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作品ID:345
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約8769文字 読了時間約5分 原稿用紙約11枚
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夕立の残影
作品紹介
夏の情緒、古都の片隅、夕立、雨宿り、不思議な女の子。
ほんの数分前まで夏空は快晴の模様を見せていたのに、何が気に食わなかったのか、途端に厚い雲を垂らし始めた。ごろごろと地上を揺さぶる雷鳴も遠い空に聞こえ、湿気を含む甘い匂いが鼻をついた。
僕は夕立の気配を察して駆け出したものの、雨足のほうが到底速かったと見えて、すぐに叩きつけるような特大の雨粒が降り始めた。入り組んだ狭い街路は陽を遮られて薄暗く、妙に色づいている。空模様と同様、古都の景色が不穏な深緑色に染まっていた。まるで、色眼鏡を通して眺めているようだ。
待ち合わせに急いでいた僕だったが、さすがにその驟雨の勢いには勝てず、すぐに音を上げ、適当に目についた駄菓子屋の軒下に逃げ込んだ。
傾きかけた雨樋の下で一息ついたのも束の間、体に吸い付いた衣服が不快な存在感を露わにし始めて僕はげんなりした。裾を絞ってみると、ぼたぼたと水が落ちるほどだ。尻のポケットにしまっていたハンカチで顔を拭った。
雨の案配を窺ってみると、まるで幕が降りたかのような激しさだった。風景はとっくに白く煙り、吉田山の山影は霞んでいた。閑静だった路地が、今は雨の叩く音でノイズのように一定で騒がしい。近くには竹林があるようで、葉の隙間を雨粒がサラサラ流れる響きもあった。
激しいがすぐに止むだろうと見当をつけて、僕は煙草を銜えた。火を付け、ぷかぷか煙を吐くと、軒下から這い出るように流れ、たちまち雨の飛沫の中に溶けていく。その紫煙の行く末を見届けるのが僕の日頃からの習慣だった。
「煙草って美味いんか」
ふいにその幼い声がして、僕は指に挟んでいた煙草を危うく落としかけた。
隣に振り返ると、今さっきまで誰も居なかったはずなのに、小さな女の子がこちらを見上げていた。少女らしい太い眉がむっと眉間に寄り、赤い唇を一文字に結んで睨んでいる。
駄菓子屋から出てきたのかなとも思ったが、店は板戸が完全に閉め切られていて、開かれた様子はなかった。
「大人は皆、美味そうに吸う。臭いのにな。これ何故にだ?」 女の子が僕を指差して、高尚めいた口調で詰問した。
「いや、美味くはないよ」 僕は静かに驚いていたが、ひとまず首を振る。 「君、この店の子?」
「わたしはチエだ」 女の子はむんと胸を張る。だけど、残念ながら僕の質問には答えられていない。
僕はその生意気そうな、七、八歳程であろう、チエと名乗った女の子をまじまじと観察する。
彼女は異様な風体だった。底の高い下駄を履き、袴のような、裾が長く幅の広いスカートを備え、最近では見かけない梅の花柄の赤いちゃんちゃんこを羽織っている。さながら、鬼太郎か、雛内裏のようだ。綺麗に切り揃えたおかっぱ頭に、リボンに似た髪飾りがちょこんと乗っている。一世紀近く世間ずれした恰好だ。生粋の平成生まれである僕にはその服装はどうもしっくり来ず、映画村の衣装のように白々しく感じられた。
「チエちゃんね」 僕は微笑んだ。 「君、学校は?」
「そんなもん、いってない」 チエちゃんはきっぱり言い放つ。痛快なまでに問題発言だった。 「あんなもん、阿呆の行くところだ」
高い金を支払って大学で講義を受ける僕には立つ瀬の無くなる回答だった。苦笑を浮かべて頷いて見せる。
チエちゃんは同年代の児童よりかは大人びた雰囲気があるものの、その顔立ちはやはり丸くて幼い。少年のようにも映る。下駄で上背を幾らか稼いでいるが、それでもまだまだ小さかった。
彼女は雨宿りの相席者なのだと納得しかけたが、しかし、チエちゃんのハイカラなちゃんちゃんこも、艶のあるおかっぱの黒髪も、驟雨に濡れた様子はなかった。第一、彼女の履く厚底の下駄の音を僕は聞いていないし、もちろん駄菓子屋の板戸が開く気配もなかった。一度気になりだすと思考を張り巡らして追及するのが僕の悪癖である。
ずっとここにいたのだろうか? 否、錆びかけた自動販売機があるものの、この軒下には子供一人隠れられるスペースもない。絶対にいなかったと断言できる。
では……、一体、どこから現れた?
雨足が強まる。
古風な、明治か大正を彷彿させるチエちゃんの恰好。
桃色に染まった幼い頬に、額に垂れかかる黒髪。
不自然に澄み切った黒い眼。
不気味に生々しい赤い唇。
ぞくり、と背筋が冷たくなったのを感じた。
「そうだ、わたしは幽霊だ」 察したのか、チエちゃんは一層大人ぶった顔で頷く。
「あ、左様ですか……」
チエちゃんの平然とした物言いに僕は拍子抜けしてしまった。そりゃ学校にも行けないわけだ、と納得する余裕すらあった。
僕は幽霊という存在、現象を目にするのはこれが初めてである。ひょっとして白昼夢でも見ているのではとも思い至ったが、己の意識の感触からするに、どうもこれは紛れのない現実のようだ。幽霊の女の子と雨宿りをするという現実だ。
「どうだ、驚いたか」 ふふん、と満足げにチエちゃんは笑む。その無邪気さは可愛らしくもあった。
「んー、まぁ……」 僕は煙草を吸いながら曖昧に頷く。返事に窮して頭を掻いた。 「夏だし……、こんな事もあるんだね」
「信じてないな」 チエちゃんは今度は不服そうに口を尖らせる。
「どうだろう……、よくわからない」 僕は観念して肩を竦ませた。
「大人なのに阿呆だな」
「すみません……」
目の前の幽霊に対しての恐怖と不安は一気に終息していた。メディアの奇々怪々な演出が大袈裟なのかもしれないが、僕が想像していた幽霊像とはあまりにかけ離れて、チエちゃんは隣にいる。微笑ましい程の愛らしさと可笑しさでいっぱいだ。
ふと僕は、悪戯心にも似た、知的好奇心に駆られる。実験欲というやつだ。
チエちゃんの丸い頭に掌を乗せる。そう、乗った。触れた。さらさらと快い手触りの髪だった。リボンのような髪飾りにも触れることができた。
「こら、やめい!」 撫でてやると、チエちゃんがびっくりしたように身を引く。僕の手を払って、真っ赤になって睨んだ。 「子供扱いすんな!」
「ごめん」
幽霊は物理世界で存在できるようである。この事実も、僕の抱いていた貧相な幽霊像とは違った。しかし、ある仮定に行き着いていた僕は大して驚かない。
ふぅん、幽霊ねぇ……。
僕の浮かべた笑みはきっと、大人の狡猾さと欺瞞を含んだ、いやらしいものだったに違いない。
ポケットから財布を取り出し、隣にある自動販売機の前に立った。小銭を投入して、チエちゃんに振り返る。彼女は黙っていたものの、その大きな丸い瞳は興味と期待の輝きを浮かべて僕を見上げていた。
「チエちゃんも何か飲む?」 僕は意を汲んで尋ねてやる。
正直に言うと、僕はこの状況を愉しみ始めていた。
「コーシー!」 舌足らずにチエちゃんが即答した。
「え、コーヒー?」 僕は意外に思って眉を上げる。 「飲めるの?」
「飲める! この、甘いやつ!」 からんころん下駄を鳴らしてチエちゃんが前に割り込み、背の届かない位置を指差した。
あぁ、ミルクティーね……。
そのボタンを僕は押してやる。がこん、と響いてチエちゃんの目当ての物が吐き出された。それを手渡してやり、僕はサイダーを買った。チエちゃんが缶の蓋に手間取っていたので、僕がそれを開けてやった。
外を窺うと、雨が早くも落ち着き始めていた。今までの経験に基づいた僕の推量だと、止むまであと何分も経たないはずである。夕立というのはそれほど刹那的であり、せっかちなのだ。
チエちゃんは嬉しそうにミルクティーをごくごく飲む。なるほど、幽霊は缶飲料を飲めるようである。食事もするのだろうか。大人の幽霊は案外、何食わぬ顔をして駅前のハンバーガーでも食べているのかもしれない、と意地悪な推測を馳せながら僕もサイダーを開けた。
「美味い!」 チエちゃんは白い歯を見せて満足そうに笑った。
「ありがとうは?」
「え?」 彼女は首を傾げる。
「ちゃんとお礼を言おう」
僕はもはや、勝ち誇った笑みすら浮かべていただろう。我ながら大人げないと反省した。
「ありがとう」 チエちゃんはにっかりと満面の笑みを見せ、ししし、と笑い声を漏らす。
嘘だ。
十中八九、嘘だ。
板戸をそっと開けて来たに違いない。となると、やはりこのお店の子供だろう。僕は既に確信を抱いていた。
まぁ、それもそれで構わない。どちらにせよ、チエちゃんのついた突飛な嘘は面白かった。買ってやった飲み物はそのお礼に等しい。
だが、成人を迎えたばかりではあるが、僕は立派な大人である。幼子のついた無垢な嘘をやたら暴きにかかるような野暮な大人ではなく、あくまで紳士としての大人だ。このまま騙されておいてやろう、とする寛大な心も僕は持っていた。
「二十年生きてるけど、幽霊と話すのは初めてだよ」 僕は調子に乗っておどけないよう気を配って、真面目な顔で言った。
「だいたいはそういう奴だ」 チエちゃんが答える。 「お前だけじゃないから、落ち込まんでもいい」
「落ち込んではないけど、びっくりした」
「悲鳴を上げて逃げる奴もいる」 チエちゃんは可笑しそうに言った。
僕にはこの状況が可笑しくて仕方がない。
「なんで、僕の前に現れたの?」 僕は尋ねた。
ふと、チエちゃんが笑顔を引っ込ませて、僕を見上げる。
「夕立の時にしか、わたしは現れられない」 チエちゃんはミルクティーの缶を両手で抱え、真剣な表情で嘯いた。
「へぇ」 僕は笑いだしそうになるのを懸命に堪えて相槌を打つ。 「それはまた、どうして?」
「わからん」 チエちゃんは渋面を見せて首を振る。 「わたしが殺されたのが、夕立の時だったからかも」
僕は刹那、ぎょっとした。無論、その言葉も嘘であるのはわかっている。むしろ、小学校低学年程でありながら、演じているキャラクターにそんな裏設定までも設けている彼女に、思わず感服したくらいだ。
しかし、そのまだまだ幼い口ぶりの中から忽然と現れた、非日常的な、死への連想をかき立てられる暴力的な言葉に、僕は不覚にも動揺してしまった。また、年端もいかぬチエちゃんの話し方と表情は疑念の入り込む隙間もない程の自然体であり、それがかえって、その暴力的な言葉を鮮烈に浮かび上がらせていた。
僕は腹中に現れた突然の不快感に、思わず身じろぎした。のほほん、としているのは当のチエちゃんだけである。役者としての素質が、彼女には十二分にあった。
「君は、いつ殺されたの?」 僕は神妙に問う。
不謹慎と言って良いものか迷うが、その野卑た興味と畏敬が、僕の胸にむくむくと膨らんでいくのがわかった。
「何年前かは知らん。数えるのを止めてしまったから。が、明治の三十三、四年だった気がする。皇太子さまがご結婚された翌年だった」 チエちゃんは華奢で丸い顎に指を添えて、記憶を巡るように滔々と語る。 「暑くなり始めた季節の、夕方くらい。ちょうど今くらい」
今度こそ、絶句する他なかった。
僕は無意味に大学へ居眠りしに行っているわけでは無く、近代日本史を専攻して日夜勉学に励む身だ。なので、明治時代に関する知識には一方ならぬ自信がある。チエちゃんが言った“皇太子さまがご結婚された”というのは明治三十三年の五月十日の事、後の大正天皇の成婚である。あまり歴史学上では重大なポイントではないし、僕だってほとんど記憶の片隅に転がしていて、そのまま忘れ去られる事柄だったに違いない。
何故、この小さな女の子がそれを知っているのか? 人を驚かす為だけの嘘にしては用意が周到すぎやしないか?
気がつくと、僕の彼女を見る目が変わっていた。はっきりと、僕はチエちゃんを恐れ始めていた。
まさか、本当に……?
手が震えるのを感じる。心に走った亀裂のような恐怖は、拭おうと触れる度にピシッと音を立てて、さらに枝を伸ばす。
「ここで、死んだの?」 僕は息を呑んで、その質問をした。
「雨宿りしてたんだ。そしたら、知らん男が来てな、短刀でわたしの胸を刺した」 チエちゃんは事も無げに言う。 「なんで刺されたんか、もう覚えてない」
要領を得ない話しぶりではあるが、それがますます現実味を帯びさせる。
すっかり弱まった雨を見つめていたチエちゃんの黒い瞳が、言い知れぬ悲哀を含んで伏せられた。
「おとんとおかんが来てな、わたしの抜け殻、抱いて泣いてた」 チエちゃんは大人びた口調で言った。
それきり、黙ってしまった。沈黙が降りる。
気付くと雨の音はほとんどしない。ぼんやりと街の遠くの空を見ると、雲の畝の間に光の柱が降っていて、覗けた青白い空が鮮明だった。その輝きが僕の知る、最も情緒溢れる夏空の光だった。
陰惨な水溜りを残して、夕立が終わる。
「あの、チエちゃん……」
僕はすっかり混乱してしまっていた。無様にひきつけを起こしたような笑みを浮かべていたと思う。
「嘘なんだろ? 作り話だ。幽霊なんか、いるはずがない」
「お前も、やっぱり信じてくれないんだな」 チエちゃんが僕を睨み上げて、しばらくして溜息をつく。 「まぁ、いい……、もう慣れた」
「大人をからかうな!」 僕はヒステリックに叫んだ。
それははっきりと拒否を示した、明確なサインと受け取れただろう。
びくっと肩を震わせたチエちゃんはやはり哀しそうに項垂れた。両手で抱えていた缶を見つめて、いじらしく鼻を啜ったかと思うと、またこちらを見上げた。その黒い瞳に大粒の涙を溜めていたが、にっかりと笑った。
「嘘だよ」 チエちゃんは言った。 「びっくりしただろ?」
あぁ……。僕は嘆息めいた息を漏らした。
なにか、取り返しのつかないことをしてしまったような罪悪感と虚無感。それが四肢の先端まで行き届く気がした。それは、ある種の痺れを伴ってやってくる。
激しい後悔の念に駆られ、何も言えないで突っ立っている僕に、チエちゃんがミルクティーの缶を差し出した。
「コーシー、ありがとう。美味しかった」
彼女の目尻から、柔らかそうな頬に涙が伝う。僕はそれをおずおずと受け取る。中身がまだ少しだけ残っていた。
「ごめん、チエちゃん」
僕は何故だか、泣きそうになっていた。唇も震えていた。自分でも理由がわからなかった。
「いいんだ。気にするな」 彼女は首を振って赤い髪飾りを揺らす。そして、空を見上げた。 「雨が止んだ、わたしは消える」
「チエちゃん……」
僕は縋るように、その名を呼ぶ。
不思議な女の子はもう一度、僕を見上げると。
すっと瞳を閉じる。
伏せた睫毛は凛然と整っていて、僕は一瞬だけ、大人の女性の幻想を見た。
空白とも言える沈静。
雨の音はもう聞こえない。
粘つくような匂いもしない。
無数の雫が残した清涼の気を纏って、風が吹く。
雲が動き、僅かな隙間から光の粒子が僕達の街へ降る。
駄菓子屋の庇の影が濃くなる。
そして、濡れて黒ずんだ路面が眩しく反射する。
その悠久にも思える時間の後。
チエちゃんが目を開いた。そして、外を見る。
「あめ、やんだ!」
彼女はそう叫ぶなり、袴の裾をひらめかせ、喜色満面の顔で軒下から駆けだした。日だまりの下、きゃっきゃっと歓喜してクルクル回るハイカラな女の子は、僕の事など眼中に無いかの如くだった。
僕はその様子をしばし、呆気に取られながら見守っていた。女の子のあまりの豹変ぶりに目を丸くする他なかった。
いったい今までの、理知的とまでは言わないまでも、少々達観めいた人格のチエちゃんはどこに行ってしまったのだろう。一気に幼児レベルまで精神退行してしまったのだろうか。否、彼女は元々、それくらいで相応の年齢である。しかし、落差が激しすぎた。
計りかねて口をぱくぱくしていると、駄菓子屋の板戸が開き、店の主人らしき女性が顔を出した。まだ若い、チエちゃんと顔立ちのよく似た人だった。明瞭な違いは艶やかに長い黒髪である。
「こら、千代、水溜りで遊ばないの! 服が汚れるでしょう!」 女性が叱った。
「ち、ちよ?」 僕は締まりの無い声で繰り返す。
あら、と女性がこちらに気付いた。どうやら女の子の母親らしい。
「こんにちわ」 女の子とそっくりな、人懐っこい笑顔を浮かべて彼女は会釈した。 「ごめんなさいね。今日はお店、お休みなの」
「あ、いや……」 僕は思わずどもってしまう。 「すみません、雨宿りさせて頂いてました」
あぁ、と女主人が頷き、またにっこり微笑んだ。綺麗な人だった。 「すごい雨でしたものね」
僕の頭の中では、物凄い速度で思考が巡っていた。だが、それは何度突き当たっても納得いく答えを見つけられず、ただ俊足で堂々巡りをしているだけであった。
「あの娘は?」
堪らず、はしゃぎ回る千代という女の子を指して訊いた。厚底の下駄を履いているというのに、器用に転ばず、水溜りをじゃぶじゃぶやっていた。からんからんと音が軽やかである。
「娘です」 女主人は困ったような、恥を忍ぶような顔をしてみせた。 「落ち着きがないでしょう? 手を焼いているんですよ」
めちゃくちゃ落ち着いてたじゃないか、と僕は言いだしそうになって、ぐっと呑み込んだ。
「変わった恰好してますね」 僕は努めて平静に装い、そう言った。
「あぁ、あれは、うちに代々置かれている古着なのです。すっかり寂れているから意外かもしれませんが、このお店は明治から代々続く老舗なんですよ。何度も休業しましたけどね」
主人ががたがた鳴る板戸を開けて、明かりの落ちた暗い店内を見せてくれた。
さほど広くない土間に木製の陳列棚が並び、見覚えのある昔懐かしの菓子が雑多に置かれていた。奥が勘定場となっていて、その後ろに角ばった石段を一つ置いて、畳を敷き詰めた居間らしい座敷が広がっている。そこからはもう、ここの一家の生活空間なのだろう。その奥に伸びる廊下の突き当たりからは明かりが漏れていた。
なるほど、確かに年季の入った古風な内装だった。今も使用するのかは不明だが、木目のある天井には古びたランプが吊り下がっていた。
何代目か存じないものの、その由緒のある若い女主人はちょっとだけ誇らしい表情を見せた。少女っぽいあどけなさを含んでいて、僕はさもしくも、その人妻を可憐に思ってしまった。
「うちは家柄、骨董品だとかが結構あるんです。ほとんど蔵に仕舞ってあるんですけどね」 そう言って、依然とはしゃぐ女の子に目を向ける。 「あの子の着ている服もそこにあったんです」
「なぜ、着せているんです?」
その話が本当ならば、たとえ筋金入りの古着であっても結構な値打ち品であるはずである。遊び盛りの子供に着せるには少々、重すぎるのではないかと思った。他人の僕がとやかく言うことではないかもしれないが。
それに先程、千代という子が演じたチエちゃんというキャラクターのことが僕の頭からは離れなかった。悪戯として片づけるにはどうも鮮烈すぎた。
「えぇ、千代は……、あの子の名前なんですが……、少し変わっているんです」 主人は肩を竦めた。 「独り遊びが上手いというか……、誰か、架空の子と遊んでいるようなんです。覚えさせた事も無いような難しい言葉を言ったりもするんですよ」
「そうなんですか」
「あの子はよく、“チエちゃんが遊びに来てる”って嬉しがっているんですけどね。あの恰好も、そのチエちゃんという子に教えてもらったらしいんですが……、それが、決まって夕立の日なのですよ」
僕は、はっと息を呑んだ。
千代という名の女の子を見つめる。
千代ちゃんは水溜りを荒らす事に夢中になっている。しかし、その丸い愛らしい瞳が、時々、誰も居ないどこか隣へと嬉しげに移る。そして、誰かと申し合わせたかのように笑いだし、また水溜りを蹴る。
僕は、手にあったミルクティーの缶の存在を思い出した。
「不思議な子です」 母親である主人は我が子を眺めて、くすりと幸せそうに笑う。
◇
僕は女主人に礼を言って、軒下から立った。近々、水飴でも買いに来ますとの約束も取り付けた。
胸に残るぽかぽかとした切なさが僕の思考を著しく邪魔をして仕方がない。恋人との待ち合わせに相当遅れていたが、その謝罪の文句も考えられなかった。濡れた路面を踏む自身の靴音すら他人事のように聞いていた。
夕立の後の空気はからりとしている。ふと見上げると雲が晴れて、燃えるような赤みを帯びて空が薄暗い。雨の気配はもう遠くへ過ぎ去ってしまった。
――チエちゃんは夕立の中で、何を想っていたのだろう。
僕は駄菓子屋から離れた角に着いた時、思い立って店に振り返った。
店先ではまだ女の子が立っている。
僕に笑顔を向けて、「ばいばい」と手を振っていた。
そのハイカラな女の子の陰に、もう一人、寂しげで、ちょっと生意気そうな女の子の残影を見た気がした。
冷たかったはずのミルクティーの缶は、今は不思議と温かくなっている。
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