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作品ID:269
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約13974文字 読了時間約7分 原稿用紙約18枚
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Marquee Moon
作品紹介
満月、夜、冷気、少女と少年 原曲・Television
暗闇の中から突然、遠く儚げな旋律が聴こえた気がした。
どこまでも優しく、心にそっと触れるようなノスタルジィな響き。
どこか愛しくて、そしてどこかヒリヒリとした冷徹さを含んだ静穏の響き。
わたしはそれを覚えている。
決して忘れないと誓った。
いったい、誰と?
ぼんやりと誰かのイメージが湧き上がる。
形にならない蜃気楼のような存在が、そこにある。
燻った炎のように輪郭が定まらない。
もっと鮮明に思い出せるはずなのに。
もっと大事なものだったはずなのに。
私は努力する。
しかし。
それが夢だと気づくまで、思いのほか時間がかからなかった。
わたしは真夜中に目を覚ました。眠る為の身体的なコンディションや環境が悪かったわけでなく、ただ自然と、朝陽が昇った時のように覚醒したのだ。なので瞼を開いたとき、外が暗くて変だな、と思った。
身体が冷たい。毛布の中に沈んだまま、暗い室内の時計を見上げた。午前三時ちょっと前だ。そこで初めてまだ夜なのだと気づいた。
寒い……。
わたしは毛布の中で膝を抱えて、飼い猫のような落ち着いた気持ちで自分の鼓動と呼吸音を聞いた。
とても静か。そう、ここは、わたしが元いた場所じゃない。だから、こんなにも静寂。
目を閉じても何故だか眠れなかった。そして一秒一秒経つ度、霧が晴れるかのようにして、考えなければならない物事がわたしの頭の中に現われてきた。真白だったわたしの思考はもう、姿の見えない不安事でいっぱいになってしまった。そうなってしまったら、もはや眠れないことはわかっていた。何もこれが初めての体験ではない。
毛布からゆっくりと身体を這い出す。雪でも降っているのではないか、と疑うくらいに空気は冷えていた。でもそれほど冷えているのは嫌いじゃない。夜中の澄んだ冷たい空気が結構好きだ。でもそのままの格好ではさすがに寒かったので、わたしはズボンを履いて厚いパーカーを着る。寒かった原因には、わたしの眠る時の格好にも一因があったかもしれない。
狂気なほどに静まり返っていた。
わたしの呼吸音、衣類と毛布が擦れる音、畳を踏んだ時のわずかな抵抗の声、時計の秒針の刻み。全部、普段では気付くことのない脆弱な音だ。静寂を紛らわす為、ここぞとばかりに活躍しているが、この化け物じみた沈静の中とあっては焼け石に水だ。むしろ、静寂はそれを糧にしてより一層肥大しているように思える。
障子戸を開け、窓を開けた。青白い透明な光が差し込み、都会とは違う冷静な風が入り込んでわたしの顔を撫でる。この家は丘の上に建てられているので、窓からは広い庭園の先に土手が見下ろせる。さらにその先には細い川が緩く流れていて、その向こうには黒い森林が怪物の姿を覆い隠すかのようにして広く生い茂っている。
わたしは、束の間、呼吸をするのを忘れた。
あまりにも美しく、妖しい光景がそこにあったからだ。
黒い森林の真上には、蒼白の満月が浮かんでいた。白い靄状の雲が纏われるように掛かり、おぼろげに飾っている。漆黒の中にぽっかりと開いたその別世界。はっきり見えるくらい大きい。ここで見る月は巨大だ。神秘的な淡い月光が、わたしの瞳の中で何度も屈折する。まるでクリスタルのよう。じっと見つめていると吸い込まれそうになる。
わたしは覚えている。
彼と見た、白銀の月を。
熱気に溢れた大都市の夜に、彼と共に見上げたあの月を。
隣の部屋に通じる襖を開けた。兄がそこで眠っている。傍を通り過ぎても気づかれなかった。その部屋も慎重に脱出して、玄関口に出る。靴を履いて、しっかりと厚着して外に出た。
少し歩きたくなったのだ。なぜそんな気分になったかというと、自分でもよくわからない。しかし、恐らくあの月に魅せられたことが要因の一つだろう。ここはそんなに気に入っている土地ではないが、あの月だけは特別な存在になってくれそうだった。
外に出ると、自分の寝室の三倍は寒く思えた。身体の芯から凍える。そよ風すらがナイフのように尖って、わたしを鋭く突き刺す。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで僅かな温もりを確保。もちろん、吐く息が目で見えた。そのまま吐息すらが凍りつきそうだった。雪が降っていないのが不思議なくらいだ。
とても暗い。玄関先の小さいくすんだ黄色の照明と夜空に浮かんだ淡い光だけがこの世界の光源だった。闇の中へ一歩踏み出す。凍えて緊張した身体がとても硬い。軒下の豆電球から逃れた。頭の真上よりちょっと前のほうに満月は浮かんでいる。南西の空だ。そちらをずっと見ていた。
家の前の林に囲まれた坂道を下った先にある畦道に出たところで、さぁ、どこへ行こうかと考えた。行先がなければ散歩もできない。
少し考えて、こんな田舎だけどあの細く緩い川を渡った先に自動販売機があったな、と思い出す。小銭の有無を確認してから、それを目指して再び歩き出した。
耳が痛くなるほどの静寂。瞼を閉じても変化の無い闇。神経を麻痺させる冷気。
木々のざわめきを耳にしても、目の前の闇を見据えていても恐怖は感じなかった。
多くの人、しかも、わたしと同じほどの年頃の女の子だったら、この得体の知れない常闇の世界に入り込むことはできないだろう。闇に包まれた瞬間、人は本能的に恐怖する。しかし、わたしはその防衛機能が欠如している。つまり、わたしは子供の頃から闇に恐怖したことがない。それは、わたしが他の人と比べて生存率が低いということでもあるのだが、今の人間社会ではもちろん、そんな数字に意味はない。どんな闇でも、わたしは普通に入っていける。皆が入ってこられない場所にわたしは行くことができる。そんなささやかな妄想で、わたしはいつもちょっとだけ楽しめる。
少し強い風が吹いて、森のざわめきが大きくなった。顔を上げる。燐光のような月の光を背に、背の高い木々のてっぺんがこの世のものではない何かを誘うようにゆらゆら揺れているのが見えた。
幽霊やオカルトにも特別恐怖心を抱くこともないし、そもそも、わたしは信じていない。あの手の話は、刺激をちょっと含んだ、人を満足させるエンターテイメントでしかない。人は死んだら無になる、というのがわたしの信じる通説。幽霊なんていない。だが、でももしかしたら、人が死んだら魂のようなものが転生して新たな人生の為に使われているのかもしれない、と考えることが時々ある。つまり、死んだ人は新たに生まれ変わるのだということ。理由はないけど、そう信じたがっている自分がいる。それを自覚した時、わたしはまだまだ子供だな、と自分を笑うことにしている。そんなことを考えている暇が、まだ自分にはあるのだから。
少し逸れたが、とにかく何が言いたいのかというと、暗闇が平気で幽霊を全く信じないわたしでも、今その木々の揺らめきを見て、ちょっとした不気味さを感じた、ということ。そんなわたしが今存在している。それだけ、今夜は特別な雰囲気だ。静かで、刺激的な夜だ。
都会も田舎も大して違いはないのだと最近知った。人は皆、都会に出て人の体温や刺激、あるいは安定を求めるものだけど、ここにも人はちゃんといるし、類が違うかもしれないけど多少の刺激だってある。望めば退屈なくらいの平和も手に入るだろう。住み方によっては便利さだって都会に負けていないとわたしは思う。声を上げて泣くほど、ここへ来るのが嫌だった数か月前のわたしが、もう別人に思える。
数か月前、父の仕事の都合で、わたしは都内から祖父の家の近くの田舎まで移ってきた。わたしが都内の難関な国立大学に受かったりしない限り、もう元の場所に戻ることはないそうだ。つまりそれは、あの街にわたし達一家が帰ることはもうないという意味。
あの街から出る時、わたし自身驚いたことだが、わたしはとても哀しい気持ちになって、わぁっと激しく泣いた。そんなこと、わたしが物心ついたときから一度もないことだったし、両親もとても驚いていたようだったが、この移動はもう確実なものだと決まっていたそうだ。わたしもそれを知って、もう泣くことはなかった。新しい土地に行くのは嫌だったが、しょうがないのだとわたしはすんなりと諦めた。それが、いつものわたしのスタンス。生まれてからずっと。他人から冷淡すぎる、と評価されることもあった。
そして、この土地に移ってきて、やっぱりここは好きにはなれなかったが、気づいたことがあった。ここも向こうも、大して変わらないと気づいたのだ。強いて違いがあるとすれば、そう、都会はここと違って、少しヒリヒリしている雰囲気だということくらい。それだけだ。でも、それだけの発見は、わたしの中ではとても大きな発見だった。
じゃあ、なぜ、わたしはあの街から離れるのが嫌だったのだろう。
最近、それをよく考える。考える度にわからず、首をかしげる。
そして、そうする度に。
わたしは自己嫌悪に陥る。
本当は覚えているくせに知らないふりをする。
それと向き合うのが怖いんだ。
もう一人のわたしが、指をさしてそう言ってくる。
わたしは歩きながら、頭に纏わりついた雑念を振り払った。
そうやって、わたしは、わたしにとって大切なものをなんとか忘れようとしてきた。
身軽になる為に。
囚われない為に。
忘れてしまえれば、もう関係ない。
自由だ。
馬鹿馬鹿しいことだが、でも、ひどく効率の良い単純な方法。
それが、わたしが唯一信じる救いの道だった。
気付くと、川の水流が聞こえていた。あの細い川にまで辿り着いたのだ。爪先を伸ばしてガードレールを侵食した草の茂みを越してみると、水の流れがそこに見えた。石で作られた小さな橋も向こう側に見える。そこまで辿り着き、対岸まで渡ろうとした時、わたしは気づいた。
人影があった。橋の真ん中で一人、誰かが立っている。
「え……?」 まさかこんな時間に誰かがいるとは思わなかったので、わたしは声を漏らして驚いた。
その人影はゆっくりこちらに振りかえった。今まで月を見上げていたらしい。
男だ。それも若い。ひょろりと痩せた身体だ。月の光だけでは顔がよく見えなかったが、どうやら微笑んでいるらしかった。
「こんな時間に散歩? 不審者ですか?」 少し低いが、少年の声だ。同い年ほどか? 同じ学校に所属している人間だろうか。
わたしはぽかんとして、その人影を見つめているだけだった。
「まさか、幽霊じゃないよね?」 男は冗談めいた口調で尋ねてくる。
「違います」 見えているかどうかわからないが、わたしはとりあえず首を振った。 「あなたこそ、こんな時間に出歩いていて怪しいです」
「僕は散歩。いい夜だからね。でも、女の子はこんな時間に出歩かないほうがいいよ」
「余計なお世話」 わたしは短絡に答える。
少し不機嫌になった。
誰とも会話せずに済むと思ったのに。今夜はいい夜になると思ったのに。
「いや、それにしても綺麗な月だなぁ」 男はもう一度顔をあげた。
うっかり釣られてわたしも見上げる。
変わらない満月がそこに浮かんでいる。淡い光を放ちながら、蒼白く輝いている。
「こんな特別な月、そうそう見られないよね」 男は同意を求めるかのような声で言った。
この地の者からしても、あの満月は珍しいらしい。残念だったが、でも納得はできた。いつも見ることのできる安いものだったら、あんなに綺麗じゃないだろうから。
「月見がしたくて外に出てきたんでしょ?」 男は無遠慮に訊ねる。
「えぇ……、そうです」 わたしは満月から視線を逸らし、深さの見えない川の暗い水面に目を移した。
視線を逸らすことに何の意味があったのだろうか。今、話している男の目だって闇に紛れて見えないのに。
自分を不思議に思いながら、男のほうへ目線を戻す。
「ねぇ、君、知ってる? 太陽ってなんで眩しいのか?」 男は唐突にそんなことを訊いてきた。
初対面の人間にそんな事を訊かれること自体不自然だったが、わたしは特に違和感もないまま真面目に考えた。
「燃えてるから」 すんなり答える。
男は笑い声を漏らして頷く。
「うん、そう。じゃあ、なんで月が明るいのかは?」
「その太陽の光を反射してるから」
「正解」 男は嬉しそうにまた頷く。
そして月のほうへまた顔を向けた。
「自分で光ることはできないんだよ、あれは……、あんなにでかくて、地上じゃ夜の象徴みたいに扱われてるくせに、他のものを利用しないと輝けないんだ」 男はつらつらと、そして余韻を残すような話し方。
わたしは、その言葉に聞き覚えがあった。
「昔、誰かが同じこと言ってた気がする……」
頭がぼんやりと麻痺しているのが自分でわかった。どうしたのだろう、眠気が戻ってきたのか?
「うん、きっと、誰かが言ったんだろうね」
草の茂みが風に吹かれて不吉に騒ぐ。わたしは首を竦めてジャンパーの襟元に顔を埋めた。とても寒い。慣れようがないほど凶暴な冷気だ。
「あなた、いつからそうしているんですか?」 男が厚着していないように見えて、わたしは思わず尋ねた。
「月なら、ずっと前から見てたよ」 男は独り言のように答える。わたしの問いに答えたのかどうかも定かではない。「ここにはそんなにいないけど……」
川のせせらぎが聞こえる。爽やかな音だけど、いざ実物の川を見下ろすと闇に濁った廃油のようだった。
「月を見てるとさ、なんか、色々と思い出すよね」 男は月を見上げたまま、こちらに向かない。「感慨深くなるでしょ」
「わたしはそんなことないですけど」
「嘘だぁ」 男は吹き出して言う。
「嘘じゃないです」
「例えば、僕らくらいの子なら、好きな人のこととか……、別れた人のことだとか思いださない?」
「そういう関係になった人、いません」
「ふぅん、そうなの……」 男は妙な間を空ける。
「なんですか?」
「いや、たぶん綺麗だと思うから、もったいないなぁって」
「月がですか?」
「むぅ……」 男は鼻を啜って、頭を掻く。
そういうジョークは嫌いだから、わたしは最初から拒絶することにしている。
「僕はいるよ。好きだった子とか」 月を見上げながら男は言う。男の黒髪が、月の燐光を浴びて艶やかに煌めく。
誰とも会話をしたくない気分だったが、ふと、暇つぶし程度にこいつの無駄話を聞くのも悪くないだろうと思った。だから、わたしはそのまま橋の上に留まることにした。
それとも、何か、もっと別の。
何か、もっと重要なものを、わたしはこの男の中に見つけたのだろうか。
「でもその子、転校しちゃって会えなくなっちゃったんだ」 男は不思議な間でくすっと笑う。「すごく大好きだった」
弱い風が吹く。わざわざ、わたし達を凍えさせる為だけに吹いたような厭味な風。
「でも、はっきりした告白もできないまま、離ればなれ。もうずっと会えない」 憂いを帯びた語調で男は言った。
そして少しの間、黙る。
わたしは彼の真意を探るように、わずかな月光を頼りに暗闇の中で目を凝らした。
男の顔ははっきり見えない。でもなぜか、その顔がいとも簡単にイメージできた。それは、あくまでわたしが脳内で、声色などをヒントにして、過去の記憶の中で一番この男に近そうな人物の顔を張り付けているだけなんだけど。
変な夜だ。もしかして、わたしはまだ夢を見ているのだろうか。そう考えるのが自然なくらい、変な夜だ。
「辛かったよ、とても。辛くて辛くてどうしようもないんだ」 男は言う。もう、憂いの調べはなかった。
「だから、僕は、川に飛び込んだんだ」
「……え?」わたしは、彼を見た。闇に隠れたその顔を。
男はこちらを見つめていた。垂れた前髪と増幅する闇の所為で目許は見えない。だけど、口は緩い曲線で笑っていて、それだけが強い印象を残す。
冷たい風が吹いた。
視線を感じる。
ゾクッと悪寒が走った。
急激に、四肢が重くなる感覚がした。手が、脚が、動かない。首や顔すらも。
空間が歪むような圧力。何もないのに、鼓動が苦しいくらいに速くなる。
わたしの目は、男に釘付けになっていた。
離したくても離せない。
何かに対して警告を発するように、心臓はドクドクと加速していく。
痛い。
苦しい。
破裂してしまいそうだ。
眩暈がする。
「うん、まぁ……」 男は突然にわたしから視線を逸らし、また月の方へと向けた。「浅い川で、びっくりしたけど」
「え?」
「痛いし、冷たいし、水は臭いし、びっくりだよ」 彼は歌うような、おどけた調子で言った。
わたしはきっと中身の無い映画を見た後のようにぼんやりしていただろう。すべての不思議な現象が、その時には既に消えて、わたしの身体はとても軽くなっていた。
なんだ、今のは? 錯覚……?
何事もなかったかのように男はポケットに手を突っ込んで月を見ている。
途端に、身体が震えるのを感じた。
恐怖ではない。信じられないが、なにか嬉しいものがこみ上げて来たのだ。
わたしは声を出して笑った。本当に、久しぶりに、声を上げて、腹の辺りを抱えて笑った。
男はびっくりしたようにこっちを見た。
「な、なんだよ、いきなり。びっくりした……」
わたしだってとても驚いている。でもなぜか、可笑しさが堪え切れない。
「こ、こっちがびっくりしたよ、ほんとに。あっ、はは……」
「あっ」
「えっ?」
わたしは目に浮かんだ涙を拭って彼を見た。と、同時に月の輝きが目に映った。眩しさを覚えるほどの光だった。
「やっぱり、君、綺麗だね」 男は微笑むように言った。
どうやら、笑ってしまって上を向いた時、月光がわたしの顔を照らしたようだった。
わたしは言葉なく、冷静に彼を見つめた。可笑しさはもうどこかに消え失せた。わたしは自分の意識すらも客観的に思えるくらいに落ち着いていた。
「えっと、その……」 男は俯いて頭を掻いた。
わたしが何も言わなかったので困ったのだろう。失言を撤回できる台詞を探しているようだった。
月を見上げた。わたしの視界の中で一番の光を持った存在。愛しい存在。
「わたしも、いたかもしれない」
「え?」
「その、好意を寄せてた人とか……」わたしは言葉を少し濁す。なぜそんな表現をしたのか、わからない。
今の今まで口に出すのを恐れていた人物。胸の奥底に封印していたせいか、彼の名前を忘れてしまった。しかし、名前なんかどうでもよかった。彼の姿形、吐く言葉、遠くを眺める眼差しだけが彼の存在証明だった。
なぜわたしは、あいつの事を急に思い出したのだろう。
「へぇ……」 男は軽く相槌を打つ。「羨ましいね、そいつが」
「うん……」 わたしは幽玄で美しい月を眺めたまま。「わたしも、あいつのことが羨ましい」
「君がそう思うの? なんで?」 男は尋ねる。
さぁ、なんでだろうか。
理由は見つからない。
今の今まで忘れていたのだから理由なんてそんな大層なもの、あるはずがない。
嘘。
それは嘘だ。
本当は忘れてなんかいなかった。
心の中で、向き合うのを恐れていただけ。
傷を深めるのが怖くて、怖くて……。
何もせずに、知らん顔をしていただけだろう?
もう一人のわたしが、どこか姿の見えない場所でそう言っていた。もしかしたら、振り返った先にもう一人のわたしが立っているかもしてない。そちらを睨んでやろうかと思ったが、わたしの目は今度は蒼白い月へと釘付けになってしまっていた。
また不思議な感覚。
すべての時間軸が狂い始めるような。
過去も、未来も、すべてなくなってしまいそうな。
そんな不安定なムードが辺りを包み始めた。
わたしは不思議と焦らない。
「月を見たことがある」 わたしは言った。「名前も覚えてないけど、あいつと一緒に」
「あんなふうな月?」 男は蒼白い月を指す。
「もっと白っぽかったかな」 わたしは答える。
そう、あれより、ずっと白く輝いている月だった。
それはとても美しくて。
今まで何度も見上げたことのあったはずのものなのに。
なぜ毎夜ごと、その美しさは違うのだろう?
どこからか現れた一筋の長い雲が、風に流されて月に被さる。わたしたちに注がれていた月光が遮られ、周囲は暗くなった。
わたしはその闇の中で、一人の男を思い出す。
あの日はとても暑かったのを覚えている。八月の熱帯夜だった。
彼は、ジャンパーのポケットに手を突っこんだままベンチから立ち上がり、「今日の月は綺麗だよ」と言った。
いつもと変わり映えのない衛星が、彼の目線の先にぽつりと浮かんでいた。
わたしは微笑みもせず、彼の横顔を見つめ、そして月を見上げた。
手に何かが触れる感触。
わたしは自分の右手を見る。
彼の左手がそっと添えられていた。彼の目線は月に向いたまま。
普段のわたしなら手早く払っているところだったが、なぜだかそんな気は起こらなかった。
なぜだろう?
ただ、わたしの胸の内に、言い知れぬ混沌とした塊があったのを覚えている。
とてもあやふやとしたもの。
特別といえば、特別。
溶けたゴムのように纏わりつくもの。
でも、手放したくない謎の愛情。
もしかしたら、あれが恋愛感情というものだったのかもしれない。だとしたら、恋というのはまったくもって難しいものだ。判断すらが難しい。
「ねぇ、知ってる?」
彼は突然に、顔をこちらへ向け尋ねてきた。
その後、なんと言ったのだっけ……。
これは本当に覚えていない。
でも、その忘却の果てに消えた言葉が、わたしの価値観を変えた。
白い月が、白銀へと変わってとても美しいものとなった。
わたしは驚き、そして、都会の夜の暗幕に映った小さな宝石の美しさに心酔した。
彼の左手をそっと握った。生まれて初めての触れ合いだったかもしれない。
彼は、なんと言ったのだろう。
脳の奥から出掛かってる。もう少しで引っ張り出せそうなのだけど。脳というのは仰々しく居座っているくせに、いざという時はこれっぽっちも役に立たないものだ。
「その人のこと、思い出してるの?」
声がした。わたしはふと伏せかけていた顔を上げる。追想とは別の男の影が立っていた。辺りは夜の闇。
「ええ、そう……、不思議だ、大切だった気がするのに」
目が霞んでいることに気付いた。先程の可笑しさからこみあげた涙の残りかと思ったが、どうやら全く別物のようだ。わたしは声もなく、静かに驚いていた。
「なんだっけ……」 さりげなく目許を拭う。声が震えた。「なんで思い出せないんだろう」
雲が、月の前を通り過ぎていく。闇が晴れ、また青白い光が射す。澄み切った空となる。
「あの月……」 男がぼそっと言った。
「え?」
蒼い満月は淡く、眩しく、そして神秘的な光を放っている。
その光が、男の横顔を照らした。
今度こそわたしは、全身の毛が逆立つのを感じた。
男の顔面は不気味なくらいに蒼白で、前髪から水が滴っている。さっきまで、そんな様子ではなかったのに。彼の足元を見ると、水溜まりができていた。水が赤黒く濁っている。額から血を流していた。
幾筋もの赤い線が、彼の白い肌を伝っている。
非現実的な、強烈な紅色。
息ができなかった。
立ち尽くしたまま身体がピクリとも動かず、声も上げられない。
鼓動が疾走していく。苦しい。寒いのに、汗が噴き出すのを感じた。
男は、虚ろな目線をわたしに向ける。ゆっくりと一歩、こちらへと歩を踏む。
わたしは、自分でもわかるくらいに大きく目を開いていた。大声を上げたつもりだった。が、喉から出てくる直前に声が消えていくのも感じた。
「川が浅くて、びっくりしたよ」
地の底から響くような太く低い声。今まで聞いていた男の声とは全く別だった。
しかし、わたしが驚愕したのはそれだけではなかった。
変貌したその男の顔は、わたしが闇の中で思い描いていた男の面影と全く同じだった。わたしと同様、大人に差し掛かった子供の顔。懐かしくて、愛おしくて、そして今では恐ろしい面だった。
なぜ、ここにいる?
わたしはそう言おうとしたが、もちろんまだ声が戻らない。喉自体がひきつけを起こしているみたいだった。
彼の額からは血がどんどん溢れ出ている。
「僕がなにを言ったか、わからない?」 彼は無表情で言った。全身ずぶ濡れで、至る箇所から水が滴っている。
これは夢だ、とわたしは思った。その考えに縋りついた。目を閉じてもう一度開けば、きっと寝室の天井が見えるはず。
でも。
わたしはふと、冷静になった。
どこの寝室に戻るのだろう?
わたしは、目覚めたら、どこにいる?
都会か? 田舎か?
もしかしたら、すべて夢だったかもしれない。転校したのも、彼と月を見たのもすべて。
そうだったら……。
そうだったら、なんと素敵なことだろう。
わたしは、落ち着いてゆっくり呼吸した。張りつめた空気の中、肩の力を抜くようにして、目の前の彼を見る。心拍数が急速に鎮まるのがわかった。
ずぶ濡れで血を流し続ける彼は、無表情にわたしを見つめた後、ふっと息を漏らして微笑んだ。
「うん、君らしい対処だね」
彼の血の筋が消えた。水もすべて、最初から何もなかったかのように。そして元の姿の彼となった。都会に住む、一人の普通の少年。カッターシャツと黒い学生用のズボン。いつもの、彼だった。
あぁ、やはり夢なのだと思った。
「いや、夢じゃない」 彼は首を振った。
わたしはただじっと彼を見つめる。どういう態度を見せればいいのか、わからなかった。たとえ夢の中で、妄想上のことだったとしても。
「久しぶり……」 それを言うか言うまいか迷っている内に、勝手に口から滑りだした。
「うん、久しぶり」 彼は返した。
「なんで……」ようやく、わたしはその疑問を口にできた。
彼は頭を掻いて首を横に倒す。どう答えるか考える仕草だ。彼の癖。ずっと前にもそうしていたのを見たことがある。
「会いたかったから、かな」 彼は事も無げに答える。
彼の身体が透けて見える。それはわたしの幻覚ではない。月の光が彼の身体を貫通しているのがはっきり見える。
「あなた……」
「うん、そう、君が考えてる通り」 男はそう言ってまた微笑む。「早まっちゃったかな」
わたしは、幽霊なんて信じない。信じていないのに、わたしは彼が今、どういう存在なのか理解している。言葉に形容できないだけで、ちゃんとした確証を心で感じられる。
「馬鹿じゃないの……」 わたしは首を振って言う。「馬鹿よ、あなた」
視界が滲む。目が熱い。理由のわからない涙が溢れた。それがぼろぼろと零れて、頬を熱く伝っていく。止めようとも思わなかったし、止められなかった。
彼は肩を落とし、溜息をついた。疲れきった笑みをわたしに向ける。
「そう言うと思った」
「なんで……、どうしてよ……」 声が割れてしまっていた。
「君に忘れられたくなかったから」 彼は言う。
わたしは、言葉も失って、ただ茫然と立ち尽くしていた。何も考えられない。涙だけが流れていく。それに混ざって、思考も流れ出ているようだった。
「忘れてなんか、いない……、ずっと……、会いたくて、会いたくて……」
「うん」
「なのに……、なんてこと……、あぁ、もう、嘘だ……」
「嘘じゃない」 彼は、わたしのほうへ一歩近づく。
「死ぬことなんてないじゃない」 わたしは彼を恨めしく睨んで、唇を噛んだ。
「僕にとって、君の存在は大きすぎたみたい」 彼はもう一歩寄って、わたしの頬に触れた。
とても冷たい。人の体温なんて感じない。でも、それは今のわたしも同じことだろう。
「熱いね」 彼は静かに言った。「君の涙」
「馬鹿」わたしは顔を俯かせて、手を顔に当てた。泣きすぎて、しゃっくりが出た。
突然、彼の手がわたしの頬から離れた。
わたしは慌てて顔を上げて、彼を見る。そのまま彼が消えてしまうと思ったからだ。
だが、彼は変わらず目の前に立っていて、柔らかく微笑んでいた。
「ねぇ、思いだした?」 彼は後ろを向いて月を見上げる。「僕が、あの時、なんて言ったか」
わたしは彼の背中を霞んだ目で捉え、しゃっくりに紛れて唾を飲み込む。
「うん……」 わたしは頷いた。「さっき、言ってたことでしょ?」
「そう」 彼は振り返って、微笑む。「月は自分だけじゃ輝けない。独りじゃ、存在できない」
わたしも微笑んでやった。彼の顔が少し困って見えたから。
そう。
他の物を利用して、輝く。
それは共存するということ。
一つじゃ存在できないのだ。
それを彼は言っていたのだ。そういう物の考え方が好きな奴なのだ。
人間だって同じ。
独りじゃ、生きていけない。
わたしと彼は、特にそうだろう。
だから。
だから彼は。
“――僕らも、同じ”
これが、恋愛感情というものだろうか。だとしたら、愛というのは、残酷なほど難しいものだ。
わたしは夜空を見上げた。この世で最も美しい輝きがそこにある。
「さぁ、もう、時間が迫ってる」 唐突に彼が言った。「僕の望みは果たされた」
わたしは驚き、うろたえて、彼の着ているシャツの袖を掴んだ。冷たく湿っていた。
「まだ行かないで」 わたしは懇願した。「もう、離れるのは嫌……!」
それとも、わたしが死ねば。
彼と同じように、この橋から川へと飛び込めば。
永遠に彼と共にいられるだろうか。
「馬鹿なこと考えるな」
彼はふっと笑って、わたしを抱きしめた。彼の身体は冷たかった。それでもわたしは、彼の身体を抱き返した。
「あなたがいなきゃ、わたしだって生きられない。あなたが、死んだように」 彼の胸の中で、親を説得する幼い子供のように必死に言った。
しかし、彼は首を振った。わたしの身体を離して、肩を掴む。
「君はこれから幸せに生きるんだよ。僕なんかよりずっといい人に気に入ってもらって、子供を産んで、温かい家庭を作る」 彼は笑う。「僕がそう願って、あの街のどぶ川に飛び降りたんだから」
「卑怯だ……」 わたしは嗚咽を抑えられなかった。まっすぐに彼を見ることもできなかった。
「それに、僕はまた生まれ変わる」彼はわたしの耳元で囁いた。
わたしは息を止めて、彼を見た。変わらない微笑み。そう、わたしは、彼のこの笑顔に惹かれたのかもしれない。
生きることは、汚れを纏うこと。
その魂が、死を超えて、またあの月のように真っ白になる。
それが、生まれかわるということ。そしてまっさらになって新しい命を灯す。
輪廻、転生、再生。
もし、本当にそうならば、なんと素敵なことだろう。
だからわたしは、それをどこかで信じ続けている。
「新しい僕は、またどこかで君と会うかもしれない」
「うん」 わたしは泣き笑いの顔で頷いた。もう涙は止まって、その残りが零れるだけ。「また、会おう」
次は、白銀の満月の夜に。
生まれ変わった、新しい世界で。
「また、会おう」 彼も言った。寂しく笑ってる。「君に会えて、僕は輝けた」
「わたしも」
爪先を立てる。
彼の顎を両手でそっと引き寄せて。
唇を重ねた。
数秒。
無限に等しい有限の時。
唇を離す。
確かに存在した温もり。それが互いの存在証明。
彼は驚いた顔で、そして段々と恥ずかしそうに表情を崩して頭を掻く。
「……、ばいばい」
わたしも同じような顔をして、微笑んだ。
「うん……、ばいばい」
別れはそれだけ。
また会うのだから、それだけで充分だ。
わたしは、見事な蒼白の満月を眺める。この世に溢れる汚れから遠い場所にある、とびきり美しい宝石。透明な闇に浮かんだ水晶。今夜は、わたしと彼だけのもの。
わたしが再び地上へと目を向けたとき、彼の姿は消えていた。
闇と光とわたしだけ。
川の水流が、ずっと聞こえていた。
それからのことはよく覚えていない。
そのまま歩いて家へと戻った気もするし、ふと我に返って自室に瞬間移動していたのかもしれない。
とにかく、わたしが次に意識を取り戻したのは、明け方の光が差し込む自室だった。窓が開いていて、そこに立ち尽くしていた。恰好は寝巻き。入ってくる外の空気はとても澄んでいる。都会にはない清浄さだ。
あれは、夢だったか?
わたしは窓辺に歩み寄り、白んだ青い空を見上げた。どこにもあの見事な月は残っていなかった。
ふっと息を漏らす。
わたしは目を拭った。
そして、胸に残る切なさに別れを告げて。
それと同時に、窓を閉めた。
障子戸は外界とこの部屋を繋ぐ冷気を断ち切る。
呼吸音。
時計の音。
存在しない彼の声。
わたしはもう一度、笑って、目を閉じた。
遠い場所から、儚げな旋律が聞こえた気がした。
その日以来、わたしは、あの不思議な男と蒼い満月を見ていない。
どこまでも優しく、心にそっと触れるようなノスタルジィな響き。
どこか愛しくて、そしてどこかヒリヒリとした冷徹さを含んだ静穏の響き。
わたしはそれを覚えている。
決して忘れないと誓った。
いったい、誰と?
ぼんやりと誰かのイメージが湧き上がる。
形にならない蜃気楼のような存在が、そこにある。
燻った炎のように輪郭が定まらない。
もっと鮮明に思い出せるはずなのに。
もっと大事なものだったはずなのに。
私は努力する。
しかし。
それが夢だと気づくまで、思いのほか時間がかからなかった。
わたしは真夜中に目を覚ました。眠る為の身体的なコンディションや環境が悪かったわけでなく、ただ自然と、朝陽が昇った時のように覚醒したのだ。なので瞼を開いたとき、外が暗くて変だな、と思った。
身体が冷たい。毛布の中に沈んだまま、暗い室内の時計を見上げた。午前三時ちょっと前だ。そこで初めてまだ夜なのだと気づいた。
寒い……。
わたしは毛布の中で膝を抱えて、飼い猫のような落ち着いた気持ちで自分の鼓動と呼吸音を聞いた。
とても静か。そう、ここは、わたしが元いた場所じゃない。だから、こんなにも静寂。
目を閉じても何故だか眠れなかった。そして一秒一秒経つ度、霧が晴れるかのようにして、考えなければならない物事がわたしの頭の中に現われてきた。真白だったわたしの思考はもう、姿の見えない不安事でいっぱいになってしまった。そうなってしまったら、もはや眠れないことはわかっていた。何もこれが初めての体験ではない。
毛布からゆっくりと身体を這い出す。雪でも降っているのではないか、と疑うくらいに空気は冷えていた。でもそれほど冷えているのは嫌いじゃない。夜中の澄んだ冷たい空気が結構好きだ。でもそのままの格好ではさすがに寒かったので、わたしはズボンを履いて厚いパーカーを着る。寒かった原因には、わたしの眠る時の格好にも一因があったかもしれない。
狂気なほどに静まり返っていた。
わたしの呼吸音、衣類と毛布が擦れる音、畳を踏んだ時のわずかな抵抗の声、時計の秒針の刻み。全部、普段では気付くことのない脆弱な音だ。静寂を紛らわす為、ここぞとばかりに活躍しているが、この化け物じみた沈静の中とあっては焼け石に水だ。むしろ、静寂はそれを糧にしてより一層肥大しているように思える。
障子戸を開け、窓を開けた。青白い透明な光が差し込み、都会とは違う冷静な風が入り込んでわたしの顔を撫でる。この家は丘の上に建てられているので、窓からは広い庭園の先に土手が見下ろせる。さらにその先には細い川が緩く流れていて、その向こうには黒い森林が怪物の姿を覆い隠すかのようにして広く生い茂っている。
わたしは、束の間、呼吸をするのを忘れた。
あまりにも美しく、妖しい光景がそこにあったからだ。
黒い森林の真上には、蒼白の満月が浮かんでいた。白い靄状の雲が纏われるように掛かり、おぼろげに飾っている。漆黒の中にぽっかりと開いたその別世界。はっきり見えるくらい大きい。ここで見る月は巨大だ。神秘的な淡い月光が、わたしの瞳の中で何度も屈折する。まるでクリスタルのよう。じっと見つめていると吸い込まれそうになる。
わたしは覚えている。
彼と見た、白銀の月を。
熱気に溢れた大都市の夜に、彼と共に見上げたあの月を。
隣の部屋に通じる襖を開けた。兄がそこで眠っている。傍を通り過ぎても気づかれなかった。その部屋も慎重に脱出して、玄関口に出る。靴を履いて、しっかりと厚着して外に出た。
少し歩きたくなったのだ。なぜそんな気分になったかというと、自分でもよくわからない。しかし、恐らくあの月に魅せられたことが要因の一つだろう。ここはそんなに気に入っている土地ではないが、あの月だけは特別な存在になってくれそうだった。
外に出ると、自分の寝室の三倍は寒く思えた。身体の芯から凍える。そよ風すらがナイフのように尖って、わたしを鋭く突き刺す。ジャンパーのポケットに手を突っ込んで僅かな温もりを確保。もちろん、吐く息が目で見えた。そのまま吐息すらが凍りつきそうだった。雪が降っていないのが不思議なくらいだ。
とても暗い。玄関先の小さいくすんだ黄色の照明と夜空に浮かんだ淡い光だけがこの世界の光源だった。闇の中へ一歩踏み出す。凍えて緊張した身体がとても硬い。軒下の豆電球から逃れた。頭の真上よりちょっと前のほうに満月は浮かんでいる。南西の空だ。そちらをずっと見ていた。
家の前の林に囲まれた坂道を下った先にある畦道に出たところで、さぁ、どこへ行こうかと考えた。行先がなければ散歩もできない。
少し考えて、こんな田舎だけどあの細く緩い川を渡った先に自動販売機があったな、と思い出す。小銭の有無を確認してから、それを目指して再び歩き出した。
耳が痛くなるほどの静寂。瞼を閉じても変化の無い闇。神経を麻痺させる冷気。
木々のざわめきを耳にしても、目の前の闇を見据えていても恐怖は感じなかった。
多くの人、しかも、わたしと同じほどの年頃の女の子だったら、この得体の知れない常闇の世界に入り込むことはできないだろう。闇に包まれた瞬間、人は本能的に恐怖する。しかし、わたしはその防衛機能が欠如している。つまり、わたしは子供の頃から闇に恐怖したことがない。それは、わたしが他の人と比べて生存率が低いということでもあるのだが、今の人間社会ではもちろん、そんな数字に意味はない。どんな闇でも、わたしは普通に入っていける。皆が入ってこられない場所にわたしは行くことができる。そんなささやかな妄想で、わたしはいつもちょっとだけ楽しめる。
少し強い風が吹いて、森のざわめきが大きくなった。顔を上げる。燐光のような月の光を背に、背の高い木々のてっぺんがこの世のものではない何かを誘うようにゆらゆら揺れているのが見えた。
幽霊やオカルトにも特別恐怖心を抱くこともないし、そもそも、わたしは信じていない。あの手の話は、刺激をちょっと含んだ、人を満足させるエンターテイメントでしかない。人は死んだら無になる、というのがわたしの信じる通説。幽霊なんていない。だが、でももしかしたら、人が死んだら魂のようなものが転生して新たな人生の為に使われているのかもしれない、と考えることが時々ある。つまり、死んだ人は新たに生まれ変わるのだということ。理由はないけど、そう信じたがっている自分がいる。それを自覚した時、わたしはまだまだ子供だな、と自分を笑うことにしている。そんなことを考えている暇が、まだ自分にはあるのだから。
少し逸れたが、とにかく何が言いたいのかというと、暗闇が平気で幽霊を全く信じないわたしでも、今その木々の揺らめきを見て、ちょっとした不気味さを感じた、ということ。そんなわたしが今存在している。それだけ、今夜は特別な雰囲気だ。静かで、刺激的な夜だ。
都会も田舎も大して違いはないのだと最近知った。人は皆、都会に出て人の体温や刺激、あるいは安定を求めるものだけど、ここにも人はちゃんといるし、類が違うかもしれないけど多少の刺激だってある。望めば退屈なくらいの平和も手に入るだろう。住み方によっては便利さだって都会に負けていないとわたしは思う。声を上げて泣くほど、ここへ来るのが嫌だった数か月前のわたしが、もう別人に思える。
数か月前、父の仕事の都合で、わたしは都内から祖父の家の近くの田舎まで移ってきた。わたしが都内の難関な国立大学に受かったりしない限り、もう元の場所に戻ることはないそうだ。つまりそれは、あの街にわたし達一家が帰ることはもうないという意味。
あの街から出る時、わたし自身驚いたことだが、わたしはとても哀しい気持ちになって、わぁっと激しく泣いた。そんなこと、わたしが物心ついたときから一度もないことだったし、両親もとても驚いていたようだったが、この移動はもう確実なものだと決まっていたそうだ。わたしもそれを知って、もう泣くことはなかった。新しい土地に行くのは嫌だったが、しょうがないのだとわたしはすんなりと諦めた。それが、いつものわたしのスタンス。生まれてからずっと。他人から冷淡すぎる、と評価されることもあった。
そして、この土地に移ってきて、やっぱりここは好きにはなれなかったが、気づいたことがあった。ここも向こうも、大して変わらないと気づいたのだ。強いて違いがあるとすれば、そう、都会はここと違って、少しヒリヒリしている雰囲気だということくらい。それだけだ。でも、それだけの発見は、わたしの中ではとても大きな発見だった。
じゃあ、なぜ、わたしはあの街から離れるのが嫌だったのだろう。
最近、それをよく考える。考える度にわからず、首をかしげる。
そして、そうする度に。
わたしは自己嫌悪に陥る。
本当は覚えているくせに知らないふりをする。
それと向き合うのが怖いんだ。
もう一人のわたしが、指をさしてそう言ってくる。
わたしは歩きながら、頭に纏わりついた雑念を振り払った。
そうやって、わたしは、わたしにとって大切なものをなんとか忘れようとしてきた。
身軽になる為に。
囚われない為に。
忘れてしまえれば、もう関係ない。
自由だ。
馬鹿馬鹿しいことだが、でも、ひどく効率の良い単純な方法。
それが、わたしが唯一信じる救いの道だった。
気付くと、川の水流が聞こえていた。あの細い川にまで辿り着いたのだ。爪先を伸ばしてガードレールを侵食した草の茂みを越してみると、水の流れがそこに見えた。石で作られた小さな橋も向こう側に見える。そこまで辿り着き、対岸まで渡ろうとした時、わたしは気づいた。
人影があった。橋の真ん中で一人、誰かが立っている。
「え……?」 まさかこんな時間に誰かがいるとは思わなかったので、わたしは声を漏らして驚いた。
その人影はゆっくりこちらに振りかえった。今まで月を見上げていたらしい。
男だ。それも若い。ひょろりと痩せた身体だ。月の光だけでは顔がよく見えなかったが、どうやら微笑んでいるらしかった。
「こんな時間に散歩? 不審者ですか?」 少し低いが、少年の声だ。同い年ほどか? 同じ学校に所属している人間だろうか。
わたしはぽかんとして、その人影を見つめているだけだった。
「まさか、幽霊じゃないよね?」 男は冗談めいた口調で尋ねてくる。
「違います」 見えているかどうかわからないが、わたしはとりあえず首を振った。 「あなたこそ、こんな時間に出歩いていて怪しいです」
「僕は散歩。いい夜だからね。でも、女の子はこんな時間に出歩かないほうがいいよ」
「余計なお世話」 わたしは短絡に答える。
少し不機嫌になった。
誰とも会話せずに済むと思ったのに。今夜はいい夜になると思ったのに。
「いや、それにしても綺麗な月だなぁ」 男はもう一度顔をあげた。
うっかり釣られてわたしも見上げる。
変わらない満月がそこに浮かんでいる。淡い光を放ちながら、蒼白く輝いている。
「こんな特別な月、そうそう見られないよね」 男は同意を求めるかのような声で言った。
この地の者からしても、あの満月は珍しいらしい。残念だったが、でも納得はできた。いつも見ることのできる安いものだったら、あんなに綺麗じゃないだろうから。
「月見がしたくて外に出てきたんでしょ?」 男は無遠慮に訊ねる。
「えぇ……、そうです」 わたしは満月から視線を逸らし、深さの見えない川の暗い水面に目を移した。
視線を逸らすことに何の意味があったのだろうか。今、話している男の目だって闇に紛れて見えないのに。
自分を不思議に思いながら、男のほうへ目線を戻す。
「ねぇ、君、知ってる? 太陽ってなんで眩しいのか?」 男は唐突にそんなことを訊いてきた。
初対面の人間にそんな事を訊かれること自体不自然だったが、わたしは特に違和感もないまま真面目に考えた。
「燃えてるから」 すんなり答える。
男は笑い声を漏らして頷く。
「うん、そう。じゃあ、なんで月が明るいのかは?」
「その太陽の光を反射してるから」
「正解」 男は嬉しそうにまた頷く。
そして月のほうへまた顔を向けた。
「自分で光ることはできないんだよ、あれは……、あんなにでかくて、地上じゃ夜の象徴みたいに扱われてるくせに、他のものを利用しないと輝けないんだ」 男はつらつらと、そして余韻を残すような話し方。
わたしは、その言葉に聞き覚えがあった。
「昔、誰かが同じこと言ってた気がする……」
頭がぼんやりと麻痺しているのが自分でわかった。どうしたのだろう、眠気が戻ってきたのか?
「うん、きっと、誰かが言ったんだろうね」
草の茂みが風に吹かれて不吉に騒ぐ。わたしは首を竦めてジャンパーの襟元に顔を埋めた。とても寒い。慣れようがないほど凶暴な冷気だ。
「あなた、いつからそうしているんですか?」 男が厚着していないように見えて、わたしは思わず尋ねた。
「月なら、ずっと前から見てたよ」 男は独り言のように答える。わたしの問いに答えたのかどうかも定かではない。「ここにはそんなにいないけど……」
川のせせらぎが聞こえる。爽やかな音だけど、いざ実物の川を見下ろすと闇に濁った廃油のようだった。
「月を見てるとさ、なんか、色々と思い出すよね」 男は月を見上げたまま、こちらに向かない。「感慨深くなるでしょ」
「わたしはそんなことないですけど」
「嘘だぁ」 男は吹き出して言う。
「嘘じゃないです」
「例えば、僕らくらいの子なら、好きな人のこととか……、別れた人のことだとか思いださない?」
「そういう関係になった人、いません」
「ふぅん、そうなの……」 男は妙な間を空ける。
「なんですか?」
「いや、たぶん綺麗だと思うから、もったいないなぁって」
「月がですか?」
「むぅ……」 男は鼻を啜って、頭を掻く。
そういうジョークは嫌いだから、わたしは最初から拒絶することにしている。
「僕はいるよ。好きだった子とか」 月を見上げながら男は言う。男の黒髪が、月の燐光を浴びて艶やかに煌めく。
誰とも会話をしたくない気分だったが、ふと、暇つぶし程度にこいつの無駄話を聞くのも悪くないだろうと思った。だから、わたしはそのまま橋の上に留まることにした。
それとも、何か、もっと別の。
何か、もっと重要なものを、わたしはこの男の中に見つけたのだろうか。
「でもその子、転校しちゃって会えなくなっちゃったんだ」 男は不思議な間でくすっと笑う。「すごく大好きだった」
弱い風が吹く。わざわざ、わたし達を凍えさせる為だけに吹いたような厭味な風。
「でも、はっきりした告白もできないまま、離ればなれ。もうずっと会えない」 憂いを帯びた語調で男は言った。
そして少しの間、黙る。
わたしは彼の真意を探るように、わずかな月光を頼りに暗闇の中で目を凝らした。
男の顔ははっきり見えない。でもなぜか、その顔がいとも簡単にイメージできた。それは、あくまでわたしが脳内で、声色などをヒントにして、過去の記憶の中で一番この男に近そうな人物の顔を張り付けているだけなんだけど。
変な夜だ。もしかして、わたしはまだ夢を見ているのだろうか。そう考えるのが自然なくらい、変な夜だ。
「辛かったよ、とても。辛くて辛くてどうしようもないんだ」 男は言う。もう、憂いの調べはなかった。
「だから、僕は、川に飛び込んだんだ」
「……え?」わたしは、彼を見た。闇に隠れたその顔を。
男はこちらを見つめていた。垂れた前髪と増幅する闇の所為で目許は見えない。だけど、口は緩い曲線で笑っていて、それだけが強い印象を残す。
冷たい風が吹いた。
視線を感じる。
ゾクッと悪寒が走った。
急激に、四肢が重くなる感覚がした。手が、脚が、動かない。首や顔すらも。
空間が歪むような圧力。何もないのに、鼓動が苦しいくらいに速くなる。
わたしの目は、男に釘付けになっていた。
離したくても離せない。
何かに対して警告を発するように、心臓はドクドクと加速していく。
痛い。
苦しい。
破裂してしまいそうだ。
眩暈がする。
「うん、まぁ……」 男は突然にわたしから視線を逸らし、また月の方へと向けた。「浅い川で、びっくりしたけど」
「え?」
「痛いし、冷たいし、水は臭いし、びっくりだよ」 彼は歌うような、おどけた調子で言った。
わたしはきっと中身の無い映画を見た後のようにぼんやりしていただろう。すべての不思議な現象が、その時には既に消えて、わたしの身体はとても軽くなっていた。
なんだ、今のは? 錯覚……?
何事もなかったかのように男はポケットに手を突っ込んで月を見ている。
途端に、身体が震えるのを感じた。
恐怖ではない。信じられないが、なにか嬉しいものがこみ上げて来たのだ。
わたしは声を出して笑った。本当に、久しぶりに、声を上げて、腹の辺りを抱えて笑った。
男はびっくりしたようにこっちを見た。
「な、なんだよ、いきなり。びっくりした……」
わたしだってとても驚いている。でもなぜか、可笑しさが堪え切れない。
「こ、こっちがびっくりしたよ、ほんとに。あっ、はは……」
「あっ」
「えっ?」
わたしは目に浮かんだ涙を拭って彼を見た。と、同時に月の輝きが目に映った。眩しさを覚えるほどの光だった。
「やっぱり、君、綺麗だね」 男は微笑むように言った。
どうやら、笑ってしまって上を向いた時、月光がわたしの顔を照らしたようだった。
わたしは言葉なく、冷静に彼を見つめた。可笑しさはもうどこかに消え失せた。わたしは自分の意識すらも客観的に思えるくらいに落ち着いていた。
「えっと、その……」 男は俯いて頭を掻いた。
わたしが何も言わなかったので困ったのだろう。失言を撤回できる台詞を探しているようだった。
月を見上げた。わたしの視界の中で一番の光を持った存在。愛しい存在。
「わたしも、いたかもしれない」
「え?」
「その、好意を寄せてた人とか……」わたしは言葉を少し濁す。なぜそんな表現をしたのか、わからない。
今の今まで口に出すのを恐れていた人物。胸の奥底に封印していたせいか、彼の名前を忘れてしまった。しかし、名前なんかどうでもよかった。彼の姿形、吐く言葉、遠くを眺める眼差しだけが彼の存在証明だった。
なぜわたしは、あいつの事を急に思い出したのだろう。
「へぇ……」 男は軽く相槌を打つ。「羨ましいね、そいつが」
「うん……」 わたしは幽玄で美しい月を眺めたまま。「わたしも、あいつのことが羨ましい」
「君がそう思うの? なんで?」 男は尋ねる。
さぁ、なんでだろうか。
理由は見つからない。
今の今まで忘れていたのだから理由なんてそんな大層なもの、あるはずがない。
嘘。
それは嘘だ。
本当は忘れてなんかいなかった。
心の中で、向き合うのを恐れていただけ。
傷を深めるのが怖くて、怖くて……。
何もせずに、知らん顔をしていただけだろう?
もう一人のわたしが、どこか姿の見えない場所でそう言っていた。もしかしたら、振り返った先にもう一人のわたしが立っているかもしてない。そちらを睨んでやろうかと思ったが、わたしの目は今度は蒼白い月へと釘付けになってしまっていた。
また不思議な感覚。
すべての時間軸が狂い始めるような。
過去も、未来も、すべてなくなってしまいそうな。
そんな不安定なムードが辺りを包み始めた。
わたしは不思議と焦らない。
「月を見たことがある」 わたしは言った。「名前も覚えてないけど、あいつと一緒に」
「あんなふうな月?」 男は蒼白い月を指す。
「もっと白っぽかったかな」 わたしは答える。
そう、あれより、ずっと白く輝いている月だった。
それはとても美しくて。
今まで何度も見上げたことのあったはずのものなのに。
なぜ毎夜ごと、その美しさは違うのだろう?
どこからか現れた一筋の長い雲が、風に流されて月に被さる。わたしたちに注がれていた月光が遮られ、周囲は暗くなった。
わたしはその闇の中で、一人の男を思い出す。
あの日はとても暑かったのを覚えている。八月の熱帯夜だった。
彼は、ジャンパーのポケットに手を突っこんだままベンチから立ち上がり、「今日の月は綺麗だよ」と言った。
いつもと変わり映えのない衛星が、彼の目線の先にぽつりと浮かんでいた。
わたしは微笑みもせず、彼の横顔を見つめ、そして月を見上げた。
手に何かが触れる感触。
わたしは自分の右手を見る。
彼の左手がそっと添えられていた。彼の目線は月に向いたまま。
普段のわたしなら手早く払っているところだったが、なぜだかそんな気は起こらなかった。
なぜだろう?
ただ、わたしの胸の内に、言い知れぬ混沌とした塊があったのを覚えている。
とてもあやふやとしたもの。
特別といえば、特別。
溶けたゴムのように纏わりつくもの。
でも、手放したくない謎の愛情。
もしかしたら、あれが恋愛感情というものだったのかもしれない。だとしたら、恋というのはまったくもって難しいものだ。判断すらが難しい。
「ねぇ、知ってる?」
彼は突然に、顔をこちらへ向け尋ねてきた。
その後、なんと言ったのだっけ……。
これは本当に覚えていない。
でも、その忘却の果てに消えた言葉が、わたしの価値観を変えた。
白い月が、白銀へと変わってとても美しいものとなった。
わたしは驚き、そして、都会の夜の暗幕に映った小さな宝石の美しさに心酔した。
彼の左手をそっと握った。生まれて初めての触れ合いだったかもしれない。
彼は、なんと言ったのだろう。
脳の奥から出掛かってる。もう少しで引っ張り出せそうなのだけど。脳というのは仰々しく居座っているくせに、いざという時はこれっぽっちも役に立たないものだ。
「その人のこと、思い出してるの?」
声がした。わたしはふと伏せかけていた顔を上げる。追想とは別の男の影が立っていた。辺りは夜の闇。
「ええ、そう……、不思議だ、大切だった気がするのに」
目が霞んでいることに気付いた。先程の可笑しさからこみあげた涙の残りかと思ったが、どうやら全く別物のようだ。わたしは声もなく、静かに驚いていた。
「なんだっけ……」 さりげなく目許を拭う。声が震えた。「なんで思い出せないんだろう」
雲が、月の前を通り過ぎていく。闇が晴れ、また青白い光が射す。澄み切った空となる。
「あの月……」 男がぼそっと言った。
「え?」
蒼い満月は淡く、眩しく、そして神秘的な光を放っている。
その光が、男の横顔を照らした。
今度こそわたしは、全身の毛が逆立つのを感じた。
男の顔面は不気味なくらいに蒼白で、前髪から水が滴っている。さっきまで、そんな様子ではなかったのに。彼の足元を見ると、水溜まりができていた。水が赤黒く濁っている。額から血を流していた。
幾筋もの赤い線が、彼の白い肌を伝っている。
非現実的な、強烈な紅色。
息ができなかった。
立ち尽くしたまま身体がピクリとも動かず、声も上げられない。
鼓動が疾走していく。苦しい。寒いのに、汗が噴き出すのを感じた。
男は、虚ろな目線をわたしに向ける。ゆっくりと一歩、こちらへと歩を踏む。
わたしは、自分でもわかるくらいに大きく目を開いていた。大声を上げたつもりだった。が、喉から出てくる直前に声が消えていくのも感じた。
「川が浅くて、びっくりしたよ」
地の底から響くような太く低い声。今まで聞いていた男の声とは全く別だった。
しかし、わたしが驚愕したのはそれだけではなかった。
変貌したその男の顔は、わたしが闇の中で思い描いていた男の面影と全く同じだった。わたしと同様、大人に差し掛かった子供の顔。懐かしくて、愛おしくて、そして今では恐ろしい面だった。
なぜ、ここにいる?
わたしはそう言おうとしたが、もちろんまだ声が戻らない。喉自体がひきつけを起こしているみたいだった。
彼の額からは血がどんどん溢れ出ている。
「僕がなにを言ったか、わからない?」 彼は無表情で言った。全身ずぶ濡れで、至る箇所から水が滴っている。
これは夢だ、とわたしは思った。その考えに縋りついた。目を閉じてもう一度開けば、きっと寝室の天井が見えるはず。
でも。
わたしはふと、冷静になった。
どこの寝室に戻るのだろう?
わたしは、目覚めたら、どこにいる?
都会か? 田舎か?
もしかしたら、すべて夢だったかもしれない。転校したのも、彼と月を見たのもすべて。
そうだったら……。
そうだったら、なんと素敵なことだろう。
わたしは、落ち着いてゆっくり呼吸した。張りつめた空気の中、肩の力を抜くようにして、目の前の彼を見る。心拍数が急速に鎮まるのがわかった。
ずぶ濡れで血を流し続ける彼は、無表情にわたしを見つめた後、ふっと息を漏らして微笑んだ。
「うん、君らしい対処だね」
彼の血の筋が消えた。水もすべて、最初から何もなかったかのように。そして元の姿の彼となった。都会に住む、一人の普通の少年。カッターシャツと黒い学生用のズボン。いつもの、彼だった。
あぁ、やはり夢なのだと思った。
「いや、夢じゃない」 彼は首を振った。
わたしはただじっと彼を見つめる。どういう態度を見せればいいのか、わからなかった。たとえ夢の中で、妄想上のことだったとしても。
「久しぶり……」 それを言うか言うまいか迷っている内に、勝手に口から滑りだした。
「うん、久しぶり」 彼は返した。
「なんで……」ようやく、わたしはその疑問を口にできた。
彼は頭を掻いて首を横に倒す。どう答えるか考える仕草だ。彼の癖。ずっと前にもそうしていたのを見たことがある。
「会いたかったから、かな」 彼は事も無げに答える。
彼の身体が透けて見える。それはわたしの幻覚ではない。月の光が彼の身体を貫通しているのがはっきり見える。
「あなた……」
「うん、そう、君が考えてる通り」 男はそう言ってまた微笑む。「早まっちゃったかな」
わたしは、幽霊なんて信じない。信じていないのに、わたしは彼が今、どういう存在なのか理解している。言葉に形容できないだけで、ちゃんとした確証を心で感じられる。
「馬鹿じゃないの……」 わたしは首を振って言う。「馬鹿よ、あなた」
視界が滲む。目が熱い。理由のわからない涙が溢れた。それがぼろぼろと零れて、頬を熱く伝っていく。止めようとも思わなかったし、止められなかった。
彼は肩を落とし、溜息をついた。疲れきった笑みをわたしに向ける。
「そう言うと思った」
「なんで……、どうしてよ……」 声が割れてしまっていた。
「君に忘れられたくなかったから」 彼は言う。
わたしは、言葉も失って、ただ茫然と立ち尽くしていた。何も考えられない。涙だけが流れていく。それに混ざって、思考も流れ出ているようだった。
「忘れてなんか、いない……、ずっと……、会いたくて、会いたくて……」
「うん」
「なのに……、なんてこと……、あぁ、もう、嘘だ……」
「嘘じゃない」 彼は、わたしのほうへ一歩近づく。
「死ぬことなんてないじゃない」 わたしは彼を恨めしく睨んで、唇を噛んだ。
「僕にとって、君の存在は大きすぎたみたい」 彼はもう一歩寄って、わたしの頬に触れた。
とても冷たい。人の体温なんて感じない。でも、それは今のわたしも同じことだろう。
「熱いね」 彼は静かに言った。「君の涙」
「馬鹿」わたしは顔を俯かせて、手を顔に当てた。泣きすぎて、しゃっくりが出た。
突然、彼の手がわたしの頬から離れた。
わたしは慌てて顔を上げて、彼を見る。そのまま彼が消えてしまうと思ったからだ。
だが、彼は変わらず目の前に立っていて、柔らかく微笑んでいた。
「ねぇ、思いだした?」 彼は後ろを向いて月を見上げる。「僕が、あの時、なんて言ったか」
わたしは彼の背中を霞んだ目で捉え、しゃっくりに紛れて唾を飲み込む。
「うん……」 わたしは頷いた。「さっき、言ってたことでしょ?」
「そう」 彼は振り返って、微笑む。「月は自分だけじゃ輝けない。独りじゃ、存在できない」
わたしも微笑んでやった。彼の顔が少し困って見えたから。
そう。
他の物を利用して、輝く。
それは共存するということ。
一つじゃ存在できないのだ。
それを彼は言っていたのだ。そういう物の考え方が好きな奴なのだ。
人間だって同じ。
独りじゃ、生きていけない。
わたしと彼は、特にそうだろう。
だから。
だから彼は。
“――僕らも、同じ”
これが、恋愛感情というものだろうか。だとしたら、愛というのは、残酷なほど難しいものだ。
わたしは夜空を見上げた。この世で最も美しい輝きがそこにある。
「さぁ、もう、時間が迫ってる」 唐突に彼が言った。「僕の望みは果たされた」
わたしは驚き、うろたえて、彼の着ているシャツの袖を掴んだ。冷たく湿っていた。
「まだ行かないで」 わたしは懇願した。「もう、離れるのは嫌……!」
それとも、わたしが死ねば。
彼と同じように、この橋から川へと飛び込めば。
永遠に彼と共にいられるだろうか。
「馬鹿なこと考えるな」
彼はふっと笑って、わたしを抱きしめた。彼の身体は冷たかった。それでもわたしは、彼の身体を抱き返した。
「あなたがいなきゃ、わたしだって生きられない。あなたが、死んだように」 彼の胸の中で、親を説得する幼い子供のように必死に言った。
しかし、彼は首を振った。わたしの身体を離して、肩を掴む。
「君はこれから幸せに生きるんだよ。僕なんかよりずっといい人に気に入ってもらって、子供を産んで、温かい家庭を作る」 彼は笑う。「僕がそう願って、あの街のどぶ川に飛び降りたんだから」
「卑怯だ……」 わたしは嗚咽を抑えられなかった。まっすぐに彼を見ることもできなかった。
「それに、僕はまた生まれ変わる」彼はわたしの耳元で囁いた。
わたしは息を止めて、彼を見た。変わらない微笑み。そう、わたしは、彼のこの笑顔に惹かれたのかもしれない。
生きることは、汚れを纏うこと。
その魂が、死を超えて、またあの月のように真っ白になる。
それが、生まれかわるということ。そしてまっさらになって新しい命を灯す。
輪廻、転生、再生。
もし、本当にそうならば、なんと素敵なことだろう。
だからわたしは、それをどこかで信じ続けている。
「新しい僕は、またどこかで君と会うかもしれない」
「うん」 わたしは泣き笑いの顔で頷いた。もう涙は止まって、その残りが零れるだけ。「また、会おう」
次は、白銀の満月の夜に。
生まれ変わった、新しい世界で。
「また、会おう」 彼も言った。寂しく笑ってる。「君に会えて、僕は輝けた」
「わたしも」
爪先を立てる。
彼の顎を両手でそっと引き寄せて。
唇を重ねた。
数秒。
無限に等しい有限の時。
唇を離す。
確かに存在した温もり。それが互いの存在証明。
彼は驚いた顔で、そして段々と恥ずかしそうに表情を崩して頭を掻く。
「……、ばいばい」
わたしも同じような顔をして、微笑んだ。
「うん……、ばいばい」
別れはそれだけ。
また会うのだから、それだけで充分だ。
わたしは、見事な蒼白の満月を眺める。この世に溢れる汚れから遠い場所にある、とびきり美しい宝石。透明な闇に浮かんだ水晶。今夜は、わたしと彼だけのもの。
わたしが再び地上へと目を向けたとき、彼の姿は消えていた。
闇と光とわたしだけ。
川の水流が、ずっと聞こえていた。
それからのことはよく覚えていない。
そのまま歩いて家へと戻った気もするし、ふと我に返って自室に瞬間移動していたのかもしれない。
とにかく、わたしが次に意識を取り戻したのは、明け方の光が差し込む自室だった。窓が開いていて、そこに立ち尽くしていた。恰好は寝巻き。入ってくる外の空気はとても澄んでいる。都会にはない清浄さだ。
あれは、夢だったか?
わたしは窓辺に歩み寄り、白んだ青い空を見上げた。どこにもあの見事な月は残っていなかった。
ふっと息を漏らす。
わたしは目を拭った。
そして、胸に残る切なさに別れを告げて。
それと同時に、窓を閉めた。
障子戸は外界とこの部屋を繋ぐ冷気を断ち切る。
呼吸音。
時計の音。
存在しない彼の声。
わたしはもう一度、笑って、目を閉じた。
遠い場所から、儚げな旋律が聞こえた気がした。
その日以来、わたしは、あの不思議な男と蒼い満月を見ていない。
後書き
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