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作品ID:381
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約12781文字 読了時間約7分 原稿用紙約16枚
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胡蝶蘭とリューココリネ
作品紹介
ジャンルは「恋愛」としましたが、正しくは「失恋」でした。
実話なのは中盤頃まででしょうか…。
いろんな人のお蔭で、傷も癒えてきました! それでも語りだすと長いので割愛します。
それでは、この話に関わった諸々の人に感謝を。
まずは女子3人組のモデルになったNちゃん、Sちゃん、Nちゃんありがとう! 話の基礎を築いてくれたのはあなた達だし、なんでも笑い飛ばしてくれてわたしも救われました。ずっと付き合ってくれたから、随分楽になったよ。
そして夕貴のモデルになったT君。「いい人」と書いたけどその性格は一緒に過ごさないと決してわかるものではありません。わたしが泣いたとき「あいつの言うこと、気にすることないよ」って言われて、すっごく自分って幸せもんだなあ、とか思ったり((笑
とにかく、亜樹もわたしも物凄くお世話になっています。そんなT君に多大なるごめんなさいを。そしてそれ以上のありがとうを!
そしてそして、やはり感謝すべきは麻斗のモデルになったR君ですね。あなたがいなければこの話は立ち上がりすらしませんでした。そんでちょっとリアルな話すると、やっぱり「ありがとう」と「ごめんなさい」に尽きますね。一緒にいた時間、すっごく楽しくて幸せだったよ。あと色々迷惑かけちゃってごめんなさい。でも、この歳で失恋とかなんとか、いろんな気持ちを知ることが出来たのはあなたのお蔭です。それにもありがとうを。どうか、自分のやりたいことをやって、自分の幸せを掴んでくださいね。それが一知り合いからの願いです。
んで、最後にここまでお読みくださったみなさまにも感謝を。ただ長いでけでそれはそれは読みづらかったかとは思いますが、頑張って読み切ってくれたその精神は尊敬に値します。語りだすとキリないので、かなり現実の感情は割愛しましたが、わたしの心理がわかりましたでしょうか。(無理でしょうな)
あとがきまで長くなってしまって、申し訳ありません。精進します…。
実話なのは中盤頃まででしょうか…。
いろんな人のお蔭で、傷も癒えてきました! それでも語りだすと長いので割愛します。
それでは、この話に関わった諸々の人に感謝を。
まずは女子3人組のモデルになったNちゃん、Sちゃん、Nちゃんありがとう! 話の基礎を築いてくれたのはあなた達だし、なんでも笑い飛ばしてくれてわたしも救われました。ずっと付き合ってくれたから、随分楽になったよ。
そして夕貴のモデルになったT君。「いい人」と書いたけどその性格は一緒に過ごさないと決してわかるものではありません。わたしが泣いたとき「あいつの言うこと、気にすることないよ」って言われて、すっごく自分って幸せもんだなあ、とか思ったり((笑
とにかく、亜樹もわたしも物凄くお世話になっています。そんなT君に多大なるごめんなさいを。そしてそれ以上のありがとうを!
そしてそして、やはり感謝すべきは麻斗のモデルになったR君ですね。あなたがいなければこの話は立ち上がりすらしませんでした。そんでちょっとリアルな話すると、やっぱり「ありがとう」と「ごめんなさい」に尽きますね。一緒にいた時間、すっごく楽しくて幸せだったよ。あと色々迷惑かけちゃってごめんなさい。でも、この歳で失恋とかなんとか、いろんな気持ちを知ることが出来たのはあなたのお蔭です。それにもありがとうを。どうか、自分のやりたいことをやって、自分の幸せを掴んでくださいね。それが一知り合いからの願いです。
んで、最後にここまでお読みくださったみなさまにも感謝を。ただ長いでけでそれはそれは読みづらかったかとは思いますが、頑張って読み切ってくれたその精神は尊敬に値します。語りだすとキリないので、かなり現実の感情は割愛しましたが、わたしの心理がわかりましたでしょうか。(無理でしょうな)
あとがきまで長くなってしまって、申し訳ありません。精進します…。
手紙を渡された。
ほんの、一瞬の出来事だった。
「これ、あいつから」
手紙を「あいつ」に手紙を託された友達の顔は笑っていない。ただ、厳しくもなく優しくもない真摯な眼差しで右手を差し出している。
本能的に中身の予想がついた。
白い大学ノートの1ページ。小さく畳まれていたそれが、友達の手から亜樹の、自分の手へ渡る。
見たくない。中身は知っているのだから。けれど、見なければ。中身を知るために。
いつもより冷えた手で紙を開くと、見慣れた字があった。その字が全てを伝えてくれた。
亜樹へ おれは亜樹のことがきらいです。お前は最低です。 麻斗
見慣れたはずの、好きなはずの大きく黒々とした字は、どんな高名な詩人の言葉よりも亜樹の心を震わせた。心の震えはそのまま身体の動揺へと繋がる。一瞬言葉に詰まり、息を大きく吐き出す。
「こんくらい自分で言ってきてよ、って麻斗に言って」
笑う。それだけだった。口に出来たのはこの数十字だけ。もう精一杯で、どんな言葉も浮かんでこない。とにかく、動揺を隠すのにいっぱいいっぱいだった。それを目の前の友達に悟られないようにさっさと踵を返す。
7月11日。月曜日。朝の事だった。
それからというもの、授業に身が入らないも著しい。くだらない道徳の話や、国語の教科書の偽善的な物語なんて頭に入るほうが凄いんじゃないかって思う。端からそんな授業を受ける気は無かったが、今日はいつもに増して身体が重かった。
朝のことが頭から離れない。それだけだ。それだけなのに。
「麻斗」
名を呟いてみる。麻斗が振り向くことはない。それは全てが変わったことを意味していた。
いままでなら、目が合うと笑いかけてくれたよね。満面の、最高の笑顔。わたしがずっと好きだった笑顔。好きで、憧れて、追い求めた笑顔。
けれど、そんなことはもう無い。あの笑顔がわたしに向けられることは二度とない。
そう思うと、ふっと悲しくなった。泣き出したい衝動に駆られる。
一度は手にしたあの笑顔。たった五ヶ月で手放すことになってしまった。
ねえ、覚えてるでしょ?今年の2月13日のこと…。
あの日は晴れだった。暖かいと感じるほどの陽気が立ち上っていた。そんな中を亜樹は駆ける。友達の家へ赴くところだった。
その日は美玖の家でバレンタインパーティーをする約束だった。14日が月曜日なので日曜日の13日にやることになったとか。
兎にも角にも、亜樹は嬉しかった。理由は明確。ずっと好きだった人が来るのだ。名前を朱村麻斗。亜樹とは同じクラスで、前々からそれなりの交流はあった。とにかく明るくて、楽しい人だ。
その人に会えると思うと、自然に足が急いた。
美玖の家に着くと、まだ人は集まっていないようだった。広い部屋はがらりと開けている。美玖ともう一人、陽しか来ていなかった。
けれど、遅れてきた人をからかってやるのは楽しかったし、3人でのお喋りも楽しかった。
結局メンバーが全員集まったのは、野球で遅れた麻斗を最後に1時30分、既定の時間より30分遅れだった。それを見計らって美玖が呼びかける。
「みんな、チョコ持ってきた?」
美玖の澄んだ声で女子5人が、バッグから手作りのチョコレートを出す。それぞれ色も形も違うもので、カップチョコを持ってくる人もいれば、高野豆腐チョコという変わり種チョコを持ってくる人もいた。そんな中、亜樹はココア味のブラウニーだった。
「じゃあ、麻斗にプレゼント!」
一斉に麻斗にチョコが手渡される。今回男子がたった1人だったということで、みんな手の込んだものが作れたようだ。合計するとかなりの量になったが、麻斗は「ありがとう」とか「あっ、これ美味そう」とか終始楽しそうに笑っていた。やっぱりこの人が好きだ、と亜樹は思う。この笑顔を見ていると幸せになった。
「麻斗3倍返し待ってるからね!」
「しなかったら承知しないよ」
これはバレンタインの暗黙のルール、「男子はホワイトデーにチョコをくれた女子全員に3倍返しをする」に則った言葉だ。本当に3倍返しをするとなればこれまたかなりの量になる。やろうと思った男子は辛い思いをするであろう。実際、麻斗のお返しも3倍とまではいかなかったが。
それからというもの、6人でいろんなことに手を出した。部屋の中でキャッチボールをしてみたり、負けたら既定の量のお菓子を一気食いするという罰ゲームつきの爆弾ゲームをやってみたりとそれはそれは楽しかった。ずっとこのときが続けばいいのに。亜樹がそう考えていたのも事実だ。
そして行き着いたのは、暴露大会。修学旅行でお馴染みのあれである。それを女子が圧倒的に優勢な場でやるらしい。この場合、男子は逆らうことができない。例によって麻斗もそれの餌食にされた。
「麻斗の好きな人って誰?」
柚樹の言葉で女子の目が麻斗に釘づけになった。途端に麻斗が狼狽する。
「おっ、おれの? 言えねぇな」
狼狽える麻斗を追い詰めるように、なんでなんでと抗議の声が上がる。
「ねえ、教えてくれたっていいじゃない」
亜樹も知りたかったものだから、身を乗り出して言った。恐らく、好奇心丸出し。今自分はどんなに楽しそうな顔をしているだろうか。
「駄目なものは駄目ーっ!」
後ずさって麻斗も必死に抵抗する。何があっても言えないらしい。そんな強情な麻斗に手を焼いていたそのとき―。
「あたし知ってるよ」
今まで押し黙っていた明日香がはっきりと口にした。4人が一斉に振り向いて明日香を見た。その目はみな、驚きと好奇心に満ち溢れている。
「誰? 誰?」
女子を退けるように麻斗が顔を赤くして叫ぶ。
「お前…っ。言わないって言ったじゃねえか!」
そう言われても明日香は涼しい顔。薄い唇を尖らせて知らないふりを決め込むようだ。けど、麻斗が怒ったなら明日香が知っているのは本当の好きな人なんだろう。
「誰なの? 明日香」
「ああ、それはね―」
「待て!」
遂に麻斗が立ち上がった。あまりの大声に一瞬身体が竦む。麻斗の目は大きさを増していた。相当焦っているようだ。
「他人に言われるくらいなら自分で言う!」
そのはっきりした口調に「おお、いい心意気だぞ」と方々から声が上がる。亜樹はというと、驚きつつも気持ちの昂りを感じていた。だって、想っている人の好きな人が知れる。自分かもしれないという意識と、そんなはずない、自意識過剰だという自分を諌める声。どちらにせよ、今この時でそれが明かされる。落ち着いていられる訳がない。
「で、誰なの?」
美玖の問いに麻斗は僅かに溜め息をついた。そして、言う。
「亜樹だよ」
ぼそっとした声だった。聞き取りづらい、小さな声。けれど亜樹の、いや、ここにいるみんなの耳に届いただろう。それほど、衝撃的だった。
わたし? 麻斗の好きな人? あれ、何がなんだか…。麻斗の好きな人がわたしで…?
亜樹の意識は混乱の極致にいた。もう、意識がないといってもいい。麻斗の好きな人が知れた。知れて、それが―。
わたし?
驚きのあまり放心していた柚樹がはっとして、亜樹に問いかけた。
「亜樹の好きな人は?」
柚樹のきらきらした瞳は眼中にない。見ている余裕がなかった。わたしの、わたしの好きな人は、目の前の―。
「麻斗」
なにもわからなくて、「麻斗」という言葉を発したのは自分ではない、別人のように思えた。誰かが自分の口を借りてうっかり言ってしまったような、自分が誰かに操られて言ってしまったような。
なんにしろ、言ってしまった。
相手はこちらの気持ちを、こちらは相手の気持ちを掴んだ。ほんのたまゆら、相手の素に触れた。暖かく、熱く、眩いほどの本心。それに、この指が触れた。この目でしかと見た。
麻斗もかなり驚いているようだった。信じられない、というか、やはり何も考えられないというような表情。頬を朱に染め、その唇すらも赤い。黒に茶が混じった瞳は、緊張から解き放たれ、安堵が押し寄せたような穏やかさを秘めていた。
「本当?」
陽が明日香に問う。明日香は何も言わずに頷いた。麻斗が言った「亜樹」という名と明日香が知る「あき」という名の人物は合致したようだ。
「信じらんない…」
美玖がほうっと溜め息を吐く。こちらも興奮からか頬を紅潮させていた。柚樹も亜樹と麻斗の2人を凝視している。その目に在るのはもはや興味でも好奇心でもない。ただ、驚愕。
「亜樹…。本当か?」
亜樹は自分への問いかけに肩が跳ねるのがわかった。どくり、と心臓が脈打つ。血液が物凄い速さで流れ始め、顔へそれが集中する。それほどに麻斗の問いは脈拍を速くし、顔を赤くさせた。故に顔をあげることは出来ず、俯いたまま何も言えなかった。
恥ずかしい、けれどそれに勝る喜び。赤く染まった顔を見られたくないけど、今顔をあげたら目の前の彼に飛びついてしまいそうで。嬉しいのだけれど、それを抑え込まなければならないというのが堪らなくいじらしい。でも、この我慢も可愛らしいように思えて、なんだか微笑ましかった。
「麻斗」
今度は麻斗がびくりと肩を震わせたあと、稍あって熟れた果実のような顔を上げた。
「わたし、麻斗のこと、好きだよ」
その言葉は真っ直ぐに麻斗へ届く。亜樹の声はいとも簡単に麻斗の許へ届き、身体の至るところに染み渡った。緩やかに、穏やかに、撫でるように、自分の体の中を巡っていく、大好きな声。待ち望んだ言葉。紅い唇から流れる音。
「好きだよ」
ただそれだけ。けれど、総て。
それが手に入った。
お互いに。
総てにも等しい、心というそれが。
今、この手の中にある。
お互いが相手の心をこの手に収めた日。それが、今年の2月13日。
月日は流れ、人の心は移ろう。
それは、誰も止める術を持ち得ない、必然。
亜樹もその必然に呑まれた1人だ。
あの日から、一言も麻斗と口をきいていない。拗ねている訳では決してなく、相手が自分を避けているのは一目瞭然だったからだ。
いつからこんなになっちゃたんだろうね…。
ふと思った。いつからだろうか、2人の空気がさめざめとしてきたのは。腹の底から笑うこともなくなり、同様に感情の昂るままに喚き合うこともいつしか消えていた。忘れていたように思ったけど、そんな日々の思い出は心のどこか片隅に存在し続け、誰かと笑う度に、誰かと喚き合う度に不安定に揺れて、転がり、刺さる。その痛みで思い出す。彼とそうした日々を。
思い出す度、切なくなる。あんな日もあったんだ、と。もう二度と戻ることは出来ない、楽しかった日々。この手で掴むことも、この目で見届けることも、この口で呼ぶことも、この指が触れることも、この声を張り上げることも、もうない。それは許されないこと。
だって麻斗はわたしのこと嫌いなんでしょう? でもわたしは好き。迷惑だと思うけどね。好きだから、近付かない。麻斗が嫌だというのなら、わたしはどんな地の果てまでも消えましょう。だって、麻斗のことが好きだから。好きな人に嫌な思いさせたくないと思うのは、みな同じでしょ?
そう考えてきた。大好きな人の幸せを祈って。自分にはもうできない、彼を幸せにするという任務を他の誰かに託して。
もうそうするしかないのだから。それを止める者は誰もいない。
―ちゃん。
名を呼ばれた気がした。
亜樹ちゃん―。
誰だろう。わたしをこの名前で呼ぶのは。
亜樹ちゃん。
「亜樹ちゃん!」
亜樹は弾かれたように顔をあげた。どうやら机に突っ伏して寝ていたようだ。目の前にいるのは僅かに目元を怒らせた陽。
「あっ、陽、ごめ…。え、何?」
「何、じゃないでしょ! ほら、時計みて、下校時刻だよ!」
教室の壁に掛かった時計は、4時20分を指していた。慌てる亜樹を見ながら、陽は亜樹の机の前にしゃがみこむ。その顔はさっきとうって変わって心配そうな色をふくんでいた。
「亜樹ちゃんが寝るなんて珍しいね。なんかあった?」
あった?といいながら、なにかがあったということは確信しているのだろう。この青いワンピースの少女はなかなか侮れない。それとも6年も一緒にいるとだんだん分かってくるのだろうか。
「いや、なんでもないよ。…ほら帰ろう」
陽はそれ以上追究しようとはしなかった。黙って自分の机に戻る。なんだか陽に申し訳なくなった。心配してくれたのに、何も言えなくてごめんね。でも、きっとこのことを解決できるのは自分だけだと思うの。だから考えるときは1人で考えさせて。
ごめんね。
亜樹は陽の背中に、そっと語りかけた。
外に出ると、雨が降っていた。
「あれ、参ったなあ」
言いながら、陽がドットの傘を開く。亜樹も水色の傘を開いた。灰色の世界に2つの花が咲く。それほどに、湿った景色に現れた傘は目に鮮やかだった。
歩き出せば傘に心地よい雨音が木霊する。足が水をかき分け、涼しげな音をあげた。まだ本降りではないが、夕立ちのようだったので、足を速めて歩いた。
やがて、交差点が見えてきた。そこで陽は直進、亜樹は右折する。ここがいつもの分かれ道。
「じゃあね」
「明日」
手を振って、右に曲がる。右手にある杉の木は常に道路に葉を伸ばしていて、雨が降ると緑が若々しく見える。その下を通ると幾粒かの水滴が落ちてきた。
ぱたっ、ぱたっ、ぱたっ。
雨音で思い出す、いつかの景色。
ぱたっ、ぱたっ、
彼がいて、雨が降ってて。
ぱたっ、
「亜樹」
名を呼ばれた。陽でなければ、明日香でも、柚樹でも、美玖でもない。もっと硬い声。男子の声。聞き間違える筈がない、彼の声。
「亜樹」
もう一度呼ばれた。振り向く。
「麻斗」
亜樹を見た麻斗はほんの僅か、顔を顰めてみせた。
「お前、傘持ってきてないのか?」
「うん。夕立ちは想定外だったなぁ」
表情を緩ませた亜樹に問う。
「どうやって帰んの」
すると、亜樹は驚いたように目を瞬かせた。
「どうやっても何も。歩いて帰るよ」
ふうん、と麻斗は横を向いた。亜樹は困惑する。
「結局なんなのさ。帰っていい?」
歩き出そうとすると、麻斗がそれを引き留めた。
「まだ何か」
わざと冷たく言うと、麻斗は一瞬躊躇しようだったが口を開いた。
「傘、入んねえか」
その一言だった。
「…いいの」
亜樹の応えを承諾の証しと取ったか、麻斗は笑った。
「もちろん。濡れては帰んなよ」
ぱたっ、
雨粒が傘を揺らした衝撃で、亜樹は自分が突っ立ていることに気がついた。
不意に甦った日。今日のような雨降りで、やはり灰色の空が全てを覆っていた日。同時にとても大切な日。
あの後、結局亜樹は麻斗の傘に2人で入り帰った。寒かった。冷気はむき出しの腕に容赦なく吹き付ける。けれど微かに息を潜めれば隣の者の息遣いが、腕をさすれば隣の者の体温が暖かかった。それだけでよかった。その時、亜樹はとてもとても満ち足りて、このまま家に着かなければいいのに、このまま彼とどこかに消えてしまうことができればいいのに、と密かに考えていた。
それからというもの、毎日雨が降らないかと楽しみにしたものだ。けれど二度と雨が降ることはなく、彼とあんな風に変えることもなくなった。
「楽しかったなぁ」
知らず知らず呟いていた。
あの日が懐かしい。ただただその思いからでてきた言葉だった。楽しく、愛おしく、全てがあった日々。戻ることはできなくても、戻りたいと願ってしまう。女々しいとはわかっていても、願うことをやめられない。願えばいつしか叶うという、有り得ぬ望み。
戻りたい。
願うな、虚しいだけ。
戻りたい。
叶わぬ。
願うしかできないから。
無力な。
様々な思いが綯交ぜになり、果てない混沌が生まれる。迷う。迷い、苦しみ、喚き、泣き叫ぶ。抜け出せない、不安と焦り。
「帰ろっか…」
暗い思考を断ち切るように歩を進める。それから思い出したように足を止め、傘を閉じた。
あの日は彼が傍にいた。だから寒くなかった。けれど今は誰もいない。独りだ。わたしが彼と暖かさを分かち合っていたとき、周囲はどんなに寒かったのだろうか。今のわたしにはわかるはずだ。独り、白い中を帰る寂しさを。だから、今味わおう。その寂しさと悲しさと、そのときの感情すべてを。彼を失ったからこそ。
亜樹は土砂降りとなった中を帰った。
「濡れては帰んなよ」
そういった彼の言葉を反芻しながら。
「亜樹?」
声がかかった。
下校中だったもので、驚く。でも気のせいではない。彼ではもちろんない。けれど聞きなれた声。
顔を上げると、見慣れた顔がそこにあった。
「夕貴」
亜樹が密かに好印象な人物だった。それは恋情というより、友情、尊敬の念。彼の傍にいれば不思議と心が落ち着いたし、いつ何時でも冷静にいられる気がしていた。一言で言えば「いい人」。
「おいおい、どうしたんだよ。びしょ濡れじゃないか」
夕貴が珍しく慌てた様子で言う。この人が取り乱すところというのは、なかなかお目にかかれない。
「夕貴はどうしたの、こんな時間に」
正確にはわからないが、下校時刻はとっくに過ぎている。けれど彼はランドセルを背負ってはいない。下校中に同じクラスの人と会うというのはごくごく稀、というか今日が初めてだった。
「これから塾で…。いやおれの事なんてどうでもいいんだよ。お前、ホントにどうしたんだ」
亜樹は目を逸らした。特に理由はない。夕貴が麻斗の大親友だから、という訳ではない。ましてや、彼に自分の悩みを話す意味もないと、彼を見下している訳では決してなかった。
「…言えないのか」
夕貴の言葉は責める声音を持たず、細い目は優しげに潤んでいる。その表情を見て、亜樹はきゅっ、と胸が苦しくなった。言わなければ。そう思った。けれど、口が動かない。何から話せばよいのか、亜樹本人にもとんと見当がつかないのだ。
言葉を探して焦る亜樹を見て、夕貴は笑った。
「まあいいけど。でも、濡れては帰んなよ」
心臓が掴まれた気がした。「濡れては帰んなよ」。その言葉が麻斗の声音と重なり、響く。麻斗は確かにそう言った。わたしを心配してくれて、気にかけてくれて。限りない愛情を注いでくれた。それが今や消え失せ、自分は雨の中、一人立っている。
何かが押し寄せ、込み上げる。戻りたい、戻れない、望む、叶わぬ、望むな、望んではいけない。何かを諭されている気がする。けれど、何だかわからない。もう、我慢できない。限界だった。
「ちょ、え、亜樹?」
夕貴が明らかに動揺し始めた。それは、亜樹の涙を見て。顔を雨と一緒に大粒の涙が伝っていく。冷たい雨の中で、その涙だけが温かかった。二つの雫が入り交じり、睫毛を重く濡らす。「ま、とにかく座って」と、2人はコンクリートの低い塀に座った。なんとか冷静さを取り戻した夕貴が尋ねる。
「な、本当に何があったんだ。話してくれるか」
亜樹は顔を両手で覆いながら頷いた。言わなければならないと感じた。それが自分の義務だと。直感だった。
亜樹は今日の朝から今までのことを出来るだけ私情を挟まずに、憐みを誘うことのないように話した。もしかしたら自分が勘違いしているだけかもしれないところもあったが、とにかく自分が聞いたこと、知ったこと、見たことを成る丈客観的に伝えたつもりだった。途中で言葉に詰まったり、嗚咽が漏れたりもしたけれど、亜樹が話している間、夕貴は口を挟まなかった。黙って、静かに聞いている。この人になら全てを話したい、と素直に思った。
亜樹が全てを話し終えたとき、夕貴がふ、と息をついた。
「そんなことが…。麻斗がな…」
気づけば夕貴の傘が亜樹の肩にかかっていた。夕貴の身体が雨にうたれて冷たく濡れていく。返さないと、と手を動かしかけて、やめた。これが彼の優しさならつっ慳貪に突っ返すのも悪い。彼はこんな人なんだ。人を引き立てるためなら自己犠牲も厭わない。ときに痛ましいほどの、その精神。わたしはそれを止める術を持たない。
「それで、なんか思い出しちゃって。色々と」
震えた声は夕貴に届いただろうか。雨が声を遮りはしなかったろうか。真っ白に降り敷く雨が霧のように広がり、全てを己の色に染める。それは信じ難いほど烏滸がましく、信じ難いほど鮮やかだった。
「そうか」
夕貴はそれだけ言った。それきり、2人とも黙り込む。耳を澄ませば雨の音が、目を凝らせば白の向こうの色が感じられた。
静寂だった。
白にも黒にもなり得る静寂。いまは白か、黒か、或いは色そのものを持たないのか。もし黒であれば、全てが闇で真面に歩くこともできず、誰かが明かりを持って来てくれるのを待つだけなのだろうか。もし白であれば、あまりの眩しさに目が眩み、手の一本を動かすことすら億劫になるだろうか。結局わたしは動けないかもしれない。黒かろうが白かろうが足を進める努力をせず、ものを知る努力をせず、進めないかもしれない。それは耐え難く、同時に抜け出し難い屈辱であった。
息を吸う。そして、その屈辱に耐えるかのように息を止め、拳を握った。夕貴はそれを見て、微笑む。
「お前、我慢しなくてもいいんだぞ」
思わぬ言葉に力が抜ける。何を我慢しているのだろうか。自分でも判別がつかなかった。
「ほらまだ手、握ってる」
夕貴の手がきつく握り込んだ亜樹の手に触れる。
あったかい…。
やっと息がつけた気がした。拳がゆるゆると開いていく。夕貴の指がその指の上を愛撫するように滑っていく。まるで固く閉ざされた氷の上に、桜の花弁が舞い落ちていくようだ。もう自分と外界を遮断しないで、心を開いて、受け入れて、愛して、と語りかけてくる。氷を溶かすのは、誰かの温かみ。そして、亜樹の氷は夕貴の温かさによって溶かされた。
「自分で何でも溜め込もうとするなよ。お前はそういう傾向があるみたいだから」
夕貴が心配そうに目を伏せ、亜樹の手を軽く握った。その温かさが嬉しくて、また涙が出そうになる。
心配をかけた。例え一瞬でも涙を見せ、心配させてしまった。迷惑をかけてしまった。そんな―。
「ほら、また自分が迷惑かけてるって思ってないか?」
「え?」
図星をさされ、どきりとする。
「お前はすぐ顔にでるんだよな。自覚ないだろうけど」
夕貴がくっくっと軽やかな笑い声をあげた。
「だから溜め込むなって、そういうことだよ。何にもお前の責任じゃない。お前が負おうとする必要はないんだ」
負わなくていい―。
いいのか、そうなのか。他人の分まで負おうとする必要は、意味はないんだな。もう、背負わなくていいんだな。
いいんだな。
それでいいのだ。
そう思うと、肩が一気に軽くなった。
「夕貴」
声をかけると、夕貴が勢いよく立ち上がった。その表情は焦りに満ちている。
「やっば。塾に遅れる」
夕貴はそのまま雨の中を駆けだした。慌てて亜樹がそれを呼び止める。
「夕貴、傘」
ずっと借りていた傘を差し出すと、夕貴がそれを押し返してきた。
「駄目駄目。濡れては帰んなっていったよね」
また軽やかに笑い、夕貴は身を翻した。ずっと言いたかったことを思い出した亜樹は、言おうとして言いそびれたことをそのまま口にする。
「ありがとう、夕貴!」
夕貴が振り返り、叫ぶ。
「ああ、お前も頑張れよ! 亜樹!」
夕貴の背は、すぐ白の裏に消えた。
「亜樹、陽ちゃんから」
家に帰ると、母が電話を突き出してきた。
陽がなんだろう、と訝しみながらも「代わりました、亜樹です」と返す。聞こえてきたのは、陽の荒ぶった声だった。
「亜樹!? 今日どうしたの、ホントに!」
陽がわざわざ電話をかけてきた理由がわかり、亜樹はそっと二階の自分の部屋へ向かう。おそらくリビングでは都合が悪いだろう。それは陽の口調からも、今から話すであろう話題的にもわかった。
「あー…。あの寝てたこと?」
きまり悪そうな亜樹の声に、陽の声はますます高くなる。
「こと? じゃなくてそれ! 何があったの?」
何が、と言われると言葉に詰まる。あのことを伝えるにはどのような言葉を使えばいいのだろう。ただ空虚で虚飾に満ちた幻想世界で終わらせない為には、なにを、どんな風に話せばいいのだろう。考えれば考えるほど言葉は掌をすり抜けてゆき、何も掴めない。そして代わりに生まれるのが、喉が痛いほどの焦り。亜樹は改めて、自分の語彙の乏しさを痛感させられることとなった。けれど、どんなに痛感して黄昏ていても意味はない。夕貴は言った。「他人の分までお前が背負おうとする必要はない」と。それは他人の分まで背負って破裂するな、ということか。自分が破裂して自分の責任を果たせなくなったら、本当の破裂だと。
だからわたしはわたしの言葉で、わたししか知らない事実を伝えていく。麻斗に手紙を渡されたとき、怖かった。不安だった。それは相手の本心を掴めないからだ。文面だけ遣されるのは苦痛だった。だから、わたしは自分の口で。その拙い言葉を紡いでいこう。どんなに悩んでも、どんなに詰まっても、それがわたしの責任だから。わたししかできないのなら、わたしかやるしかない。
「陽、実はね」
陽は真剣に聞いてくれた。真摯に、感情を出すこともなく、亜樹が話している間は呼吸が乱れることさえなかった。それが嬉しかった。
「そうだったの…」
亜樹が全てを話し終えると、陽は溜め息を吐いた。陽の呼吸が乱れたのは、後にも先にもここだけだった。そして静かに言う。
「ごめん、亜樹」
突然の謝罪に狼狽える亜樹。何も謝られるようなことはないし、寧ろこちらが謝りたいくらいだった。親友にすら何も言わなかった。それは自分の責任を放棄したと同じこと。勝手に自己嫌悪に陥り、独り善がりにも自分を憐れんでいた。そのことについて、心から謝りたい。
こちらの気持ちはどうであれ、今、陽は謝った。はっきりと、謝った。
「何で、謝るの?」
陽は「だって」と、消え入りそうな声で呟いた。
「裏切られたと思った。親友なのに何で何も話してくれないの、って。すっごく不安で…。それで亜樹はわたしのこと嫌いになったんだって思うしか…。そう考えるしか遣る瀬無いっていうか…。なんて言うんだろう」
ぼそぼそと言葉を紡いでいく。陽もわたしと同じように、悩み、考え、一生懸命に伝えようとしている。自分の気持ちを言葉にするのは思うより難しい。それに今、陽は臨んでいる。
陽は最後にぼそっと言った。
「…心配、だったのかな」
亜樹は出そうになった溜め息を呑み込んだ。鳥肌が立つ。
陽も、心配だったの…? わたしはまた、心配させていたの…? 独り善がりな自己嫌悪に浸り切り、周りなど何一つ認識していなかった。自分しかいないと思っていた。けれどそれは、自ら友達を切り捨てていたのだ。その証拠に陽は、悩み苦しみ、戦っていた。わたしはその戦いを見ようとせず、全てを遮った。陽がどれだけ苦悶しようと、一瞥すらしなかった。陽はわたしのために戦っていたのに。それを捨て、踏み躙った罪は重い。知らなかったでは通らない。何も知ろうとしなかった。知ることを放棄した。一番重いのはその罪かもしれない。その結果、陽の不安にも気づかず、莫迦な自己嫌悪に浸っている間、ただ陽を絶望へと陥れた。
「陽」
拳を握る。そうしないとまた涙が溢れてきそうだった。
「ごめん」
言えた。やっと言えた。心の奥底に居座っていた蟠りが晴れたような気がする。蟠りが去り、後に残ったのは望みという一条の光。
大切な、大切な、光。
「ううん、ありがとう。亜樹」
陽が涙を滲ませた声で言った。実際に泣いているのかもしれない。声が少し上ずっていた。
「こっちもありがとう、陽。じゃあね」
「ばいばい」という声が聞こえ、電話は切れた。亜樹は暫くツーッツーッという音を聞いていたが、やがて受話器を机の上に放り投げると、自分のベッドに仰向けに寝転がった。
カーテンの隙間から鮮やかな赤が入り込み、目を射る。思わず上体を起こし、カーテンを開けると、見事に紅い夕日がそこにはあった。空は絵具を零したように、ぼやけたところがあり、真紅の部分もあり、擦れたような色をしているところもあり、決して一色ではなかったが、太陽だけは赤一色だ。
その力強く燃える星を見詰めながら、亜樹は考える。
いつか、また迷うであろう。自分が信じられなくて、嫌で、情けなくて、泣きたくなるときが来るだろう。他人が羨ましくて、自分がちっぽけに見えることがあるだろう。抜け出せない沼に嵌ることもあるだろう。けれど、そんなとき諦めてしまったら全てが終わる。そして、何も始まらない。そんな自分を変えたければ、何かを始めるしかない。始めて、そこでいろんなことを聞いて、喋って、書いて、学んで、遊んで、知る。それが自分を生きることであり、他人を活かすことに繋がる。夕貴は自己犠牲なんかしていなかったのかもしれない。自分しっかり一歩ずつ歩いているから、他人を引き立てることができるのかもしれない。陽だって他人とは違う悲しみやその他の感情を知っているから、他人のためを考えたり、他人のために涙を流したりできるのかもしれない。
そう思うと、と唇を噛み締めた。
2人の他にもいるだろう。自分の責任を果たし、自分の道を違えず歩む者が。自分はまだ負けている。追いつきたい、追い越したい。そう、おちおち負けてなんかいられないんだ。耳で聞き、肌で感じ、口で伝える。これが最も重要で、最も難しいこと。わたしはそれをやり遂げてみせる。2人を追い越すため、そして、もう心配をかけないため。
「亜樹ー、電話持ってるでしょー? 母さんに貸してー」
階下か母の声が聞こえた。
亜樹はベッドから降り、部屋の扉へ向かった。出る直前、ちらりと部屋を一瞥する。
何もかもが赤くなった部屋に、亜樹の影が黒く黒く伸びている。
「今行く」
亜樹は返事を返した。静かに扉を閉ざす。亜樹の影法師は過去の亜樹とともに、聖なる炎が燃え盛る部屋に残された。
ほんの、一瞬の出来事だった。
「これ、あいつから」
手紙を「あいつ」に手紙を託された友達の顔は笑っていない。ただ、厳しくもなく優しくもない真摯な眼差しで右手を差し出している。
本能的に中身の予想がついた。
白い大学ノートの1ページ。小さく畳まれていたそれが、友達の手から亜樹の、自分の手へ渡る。
見たくない。中身は知っているのだから。けれど、見なければ。中身を知るために。
いつもより冷えた手で紙を開くと、見慣れた字があった。その字が全てを伝えてくれた。
亜樹へ おれは亜樹のことがきらいです。お前は最低です。 麻斗
見慣れたはずの、好きなはずの大きく黒々とした字は、どんな高名な詩人の言葉よりも亜樹の心を震わせた。心の震えはそのまま身体の動揺へと繋がる。一瞬言葉に詰まり、息を大きく吐き出す。
「こんくらい自分で言ってきてよ、って麻斗に言って」
笑う。それだけだった。口に出来たのはこの数十字だけ。もう精一杯で、どんな言葉も浮かんでこない。とにかく、動揺を隠すのにいっぱいいっぱいだった。それを目の前の友達に悟られないようにさっさと踵を返す。
7月11日。月曜日。朝の事だった。
それからというもの、授業に身が入らないも著しい。くだらない道徳の話や、国語の教科書の偽善的な物語なんて頭に入るほうが凄いんじゃないかって思う。端からそんな授業を受ける気は無かったが、今日はいつもに増して身体が重かった。
朝のことが頭から離れない。それだけだ。それだけなのに。
「麻斗」
名を呟いてみる。麻斗が振り向くことはない。それは全てが変わったことを意味していた。
いままでなら、目が合うと笑いかけてくれたよね。満面の、最高の笑顔。わたしがずっと好きだった笑顔。好きで、憧れて、追い求めた笑顔。
けれど、そんなことはもう無い。あの笑顔がわたしに向けられることは二度とない。
そう思うと、ふっと悲しくなった。泣き出したい衝動に駆られる。
一度は手にしたあの笑顔。たった五ヶ月で手放すことになってしまった。
ねえ、覚えてるでしょ?今年の2月13日のこと…。
あの日は晴れだった。暖かいと感じるほどの陽気が立ち上っていた。そんな中を亜樹は駆ける。友達の家へ赴くところだった。
その日は美玖の家でバレンタインパーティーをする約束だった。14日が月曜日なので日曜日の13日にやることになったとか。
兎にも角にも、亜樹は嬉しかった。理由は明確。ずっと好きだった人が来るのだ。名前を朱村麻斗。亜樹とは同じクラスで、前々からそれなりの交流はあった。とにかく明るくて、楽しい人だ。
その人に会えると思うと、自然に足が急いた。
美玖の家に着くと、まだ人は集まっていないようだった。広い部屋はがらりと開けている。美玖ともう一人、陽しか来ていなかった。
けれど、遅れてきた人をからかってやるのは楽しかったし、3人でのお喋りも楽しかった。
結局メンバーが全員集まったのは、野球で遅れた麻斗を最後に1時30分、既定の時間より30分遅れだった。それを見計らって美玖が呼びかける。
「みんな、チョコ持ってきた?」
美玖の澄んだ声で女子5人が、バッグから手作りのチョコレートを出す。それぞれ色も形も違うもので、カップチョコを持ってくる人もいれば、高野豆腐チョコという変わり種チョコを持ってくる人もいた。そんな中、亜樹はココア味のブラウニーだった。
「じゃあ、麻斗にプレゼント!」
一斉に麻斗にチョコが手渡される。今回男子がたった1人だったということで、みんな手の込んだものが作れたようだ。合計するとかなりの量になったが、麻斗は「ありがとう」とか「あっ、これ美味そう」とか終始楽しそうに笑っていた。やっぱりこの人が好きだ、と亜樹は思う。この笑顔を見ていると幸せになった。
「麻斗3倍返し待ってるからね!」
「しなかったら承知しないよ」
これはバレンタインの暗黙のルール、「男子はホワイトデーにチョコをくれた女子全員に3倍返しをする」に則った言葉だ。本当に3倍返しをするとなればこれまたかなりの量になる。やろうと思った男子は辛い思いをするであろう。実際、麻斗のお返しも3倍とまではいかなかったが。
それからというもの、6人でいろんなことに手を出した。部屋の中でキャッチボールをしてみたり、負けたら既定の量のお菓子を一気食いするという罰ゲームつきの爆弾ゲームをやってみたりとそれはそれは楽しかった。ずっとこのときが続けばいいのに。亜樹がそう考えていたのも事実だ。
そして行き着いたのは、暴露大会。修学旅行でお馴染みのあれである。それを女子が圧倒的に優勢な場でやるらしい。この場合、男子は逆らうことができない。例によって麻斗もそれの餌食にされた。
「麻斗の好きな人って誰?」
柚樹の言葉で女子の目が麻斗に釘づけになった。途端に麻斗が狼狽する。
「おっ、おれの? 言えねぇな」
狼狽える麻斗を追い詰めるように、なんでなんでと抗議の声が上がる。
「ねえ、教えてくれたっていいじゃない」
亜樹も知りたかったものだから、身を乗り出して言った。恐らく、好奇心丸出し。今自分はどんなに楽しそうな顔をしているだろうか。
「駄目なものは駄目ーっ!」
後ずさって麻斗も必死に抵抗する。何があっても言えないらしい。そんな強情な麻斗に手を焼いていたそのとき―。
「あたし知ってるよ」
今まで押し黙っていた明日香がはっきりと口にした。4人が一斉に振り向いて明日香を見た。その目はみな、驚きと好奇心に満ち溢れている。
「誰? 誰?」
女子を退けるように麻斗が顔を赤くして叫ぶ。
「お前…っ。言わないって言ったじゃねえか!」
そう言われても明日香は涼しい顔。薄い唇を尖らせて知らないふりを決め込むようだ。けど、麻斗が怒ったなら明日香が知っているのは本当の好きな人なんだろう。
「誰なの? 明日香」
「ああ、それはね―」
「待て!」
遂に麻斗が立ち上がった。あまりの大声に一瞬身体が竦む。麻斗の目は大きさを増していた。相当焦っているようだ。
「他人に言われるくらいなら自分で言う!」
そのはっきりした口調に「おお、いい心意気だぞ」と方々から声が上がる。亜樹はというと、驚きつつも気持ちの昂りを感じていた。だって、想っている人の好きな人が知れる。自分かもしれないという意識と、そんなはずない、自意識過剰だという自分を諌める声。どちらにせよ、今この時でそれが明かされる。落ち着いていられる訳がない。
「で、誰なの?」
美玖の問いに麻斗は僅かに溜め息をついた。そして、言う。
「亜樹だよ」
ぼそっとした声だった。聞き取りづらい、小さな声。けれど亜樹の、いや、ここにいるみんなの耳に届いただろう。それほど、衝撃的だった。
わたし? 麻斗の好きな人? あれ、何がなんだか…。麻斗の好きな人がわたしで…?
亜樹の意識は混乱の極致にいた。もう、意識がないといってもいい。麻斗の好きな人が知れた。知れて、それが―。
わたし?
驚きのあまり放心していた柚樹がはっとして、亜樹に問いかけた。
「亜樹の好きな人は?」
柚樹のきらきらした瞳は眼中にない。見ている余裕がなかった。わたしの、わたしの好きな人は、目の前の―。
「麻斗」
なにもわからなくて、「麻斗」という言葉を発したのは自分ではない、別人のように思えた。誰かが自分の口を借りてうっかり言ってしまったような、自分が誰かに操られて言ってしまったような。
なんにしろ、言ってしまった。
相手はこちらの気持ちを、こちらは相手の気持ちを掴んだ。ほんのたまゆら、相手の素に触れた。暖かく、熱く、眩いほどの本心。それに、この指が触れた。この目でしかと見た。
麻斗もかなり驚いているようだった。信じられない、というか、やはり何も考えられないというような表情。頬を朱に染め、その唇すらも赤い。黒に茶が混じった瞳は、緊張から解き放たれ、安堵が押し寄せたような穏やかさを秘めていた。
「本当?」
陽が明日香に問う。明日香は何も言わずに頷いた。麻斗が言った「亜樹」という名と明日香が知る「あき」という名の人物は合致したようだ。
「信じらんない…」
美玖がほうっと溜め息を吐く。こちらも興奮からか頬を紅潮させていた。柚樹も亜樹と麻斗の2人を凝視している。その目に在るのはもはや興味でも好奇心でもない。ただ、驚愕。
「亜樹…。本当か?」
亜樹は自分への問いかけに肩が跳ねるのがわかった。どくり、と心臓が脈打つ。血液が物凄い速さで流れ始め、顔へそれが集中する。それほどに麻斗の問いは脈拍を速くし、顔を赤くさせた。故に顔をあげることは出来ず、俯いたまま何も言えなかった。
恥ずかしい、けれどそれに勝る喜び。赤く染まった顔を見られたくないけど、今顔をあげたら目の前の彼に飛びついてしまいそうで。嬉しいのだけれど、それを抑え込まなければならないというのが堪らなくいじらしい。でも、この我慢も可愛らしいように思えて、なんだか微笑ましかった。
「麻斗」
今度は麻斗がびくりと肩を震わせたあと、稍あって熟れた果実のような顔を上げた。
「わたし、麻斗のこと、好きだよ」
その言葉は真っ直ぐに麻斗へ届く。亜樹の声はいとも簡単に麻斗の許へ届き、身体の至るところに染み渡った。緩やかに、穏やかに、撫でるように、自分の体の中を巡っていく、大好きな声。待ち望んだ言葉。紅い唇から流れる音。
「好きだよ」
ただそれだけ。けれど、総て。
それが手に入った。
お互いに。
総てにも等しい、心というそれが。
今、この手の中にある。
お互いが相手の心をこの手に収めた日。それが、今年の2月13日。
月日は流れ、人の心は移ろう。
それは、誰も止める術を持ち得ない、必然。
亜樹もその必然に呑まれた1人だ。
あの日から、一言も麻斗と口をきいていない。拗ねている訳では決してなく、相手が自分を避けているのは一目瞭然だったからだ。
いつからこんなになっちゃたんだろうね…。
ふと思った。いつからだろうか、2人の空気がさめざめとしてきたのは。腹の底から笑うこともなくなり、同様に感情の昂るままに喚き合うこともいつしか消えていた。忘れていたように思ったけど、そんな日々の思い出は心のどこか片隅に存在し続け、誰かと笑う度に、誰かと喚き合う度に不安定に揺れて、転がり、刺さる。その痛みで思い出す。彼とそうした日々を。
思い出す度、切なくなる。あんな日もあったんだ、と。もう二度と戻ることは出来ない、楽しかった日々。この手で掴むことも、この目で見届けることも、この口で呼ぶことも、この指が触れることも、この声を張り上げることも、もうない。それは許されないこと。
だって麻斗はわたしのこと嫌いなんでしょう? でもわたしは好き。迷惑だと思うけどね。好きだから、近付かない。麻斗が嫌だというのなら、わたしはどんな地の果てまでも消えましょう。だって、麻斗のことが好きだから。好きな人に嫌な思いさせたくないと思うのは、みな同じでしょ?
そう考えてきた。大好きな人の幸せを祈って。自分にはもうできない、彼を幸せにするという任務を他の誰かに託して。
もうそうするしかないのだから。それを止める者は誰もいない。
―ちゃん。
名を呼ばれた気がした。
亜樹ちゃん―。
誰だろう。わたしをこの名前で呼ぶのは。
亜樹ちゃん。
「亜樹ちゃん!」
亜樹は弾かれたように顔をあげた。どうやら机に突っ伏して寝ていたようだ。目の前にいるのは僅かに目元を怒らせた陽。
「あっ、陽、ごめ…。え、何?」
「何、じゃないでしょ! ほら、時計みて、下校時刻だよ!」
教室の壁に掛かった時計は、4時20分を指していた。慌てる亜樹を見ながら、陽は亜樹の机の前にしゃがみこむ。その顔はさっきとうって変わって心配そうな色をふくんでいた。
「亜樹ちゃんが寝るなんて珍しいね。なんかあった?」
あった?といいながら、なにかがあったということは確信しているのだろう。この青いワンピースの少女はなかなか侮れない。それとも6年も一緒にいるとだんだん分かってくるのだろうか。
「いや、なんでもないよ。…ほら帰ろう」
陽はそれ以上追究しようとはしなかった。黙って自分の机に戻る。なんだか陽に申し訳なくなった。心配してくれたのに、何も言えなくてごめんね。でも、きっとこのことを解決できるのは自分だけだと思うの。だから考えるときは1人で考えさせて。
ごめんね。
亜樹は陽の背中に、そっと語りかけた。
外に出ると、雨が降っていた。
「あれ、参ったなあ」
言いながら、陽がドットの傘を開く。亜樹も水色の傘を開いた。灰色の世界に2つの花が咲く。それほどに、湿った景色に現れた傘は目に鮮やかだった。
歩き出せば傘に心地よい雨音が木霊する。足が水をかき分け、涼しげな音をあげた。まだ本降りではないが、夕立ちのようだったので、足を速めて歩いた。
やがて、交差点が見えてきた。そこで陽は直進、亜樹は右折する。ここがいつもの分かれ道。
「じゃあね」
「明日」
手を振って、右に曲がる。右手にある杉の木は常に道路に葉を伸ばしていて、雨が降ると緑が若々しく見える。その下を通ると幾粒かの水滴が落ちてきた。
ぱたっ、ぱたっ、ぱたっ。
雨音で思い出す、いつかの景色。
ぱたっ、ぱたっ、
彼がいて、雨が降ってて。
ぱたっ、
「亜樹」
名を呼ばれた。陽でなければ、明日香でも、柚樹でも、美玖でもない。もっと硬い声。男子の声。聞き間違える筈がない、彼の声。
「亜樹」
もう一度呼ばれた。振り向く。
「麻斗」
亜樹を見た麻斗はほんの僅か、顔を顰めてみせた。
「お前、傘持ってきてないのか?」
「うん。夕立ちは想定外だったなぁ」
表情を緩ませた亜樹に問う。
「どうやって帰んの」
すると、亜樹は驚いたように目を瞬かせた。
「どうやっても何も。歩いて帰るよ」
ふうん、と麻斗は横を向いた。亜樹は困惑する。
「結局なんなのさ。帰っていい?」
歩き出そうとすると、麻斗がそれを引き留めた。
「まだ何か」
わざと冷たく言うと、麻斗は一瞬躊躇しようだったが口を開いた。
「傘、入んねえか」
その一言だった。
「…いいの」
亜樹の応えを承諾の証しと取ったか、麻斗は笑った。
「もちろん。濡れては帰んなよ」
ぱたっ、
雨粒が傘を揺らした衝撃で、亜樹は自分が突っ立ていることに気がついた。
不意に甦った日。今日のような雨降りで、やはり灰色の空が全てを覆っていた日。同時にとても大切な日。
あの後、結局亜樹は麻斗の傘に2人で入り帰った。寒かった。冷気はむき出しの腕に容赦なく吹き付ける。けれど微かに息を潜めれば隣の者の息遣いが、腕をさすれば隣の者の体温が暖かかった。それだけでよかった。その時、亜樹はとてもとても満ち足りて、このまま家に着かなければいいのに、このまま彼とどこかに消えてしまうことができればいいのに、と密かに考えていた。
それからというもの、毎日雨が降らないかと楽しみにしたものだ。けれど二度と雨が降ることはなく、彼とあんな風に変えることもなくなった。
「楽しかったなぁ」
知らず知らず呟いていた。
あの日が懐かしい。ただただその思いからでてきた言葉だった。楽しく、愛おしく、全てがあった日々。戻ることはできなくても、戻りたいと願ってしまう。女々しいとはわかっていても、願うことをやめられない。願えばいつしか叶うという、有り得ぬ望み。
戻りたい。
願うな、虚しいだけ。
戻りたい。
叶わぬ。
願うしかできないから。
無力な。
様々な思いが綯交ぜになり、果てない混沌が生まれる。迷う。迷い、苦しみ、喚き、泣き叫ぶ。抜け出せない、不安と焦り。
「帰ろっか…」
暗い思考を断ち切るように歩を進める。それから思い出したように足を止め、傘を閉じた。
あの日は彼が傍にいた。だから寒くなかった。けれど今は誰もいない。独りだ。わたしが彼と暖かさを分かち合っていたとき、周囲はどんなに寒かったのだろうか。今のわたしにはわかるはずだ。独り、白い中を帰る寂しさを。だから、今味わおう。その寂しさと悲しさと、そのときの感情すべてを。彼を失ったからこそ。
亜樹は土砂降りとなった中を帰った。
「濡れては帰んなよ」
そういった彼の言葉を反芻しながら。
「亜樹?」
声がかかった。
下校中だったもので、驚く。でも気のせいではない。彼ではもちろんない。けれど聞きなれた声。
顔を上げると、見慣れた顔がそこにあった。
「夕貴」
亜樹が密かに好印象な人物だった。それは恋情というより、友情、尊敬の念。彼の傍にいれば不思議と心が落ち着いたし、いつ何時でも冷静にいられる気がしていた。一言で言えば「いい人」。
「おいおい、どうしたんだよ。びしょ濡れじゃないか」
夕貴が珍しく慌てた様子で言う。この人が取り乱すところというのは、なかなかお目にかかれない。
「夕貴はどうしたの、こんな時間に」
正確にはわからないが、下校時刻はとっくに過ぎている。けれど彼はランドセルを背負ってはいない。下校中に同じクラスの人と会うというのはごくごく稀、というか今日が初めてだった。
「これから塾で…。いやおれの事なんてどうでもいいんだよ。お前、ホントにどうしたんだ」
亜樹は目を逸らした。特に理由はない。夕貴が麻斗の大親友だから、という訳ではない。ましてや、彼に自分の悩みを話す意味もないと、彼を見下している訳では決してなかった。
「…言えないのか」
夕貴の言葉は責める声音を持たず、細い目は優しげに潤んでいる。その表情を見て、亜樹はきゅっ、と胸が苦しくなった。言わなければ。そう思った。けれど、口が動かない。何から話せばよいのか、亜樹本人にもとんと見当がつかないのだ。
言葉を探して焦る亜樹を見て、夕貴は笑った。
「まあいいけど。でも、濡れては帰んなよ」
心臓が掴まれた気がした。「濡れては帰んなよ」。その言葉が麻斗の声音と重なり、響く。麻斗は確かにそう言った。わたしを心配してくれて、気にかけてくれて。限りない愛情を注いでくれた。それが今や消え失せ、自分は雨の中、一人立っている。
何かが押し寄せ、込み上げる。戻りたい、戻れない、望む、叶わぬ、望むな、望んではいけない。何かを諭されている気がする。けれど、何だかわからない。もう、我慢できない。限界だった。
「ちょ、え、亜樹?」
夕貴が明らかに動揺し始めた。それは、亜樹の涙を見て。顔を雨と一緒に大粒の涙が伝っていく。冷たい雨の中で、その涙だけが温かかった。二つの雫が入り交じり、睫毛を重く濡らす。「ま、とにかく座って」と、2人はコンクリートの低い塀に座った。なんとか冷静さを取り戻した夕貴が尋ねる。
「な、本当に何があったんだ。話してくれるか」
亜樹は顔を両手で覆いながら頷いた。言わなければならないと感じた。それが自分の義務だと。直感だった。
亜樹は今日の朝から今までのことを出来るだけ私情を挟まずに、憐みを誘うことのないように話した。もしかしたら自分が勘違いしているだけかもしれないところもあったが、とにかく自分が聞いたこと、知ったこと、見たことを成る丈客観的に伝えたつもりだった。途中で言葉に詰まったり、嗚咽が漏れたりもしたけれど、亜樹が話している間、夕貴は口を挟まなかった。黙って、静かに聞いている。この人になら全てを話したい、と素直に思った。
亜樹が全てを話し終えたとき、夕貴がふ、と息をついた。
「そんなことが…。麻斗がな…」
気づけば夕貴の傘が亜樹の肩にかかっていた。夕貴の身体が雨にうたれて冷たく濡れていく。返さないと、と手を動かしかけて、やめた。これが彼の優しさならつっ慳貪に突っ返すのも悪い。彼はこんな人なんだ。人を引き立てるためなら自己犠牲も厭わない。ときに痛ましいほどの、その精神。わたしはそれを止める術を持たない。
「それで、なんか思い出しちゃって。色々と」
震えた声は夕貴に届いただろうか。雨が声を遮りはしなかったろうか。真っ白に降り敷く雨が霧のように広がり、全てを己の色に染める。それは信じ難いほど烏滸がましく、信じ難いほど鮮やかだった。
「そうか」
夕貴はそれだけ言った。それきり、2人とも黙り込む。耳を澄ませば雨の音が、目を凝らせば白の向こうの色が感じられた。
静寂だった。
白にも黒にもなり得る静寂。いまは白か、黒か、或いは色そのものを持たないのか。もし黒であれば、全てが闇で真面に歩くこともできず、誰かが明かりを持って来てくれるのを待つだけなのだろうか。もし白であれば、あまりの眩しさに目が眩み、手の一本を動かすことすら億劫になるだろうか。結局わたしは動けないかもしれない。黒かろうが白かろうが足を進める努力をせず、ものを知る努力をせず、進めないかもしれない。それは耐え難く、同時に抜け出し難い屈辱であった。
息を吸う。そして、その屈辱に耐えるかのように息を止め、拳を握った。夕貴はそれを見て、微笑む。
「お前、我慢しなくてもいいんだぞ」
思わぬ言葉に力が抜ける。何を我慢しているのだろうか。自分でも判別がつかなかった。
「ほらまだ手、握ってる」
夕貴の手がきつく握り込んだ亜樹の手に触れる。
あったかい…。
やっと息がつけた気がした。拳がゆるゆると開いていく。夕貴の指がその指の上を愛撫するように滑っていく。まるで固く閉ざされた氷の上に、桜の花弁が舞い落ちていくようだ。もう自分と外界を遮断しないで、心を開いて、受け入れて、愛して、と語りかけてくる。氷を溶かすのは、誰かの温かみ。そして、亜樹の氷は夕貴の温かさによって溶かされた。
「自分で何でも溜め込もうとするなよ。お前はそういう傾向があるみたいだから」
夕貴が心配そうに目を伏せ、亜樹の手を軽く握った。その温かさが嬉しくて、また涙が出そうになる。
心配をかけた。例え一瞬でも涙を見せ、心配させてしまった。迷惑をかけてしまった。そんな―。
「ほら、また自分が迷惑かけてるって思ってないか?」
「え?」
図星をさされ、どきりとする。
「お前はすぐ顔にでるんだよな。自覚ないだろうけど」
夕貴がくっくっと軽やかな笑い声をあげた。
「だから溜め込むなって、そういうことだよ。何にもお前の責任じゃない。お前が負おうとする必要はないんだ」
負わなくていい―。
いいのか、そうなのか。他人の分まで負おうとする必要は、意味はないんだな。もう、背負わなくていいんだな。
いいんだな。
それでいいのだ。
そう思うと、肩が一気に軽くなった。
「夕貴」
声をかけると、夕貴が勢いよく立ち上がった。その表情は焦りに満ちている。
「やっば。塾に遅れる」
夕貴はそのまま雨の中を駆けだした。慌てて亜樹がそれを呼び止める。
「夕貴、傘」
ずっと借りていた傘を差し出すと、夕貴がそれを押し返してきた。
「駄目駄目。濡れては帰んなっていったよね」
また軽やかに笑い、夕貴は身を翻した。ずっと言いたかったことを思い出した亜樹は、言おうとして言いそびれたことをそのまま口にする。
「ありがとう、夕貴!」
夕貴が振り返り、叫ぶ。
「ああ、お前も頑張れよ! 亜樹!」
夕貴の背は、すぐ白の裏に消えた。
「亜樹、陽ちゃんから」
家に帰ると、母が電話を突き出してきた。
陽がなんだろう、と訝しみながらも「代わりました、亜樹です」と返す。聞こえてきたのは、陽の荒ぶった声だった。
「亜樹!? 今日どうしたの、ホントに!」
陽がわざわざ電話をかけてきた理由がわかり、亜樹はそっと二階の自分の部屋へ向かう。おそらくリビングでは都合が悪いだろう。それは陽の口調からも、今から話すであろう話題的にもわかった。
「あー…。あの寝てたこと?」
きまり悪そうな亜樹の声に、陽の声はますます高くなる。
「こと? じゃなくてそれ! 何があったの?」
何が、と言われると言葉に詰まる。あのことを伝えるにはどのような言葉を使えばいいのだろう。ただ空虚で虚飾に満ちた幻想世界で終わらせない為には、なにを、どんな風に話せばいいのだろう。考えれば考えるほど言葉は掌をすり抜けてゆき、何も掴めない。そして代わりに生まれるのが、喉が痛いほどの焦り。亜樹は改めて、自分の語彙の乏しさを痛感させられることとなった。けれど、どんなに痛感して黄昏ていても意味はない。夕貴は言った。「他人の分までお前が背負おうとする必要はない」と。それは他人の分まで背負って破裂するな、ということか。自分が破裂して自分の責任を果たせなくなったら、本当の破裂だと。
だからわたしはわたしの言葉で、わたししか知らない事実を伝えていく。麻斗に手紙を渡されたとき、怖かった。不安だった。それは相手の本心を掴めないからだ。文面だけ遣されるのは苦痛だった。だから、わたしは自分の口で。その拙い言葉を紡いでいこう。どんなに悩んでも、どんなに詰まっても、それがわたしの責任だから。わたししかできないのなら、わたしかやるしかない。
「陽、実はね」
陽は真剣に聞いてくれた。真摯に、感情を出すこともなく、亜樹が話している間は呼吸が乱れることさえなかった。それが嬉しかった。
「そうだったの…」
亜樹が全てを話し終えると、陽は溜め息を吐いた。陽の呼吸が乱れたのは、後にも先にもここだけだった。そして静かに言う。
「ごめん、亜樹」
突然の謝罪に狼狽える亜樹。何も謝られるようなことはないし、寧ろこちらが謝りたいくらいだった。親友にすら何も言わなかった。それは自分の責任を放棄したと同じこと。勝手に自己嫌悪に陥り、独り善がりにも自分を憐れんでいた。そのことについて、心から謝りたい。
こちらの気持ちはどうであれ、今、陽は謝った。はっきりと、謝った。
「何で、謝るの?」
陽は「だって」と、消え入りそうな声で呟いた。
「裏切られたと思った。親友なのに何で何も話してくれないの、って。すっごく不安で…。それで亜樹はわたしのこと嫌いになったんだって思うしか…。そう考えるしか遣る瀬無いっていうか…。なんて言うんだろう」
ぼそぼそと言葉を紡いでいく。陽もわたしと同じように、悩み、考え、一生懸命に伝えようとしている。自分の気持ちを言葉にするのは思うより難しい。それに今、陽は臨んでいる。
陽は最後にぼそっと言った。
「…心配、だったのかな」
亜樹は出そうになった溜め息を呑み込んだ。鳥肌が立つ。
陽も、心配だったの…? わたしはまた、心配させていたの…? 独り善がりな自己嫌悪に浸り切り、周りなど何一つ認識していなかった。自分しかいないと思っていた。けれどそれは、自ら友達を切り捨てていたのだ。その証拠に陽は、悩み苦しみ、戦っていた。わたしはその戦いを見ようとせず、全てを遮った。陽がどれだけ苦悶しようと、一瞥すらしなかった。陽はわたしのために戦っていたのに。それを捨て、踏み躙った罪は重い。知らなかったでは通らない。何も知ろうとしなかった。知ることを放棄した。一番重いのはその罪かもしれない。その結果、陽の不安にも気づかず、莫迦な自己嫌悪に浸っている間、ただ陽を絶望へと陥れた。
「陽」
拳を握る。そうしないとまた涙が溢れてきそうだった。
「ごめん」
言えた。やっと言えた。心の奥底に居座っていた蟠りが晴れたような気がする。蟠りが去り、後に残ったのは望みという一条の光。
大切な、大切な、光。
「ううん、ありがとう。亜樹」
陽が涙を滲ませた声で言った。実際に泣いているのかもしれない。声が少し上ずっていた。
「こっちもありがとう、陽。じゃあね」
「ばいばい」という声が聞こえ、電話は切れた。亜樹は暫くツーッツーッという音を聞いていたが、やがて受話器を机の上に放り投げると、自分のベッドに仰向けに寝転がった。
カーテンの隙間から鮮やかな赤が入り込み、目を射る。思わず上体を起こし、カーテンを開けると、見事に紅い夕日がそこにはあった。空は絵具を零したように、ぼやけたところがあり、真紅の部分もあり、擦れたような色をしているところもあり、決して一色ではなかったが、太陽だけは赤一色だ。
その力強く燃える星を見詰めながら、亜樹は考える。
いつか、また迷うであろう。自分が信じられなくて、嫌で、情けなくて、泣きたくなるときが来るだろう。他人が羨ましくて、自分がちっぽけに見えることがあるだろう。抜け出せない沼に嵌ることもあるだろう。けれど、そんなとき諦めてしまったら全てが終わる。そして、何も始まらない。そんな自分を変えたければ、何かを始めるしかない。始めて、そこでいろんなことを聞いて、喋って、書いて、学んで、遊んで、知る。それが自分を生きることであり、他人を活かすことに繋がる。夕貴は自己犠牲なんかしていなかったのかもしれない。自分しっかり一歩ずつ歩いているから、他人を引き立てることができるのかもしれない。陽だって他人とは違う悲しみやその他の感情を知っているから、他人のためを考えたり、他人のために涙を流したりできるのかもしれない。
そう思うと、と唇を噛み締めた。
2人の他にもいるだろう。自分の責任を果たし、自分の道を違えず歩む者が。自分はまだ負けている。追いつきたい、追い越したい。そう、おちおち負けてなんかいられないんだ。耳で聞き、肌で感じ、口で伝える。これが最も重要で、最も難しいこと。わたしはそれをやり遂げてみせる。2人を追い越すため、そして、もう心配をかけないため。
「亜樹ー、電話持ってるでしょー? 母さんに貸してー」
階下か母の声が聞こえた。
亜樹はベッドから降り、部屋の扉へ向かった。出る直前、ちらりと部屋を一瞥する。
何もかもが赤くなった部屋に、亜樹の影が黒く黒く伸びている。
「今行く」
亜樹は返事を返した。静かに扉を閉ざす。亜樹の影法師は過去の亜樹とともに、聖なる炎が燃え盛る部屋に残された。
後書き
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