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作品ID:278

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約30032文字 読了時間約16分 原稿用紙約38枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

The ERASER

作品紹介

古城、花売りの娘、旅人、別の世界、消失、崩壊、再会。 原曲・Thom Yorke











僕としては失笑モノの出来上がりですが、「書いてしまったものはしょうがない、えいやっ」という勢いでこちらに投稿させて頂きました。故に、推敲は致しましたが、修正が入るものと思われます。どうか、ご容赦下さい。


 なだらかな起伏の続く草原を越えると突如、その城は現れる。

 眩しい陽射しと吹き渡る春風の中、そこにはもう誰も住んでいない廃墟の城が淋しく屹立している。尖塔を遥かな空に向かって突き出し、土煉瓦を重ねた堅固な外塀をぐるりと囲わせてふんぞり返っている。しかし、その堂々として勇ましい造形も優雅な気品を醸しだす細工の類も、もう誰の目にも留まらない。

 かつて、ここに集っていた人々は何処かに消えてしまった。古城のアーチ型の門には、いまや淋しい風の音が響くだけ。

 この城を訪れるのがエリィの日課だった。ここからさほど離れていない小さな村で彼女は暮らしている。エリィはこの古城が好きだった。幼い頃から母に黙ってよく訪れていた。

 バスケットのかごを抱えて、エリィは開放されたままの正門から城内へ入る。門から抜けて数段上がるとすぐにピロティがあって、太くがっしりとした巨大な円柱が一定の間隔を保って何本も建っている。目の眩むような高さにある天井を支えているのだが、柱自体が随分傷んでいるので、いつ崩れるかわかったものではない。見上げると、光が届いていない為に梁の部分は薄暗くてよく見えなかった。

 遥か昔、重厚な鎧に身を包んだ屈強な兵達がここに立って、城を守っていたのだろう。エリィは思いを馳せながら、てくてくと柱の間を歩いていく。

 正確に、ここをどの国の王族が所持していたのかとか、戦時にこの城がどのような役割を果たしたのかなど、エリィにはわからないことだらけだ。この城を包む雰囲気が何となく好きなだけである。都の書物を調べれば詳しくわかるかもしれないが、そこまでの情熱を彼女は持ち合わせていない。

 やがてピロティを抜けると、今度は完全に屋内に入る。かつて存在していたはずの門扉は既に無く、そこから誰の審査もなく入れる。扉は見事な造りであったのか、取り外してどこかの賊が盗んでいったのかもしれない。上質な木や鉄の端材などは市場で高く売れるのだ。この城はそういった目的の、荒らされた痕跡が随所に見られる。年月によって朽ち果てただけではなく、人為的な破壊による倒壊も少なくない。

 村の住民全員を呼んで宴を開けるほど広大なホールには、しかし人の気配はなく、常時黴臭い。エリィの知る限り、これは年中の事だ。石造りの床を歩くと、風化して表面に溜まった塵が舞い上がる。日中には倒壊した壁の隙間から射し込む陽光でそれが視認できるほどだ。この環境にも子供の時から訪れ続けているエリィはすっかり慣れてしまった。

 城内であるというのに小鳥の囀りが聞こえる。すかすかに穴の空いた城壁から侵入した小鳥達が、かつての栄華を象徴したステンドグラスやレース生地のカーテンも失った窓枠に巣を作っているのだ。一層可愛らしいヒナの鳴き声にエリィは思わず微笑む。

 子供の頃は、ここを訪れる目的はただ単に冒険心を満たす為、つまり遊びに来ていたのだが、大人になると少々事情が変わった。

 エリィは村からさらに離れた街まで花を売りに行って生計を立てている。だが、野花の売れ具合などたかが知れていた。しかし、珍しい花となると話は別で、上品な貴婦人から都へ向かう途中の神官の一行までもが買ってくれるのだ。そして、彼女が秘密の場所としているこの城の中庭、そこにしか咲かない花をエリィは毎日採りに行くのである。

 朽ちかけた階段の傍を慎重に抜けて、少し狭まった西側の通路に入る。かつて、ここの壁面にも職人達の誇りを示した絢爛たる装飾が施されていたに違いない。そんな気配があったが、今はもう銀の燭台の一本もない。全て盗まれてしまったのだろう。

 光のない暗い廊下だったが、エリィはもう道順を覚えているので足の向く先を躊躇わせたりなどしなかった。突き当たる通路を右に抜け、吹き抜けの尖塔の内部を過ぎた先にその場所はある。

 四方を分厚い石壁で囲まれた緑の至宝。

 人の手から離れても、なお上品にあり続ける芝生。低い柵に囲まれた花壇の中で、過去の王族達を愉しませたに違いない至上の美しさを湛えて咲く鮮やかな花々。ゆっくりと怠慢気味に飛ぶミツバチ。ここに来るといつも甘い匂いがするし、とても暖かい。冷たい石壁に囲まれ、土埃に塗れた城内とは真逆の世界。

 この中庭がエリィにとっての秘密の場所だった。

 エリィはここの草花を管理したことは一度もない。日当たりがよく、現に今、陽光に目を細めている程である。なのに、ここだけは、まるで時間が止まっているかのようにすべての過程が止まっている。草は一年を通しても全く伸びず、花は枯れるどころか、萎れることすらない。無論、冬でもこの景色に変わりはなく、土はいつだって温かいし、ミツバチや蝶はいつも飛んでいる。周囲の建築物の損傷など嘘のように、あるがままで、そして気品を保ちながら、ここは変わらずに存在している。

 この現象について、魔法というものが存在していた時代の産物ではないだろうか、とエリィはよく考える。この城内にはそのような摩訶不思議な陣が刻まれている箇所が幾つかあるのを彼女は知っていた。

 しかし、エリィにはそんな事はどうでもよい。

 魔法でも自然現象でも、ここに美しい緑が溢れているのは事実だ。

 それだけで充分で、この神の箱庭のような場所を独占できるというのが、エリィはとても嬉しかった。子供の時から、その感情に変わりはない。

 花を摘む前にかごを置いて、草地の上に思い切り寝転んでみる。草のクッションは極上に柔らかくて、日光と花の匂いがする。ここは本当に心地良くて毎度眠気が襲ってくるのだ。ここでの昼寝は格別に気持ちがいい。

 優しい風の音が、亡き母の子守唄のよう。

 エリィは目を閉じる。風が彼女の髪の毛先を震わせる。

 ここに来ると、色んなことを思い出す。

 時には自分が見たこともないような光景すら夢に見る。注意しているものの、彼女はよくここで眠ってしまうことがあった。

 その日も、エリィは気を付けていたにも関わらず、少しうとうとし始めてしまう。



 閉じた瞼に広がる一瞬の夢模様。

 映り込む鉄、鉄、鉄。

 そこはとても暗い場所。

 同時に妖しげな、不自然な光が灯る場所。

 松明の明かりとも違う。

 稲妻の閃光とも違う。

 神秘的な月光とも違う。

 別の世界から届く光のような。

 不安げな明るさ。

 淋しげな眩さ。

 それだけが、ぼんやりと、しかし鮮烈に、闇の中で広がっている。

 薄闇の中では鉄の塊が、まるで意志を持っているように彼女を取り囲んでいる。

 その中心で彼女は横たわっているのだ。

 耳に聞こえるのは、何者かの唸り声。

 囲んでいる者達の目が光っている。

 赤色。

 黄色。

 青色もあった。

 酷く恐ろしい光景だと思うのに。

 何故か懐かしいと感じる。

 前世の記憶であろうか?

 浮世離れした場所だったのに。

 あるいは……、未来?



 エリィはふと目を開いた。

 聞き慣れない音がした。耳を澄ませる。風と草花の囁きの中に、確かに聞こえてくる。

 人間の足が草を踏む音だ。こちらに近づいてくる。

 勢いよく顔を上げた。見ると、彼女が来た場所と反対側の通用口から男がやって来る。

「誰?」 エリィは声を大きくして尋ねる。

 向こうの男は心底驚いたようで、何か奇声を発した。青い瞳を大きく見開いてこちらを見ている。その瞳を見て一瞬、エリィは夢の中の発光体を連想したが、あれよりはよっぽど澄んだ色だった。

「君は……? えっと、ごめん、まさか人がいるなんて、びっくりした……」 青年の声だった。空の両手を顔の高さまで持ち上げている。 「あ、見ての通り、旅人です」

 エリィは驚きながらも、注意深くその男を観察する。色褪せたマントの下にある皮造りの胸当て、くすんだ鼠色のブーツ、頭に巻いたバンダナ、腰に掛かった鞘に納まった剣。確かに、どこでも見かけるような旅装だった。エリィの住む村にも時々、このような恰好をした旅人が訪れる。

 しかし、この男の立ち振る舞いは、外見以上にどことなく奇妙な印象を抱かせる。少なくとも、今までエリィが見てきた旅人とはどこか雰囲気が違う。しかし、具体的に挙げられるほどはっきりした相違でもない。

 無地のバンダナから伸びた美しい薄紫色の艶のある髪、端整な顔立ち、コバルトブルーの色をした綺麗な瞳。それが今は緊張したように固く微笑んでいる。悪人面には到底見えなかった。

「旅人ですか」 エリィは肩の力を抜く。実は腰を抜かしていた。賊だと思っていたのだ。

「あの、大丈夫ですか?」 青年が手を差し出しながら近付く。表情は引き攣った笑みのままだ。

 その意外に太い手を握った。エリィは少し恥ずかしかった。思うように立てないのであった。 「あ、ありがとう……」

「いえ……、あの、僕はリュウといいます。あなたは?」 

「わたしはエリィ。近くの村の者で、花売りです」

「近くの村の? あぁ、なるほど……」 リュウという名の青年は妙に納得したように頷く。

「えっと、なにか?」 不思議に思ってエリィは訊ねる。

「いえ、こちらのことです……、ここで何を?」

「あの、この中庭の花を摘みにきたのです」

 近くの花壇に咲いていた、白い花弁に綺麗な赤い波線型の模様が走った花を一輪摘む。形は百合の花と若干似ているが、色彩や香りは明らかに別物だ。摘んでみると水に差しただけで一ヶ月は保つ。野花だと長持ちするほうだが、ひと月を超えると急に萎れ始めて、それから一刻ほど経てば、乾いた花弁を散らし切って目も当てられないような姿となって果てる、という変わった特徴を持っている。

 この花が街でよく売れる花であった。少なくともエリィはこの花をここでしか見たことがないし、街で買っていく者も皆、初見だそうだ。都の学者や神官ですらがそう言うのだから、珍しい花であるのは間違いない。ある意味、お墨付きだ。

 リュウは渡された花をしげしげと眺め、感嘆混じりの息を吐いた。

「へぇ、綺麗な花ですね。こんなのは見たことがない……」 彼は真面目な顔で観察を続ける。

「あ、よく言われるんです。珍しい花だって。街ではよく売れます」

「エリィさん、でしたよね? この花の名前は……?」 澄んだ瞳をこちらに向けて彼が訊く。

 どう答えようか、エリィは少し思案する。徐々に、頬に熱が集中してきたのを感じた。

「あの、名前はわたしもわからないんです。でも、品物として出すときは……、“エリィの花”と……」 気恥かしくて目線を逸らす。 「おこがましいですよね、そんなに綺麗な花に自分の名前なんて……、でも、売るときは名前を決めないといけないから……」

「いえ、素敵な名だと思います」 リュウは柔らかく微笑んで、花をこちらに差し出して返す。 「そう……、エリィの花、か……」

 彼はレザーの手袋を嵌めた手を顎に添えて、また何やら独りで思索に耽る。

 花をかごの中に優しく添えてから、エリィは改めて旅人の青年を観察した。

 やはり、どことなく違和感を感じる人だった。

 言葉にできるほどはっきりしたものではない。しかし、無視して認識できるほどではない不思議。どこか違う世界から来た人間のような気すらした。

「えっと、リュウさん、あなたはこのお城には何の御用で?」 ふとその疑問を思い出して、口にする。

 我に返ったようにこちらを見てから、彼はうーん、と首を捻る。薄紫色の髪を片手で撫でている。答えたくないのかもしれなかった。

「実はですね……、ある仕事を依頼されてここに来たんです」 たっぷり時間を消費してから彼は答えた。

「仕事?」 エリィは意外に思って訊き返す。

 こんな朽ち果てた古城に、一体何の目的があるのだろう。ここには花を採るか、骨董品を盗むか、あるいは建築学の参考にするくらいしか価値がない。

 もしかしたら、この城を打ち壊しにやってきたのかもしれないと思い至り、やや不安になったが、そんな彼女の杞憂を裏切ってリュウは答える。

「『幽霊退治』なんですよ。この城に出没する化物を討ってほしいとのことで……」

 あまりに突拍子の無い発言だったので、しばらくエリィは呆気にとられた。「幽霊、ですか……」とようやく相槌を打つ。

「ええ。ここに集まっていた人々が消え果てたのも、すべてそいつが原因らしく……、真相はわかりませんが、強敵ではあるでしょうね」

「待ってください。その、わたし、ほとんど毎日ここに来ていますが、そんなの一度も見たことありません」 エリィは強く否定する。彼の言ってることは嘘だと思った。

「それは昼には現れないからでしょう。なんたって、幽霊ですからね」 場違いなほど彼は爽やかに微笑む。「それに、あなたには襲いかからないでしょうね……」

「……どういうことですか?」 エリィは訝しむ。

「あ、いえ、別に……」 彼はうっかりしたように言い淀む。 「でも、うん、そうですね、この時間には出没しないのかも」

 直感ではあるが、彼は嘘をついているとエリィは確信した。もし本当に彼の言う幽霊が存在していたら、とっくに自分が襲われているだろう。それに、ここで暮らしていた人々を消し去るような怪物が、ホールの窓縁を住処にしている小鳥達を放っておくわけもない。何か他の目的があってここに訪れたのだろう。そんな雰囲気が見てわかる。

 しかし、彼はどうやら城を荒らしにきた賊でもないようだし、自分に危害を加えるつもりもないらしい。その点にエリィは安堵していた。

「エリィさん、僕は少し城の中を見てきます。お帰りになるのはいつ頃ですか?」 リュウは辺りに目を配りながら訊ねる。庭ではなく朽ちかけた城の壁を見ているようだった。

「日暮れまでには城を出ますけど……、ここで花を摘んで少し休んでからですね」

「じゃあ、お帰りになる時には僕をお呼びください。こんなに静かなら、大声で呼んでいただければきっと聞こえますから。村まで送って差し上げます。物騒ですからね、外は」

 リュウはそう言って、エリィが来た方の通用口から城の内部へと消えた。

 大声で叫んだら幽霊にも聞こえてしまうだろう、と思っていたが黙っていた。

 彼の妙に落ち着いた態度からも、これから戦闘に臨む風には全く見えなかった。彼は何をしに来たのだろう、とエリィはまた考える。

 もしかしたら、と城の各所に刻まれた魔法陣を思い浮かべた。

(あれを見に来たのかもしれない……)

 そうだ、と独りで頷く。きっと、彼は奇跡の業である魔法を研究する為に世界を旅して回っているのだろう。そのような研究者が多くいると彼女は聞いたことがある。

 そう考えると、彼を包んでいたどこか飄々とした雰囲気にも納得がいった。 





 ◇





 一旦、推考を中断してエリィは花摘みに専念した。丁寧に一輪ずつ、優しく茎を切ってかごの中に添える。摘んでも優雅な気品を保ち続けるのがこの花の特徴だ。商品の仕入れではなく、宝物を蒐集している気分になる。

 二十輪ほど取り入れたところで手を休めた。草地の上にゆっくり腰を落ち着けて、両脚を投げ出し、四角く切り取られた青空を見上げる。あと少ししたら日が暮れるだろう。随分、長く陽が出ている気もするが、ここで過ごす時間はとても長く感じるから気のせいだろう。いつものことである。

 リュウを呼ぼうかどうか考える。彼は今どこにいるのだろう。いくら静まりきった廃墟の城だからと言って、この城はとても巨大だ。名前を呼んでも、きっと聞こえはしない。あのだだっ広いホールでも端から端まで声が届くか心配だ。それならそれで、いつも通り一人で帰ればよいだけの話なのでエリィは構わないのだが。

 しかし、やはりあの旅人の素性がどうしても気になった。

(あのリュウという人は……、昔出会ったあの旅人に似ている……)

 エリィはそんな事をふと思った。むしろ、その連想へのアクセスは思い出したと言ったほうが適切かもしれない。

 彼女がまだ幼かった頃、今と同じようにこの城へ独りでやって来て探検していた時。

 あの日、あの旅人がここにいた。

 背が高くがっしりした体格、顎に髭を残していて、一目で大人の男だとわかった。でも、目許はとても涼やかで優しかったという印象が残っている。

 彼は名前をユウイといった。城の中央部に位置するこの中庭の一角にひっそり腰かけていて、何も知らずに歌を唄いながら城の内部を巡っていたエリィは彼の姿に気付いて飛び上がるほど驚いた。

(そういえば、あの時は幽霊だと思ったっけ)

 エリィは思い出して、可笑しさを堪える。その使い古されて変色した旅の装備を見て、過去にこの城を守っていた兵士の亡霊だと思ったのだ。

「こんにちわ」 ユウイという男は、その精悍な顔ににっこりと微笑みを浮かべ、そう言った。

「こんにちわ」 豆粒のように小さかったエリィもおずおずと答えた。

 当時の彼女がユウイに対して抱いた感情はとても曖昧としていて、そしてとても温かいものだった。例えば、既に亡くなっていた父親と再会したような、言い表せぬ懐かしさと切なさが胸を覆った。その感情を鮮明に覚えている。余裕を持って振り返れる今だからこそ、あの時の感情の輪郭を認識できるようになった。

 何故だろう、と瞑目して考えた。目を閉じると、あの日の光景をさらにはっきりと思い浮かべられる。

 彼は旅の途中でここに訪れていたということだった。長旅の疲れから、ここで昼寝をしていたらしい。

「君の名前は?」 ユウイは微笑んだまま訊ねる。

「エリィ」

「そう……、良い名前だね」

「ねぇ、おじさんはなんで旅をしてるの?」 今度はエリィが質問する。

「人を探してるんだよ」 彼は目線を空に向けて答える。

「誰を探しているの?」

「さぁ、誰だったかな……」 彼はこちらを見ないまま、くすりと笑う。

「探してるのに、わからないの?」

「あぁ、きっと忘れてしまったんだ。長い間探していたからね」

「ふぅん……、変なの」

 エリィもなんとなく空を見上げた。あの時見上げた空の色も、草も花も、今と全く変わらない。

 変わったのは自分だけだ、と彼女は昔と同じように空を見て思った。それと、そう、今ではあのユウイという旅人もここにいない。そう考えると、何故だか胸の奥底が温かくなってくる。

 気がつくと、ユウイが花を手にして、こちらに差し出していた。

 綺麗な花だった。

 真っ白な花弁に、赤い波線の模様。

 その時、初めて見た花。

 なのに、それを目にした時。

 エリィはその花の名前を必死に思い出そうとしていた。

 どこかで見たことのある花だと思っていた。

 でも、結局。

 その花の名前は今でも思い出せない。

 いや、きっと、最初から名前など存在していなかったのだ。

 だから、彼女はその花に“エリィの花”と名付けた。

「エリィ、これを君にあげよう」 ユウイは言った。

 エリィはその美しい花を手に取った。まるで砂糖菓子のように、それは彼女の瞳に甘く、きらきらと輝いて映った。

「いいの?」 エリィは声を弾ませた。それほど嬉しかった。

「いいよ。まぁ、そこらに咲いてるんだけどね。ほら」

 ユウイが指し示したほうを見ると、確かに、花壇の中で同じ花が何輪も咲いていた。彼女はそれに気付いていなかった。あの日は、彼女が、この中庭まで初めて足を踏みこんだ日だったのだ。

「本当だ。すごい、すごい!」 エリィは飛び跳ねるようにして花壇の柵の周りではしゃぐ。

 ここにしか咲かない花なのだと彼女は直感していた。それほど、この花は不思議な魅力を放っていた。世界中にただ一ヵ所だけに咲く至高の花。後に、街へ売り出しに行ってみると、それが事実だということもわかった。

「それは、元は君のものだから……」

「え?」 エリィは振り返る。

 ユウイは離れた所からこちらを眺めていた。彼が浮かべていた穏やかな微笑みを、エリィは今も閉じた瞼に思い描ける。

「どういうこと?」 エリィは意味が解らず、訊く。

 しかし、彼は答えずにもう一度、空を仰いだ。射し込んだ陽光が顔にぶつかって、彼は目を細める。

「僕はもう行くよ」 彼はその表情のまま言う。 「ここに来れてよかった」

「また旅に出るの? 探してる人のことは思い出せたの?」 エリィは彼に歩み寄る。

 こちらを見下ろしてから、ユウイは首を横に振る。

「僕の旅はもう終わりだ」 彼の声はどこか寂しげな響きだった。 「もう、どこにも向かわないんだ、僕は」

 変なことを言ってる、と幼いエリィは思った。しかし、彼のぼんやりとしていた口調が突然にもの哀しげな雰囲気を見せたので、彼女は漠然とした不安に駆られた。

「誰かを探してるんじゃなかったの?」 もう一歩近づいて、エリィは問う。

「そう思ってたけど、もう見つけていたかもしれない。いや、きっと、そう……、僕はもう見つけた」

「どこにも向かわないってどういう意味?」 矢継ぎ早に彼女は問い続ける。

「言葉通りの意味だよ」 ユウイはまたそこで微笑んでいたが、エリィには到底理解できなかった。

「旅が、終わったの? 今?」

「うん、そうだ」 彼は短く頷く。

「そう……」 エリィは一度俯いて、またユウイを見上げる。 「ここには居られないの?」

 その質問には彼は意外そうな顔をした。少し黙り込んで考えていたようだが、エリィの予想通り、彼は首を横に振った。

「無理だよ。ここは、僕がいるべき場所じゃない」

「誰がいるべき場所なの?」

「それは君だよ、エリィ。ここは君の場所だ。君だけの場所だ」 ユウイの大きな手がエリィの頭を撫でた。

 何故だか、ふいに彼女は哀しくなった。ユウイの脚を両手で掴んだ。彼は少しバランスを崩しかける。

「じゃあ、ここで、おじさんを待ってる」

「え?」

「どこかに行っちゃうんだったら、またここに戻って来て。わたし、何年も待つ」

 エリィは掴んだ両手に少し力を加えた。ユウイがはっきりと返事をするまで離さないつもりだった。

 何故、そんなことをしたのだろうか。その時は訳も分からず、とにかく必死だったのを覚えている。彼を困らせているだろうなという自覚もちゃんとあった。

 やはりユウイは狼狽したようだったが、しばらくして息を漏らし、しゃがみ込んでエリィと目線を合わせた。真っ直ぐとした温かい眼差しだった。

「わかった。必ず行くよ。君の元へ」 彼はそう言って、小さなエリィの身体を強く抱擁した。

「約束だからね」 エリィはユウイの耳元にそっと囁いた。

 あの時、彼は泣いていたように思う。彼の優しい瞳にきらりと光る雫があったからだ。

 何故、あの時、彼は泣いていたのだろう。

 何故、彼はあの花をくれたのだろう。

 何故、自分は彼を引き留めようとしなかったのだろう。

 何故、あんな約束を取り付けたのだろう。

 もちろん、今もわからないし、これから先もずっとわからないままだろう。

(あぁ、もう、わからないことだらけ……)

 エリィはふっと笑う。目を開ける。一瞬の、追憶のパノラマが終わった。

 永く封印されていた遠い日の記憶。

 あの日から、ユウイという名の旅人を一度も見ていない。

 目頭が熱い。視界も霞んでいる。一度瞬きをすると、溜まっていた液体が目尻から頬へと伝う。熱が余韻を残して過ぎていく。

 胸の奥が締め付けられるような、鈍い痛み。

 ユウイは今、どうしているのだろう。

 ここにずっと、わたしはいるのに。

 きっと……、きっと、忘れられてしまったのだろう。

 手の甲で涙を拭った。鼻を啜って、一層強く目を見開く。空の青色が眩しかった。どうしようもなく悲しくて、声を上げて泣いてやりたかったが、それは我慢した。

 寂しい、と彼女は心の底からそう思えた。

 やはり、リュウを呼ぼう。誰かと会話がしたくて仕方がなかった。残った涙をそっと指で拭い捨てて、彼女は立ち上がった。





 ◇





 通用口から城の内部へと戻った。先程通った尖塔を遥か頭上の屋根裏まで見上げたが、リュウの姿はそこにはない。ホールまで向かうことにする。

 その途中の、狭まった通路を歩いている時だった。

 エリィは咄嗟に振り返った。目を見開き、そのまま今来た道を凝視する。

 背後で物音がした。

 確かにそれを聞いた。

 しかし、そこには誰もいない。崩れた壁の一部がそこらに散乱しているだけで、静まり返っている。尖塔に出る場所まではとても暗い。

「リュウさん?」 彼女は無意識に呼びかけたが、返事はない。

 疑問に思ったのは一瞬だけだった。

 心が、ざわざわと得体の知れない恐怖に煽られる。たちまち鼓動が速くなった。

 振り返り、震えかけた脚を無理やり動かして通路を駆け抜ける。呼吸を止めて、無我夢中で走った。悲鳴を上げる暇もなかった。

 走っている途中でバスケットのかごを落としてしまったが、エリィには脚を止めてそれを拾い上げることはとてもできなかった。後ろを振り向くことでさえ、きっとできなかっただろう。

 頭の中ではもちろん、リュウの言っていたあの話がフラッシュバックされていた。

 幽霊……。

 実際にその姿を見たわけではない。通路には誰もいなかった。しかし、何かただ事ではない気がした。予感と言うべきものだろうか。少なくとも正常ではなかった。

 エリィは頭を振った。冷静になれ、ともう一人の自分が言う。

 ホールに出て、ほぼ中央まで来た時にようやく脚を止めた。膝に手を付き、すぐに尻餅をつく。暴れる呼吸を必死に整える。前髪をかき分けると額に汗が浮かんだ、じんわりとした感触があった。

「リュウさん!」 喘ぎながら叫んだ。

 しーん、と耳の痛くなる静寂。返事はない。恐怖は未だに増幅していく。

 ここから出なくては……、本当に幽霊がいるのかもしれない……。

 エリィは立ち上がろうとしたが、またもや腰が抜けてしまっているのがわかった。思うように立ち上がれない。重力に任せてまた尻が床に落ちる。

「もう、こんな時に!」 叫んで、歯を食いしばってみるが、もちろん効果はなかった。

 右手に柔らかい感触。

 彼女は短い悲鳴を上げて仰け反る。

 触れたのは、野兎だった。ふわふわした茶色の毛で覆われている太った兎。鼻をひくひくさせて、辺りを窺うようにのっそりと跳ねる。平原からここまで入り込んだのだろう。随分、人懐っこい兎だ。

 呆然とした後に、思わず微笑みが零れた。深呼吸を繰り返す。

 どうかしてる……。そうエリィは口の中で呟いた。

(幽霊なんて、いやしないのに……)

 彼女は冷たい床に両手をつき、情けない腰を持ち上げ、なんとか立ち上がる。なんとなく、餌を探索中の兎を見つめたまま。

 次の瞬間だった。

「え?」 エリィは息を呑む。

 何が起こったのか、彼女には咄嗟に理解できなかった。

 突然、丸々とした兎の胴体の中心から青白い光の輪が出現した。強く放たれるその光はサファイアのように澄んでいて輝いている。その光輪の中の空洞部分に、深緑色の記号のような文字が羅列されているのもエリィは見た。

 なんだ、これは?

 一体、何が起きて、こんな……。

 思考が停止する。ただ、彼女の双眸は目の前の現象に釘付けになっていた。

 兎の身体に現れた光の輪がじわじわと大きくなる。その分、広がった空洞の中の文字の羅列も増えていく。その文字は、エリィの知らない文字だった。

 これは……、と気付く。

 瞬時に思い至って愕然とした。

 思い浮かんだのは、魔方陣に刻まれた呪文。

 あの文字と同じ種類のものだった。

 光の輪はどんどん大きくなり、兎をまるごと内側から飲み込む勢いである。平然としているのは当の野兎だけで、まだ床に鼻を擦りつけてひくひくしている。身体には増殖する不気味な文字の羅列。

 やがて光の輪が兎を呑みこんだ。その瞬間、閃光が迸る。強烈だったが、目を背けることができなかった。

 光の塊が輝きながら、ばらばらとパズルを崩すかのようにして、キューブ型になって拡散していく。輝く光の欠片は宙を漂うとすぐに消え去った。夏の池辺を飛ぶ蛍を一瞬、連想した。

 エリィはまだ息を止めていた。

 彼女が見つめる先に、もう兎はいなかった。

 変わらない静寂。変わらない空気。変わらない孤独。

 石畳の床がずっと続く荒廃したホール。

 エリィは出口に向かって駆け出した。今度は悲鳴を上げていた。

「リュウさんっ!」 また強く叫んだ。

 兎はどうなったのだ? 消え果てたのか? さっきから、いったい、何が起こっている?

 彼女はピロティに出ようとした。しかし、すぐに脚を止めることになる。

 心臓が止まる思いだった。

 出口から先が、そこには存在しなかった。

 まだ陽は昇っているはずなのに、光がない。

 異次元のような。

 重力すらも存在しないような。

 一切の照度もない闇がそこに広がっていた。

 目を凝らしたものの、見える景色は同じ。無限の闇。異常な空間。一歩足を出してみる勇気もなかった。

 声も出せず、ただへたり込んだ。

 何も無い。何もかも。あるのはぞっとするような闇。

 エリィの頭の中はもはや真っ白になっていた。何も考えられずに、ただ呆けて目の前に広がった暗闇を見つめていた。

 小鳥。

 唐突に気がついた。そう、小鳥だ。顔を上げて振り返り、大きな窓辺に目をやる。

 そこに巣はない。小鳥の囀りも。抜け落ちたふんわりした羽毛すらも。そして、窓の外に覗ける青空すらも。

 暗い。否、何も無いと言ったほうがいい。墨で塗り潰したような黒が広がっている。

 ここには自分しかいない。他の何者も、存在しない。



「エリィさん」



 あれだけ聞きたかった声なのに、耳にした瞬間、背筋が凍りついた。ほとんど反射で、身体ごと彼女は振り向く。

 あの旅人が、ホールの中央に佇んでいた。音も無く、まるで幽霊のように。大きく開かれたコバルトブルーの瞳が、エリィをじっと睨んでいる。

「リュウさん……」 エリィの声は震えていた。 「出口が……」

「出ようと思えば出られる」 リュウは表情を変えずにこちらへと歩み寄って来る。感情の籠っていない冷たい声だった。 「何故、あなたはそれをしないんです?」

 何を言っている? エリィは困惑して、言葉を失う。ただ明確だったのは、唯一縋れるはずの対象に恐怖したという事実だった。

 旅人はどんどん近づいてくる。こちらを真っ直ぐ見つめたまま。端整な青年の顔が、今は氷で造られた仮面を思わせた。

「やめて、来ないで……」 身体が震えているのをエリィは自覚できた。涙が彼女の目尻からどんどん流れ落ちる。自分は心の底から怯えているのだ。

 手探りで何か武器になるものがないか調べたが、あるのは石畳の残酷な冷たさだけ。瓦礫の欠片の一つもない。絶望の感触だけだった。

 冷静に考えられていたわけではないが、エリィはすべて確信した。

 この現象を引き起こしているのは、すぐそこまで迫って来ている男であり、そして、幽霊は実在したのだ。

 この男が、そうなのだ。

「あなたが……、あなたが幽霊なのね!」 エリィは悲鳴混じりに言って、引き摺るように後退する。しかし、すぐ背後では闇の亜空間が口を開けている。すぐに後退できるスペースがなくなった。 「ここにいた人々を消したっていう……、それとも、これは、魔法なの?」

 エリィはなんとか時間を稼ごうとしたが、旅人は足を止めない。

 ぼろぼろと涙が零れていく。希望も同じように失われていく。

「本気でそんなことを言っているんですか?」 黙っていた旅人はふと歩みを止めて、言う。

 相変わらず、男の言っていることの意味がわからなかった。しかし、彼が立ち止まったのは幸運にして最大のチャンスだった。

 普段では信じられないような勇気が湧いてきて、エリィは即座に立ちあがり、男の脇へと駆け出す。機敏に男が反応したが、伸びてきた腕をエリィはかいくぐって、正門とは反対方向の祭壇のある方へ一直線に走った。

 男が追いかけてくる。何か叫んでいたが聞こえなかった。

 ホールを北側へ一気に駆けて、途中に数段だけある階段を跳ぶようにして昇る。ホールの天井付近に掛かった石橋を支える二本の石柱の間を抜けて、祭壇の部屋へと入ろうとする。

 彼女は立ち尽くした。

 わずかに芽生えた希望も、勇気も、すべてもぎ取られたような気がした。

 祭壇の部屋があるはずのその先には、先程と同じ闇の空間。

 ホールから繋がる短い廊下の先から、もう何もなかった。

「そんな……」 絶望感から、息と一緒に声が漏れた。

 素早く振り返る。男は階段の途中にいた。とっくに走るのをやめていたようで、ゆっくりとまた歩いていた。

 知っていたのだ。もうこのホール以外の場所が存在しないのを。

 それとも、今、魔法で消したのか。彼はやはり、魔法使いなのか。それとも既に人ではない『何か』なのか――。どちらにせよ、自分を狙っている危険な者であるのには違いない。

 また逃げようと駆け始めたが、もう脚は言うことを聞いてくれなかった。がたがたと震えて、よろよろと歩くことしかできない。呼吸はとっくに秩序を忘れて、心臓は狂ったように跳ね回っていた。壁に背をつけて、こちらに向かってくる男をただ見つめる。それしか成す術がない。

 このまま、わたしも消されるのだ、とエリィは思った。

「あなたは、誰なんです?」 彼女はそう言って、恐怖に震える唇を無理に噛みしめた。

 ふいに、一つのイメージが頭の中に巡った。

 先程回想した、あの不思議な旅人の顔。

 こちらを見つめる優しい目許。

 もちろん、目の前の男とは全く似通っていない。

 しかし。

 そう信じ込みたがる自分がいる。

「幽霊、なの? 人、じゃないの?」

 沈黙。

 足音だけが近付く。

「あなたは……、ユウイ?」

 彼は答えなかった。だが、太い柱の狭間で、彼は立ち止まる。男の冷たい青い目がまた見開かれる。

 エリィは、ただひたすら言葉を待った。

 沈黙が続く。

 永遠に続く悪夢のような。

 そう、これは夢だ、とエリィは祈った。だが、いつまで経っても覚める気配はない。むしろ、自分の感覚が恐怖によって研ぎ澄まされていることを彼女自身が認識していた。

「三日前……、差し出し元が不明の告知状が届いた」 男は言った。

 三日前?

 告知状?

 まるで覚えの無いワードだったが、エリィは彼の無表情の顔を見て返すことしかできなかった。声も出せなかった。

「多くの人々が、僕達が出したものだと信じ込んで、ここに集まった。そして、集まった人々がほぼ同時刻にこの世界から消え去ったんだ」 彼は淡々と話す。

「何の話を……」 エリィは言い淀む。

 そこで、彼女は息を止めた。



 夥しい数の場景が、膨大な量の情報が、あらゆる感情が、彼女の頭の中で破裂した。

 彼女は身動き一つ取らなかった。目を見開き、ただ虚空へ目線を漂わせた。



 時間の逆流。

 それはまるで、震動する大地の雄叫びのような。

 あるいは、夜明けに残った霧が晴れていくかのように。

 すべての記憶が、湖の水面のように。

 綺麗に。

 緩やかに。

 流れていく。



 三日前。

 告知。

 こちらを見つめる人々。

 光の輪。

 文字の羅列。

 そして。



 そして……?



「原因がわからなかったけど、人為的なものだと僕達は判断した。僕がここに来たのは試験の為だ」



 青年の声が聞こえる。

 ぼんやり、視界の焦点を合わせる。

 男の顔。

 碧眼。

 それが、こちらを見つめている。

「エリィさん」

 聞き覚えのある名前。

 きっと、自分のことだな、と彼女は思った。

「今ここに、人が存在することなんてありえないんだ。僕は最初、あなたをデフォルトだと思ったんです」

 蘇る。

 散らばった星のような輝きが収束して。

 元の形に戻る。

 それが、彼女の記憶だった。

「あなたは、人間だ。それは間違いないんだ」

 男の声が怒気を込めて僅かに険しくなる。

「エリィさん、あなたは……」

 彼女は自分の掌を見つめる。

 そこに存在するはずの自分の両手。

 だが、なかった。

 あるのは、手のシルエットをした、深緑色の文字の集合体。



「あなたは、誰なんです?」



 彼女はすべてを思い出した。

 そう、今まで、忘れていた。

 望んだ忘却。

 欲した永遠。



 三日前の古城、そこには沢山の人々がいた。

 彼女が招待したのだ。世界中から。この城に。 

 そして。

 一人残らず、この手で。

 この手って、どの手だ?

 あるのは文字の羅列だけ。



(わたし、誰だっけ?)



 彼女の目がホールの停滞した空気を見つめ。

 やがて、一つの光景を目にする。

 それは一瞬の夢模様。

 鉄。

 鉄。

 鉄。

 不気味な光が差し込む、暗い場所。

 彼女を取り囲む鉄の生物達。光るその目。

 赤。

 黄。

 青。

 低く、くぐもった唸り声。

 淋しい光景。

「いや……」

 あの男がくれた、白い、美しい花。

 鼓動。

 呼吸。

 発汗。

 痙攣。

 熱。

 痛み。

 懐かしさ。

 そう、あれこそが……。



「いやァ!」



 彼女は叫んで、両腕を突き出す。

 突き出された両腕は、深緑色の文字のコードと化し、日暮れの影法師のように伸びる。

 真っ直ぐに伸びたその文字のコードはリュウの身体を槍の如く貫いた。だが、彼はよろめいて後退することも、苦痛に顔を崩すこともなかった。澄ました顔で、自分を貫く文字の腕を冷静に眺めている。

 彼女は急に怖くなって、咄嗟に両腕を引いた。文字達は吸いこまれるようにまた彼女の両腕に納まり、そして、元の形と皮膚を取り戻す。

 彼女は両手を見つめる。見慣れた掌を確認してから、リュウを見つめる。彼は胸に開いた二つの風穴をまだ見つめていた。

「やっぱり、君が……」

 開いた穴から青白い光が溢れてくる。強く輝いて、内側からリュウの身体を浸食していく。輪の中には、やはり、文字の羅列。

 瞬く間に彼の胴体は文字の集合体で埋め尽くされる。もはや原形を留めているのは、彼の両脚と肩からの上部だけだった。

「君が……」 光に飲み込まれる寸前、彼の碧眼がこちらを睨んだ。

 その言葉にはっとして、彼女は消えていくリュウに駆け寄る。

 待って……、待って!

 しかし、その手が触れる前に、彼は最後の閃光を放って、完全に消え去ってしまった。

 分解して、散っていく光のキューブ。

 やがて、残されたのは静穏と彼女のみ。

 しばらくの間、彼女はそこに立ち尽くしていた。

 小鳥の囀りも、射し込む陽の光も、一人の旅人の息遣いも、すべて無くなった。その喪失が、彼女をしばらく呆然とさせた。声も上げずに、ただただ、開いた両目から大粒の涙を流していた。無心にホールへ目を向けながら。

 夢。

 そう、これはきっと夢だと彼女は信じる。

 こんなことが現実に起こるはずがない。

 しかし、現実とはなんだろう。

 何をどう定義して現実と呼ぶのか、彼女にはもうわからない。

 やがて、ゆっくりと歩き出した。もうピロティへと繋がる事の無い漆黒の出口を一瞥して、ホールを横切る。

 事実を必死に否定しながらも、彼女はすべてを理解していた。彼女にとっては、もはや目に映る物が全て虚構に過ぎなかった。

 あの場所を除いては。

 彼女の足は、そこへと向かっていた。

 朽ちかけた階段の傍を頭を屈めて通り過ぎる。西へと向かう通路へと入った。ここも暗かったが、これはいつものことだ。やがて、ぶつかる突き当たりの通路を右へ向かい、尖塔の内部へと入る。不自然な静けさが空気中に溶け込んでいる。

 通用口を出ると、そこには、自分だけのとっておきの場所がある。

 ここだけは残っている。

 ここだけは、自分の居場所だから。

 吹き渡る風の音と暖かい陽光、そして花の甘い香りが彼女を出迎えた。

 彼女はよろめくように、花壇の傍まで歩み、最後には草の上に倒れ込んだ。

 彼女はずっと泣いていた。否、涙が勝手に目から流れていたと言った方が適当だったかもしれない。

 ミツバチが、白い綺麗な花に留まる。

 それをうつ伏せになりながら、ぼんやりと見つめていた。

 白い花弁に赤い波線模様。

「名前は……」 彼女は呟く。

 なんだったか……、確か、見たことがあったはずなのに。

 彼女はひどく疲れていた。少し眠ろうと考える。

 他にも、考えなければいけないことが、山ほどあったはずなのに。

 しかし。

 彼女は瞳を閉じる。すると、頭の中を支配していた蟠りが少しずつ解けていくのを感じた。

 彼女は、忘却を繰り返して、永遠の中を彷徨っていた。

 決して戻ることは許されず。

 螺旋のように続く幻想の世界で。



 だが。

 それももうすぐ終わるだろうと彼女は、遠のく意識の中で確信した。

 あとはもう、風が吹き渡るだけ。

 ゆっくり、ゆっくり。

 ユウイに会いたいと思ったが、それも、一瞬の意識の煌めきに過ぎなかった。





 ◇





 どんよりと曇った夕刻の街には雪がちらつき始めていた。それが二月に入っての今季初の雪だった。フロントガラスに灰色のベタ雪が幾つもぶつかり、その度にワイパーが容赦なく一掃していく。

 岸川竜也は警察車両の助手席に座り、人が蠢く都市の景色をぼんやり眺めていた。警察車両と言っても覆面車で、ランプは出しておらず、一般車と同じように車道を規定速度で走行していた。雪が降り始めたので速度は少し落ちてきている。

 岸川は心身共に酷く疲弊していた。三日前の事件から、職務と並行して警察の捜査に協力していた為だった。ほとんど不眠不休である。サイドミラーを覗くと、目許の隈と顎先の無精髭が目立っていた。今のこの移動の時間も仮眠に当てるべきだっただろうが、他人に囲まれた車内で眠るのはどうも居心地が悪い。それに、街を見ているのが不思議と面白かった。慌ただしく行き交う人の波が、どこまでも並び続けるビルディングが、列を為す車のフォルムが、信号の淡い電光が、彼の目にはとても新鮮に映っていた。

(立派な後遺症だな、これは……) 眼鏡を外して、彼は目を拭った。

「しかし、どうにも合点がいきませんね」 後部座席に座る早河刑事が言った。

「何がです?」 岸川は眼鏡を掛け直し、振り返らずに訊く。

 早河刑事はこの中で最もベテランらしく、歳も相応に取っているように思われる。ほとんど白髪で染まったオールバックの頭に、窪んだ二つの穴の奥にある鋭い両目が、老練たる威圧感を醸し出していた。他に、運転席には一番新人らしい佐々木刑事、岸川の後部の座席には寡黙な岩田刑事が座っていた。

 当初、岸川は彼らに囲まれていると理不尽なプレッシャーを強く感じていたが、三日も経てば慣れてしまった。自分の繊細な神経が麻痺した為だろう。

「その……、我々は、というより私個人は今回のようなサイバー犯罪には詳しくないんでね……」 早河刑事は胸のポケットから煙草を取り出す。 「プログラムの暴走、つまりウィルスではないっていうと……、やっぱりハッキングってやつですか? 外部から何者かが操作をしたと……」

 サイバーなんて言葉がまだ存在していたことに岸川は静かに驚いた。しかし、早河刑事には、いかにも前世紀の人間だという印象を抱いていたので、ある意味では想定内であった。むしろ想定外だったのは、彼のようなコンピューター関係の犯罪に関して全く無縁と言っていい刑事が今回の事件の配属になったということだけだ。

「それを確かめる為に、今向かってるんでしょう」 岸川は冷たく答える。

「もう一度、事のあらましをご教授願えませんかね、この不出来な老人に」 苦笑した早河刑事が皮肉っぽく言った。そして、銜えた煙草に火を付ける。

 岸川も煙草を取り出して火をつけた。煙と共に溜息をついて、座席に深く背もたれる。シートベルトの僅かな締め付けすら鬱陶しかった。

 事の発端を説明する前に、まず、今回の事件の舞台、そして岸川竜也の仕事について説明しなければならないであろう。

 岸川の肩書は某大手ゲーム会社であるS社の開発部部長だった。今回の事件はインターネットを介して行うロール・プレイング・ゲームの中で行われ、そのゲームを開発したのがS社であり、岸川はその当時の開発の大部分に携わったプログラマーだった。

 今回のオンラインゲームは三年前に配信が始まった、世間から多分に認識されている有名なゲームだ。プレイ人口は世界中に約五十万人と言われ(もっとも、正確な数字やその信憑性に岸川は興味がなかったが)、次世代のゲームというような枠からはもはや外れ、新たなコミュニティの第一歩と讃えられるほどの評価で世界に受け入れられた。

 それほどの称賛を与えられた理由の一つが、革新的なVR(ヴァーチャル・リアリティ)装置を使用していることに起因する。このゲームにはコントローラーはいらない。パソコンの前に座って、ディスプレイを睨む必要もない。必要な機器はネットに繋げるパソコン端末とバイザーとヘルメット型の機械だけで、キャラクターの操作は自分の意思だけで行い、操るキャラクターは自分自身である。ゲーム画面という概念そのものが無く、自分の目でゲームの世界を眺めるような、つまり、本当にそのゲームの世界に居るのだと錯覚できるのである。

「そうそう、すごいらしいですな。私はやったことはありませんが……」 早河刑事は苦そうに煙を吐いた。 「あんな得体の知れない機器を頭に付けるってのがどうも……」

「あ、僕はやったことがありますよ。ゲームって、僕、高校生の頃にやめちゃったんで、最初はちょっと戸惑いましたけどね」 若い佐々木刑事がこちらに向いて笑いかける。岸川が唯一、好感が持てる刑事だった。 「いやぁ、あれってすごいですよねぇ! どういう仕組みなのか知りませんけど、すごい、生々しいというか、なんというか……」

「ヴァーチャル・リアリティですから」 岸川は息を漏らして笑う。

「あぁ、そう、リアリティですね! すごいんですよ、早河さん、風が吹いたらちゃんと肌に感じるんですよ、あのゲーム! 匂いとか、気温とか、水の触感すらもちゃんと感じるんです」

「前見て運転しろ、馬鹿」 早河刑事は憮然とした顔で切り捨てた。

 叱られた佐々木刑事は決まりが悪そうに咳払いして、再び運転に集中し始めた。

 ゲームを行う際に頭部に装着するバイザー付きヘルメット型の機器が発する電磁波で、プレイヤーの脳器官を刺激し、五感を架空の現実世界に連れていくのだ。要約すると仕組みは単純なものである。しかし、それで得られる体感は凄まじくリアルだ。長くプレイしていると、一体、どちらが本物の世界なのかわからなくなる。

 こんな狂気性を持った娯楽が万雷の拍手をもって受け入れられたのも、一重に時代に依るものだと言える。やがては本物の定義すら必要のない時代が来るだろう。それは案外近い将来なのかもしれない。

 とにかく、今回の事件はそのゲーム内で、三日前に起こった。

 ネット回線を通じて、世界中のユーザーに一斉に送られた差し出し人不明の告知状。その内容はゲームのステージの一つである古城へ集え、というだけのもので、他に記されていたのは時刻だけだった。ほとんどのユーザーが企業が用意したサプライズだと期待したようだった。事実、調べてみると、送り主のホストはS社の公式アカウントだった。

 もちろん、この報せはすぐさま岸川達の元にも届いた。彼らにとってはまったく寝耳に水の事で、即刻中止の旨を世界中に送ろうとした。しかし、その時既に、管理者であるはずの岸川達の端末は謎のウィルスに支配されていた。感染の経路も時間も今のところ不明で、大人しく潜んでいたウィルスがその時に活動を始めたらしい。かなり悪性のもので、すべてのアクションが制限され、岸川達には為す術なく、ただ事の顛末を見守っている事しかできなかった。後で調べた限り、ハッキングされた痕跡は全くなかった。

 確証はないが、岸川の推察では、事前にそうなるようプログラムされていたのではないかという点に的を絞っていた。このオンラインゲームのメインプログラマーは実は岸川ではなく、前任の鮎田優一氏だったのだ。

 事件は起こった。指定された日本時間の十九時。

 古城とその周辺に集っていた約二十万人のユーザーのアカウントが一斉停止した。それだけではなく、彼らの使っていたパソコン端末は強制のシャットダウンを繰り返し、出所不明のウィルスが蔓延して、やがて岸川達の端末とほぼ同じ状況となった。その一時間後には、ゲームにログインしていた他の全てのユーザーが同じ状況に陥った。また全世界の支社に設置されたS社のサーバーも同時刻に機能停止の異常をきたし、ゲームのシステムは崩壊した。まだ完全復旧の目途は立たず、ユーザーへの対応にも追われている。

 これは紛れもない、テロ行為であった。警視庁から多くの人間がS社に押しかけ、捜査を始めた。社長直々に社員の何名かには捜査に協力するようにと指示が出た。岸川はもちろんその一人で、この三人の刑事達と組んで問題の根源を調べているのだった。

「で……、これはどうも運営のシステムに予め施されたものだと確信したわけですね?」 短くなった煙草を携帯灰皿に落としながら早河刑事が言う。灰皿を差し出してきたので、岸川も甘んじてそれに吸殻を捨てた。

「ええ、もしくは二年以上も前に外部からアクセスされて、水面下でシステムが改変されたか……、しかし、ハッキングの痕はどこにもありませんでした」 岸川は両手を合わせて三角形を作り、口と鼻を覆う。 「となると、後に改変を行ったと仮定した場合、プログラムに侵入するには正式なアクセスしかあり得ません。そうなると疑われるのは、僕と、もう一人……、前任の優一さんだけです。最深部をいじれる権限を持っているのは僕のIDだけです。それは、優一さんから譲られたものでした」

 岸川は話しながら、昔の事を回想した。

 前部長の鮎田優一氏は元々、岸川と同じ大学の工学部で二つ回が上の先輩だった。その頃から二人は親しい仲で、大学院に進学してからは、よく研究室に籠ってはあれこれと好奇心を膨らませたのがとても懐かしい。ひょろりと痩せた人で、独特のセンスを持ち、なんだか異様な風貌をしていたが、とても優しい温厚な人物だった。

 本人は謙遜していたものの、鮎田優一は紛れもない天才だった。まだあまり認知されていない頃から彼はVR技術に注目していて、それに関する論文を多く書き残した。それのほとんどは学会でも大々的に取り上げられ、技術の発展にも革新を与えたという。彼は多くを語らなかったし、岸川も彼の意思を尊重して敢えて詮索しなかったが、しかし、そういった類の話が嫌でも耳に入ってきた。

 岸川は彼の先見の才、知識の豊富性、何よりその人柄に尊敬の念を強く抱いていた。彼と話すだけで楽しかったし、彼と組めば人生を劇転させることだってできると信じていた。

 そして、それは現実のものとなった。

 彼は突然に、研究者としての道を自ら捨てた。そして、当時は大手のゲーム会社に過ぎなかったS社に入社したのだった。彼はすぐに社内でも頭角を現し、異例のスピードで昇進した。自ら進んで開発部に転任し、そこで岸川に入社を誘ったのだ。岸川は二つ返事で了承した。今までとフィールドが違うものの、また鮎田と同じ場所に立てるのが嬉しかったからである。

 そして、彼らは大々的に、それまでとは次元が違う本格的な、当時としてはSF的なイメージの強かったVR技術を起用したゲームの開発に着手し始めたのだった。鮎田は既に(その年齢にしては異例の)部長の位置にいたが、新人に過ぎない岸川と濃密なタッグを組んでこれに挑んだ。

 岸川にとって、それはとても素晴らしい時間だった。一つの失敗すらも全身全霊で喜べてしまうような、あるいは本気で悔しくなれるような、幸福に包まれた職場だった。試作に試作を重ね、ようやく実現できそうだと確信に至った時は、彼は声を上げて喜んだものだ。

 しかし、それは突然のことだった。

 プロジェクトの骨格を組み、材料を全て準備し、製図まで描き上げたそのタイミングで、鮎田は辞表を提出した。愕然としたのは岸川一人だけではなかった。

 そうして、メインプログラマーとして彼が選んだ後継者は岸川だった。鮎田の意図が全く理解できなかった。ゲームのシステムを形成する中心のプログラムは既に彼の手で完成されていたのである。岸川はその後に、ただ用意された材料を鮎田が設計した通りに組み立てたに過ぎなかった。

 動揺。それが、あの日、岸川が強く感じたものだった。

 鮎田と交わした無数の会話の中で、最も印象に残った言葉を反芻する。

「たぶん、俺達があのゲームを作り上げた時、VRに対する世界の認識が大きく変わるだろう」

 鮎田はその時、珍しく酒に酔っていた。彼が辞表を出した夜、納得のいかなかった岸川が苦し紛れに彼をバーに呼び出した時のことである。

「要は、文明としての市民権を得るんだ。それによって技術は大きく進歩するし、たぶん、その歩みは止まらないね」 ウィスキーグラスを危うげに揺らしながら、鮎田は嬉しそうに笑っていた。

 なぜこんな風に笑えるのか、岸川の理解が及ぶ所ではない。裏切られた気もするし、譲られた気もするし、寂しさや怒りや虚無、それにやはり尊敬の感情も混ざり合っていて、冷静に分析できなかった。

「なぁ、岸川。このままな、VR技術が進んでいったら、この世界は将来、どうなると思う? わかるかい?」 無邪気な微笑みを浮かべたまま、鮎田は訊く。

「さぁ、わかりません。将来に興味なんかない」 岸川はぶっきらぼうに答えた。怒鳴りたくなる自分を精一杯、制御してのことだった。

 鮎田は親友の心境を察したのか、微笑みに寂しげな色を滲ませて、目を逸らした。

 そして、言った。

 別人のような、酷く冷たい声で。



「地上から、人類が消え果てるのさ」



 岸川は思わず、顔を上げていた。あの時の鮎田の表情を思い返すだけで寒気がする。

 その通りだと思った。やがては、人は現実を見失うだろう。脳内の、意識体のみの世界で満足するのだろう。自らが造り上げてきた文明や尊厳を丸ごと仮想空間にコピーして、もう一つの世界を作り上げるのだ。そこではきっと血は流れない。そこではきっと貧困もない。遥か太古から人類が望んできた理想郷が、そこに生まれるだろう。

 いや、もはや文明というレールすら無くなるのかもしれない。自分だけの世界を築いて、その夢の国に永住する者達もきっと現れる。

 それが間違いであるとは岸川は思わない。そもそも、正解も不正解もない。人類が望んだ結果であり、そしてそれはきっと実現していくはずだ。それがきっと人類の叡智が目指すゴールなのだと彼は考えている。

 しかし、岸川はそれを鮎田の口から聞いた時、戦慄した。鮎田はきっとそれを実現させようと思っていたのだ。ゴールに到達する手掛かりをちゃんと見抜いていたのだ。岸川が抱いたのは、畏怖ともいうべき感情だった。例えるなら、神に直面したような、決して抗えない完成されたデザイン。

 鮎田はその日を最後に、岸川の前には現れなかった。それは彼の姿を見ていないという意味だ。彼が退職し、ゲームを完成させて全世界から支持を受けた岸川達のチームは業界にその名を馳せた。岸川は開発部の頂点である部長に異例の若さで抜擢された。

 ゲームのユーザー数は瞬く間に膨れ上がり、世界規模のものとなった。言語翻訳の機能もアップグレードの際に搭載したので、まさにそれは世界を繋ぐコミュニティの場となった。人類の歴史が大きな節目を迎えた瞬間で、その節目を作ったのは他でもない岸川だった。

 既に彼は周囲の期待と、“もう一つの世界”を本当に創造してしまった責任に大きく悩まされていた。

 そんな時、彼は決まって、まさに現実逃避の為に、自分が作ったVR世界に入り込んでいた。造り物の大自然が、人為的にデザインされた空と大地が、例えようもなく美しい。ノイズのような静寂とヒーターよりも優しい太陽の温もりが、岸川を癒した。

 すると、その世界で時々、岸川は鮎田に出会うのだった。どちらもノーマルな旅人の衣装を着て、顔も骨格も名前も変えていたが、それでも互いにわかった。

 彼はその世界での名をユウイといった。鮎田優一だからユウイだ。安易すぎて最初は吹き出してしまったが、よく考えると自分も全く同じで、二人してその世界で笑い合った。

「今は何をしてるんです?」 岸川竜也ことリュウは毎度同じ事を訊いた。

「住まいを変えてね、黙々と研究だ」 ユウイもその度に同じ答えを返した。

 互いに深くは詮索しなかった。互いに相手を尊重していたからだ。

 しかし、気づくと、ネットの世界でも彼と出会う機会はなくなっていた。住居だけでなく、彼はメールのアドレスも番号も、個人情報の全てを変更していた。彼はいつの間にか、本当に行方知れずとなったのだ。

 そうして時が経ち、三日前、あの事件が起こった。

 捜査の裏付けを得る為に、鮎田の住居の捜索が始まったが、彼の行先は杳として知れず、住民票に最後に記された住所も既に空室となっていた。どうやら本当に住まいを転々と移っていたようだった、警察はさらに怪しいと踏んだ。

 そこで、鮎田優一のIDであるユウイのログイン履歴を、幾万にも積み重なったデータの中から手作業で一つ一つ探しだした。その作業が一番、苦しかった。丸二日、十数名がディスプレイを睨み続けた結果、ようやく鮎田の最後のログイン履歴が見つかった。それは約一年前の記録だった。そこから得たホスト情報を問い合わせて、使われた端末と場所を確認した。そこからの詳しい経緯などは聞かされなかったが、それを元にどうやら住所が割り出せたようで、今、刑事達は岸川を伴ってそこへ向かっている最中だった。

 現在、鮎田は偽名を使って、アパートの一室を借りているとのことだった。借りたのはつい半月ほど前のことであるらしい。

「なんだか、あっという間に解決に向かいそうですね」 佐々木が明るい声で言った。

「僕達にはまだまだ後始末が残ってますけどね」 外の風景に目を向けながら岸川は言った。

 流れる街並みは、降雪が勢いを増してきて、だんだんと白みがかっていた。何もかもが雪に覆い隠されようとしている。

「とにかく、その鮎田優一の身柄さえ押さえれば具体的に解決が見える。世間への発表もしやすくなるでしょう」 早河が二本目の煙草に火をつけながら言った。

「そう、ですね……」 岸川は複雑な心境で頷いた。

 心の中で一つ、強く引っ掛かることがあった。

 先程、システムの一部が回復してログインができるようになったと報せを受けて、岸川は試しにゲームの中に入ったのである。もちろん、今まで構造は残っていたが、ログインできる状態ではなかったのだ。入れたステージは古城だった。

 そこで、岸川は一人の女性と出会ったのである。ゲーム上の外見は、二十歳前後の綺麗な顔立ちの人で、質素な恰好をした髪の長い女だった。

(あれは、誰なんだ?)

 出会った当初は、ステージに設置されたデフォルトのキャラクターだと思っていた。彼らは完全に架空の人物、いわばマネキンのような存在であるが、ゲームにリアリティを持たせる為にある程度のAI知能を備えている。プレイヤーに自由に話しかけられても、それなりに対応した返事ができる程度のものだ。

 だが、彼女は違った。花売りを自称する彼女は明らかに自由意思を持った人間だった。彼女は名前をエリィと名乗った。もちろん、ゲーム内だけの名前だろう。しかし、まだ一般人がログインできる環境ではなかったはずだった。

 岸川は念の為に、各所に刻まれた魔方陣を模した趣の管理用ページに向かうソースに触れた。それはゲーム内からスタッフが外部の管理操作を行う為のものだった。そこからログイン履歴を調べたが、やはり岸川以外にはログインした者はいなかった。

 となると、エリィという女性は人ではない。しかし、彼女はプログラムの一つでもない。紛れもない人間の意思があった。

 ……幽霊。

 そう呼ぶに相応しい存在だと思ったし、何故だか、彼女が今回の事件に大きく関わっているのではないかと直感した。

 同時に一種の危機感を抱いて、彼はその内部からステージごと部分的な初期化を開始した。しかし、進行中に彼女は岸川のアカウントを消し去った。三日前にユーザー達を襲った状況と同じことになった。同時にまたゲームにログインできない状態に陥ったのである。

 プログラムの一部なら、彼女はあの時、存在しなかったはずなのだ。

 あれは果たしてバグだったのだろうか。岸川達のチームはとうとう、本体のサーバーを停止させることを決断した。そうしてゲームそのものを初期化したのだった。これで全ての異常は綺麗さっぱり流されただろう。そして積み重ねられた記録も。

 彼女の伸びた両腕が自分の胸を貫いた瞬間の光景が、まだ眼に焼き付いている。

 あの女の事はまだ刑事達に報告していなかった。

 あれは、いったい、誰なのだろうか。

 犯人か?

 鮎田優一か?

 亡霊か?

 人間か?

 それとも、単なるプログラムか?

 岸川は疲労の溜まり過ぎで不具合が生じ始めている頭の中で、ゆっくりと考えていた。

 汚れた塵のような雪が空で舞うのを眺めて、素直に綺麗だと思った。





 ◇





 程なくして着いたのは、街の中心から少し外れた土地に建った、二階建ての鉄筋のアパートだった。優に築四十年以上は経っているであろう、筋金入りのボロアパートだった。住人はほとんど居ないらしく、生活の気配がまるで無い。壁面のほとんどは不気味な植物達に浸食されていて、もはや原形すら留め切れていない上、冬だというのに妙に青々しい。まだこんな建物が残っているのが岸川には信じられなかったが、それ以上に、ここにあの鮎田が居を構えているというのがもっと信じられなかった。

 ここの103号室に鮎田は住んでいるとの事だった。ほっと岸川は安堵した。もし二階だったら、階段まで覆いかけている蔦や苔に触れなければいけなかったからだ。黴臭い通路を渡る時、以前にもこんな臭いを嗅いだ記憶があった気がして、思い返していると、あの古城のダンスホールと同じものだと気付いた。それから、またあの女の事が脳裏を掠めた。

 左手に一軒家の塀が迫るアパートの通路は殺風景で寒々としていた。ただでさえ外気に触れて冷え込んでいた岸川の背筋はさらに冷たくなっていた。

(あの女は……、ここにいるのだろうか……) 岸川はふとそんな事を考えた。

 四人が異臭に気付いたのはすぐだった。それまでの黴の臭いとは明らかに別物の、もっと刺激の強い悪臭が漂っていた。それは103号室から流れてくるものだった。

 すぐさま、岸川以外の三人の刑事が扉を開けて、部屋に飛び込んだ。岸川も困惑しながら、中に足を踏み入れた。

 岸川は言葉を失った。

 低い玄関から直に繋がる台所で、男が仰向けに倒れている。刑事達がそれを囲んでいた。

 男の胸には垂直に立った物があって、それに男の両手が添えられている。すぐにそれが刃物だとわかった。血だまりが広がっているが、ほとんどがとうに乾いていた。鼻をついた異臭はこの血の臭いだった。男の顔は土気色に染まって、とっくに絶命していることを窺わせた。

「優一さん……」 岸川は呆然として、そちらに一歩近づく。

 見間違えるはずがなかった。その顔は、鮎田優一に他ならない。

「間違いありませんか?」 険しい顔つきになっているものの、早河刑事が普段通りの口調で確認する。

 岸川は小刻みに、何度も頷く。初めて死体を見た。顔だけ見ると、まるで眠っているようである。ただ死後数日経っているのか、肌は見慣れない色に変色している。

 驚きだけだった。どんな感情も芽生えない。

 再び悪臭を意識した時、突如、喉の奥から圧迫されるようなものがこみ上げて、岸川は台所の水道場に駆け寄って嘔吐した。

「あまり、現場を荒さんといてくださいよ」 早河刑事が両手をコートのポケットに突っ込んで、短く笑う。

 笑える神経がわからないな、と岸川は吐いたことにより、冷静になって思った。

 岩田刑事が携帯電話を取り出して、開きながら部屋を出ていく。佐々木刑事は真面目な表情で両手で握られた凶器の刃物を見ている。刀身の長い刺身包丁だった。

「自殺……、ですかね?」 彼は早河刑事へ振り返る。

「なんとも言えんが、状況を考えるとその可能性が高いな」 早河刑事もしゃがみ込んでその凶器を見つめた。

 自殺……?

 岸川は口の中で呟いた。

 確かに鮎田の両手は、自分の胸を刺す為に逆手に包丁を握っていた。それ以外に無いだろう。

「なんで自殺なんか……」 岸川は途方に暮れて、ただ座り込みそうになる腰を支えているだけだった。

 その時、彼は気付いた。台所の向こう、恐らく居間となっている部屋。今は磨りガラスの戸が閉まっているが、そちらから確かに聞こえた。

 低く唸る声。

 あれは……、モーター音だ。岸川は刑事達の傍を通り過ぎて、そのガラス戸を開けた。

 その部屋は一層暗く、窓が黒い物体にほとんど占拠されて隠されていた。暗かったので形がはっきり見えなかったが、岸川にはそれが何か瞬時にわかった。大型のサーバーマシンだった。それが一台だけでなく、部屋の四方を固めるかのように数台同じものが並んでいた。どれも暗闇の中で不穏な光をカラフルに点滅させている。

 岸川は部屋の照明を点けなかった。そこまで頭が回らなかった。

 部屋の床はどうやら畳らしかったが、交差するコードで埋め尽くされて足の踏み場がない。部屋の中央にはパソコンの端末が置いてあって、岸川の入った入口の脇にある小さな丸テーブルにももう一台ノートパソコンが設置されていた。

 そして、その部屋の中央に、横たわる人影があった。

 身体には毛布がかけられ、中央に設置されたパソコンの前で眠っていた。その枕元にはコンピューターとは関連の無い病院で見かけるような器具。

「誰です?」 遅れて部屋を目にした早河刑事が訊いた。

 答えなかったが、しかし、岸川にはそれが誰なのか、もうわかっていた。

 モーター音が耳障りだった。

 コードを踏んで部屋を横切り、その横たわる人影を見つめた後、パソコンに繋がったマウスを軽く動かす。電源は入っていたままのようで、暗いディスプレイに光が戻ってきた。

 まるで、別世界のような輝き。

 再開されたその光が、毛布に包まって眠る人物を照らした。

 彼女は病弱だったのか、鼻にチューブを差していて、毛布の裾からはみ出た細い腕にも点滴のような管が刺さっていた。枕元にある器具はやはり延命装置だった。しかし、それらは今はもう、稼働していなかった。

「し、死んでるんですか? そのコ……」 さすがに佐々木刑事も動揺しているようだった。

 早河刑事が部屋の照明を点ける。一度、明滅を繰り返して、蛍光灯が部屋を明るくする。室内の異様さが浮き立った。

 毛布の中で息絶えていた彼女は延命装置のチューブと共に、VR装置のヘルメットとバイザーを付けていた。パソコンのディスプレイを見ると、ゲームの警告のウィンドウが出ている。

『通信が切断されました』。

 岸川はそちらをじっと見つめた。それをマウスで慎重にクリックする。警告が消えた途端に、画面がフリーズし、やがて勝手にシャットダウンした。三日前の事件の症状である。

 彼女の枕元には器具の他に、白い紙のものが転がっていた。よく見ると、白色の折り紙で作った花だった。綺麗に折り畳まれていて、その均等な白い花弁に、マーカーで描いたような赤い波線模様が走っていた。それを拾い上げる。

 白い花弁の裏には拙い字で小さく、恵理の花、とあった。

(恵理だから、エリィか……、相変わらず単調ですね、優一さん……)

 岸川の胸に様々な感情が渦巻く。

 彼は小さく笑った。

 ひどく悲しいはずなのに。

 なんで自分は笑えるのだろう?

 岸川は理解ができなかった。

 死の瞬間まで彼女はこのゲームの中にいたのだろうか、と考えた。でも、彼女は恐らく三日前以前には亡くなっている。

 ならば。

 あの城にいた女性は、いったい……。

「幽霊……」

「え?」 二人の刑事が岸川を見る。

 岸川は決して答えなかった。すべてを唐突に理解した。

 鮎田優一がプログラムの改変をしていたのは間違いない。なぜなら、あの古城には、当初、中庭なんて存在しなかったのだ。それを今、思い出した。

 やはり、二年以上前のことだった。

 アップグレードと共にステージが微妙に変化していたのだ。その指摘が熱心なゲームファンからあったが、デザインに関して岸川は深く関与しておらず、他のスタッフが追加したものだと思っていた。報告がなかったなと思ったが、岸川は別に構わなかった。それほど優秀なスタッフ達だったのだ。だが、実際は誰も関与しておらず、スタッフ達は岸川がやったことだと思い込んでいた。事実、スタッフの一人が後に履歴を調べたところ、プログラムに追加を行ったIDは岸川のものだったらしい。

 あの時に、鮎田は侵入していたのだ。そして三日前の日付になったら、ウィルスが活動するように仕組んだのである。

 きっと。

 鮎田は彼女の為に、先を望めない彼女の為に、それを選んだのだ。

 彼女を、プログラムに還元して、永遠に生かす道。

 岸川の頭の中には再び、あの言葉が蘇る。



 ――地上から、人類が消え果てるのさ。



 彼は。

 それを実践したのだ。

 そして、証明してみせた。

 人の尊厳、人の意志、人の可能性を。

 そして、彼はすべての準備を整えた後、自分の人生に決着をつけた。

 自分がやるべきことはもうない、と考えたのだろう。

 過去に彼が岸川から離れて行った時と同じようなことである。

 ただ、気になるのは、彼女が死んだから彼も死んだのか。

 それとも。

 彼が死ぬ予定だったから、彼女をVRの世界に転送したまま、彼が延命装置を切ったのか。

 もはや、真相は闇の中である。

 岸川は、彼女のバイザーを慎重に取り外した。その下にあったのは、閉じられた両目だった。

 彼女はすべてを破壊するウィルスだったのか。

 そう、すべてを実行に移したのは、彼女だったのだ。

 システムを狂わせたのも。

 人々を消し去ったのも。

「いつの間に……」

 岸川は、彼女の存在を知らなかった。

 きっと鮎田は、彼女の為に、VR技術に貢献していたのではないかと思う。

 そう考えれば納得がいく。

 しかし、納得が必要だろうか?

 そんなことをして、一体、何がどうなるというのだ?

 岸川は自問する。

「岸川さん?」 佐々木刑事が声を掛ける。

 顔を上げる。

 そして、にっこりと笑ってみせた。これはバグだ、と思った。

 理由なんか、動機なんかどうだっていい。

 岸川はそれ以上の事件についての詮索を中止した。

 相手を、鮎田優一と、彼女を尊重してのことだった。

 



「エリィさん……、これを、お返しします」



 リュウは手に持ったままだった白い花を、もう起き上がる事のないエリィの胸にそっと添えた。



「これは元々、あなたのものです」



 岸川は言った。

 まだ十歳だったその少女、鮎田恵理の亡骸の上で、美しい白い折紙の花が咲いていた。







後書き

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作者 まっしぶ
投稿日:2011/03/07 02:39:33
更新日:2011/03/08 01:17:36
『The ERASER』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
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