつも小説を書いている時だわ」「なんで太陽になりたいんだっけ、僕は」「ヒーローでしょ?」「合コンしたい」「なんで僕等は生きているんだ」「小説のキャラは俺の頭の中で生きている」「宇宙って誰かの頭なのか?」「神なんて妄想だわ」「何を言うんだ俺が神だ」「はいはい、なら死んでから、生き帰ってみせてよ」「君の神の定義と俺の神の定義を同じにするな」「定義定義ってうるさいなぁ、もっと本読んだ方がいいよ」「なんなんですか、この話し合いは!」「好きな人に反対の言葉を言っちゃおうのはなんなんだろ」「知りたいから」「反対の態度をぶつけた反応が見たい」「合コンしたい」「愛されたいとかほざく女」「無条件に愛されたい女」「愛された事実だけがほしい女」「相手を拒絶する事で自分に価値があるものだと錯覚する女」「自己弁護がうまい女」「不器用な女」「強い女」「がんばっている女」「偽る女」「論破してから後悔する女」「天才的に女な女」「不幸自慢を楽しむ女」「開き直る女」「演技で恐怖に震える女」「女女な女」「女として女に勝っている女」「負けて女として勝つ女」「姫に憧れる女」「文句を言いたい女」「愛はすごいと言う女」「愛を知らなくてかわいそうと言う女」「押し付けがましい女」「何も受け入れない女」「気まぐれな自分が好きな女」「私は猫だとほざく女」「死んでやるとほざく女」
僕はほとほと愛想が尽きた。茶番劇とはまさにこのことだ。
暗闇の中で皆の脳はトリップしたのは、ハイになったとか、珍妙な症状だ。瞼は重く、頭にモヤがかかったかのような徹夜明けのあの感じ。考えた事が口に直結していて、脳に浮かんだセリフがミジンコほどの思慮もなく吐き出される。吐しゃ物のようだね。そもそも茶番って、疑いなく使っているけど、正確にはどういう意味なんだ。
それにしても、せっかく僕が生きる事について救われる持論を吐露してやろうと思ったのに、誰も彼も自分勝手にまくしたてやがって、誰かのセリフの単語から派生して好き勝手に喋りやがる、幼稚園や保育園だな、いや動物園だな。
あーもういいや、視界は一筋の光のない黒だし、寝ちゃおう。寝ちゃおう。寝ちゃおう。寝ることにした。
などと寝る案を採用しているのが夢だったと、目が覚めた僕は気づいた。しかしそれでも視界は黒だったので、どこからが現実で夢になったのか境目がさっぱりわからなかった。その事実にはっと気が付き、ここは自分の部屋の布団の可能性も捨て切れないと瞬間的に頭が働いたが、椅子に座ったまま机に突っ伏す感触と体の曲がった感覚、会議室だという確率は高かった。などと回りくどい考えをする暇があったら、電気でもとっととつければいいのだし、人の気配を感じないのでおそらく会議は終了したのだが、僕だけ熟睡していたので、放置された状況なのだろう。ようするにとっとと、記憶を頼りに部屋の配置を思い浮か照明のスイッチを求め歩き出せ僕。暗闇の中にも関わらず、どこにも身体をぶつけることなくスムーズに行けたので、ここは会議室だし、やっぱり記憶という曖昧なモノも誠実で真実だし素晴らしいよね。
一番の疑問が解決したらば、思い出すは千尋め、僕をモデルとしているキャラに対して精神がアレなんでなどと、さも触れてはいけない繊細な危険人物を扱うかのような口振り、どうなってやがる、僕は記憶も安定していて、甲斐性のある、まとも人間だっていうの「っにね!」と思考と言葉をミックスし、それなりにリズミカルに壁沿いの照明のスイッチを右手の中指で押した。指先一つで漆黒の闇に光をともせるなんて、僕はなんて太陽のような、『十戒』に出てくるモーゼ的な人間なのだろうと、うっとり気分だったのだが、すぐにびっくりに変化した。
閃光のように眩しく感じる室内には僕以外に二人の人間が確認できて、寄り添っていた。
社長と副社長がキスをしている。
スイッチを押した瞬間につく赤い光のタイプなので、もう、刹那だよね。会議室が光に満たされた瞬間に、椅子に座っている二人はまるで、スポットライトで照らされた怪盗のように慌てふためき、顔を離した。なので、厳重に警備をしている警察団ってこんな気持ちなの? と新鮮な気持ちになった。
「そりゃあないよ、シャチョさん」
思わずタメ語が出てしまったし、フィリピンパプの嬢のようなフレーズを面と向かって言ってしまったのは失言ではあるが、暗闇の中でキスって、許しがたいほどで、むしろがっかりするほどの怒りを覚えた。
相手は何と言っても限りなく彼女に近い彼でお馴染みの美しい副社長だよ。眩しさに目をくらませている場合ではないほどの衝撃だ。
不快な部分はただ一つ。副社長とキスをしてるってのに、たかだか暗闇でひっそりって、イケない高校生の放課後かっての! そんなシチュエーションじゃもったいないよ副社長の唇がさ。最低レベルでも、果てしなく広がる青空を見上げると美少女が降ってきた。そんなラピュタっぽい冒頭から、受け止めた社長がぶちゅうと不可抗力でキスしちゃうのが欲しいよね。
「あんた、私が気ぜつしている間に変なことしてないでしょうね!」と口を尖らせて副社長が言うと「そ、そんな事するわけねーだろ! 自意識過剰なんじゃねえの」と社長。売り言葉に買い言葉のツンデレ副社長は「なんですって!」とすごい剣幕でまくしたて社長に顔を近づけると、近くにいたおっちゃんが「おっとごめんよ」と社長にぶつかって体勢を崩して、副社長と再びキスしちゃう、そんなご都合主義のライトノベル的な展開なら認めるよ、二人のキスをさ。ようやくそこで認めるよ。去年僕が個人的に投稿した『電撃小説大賞』に一次選考すら通過しなかった事実を。
「そりゃあないよ、か」
社長はしっとりと、オウム返しをした。
「そりゃあない、ですよ」
僕もオウム返しをオウム返した。
こうなると、社長から何か言わなければならない空気が生まれる。トランプの七並べで、相手が三回しか使えないパスをしたら、こっちも同様にパスをするテクニックと考えると、分かりやすい。一体どんな事を社長は言うのやら。
二人の、しっとりとした雰囲気のせいか、この部屋は会議室のはずなのに、まるでいつもとはまったくの別の空間なのではないかと思えるよ。
するとようやく社長はバツが悪そうにぽつぽつとしゃべり出した。
「今日の会議でさ、過程を楽しもうよって言ったでしょ? これはさ、俺の座右の銘なんだよね」
「ほぉー、なるほど」
よいあいづちを打つ僕はなんて見事な聞き役なのだろうとうっとりだ。それと座右の銘ってどんな意味だっけ。
「会社を始めた理由は、成功するにしても、失敗するにしても、そこにいくまでの過程はあるわけで、たったそれだけでも、やる価値はあると思ったからさ。諸事情により、若いうちに色んな事を経験する必要が俺にはあるし、同時に楽しく過程を得られたら、一石二鳥だしね。そのためにも――」
少年のような社長が、しっとりと、冷静沈着に的外れな話を始めたので、こりゃあ長くなるなと判断して、社長のセリフを遮って僕は言う。
「社長は副社長の事を愛してるんですよね? だったら僕が言う事は何もないですよ。さっき、そりゃあないよと言ったのも、びっくりしただけで、いつだって優先順位は愛が一番ですよ。ラブアンドピース。応援します」
例えるなら、憧れが先行して好きですと、はっきりと伝えることができない尊敬する女先輩に、このたび結婚する事になったのだけどマリッジブルーになって、不倫しようかとラブホテルの前で腕をひっぱられたのだが、性欲と激闘を繰り広げた後に、どうにか言い放った気分だ。
すると社長はびっくりするかのように顔をしかめた。
そして福社長が立ち上がった。絹のように滑らかそうなキューティクルの髪の毛がふわっとして、生命の美を感じるし、いい匂いだってするんだろうな。
「光さん、やはりこの男はダメですよ。人とし大事な部分が欠落していますし、なによりも気色悪い」
副社長の言葉にぽかーんとした。時折僕の目を見てあきれながら見下すような所作。この男とは僕のことだろう。
「あ、そうそう、あなたはいつも私をいやらしい目で見ていましたけど、正解です。女です。XX染色体です」
そういうと、限りなく女に近い男だったはずの女は、結構厚手の上着のボタンをプチプチと全部はずし、羽織っている状態になった。すると正式名称はさっぱりわからない、胸のふくらみを力づくで抑え込む、いかついブラのようなものが見えた。ヘソも見えた。
「ほら、よかったわね」
しめたと思った。
「あなたは何を言っているんすか今更! 男でしょうが! 入社の面接の時はっきりと男二人で会社を立ち上げたと言っていたでしょうが! あなた達はウソをつかない人種だというのは、すっかり僕の中で決まっています。これは揺るがない。揺るいでしまったら、僕は過去の自分を否定する事になる。僕は美学を持っている。過去の自分を否定するのは、無駄な時間を過ごした事になるのだ。許し難い事ですよ。むしろ疑うべきは今この瞬間、いかついブラを付けてXX染色体ですだなんて、簡単に言う事こそがウソであるべきだ」
そうだ、乗ってこい。僕の挑発に。
「気色悪いなあ」
呆れたような声で、黒髪サラサラツヤツヤキューティクルを手櫛でとく副社長。そんな平凡な動作でさえ、歴史ある由緒正しい聖なる儀式の一連の舞に見えるね。僕は今無性に、この人のおっぱいが見たい。XX染色体だろうが、XY染色体だろうが、僕がゲイだろうがなんだろうが一切関係なく、この生物のおっぱいが見たい。詳しく書くと、乳首が見たい。
「乳首を見せてください」
もう面倒だったので、言ってみた。
歴史ある由緒正しい聖なる儀式の一連の舞を見せていた副社長が止まった。顔がひきつった。さらには小刻みに震えた。
「つまり証明しろと言ってるんだ。さあ乳首を見せてください」
もはや駆け引きとかをしている余裕はブラ一枚挟んだ乳首の前では存在しなかった。それでも心の中では後悔をしている。もうちょっとうまいこと挑発できてれば、今頃この美しい生物の乳首を拝めたかもしれないのに、何たる事だ。そうしてから気づく。社長はこの美しい生物とキスをしていたじゃないか。メラメラとジェラシーで胸が燃えた。なんでその役目が僕じゃないんだよ。
「そりゃあないよ、シャチョさん」
「またそのセリフ!?」
歴史は繰り返すものなのだなと、身にしみて実感した。社長も繰り返される歴史に狼狽した顔を見せていた。人類はなんて愚かなのだろうか。戦争はいけない事だよね。
「フッフッフッ、すごい、やっぱりすごいよ」
少年のような二十六歳は狼狽していたはずなのに、肯定的なセリフと共に笑いだした。
「完璧だ。文句なし。やっぱり真下君に決定ね」
社長が満面の笑みを浮かべる。口元から、耳まで裂けると予感するほどの溝のような笑いじわがよって目は真顔という、いわゆる狂気じみた邪悪な笑みなどは想像しないでもらいたい。そうじゃなくて、屈託のない清らかな純粋な正統派な子供の笑顔だ。
そうして僕は一億円をもらった。
四
金さえあれば、金さえあればと散々言う輩がこの世に溢れる。この世と言っても六十億人以上いる中の一人でしかないちっぽけな僕が、たったの二十五年で、さらに日本という小さな島国という限定された状況下で、……まわりくどいなやめようこれは。
つまりは金さえあれば何とかなるとどいつもこいつも考えていて、例外なく僕もそれだったのだけれども、いざ一億円を手に入れたといっても、今のところ通帳の数字の桁が三つ増えただけの変化しかなくて、実感がわかない。とりあえず本屋のバイトでも止めようかと思って、勤労の合間をぬって社員さんに一言声をかけようと企むのだが、タイミング悪く、出版社の人が営業に来たりとか、海外の児童向けファンタジー小説が発売になってテンヤワンヤになったり、毎度ながらメガネ天使に胸を締め付けられたりとかで、今日は縁がないな、あきらめて次にバイトに入った時に辞めるのを告げようと考え直す。それをぐだぐだと呆れる事に四回繰り返した。
金さえあれば、生まれ変わったかのように強気になれるのになあ、なんて考えたりもしたのだが、難しいものだなあ。思春期の中学生の時、エロマンガ雑誌を購入したくてしょうがないのに、店員や周りの客の反応を気にしすぎて、家から二キロも離れている本屋にわざわざ行ったってのに、結局、手ぶらで帰った日々を思い出した。当時も何故か、莫大な金さえあれば勇気が湧いて、堂々とエロマンガ雑誌を全てコンプリートするほど買えるのになと、妄想していたものだが、仮にあったとしても買えなかったのだろうなと今なら予想できる。
十年以上前の僕と、今の僕という個人は、大本のところはそうそう変わらない者なのだと気づいた。そして成長しない自分に対して、苛立ちと呆れを感じつつも、嬉しい懐かしさと安心がミックスされている感情に包まれた。
そして本当に複雑だなと思った。自分の感情だけでもこんなにも複雑なのだから、他者の感覚と感情が入り混じった社会という世界はどれほど複雑なのだろうと恐怖さえした。その中で僕は太陽になりたいなどと、とんだ絵空事なのではないのか? それこそ、海外の児童向けファンタジー小説の主人公になるくらいの、つまり、僕がハリーポッターになるくらいファンタジーなのではないか? 一言注意を付け加えると、ハリーの俳優に僕がなるわけではなく、ハリー本人になるってことだ。この意味を取り違えてはいけない。太陽の道は果てしなく遠い。
などと、バイトの帰り道の徒歩中に考えていたりした。
自分との対話つまり、思考モードを一段落ついたところ、コンビニが見えた。そういや、牛乳が切れていたな。買おうかな。でもオレンジジュースや天然水といった、水分はまだそれなりに冷蔵庫に入っているし、でもなぁ、牛乳は別腹のような感覚あるしなぁ、判断が難しいなぁ、コンビニに寄るとついつい、雑誌を立ち読みしてしまい遅くなるしなぁ、人前で財布から小銭を出す仕草がかすかに緊張するしなぁ、でも一億円あるしなぁ、牛乳を飲みたいなぁ、でもなぁ、店員男だしなぁ、店に入るの面倒だなぁ、一リットルのパックはそれなりに重いしなぁ、でもなぁ。 前方から衝撃を感じた。人とぶつかったと理解した。車同志だったら正面衝突のバンバーがグチャグチャ系のたいそうな交通事故になるなと瞬間的に想像する見事なぶつかり方だった。コンビニの方をチラチラ見ていたせいで前方不注意だったからだな。
「いてえなてめえ!」
緑色のブレザーを着た高校生が野生の狼みたいな目つきで睨んでいた。
常識人であり二十五歳の大人の男の僕はすぐに申し訳なさそうな声を出した。喉を開くイメージをして、接客をする時のオカマみたいな例の声だ。
「あっ、すいません、大丈夫ですか」
「大丈夫ですかじゃねえよ、フラフラしやがってよ、ざけんなよ、殺すぞ」
我が耳を疑った。これほどまでに紳士的な僕に言っているのか? 今まで生きてきた常識ではありえない事態だし、これから起こりえる未知なる暴力を想像して足がブルった。正確には膝がブルった。なんで日常からいきなりバイオレンスな世界に突入することになるんだ。それになんかこの展開どっかで見たことあるぞ、一体なんだっけな、この現象はデジャブだ。
「俺は今日よ、えれぇやな事があって腹が立ってんだよ。金をだすか、ボコボコにタコられるか、どっちか選べや」
高校生のガキのくせに、かなりの威圧感を感じる。おそらく一匹狼といわれる、本当の意味でのグレたヤンキーなのだろうな、ファッション感覚で不良ぶる奴とはあきらかに雰囲気が違うし、ナイフのような小僧と表現すると見事にハマる。筋肉細胞一つ一つが活発に運動をしているような、生命力に溢れるきびきびした身体の動かし方。スラっとした長身で、顔は動物で例えるとコアラのようなのだが、愛くるしくはなく筋張るほどいかつい。
心臓が大急ぎでリズムを刻む。まるでメガネ天使を瞳で捉えてトキメイテいる時と同じくらいドッキドッキだ。
コンビニから溢れる蛍光灯の光が左側面。歩道を照らす用の街灯が右斜め上に照らしているおかげで、コアラの顔が半分くっきり見えて、もう半分は逆光で暗くて黒い。バイオレンスの住人だ。
どんな言葉を使えばこのバイオレンスの世界から抜け出す事が出来るのだろうか。うーん参ったよ、金は口座に一億あるけど十も年下のガキに財布の有り金(八千円)を全部取られるのは嫌過ぎるし、札を渡す際に手の震えを見破られるだろうし、やっぱりみじめだよね。かといって殴られるのはもっと嫌だし歯が折れたりしたら生活に支障をきたすし、痛いのもやっぱりやだよ。そして再びデジャブ感。いつ見た夢だっけな、二週間前の夢だったけか、そして、夢の中ではどのような結末をむかえたのか気になるところだ。
「タハハ、やめてよ、僕はもう二十代後半に差しかかるオッサンだよ? 世代が違うし生きる世界がちがうよ。からむのだったら同じ高校生か、少し背伸びして大学生を狙いなよ。若者には若者のルールがあるし、オッサンにはオッサンのルールがあるのは知ってるだろ? 僕は君を干渉しないから、君も僕を干渉しない。オーケー? 約束だ」
意識をせずにペラペラと言葉が出た。自分で言っておいてなんだが、そりゃねえだろ火に油を注いでいるかのようなセリフだ。とも思った。
案の定コアラは怒った。逆光になって暗い顔半分はよく見えないが、見えるもう半分の口元は吊りあがり犬歯が見えたし、目もアーモンド形に吊りあがり黒目は小さく蛇のようだし、鼻の穴は広がり、小さく呻き声も聞こえた。
すごく怖い、こいつの腕力は絶対強い。今すぐロケット花火のように飛び出して逃げ出したい衝動に駆られるのだが、背中を向けたら追ってくるだろうし下手に動けないね、こりゃ参った、誰か助けてください殴られてしまう。
「なに威嚇してんだよクソガキ。腰パンで強がってんじゃねえよ、こっちからやっちまうぞ」
ことによると僕はツンデレなのかもしれないなと疑うほど、心とは反対のセリフがドロっと出た。新たな自分を見つけたし、左の頬をグーで殴られたし、腰パンにも関わらず体重が乗った前蹴りを腹にくらうし、想像よりは痛くないし、それでも財布を取り出して野口英世と樋口一葉を渡すし、想像よりはみじめな気分にならなかった。
僕があっさりと金を出したので、高校生のガキは肩透かしを食らったみたいに、惚けたような顔で、興味がないモノを見る目で去って行った。
デジャブっていっつもこれだよ、終わってからそうだったそうだったと思いだす。強がるんだけど、あっさりと屈するのだったよ。一度見たビジョンだよ。
顔が腫れているんだろうなと予想できる熱の帯びかたに加え、腹には圧倒的な存在感の異物感が残り、身体をくの字に曲げて老人のようにご帰宅だ。ついてないよまったく、あんなクソガキに脅され金を奪われるなんて屈辱以外のなにものでもないのさ、牛乳も買えなかったしね。
宇宙で一番落ち着ける空間である我が部屋の扉を開き、左肩に背負っていたショルダーバッグを定位置に置き、手を洗い、うがいをしてから行動に移る。今日のような厄日には例の儀式をするべきなのだ。押し入れの上の棚のメインを占める洋服入れの手前、無造作に置いてあるDVDケース。そういや、久々だな。なんだかんだで数か月のスパンが空いてしまったので、謝らなくてはいけない。女優の谷村美月の演じる悲劇の天才美少女サラカちゃんにひれ伏して、右手を優しくつかみ、完全服従を証明するキッスを施さなければならない、いやむしろしたい、させてください、多少のお金なら惜しみませんから、谷村様。
そう願ってから、世間一般で言うところのB級映画のDVDを見て、僕は数百回目の涙を流した。やはりこの映画のこのシーンはモンスターだ。
「逆だ。僕に寂しい事があるとしたら、むしろ人の中にいる時だ。思い付きを口にするのは構わないが、わかった口をきくのはやめてもらいたい」
谷村美月の演じるサラカは孤独なヒロインなのだ。ここに僕がいたとしたら、
「僕の人生あげるから泣かないで」と言うのだ。しかし悲しいかな、彼女は谷村美月であるのだが、映画の中ではサラカであり、僕はサラカが好きなのだ。サラカの媒体となる谷村美月も好きなのだが、百パーセント混じりっけなしのサラカが本当に好きなわけだし、問答無用でサラカに会うことは不可能だ。一億円持っていても無理だ。谷村美月になら会える可能性はあるが、サラカではない。でも谷村美月もやっぱり好きなので、会う事は現実であり得る。なので、サラカではないにしても、谷村美月にひれ伏して、忠誠と服従をあらわすキッスがしたい。しかしそんなことを突然したら、いろんな人から怒られるのは目に見えるので、やめたいのだが、僕は一億円を持っているし、頭を使えばできるのではないのか?
いやまてよ、キッスはできないにしても、手に触れる事はできるのではないのか? そして手に触れた自分の手にキッスをすれば、間接的に谷村美月の手に服従のキッスをすることになり、そしてまた間接的にサラカにキッスをしたと事になるのではないか?
うんなるよ。と裁判官も独断で判決を出したし、一億円もあることだしアイディアしだいで方法はいくらだってあるに違いないさ。
パソコンを起動させてグーグルで谷村美月を検索する。あっさりあった、驚いた。神の悪戯か、はたまた悪魔の気まぐれか、明日だ。早速明日彼女に会いに銀座に行こう。
本日は晴天なり。六月だってのに見事に雲ひとつない青空となったのは、日ごろの僕の行いが上品だという証明かな。土曜日の銀座は歩行者天国になっていて、普段は自動車がブンブン走っている空間なのだろうが、今はショルダーバッグをグワングワンと揺らし不細工にバタバタと走る青年がいる。僕だ。そして気づく。車道のど真ん中は日光の照りが縦横無尽なので倒れるほど暑い。やっぱり歩行者は歩道に収まるべきだよ、息を切らすほど走ってみて勉強になったなと考えながら、おもちゃ屋、おしゃれカフェ、何やらわからないオフィス等々を通りすぎ、福屋書店銀座店に辿りついた。
初めて来たのにあっさり見つかってよかったよ、緑色の看板を見て、外観から店の規模を想定し、バイト先よりちょっとだけ大きいかな、ちょっとだけねなんて、ジェラシーを醸し出していたら、入口付近の壁に紙が張ってある。
『谷村美月のトレカBOX発売握手会は十三時からなので三十分前には整理番号順に並んでろよ、空調のきいていない外でな、恋人がいない人として魅力がない人種の集団めが』
脚色はしたがそんな内容で書いてあった。時間はまだ十一時なので超余裕だけど、僕はまだ整理券を手に入れてないから焦る。コミュニケーション能力が発達している僕は、店員さんに握手会の仕組みを訊ねて教えてもらった後に、六千三百円するトレカBOXなる谷村美月のカード型写真を買って、八十三番の握手会の整理券を手にいれた。僕の月収は二十五万だから、この程度の出費はあまり痛くないし、一億円も口座にはあるし、『無』みたいなものだった。しかしだ、これでサラカと間接的にキッスができるとなると『無』どころではなく、『生きがい』に変換される。金とは一体何者だと疑問を浮かべた後に、とりあえず握手会までかなり時間はあるし、立ち読みでもしようと、文芸コーナーの茶色い棚まで行って、未読の村上春樹の作品を手に取った。
やれやれ、春樹の野郎はまたこのパターンでやりやがって、あちゃー出てきたよ、斜に構えていて優秀な自分だけど本気出すの億劫だし無意味、みたいな物言いのキャラね。春樹の独特な文体だと強制的に感情移入しちゃって、読者である僕がキャラと同じ感じになれて、価値のある人になったかのような錯覚を起こしちゃうんだよね、ずるいやり方だよ春樹はさ、なんでもないような出来事や仕草をどっぷりと読ませるみたいな? あらら、パートが変わったよ、今度はなんですか、やっぱりこう来たか春樹節全開だなぁ、ずるいなぁいつもながら。
などと文句と肯定を繰り返していたら、ペラペラとページをめくる手は止まらず。全体の中盤まで差し掛かり、一体何が起こるんだよ、オチはどうなっているんだまったく想像付かねえよ春樹さんよ。すると時刻は握手会の整列の時間を五分過ぎていた。やべえ春樹とか言ってる場合じゃない。春樹を放り置いて、慌てふためく。谷村美月にもうすぐ会える、サラカに会える。と急激に呼吸が荒くなってふいに心臓が早打ちをした。
八十三番の整理券を握りしめ、一度店を出て握手会の列を探す。あった、五十人ぐらいのおっさんの列が春樹を読んでいる間に出来上がっていた。コミュニケーション能力に優れている僕は、目に付いた三十代風の、髭の剃り残しが青いおっさんに番号いくつですかと訊ねて番号順に並ぶと、胸がドッキンドッキンと高鳴り、昨日のコアラに絡まれた時と同じくらいになった。
恐怖かこれは。恐怖? 一体なんの恐怖だ。生の谷村美月は僕の頭の中の谷村美月と相違点がありすぎて別物だったらどうしようとか? はたまた、一目で谷村美月が僕に惚れて、恋はするものではなく落ちるもの、みたいな状況になる可能性への期待感とそれの対応がちゃんとできるかどうかの恐怖。 そもそも恐怖なの? サドがSでマゾがMとかよく、くだらない話みんな言うよね、僕に向かって躊躇なくMでしょ? と言ってくる奴がいて、そんなわけねえよMって、SとかMとか二つの枠に収まる器じゃねえよ、なめないでください。と悪態を心でつくも、よくわかりますね、Mです。とかなんとか口裏合わせて穏便になるようにしているけど、個人的にはLと言いたい。Lとはつまりラブなのであって、すべてを包むのが愛であり僕なのだ。愛は地球を救うなどと、ほざく者がいるが、安易に一緒にしないほしいものだ。僕の場合は愛で世界を救うのだ。地球と世界の違いをしっかりと吟味して考えていただきたい。要するに僕はSでもMでもなくLなので、谷村美月に恐怖する必要はないし、サラカに堂々と会って握手をすればいいのだ。
握手会は始まったらしく、列はどんどんと進んでいた。Lの説明を頭の中で必死にしているころには、握手会の列は、空調の利いていない外から二階建ての店内の木造の階段まできていて、予想でしかないが折り返し地点を突破したころあいだと思う。
握手前の僕は、列に合わせてじっくりと階段を一段ずつ上がっていくに対して、握手を終えたと思われるおっさんが、えびす顔で階段を下っていく。一人また一人とおっさんがえびす顔で下っていくと一段また一段と列は階段を上がり、ついには二階に辿りつき、黒い幕で覆われた握手会スペースへ到達、パスを首にぶら下げたスタッフがありがとうございますと作業的に言う。
もうすぐだ。もうすぐ、あの谷村美月に会える。ブラウン管の中でしか見たことのないサラカを僕の瞳がとらえる事ができる。ふぅふぅふぅ、息が浅くなってきた、息苦しい、そして早い、過呼吸ってやつか。へその下のツボを中心部にイメージして、おなかを丸く膨らませながら、深く息をすう。コォーホォーコォーホォー。腹式呼吸でどうにかいつものクールな僕にもどった。あとちょっと、出た、見えた、やばいよ、生だよ。ついにご対面、女優の谷村様だ。
「がんばってね」「ありがとうございますぅ」
僕の前の前の前のおっさんが握手をしながらエールを送っていた。がんばってねって、あなたこそが彼女レベルのがんばりに少しでも追いつくために、今の五倍はがんばりましょうよとりあえず。いい感じにがんばれたらさらに二倍がんばりましょう、つまり十倍ね。などと、他人に聞こえない罵詈雑言を放つ必要はなかったがついついしてしまう。谷村美月はおっさんの目をしっかりと見据えて笑顔を振りまいた。とてもよい、太陽の笑顔だ。だがサラカはそこまで過剰な笑顔はできないはず。でも谷村美月はサラカだし、しかしわかっている、映画の中のキャラだものね、別物、別物、本当に別物?
「整理券をお預かりします」スーツ姿のスタッフが首にパスをぶら下げて整理券を求めたので渡した。とたんに現実味と実感がわいてきた。握手ができるのか、あの子と。やばいな、かわいいな、触れれるなんて、嘘なんじゃないかな、夢にまで見た彼女に触れるのか、それとも夢なのか、現実なのか、直前で怪物に変わるのか、このタイミングで強盗が押し寄せてくるのか、爆弾が爆発するのか、本当は入れ替わった身代りの谷村美月でしかも男なのか、誰かの超能力で僕の自我を一時的に占領されたりとか、前のおっさんが谷村美月の恋人で痴話ゲンカが始まるとか、国家の陰謀で唐突に僕に逮捕状が出てお縄になったりとか、青酸カリで吐血とか、無自覚で僕は幽霊で実体がなかったりとか、百年後の未来に書店ごと飛ばされたりとか、差し出した手首が極細のワイヤーで切断されたりとか、「最近の若いもんは本当にうまいものを知らない」と上から目線で言ってしまったりとか、とか、とか、とか、とか、とか。
うげぇ、腹に圧倒的な異物感がする。腹がチクチクと痛い。徐々にドップリ痛くなってきた。この感じ覚えがあるぞ。つい最近だな、なんだっけな、そうか昨夜のコアラの蹴りのせいだ、あの畜生! いつか絶対捕まえてやるクソガキめ、金にモノを言わせてとっ捕まえてやる。僕は一億円持っているからな。しかし今はそれどころではない、前のオッサンが終わっちまった、やばい早い、うわぁ、近い、近い、谷村さん、近い。やばい。空気がキラキラしてる。比喩ではなく、本当にキラキラ輝いている彼女の周りが、それが見える眩しい。息が苦しい、過呼吸だ。腹式呼吸だ。でも腹が痛い。できない。過呼吸だ。苦しい。口だからか、そうだ、鼻だ、鼻でしよう。スブゥースブゥー、豪快な鼻息が出るけど勘弁して頂戴ね谷村さん、いやサラカかな、おやなんてことだ。二日連続で迫りくる革命的なデジャブ。ハハハ、やられた、ハハハ、鼻息があらいって、ハハ、この感じそういうことか、きてるね、仕組まれたような、気づいた。デジャブじゃない。どうなってやがる、そうなってやがるのか、そんなまさか、でもな、ロマンを求めるなら、やはり世界を創るというのか、だとしたら創られた世界なのか。それとも脳の仕組みがそうなっているのか、僕が暗示にかかったのか、やっぱり、あの話を受けた方がよいのか、大変だよ、純粋に面倒だよね、苦痛だよね、でもなぁ、やっぱりなぁ、それでもなぁ、よししよう。決めた受けよう。命を懸けよう。人生を差し出そう。
そうして握手をした。暖かくて、すべすべして、気持ちよくて超感動した。おそらくえびす顔になったと思われる。
※
「んなわけで、行こうぜカフェ」
会社のオフィスの中、大塚君と松島さんが帰ったのを確認してから、唐突に言い放った。何気に僕は打算的な男なのだ。
「行きませんよ!」
「まだ要件も何も言ってないでしょうが!」
「要件言ってない人の言い草じゃないから嫌です」
そう言って帰り支度をすませた千尋は、グッチのハンドバッグを右手で持って歩きだした。僕はまるで、初期のドラクエのようにぴったりとついていく。
「わかるぅ、千尋の言ってることぉスッゲーわかるぅ」
ご機嫌をとるために僕は渋谷野郎をイメージしたトークを炸裂させた。
「なに呼び捨てにしてるんですか、やめてください」
オフィスにかけられたチェックの布をくぐり、千尋は言った。
「忙しいんですほっといてください」
「大事な話があるんだよ」
僕と千尋はエレベーターに乗り込んだ。
「だからカフェでも行こうよ久々に」
「ちょっとぉ、近い」
「そりゃあ近いさ、こんな狭いエレベーターだもの」
千尋の顔は赤い。風邪でもひいているのか。落ち着きなくそわそわと身体を動かす。
「そんな嫌がることないじゃないか。ひどいなまったく」
「…………」
チーンと軽い音と共に扉が開き一階に着いた。
飛び出るように千尋は駆け足で進むので僕は意地になって追いかける。靴音がコッとよく響く、石造りの玄関を踏みしめて、逃げる千尋の腕をつかんだ。
「なんで逃げるんだよ! 話があるって言ってるだろ」
「触らないでください!」
「千尋ちゃんが逃げるからだろ」
「あんたが気持ち悪いからじゃないですか」
そう言うと僕の手を払って千尋はまた歩き出した。
住宅と墓地に囲まれた会社の帰り道を、丸い顔をした童顔の女は早足で進み、それに無言でついていく僕。
なんだこりゃ。端からみたら確実に頭の悪いクソ学生のクソカップルのクソ喧嘩の最中みたいなクソ構図じゃないか確実に。
羞恥心なのだろうか、胸の奥からマグマがのようにゴボゴボと熱いのがうずきだす。だからこそむしろクールにいくのだ。女なんて生き物は話を聞いてやれば納得する単純なモノなのだ。洋服を買う時だって、「こっちとこっちどっちがいいかな?」なんて言ってきて、こっちが似合うと断言してやるとどことなく不満になるとかならないとか本で読んだ。
「まあね、僕は気持ち悪いよね。色んな人に言われるし千尋ちゃんの言う通りだよ。昔から言ってたよね、目の付けどころが違うよさすがだなぁ先見の明があるよなあ」
「そういうところが本当に気持ち悪い」
僕の言葉のケツを食い気味で言い放った。
僕にはもう、高円寺千尋という女の考えがさっぱりわからない。相手に合わせたつもりでも全然違くて、ならばと思い反発をやってもそれも違うみたいだし、距離を置いても不機嫌になる、三択クイズで三通りの答えを選んでも正解じゃありませんと言われているみたいな、根本的な部分でだまされている気分だ。
「じゃあもう歩きながらでいいから話をきいておくれよ」
完全にふてくされた僕は口をへの字にして言った。
するとどういうわけかそのタイミングでこのセリフだ。
「いいですよ、カフェに行きましょうか」
開き直ったかのように僕を睨みつける。
わけがわからない。何を企んでいる。だが受け入れよう。逆にそれくらいの方がちょうどいいかもしれない。僕には考えの及ばないバリエーションの富んだアイディアを生み出してくれるかもしれない。
カフェは八階建てのビルの六階に入っていて、イメージは木漏れ日の溢れるヨーロッパのアンティークで飾られたコーヒーの香りが漂う一メートルほどある柱時計が渋い茶色の棚が見事な壁の色はクリーム色でなかなかの高級店。ブレンドコーヒーが八百円で、キリマンジャロは千二百円だ。抽象的なイメージだと柔らかみのある雰囲気に包まれている空間だ。店員に案内され窓際に座る。
僕は光沢のある黒いテーブルに両肘をついて前かがみで千尋に問いかける。
「腹の出たリッチマンと、探究心の塊のじいさんではどっちが幸せだと思う?」
「なんですかいきなり、知りませんよそんなの。状況とタイミング次第じゃないですか」
「難しく考えないで直感で答えてよ」
例のしかめっ面を僕に向けてから探るように言う。
「まあ、私は、おじいさんの方がいいです」
「にへへへ」思わず笑ってしまった。
「きも、何笑ってるんですか」
「いや、別に、へへへ、ちょっとね、にへへへ」
千尋は身体ごとのけ反り傾け、少しでも僕から距離を広げようとする。
「まあまあ、気にしないでよ、キモいとか言わないでよ」
「キモいです」
言うなって言ってんのに嬉しそうにしやがって。でもかわいいじゃないか千尋め。
「大事な話ってなんですか?」
「いやあ、それがさ、僕もなんて言っていいかわかんないんだよね。どう言えばいいかな?」
「知りませんよ! 私に聞かないでください」
「言葉って難しいよね、とりあえずさっきの続きというか詳細? イメージのズレがないように言っておくけど、腹の出たリッチマンってのは、金がそりゃあもうたくさんあって、大体の事が思い通りにできる地位と経済力で、だからおいしい食い物を我慢することなく食べて、腹が出て、もちろんお約束の総金歯。ビジネスでも刃向かう者は徹底的に排除して、アンダーグラウンドから実力で出てきた態度の悪い生意気なガキを干して、態度を改めなかったら潰して、自分の思い通りやりたい放題好き放題。美人な本妻と地方ごとに存在する大勢の愛人。葉巻が似合ってガッハッハと笑う人物ね。ついでにハゲ。そして探究心の塊のじいさんは、図書館の管理人で、その図書館は国で保護されているようなでっかくて伝統と格式があって、一生かけても読み切れないほど本のある立派なやつね。管理人をしながら、若いころから毎日毎日毎日毎日本を読み続け、いつのまにか気づかないうちにじいさんの年齢になっていたけど、まだまだ全然読み足らなくて、知りたいことを知っても、その知識のせいでさらに知りたいことが増えて、まだまだ本を読んで、知識が増える事に喜びを感じて取りつかれた状態ね」
「そこまで説明しなくてもわかってますよ。あんたの考えそうな事ですから」
「にへへ、千尋ちゃんめ、にへへ、にへへ、嬉しいな、にへへへ」
「ついでに言うとあんたはただ賛同してもらえればいいだけの人です。自覚しているかわかりませんが、あからさまに後者を選べってアピールしていたじゃないですか。わかりきっている事をいっつも遠まわしに言わせようとして、乙女みたいな性格してますね。面倒くさいです。昔からそうなんですか? 人に認めてもらいたいくせに、なんで素直にならないんですか? それともなれないんですか?」
千尋の言葉に僕は冷水でもぶっかけられたような気分になった。
「は? 何言ってんの」
「本当の事を言ったまでです。普段のあんたの態度に引っかかっていてこの機会にと思って」
いつもより早口な千尋の唇の動きをボケーっと眺めながら聞いていた。言葉の意味を理解するように頭の中で何回も再生させ、七秒ほど沈黙してから応えた。
「別に賛同してもらいたいわけじゃないさ」
「いいえ、そうです」
「ドキドキしたいんだよ。ただ賛同してもらいたいだけじゃないよ」
「ドキドキって漠然とした言い方ですね」
「ドキドキはドキドキなんだからしょうがないだろがお前だってドキドキくらいするだろ」
「つまり賛同されることがあんたのいうドキドキになるんじゃないですか。それとお前って呼ばないでください」
そのタイミングでアイスコーヒーと千尋のロイヤルミルクティーを持って店員が来た。
会話を聞かれるのがなんとなく恥ずかしいので、僕と千尋は口をふさぐ。羽のように軽やかにテーブルにオーダーを置いて店員は去り、僕はアイスコーヒーにガムシロップを入れながら訊ねる。
「千尋が書いたお話で、僕っぽい奴が出ていたけど、やっぱりモデルは――」
「呼び捨てにしないでください! ……まあ、モデルは、真下さんですよ」
「だよね、うん、あからさまだったよな。あれはなかなかドキドキしたものだよ」
「ドキドキしましたか」
「めちゃくちゃドキドキしたよ。ほら、これって、ほら、賛同されてドキドキしてるわけじゃないだろ?」
「よく考えてください。あんたはモデルにされたということから自分の存在を肯定されたと感じたはずです。肯定されたということは自分の意見に賛同されたと解釈してもおかしくありません。人間とはそういうものです」
「おかしくありませんじゃねえよ! おかしいよ、お前の言っている事が! ねじり曲がっているだろうよ話が!」
「お前って呼ばないでください」
ヒートアップしている僕とは反対に、冷静な千尋はロイヤルミルクティを一口飲んだ。つられて僕もアイスコーヒーを飲んで、落ち着いてから自分に言い聞かす。
気を抜くといつのまにやら言葉の攻守が入れ替わってしまうからね、しっかりと計画を立てて話さないといけないよ。消費者金融みたく、しっかりと計画を立てて利用しないといけない、くらいの気持ちでいかないといけない。
アイスコーヒーの入っているグラスをコトリと置いた。よし、行くぞ。
「いいかい? ドキドキとは賛同された時になるものではなく、僕が面白いと思った時になるものなんだし、面白いにも沢山のバリエーションがあって一概には言えない。千尋ちゃんの作品に僕が出た時ドキドキしたのは色んな要素が絡み合っているのさ。例えばね、僕をこういう風に見ていたんだなとか、バカにしやがって絶対に後で仕返ししてやるざまぁみろとか、周りの人達は千尋の作品でどう反応するのかとかさ」
千尋は例のしかめっ面をした。僕は続ける。
「僕はドキドキがしたいんだ。意図的ではなく無自覚での、純度の高いドキドキを求めているんだ。そのために自分からドキドキできるであろう環境に飛び込ん行くんだよ。だから今こうして君と向かいあっているんだよ」
不満そうな顔で千尋は言う。
「一体何が言いたいんですか」
どうやらしゃべっていいターンをくれるらしい。考えはまとまってないが、勢いでいってしまえ。
「僕は昨日一昨日とすごくドキドキする事が起きたんだ。千尋ちゃんの作品での僕と君はあらかたノンフィクションで、出会い方を始めとし、様々なエピソードが現実起こった事だったね。もちろんそうだね。でもね、コンビニの前で十代のヤンキーに絡まれて金を取られるエピソードとアイドルの握手会に言って鼻息を荒くするエピソードに限っては千尋ちゃんの創作だったじゃないか。間違いないよな? にもかかわらずだ。一昨日の夜、コンビニの前で十代のガキに顔を小突かれ、腹を蹴られ金を渡した。そしてその晩、谷村美月の握手会が開催される事を知り、自分を慰めるためにも行くことを決意して次の日に行ったさ。そして握手をする直前に過呼吸で鼻息が荒くなった。そして気がついたのさ。笑っちゃうよね、君の書いた事が実際に起こってやんの。どういうことなんだろね? 見たことあるよこの映像ってな感じで、最初はデジャブかと思ったんだけどさ、よくよく思い出したら千尋ちゃんの作品の内容だったってわけさ。ドキドキするだろう? 君は僕のなんなんだい? 預言者か、占い師か、シャーマンか、ネクロマンサーか、未来人か、アカサギか、ドッキリ仕掛け人か、いずれにしても面白いよ。ドキドキした」
「え? 長くてよく理解できませんでした」
僕は千尋を睨みつけた。
「なんですか? そんな目で見ないでください」
うすら笑いを浮かべての物言いだ。ニタニタと擬音が聞こえてもおかしくない。
「大体あんたは妄想が激しすぎるんですよ」
千尋の挑発を無視して僕は続けた。
「いいから聞け。これはまだ仮説だが、事によると人間の脳と異世界はリンクしているんじゃなかろうかと思うわけだよ。良い作品のキャラは生きてるというだろ? 作品を批評する時キャラが生きてるってよく使うよな? 作家のインタビューでキャラが勝手に動き出したとか言ってる現象にはつまり、そこまで愛を込めた想像や妄想には命が宿り自我が目覚めると言う事さ。僕は何も小説だけに限って言ってるわけじゃないよ。もちろんマンガだってそうだし当然ゲームも。さらには将棋やチェスだって戦いを表していて、異世界では盤上の戦いに沿った壮絶な合戦が行われていたりするのではなかろうかと。つまりは、思う力や想像力や精神の力はすごいのさ。願う力はすげぇのさ」
「だからそれを私に言って何がしたいんですか。こんな事を気づいた俺を褒めてよって言いたいんですか? 忠告しておきますけど、自分勝手な持論を相手が理解してくれる前提で話すのはやめた方がいいですよ」
「べつにそういう事が言いたいんじゃなくてさ」
口下手な自分を憎んだ。千尋に言いたい事はコレだっていう確固たるものがあるのに、それを伝えるための言葉の流れが不自然すぎてどう言えばいいのやら、困ったものだ。まったく、これだから僕は駄目なんだよな、太陽が羨ましいなあ。存在するだけでありがたいなんて太陽はすごい。
なんとなく煙草を吸う仕草をしてみた。煙がプフーってイメージだ。話題を変えよう。
「千尋が多重人格者ってのはウソなんだよね? 作品で書いてあったとおり観察日記をおもしろくするための演出なんだよね?」
「ええ、その通りです。あの話はほぼ実話ですからね。あんたが私の事を二重人格者だと勝手に早とちりをしたので話に乗っかったまでです」
「恥ずかしがり屋の響子や、甘えん坊な杏奈、泣き虫のマキ、お母さん気質のサザエ、無知で大胆なアンシー、下ネタバリバリの雅治、残酷無比の雅美などなどが、全部千尋ちゃんが考えた設定なんだね」
「……まあ、そうですけど」
「設定を作るだけでも結構な手間だと思うけど、わざわざ僕のために考えてくれたんだね」
「ただ真下さんの観察日記をおもしろくしたかっただけですよ。自分のためです」
「でもさ、それによってドキドキしたんでしょ?」
首を斜めに傾けて納得いかないように千尋は言う。
「そりゃあね。でもドキドキって言い方が当てはまるかっていったらべつに――」
「楽しかったんだね」
僕関連の事でドキドキしたのが分かればなんの問題もない。千尋のセリフをさえぎって僕のペースにする。
「……はい、楽しかったです」
「そうだよ、その気持ちだよ、楽しくてドキドキするのが一番大切なのだよ。僕は何もアイデンティティがどうとか、それが義務だとか、世の中に知らしめるとかなどと、調子に乗った事はこれっぽっちも考えていないのさ。ただ自分がドキドキしたいだけ。本は読むだけでも楽しいけど、書けたらもっと楽しいんじゃないかって。そして僕が書いたモノが僕の手を離れて、想像もできないような場所や時代の人々に読んでもらって、何かしらの影響を与えられる事ができたら、これほどドキドキすることはないよ、想像するだけでドキドキの金メダルだ。百年後は今生きてる人達は全員死ぬけど、僕の書いたモノは生きているかもしれない。そして読んだ人の脳に同居するかもしれない。素晴らしいよ、まず僕の脳で話が作り出された時点で、異世界ではキャラクターが実際に生命の息吹きをあげる。それだけでもすごいのにさらに時代を超えた未来の作家が僕の作品を読んで影響を与えたとしたら、その作家の生み出した異世界で、僕のキャラクターは生きるってことになるから一石二鳥だね。やばいね、ある意味、永遠の命って事にもなりうるんじゃないかな。どうかな千尋ちゃん」
「え? 長くてよく理解できませんでした」
僕は千尋を睨みつけた。
「ああ! もう! 面倒だ! 簡単に言ってしまうとだ、僕は『有限会社芥川』を設立するつもりなんだ! 当然名前の通り『有限会社直木』と同じようなシステムとスタイルで、芥川賞を狙う会社だよ。でも一人じゃやれる自信がないし、寂しいじゃないか! なので僕をとびっきりドキドキさせてくれた千尋に副社長になってもらおうと思ったんだよ!」
千尋はびっくりした顔をした。
「なんで私が副社長なんですか!」
「だからドキドキさせてくれたからと言ってるだろ。どんないきさつがあったかは知らないが、千尋の作品が僕の生き方にリンクした。いや実際にリンクしていないにしても、リンクさせたと僕に思い込ませた事実がある。十分すぎる理由だ。『直木』でも働いているから勝手もわかるだろうしきみ以上の人材はいない」
千尋は頭をぽりぽりとかいて溜息をする。
「設立ってあんた、お金はどうするんですか」
「めちゃめちゃ持ってる」
「一緒にやっていく人は他にいるんですか?」
「いないよ。でも探すところからだなんてドキドキするだろ? まるでRPGの冒険をするようだ」
「私、夜間の大学行ってますし……」
「『直木』をやめなよ。この計画は社長の公認だし、あっちは新入社員が二人入るらしいから心配ないよ、給料だって副社長手当として『直木』の倍は出すよ」
「公認って、真下さんは『直木』をやめるんですか?」
「僕はやめないよ。『直木』の社員をやりつつ、こっそりと『芥川』の社長をやるのさ。『裏切りのマシモ』ってな感じだよ。どうだい、『裏切りのユダ』みたいでかっこいいだろ」
「かっこいいとかそういう話は別にいらないです」
「『直木』と『芥川』で今後何年もお互いを刺激しあって切磋琢磨していくのさ。んで『直木』にとってのライバル『芥川』の黒幕は、『直木』においてこの人ありと称される僕だ。ロマンあふれる寸法さ。スパイ映画のようだね、さあ、あとは千尋ちゃんが首を縦に振れば話は進む」
手振り身振りで必死に説明した僕のドキドキする話に、ためらいなく頷くかと思ったのだが、なかなかどうして、戸惑いを見せる。
「……さっきも言いましたよね、自分勝手な持論を相手が理解してくれる前提で話すのはやめた方がいいですよって」
まるで僕を諭すかのようだ。ここまできてそのすかしかたはないだろこのアマ。
すると羽のように軽やかなステップの店員がピカピカの銀のトレイを持って僕たちの前にヌッと現れた。カウンターからこっちに向かって来るところは視野の片隅で見たのだが、どういうわけかまるで、瞬間移動でもしたかのような唐突な現れ方に感じ、雰囲気もどことなく妙で、殺気だったような敵対心と、黒くて重い威圧感が充満している。
「失礼します」
水晶のようなデザインのグラスが二つ、コトリと置かれる。
なんだ、お冷か、意外に普通のことだったので違和感は気のせいか。
「ありがとうございます」
礼儀正しい僕は店員に反射的にお礼を言ってさわやかな会釈をぶつける。するとだ、何を血迷ったか店員の野郎がトレイを真上に放り投げやがった。円形の銀色が空気抵抗でヒラヒラ舞い上がって、一瞬止まり、すぐさまヒラヒラと舞い落ちる。その様子を目で追いながら、空気抵抗ってやつは不思議だよなと思った。グッチのハンドバッグをくず入れに向けて放り投げた時、予測不能な動きになったのは空気抵抗のせいなのだ。どんな仕組みだ。どうなってやがる、一体何が空気の抵抗なのだ。なんで空気に抵抗をするんだ。そもそも誰が抵抗をするのだ。抵抗、そういや、千尋は結局、僕がプレゼントしたグッチのハンドバッグを使ってくれている。嬉しいな、なんでこの女は抵抗をするんだ。いっつもいっつも、僕に抵抗をして予測不能の動きをして、なんのつもりだ。でも嬉しいな、僕のプレゼントを結局使ってくれているじゃないか。さっきもしっかりと大事そうに右手で持っていたのを見たよ。すると内臓の中にペルシャの子猫ちゃんでも住み着いたかのような暖かい気分になる。
床を打ち付ける金属の音は耳をつんざく。あまりの音響にペルシャの子猫がフギャーと鳴いた。なので僕はいらっとした。子猫のつぶらな瞳がカッと見開いた理由は恐怖と驚きと怒りだ。それでいらっとしたのだ。
羽のステップの店員は故意にトレイを投げた。『悪気があってやったわけじゃない』といった、いいわけの常套句でもあればイメージは違うのだがそれすらもないし、さすがの僕でも許せない。
羽のオッサンを、怒りのこもった上目づかいで睨んだ。そこには接客業をなりあいとしている者とは思えない血走った眼の男が立っていた。瞼は信じられないほど開き、ほぼ円となり、瞳孔も開ききり、まるで三重丸のような人間離れした眼で、ハリウッド映画に出てくるどんでん返しの悪役のような変わりようだ。
「そうやってさぁ、会社を設立だとかさぁ、お金をめちゃめちゃ持っているだとかさぁ、お前がほしいだとかさぁ、給料を倍出すとかさぁ、ロマン溢れるだとかさぁ、ちゃんちゃらおかしくて聞いてるだけで殺したくなるよね、お前らみたいなジャリを相手しているとさぁ」
彼の右手には黒光りするピストルが握られていて、銃口は僕の頭に向けられていた。トレイに目を奪わせておいて、その隙にロックオンするというテクニックを使ったと予想する。
千尋はあるはずのないものがそこにあるといった顔をして、エッと声を上げて銃を二度見した。
「おい! 動いたら殺すぞジャリども」
血走った眼はそのままで、不敵な笑みを浮かべた羽のオッサンは、語り出す。
「おじさんもさぁ、こんなつもりじゃなかったんだよねぇ、脱サラしてカフェ経営をしたんだよぉ、念願のさぁ夢だったんだよぉ、自分の店だよぉ、うまいコーヒーだしてさぁ、うまいんだから必然的に値段だってするよぉ、良い豆を使っているからねぇ、いい仕事さえしてればねぇ、客は来ると信じていたのにねぇ」
眠かったので僕はあくびが出た。
「おい、テメェふざけんじゃねえぞぉ! 俺のエリザベータちゃんは玩具じゃねえんだよぉ! もっと真剣にビビれよぉ!」
そういうと店員はエリザベータという名のピストルを撃った。野球のグローブにボールが収まる音を三倍速にしたような音と同時に、僕の前髪がなびいた。おそらく弾丸が僕の目の前を横切って風が吹いたのであろう。
「本物っ!」
息を飲む千尋の驚愕の声が聞こえる。
「おいジャリぃ、お前が動くから俺の店の壁に穴があいちまったじゃねえかぁ! 管理人になんて言えばいいんだよぉああ! 金がねえんだよぉこっちはさぁ、返済期日だって迫ってんだよぉ、家賃だって滞納しているしよぉ、畜生ぉ、くそカスどもめぇ、八百円ぐらいだせよぉ、うまいコーヒーなんだからよぉ、キリマンジャロだっておいしいし俺の接客だって華麗だろぉ、ガキにはわかんねぇんだろなぁ、缶コーヒーで満足してっから俺の店が儲からねえんだよぉ、どいつもこいつもふざけやがってぇ、次は脅しじゃねえからなぁ、動いたらそこの可愛いお嬢さんと一生のお別れになるからよぉ、で、お前いくら持ってんの?」
僕は屈んでからテーブルの脚を両手でしっかりと掴み、ふくらはぎと腿と腰と背中の筋肉をフル動員させて持ち上げて、身体ごと一緒にテーブルを羽の店員に叩きつけた。石でできているのか予想以上の重量に戸惑ったけど、効果は絶大だったのでよしとする。
まともに僕の体重とテーブルの硬い衝撃をくらった羽の店員は、倒れ込み悶絶し、鳥獣のような声を上げ、テレビゲームのゾンビのようにのたうちまわっている。僕としては、身体のどこの部分に当たったらそこまで痛がるのかが単純に気になったが、まあいい、とりあえずは、この哀れな店員さんを身動きできないようにしてあげないといけない。
奥のカウンターにスタンドライトがあったので、電源ケーブルを縄代わりにして店員を縛る。
「これでよしと」
僕の手際のいい動きをみて千尋は声を荒げる。
「ちょっとあんたなんなんですか!」
「一体何がなんなんだい?」
「本物の拳銃ですよ? なんで動くんですか! 危ないじゃないですか! 殺されるかもしれないんですよ!」
「何をバカな。殺されるわけないじゃないか。それよりも空気抵抗というのは一体なんなんだ。不思議だ。空気は何に対して抵抗しているんだ?」
「もおー! バカは休み休み言ってくださいよ!」
「休み休みって、普段から僕はバカな事なんて言ってないじゃないか。適当だなあ千尋ちゃんは」
キッと擬音が聞こえるほどの眼力で僕を睨みつける千尋。
「テーブルに当たったから助かったものの、銃で撃たれたんですよ! 何でそんなに落ち着いていられるんですか!」
なんたることだ、自分では気付かなかったが撃たれていたのか。となると、テーブルが石製じゃなかったらやばかったな。
「至近距離だしあんたに当たってもおかしくなかったんですよ! 何考えているんですかもお!」
取り乱しちゃって可愛いじゃないか千尋め。丸い顔して僕を心配してくれて、嬉しいなあ。しかし気付かないものかな、あれほど説明したのに。
とりあえず僕は警察に電話を入れた。健全な一市民としては当然の事だ。
国家権力の犬が到着する間に、千尋とお話しでもしようかな、さっきの続きもあるし。
カウンターに入って冷蔵庫の中にある作り置きのアイスコーヒーを頂いたりもして、再びテーブルに座った。
「まあ落ち着きなよ千尋ちゃん。確かにピストルは危険なものだし、ここは日本で銃刀法違反になる。でもね、あんな急展開で出てきたキャラに僕らがケガを負わされるわけないでしょ、無理があるよ」
「は?」
まったくまだ気付かないのか、このティーンエイジャーは。意外と鈍いのかもしれないな。
「だからね、さっき言った僕の論なのだけどね、脳と異世界はリンクしていて、僕が強く願えばどこかの世界では人間が生まれて、僕の考えた物語で人生が進むわけさ。そこまではいいよな。となるとだ、もちろん僕らだって何者かの脳によって作られたキャラということになるよ。当然さ、自分だけそのルールから外れているなんてムシのいい話があるわけないよ」
「はぁ」
千尋はなんとも腑に落ちないといった顔で相槌を打った。
「僕を創った人だって誰かに創られていて、さらにその人だって誰かに創られていて、またさらにその人だって誰かに創られていてと、無限ループになっているんだよこの世界はきっとね」
「はぁ……」
千尋は何言ってんだこいつといった空気で相槌を打ったが、おかまいなしに僕は続ける。
「今まで生きてきて察したよ、僕や僕の物語を創った人はなかなかセンスがあると思うんだよ、僕と馬が合ってる。だからこそ僕には分かるんだ。あんな唐突に出てきた暴漢に、僕と千尋ちゃんとの大事な話し合いを破壊できるほどの魅力はないし大した役割も与えられないよ、伏線もなかったしね。だから僕は冷静に対処しただけさ、ピストルが本物だろうが偽物だろうが弾は僕等に当たらないようにできているから問題はないのさ」
「はぁ……」
千尋は相づちすら面倒と言わんばかりに返事をする。僕はかまわず続ける。
「だってほら、僕と千尋ちゃんで会社を立ち上げようという大事な会合だよ? 一つの作品としては終盤になると予想される大事な場面だ。メガネ天使や谷村美月が登場するならまだしも、あんな幸の薄そうな男じゃお話にならないよ。あ、いや、彼を全否定しているわけではないよ? ただ、僕達と彼の接点はないってだけで、違う角度から見たらおそらく彼は立派な主人公さ、ピストルだって持っているしね。おそらくまだ彼のドラマは序盤だよ。あえて起承転結で言うと起の段階だよね、まあ物語を起承転結で例えられるのかってのもあるけど、それはまた別の話だ」
「……うざい」
「おそらくだ、あっ、ごめんね、おそらくって何回も言っちゃって、でもまあおそらく、ピストルを手に入れた、いきさつを軸に物語は展開されていくだろうね、新宿で合言葉を言って怖い人から買うのかな? まあなんだっていいけど、僕は興味ないから。んで、テーマは勇気かな、彼の物語のテーマのことだよ、いや、変身、いや自分革命。まっ、いずれにしても僕等には関係ない話さ。彼にとっては僕達は脇役だし、僕等にとっては彼は脇役なのさ」
「…………」
「それにしてもピストルが出てくるなんてバイオレンスの香りがする物語だね。誰かが死んだり復讐したり裏切ったりとかあるんだろうね、僕はあまりそういうのには関わりたくないな、もうここ付近に近付くのはナシにしよう、僕は平和に生きたいんだよね、青春テイストの人間ドラマに興味があって、サスペンスとかはあまり好きじゃないので」
「……あたしが呆れているのに気付かないかな」
「まあ、僕の物語を創っているであろう人間の趣向はバイオレンスを好まないようだから安心ではあるけど油断はできない。僕だって小説を書いた時に感じたけど、物語の盛り上がりを考えると、どうしたって生死を入れたくなるもの。でもな、なんかずるくない? 安易だよね、僕はそういう話は創りたくないな。それにキャラからしたら大変だよ。こっちの身になってみろっての人殺し! と言いたくなるだろうね。『おお神よ! あなたはなぜ私に試練を与えるのですか』みたいな? そういった悲劇を防ぐにはどうすればいいか思いついたんだ」
「……本当にこの人は、人の話を全く聞かないなあ」
「作者だって自分の考えたキャラに動かされたりするものなんだ。愛着があればあるほど、キャラクターが幸せになるのを望むのが作者だ。なので、僕の創造主に該当するであろう異世界の人間に嫌われないように日々生活をし、行動をすればばいいんだよ、悪い事をしない、思わない。なんて、タハハ、無神論者の僕が笑っちゃうな。神を信仰する宗教みたいだね、『神様がいつだって見てるから悪い事は出来ない』ってハハ、引用したみたいになっちゃった」
「……はぁー、呆れてモノも言えません。けどもういいです、負けました。とりあえず半年、あなたの下で副社長してもいいですよ」
「防ぎようのない事故や病気や自然災害といった理不尽なモノに襲われる物語ってどうなの? それが話の分岐点になるんだしさ、無責任だと思うよ、僕はね、あくまで僕の考えだけど。まあ、結論としては、世界平和にするには、個人個人が創造主様に嫌われないようにすることだね。そうすれば世界から悲しい事がなくなるのさ。よって悲しい物語も減って、異世界での悲しい事件も減る。まあ、悲しみがなくなった世界が面白いかどうかは別としてね」
「……聞いてないし、はぁ、……顔に騙されたなぁ、こんな人だとは思わなかった」
「まあ、良くも悪くも、世界ってのは絶妙なバランスでできているってことだよワトソン君。さてと、まだかな、国家権力の犬は」
千尋を頬杖をついて、僕から視線をはずして力なく突っ込みを入れる。
「……だれがワトソン君だよ」
ベラベラと言いたい事を一方的に喋る僕は端からみたら人の話を聞かない見た目は大人頭脳は子供のような、未熟な人間に思えることでしょう。ところがどっこい、ハッキリと千尋の言葉に耳を向けているんだよ。
ツンデレって言葉があるでしょう? それのツンってのは、素直になれないっていうか素直を見せるのが怖いから反動で反対の言葉を言っちゃうみたいな要因が多いと分析する、それがすべてではないけどね。僕のベラベラのベラは一方通行の僕についてこれないだろ、ついてきてみろよ、ほら、追いついてこいよ、追いついて僕を抱きしめてくれよ、受け入れてくれよ。ついてこなかったら、お前もその程度か失せろ。といった意味が含まれているので、まあ病気みたいなものだけど可愛いでしょ?
とりあえず、そんな僕でも千尋の半年をいただく事に成功した。最高の気分だ。千尋のこぼしたセリフを拾って分析すると、どうやら僕の外面が好みだったから今まで相手をしてくれたみたいだが、しかしながら、僕の持論に根負けしたようで、半年は付き合ってくれる。へへへ、副社長を手にいれた、やばい、うれしくて死にそう、今なら空中浮遊とかできそう。
「お前さ、僕のことを尊敬しているでしょ?」
「してねーよ!」
チーンと平坦で二次元な音はエレベーターの音で警察の登場だ。お願いします、国家権力の犬さん、僕達はあなた達とは別の物語を生きているので、てっとりばやく事情聴取を終わらせて解放してね。
五
警察沙汰のカフェの日から三ヶ月が経った。スパイ映画のような壮大なプロジェクトを、命を懸けて実行しようと誓った『裏切りのマシモ』である僕は、どうにも納得のいかない進行状況で、メンドクサイという化物に侵されつつある。
順から説明すると、警察沙汰はすごく面倒で、今ではすっかり特定の刑事にチェックされて、「おやおや真下さん、ご機嫌いかがですか」などと、胡散臭い挨拶で刑事コロンボを意識したかのような警官に逐一マークされるようになってしまった。僕の人生の物語には警察は不必要のはずなのにおかしなことだ。リンク先の人物が佐々木譲の道警シリーズでも読んでインスパイアでもされているのか、はたまた、僕の持論は最初から崩壊していて、暴力を行ったから暴力に近しい者が寄ってくるといった単純な理由なのか、二つに一つだ。
『有限会社芥川』改め『合同会社芥川』も会社登記を無事終え、動き出したのだがあまりよろしくない。社長が僕で、千尋が副社長という形態はどうにか成り立ったものの、その他はてんでだめで、オフィスは半地下なせいか、ゴーストがいてもおかしくない生温かい湿気で包まれているし、なんか常に下水臭い。不動産屋に一杯担がれたってやつだ。ところがそれよりもなによりも、社員のスカウトが全くうまくいってない事の方が腹立たしい。
「あー、畜生、うまくいかねえなぁ」
恥ずかしげもなく堂々と独り言をこぼしながら、埋もれるように椅子に深くこしかけ、なんとなく横の壁を見た。八十万円した絵画が小さな島と木と青空を発している。渋谷のギャラリーで美女に押し売りされた南国きどりだ。窓のない半地下のオフィスには不似合いだと自分でも思う。
スカウトの判断基準としては、僕をドキドキさせてくれた人物ということで、探していき、まず最初に本屋のバイト先にいるメガネ天使を『芥川』の社員候補にした。彼女に対して僕はハッキリとした恋心を抱いていて、声をかけたいけどできないってのが、一年以上続いていたのだが、この機会を利用して、なんらやましいことはない仕事の話だと自分に言い聞かせて頑張ってみたら、どうにか声をかける事に成功した。しかしそれほど仲良くなってない段階で社員にならないか? というのは不自然だし、心の距離感がいかれている人になっちゃうので、食事に誘ったりして、無難なナンパ野郎を決め込み、メガネ天使も猫が好きという話の流れからネコカフェにいってニャンちゃんと戯れ、回転寿司に行ったり、オシャレなパスタ屋に行ったり、あなたともっといたいですと、駅のホームで吐露したり、映画見たり、もう芥川とかどうでもいいから恋人になってくれ、と言いたいけどそんな事言えないよ、だって好きなんだもの、否定されたら生きていけないもの、神様この恋を成就させて、お願いだよ。だなんて無神論者がおかしいよね、うふふ、うふふ、うふふふふ。
「この度は結婚する事になりました」と、唐突の電話がメガネ天使から発射された。想像でしかないが、核ミサイルを落とされたような気分になった。その後、放心状態になって、外に出て行き、街中でじわじわ泣いて、しだいにわんわん泣いた。恥ずかしかったが止まらなかった。マリッジブルーだかなんだか知らないが、惑わすような事はやめていただきたい。胸にあいた風穴を何で埋めればいいのだろうか。なんかすべてがどうでもよくなった僕は、それでようやく本屋のバイトを辞めた。っていうかバックレた。
よって社員候補一人目は失敗。
メガネ天使と同時進行で、僕の顔をパンチし、腹にキックをしたで印象に残っているコアラ高校生をスカウトしようと行動に出ていた。あれほど凶暴なガキだ。緑色のブレザーも特徴的で学校もすぐに特定できたし、こりゃあいけるぜ、すぐ見つかるぜ、千尋ちゃん、俺に任せとけ! と息巻いた三日後、彼は家族ごと北海道に引っ越したとの事が発覚した。まさかの展開だがこの不景気だ、左遷とかなんか複雑な人間事情があるのだろうお父さんに。さすがに北海道までの距離を追いかけてスカウトするガッツもメリットもないし、どうでもよくなった。それに彼はヤンキーなので、北の不良学校を統一して、どんどん南下していって、しまいには日本統一を実現する伝説の不良物語かなんかが、用意されているのだろう。僕とは縁のない世界だ、彼と僕の物語が交差する必要はないね、意味も理由もない。最初から縁がなかったんだ。
社員候補の二人目も失敗。
これまた同時進行で、女優である谷村美月をスカウトしようと企むべく、ファンレターを毎週十通というノルマで僕と千尋で書いた。金を一億円持っている『合同会社芥川』といっても、芸能界とはなんのコネもツテもない。地味な作業をするしかないのだ。最初の頃は『応援してます』『身体に気をつけてください』『映画楽しみにしています』といった、いかにもファンですテイストの内容だったのだが、同じ内容ばっかり書くのもつまらないし、飽きたので、『昨日何食べました? 僕は餃子』『君がいつもニコニコしているのは、薄汚い芸能界を渡り歩く手段?』『愛と恋の違いに気付いた』といった内容の物にタイトルを書いて四百字詰め原稿用紙三十枚分相当で表現したりと、強制的で一方的な行為をしてみた。今考えてみるとひどい話だ。挙句の果てにはやるだけのことはしているよ、後は向こうの反応待ちだぜ。なんて愚かに考えていた矢先、ファンレターが未開封でオフィスのポストに返ってくるようになった。受け取り拒否をされてしまったようだ。テンションがガタ落ち。だがまあしかし、そもそも女優と『芥川』のかけもちなんて不可能だし、そんな半端な気持ちで僕等の『芥川』をやってもらいたくないさ。最初から無理だって知っていたしね、いいわけを作って自分を慰めて諦めた。
ようするに三人目も失敗。
「会社になって二ヶ月半にもなるのに、なんの成果もない!」
さっきと同様に恥ずかしげもなく堂々と独り言をこぼしながら、埋もれるように椅子に深くこしかける。壁にかけてある八十万もしたとは到底思えない絵画に、八十万も出したという事実が絡みついて、バカにされているかのような気分になる。
「このままじゃ一億円なんてあっという間になくなっちゃうよ、どうなってやがる」
「おはよーございます」
嘆いていたら副社長である千尋が出社した。独り言タイムはおしまいだ。彼女が僕の話し相手になってくれるからだ。
「ねえ、一体どうなっているのかな?」
「…………」
「なあ、一体どうしてこうなっちゃってるんだろうね?」
「…………」
千尋はグッチのハンドバッグを自分のデスクに置いてパソコンを起動させてあくびを噛み殺した。僕のセリフに対しては無視だった。
月給を四十万渡しているせいか、どんどんとファッションがゴージャスになっていき、表参道を堂々とモデル歩きしても恥ずかしくオシャレぶりだ。とはいっても、身長が百五十五センチだし、幼児体型をイメージさせるスタイルと丸い顔で、どうにも似合ってないと思う、個人的にはね。
「無視するな!」僕は怒った。なぜなら社長だからだ。すると雇われている身分がむすっとした顔を僕に向ける。
「だって、いっつも同じような事言っていて面倒なんですよ」
「いっつも同じような事言ってんのは千尋じゃないか。彼氏と神奈川の動物園に行ったとか、お台場で遊覧船に乗ったとかさ」
「だって本当のことですもん」
そういうと楽しかった瞬間を思い出したかクフフと笑いやがった。僕は泣きそうになった。さびしさやむなしさや嫉妬といった色んな要素が混じり合って感情が高ぶったからだ。しかし泣いたら負けだ。大切な何かを失ってしまう気がする。気に入らない。
おもわず溜息をこぼして、千尋に問いかける。
「なんでこの『芥川』は『直木』のようにうまくいかないのかな? 金は使っているのにここ数カ月で成果もないしさ、オフィスは臭いし、湿気は半端ないし、スカウトに誰も応じてくれないし、何故か小説を書く気が一ミリも起きないし」
千尋は僕に背中を向けてあきれ返った声で言い放つ。
「自業自得じゃないですか。少しは計画的にやりましょうよ」
あまり肯定的ではないセリフだがやはり反応が返ってくるのは嬉しい。ベラベラと思想を言葉にするとしよう。
「でもねぇ、ここまでくると計画がどうとかいってるレベルじゃないと思うんだよね。僕の持論だとさ、この世界は誰かの脳とリンクして構成されているわけでしょ? 物語の展開的に、主人公の成長がカタルシスを呼ぶわけだしさ、となると、今は序盤でこれから成長前だってわけさ、つまりいくらこっちが頑張って下準備したところで現状ではどうあったて強制的にしばらくは底辺が続くのさ」
どうだ、この奇抜な考えは。新発見におののき僕を尊敬しろ。
キーボードを打つプラスチックの音がリズムかるに響く。千尋は僕の言葉に何も応えずにタイピングをしていた。
まあいい、社長としては部下の労働に対する懸命な姿勢を邪魔するのはよくない。多少の無礼は勘弁してやる。最近の千尋は頑張っているからな。大学に行きつつも執筆への姿勢も素晴らしく、集中力が持続するし、出来もかなりいい。現代なりのしがらみをうまく表現した現代版『ロミオとジュリエット』を目指しているらしいが、有言実行とはまさにこのこと、とても面白い。ひねくれていて面白い。よくできている。それでもしかし、その面白さの源泉は、最近できた恋人の影響となると複雑な気持ちにもなる。置いて行かれたような感覚だ。まあいいけどね、僕は社長だから。
と、自分に言い聞かせているものの、やっぱり最近は悔しい事ばかりだ。僕が社長を務める『芥川』のライバルに当たる、『直木』の動きを簡単に書くとする。
『日本ファンタジーノベル大賞』の一次審査通過者が発表された。大塚君と副社長と社長の作品は見事に通り、僕と松嶋さんの作品は落選した。松嶋さんの作品は異質だからしょうがないし、みんなの作品はなかなかよくできていて、ちゃんとした出版社から出ている本と遜色ないようにも思えたので妥当だ。だが『芥川』の社長である僕の作品は落選した。置いて行かれた気分になった。社長である僕の作品が落選するなんて、信じがたい。まあ、いいけどね、金はあるからね、一億円。ここ数ヶ月で四百万円も使っちゃったけど、まあいいけどね、僕は社長だしなんとかなるでしょ。まだ社長じゃなかった頃の僕の小説を審査員のセンスにフィットしなかっただけだし、今は社長だし、やれやれ、なんでオフィスがこんなに臭いんだろ。
「真下さん、この部屋下水臭すぎて頭が痛くなってきました。なんとかしてくださいよ」
シンクロニシティかな、僕と同じような事を千尋も考えていたようだ。
「僕が社長、君が副社長、こっから這い上がろうじゃないか」
「そうじゃなくてなんとかしてくださいよ。不動産屋に電話するとか下水会社に電話するとかできるじゃないですか」
「え、でもなんか悪いじゃん、文句いうの。電話番号も分からないしさ、電話って緊張するしなんか怖いし」
千尋は僕を見下すいつもの目をして独り言のようにつぶやいた。
「信じられない、いくつだよ。あんたがここの責任者なんだから自分で動いて働きやすい環境にしろよ」
そういうと千尋は、検索サイトで番号を調べて、下水会社に電話して、あっというまに改善するとの話をつけて日程も決めた。しかも無料でだ。
まっ、僕は社長だし、あえて副社長が動く感じにして、楽をしたわけだけどね、社長らしくね。それに気付かないで、千尋の奴はまったく、うぬぼれやがって、僕に踊らされているとも知らずに。けっして僕は無能だなんて事はないんだからな。お前にやらせたんだからな。
それに僕の作品は『日本ファンタジーノベル大賞』では評価は低かったけど、他のところでは一番評価されているんだからな。
『直木』では一時期、社員の全員がスランプになったものだ。しかし今思えばあれは当然のことだった。原因は分かった。謎はすべて解けた。人間とはそういう風にできていると言ってもいい。もったいぶらずに言ってしまうと、つまりはみんな、過酷な執筆作業を終えた後のご褒美がほしかったのだ。だが、ご褒美と言っても、ハーゲンダッツのクリスピーバニラをおなかいっぱい食べるとか、行列ができるラーメン屋さんの角煮ラーメンを食べるとか、ディズニーランドに行くとか、そういったものではなく、直接的なリアクションが欲しいのだ、執筆した物に対してのね。にも拘わらず間髪いれず『横溝正史ミステリー大賞』とか『このミステリーがすごい!大賞』にむけて、構想していこう、なんて言われても釈然としない思いが溢れて執筆が進まなくなるのは青天の霹靂ではなく当然の事だ。そこで直木の社長であるボーイソプラノの華京院社長は次なる一手として、自費出版をする事に決めた。金なら沢山持っている、僕に一億円出資したけれども、まだ二億はある。行動力のある『直木』は間髪いれずにあっさりと、それなりに実績のある流通マーケットを持った自費出版を請け負う会社に連絡を取って、計画は実現された。『日本ファンタジーノベル大賞』に投稿した作品を出版するのはルール違反だしかなりのタブーだとは思われるが、社長の「まあいいじゃん」の一言で実行された。社長の言葉と意思は会社内では絶対に近いものがある。僕も社長なので『芥川』ではそうなるのだろう、楽しみだ。
話を戻す。さすがに、投稿作品から多少の手は加えて出版になる、そうすることにより、どこかから怒られた時に言い訳はできそうだ。大体、創作ってやつには途中で分岐点があって、様々なパターンが生まれてくるものだ。それは作品の双生児ってやつだし、パラレルワールドとも言える。自費で出す本なのだから、ある程度の自由はさせてもらわないと困る。それに『日本ファンタジーノベル大賞』に『直木』の作品が入選したとして、「出版している作品を投稿するな」と、文芸業界から批判されたとしても、そのひと騒動は『直木』の存在を知らせるよいプロモーションになるではないか。華京院社長は若いのになかなか柔軟な頭を持っている。
千尋が冷蔵庫からミルクティを取り出してフランス製のデスクに座りかけながら僕に悪態をついてきた。
「『直木』の社長ってあんたと一つしか違わないんですよね? 少しは見習ってくださいよ。このままだとあんたの生涯賃金並みの一億円をドブに投げ捨てるのと同じ事になってしまいますよ」
一つ二つ三つ、今のセリフには侮辱が三つ入っていた。失礼過ぎる奴。
「何を言ってるんだ小娘め。僕は天才なんだよ。文芸の神に祝福されているんだよ。夏目漱石の生まれ変わりは大塚礼二ではなく僕だ。それに社長は高校生だよ」
「は?」
「あれほどのボーイソプラノが二十六歳のはずないじゃないか。背も伸びていたしね、十歳サバをよんでいるのさ、副社長に至っては性別を堂々と偽っていたよ、僕の第六感ですすぐに見抜いたけれど」
「そうなんですか!」
いまさら何を驚いているのやら、僕が社長となる会社の副社長としてはもうちょっと落ち着きを持ってもらいたいものだ。
「私達、騙されていたんですか?」
「そんな言い方するなよ、あくまで演出の範疇だろう。彼らの目標は直木賞をとることだからね、そのためにはウソも方便ってやつさ。そもそも世の中はウソと思い違いと勘違いなどといった、ひねくり曲がった事態が大量に発生していて、何が正しくて何が悪いかなんて分からなくなっているものだ。マイナスかけるマイナスはプラスだったり、さらにマイナスをかけるとマイナスになるし、真実なんて状況とタイミング次第でどうにでも変わるじゃないか。ならば、ならばだね……」
そこで言葉が途切れる。自分で喋っていて何を言いたかったか忘れた。社長である僕でもたまにはそんなこともある。
「ならばなんですか」
千尋は僕に気を使ってか促すように合いの手を入れる。それがものすごく気に入らないけどものすごく大好きなんだ。
「……まあいいさ、僕達もウソをつくとしても、良いウソをつこう。人を傷つけないウソにしよう。納得のいくウソにしよう、ドキドキするウソにしよう、美学を大事にしたウソにしよう。そんなわけで、千尋は社員の前だと摸造のちんこをつけてもらう」
「うわっ! なんでそうなるんですか!」
「男女で会社やっていたらこいつらデキテルと思われるでしょうが! そういう目で見られるのは僕はいやだ」
「私の方があんたより百倍いやですよ!」
「ならば意見は一致した。決定でいいじゃないか。となるとだ、模造ちんこを早急に発注しないとだ。忙しくなるぜ。なんせ最高級の模造をセレクトしないといけないからな。僕は社長だからな」
「事と場合によってはセクハラで訴えますよ!」
「何をいっているんだねチミィ。ん? セクハラされているうちが花だぞ? それともなにかね、摸造ちんこなど間接的ではなく直接的にタッチングでもされたいのかね? 僕は社長で太陽だからな、ガッハッハッ」
社長笑いをしてみたらめちゃめちゃ気分が良くなったので、会社内では常にこのキャラで行くとしよう決定だ。本当の自分である、二十五歳のネクラな若造をさらけだすのは、副社長の千尋といる時だけにしよう。『直木』の社長と副社長がそうだったように。
今さらではあるが、童顔に見えた社長である十六歳に一億円をもらうに至った時の事を書く。美しい生物である副社長の乳首を拝めそうで拝めない事に腹を立てて、そんな生物と安易に快楽を求めてキスをしていた社長に熱々のジェラシーをかました際、大笑いをされて合格と告げられた時である。
英検四級を落ちた僕が合格と告げられる程度のものだ。報酬として駄菓子三百円分くらいのものでも貰えるかなとボンヤリと思考を巡らせていたら、まさかの一億円をプレゼントフォーユーとの発言である。
社長はギャグでも言っているかのように真顔過ぎた。そんな面持ちを僕に向けた。
「えーと、なんて言えばいいかな、宝くじで三億円当たったから会社を始めたって言ったでしょう? それはウソっていうか、演出? ていうことで許してもらえないかな。本当は俺んちってヒルズ族のさらにもう一つ壁を越えたような金持ちで、俺なんてボンボン中のボンボンなんだ。さらに四男だし」
ヒルズ族っていうのはどの程度金を持っているのだろうか、おとぎ話をきいているかのように想像しながらも、ほぼ無意識で視線は副社長の白い腹だ。
「はぁ……」
何を言いたいのかがよくわからなかったので、僕らしくもない、冴えない返事しかできないでいる。
「いやあの、こっちの事情を知ってもらったほうが分かりやすいかなと思って言ったんだけど、ごめんよ説明が下手で」
「いえそんな事ないですよ、事情は人それぞれ色々ありますからね」
なかなかいい人っぽいセリフをひねりだせたのでよかった。すごくよかった。副社長の腹はスリムで、肌は作り物のように滑らかでムラムラするな。
二つの思考を同時操作していたら副社長は僕の視線から逃れるようにシャツのボタンを閉めた。社長は続ける。
「俺は親父からお前には期待していないと言われ続けて育ったんだ。兄貴達がスポーツや学問やアートでメキメキと才覚を表すさなか、俺は何をやっても平均並みで、優秀な講師をつけたってダメなんだ。兄が一日でできた事を俺は三日かけてようやくできるようになるぐらいさ」
やれやれ、俺ってこんな奴なんだぜ聞いてくれタイムの突入か。面倒なことだ。話を聞いてやって、最終的には褒めればいいんだったなこのパターンは。
「そして中学卒業を境にして、三億円もらったんだ。サラリーマンの生涯賃金だって言われてね、ドンといきなり現ナマ見せられて、あとは自分で自由に生きろってさ。一年ちょっと前の事だよ」
おや、思ったよりヘビーな話になった。副社長も腹を隠しちゃったし、こっちに集中しようおもしろそうだし。社長と副社長に対応する二つ思考を一つに戻して話に集中することにする。
「社長も大変ですねぇ」
まったく気の利いたセリフではないが、本心から出た言葉なのでしょうがない。
「親父はちょっと変な人なんだ。でね、全然悪気があるわけじゃないんだよ。逆に俺のためによかれと思ってやっているみたい物言いだよ。こうしたら息子はどんな人間になるか知りたいんだって。お互いに得をする話だなんて笑っちゃうよ。そんで兄貴達には気楽でいいな、なんて羨ましがられてさ。こっちの身にもなってみろってのばかやろう」
社長の声がじょじょに湿っていった。顔を見ると瞼に涙が浮かんでいた。それに気付いた副社長が、白くて綺麗な指先でそっとぬぐう。
僕は思わず爆笑しそうになった。腹の奥から空気が強制的に送られてくるのは、笑いの衝撃で、口角が自然に上がってしまうのを抑え込もうと必死にあがいた。それでも五秒が限界だった。硬く閉じた口からブボォという声と一緒に空気が逃げ出して、解放の反動で
力の限りの爆笑が会議室に響き渡った。
涙ぐんだ十六歳は、鳩が豆鉄砲をくらったテイストの抜けた顔になり、副社長は僕を睨んだ。おや、やばいと思った。
「すいません! 違うんです。笑ってしまったのは悪い意味じゃなくて、なんか笑っちゃったんです。なんかといってもバカにしてるんじゃなくて、ポジティブな意味です。社長と副社長の演技じゃないのに演技じみた動きが場の雰囲気に合っていて、だからこそくさすぎて爆笑しちゃったわけです」
弁明を思いつく限りしてみた。
「いやそれって、……悪い意味じゃん」
「そう言われると、そうですね、すいません」
社長の冷静で的確なつっこみが入ったところで湿っぽい感じもなくなったので、こっちから質問をしてみる。
「なるほど、そういう理由があったわけですね、面白いな。ちなみに副社長とはどういった関係でなぜ男装を?」
するといつもの社長の感じになって答える。
「彼女は俺の専属の教育係兼世話係なんだ。真下君には見られちゃったからもう言うけど、俺にとって大切な人でもある」
このクソガキャ! カッコつけてんじゃねえぞ! と思うのが人情ではあるが、怒っても意味はない。どうにか我慢する。
「歳は十八で元々は華京院家と同じくらいの金持ち。あっ! 華京院ってのは俺の家ね。名前は白神莉子。没落の直前に華京院家に取り込まれたらしいよ。けっこう昔の事らしいし俺が物ごころついたころから家にいたから、詳しい事情はわからないけどね。男装してもらったのには、まあ、その、謎があったほうが面白いからという単純な理由だよ」
「ほう、なるほどそうなんですか」
そんなはずはないと思うが、説明くさい紹介が自慢でもしているかのようでなんとなく興味が冷めた。そもそも副社長を男装させている理由をただ面白いからで説明を終えようとする逃げの姿勢が腹立たしかった。照れているとはいえ、そこは社長として、いや、男としてハッキリと意思と威厳を見せてもらいたかった。いや、それはないな、本当はとても羨ましかった。こいつらは自分に対しての問題や困難に、正面からぶつかっているし、二人で手をつないで寄り添って歩いている様子が目に浮かぶ。僕が今まで見たきた人間によくある、意図と反して横道に反れてから、『いいでしょ、コレ、わざとだから。自分らしい自分のやり方だから』などと言った、いいわけ甚だしい開き直った負け犬の遠吠えらしき事はやりそうもない。つまりはジェラシーが僕を燃やしたのだ。と、今だから思える。
「ほぉー、複雑な事情があるものなんですね、知らなかったなあ。事情は分かりましたけど、なんで一億円をくれるんすか」
「ああ、そうだったね、その説明をしないとダメだったよ。ようは真下君に対抗勢力になってもらいたいんだ。『直木』のね。大塚君もよかったから、対抗勢力になり得るけど、かなり迷った結果、今日の事で真下君に決めたよ。だからよろしくね」
「はぁ」
一応相づちを打ったものの、現実感は全くなく、何を言ってんだこのガキ、頭にウジでもわいてんじゃねえか? とはてなマークを浮かべている最中に、副社長はノートパソコンをいじり、キーボードをパチパチと叩いた。
「入金完了しました」
仕事モードになったようで副社長の声は平坦で冷たい印象を受ける。
「よし、これで明日には真下君の口座に一億円入っているはずだよ。会社名は『合同会社芥川』でどうかな? 新会社法があるから、有限会社にはできないけど、差別化される感じがしていいよね。経営とかのやり方はまかせるけど、とにかくうまくやってね、あっ! これ企画概要ね、細かい事は全部書いてあるから」
社長はそういうとプリンターから印刷されたばかりの暖かい紙を僕に渡す。言葉を交わさずとも、社長と副社長は息のあったコンビネーションを魅せてくるものだ。サイレントジェラシー。
『文芸業界に風穴を空けて空けて空けまくろう! 合同会社芥川計画』プリントの表題にでっかく太文字でかいてあった。
「ありがとうございます」
あまりの丸投げ感と唐突感とあなたがやる事になっていますからね感により、心の中では保留かなと決め、現実感の湧かない選択に考える事を拒否した僕の脳は、あいまい状態だったのだが、とりあえずこの場を収めるために、お礼を言って家に帰ったのであった。
しかしまあ、こいつらはティーンエイジャーのくせしてやり手だ。人生を僕よりも十年近くも少ないくせしてなんて奴らだ。口座に一億円を入れられたら次第に受けざる負えない気分になる。預金通帳の数字の桁が三ケタ増えただけじゃん、実感ねえと思っていてもやはり金は金であって、人生において金はどうしたって重要な役割を果たすのだ。金で買えないモノはないという言葉があって、友情も信頼も恋人も、金があればああだこうだと、詭弁のような真実のような、よくわからない論を支持するほど、絶望的な考えを持っているわけではないが、どうしたって金は金だ。だからこそなおさら一億円の責任を背負うのは苦痛でしかなかったが、いざ自分が社長となると気分がいいし、やりがいと言われるものらしき感覚の存在を認識している。
僕と違って集中力のある千尋は下水臭いオフィスでも問題なくパソコンに向かいあってキーボートを叩く。僕はと言うと、夕方まで『直木』の方に出勤していて、『強制的に泣いてしまう感動の涙泥棒作品を創ろうプロジェクト』とかいうやつに頭を悩まし、どうにかひねりだしたのが、
【寝て見る夢で、未来を知れるお父さん。海外留学中の娘の命を助けるため、自分が死ぬと分かっていても娘のためにアメリカに向かう。そこに、いかないで泣きながら訴える息子とお父さんのやりとり、超泣ける】
とかいう微妙なやつ。その時はすごいなこれ、よく考えたなこんなすごいのと、自画自賛とか思っていたけど、今になってみると泣けるかどうか分からないこの一文のために疲れきり、頭なんて今日はもう使いたくないよ、状態だ。
千尋は、背中からオーラが出るかと疑うほどのすごい集中力で小説を書いて、僕は社長ではあるのだが、千尋に置いて行かれる気がして不安になった。直後に腹が立った。なのでリモコンを手に取りビンテージ物のラジカセで音楽をかけた。
軽快で暖かいような、ドラムとベースとギターがリズムかるに響き、気の抜けるようなギターの音と歌い手の声がホンワカとさせてくれる曲であって、ポジティブな気分にもなる素晴らしい歌だ。松嶋さんがその日の気分で作る、その日その日でのマイベストCDである。
CDを貰ったのは今からちょうど二ヶ月前の事だ。執筆に疲れると、ロックガールの松嶋さんは仕事時間内でもお構いなく、アイポッドから違法らしきソフトでデータを抜き出してマイベストCDをつくり始める。松嶋さん曰く「マイベストCD作りは生理現象と同じ事。仕事の中に組み込んでもらわないと困る」とのことだ。そんなわけで彼女のデスクにはCDが秋の落ち葉のようにところどころに乱雑する。その中の一枚を僕にくれたのだ。
「真下には音楽が足りないわ。インテリジェンスもいいけどイメージも大事なのよ」
決めゼリフ風にそう言うと、卒業証書を渡す校長先生のような礼儀正しい姿勢で僕にCD―Rを渡すので僕も四十五度のお辞儀をして受け取る。僕の何を知ってそんな言い方なんだよと首をかしげながらだ。
僕は音楽に興味がなかったけど、松嶋さんのバンドの曲はなかなか興奮して、その松嶋さんがオススメとして僕にくれたCDとなるとそれなりに期待して聴くのが人情ってやつだ。そしたら予想以上によくって、特に一曲目がとても気に入って、歌詞の一部からグーグルを駆使して曲名を断定して、歌詞検索サイトを閲覧するほどに至った。
『ハロー未来、僕等のカッコ悪いビートは続いている? 速さは落とすなよ、守りに入ることなんか、今、頭にないぜ。マイノリティ、マイノリティ、くるくるまわるんだ。マイノリティ、マイノリティ、排気ガスを吸いこんで笑うのさ。マイノリティ、マイノリティ、皮肉はいらないなぁ。マイノリティ、マイノリティ、俺達はトーキョウのバレリーナ。おどろーぜ。おどろーぜ』
僕のための歌だと思った。
背中からオーラを出すほど集中している千尋は不機嫌そうに僕を睨む。
「なんで日本語の曲をかけるんですか。あんただってわかるでしょ、歌詞が頭の中に入ってきて集中できなくなるんですよ」
もちろん知っているさ、僕にそんな事を言っても無駄さ。わざとやっているのだから。それに僕は社長だから。
「聴きたかったんだからしょうがないじゃないか。僕だってさっきまで『直木』で頭を抱えてアイディアを捻りだしていたんだよ、上司の命令に従う忠実な部下としてだよ。千尋も少しは僕に対して忠実な部下感を出すべきだ。不公平だ」
「そう思うなら少しは上司っぽくしてくださいよ、まったく」
頬に空気をため込んでプクーっとフグのようにカワイコぶった千尋の顔を、おそらく千尋の狙い通りに僕は可愛いと感じて、やられたまんまとはめられたと思った。ついでに室内のBGMに合わせて替え歌風に心の中で叫んだ。
『マイノリティ、マイノリティ、小娘可愛いんだ。マイノリティ、マイノリティ、この僕社長だし、偉いんだ』
この素晴らしい歌を歌うバンドは、来月に解散をするらしい。十年にわたる活動期間に終止符を打つらしい。松嶋さんはそれを知って、目を真っ赤にして出社してきた。おそらく悲しみで泣いたのだろう。しかし、その悲しみの成分は一体何でできているのだろうか。バンドの新譜が出なくなってそれを聴けなくなる自分が可哀想だからなのか、バンドのライブが行われなくなってもう観れなくなっちゃうじゃん悲しい、なのか、バンドが解散に至る状況や心境を想像して感情移入しちゃって悲しいのか、難しいところだ。でも僕が考えるに感情というものは結局のところ、自分本位で左右される身勝手な輩だ。そして、どんなに綺麗事や汚い事であっても、人間個人の問題で括れば世の中には良いも悪いもあったもんじゃねえ。でもまあ、大勢の人数が関わり、組織や社会になると、ルールができるので、その中で生きて、その中で括ると、良いも悪いも出てくるのだ。
松嶋さんは個人レベルでバンドの解散を嘆き悔やみ涙を流して目を真っ赤にするけれど、僕個人はそのバンドに愛着はほとんどないし、あんまり知らなくて、へえ、そうなんだ、解散なんだ、程度のモノだ。けれど今現在このオフィスでかかっている曲は一生忘れないと言えるほど心にインパクトを与えている。つまりは、曲が好きなのであって、バンド自体は好きというわけではない。しかしだ。妙なことに僕は、松嶋さんの悲しみとはうって変ってジェラシーを感じているのである。解散をするくせに社長である僕の心に死ぬまで残るほどの証を残しやがって。羨ましすぎるぜ、羨ましすぎて怒り、血がたぎる。狂いそうだ。ならばだ。僕だってジェラシーを与える側になるっていうのはいかがかな。ようするに僕はここにいると叫ぶのは、僕にとっては頭のいい選択となるだろう。自分なりの表現を作品として投影するのがいいのだろうね。社会レベルでは無意味かも知れないけど、僕の個人レベルではこれ以上の素晴らしい行動はないだろうね。などと、そんなことは分かり切っていることで何を今さらと自分に言う。
「なに惚けているんですか、早く音楽を消してくださいよ。集中して仕事をしたいんです。部下の働きやすい環境を作るのも上司の役目ですよ」
僕はこの場において社長だから、偉そうにして、誰の指示にも従わない帝王であってもいいと思う。しかし千尋は千尋の言い分を主張してくるし、僕は彼女の言い分をしっかりときいたうえで、応えたいと思えるからそうする。音楽を止める。
「ふぅ、ありがとうございます。最近は絶好調なので期待していてくださいね。ところで、真下さんもそろそろ本気で書いたらどうですか?」
機嫌がいいのは彼氏ともいい感じで、執筆も上々だからだろう。
「いやそのね、やっぱり、お金をもらうからにはやらなくちゃいけない仕事なのだから。といった心理が存在しないとできないものだよ。僕はね。向こうの『直木』では締め切りに合わせて頑張れるけど、この下水臭いオフィスじゃちょっと……。監視や査定する人もいないし。っていうか僕がその立場だし」
嬉しそうに、千尋は言う。
「いいわけはカッコ悪いですよ。一億円もらっているくせにだめですねぇ、ダメ人間ですねぇ、クズ人間の絞りカスですねぇ、そんなんじゃ『直木』のライバルにはなれませんよ」
ニヤニヤと僕の顔を見ながら笑顔だ。
「私が頑張るしかないか」
僕を見下されてバカにされるのはある意味、部下の千尋のやる気を出させる手とも言えなくはないな。僕は社長だからね。見下されているのは決して演技ではなくてガチだけれど、いい方向に進むのならば認めてやるしかないな。
しかしまあ、昔の人はうまく考えているものだ。『人』っていう漢字は支え合っている。そして、今まさに、人ってやつは支え合わないといけないものであり、存在できないし、そうなって喜びを感じるものであると、空からの天啓のようにきた。そして、太陽人間になろうにも、見る角度によっては太陽人間は太陽人間ではなくって、ろくでなしだったり、普通の奴だったりと、都合のいい人であったり、ロリコンであったり、熟女好きであったり、バカだったりと、顔を変えるものなのではないかと考える。つまりは、完璧な人間などいない、できない、不可能。
山も谷もない事件らしい出来事もないこの文章は、僕による僕に向けての僕のためのものである。そして、なんの経緯か知らないが、これを読んでくれた人が『これは俺のために用意された話だ』『私のための物語よ』『シンクロニシティを感じる』などと、一パーセントでも一ミクロンでも一グラムでも一ヘクトパスカルとかどんな表現でもいい、その成分を感じたのなら、本当に心からこれほど嬉しい事はない。リアクションが僕に返らなくて知り得ないとしてもかまわない。ありがとうが腹の奥の大事だけれど正確な場所が全くわからない部分から噴出して、喉を通って唇から溢れ出る。最高の気分になることうけあい。ようやく感謝に気付く。僕を否定しようが、肯定しようが、無視しようが、気付かなかったとか、好きだとか、たまに見るなら嫌いじゃないとか、顔が気に入らないから殴りたいとか、一方的にこっちが好きになった人とか、当然、社長や副社長や松嶋さんや大塚君や千尋に大感謝、文字や食い物や妄想やパソコンやコンクリートや空気や空など、僕に関わった存在全てに強制的に感謝。なんて事をいくら心から本気で思っていたって、明日の朝になれば忘れるだろうから今のうちに書いといた。
「でも真下さん。異世界の人の脳とリンクしているだとか、妄想は結構ですけど、それをいいわけにして、やるべき事もやらないようなら、いくら給料が良くったって私はやめますからね。覚えといてくださいよ」
「またまた」
「またまたじゃあなくて」
さっきとは違って千尋は真剣なので本気だと分かる。意思が強くて結構なことだ。彼女は将来立派な人間になる予感。
ハロー未来、僕等のカッコ悪いビートは続いている? 速さは落とすなよ、守りに入ることなんか、今、頭にないよ。だから元気だせよ。
END
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