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作品ID:266

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約15930文字 読了時間約8分 原稿用紙約20枚


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ふしじろ もひと 


小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

濡れ惑う

作品紹介

未設定


 しっとりと降る秋雨の中で、僕はコンビニで買ったばかりのビニール傘を片手に家路を辿っていた。もう時刻は夜の九時を回っているが、特に急ぎもせずふらふらと歩く。辺りは月明かりもなく真っ暗で、本当なら今日は満月なのになどと考えつつ空を見上げたりなんかしていた僕は、そのせいもあって、街灯の下に来るまで向こうから歩いてくる女の姿に気が付かなかった。

 別に、雨に濡れたいってわけじゃないのよ。

 僕より少し背の高いその女は、すれ違いざまに見知らぬ僕に向かいこう呟いた。え。思わず振り返ると、僕を睨み付けるようにしていた女は唇を微かに歪めてみせる。どうやら笑っているらしかった。

 あたしはね、ただ傘を差すのが嫌いなのよ。

 はあ、と僕は言った。そしてそれ以上何をすればいいのかも分からずぽかんと呆けて彼女を見つめた。彼女は何処か、そういう力を持った人間だった。確かにこんなに堂々と雨の降る日に傘も差さずに歩いている女は奇怪ではあったが、彼女でなければ僕はこんなに不躾に見つめたりなどしなかっただろう。女も同じようにしばらく僕を見つめていたが、急に大声を上げて笑い出した。はっはっは、と。僕は途端に気味が悪くなり慌てて踵を返そうとする。そもそもこんなユーレイみたいな人に付き合ってあげる義理などない。ところが、だ。次の瞬間には僕は左腕をがっしり女に掴まれていた。芯まで濡れているかのような冷たい手。しぶしぶ振り返る。女はもう笑ってはいなかった。僕の目を見て、怖いくらい真面目な調子でこう言った。

「ねえ、あんたん家、泊めてよ」

 これが、僕と歌子さんとの出会いだった。



 歌子という名前も、僕がかなり強引に彼女から引き出したものだ。僕の家に泊めてなどと無責任に言い放っておきながら、彼女は自分のことをそれこそ何一つ話そうとしなかった。そこで仕方がなく、普段は物静かだと評される僕が口うるさく彼女に纏わり付く羽目になったのだ。

 僕の沈黙を肯定と受け取ったのか、「こっちでしょう」と確認も取らずに僕が歩いていた方向へ歩き出す彼女に、そそくさと追いついて僕は訊いた。

「あの、お名前は」

 このひとは何勝手に歩き出してんだろうという思いはあったが、僕の中に彼女を拒もうという選択肢は何故だかはなから見当たらなかった。もしかしたらそのとき既に、僕は歌子さんに魅せられていたのかもしれなかった。

「なんだったかな」

 彼女ははぐらかすように言って、雫の滴る髪の毛をうるさそうに掻き揚げる。長い髪の毛はもう随分と雨水を吸わされ続けているようで、見た目からして重そうだ。しばらく沈黙が降りる。一本道を縦に並んでひたすら歩いていくと、やがて十字路に出た。僕にとっては迷いようのない見慣れた道だが、彼女は立ち止まり振り返った。

「どの道」

「お名前を教えてくれれば」

 彼女は至極嫌そうに顔をしかめ、そのまま二十秒ほど思案した結果、ウタコ、と聞き逃しそうな小声で呟いた。ウタコ、さん? と聞き返すとこくりと頷く。

「えっと苗字は」

「いらないでしょ、ウタコって呼んだらいいじゃない」

「あ、じゃあ漢字は」

 彼女はまたしばらく思案した。

「ただの歌にただの子でいいよ。シングの歌で、子供の子」

 どう考えてもそれは偽名としか思えなかったが、歌子さんはこれでいいでしょうと言いたげに僕を見つめた。ほら、どの道行くか早く教えなさいよ、と。

「そのまま真っ直ぐ進んでください」

 仕方なく僕はそう言って、今度は歌子さんの先に立って歩き出した。

  そうしてみると後ろからは人の気配というものが全く感じられず、僕はそれからアパートに着くまでの三分足らずの道のりの間に、五、六回は振り返って歌子さんが付いてきていることを確認した。歌子さんはその度に俯かせている顔をあげ、何よとでも言いたげに僕を真っ向から睨みつけた。どうしてこんなひと泊めなくちゃいけないんだと、僕はその度になんだか不貞腐れたいような気分に陥った。

 アパートに着いて入り口で僕が傘を畳んでいるあいだ、歌子さんは自分の髪や服を絞っていた。バケツをひとつ引っくり返したみたいな大きな水溜りが、蛍光灯の光を反射してその存在を見せ付ける。そうしてここに来て初めて、僕は彼女の服装を把握することが出来た。

 小花模様の散ったロングスカートに、歩きづらそうなヒールの高いサンダル。上は長袖の灰色のパーカーで、今は水を吸って黒に近い色になっている。お洒落をしているんだか、していないんだか。ロングスカートの上に味気の無いパーカーを着るのが流行っているのかもしれない、そうでないかもしれない。そういうものに疎い僕はよく分からないが、こんなにびしょ濡れではどうしようもないだろうことはさすがに分かった。

「あ、君の、名前」

 居心地が悪くなって彼女から目を逸らし、一度畳んだビニール傘をもう一度畳みなおしていると、歌子さんがそう訊いた。振り返ると、ポストに書かれた名前を眺めていたらしい彼女は、ちらりと僕を見てまたポストに目を戻す。僕は一瞬悩んだが、結局正直に本名を明かすことにした。

「高井春斗っていいます。その奥のポストですよ」

「ふうん。タカイくん」

 歌子さんはそう返すと、僕の指したポストの中を覗いた。何も入っていなかったのかつまらなそうに蓋をする。それから僕を振り返り、またまたつまらなそうにこう訊いた。

「じゃあ、タカイくん、君の部屋はどれ」

 僕の部屋は二階の一番奥、南向きの部屋だ。日当たりの良さや家賃の安さやご近所づきあいのなさや交通の便の割といいところから選んだ部屋。僕が鍵を出してがちゃがちゃとやっている間、歌子さんは僕の後ろで相変わらずひどくつまらなそうにしていた。そしてようやくドアを開けると僕より先に滑り込み、何も言わずにサンダルを脱いで部屋に上がってしまった。

 後に続いて靴を脱ぎながら歌子さんに声をかける。

「風呂、すぐ沸かしますけど」

「入らない。君が寝てからシャワー浴びるわ」

 あ、そうですか。拍子抜けした調子で僕はそう呟いて、とりあえず風呂を洗う。足を拭いて風呂場から出ると、歌子さんは腕組みをして白のカーペットを敷いた床にぺったりと座り込んでいた。途端に、僕は気がついた。この人着替え持ってない。

「あの、歌子さん、着替え」

「無いわよ。これでいいわよ、もう」

 歌子さんはうっとうしそうにそう言った。彼女の服が吸っていた水分がカーペットに移って、彼女の座っている一帯だけを染めている。それを気にする様子もなく、ぐるりと部屋を見回して、「紙は無い? あと何か書くもの」

 僕がそこに転がっていたボールペンと今朝の広告を渡すと、どうも、と呟いて目の前の足の短いテーブルにそれを置いた。彼女が頭を振る度に髪の水がいくらか飛び散ったが、気にせずそのまま広告の裏に何かを書き始める。このひと、寒くはないのだろうか。少し気になったけれど、僕はそれ以上歌子さんに声を掛けることはせず、先に風呂に入ることにした。



 いつもの三倍近くかけてゆっくり入浴したのだが、上がってみても歌子さんは先ほどと変わらない姿勢で相変わらず何かを書き続けていた。丸められた広告が幾つか、彼女を取り巻いている。覗いてみるとどうやら、丸テーブルに置いていた、先日実家から送られてきた蜜柑の絵を描いているらしかった。ひとつの蜜柑の輪郭が、皮の斑点や影の具合が、広告の裏の狭い平面世界にボールペンで驚くほど忠実に再現されている。あんまり上手いので掛ける言葉もなくただ呆然と手元を見ていたら、絵が完成したのかその手が暫く止まった。ずっしりと重い沈黙。と、次の瞬間、歌子さんはその蜜柑を真っ黒く塗りつぶしていた。広告が破れるくらいの勢いで、強く、強く。それをしながら、彼女は無機質な声でこう言った。

「君、お金持ちなんだね」

「え」

「だってさ、まず蜜柑買う余裕があるでしょう。それにここ、部屋も二つあるし、トイレもお風呂もちゃんと個別に付いてるし。もっと切羽詰ってる人はこんなにいい部屋借りれないから」

 ああ、親が仕送りをしてくれてるんですと僕は答えた。バイトはしているけど、大学もあってそれほど給料があるわけではないので、と。

 すると歌子さんは視線を上げ、僕を見つめてふうんと言った。その目には明らかに何処か僕を蔑むような色が浮かんでいる。このひとの中では親からお金を貰う方が、見ず知らずの人間の家に勝手に泊まりこむよりもより蔑みの対象にあるらしい。まったく、よく分からない。とりあえず水を飲もうと台所に立つ。「水、要りますか」「要らない」あ、そうですか。コップに半分ほど注いだ天然水で喉を潤して、歌子さんのいる部屋に戻る。

「テレビ、付けても大丈夫ですか」

「駄目」

「えっと、じゃあラジオは」

「駄目。邪魔しないでよ」

 先ほどの紙はぐしゃぐしゃに丸められて歌子さんを取り巻く紙屑のひとつと化し、テーブルには新しい広告が出ていて、彼女はまた真剣に蜜柑を写生している。邪魔をしないでといわれても、何をすれば邪魔になるのかはもちろんまず歌子さんが何をしたいのかもよく分からない。僕は完全に自由を奪われた小鳥のような心境で、しばらく突っ立ったままその迷いのない手の動きをぼうっと目で追っていたがやがてそれにも厭きてしまって、いつもより随分早いがもう寝ることにした。その旨を簡単に伝えると、あっそうと軽い返事。

「あの、毛布、要りますか」

「要らない」

 そうですかと僕は呟く。最後の足掻きもほんの一瞬で玉砕し、僕は隣の部屋に布団を敷いておとなしくその中に潜り込んだ。おれ、一体何やってんだろう。そんなあまりにも素朴すぎる疑問は、疲労のせいかすぐに遠のいていく意識の中で、薄闇にぼんやりと溶けていつの間にか消えていってしまった。



 シャワーの流れ落ちる音で目を覚ました。

 んんん。小さく唸ってそっと上半身を起こす。辺りはまだ真っ暗だ。そしてずいぶん寒い。枕元に置いているデジタル時計の頭を押すと、「4:24」という文字が蛍光色で浮かび上がった。まだ四時半か。二度寝しようと再び布団に潜るが、目が冴えてしまってなかなか寝付かれない。まったく、もう。こんな時間にシャワーを浴びている歌子さんを恨みながら、とりあえず水を飲もうとまた布団から出たとき、

 がちゃり。

 浴室のドアの開く音がした。あ、歌子さん。布団から出たものか迷う。とりあえず彼女が静かになるまでは大人しくしておこうと思い、寒いのでまたまた布団に入った。と、

「起きてるんでしょう」

 薄い壁を通してその声が鮮明に耳に届いて、僕はかちんと固まった。ぺたぺたぺた。足音が近づいてくる。僕は目を見開いたまま、その音を聞いていた。ぺたぺたぺた、ぺたぺた。そして、

「起きてるんでしょう」

 部屋の入り口に仁王立ちした歌子さんはまた言った。白いバスタオルを身体に巻きつけた彼女の腕や顔や足が、暗闇の中にくっきりと白く浮かび上がっていた。一瞬時が止まった。僕は歌子さんを見つめ、歌子さんも僕を見つめていた。たっぷり三秒ほども経っただろうか。僕ははっとして目を瞑った。瞼が引っ付くかと思うほどに、しっかりと。それを見てか見ずにか、歌子さんはふふんと鼻先で笑った。足音が近づいてくる。ぺたぺたぺた。もわっと熱気が、耳に迫る。

「ね、起きてるんでしょ、タカイくん」

 彼女は僕の耳元でそう囁いた。ぽたり。彼女の髪の毛先から落ちたのか、雫がひとつ、僕の頬を滑っていった。しっとりとした雨の香りが漂う。僕はますます強くしっかりと目を瞑った。何がなんでもこの目を開けてはいけないと思って、とにかく、それだけに意識を集中した。

 すると、歌子さんは笑い出した。はっは、はっはっは、と。壊れたぜんまい仕掛けの人形のように、平坦な笑い声をあげた。大きな声だった。止まることを知らないかのように、笑い続けた。はっは、はっはっは。いつまでも止まらなかった。だから僕は、いつまでも目を開けられなかった。しっかりと瞼をくっつけたまま、身を硬くしたまま、僕は左の耳だけで、じっとその笑い声を聞いていた。



 次に目の覚めたのは午前十時過ぎ、もう随分明るくなって、カーテンの無い窓から耐え難いほどの日光が入ってきている時分だった。ううう。小さく唸って身体を起こす。寝すぎなのかなんなのか、酷い頭痛が僕の頭を重く揺らす。

 今朝のあのとき、結局いつ寝たのか僕自身よく分からない。僕が眠った後も歌子さんは笑い続けていたのか、それとも歌子さんは僕が寝る前にもう部屋を出て行っていたのか。気が付けば眠っていたけれど、それは夢を伴った浅い眠りで、夢の中でさえ歌子さんはバスタオルを巻いただけの姿で平坦に笑い続けていた。はっは、はっはっは。あんまり怖くて背中を向けて逃げ出そうとする僕の左手首をがっしりと掴んで、歌子さんは笑い続けた。あれはもしかしたら夢でなかったのかもしれないと思うくらいに鮮明でくっきりとした、妙な夢だった。

 そんなこんなで部屋に足を踏み入れるのに結構勇気が要ったのだが、覗いてみると歌子さんは背中を丸めてワイドショーを見ていた。後姿からしてひどくつまらなそうだが、とりあえず普通そうではある。僕は半ば安心し、明け方のことはとりあえず全部夢だったのだと思うことにして、その背中に声を掛けた。

「朝ご飯、食べられました」

「食べてないわよ」

 無愛想な返事。思わずほっと胸を撫で下ろす。

「なんか作りましょうか」

「要らない。君いつもこんな時間から食べるの?」

 振り返った歌子さんに向かって小さく頷くと、「そう、変なの」と吐き捨てるように言ってから、思い出したように付け加えた。

「それよりさ、紙無いの。ポスト何にも入ってなかったしさ、丸めたのをもう一回使う気にもなれないから、仕方なくこれ見てたんだけど」

「え、ポスト。覗いたんですか」

「そうよ、今朝。なんも無かった。で、無いの」

 ポストに無いなら無いですね、と僕は答えた。蜜柑の写生ごときに僕の大切なルーズリーフを進呈するのはさすがに憚られる。

「そう、じゃあなんか買ってきて」

「今日バイト行くときに買ってきますよ」

 歌子さんは満足そうな不満そうななんともいえない表情で頷いて、視線をワイドショーへ戻した。無意識なのか何なのか、長いストレートの黒髪の毛先をくるくると弄んでいる。僕は寝癖の付いた髪に手をやった。髪、直してこようか、ていうかパジャマのままだけど構わないだろうか。しばらく逡巡した末に、まあいいかと首を振り、いつもどおり食パンを二枚トースターに突っ込んだ。一人分では何かを作る気も起こらない。



          *



 歌子さんが日常的な行動をするところを、僕は見たことがなかった。

 たとえば、何かを食べるところ。飲むところ。顔を洗うところ。お風呂に入るところ。眠るところ。それから、トイレに行くところも。

 彼女はこれらの行動を全て、僕が寝ているときや出かけているときに行っているらしかった。その証拠に、朝起きると食パンが一枚減っていたり、たっぷりあったはずのペットボトルのミネラルウォーターが残り少なくなっていたりした。あの日以来シャワーの音で目が覚めることはなかったが、おそらくシャワーもきちんと浴びているのだろう。歌子さんの身体からは、いつも香水のように、淡く雨の香りが漂っていた。外が雨でも雨でなくても、彼女の周りだけでは、いつもほんのりと湿ったどこか懐かしい香りがした。

 大学もバイトもなくて僕が家にいるとき、彼女はずっと絵を描き続けていた。最初は蜜柑の絵。それを全部僕が食べてしまうと、次は蜜柑の入っていたかごの絵。それも片付けてしまうと、今度はインクの無くなったボールペンの絵……。目の前に置いてあるものを、彼女は描き続けた。絵と向き合う歌子さんは真剣で、どの絵もとても精巧だった。けれど、完成した数秒後には、それらは全て歌子さんの手によって真っ黒く塗り潰されていた。強く、強く、黒く。そのときだけ、いつも無表情な歌子さんの顔が少し歪んだ。歯を食いしばる。鼻のところにほんの少しだけしわを寄せる。そうして、ボールペンの匂いが雨の香りを凌ぐほどになった頃、ようやく彼女はそれを止める。あとはくしゃくしゃに丸めて、そこらへんにぽい。そして、僕が買ってきた子供用の落書き帳をぺり、と小気味良い音と共に一枚ちぎって、また新たな写生を始める。その一連の動作は既に流れ作業化しているようで、歌子さんはなんの躊躇いもなくそれを行った。描く、眺める、塗り潰す、捨てる、ちぎる、また描く。ある種の無限ループ。僕がいる限り、彼女は永遠にそれを続けた。

 歌子さんはまた、邪魔をされたり決めたルールを破られたりすることを何より嫌った。彼女は一人静かなところで絵を描き続けるのが好きなようで、当然テレビも駄目、ラジオも駄目、その上一時間に一度くらいは僕に向かって「どっか行けば」と言った。また、彼女を取り巻く紙屑たちを捨てるのはいつの間にか僕の仕事になっていたのだが、あるとき捨てる前に紙を開いて絵を見ようとしたら、何故だかひどく怒られてしまった。同じ部屋にいても、怒られるばかりなのだ。おかげで僕は、休みの日には寝室に篭もってウォークマンで静かに音楽を聴いたり、あるいは用事もないのに一人ぶらぶらとどこかに出かけたりすることが、次第に多くなっていった。



 その日も僕は、午前中は寝室(と呼んでいいのか分からないがとにかく僕が睡眠をとる部屋)で音楽を聴きながら、大学のレポートを仕上げていた。出来上がったレポートをぱらぱらと繰って確認し、ふうと息を吐(つ)いて時計を見る。午後一時。途端になんだか空腹なような気がしてきたから、人間というのは不思議だ。昼、何食べよう。台所に二つ三つ重ねて置いていたカップラーメンで済まそうかとも思ったが、思い直してどこか外で食べることにした。歌子さんも何か食べたいだろうに、僕がいると何故だか彼女は何も食べない。僕は、いつの間にやらそんなことまで考えて予定を組むようになっていた。

 小銭入れだけ掴んで寝室を出る。「ちょっと、夕方くらいまで出かけてきます」熱心に何かを描き続けている丸まった背中に声を掛けると、ボールペン買ってきて、と返事が返ってきた。二、三日前に二本ほど渡したはずなのだが、もうインクが無いらしい。僕は分かりましたと声を返して、履きなれたよれよれのスニーカーを履く。

「鍵、開けたままにしときますね」

 返事は無かったが、そのまま部屋を出た。秋らしい清々しい空気を胸いっぱい吸い込んで、少しずつ吐きながら階段を駆け下りる。

 ――さて、何処に行こうか。

 昼食。迷った末に、コンビニで買ったパンを近所の大きな公園で食べることにした。ファミリーレストランやファーストフード店で一人で食事を摂るのは好きじゃないし、こんな天気のいい日に室内でハンバーガーなど食べるのもなんだか勿体ない。それに何より、コンビニで買う方が安上がりだ。メロンパンにクリームパン、ストレートティーのペットボトルと黒のノック式ボールペンが二本入ったビニール袋を右手で前後に揺らしながら空いているベンチを探す。レジに出すとき店員さんに笑われてしまったパンの選択。幼稚園児みたいだといつも笑われる、けれどこの組み合わせがすきなのだから仕方が無い。

 公園は、中央にある大きな時計台を囲うような作りだ。滑り台とかがあるわけではない、キャッチボールしたり犬の散歩にやってきたりする類の、何も無い公園。平日のお昼時ということもあってかあまり人はいなかったが、それでも空いているベンチはなかった。仕方なく、おじいさんが一人座っているだけのベンチの片端に腰掛ける。なんだかずっしりとした杖を持った、気難しそうなおじいさん。目の前の時計台を、何か因縁でも付けるかのように睨みあげている。僕の視線に気が付いたのか、彼は時計台から目を離してこちらを振り向いた。ぎろり。慌てて視線を逸らす。どうしてこの人の隣に座ってしまったのだろう、向こうに赤ちゃんを連れた若いお母さんが座っただけのベンチがあったのに。今更そんなことを思うがここで別のベンチに行くともっと睨まれそうな気がする。怖い。諦めて、ビニール袋からメロンパンを取り出す。消費期限が今日なので安くなっていたメロンパン。おじいさんがこちらを見ているのが分かる。視線を感じる。僕の手の中の特大メロンパンを見てか、ふんと盛大に鼻を鳴らした。気にしない。袋を開けてひとかけら、口に入れる。突然背後から突風が吹いてきて、公園を囲うように植えられている銀杏の木をざわざわと揺らした。舞い上がる黄色い葉と砂埃に、僕は思わず目を瞑った。



 時計台から流れる、五時のチャイムの音で目を覚ました。うーんと小さく唸って隣に目をやる。おじいさんは居ない。当たり前か、そう思いながらもなんだかほっとして、ぐうっと大きく伸びをした。重い頭を支えていた首と背中が痛い。ぐるぐると首を回すと、灰色の厚い雲に覆われた空が目に入った。雨を降らせそうな雲だ。寝すぎた、早く帰ろう。そう思いビニール袋を持って立ち上がった僕の頬を、空から落ちてきた雫がぴちゃん、と打った。続いてもう一滴。また一滴。やばいやばい。僕は慌てて駆け出した。



 アパートの玄関に着く頃には太陽も沈みかけて空はますます暗くなり、雨も本降りとなっていた。途中で諦めて走るのを止めたせいもあって、僕はひどく濡れていた。ジーンズの裾が跳ねた水を吸っていて重い。と言ってあの日の歌子さんのように絞るほどではなく、僕はさっさと階段に向かった。早く部屋に帰ってバスタオルで身体を拭こう。歌子さんは相変わらず絵を描いているかな。くしゃみがひとつ、唐突に僕の口から飛び出す。その時だった。

 かんかんかん、ごんごんごん、がんがんがん。

 何かに何かを打ち付けるような音が、アパートに響いた。

 最初はそれがどこから聞こえているのか分からなかった。けれど、

 がんがんがん、がんがん。

 部屋に近づくごとにその音が大きくなっていっている――気がする。

 かんかん、がんがんがん。

 もしかして。

 分からない、分からない、分からないけどもしかしたら。

 ――歌子さん。

 雨に濡れたわずか十メートルほどの廊下を疾走した。こけそうになりながらドアの前に立つ。がんがんがん。音が大きい。やっぱり――。ドアノブを引こうとして、あれ、鍵かけたっけ。一瞬戸惑ったが首を振り、ぐいと扉を手前に引いた。

 歌子さんがいない。

 まず思ったのはそれだった。電気の付いていない薄暗い部屋の中で反射的に確認した彼女の定位置に、歌子さんの姿は無かった。あの明け方の出来事以来歌子さんがその場所から動くのを見たことがなかった僕にとって、それは歌子さんがいない、ということを意味した。じゃあ、何処に。この音は。思考を巡らそうとしたそのとき、

 かんかんかん。

 またその音が響いて、僕ははっと顔を上げた。ベランダに続く淡い緑色のカーテンが開け放たれている。その奥にあるドアも。雨風が降り込んで、カーテンを大きく靡かせている。

 そしてその向こうに、歌子さんはいた。

 薄暗くて玄関からはあまりよく見えなかったが、彼女は何か細長いものを持っていて、それをベランダの手すりに打ち付けていた。両手で、かなり力を込めて。かんかんかんかん、かんかん。僕はしばし唖然とした。一体、何を。足元で何かが落ちるような音がして、下を見る。いつの間にかビニール袋が僕の右手から離れていた。袋から飛び出しかけた、空のペットボトル。途端に僕は我に帰って、靴を履いたまま部屋を駆け抜けた。白いカーペットに足を取られる。茶色いフローリングに足が滑る。

「歌子さん!」

 叫び声が届いたのか、彼女は手を止めて振り返った。

 表情は見えなかった。彼女も見えなかったのかもしれない。彼女らしくない可愛らしい仕草で、歌子さんは首を傾げた。

「歌子さん、僕です、高井です、止めて下さ」

「みーんな、濡れちゃえ!」

 僕だと分からなかったのかもしれない。そう思って言った言葉の語尾は、歌子さんのその声によって掻き消された。まるで僕の声など聞こえていないかのようだ。僕はベランダに出ようとしていた足を、思わず止めた。声は確かに歌子さんの声だった。女性にしては低音の、いつもは平べったいその声。けれど今は――

「歌子さん?」

 僕は歌子さんの目を捉えて、もう一度、言った。彼女は首を傾げるばかり。近くに来てみるとその目はガラス玉のように何も映してはいなかった。彼女は僕を分かっていない。歌子さんは僕を分かっていない。歌子さんは、歌子さんは、歌子さんは。

 と。

 歌子さんは唐突に、また手すりに向き直った。

「傘なんて要らない! みーんな、みんな、濡れちゃえ!」

 歌子さんと出逢ったあの日に僕がコンビニで買ったビニール傘。それを彼女は、再び力いっぱい手すりに打ちつけ始めた。かんかんかん、かんかん。

「歌子さん!」

 嗄れかけた声でまたそう叫んでみたが、既に歌子さんの耳は音声を受け付けていないようだった。僕はベランダへの敷居を越える。歌子さん、歌子さん、歌子さん! 何度もそう呼びながら、僕より背の高いその身体を、後ろから羽交い絞めにした。

何よ、やめてよ、離してよ! そう叫びながら僕を振り払おうともがく歌子さんに、僕はすがるようにしてしがみついた。止めて下さい、歌子さん、落ち着いて、止めて下さい。そう念仏のように唱え続けるが、しかし彼女に聞いている様子はない。やめて、離して、こわすの、こわすの、傘をこわして、もう誰も傘には入らないの、みんなでぬれるの、ぬれるの! 僕同様嗄れかけた声でそう叫びながら、歌子さんはもがき続けた。そんな僕らを、先ほどから更に勢いを増した雨と風が容赦なく叩く。寒いとは感じない。今はもうそんな余裕すらない。とにかく歌子さんを何とかしなければという一心で、五感がすっかり機能しなくなっているかのようだ。歌子さん、歌子さん、落ち着いて、ほら、部屋に入りましょう、止めて! 声はいつの間にかすっかり掠れてしまっている。ああ、喉が痛い。今やもう呟くように制止の言葉を繰り返す僕に対して、歌子さんはまだ気丈に叫び続けていた。やめてよ、ぬれるの、離して、傘を、傘を! 時々大きく咳き込みながら、それでも叫んで、もがいて、叫んで。まるでそうするのが自分の使命だといわんばかりに、彼女は叫び続けた。けれどもその声もだんたんと弱くなっていく。ぬれるの、ぬれるの、みんなでぬれちゃえばいいの。叫びはいつしか呟きに変わり、そして更にすすり泣きへと。突然傘を手放してしゃがみこみ、手で顔を覆って泣き出した彼女の肩を、僕はおそるおそる抱いた。びくん、とひとつ震える歌子さんの身体。僕より年上であろう彼女の肩はしかし思っていたよりとても華奢で、僕はそれだけで泣きそうになる。大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ。何が大丈夫なのかは分からない、けれどもとにかく繰り返す。彼女に、自分に言い聞かせるためにとにかく大丈夫、大丈夫、大丈夫。歌子さんは涙に塗れた赤い顔を僕に向けた。ほんとに、だいじょうぶ? 嗚咽交じりの質問に、半泣きの笑顔で。うん、大丈夫。ぜったい? 絶対。ほら、雨もずいぶん小降りだし。彼女も僕と同じように空を見上げる。ほんとだ。……大丈夫だね。乱暴に涙を拭う彼女の背中を優しく叩いて、そう、大丈夫、だから部屋に入ろう。あのね、あたし眠い。うん、うん、寝たらいいよ、だから入ろう。促して部屋に入る。一時間近く風雨に当たった部屋の有様は散々だった。あまりカーペットを踏まないように注意して、歌子さんを寝室へ連れて行く。パーカーだけ脱いでもらう間に、手早く布団を敷いた。本当は全身着替えたほうがいいのだろうけどあいにく着替えがない。「これ、脱いだよ」「あ、そこ置いといて下さい」あの日のように黒く変色したパーカーをぽとり、とフローリングに落とすと、ふらり。歌子さんはよろめいた。慌てて身体を支える。ほら、そこに布団敷きましたから。うん。……寝ていいの? もちろん。ゆっくり、おやすみなさい。布団に身体を埋めると、歌子さんは掛け布団から覗かせている口元を、ほんの少し歪めた。笑っているのだと気が付くまでに、しばらくの時間を要した。

 ありがとう。

 歌子さんは一言そう呟いて、それからことんと糸が切れたように眠りにつく。僕はその寝顔をしばらく見つめていたが、やがてはっと思いついて彼女の額に触れた。あれだけ雨に当たれば、発熱しているかもしれない、と。思ったとおりだった。

 歌子さんの額は、ひどく、ひどく熱を持っていた。



          *



 歌子さんが熱を出した。ただそれだけのことだが、僕はひどく動揺していた。どうしようどうしよう、僕は何をすればいい? 疑問符ばかりが飛び交う中で、とりあえずやるべきことを見つける。そうだ隣人に謝罪の言葉くらい言っておかないと。あれだけ叫んで聞こえていないはずがない。と右隣そして階下の部屋を訪ねたが留守。そこでまた途方に暮れそうになるのを抑えて抑えて、そうだ歌子さんの服を買いに行かなくちゃいけない。歩いて行ける場所は避けてあえて電車で一駅向こうのデパートへ。歌子さんにジャージと下着を買って帰りの電車に揺られているわずか二分ほどの間にようやく、初めて歌子さんの寝顔を見たことに気がついた。今まで二週間、改めてそれに驚く。歌子さん、無理してただろうなあ。布団も無しでとなんだか疲労も重なって泣きそうになったがしかし、帰ってみると歌子さんは起きていた。がちゃり、とドアを開けるとそこに立っている。どこ行ってたの行かないでよ、と小さく呟いてよろめいた。探したのにどこにもいないからびっくりして。壁にもたれかかって嗚咽を洩らす。僕はその背中をそっとさすって、すいません洋服を買いに行ってたんです、その濡れてるのを脱いでこっちに着替えてください。右手のビニール袋を差し出す。選択に何か文句をつけられるかと覚悟していたのだが、歌子さんはおとなしく頷いた。彼女が着替えている間に布団のシーツを剥ぎ取り、裏返して乾いた面に寝られるようにする。背中を伸ばして振り返ると、入り口のところで歌子さんは立っていた。あの、布団、どうぞ。シーツを脇へ除けて指し示すと、ひとつ頷いてふらふらと布団に潜る。ありがとう、とまた呟いた。その歌子さんの瞼がやがて閉じられるのを確認して、シーツを抱えてそっと部屋を出ようとする。次は部屋、片付けないと。と、

「行かないで!」

 振り返ると彼女は怯えたように目を見開いて僕を見つめていた。隣の部屋、片付けるだけですよ。そこにいますから。だめ、だめ、行かないで! 頬を紅潮させて歌子さんは叫ぶ。仕方なく入り口にシーツを置いて、彼女の枕元に戻る。歌子さんは大きく息を吐いて、目を瞑った。あのね、夢、みたの。呟くように言う。え? 聞き返したが彼女はもう僕の声など聞こえていないようで、そのまま呟くように語りだした。

 夢でね、空が見えるの。くもってるの。雨降っちゃえって思うの。降るの。嬉しくなるの。でもね、外に出たらね、みんな傘さしてるの。ぬれてないの。雨はぬれるものなのに! みんなぬれてないの。なんで、なんでみんなぬれないの? 傘なんかさすの? おかしいよ。それでね、そこにいた人に聞くの。なんでぬれないんですかって。そしたらサンセーウだからってゆわれた。サンセーウ? 何それわけ分かんない。ねえ何? サンセーウって何? 雨は雨だよ意味分かんないよ。ぬれたらいいのに。わけ分かんないこと言う前に傘なんてささなきゃいいんだよ。捨てちゃえばいいんだよ! 怒ってその人から傘とるの。なんにも言われなくてびっくりして、顔見たら顔ないの。のっぺらぼうなの。しかも人形みたいで。ふらふらってして倒れちゃうの。あたし怒ってたのに今度はなんか泣きそうになってそれでその人の傘をがんがんそこら中に打ちつけてたの。ばかみたい! なんかもういろいろ。わけ分かんない。傘なんていらない! みんなぬれるといいの。思うのはそれだけ。でもね、ほんとにそう思うの。心の底から、みーんなぬれちゃえ! って。ぬれて、びしょびしょになって、そしたらなんか分かる、なんか見つかる、なんかが変わるよって。……でもね、ほんとはあたし知ってるの。びしょぬれになってもほんとはなんも変わんないの。何回もやったことあるもん。お父さんお母さん妹みんなあたしのことおかしくなったって思ってる。雨ふったらふらふらーって出て行ってなかなか帰らないから。でもあたしおかしくなんかないんだよ。ぜんぜん、ぜんぜん! 信じてよ、おかしくなんかない、あたしはただ探してるだけ、びしょぬれになったらなんか変わるかもって、それで探してるだけで、ほんとに、信じて、信じて、おねがい、でもずっと、誰も、ずうっと信じてくれなかった……。

 歌子さんは泣いていた。閉じられた瞼の間からは、雫があとからあとからこぼれ出て、皆同じ軌道を通り髪の中へ滑り落ちていった。電気も付いていない。陽光もない。けれども僕にはそれが分かった。僕はそっと、歌子さんの枕元に座りこむ。涙の、雨水の染み込んだ彼女の黒く柔らかい髪をそっと撫でた。一回、二回。彼女は泣き続ける。誰も、誰も……。小さくそう繰り返しながら、涙を流し続ける。僕は唾液を飲み込んで、乾いた喉を湿らせる。一回、二回、呼吸をして、更にひゅう、と息を吸って。

「僕が」

 ああなんて頼りない声なんだろう! 掠れたその声は彼女の耳には届かない。彼女の涙は止まらない。ああ早く伝えないと。彼女は壊れてしまう。歌子さんは壊れてしまう。壊れてしまう!

「僕が」

 今度こそ、しゃがれた声、けれど大きい声で。歌子さんは目を開ける。おそるおそる、何かを恐れるように、怯えるように。視線が僕を捉える。僕も歌子さんを見ている。見つめ合っている。さあ。もう一度。

「僕が、信じますよ」

 そして、時が止まる。



 僕と歌子さんは変わらず見つめ合っている。けれどやがて僕は気付く。彼女が僕を見る視線の種類が変わっている。彼女は今、"人"として僕を見ていない。"モノ"として僕を見ている。目の前に置かれた、自分が描くべき"モノ"として、僕を見ている。

 どのくらいの間そうしてたのだろう。唐突に歌子さんは僕から目を離し、視線を彷徨わせて何かを探すような素振りを見せた。彼女の頭が揺れるたび、ほんのりと雨の香りが漂う。部屋の隅に置いた僕の小さな机を無言で指差すと、ふらふらと立ち上がりそちらへ向かった。そのふらふらも、先程までとは違う。病に体力を消耗しているのではなく、何かにとりつかれているかのような、突き動かされているかのような、そんなふらふら。そして机の前に座り込むと、電気も付いていない暗闇の中で、歌子さんは何かを描き始めた。

 ボールペンが机の上を滑る音だけが響く。とても静かだ。ぼんやりと輪郭を浮かばせる歌子さんの手の動きに迷いは全く見えなくて、彼女はいつもと変わらない真剣さで描いている。僕の絵を描いているのだろうということは分かったが、僕はその手元を覗きに行くでもなく、布団の枕元から動かずに歌子さんを見つめていた、いや、見惚れていた。きれいだ、と思った。絵を描く歌子さんを、その細い輪郭を、病的に白い肌を、つややかな黒髪を、きれいだ、と思った。歌子さんの全てを、美しい、と思った。

 やがて歌子さんがボールペンを動かす手が止まった。絵を見つめる。僕は絵が塗り潰されるのを待った。いつもの流れ。けれど歌子さんはそれを塗り潰さなかった。絵を描いた紙を丁寧に四つ折りにした彼女は、それを手に持ってふらふらと部屋を出て行った。まだ時は止まっている。僕はしばらく歌子さんが寝ていた形跡を残す布団を見つめていたが、やがてはっとして立ち上がった。一歩二歩三歩。大股で部屋を出る。物音に振り返ると、歌子さんがこの一ヶ月出番の無かったサンダルを履いているところだった。服はまた自分の服に着替えている。もうブーツの季節に差しかかろうとしているときにサンダルを履いて、濡れて伸びたパーカーに夏らしいデザインのスカートという格好をしている歌子さんは、やっぱりなんだか奇怪だった。このひとはもうずっと、世界に馴染めていないんだ。涙がこぼれそうになる。ああ、どうして今日はこんなに泣きそうにばっかりなってるんだろう。

 僕が何か言おうと口を開きかけると、それを制するように歌子さんは自分のパーカーのポケットをニ、三度軽く叩いた。紙と布が擦れ合うような音が小さく鳴る。

「これで残る。タカイくんのこと。思い出す」

 片言の日本語しか話せない外国人のようにそう言って、歌子さんは僕をじっと見つめた。さっきまでの名残で声は掠れているけれど、話し方はいつもの素っ気ないものに戻っている。僕は頷いた。声が出ない。何か言わなくてはと口を開閉した結果出てきたのは、「熱、大丈夫ですか」

 芯のないへろへろのその声は呆気なく無視される。そうして別れの言葉を言うでもなく、当然のことをするように歌子さんは出て行った。パーカーのポケットに左手を突っ込んで、右手でノブを回して。蹴られたペットボトルが小さく音を立てる。何故だかひどいスローモーション。そして、

 がちゃり。

 ドアの閉まるその音と共に、不意に世界がまた動き出した。隣の部屋からテレビの音が聞こえる。どこかで子供が泣いている。時計が遠慮がちに時を刻んでいる。

 僕は小さく息を吸い込む。歌子さんが残していった雨の香りが、鼻孔から肺に流れ込む。いつかこの香りも消えるんだろうな、不思議と心は凪いでいる。そうだ片付けないとと思い立って電気を付けた。部屋の有様がくっきりと浮かび上がる。あーあ、と、思わず苦笑が零れた。



 歌子さんがどんな"僕"を描いたのか。

 僕は、知らない。



後書き

未設定


作者 梨音
投稿日:2010/12/30 19:20:07
更新日:2010/12/30 19:20:07
『濡れ惑う』の著作権は、すべて作者 梨音様に属します。
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