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作品ID:400
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約14085文字 読了時間約8分 原稿用紙約18枚
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He doesn't know why
作品紹介
雪山、猟師、少女、人生、理由。 原曲・Fleet Foxes
シルバは石造りの暖炉で燃え盛る炎に薪をくべた。
陽が落ちてから一刻ほど経ち、蔀窓の外は夜の闇と蛍火のように浮かび上がる雪の輝きしかない。耳を澄ますと、薪を焼く炎の息吹の奥に、しとしと降り積もる雪の足音が聞こえる気がする。それらは透明な夜の微風に浸透し、緩やかに流れていくかに思われた。
しかし、その静寂を打ち破るような銃声が轟く。シルバは揺り椅子から立ち上がり、窓の外へ目をやった。
珍しく穏やかな雪の降る山間の、傾斜の下で灯る光。松明だろう、それを持った村民達が開けた平地に天幕を張り、宴を開いているのが見えた。次の瞬間に、再び銃声が響く。恐らく、馬鹿騒ぎの合間に景気づけの余興で空砲でも撃っているのだろう。もっとそちらへ近付いていけば野蛮な歓声も聞こえるはずだ。
シルバは忌々しい気持ちでしばらく、そちらをじっと睨んでいたが、やがて馬鹿馬鹿しくなってまた椅子に戻った。暖炉で揺れる火炎を紺碧の瞳に映しながら、彼は深く溜息をついた。
シルバが暮らす山は毎年、年の瀬が近づくにつれ、騒がしくなる。下界の村人達の仕来りで、この山に宿っていると云われる神への感謝の意を込め、宴が繰り広げられるのだ。その祭事は一夜では終わらず、日が経つほどに段々と山を昇って行き、最終日である年越しの夜には、頂上での大宴会を行ってようやく終息する。この祭事は一週間かけて行われ、今日はその初日なので、あと六日は耐えなければならない。そう思うと、シルバは溜息を禁じ得なかった。
山の神々については彼も、去年に亡くなった育ての親に倣って信仰していた。だが、人の手で行われる神事、祭事に関しては、シルバはその意義に一片たりとも傾倒していなかった。神々の棲む山で暮らす彼には、その神への感謝祭もどこか他人事のように思えて仕方がなかった。白々しく、仰々しく、そしてあまりに装飾的で、シルバはその宴の賑わいが気に食わなかった。大体、感謝の意をこめてと謳うものの、これだけ騒げば神の逆鱗に触れるのではないか、とシルバは幼い頃からずっと疑問に感じていた。神の怒りが怖くて眠れない日もあったほどだ。
また、空砲が一発。腹の底を震わせる微弱な振動も遅れてやってくる。毎年の事だが、村の馬鹿者達のお陰で雪崩が起きないか、シルバは気に掛けなくてはならない。村民達は松明を振りかざし、銘々酒を呑むばかりで、このような心配事など脳裏も掠めないだろう。神々が自分達を守ってくれているのだ、という傲然とも言える安心に基づいての能天気さだ。本当の山の恐ろしさを知らぬ者達ばかりだ。でも、一方で、それが人として生きていく上では当然なことなのだろう、おかしいのはむしろ自分だ、というある種の諦念も最近になって抱くようになった。
うとうとしていたのかもしれない。燃え尽きた薪が音を立てて割れ、それではっと気付いた。暖炉の灯りの消えた小屋は暗く沈み、夜のしじまが支配している。燃えかすの残り香が漂い、乾いた冷気が忍び寄る気配があった。
狩猟の時間だ。
シルバは立ち上がって、猟用の外套を羽織った。防寒フードを銀髪の上に目深く被り、皮手袋を嵌める。壁に掛かっていた猟銃を抱え、弾丸の包みもポケットに納めた。藁吹きの長靴を履いて小屋の戸を開けると、降雪はさらに勢いを弱めたようだった。今夜は特に穏やかである。毎年、不思議と宴の時期には、山は大人しくなる。遠くに望める連峰の輪郭と雪化粧も、闇夜に鮮明に映るほどだった。
一度だけ、斜面の下の宴会のほうを見ると、もう今日の分は終わったらしく、ほとんど灯りが落ちて静まっていた。少し眠り過ぎたようだ、とシルバは反省した。銃を構え、雪に覆われた山肌を昇っていく。樹林が広がっている方向だった。
歩を進めていく内に、雪が完全に止んだ。フードを取って空を見上げると、雲が明るく見えて、幾つもの断片に千切れていく所だった。所々陥没したかのような雲の隙間から、冬の星空の一部が、そして、淡い白銀の月光が見えた。シルバは無心にそれを眺め、息を大きく吸いこんだ。
山と、そして、空と、風と、雪。
それらと一体化したような感覚。
自分という存在が、消えてなくなる忘我の一時。
脚は歩調を保ち。
腕は冷たい猟銃を構えている。
鼻は冷気の匂いを確かめ。
目は閉じて、暗闇に月光の残像を見る。
白い息が立ち昇る。
呼吸。
鼓動。
脈拍。
それらは自分の体の一部であって、そして、それぞれ独立している。
自分を忘れる瞬間。
シルバはこの感覚が大好きだった。数少ない大好きの内の一つだ。
いかに自分がちっぽけであり、そして、虚無な存在であるかを思い出させてくれる。
しかし、本当に大事なのは、その恍惚とした感触ではなく、その次にやってくる必然的な自問だ。
いったい、なぜ、自分は自分なのか。
どこまでが自分で、どこまでが世界なのか。
なぜ、この形で、この現在地に立ち、そして生きていくのか。
山は、それを教えてくれる。
しかし、それは決して、言葉では表せぬ確信。
人間が放つ信号交換では決して伝達できぬ、超然的な予感。
その瞬間に、シルバは、神を見る。
本物の神に触れる。
山の神。
目を開く。
明るい闇に覆われた冬景色の山が、荒涼と広がっていた。
◇
枝葉に雪を積もらせた杉の木の下まで来た時、シルバは脚を止めた。何かが動く気配を捉えたのだった。彼は夜目が利くので、どんな小さな動きも見逃さない。夜半に狩猟を行うという一風変わった生活も、この異常に利く夜目に依る所が大きい。
雪の中へ伏せて注意深く辺りを見回すと、百歩ほど離れた場所に一頭の雄鹿が立っていた。この時間に、しかも一頭だけでいるなんて珍しい。頭上の夜空はすっかり雲が霧消し、冬晴れの透明な暗幕と水晶のような満月。そこから降る神秘的な燐光が、雄鹿の立派な角の表面を鮮やかに滑る。それが遠目にはっきり見えるほど、今夜の大気は澄み切っていた。
シルバは自身の目立つ色の髪を隠すためにフードを再度被り、猟銃の撃鉄を倒しながら注意深く獲物へ歩み寄った。木々はまだ密度を増していく途中で、今彼がいる場所は完全な樹林ではない。故に、木と木の間隔が広く、身を隠すことができない。仕留めるチャンスは一度しかないだろう。そろり、そろり、と足を運びながら、シルバは唇を噛んで気を引き締める。
雄鹿との距離を五十歩ほどまで詰めた。そろそろ気付かれる頃合いだろうが、まだ銃の射程距離外だ。当たっても、致命傷は与えられない。もう少しだけ距離を縮める必要がある。シルバは既に呼吸を押し殺し、彼の瞳は虚空を見つめるかの如く、前方の雄鹿、そして、それらを取り巻く空気の流れと月光の透過を無心に映していた。
三十歩。シルバはほとんど獣と同じような気配を漂わせる。すでに思考は一つの機械と化し、今は作動していない。雄鹿は、はたと脚を止めては、こちらを窺うかのように首を反らせ、そのままじっとしていたり、数歩だけ歩いて短く鳴いたりする。黒く潤んだ楕円形の瞳がシルバを捉えたかと思うと、次には何事もなかったかのように頭を伏せる。これの繰り返しだ。
どうもおかしい。
シルバはその時、ようやく不審に思った。
いくら慎重に行動していたとはいえ、このように見通しのいい場所、それに今夜のような、明るい月が射す夜とあって、野性の雄鹿がこちらに気付かないとは思えない。明らかにこちらを視認しているはずだ。何故、警戒の素振りを見せないのだろうか。
シルバは思い切って、中腰からまっすぐに立ち上がる。雄鹿は首を緩くこちらに向けただけで、やはり逃げなかった。無遠慮に猟銃で撃つ気にはなれず、かわりにその鹿に歩み寄ってみる。
ほとんど目と鼻の先と言える距離になったところで、ようやくシルバは気付いた。
鹿の足元、降り積もった雪に沈むようにして女が倒れている。真白な分厚い上着とフードに身を包んでいて、その保護色の所為ですぐにはわからなかった。シルバは驚いて、女へ駆け寄って抱き起こす。
傍で見ると、端麗な容姿の少女だった。自分と同じか、幾つか年上だろう。雪の塵が薄ら掛かった睫毛は上品に長く、静謐に伏せて閉じられている。華奢な造りの顔は気品を漂わせていて、麓の村に住む名家の令嬢かもしれない。まさに冬の精霊を思わせるかのように肌が白く、行き倒れだろうか、苦悶の表情を浮かべていた。死人にも思えたが、微かな呼吸をしている。吹雪の夜であったら、とっくに凍死していただろう。防寒用の白いフードの隙間からは艶やかな長い黒髪が零れ出ていた。
鹿は逃げずに、少女へ呼びかけるシルバの肩へ鼻先を擦りつけてきた。どうやら、この少女が連れていたものらしい。道理で人を怖がらないはずである。シルバはそっと微笑んで、飼い鹿の首筋を撫でた。それから、目覚めない真白な少女を苦労して背負い、鹿を連れて小屋へと戻っていった。
◇
小屋に辿り着くと、少女はすぐに目を覚ました。シルバが鍋に残っていたスープを暖炉の炎で温めている時のことだった。彼女はシルバのベッドに横になっていたが、一声漏らして頭を起こすなり、毛布を跳ねのけてベッドの隅へ後退りした。
「あなた、誰!?」 少女が暖炉の前の揺り椅子に腰かけていたシルバを睨んで叫んだ。
「それはこっちの台詞だ」 シルバは暖炉に掛かった鍋を見ながら、不機嫌な口調で返す。事実、今夜の狩りを中止せざるを得なかったので不機嫌だった。
少女には倒れていた時と同じ、白の防寒着で寝てもらっていた。窮屈そうではあったが、脱がすのをシルバは何となく遠慮したのである。
「ここ、どこよ!」 少女は恐々とした目線を周囲に巡らせて、また叫んだ。
「僕の小屋」
「なんで、わたし、ここに! あなた、わたしに何か……」
「ここから昇った先の山道であんたが倒れていた。それを僕が見つけて、起きないから仕方なく僕のベッドまで運んだ。僕があんたにしたことは、それくらい」
「ルーイは、ルーイはどこ!?」
「ルーイ?」 シルバはそこでようやく、少女へ目を向けた。 「あぁ、あの鹿ね。大丈夫、表に繋いであるよ」
「あなた、誰!? なんで、わたしをここに……」
「あのさ、馬鹿みたいに同じ質問する前に、言うべきことがあるんじゃないかな?」 シルバは苛立ちを抑えて忠告する。 「人のベッドを占領しているんだから、礼くらい言った方がいい」
「わたしが頼んだわけじゃないわ!」 彼女はそう叫ぶと、ベッドから飛び降りて、小屋の戸へと駆ける。
シルバが止める間もなく、少女はすぐによろめいて壁に手をつき、そしてずるずると崩れるように膝をついた。呼吸が荒く、気分が悪そうだ。溜息をついて、シルバは腰を上げて彼女の許へ立つ。
見てみると案の定、少女は発熱していた。額に触れるまでもなくわかる。神秘的な白さを湛えていた肌が、今は沸いたような血の赤みを差していた。
「あんた、冬山のど真ん中で寝ていたんだぞ。すぐに動けるはずがないじゃないか」 シルバは起こしてやろうと手を差し伸べる。
「触らないで!」
「あと、いちいち騒がなくても聞こえているから」 構わず彼女の肩を引っ張り上げ、乱暴にベッドまで連れて行った。 「恩に着せるつもりはない。ただ、さっさと身体を治してもらって出て行ってほしいだけなんだ」
少女は大人しくベッドに腰掛け、黙り込んだ。しかし、目だけはシルバをじっと睨み上げている。襲われるのでは、と警戒しているのだろうか。しかし、これが当然の態度である。ルーイという名の鹿よりかは正常な反応だと評価できる。
スープが煮え立ったようだ。鍋を火から外して、シルバは中身を木皿に掬う。ジャガイモと鶏肉を特別に多く入れてやり、それをスプーンと一緒に少女に差し出した。
「いらない」 彼女はぶるぶる首を振る。
「また倒れてもらっちゃ困るんだ。よそってしまったんだから、食べてくれよ」
ぐいっと押しつけると、少女は意外にもそれ以上の反抗は見せずに、しぶしぶとした顔で啜り始めた。どうやら腹を空かしていたようである。シルバが僅かに優越の笑みを浮かべると、少女は敏感に察知して睨んだ。
肩を竦めて、シルバは自分の分のスープもよそった。木皿を膝に置き、冷ましている間、少女の顔立ちをじっと眺めていた。
「あんた、麓の村の人?」 シルバは問う。
しかし、少女はぴくっと動きを止めて一瞥しただけで、構わずスープを飲み続ける。
「話したくないなら別にいいけどさ、もし遭難していたんだったら、宴の場所はわかっているから言ってくれ」
「誰が遭難するか!」 彼女は耳を真っ赤にして否定する。しかし、元々赤くなっていたので、図星かどうかはわからない。
「じゃあ、なんで、あんな所で倒れていたんだい」
「あなたには関係ないでしょう」
「うん、関係ないし、興味もない。でも、危うくあんたの鹿を間違えて撃つ所だった。こっちは迷惑を被っているんだから、弁解とかするものじゃないか?」
「そ、そんな滅茶苦茶な……、あなたが悪……!」
「死のうとしていたんだろ」
「え?」 少女が驚いて見返す。突然の言葉に面食らったようだ。
「行き倒れじゃなくて、最初から死ににきたんだ」
「な、なんで……」 少女は凍りついたような表情を見せた。
「わかるさ、死のうとしている人間と生きようとしている人間の違いくらい」 シルバはスープを一匙取って飲む。 「次は死ねるといいね」
「からかっているの?」 彼女は顔を引き攣らせて問う。
「いや、そんなつもりはない」 シルバはさらりと答えて、スープを飲み干した。
「何も知らないくせに!」
「知るわけないだろう。あと、叫ばないでくれるかな」 シルバはうんざりして言う。いよいよ、少女を拾ってきた事に後悔し始めていた。
「それとも何? 偉そうに説教する為に、わざわざわたしを助けたっていうの?」
「そんなつもりもない。あんた、少し我の強い考え方をしてる」
「じゃあ、なんで……」
「最初は遭難者だと思っていた。だから、助けようとした。それだけだよ。理由が必要かい?」
少女は黙りこくって俯く。シルバは鼻息を漏らし、椅子に深くもたれた。
「そうそう、少しの間、そうやって黙っていてくれ。スープを飲んだら、ハーブティーを御馳走するよ」
晴れ渡っていたはずの夜空は、いつの間にか再び厚い雲を漂わせ、雪が再開していた。と言っても、雪の結晶は細かく、相変わらず優しい調子だ。窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、シルバは木皿を置いた。寒かったが、まだ暖炉の熱で事足りるほどであった。少女の皿も空になっていたので、それを無言で促し受け取った。汲み置きの水場に二枚の木皿を浮かべておく。
特製のハーブティーを淹れながら、ちらりと少女を見ると、彼女は腹を満たして落ち着きを取り戻したようで、膝を抱えて猫のように大人しかった。熱の所為か、窓の外をぼうっと眺めている。いつの間にか、厚手の白い上着は脱いでいた。
「訊かないのね」 彼女が外を眺めたまま、突然言う。
「は?」 シルバはきょとんとした。 「何を?」
「わたしが死のうとした理由」
「あ、あぁ……」 シルバは思わず笑ってしまった。 「そうだね、興味がない」
「変わっているのね。大抵の男だったら皆、頼みもしてないのに掘り下げようとするわ」
「もしかして、訊いてほしいの?」
「まさか……」 少女も息を漏らすように笑って、次は暖炉の炎へ目を向ける。その目だけが、如実に悲哀の感情を表していた。 「死んでも言いたくない」
「それが正常だと思う」 シルバもつられて暖炉へ向いた。赤々と炎が踊っている。 「話したって、知ったって、どうしようもない事だろうし。あんたが死のうとしているのだってもう止める気はない」
「さっきはごめんなさい」 少女は急にしおらしく肩を竦めて頭を下げた。
「落ち着いたみたいだね」 シルバは揺り椅子にもたれて、口端を上げる。ハーブティーの入ったコップを彼女に渡した。 「うん、僕としてはそのほうが魅力的だな」
「ありがとう」
「おいおい、本気にするなよ」
「ちがうわ、ベッドのことよ」 少女は悪戯っぽく笑った。
シルバは気まずくハーブティーを啜る。
「あなた、猟師さん? ここで、一人で暮らしているの?」 少女もコップを傾けながら訊いた。
「去年までは、育ててくれたお爺さんと暮らしていたけどね。死別して、今は独り」
「そう……、立派ね、わたしと同い年くらいなのに」
「一人暮らししているだけで偉い事なんか何もないよ」
「誰にも頼らずに生きているわ」
「山の恩恵がなかったら、僕なんかとっくに腐ってるさ」
「他人に依存しているよりかは百倍マシよ」
それは確かにそうだ、とシルバは澄まし顔で密かに感心した。
「いいわね、わたしも自由になりたい。どこかへ逃げたいわ」
「そうすれば? 死ぬよりかは簡単じゃない?」
「死ぬ方が簡単よ」
「まぁ、そういう奴もいるかな」
「あなた、頭が良いのね」 少女はにっこり笑った。
どきっとするほど素朴な笑みだった。この世で最も恐ろしいものは、濁りの無い純粋さである。シルバは一瞬、鳥肌が立つのを感じた。
「あなたみたいな人が村にもいてくれればいいのに。わたしの両親があなたと同じ性格だったら、こんなに苦労しないわ」
「変な事言うなぁ。僕は子供を作るほど、他人に関心は無いよ」
「じゃあ、何に関心があるの?」
くすくす笑って、少女は折り曲げた膝に頬を当てて問う。心なしか、陽気になっている気がする。酒を呑ませた記憶はないのだが、恐らく、自殺から生還した後の高揚感だろう。生に酔っているのだ。人間は皆、生きるという行為に対して酩酊しているのかもしれない。
「別に何ってわけでもないけど……、強いて言うなら、今の自分のことかな」
「今の自分?」
「そう」 シルバは頷く。 「それ以外は、大抵は知ってもしょうがないことだよ」
「どういうことなの?」 少女は天秤のように首を傾げて、大袈裟に目を開いて尋ねる。もしかしたら、この状況を愉しみ始めているのかもしれない。
「そうだね……、例えば、僕は本当の親を知らないんだけど、どうやって僕が生まれたかとか、なぜ捨てられたのかとか、これから生きる意味、あるいは死ぬ意味だとか……、そんな下らない事、興味も無いし、知りたくも無い。知っても知らなくても、何も変わりがないんだ」 シルバはハーブティーを一度啜る。 「大事なのは、今、この瞬間に僕がここにいて、そして僕のベッドを、あんたを介抱する為に犠牲にしたってことだけだよ。今、この状況を考えるだけで、僕は充分だ」
なぜこんな事を話しているのか、彼は自分で見当がつかなかった。ひょっとすると、生に酔っているのかもしれない。
少女は茫洋とした目で見ていた。感嘆したように息を漏らす。
「すごいわね、その考え方……」 そこで、少女は表情を暗くして、囁くような口調になる。 「でも……、不安にならない? それって……」
「何が不安?」
「そうね……、例えば、人生かな。一度しかないんだよ? それなのに……」
シルバは思わず吹き出してしまった。
「人生なんて、そんな大層なものじゃないよ。ただ、後付けの理由が増えていくだけで、本来は生まれる事にも、死ぬ事にも意味なんて存在しないんだ。無理に生きていく価値も、無理に死ぬ価値もないんじゃないかなって、僕は思う。皆、自分で勝手に人生を重くしているだけなんだよ。でも、その重さで安心できる奴もいっぱい居る。そうでなきゃ、死んでいるも同然だと思ってるんだからな」
幸せな連中だ、と言いかけて、シルバは口籠った。少女が怒ったように彼を睨んでいたからだ。
「じゃあ、あなたはどうやって、自分を位置付けているの?」 彼女は僅かに口を尖らせて訊いた。
意味がよくわからなかったが、シルバはとりあえず神妙に頷いてみせる。
「そもそも位置付ける必要なんかないと思うんだけど……」 そう言い淀んでから、少しだけ考えてみた。 「そう、でも、説明しづらいんだけど……、山を歩いていると、時々、わかるんだ。僕が僕である理由っていうのが……」
シルバは瞑目して、あの感覚を思い起こしてみる。それは、何物にも形容しがたい、唯一無二の確信である。悟りとでも言うべきだろうか、自分の内側から燦然と輝く何かを見つけたような、単純な歓喜。
「声が聞こえるんだ」
「声?」
「僕は僕であり、それ以外の何物でもないって。たぶん、理屈はないんだけど、そう感じるんだ。そうやって自分を見切れるのが、とんでもなく嬉しいんだよ」
少女は難しそうな顔をしてこちらを見ている。シルバは笑みを零した。
「山の神様の声なんだって、僕は信じている」
何もかもが決まっていて。
真理という名の一本道が、その運命の螺旋を貫いている。
ひどく整然としていて。
それでいてルールの無い、不規則の道。
乱れているもの、整っているもの、きっとどちらも狂っているのだ。
滅裂な思考。
信号に還元した時の、もどかしさ。
やはり、言葉では表現できない。
だからこそ、神という呼称がふさわしいのではないか。
超然的な……、次元を超越した、深い慈悲。
「わたしにも聞こえる?」 少女は訊いた。
「たぶんね」 シルバは頷いた。実のところ、上の空の反応だった。
しかし、それに気付かなかった少女は、突然ベッドから立ち上がり、白い上着を羽織った。シルバは驚いて彼女を見上げる。
「どうしたんだ?」
「皆の許に帰るわ」 彼女はぼうっとしたまま、事も無げに言った。
「今から? やめとけよ。あんた、歩けるのか?」 シルバも思わず腰を上げた。 「また倒れるつもりか?」
「いえ、今日はもう、死ぬ気はないわ」 少女は玄関へふらふら歩いて言い、途中で振り返る。 「だから、送ってくれると嬉しい」
「ずいぶん勝手なこと言ってくれるね……」 シルバは憮然として彼女を睨み、溜息をついて、猟銃を取る。 「忠告はしたからな」
「ありがとう」 彼女は按配のよくない顔色でにっこり微笑む。村民達の宿営地まで保つのか甚だ不安だ。
シルバは表の納屋に繋いでいた鹿を解いた。「ルーイ」と少女は駆け寄って、鹿の首筋に抱き付いた。シルバは戸を閉めてから暗い空を見上げる。彼の目許にちらちらと細かな雪が降りてきた。
「なんでまた急に……」 彼は舌打ちして少女に目を戻す。
「神様にね、触れてみたいの」 彼女はルーイを引きながら、隣に立って言った。 「わたしがわたしである理由を……、あなたの感じている事を知りたいだけ」
そうして、彼女はまた例の、純度の高い笑みを見せた。他者とあまり関わらない日々を送っているシルバは、やはりその笑みに得体の知れぬ凄みを感じた。
◇
雪は穏やかな調子を保ったまま、静まり返った白い山道の大気を縫う。二人の履いた藁吹きの長靴と一頭の鹿の蹄は積雪に埋もれる事無く、さくさくと道を踏み続けている。天体を遮られた夜空だが、雪のお陰でぎりぎりの照度があり、薄暗い。黒く屹立する山影は、この時間帯に見ると巨大な城か怪物のようにも見えて、毎度、畏怖の念を起こさせた。
シルバは猟銃をずっと肩に掛けていた。麓の近くまで降りると人を襲う獣はいなくなるので、結局使う事はなかった。彼は一定の歩調できびきびと歩いていたが、熱を患っている少女はそうはいかなかった。不安定な足取りだったので、シルバは時折、彼女に肩を貸してやった。それ故に、どうしても遅くなってしまった。途中、なぜこんな事をしているのだろうと自問する事もあったが、敢えてそれらの問いかけは無視した。そうしている間に、夜は更けていく。
少女はルーイを繋ぐ紐を片手で握りしめたまま、もう片手をシルバの肩に乗せていた。
「大丈夫か?」 シルバは前方を睨んだまま訊いた。
「ええ……」 彼女は喘ぐような呼吸の合間に答える。苦しげな表情だった。
「だから、やめとけって言ったんだ」
「大丈夫だって言ってるでしょ」 少女はむっとして言い返した。
それほどの余力があるのならば、まだ当分は大丈夫だろう、とシルバは見当をつけた。
下り坂だった道から平坦な場所に出た。枯木が一本も立っていない荒涼とした雪原である。群れから外れたらしい一匹の狼がとぼとぼ歩いていたが、こちらへ気付くなり逃げ去ってしまった。他には小動物もいない。冬だからこそこのように殺風景であるが、春になるとこの辺りは鮮やかな野花と小鳥の囀りに包まれる。大自然は僅か数ヶ月という時間の単位で、真逆の様相へと変貌するのだ。人間の変移が如何に鈍いか、山の空気と肌を合わせて暮らすシルバは知り尽くしている。
それにしても、冬という季節は、何かを隠しているように思えてならない。
真理か。
汚濁か。
それとも、観察者の内側に潜む闇か。
あるいは光かもしれない。
生か、死か。
白か、黒か。
シルバは時折、その隠された何かを知る為に人は一生を費やすのではないか、と錯覚することがある。
目に見えないからこそ、感じ取れる存在。
冬は、そんな気配がする季節だった。
揺れ動く空気と影。
それを察知して、シルバは脚を止めた。
「どうしたの?」 急な停止に少女は躓きかけて、振り返った。
「見てみろ」 シルバは空に向けて指を差した。
巨大な黒い影が、灰色にぼんやり光る空をゆっくり滑っていた。大型の爆撃機か、伝説のノアの箱舟を連想させるほど、現実離れした大きさである。その黒い大きな塊が、雪の舞う冬空の暗幕を音も無く滑っている。黒煙にも見える滑らかな動き。シルバは立ち尽くして、その巨大な影が遮る物の無い大空で翻り、滑空するのを見つめた。
怖気づいたように、少女の手が彼の腕を掴んだ。
「何? あれ……」 彼女のか細い声が尋ねる。
「山の神の遣いだね」 シルバは微笑んで言う。もちろん、冗談である。
しかし、その巨大な影は悪魔という形容のほうがよっぽど相応しい。真に受けたかのように少女の体は硬直し、見開いた瞳が雪の白光にきらりと映って見えた。ぽかんと開いた口も僅かに見えた。
「あれは鳥の大群だよ」 シルバはネタばらしをした。
「鳥?」 しかし、彼女は首を振る。 「この辺で夜に飛ぶ鳥なんか見た事ないわ。それもあんなにいっぱい……」
「僕に言われたって知らないよ。事実、あそこで飛び回っているんだから仕方がない。毎年、この時期にやってくるんだ。たぶん、あんな大群を見られるのはこの時期に一度だけだろうけど」
「前に見た事があるの?」
「二年前に。その前は、子供の時に幾度か」
「誰も気づかないの?」
「気付かれたくないんじゃない?」
「そうね……」 ようやく少女は表情を緩めた。 「わたしだったら、気付かれたくないわ」
静寂に包まれた薄闇の空を漂う影。それをしばらく、二人で眺めた。よく見れば、黒い羽毛に覆われた小鳥達が宙空で静かに翼を開いている。それが何層も重なるようにして、形態を維持していた。まるで、人間社会のようだ。否、人間が彼らを真似したのかもしれない。
なぜ彼らは、この地に、この季節に、やってくるのだろう。闇夜が散らす雪をかいくぐり、なぜこうも巨大な姿を形成して飛ぶのだろうか。
きっと、理由はない。言葉にはできない、本能的なもの。天敵からの防御、繁殖の為の習性、それらの理由を付けたがる生物は人間だけではないだろうか。
本能、衝動、血と肉に刻み込まれた情報、もっと純粋な動機。
それは誰もが持っていたはずのものなのに。
それこそが、一番、美しいものだったのに。
どうして、忘れ去ってしまったのだろう。
なぜ、『理由』という防護壁を造り出してしまったのだろう。
人生の意味?
生きる意味?
死ぬ意味?
そんなもの、端から存在しないのだ。
なぜ、それを認めることができないのだろう。
なぜ、まっさらな概念を言葉と理由で濁すのだろう。
だが……、気持ちはわかる。
例えば、少女の笑顔に抱いた、自分の畏怖。
そう、誰もが、純粋なものを恐れているのだ。
潜在意識の下で、支配されているのだ。
自らが穢れているのだという自覚に。
馬鹿馬鹿しい……。
シルバは溜息をついた。神の声は、既に終わっていた。
気がつくと、隣に立ち尽くしていたはずの少女が蹲って顔を抑えていた。フードは風で捲れたようで、彼女の黒髪に雪が僅かに積もっていた。
「どうした?」 シルバもしゃがみ込んで彼女を窺う。手を掛けようとしたが、思い留まってそれを引いた。
少女は泣いていた。声も上げず、静かに涙を流していた。彼女の白い頬を伝い、華奢な顎先から涙が滴っていた。ルーイは太い首を項垂れ、彼女の頭に鼻先を擦りつけている。そんなはずはないのだが、彼が気遣っているように見えてとても妙な景色だった。
「いえ……」 少女は鼻を啜り、残った涙を拭って立ち上がった。 「何故かわからないけど……、突然……」
「声が聞こえた?」 シルバは尋ねる。
しかし、少女は答えなかった。こちらへそっと微笑んで見せたかと思うと、また夜空を滑る鳥の群れへと目を戻した。雪が彼女の頬へ降っては、静かに溶けていった。
「村の皆はどの辺にいるの?」 彼女は空を見上げたまま、ふいに訊いた。
「ここを過ぎて真っ直ぐ下れば、もうテントがあると思う」 シルバは指を差して言う。
「そう……、ありがとう」 彼女はシルバに向き直り、頭を下げる。 「もうここまででいいわ。後は、ルーイと二人でいくから」
シルバは呆れて言葉を失ってしまったが、表情には決して出さず、しばらく少女の顔を見据えた。
「えっと、大丈夫なのか? 熱は?」
「引いたから大丈夫」
「引いてないと思うけど、まぁ、大丈夫そうならいいよ」
「迷惑をかけてごめんなさい」 少女は再び頭を下げる。
本当にな、と口の中で呟きながらシルバは頭を掻いた。
「死ぬ気がないなら、気をつけて」
「えぇ、ありがとう」 少女はルーイを連れて、先へと歩き出す。 「じゃあ、また……」
挨拶も短く、雪が降る暗い山道を、少女と鹿がさくさくと歩いていく。あまり距離もないので、あの足取りならば大丈夫だろう。それを見送りながら、シルバもゆっくりと小屋へと踵を返す。
鳥の大群はいつの間にか、遥か遠方の峰の空へと移っていた。
夜明けまではもう間もないだろう。シルバはとても眠かった。
言葉という信号が消え去った山間のどこかで、鹿の短い鳴き声が響いた気がしたが、彼は振り返らなかった。それは、彼にはもう何の関係が無いものだったからだ。
◇
三日が経った。柔らかな朝陽が斜めに差し込む、午前中の事である。
起床したシルバはいつものように、納屋から木桶を取って来て、近くを流れる川まで下りる所だった。干し草の束を積んだ納屋の隅でごそごそやっていると、表で人の声がした。女の声だった。
警戒しながら出ていくと、立っていたのはあの介抱してやった少女だった。三日前のずんぐりした厚着と違って、軽快そうな踊り娘のような衣装の上にマントを羽織っている。寒くないのだろうか、と一瞬だけシルバは考えた。晴れ渡っているものの、薄く靄のかかる雪山の朝である。
「おはよう」 少女は言った。恥ずかしそうに微笑んでいる。
「おはよう」 シルバは無表情に返した。この挨拶は随分久しぶりに言った気がする。 「えっと……、あんた、どうしたんだ?」
そういえば彼女の名前を訊いていなかった、と思い出したが、しかし、結局シルバも名乗る気は起こらなかったので訊かなかった。急な再会に困惑はしていたが、半分では、わざわざこんな所まで御苦労なことだ、と冷やかに考えていた。
「今日は、ここから少し昇った先でテントを張るのよ」 少女は指を差して言う。 「だから、早起きして、あなたに報せようと」
「ふぅん……」 シルバは曖昧に頷く。彼女の真意がわからなかった。それに、毎年の行事であるから、場所もだいたい知っている。
「わたしが宴で踊るのよ」
「は?」
「わたしね、村長の娘なの」 少女は唇に指を当てて、悪戯っぽく笑う。
「死のうとした理由は、それと関係しているんだな?」 シルバは特に深く思惑も無く、何となく尋ねる。
「えぇ、そうよ」 驚く事に、少女はそこで無邪気に微笑んだ。 「でもね、わたし、生きることにしたわ」
「それがいいよ。死ぬのは簡単な事じゃない」 シルバも少しだけ笑って見せた。他人がいるからこそできる芸当だ。
「わたし、声を聞いたのよ」 少女は言う。 「わたしが、わたしである理由!」
「それはよかった」 シルバは肩を竦めた。右手の木桶の存在を今頃思い出す。
「今夜の宴、あなた、来てくれない?」 少女が言った。 「あなたに踊りを見てほしいわ」
「僕は村の人間じゃないよ」
「関係無いわよ」 少女は膨れた。
「まぁ、約束はできないけど、考えとく」 シルバは手を翳す。
「えぇ、待っているから、来てね」
少女はそう言うと、来た道を引き返し始めた。振り返って、こちらに手を振る。朝陽の逆光の中で、彼女の紺色のマントが微風にはためく。
シルバはそちらをじっと見つめた後、木桶を持ち直して川へと向かった。澄み切った透明の水を満杯まで汲んだ時には、もうすっかり、少女の事も、あの夜の光景も、そして自らの存在についても彼は忘れ果てていた。
雪に覆われた山のどこかで、神の声が聞こえる。
後書き
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