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作品ID:405
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約6243文字 読了時間約4分 原稿用紙約8枚
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蕾の中で
作品紹介
初恋、追憶、先生。
別のものを書いている途中でふと浮かんで書き上げました。
なお、過去の台詞については、僕自身が小学生の頃に福井県にいて、その時の記憶を頼りに福井弁(?)を使って訛らせたものです。「こんな言葉つかわねぇよ!」っていう人がいたら、申し訳ないです。
別のものを書いている途中でふと浮かんで書き上げました。
なお、過去の台詞については、僕自身が小学生の頃に福井県にいて、その時の記憶を頼りに福井弁(?)を使って訛らせたものです。「こんな言葉つかわねぇよ!」っていう人がいたら、申し訳ないです。
中学三年生で恋人が持てるって、すごい事じゃないだろうか。少なくとも俺の周りにはそういう関係の連中ってあまり見かけない。もちろん、俺も、アヤコも、気恥かしいから周囲には報せていないし、そもそも報せる義務もない。
アヤコはどちらかと言うと天然ボケな所があって、とっても愛らしい。しかも無自覚なのがまた憎めない。にっこりと天真爛漫に微笑み、猫のように気が向くまま脚を向ける。少し危なっかしい奴だけど、それも含めて魅力的な奴なんだから仕方ないんだよな。
日曜日、アヤコと一緒に手を繋いで駅前通りを歩いていると、電機屋の店頭にテレビが設置されているのが見えた。この店はいつもテレビを外に置いている。俺はなんとなしにその液晶画面を眺めた。夕暮れ時のよくあるニュース番組で、国会だかなんだかの映像が流れていた。いつもなら興味がないので、そのまま通り過ぎる所だったが、今日は違った。
「どうしたの?」
俺が急に歩みを止めたので、アヤコがびっくりして振り返った。
「いや……」 俺は言い淀んで、前を向き、また歩き出した。
画面には政治家の内の一人がアップで映っていて、その下にテロップで名前が出ていた。
八十嶋。
これで「やそしま」って読むんだ。珍しい名字だから、あまり見た事はないんじゃないかな。
俺はこの独特な名前に覚えがあった。とても親密な、俺の過去の中心を占める、とある女性の名前。
そう、八十嶋というのは、俺の初恋の人の名前だった。
八十嶋先生は、俺が小学校中学年の頃に付いていた家庭教師だった。小柄で、素朴な印象の若い女の人だった。確か、母親が大学云々と言っていたので大学生だったと思う。一度、俺が何の遠慮も無しに年齢を尋ねたら、「カケル君の十歳上だね」って答えた気がする。その時、俺は九歳か十歳だったから、ちょうど二十歳前後くらいだったのだろう。
とにかく、それくらいの年齢のお姉さんと接触する機会って、当時の俺にはなかったから(今もだけど)、とても新鮮に感じたんだな。恥も外聞も無くはっきり言うと、一目惚れしてしまった。とびきり綺麗な人だったからね。マセガキだったよ、本当に。(今もだけど)
俺の親はとにかく、俺に秀才になって欲しかったらしく、物心がつくかつかないかの時分から色々とやらされた。子供向けの英語のビデオを見せられたり、そろばんだとか、塾だとか。確か塾に関しては、俺が何度も脱出するもんだから、諦めて辞めさせられた記憶がある。その流れで今度は家庭教師ってことだったんじゃないかな、確か。
八十嶋先生はちょうど一年間くらい俺の勉強を看てくれた。いつの間にか居なくなってしまったのだけれど、先生と過ごした一年はたぶん、濃密な至福で満たされた一年だったと思う。先生が来る木曜日、俺はずっと有頂天だった気がする。
なぜ居なくなってしまったのだろう。何かあった気もするのだが、よく思い出せない。大事な物ほど忘れてしまう事ってよくないだろうか。生まれた瞬間の事なんて、誰も覚えてなんかいやしないだろう? 例えば、俺の右腕の外側には何か大怪我したような黒い痣が残っているんだけど、どうしてこんな痣がついてしまったのか、俺はもう思い出せない。そういう事ってないだろうか? 身体の一部となっているのに、記憶という奴は全くアテにならない。数学の公式や英単語だって、とても大事なものなのに、俺はなかなか覚えられない。
ただ、初めて会った時の事はよく覚えている。ずっと聞かされていた女の先生が今日来るんだってそわそわして待っていた。インターホンが鳴って、俺は母親よりも先に玄関に飛び出した。そこに背広姿の綺麗な女性が立っていて、俺は思わず固まってしまった。顔を硬直させてあぐあぐ口籠っていると、八十嶋先生はふんわりと微笑んで、「こんにちは」と言った。俺は真っ赤になって、何も答えず、台所へと駆け戻ってしまった。
それから、初日から先生に悪戯をしてしまった。当時、性の事は何もわからなかったけれど、どうやら下品な事を女は嫌がるらしいぞ、というような事をその頃に俺は発見していたので、父親の秘蔵のエロ本を教科書の間に挟んで、平然と先生の目の前に出してやった。先生、顔真っ赤にしちゃってさ、とても面白かった。その後、すっ飛んできた母親にこっぴどく叱られたけど。
そんな、今思えば最悪のスタートだったが、俺と先生は仲良くやっていたと思う。先生は俺が答案を間違えても優しく微笑んで、一から、阿呆な俺にもわかるくらい丁寧に教えてくれた。そして、答えが合っていたり、学校のテストでいい点を取ったりすると、とても褒めてくれた。俺も得意になって、大嫌いだった勉強がその頃は苦痛にならなかった。問題が出来れば八十嶋先生が褒めてくれるからだ。
途中から、先生の事を考えるとドキドキするくらい好きになっちゃって、これを密かに男の友達に相談したら馬鹿にされてしまった。でも、木曜日が本当に待ち遠しくって仕方なかった。未来の予想絵を画用紙に描く授業で、俺はこっそり八十嶋先生を奥さんにして描いてしまったくらいだ。幸い似てなかったから、母親だと言う事にして、大変なマザコン扱いを受けてしまった。
今はどうしているのだろう。すごく気になった。
俺は中学へ上がるのと同時に福井から埼玉へ引っ越してしまったので、先生とはもう会えない。こんなことなら、手紙でも交換しとくんだった。
俺の今までの記憶の中で、輝きを持つ思い出もほとんどが八十嶋先生のことだ。
俺と先生は夕方の五時から六時半までの勉強が終わるとよく話をしていたし、一緒に遊んだりした。俺は先生をテレビゲームに誘って、そして、上手いやり方なんかを教えてあげた。先生もとっても素直だから、その時間だけはまるで逆転して、俺が先生みたいになっていた。俺が偉そうな態度をしても、先生はぺろっと舌を出して「だって難しいんやもん」とはにかむばかりで、それがすごく可愛らしかった。
夏には確か、先生に近所の祭へ連れて行ってもらったことがある。華やかな彩りの提灯が混雑した人波の頭上にぶら下がっていて、無数の露店が道路の両脇いっぱいに立ち並び、俺と先生は手を繋いでその隙間を歩いていた。先生は薄い藍色の浴衣を着ていて、片手に大きな綿菓子を持ってはしゃいでいた。俺が袖を引っ張ると、先生はわざわざ屈んで、俺に綿菓子を食べさせてくれた。なんだかとっても楽しくて、俺も先生もずっと笑っていた気がする。
秋になると、俺はもうどうしようもなく先生を好きになってしまっていた。だが、間の悪い事に先生には恋人ができてしまった。「同じ学校の人」と先生は少し恥ずかしそうに笑って言った。その笑顔といったら、俺は絶望して然るべきなのに、可憐すぎて鼻血を垂らしてしまいそうだった。よっぽど、その恋人という奴を殺してやろうかと思った。
それから、俺と先生はよく散歩をした。普段の勉強が終わってからはもうすっかり暗くなっていたから無理だったけど、先生は土曜日とかに時々やって来てくれて、お菓子とか、俺の母親の話し相手になっていたりした。その合間に俺が先生を誘うと、先生は快く承知してくれて、一緒に出掛けたのだった。季節は覚えていないが、とにかく、俺達が散歩に出る時は決まって空は青く晴れ渡っていて、清々しい空気と陽射しの中、俺と先生は手を繋いで河川敷沿いの堤防を歩いた。
春は甘く、
夏は弾むように、
秋は静かに、
冬はきらきらと。
俺と先生は、移りゆく季節の空の下を歩いた。
堪らなく、素晴らしい、愛しく、切ない、記憶だった。
「先生……」 俺は無意識の内に呟いていた。
「え?」 アヤコがまた振り返る。
夕暮れも終わりかけの、夜が差し迫った公園での事だった。俺達二人はベンチに腰掛けていた。ずっと放心していたらしく、どうしてこんな所にいるのかもすぐには思い出せなかった。危なっかしいのは俺かもしれない。
「いや、なんでもない」 俺は慌てて、首を振る。
アヤコは不思議そうに首を傾げて俺の顔を覗きこむ。
「今日のカケル、なんか変だよ」 彼女は笑ってそう言う。
俺は頭を掻いて、なんとなしに目線を公園の遊具に巡らせて、そして再びアヤコへと向けた。散々躊躇った後に、俺は口を開いた。
「なぁ、アヤコ、お前、初恋した相手の事って覚えてる?」
「なぁに、急に?」
「俺は……、覚えているよ。小学生の時の家庭教師の先生だった」
「あたしじゃないんだ……」 がっくりと肩を落とし、アヤコは溜息をつく。 「普通言うかなぁ、そんなこと」
「あ、いや、すまん、アヤコの事は、もちろん好きだよ、俺……」
「恥ずかしいからやめて」 彼女は堪え切れなくなったように吹き出し、くすくす笑った。 「でも……、そうだね、あたしも初恋の相手は覚えてるよ。カケルなんかじゃないんだから」
「どんな人?」 俺は興味をそそられて尋ねた。
「うんとね、叔父さんなんだけど……、お父さんとは歳が離れてて、とっても若くてね。ピアノの講師をしていて、すごくかっこよかったんだ。頭も良くて、英語なんかもぺらぺらでさ……」
「そうなんだ」 俺は思わず苦笑いを浮かべた。
だって、俺と正反対のような人間じゃないか、それって。
「でもね……」 アヤコは突然、表情を暗くして、口を噤んだ。
「どうした?」 今度は俺が彼女の顔を覗きこんだ。
「うん……」 彼女は目許を一度擦って、顔を上げた。 「死んじゃったんだ、叔父さん」
「え?」
「元々、身体が弱くてね……、心臓だったかな? どこかを悪くして、死んじゃったの。二年前の話」
「そうなんだ……」 俺はどんな顔をしていいかわからず、俯いて相槌を打った。
そして。
俺は、唐突に、先生との別れを思い出した。
同時に、身震いするほど悲しくなって、俺は思わず呼吸を止めてあの日の事を回想した。
年が明けての最初の土曜日だった。その日、大学での用事を済ませた八十嶋先生が俺の家を訪ねてきてくれて、年始の挨拶や、実家でのお土産話なんかを沢山してくれた。俺はなんとなく退屈してしまって、例の如く先生を散歩に連れ出した。その時も、先生は優しく微笑んで俺の手を取ってくれた。
新春とはいうものの、まだまだ冬の気配が濃い、薄ら寒い日だった。堤防へ向かう前に、俺達は商店街のほうへと歩いた。貰ったばかりのお年玉で、先生になにかお菓子でも買ってあげようと子供ながらに画策していたのだ。
その道中、先生とこんな会話をした。
「先生、そろそろうち来て一年だね」 俺はうきうきとした歩調のまま言った。
「あぁ、そっかぁ」 と先生も俺に合わせてスキップのような足取りで歩いてくれた。 「早いなぁ」
「先生は……、あいつの事好きなん?」
「なんやの、急に」 先生は頬を赤くして、慌てたように手を振った。 「前も言ったがぁ、それ」
あいつとは、先生の携帯電話の待ち受け画面に現れる、憎き恋人の事だった。俺は手が震えるのを感じた。密かに、いや恐らく、あからさまに緊張していたと思う。鼓動の爆音が隣の先生にも聞こえているのではないか、と心配したくらいだ。
「俺……、先生のこと、好き」 俺は言った。かなり真剣に言ったつもりだった。 「先生、俺と結婚してくれん?」
すると、先生はぽかんと俺を見下ろした後、やっぱりくすくすと笑いだした。予想通りの反応だったが、その、いわゆる大人のリアクションという奴が出た事で、俺はひどく落胆した。
本気だったのだ。偽りの無い、正直な申し出だったのだ。その時だけは、先生の事を少しだけ恨めしく思った。
だけど、八十嶋先生は、恋人ができても、俺の好きな八十嶋先生でいてくれた。
「嬉しい」 先生は頬をほんのり赤らめて、笑みを含んで言った。 「本気?」
「本気! すごい本気! マジ!」 俺はここぞとばかりに叫んだ。
通行人が何人かこちらに振り返って、すぐに口を噤んだが。
「でも、わたし、カケル君が大人になる時はおばさんやからなぁ。それでもいいの?」
「歳なんて関係ない!」 俺はテレビで見た大人っぽい言葉を放った。
先生は一層柔らかく微笑んで、そして俺にそっと囁いた。
「じゃあ……、待っててあげるわ。カケル君が迎えに来てくれるの」
俺はもう、身体が無重力になったのではないかと思えるくらいに、跳びあがって喜んだ。あまりに嬉しすぎて、先生の手を離して、駆け出した。
「やった!」って拳を握って叫んでた。
小学生ながら、暗い将来がぱぁっと光に包まれて開けていく思いだった。
ガキだったんだな。
そう、ガキだった。
落ち着きのない……、周囲が見えない馬鹿だった。
俺は歩道から外れて、車道へと飛び出ていた。
俺が見たのは、視界の隅から迫って来るナマズの顔面のような車のフロント。
聞こえたのは、甲高く、喧しいクラクション。
「カケル君!」 切羽詰まった、先生の声。
視界が黄色い衣服で包まれた。それは、先生が着ていたパーカー。
信じられないほどの衝撃。
でも、痛くはなかった。
代わりに感じたのは、浮遊感。
スキール音。
重力。
再び、叩きつけられるような衝撃。
コンクリートの固さと摩擦。
右腕の鈍い痛み。
空白。
すべてが一瞬の内に過ぎて行った。
次に気付いた時には、俺は担架に乗せられていた。変わらない街並みの風景。救急車の白い車体。こちらを見つめる人だかり。へこんでヒビの入ったナマズ顔のフロント。大勢の人、人、人。
そして、もう一台の救急車に乗せられる担架。
白い布が被せられていた。
その間から、だらりと伸びた細い腕。
血が滴り。
あの優しい色のパーカーの袖を赤黒く染めていた。
俺は息を呑みこみ、そして、目を瞑った。
先生が、俺を庇ってくれた。
そして……。
恐ろしくて、俺はそれ以上、何も考えられなかった。
救急車に乗せられる前に見上げた空は、目に痛いほどの青色だった。
なぜ、あんな大事な事を、今の今まで忘れていたのだろう。
腕の痣も。
今の俺の命も。
全部、八十嶋先生が残してくれたものなのに。
どうして……。
俺はベンチに座りながら、激しく嗚咽を漏らした。アヤコはびっくりしたようだったけど、彼女にも想う所があったらしく、同じように、二人で手を繋ぎながらわんわんと泣いた。涙が止まらなかった。久しぶりに、声を上げて泣いた気がした。
そして、慟哭しながらも、俺は決心していた。
恋人を、アヤコを、ずっと大事にしようと。
もう、失わないように。
そして、今度は守れるように。
永遠に待ってくれている先生に、胸を張れるように。
優しかった八十嶋先生の顔が、涙で滲み、夜の公園の街灯に拡散され、そして、切なさを残しながらも、俺の記憶の奥底で未だ輝いている。
アヤコはどちらかと言うと天然ボケな所があって、とっても愛らしい。しかも無自覚なのがまた憎めない。にっこりと天真爛漫に微笑み、猫のように気が向くまま脚を向ける。少し危なっかしい奴だけど、それも含めて魅力的な奴なんだから仕方ないんだよな。
日曜日、アヤコと一緒に手を繋いで駅前通りを歩いていると、電機屋の店頭にテレビが設置されているのが見えた。この店はいつもテレビを外に置いている。俺はなんとなしにその液晶画面を眺めた。夕暮れ時のよくあるニュース番組で、国会だかなんだかの映像が流れていた。いつもなら興味がないので、そのまま通り過ぎる所だったが、今日は違った。
「どうしたの?」
俺が急に歩みを止めたので、アヤコがびっくりして振り返った。
「いや……」 俺は言い淀んで、前を向き、また歩き出した。
画面には政治家の内の一人がアップで映っていて、その下にテロップで名前が出ていた。
八十嶋。
これで「やそしま」って読むんだ。珍しい名字だから、あまり見た事はないんじゃないかな。
俺はこの独特な名前に覚えがあった。とても親密な、俺の過去の中心を占める、とある女性の名前。
そう、八十嶋というのは、俺の初恋の人の名前だった。
八十嶋先生は、俺が小学校中学年の頃に付いていた家庭教師だった。小柄で、素朴な印象の若い女の人だった。確か、母親が大学云々と言っていたので大学生だったと思う。一度、俺が何の遠慮も無しに年齢を尋ねたら、「カケル君の十歳上だね」って答えた気がする。その時、俺は九歳か十歳だったから、ちょうど二十歳前後くらいだったのだろう。
とにかく、それくらいの年齢のお姉さんと接触する機会って、当時の俺にはなかったから(今もだけど)、とても新鮮に感じたんだな。恥も外聞も無くはっきり言うと、一目惚れしてしまった。とびきり綺麗な人だったからね。マセガキだったよ、本当に。(今もだけど)
俺の親はとにかく、俺に秀才になって欲しかったらしく、物心がつくかつかないかの時分から色々とやらされた。子供向けの英語のビデオを見せられたり、そろばんだとか、塾だとか。確か塾に関しては、俺が何度も脱出するもんだから、諦めて辞めさせられた記憶がある。その流れで今度は家庭教師ってことだったんじゃないかな、確か。
八十嶋先生はちょうど一年間くらい俺の勉強を看てくれた。いつの間にか居なくなってしまったのだけれど、先生と過ごした一年はたぶん、濃密な至福で満たされた一年だったと思う。先生が来る木曜日、俺はずっと有頂天だった気がする。
なぜ居なくなってしまったのだろう。何かあった気もするのだが、よく思い出せない。大事な物ほど忘れてしまう事ってよくないだろうか。生まれた瞬間の事なんて、誰も覚えてなんかいやしないだろう? 例えば、俺の右腕の外側には何か大怪我したような黒い痣が残っているんだけど、どうしてこんな痣がついてしまったのか、俺はもう思い出せない。そういう事ってないだろうか? 身体の一部となっているのに、記憶という奴は全くアテにならない。数学の公式や英単語だって、とても大事なものなのに、俺はなかなか覚えられない。
ただ、初めて会った時の事はよく覚えている。ずっと聞かされていた女の先生が今日来るんだってそわそわして待っていた。インターホンが鳴って、俺は母親よりも先に玄関に飛び出した。そこに背広姿の綺麗な女性が立っていて、俺は思わず固まってしまった。顔を硬直させてあぐあぐ口籠っていると、八十嶋先生はふんわりと微笑んで、「こんにちは」と言った。俺は真っ赤になって、何も答えず、台所へと駆け戻ってしまった。
それから、初日から先生に悪戯をしてしまった。当時、性の事は何もわからなかったけれど、どうやら下品な事を女は嫌がるらしいぞ、というような事をその頃に俺は発見していたので、父親の秘蔵のエロ本を教科書の間に挟んで、平然と先生の目の前に出してやった。先生、顔真っ赤にしちゃってさ、とても面白かった。その後、すっ飛んできた母親にこっぴどく叱られたけど。
そんな、今思えば最悪のスタートだったが、俺と先生は仲良くやっていたと思う。先生は俺が答案を間違えても優しく微笑んで、一から、阿呆な俺にもわかるくらい丁寧に教えてくれた。そして、答えが合っていたり、学校のテストでいい点を取ったりすると、とても褒めてくれた。俺も得意になって、大嫌いだった勉強がその頃は苦痛にならなかった。問題が出来れば八十嶋先生が褒めてくれるからだ。
途中から、先生の事を考えるとドキドキするくらい好きになっちゃって、これを密かに男の友達に相談したら馬鹿にされてしまった。でも、木曜日が本当に待ち遠しくって仕方なかった。未来の予想絵を画用紙に描く授業で、俺はこっそり八十嶋先生を奥さんにして描いてしまったくらいだ。幸い似てなかったから、母親だと言う事にして、大変なマザコン扱いを受けてしまった。
今はどうしているのだろう。すごく気になった。
俺は中学へ上がるのと同時に福井から埼玉へ引っ越してしまったので、先生とはもう会えない。こんなことなら、手紙でも交換しとくんだった。
俺の今までの記憶の中で、輝きを持つ思い出もほとんどが八十嶋先生のことだ。
俺と先生は夕方の五時から六時半までの勉強が終わるとよく話をしていたし、一緒に遊んだりした。俺は先生をテレビゲームに誘って、そして、上手いやり方なんかを教えてあげた。先生もとっても素直だから、その時間だけはまるで逆転して、俺が先生みたいになっていた。俺が偉そうな態度をしても、先生はぺろっと舌を出して「だって難しいんやもん」とはにかむばかりで、それがすごく可愛らしかった。
夏には確か、先生に近所の祭へ連れて行ってもらったことがある。華やかな彩りの提灯が混雑した人波の頭上にぶら下がっていて、無数の露店が道路の両脇いっぱいに立ち並び、俺と先生は手を繋いでその隙間を歩いていた。先生は薄い藍色の浴衣を着ていて、片手に大きな綿菓子を持ってはしゃいでいた。俺が袖を引っ張ると、先生はわざわざ屈んで、俺に綿菓子を食べさせてくれた。なんだかとっても楽しくて、俺も先生もずっと笑っていた気がする。
秋になると、俺はもうどうしようもなく先生を好きになってしまっていた。だが、間の悪い事に先生には恋人ができてしまった。「同じ学校の人」と先生は少し恥ずかしそうに笑って言った。その笑顔といったら、俺は絶望して然るべきなのに、可憐すぎて鼻血を垂らしてしまいそうだった。よっぽど、その恋人という奴を殺してやろうかと思った。
それから、俺と先生はよく散歩をした。普段の勉強が終わってからはもうすっかり暗くなっていたから無理だったけど、先生は土曜日とかに時々やって来てくれて、お菓子とか、俺の母親の話し相手になっていたりした。その合間に俺が先生を誘うと、先生は快く承知してくれて、一緒に出掛けたのだった。季節は覚えていないが、とにかく、俺達が散歩に出る時は決まって空は青く晴れ渡っていて、清々しい空気と陽射しの中、俺と先生は手を繋いで河川敷沿いの堤防を歩いた。
春は甘く、
夏は弾むように、
秋は静かに、
冬はきらきらと。
俺と先生は、移りゆく季節の空の下を歩いた。
堪らなく、素晴らしい、愛しく、切ない、記憶だった。
「先生……」 俺は無意識の内に呟いていた。
「え?」 アヤコがまた振り返る。
夕暮れも終わりかけの、夜が差し迫った公園での事だった。俺達二人はベンチに腰掛けていた。ずっと放心していたらしく、どうしてこんな所にいるのかもすぐには思い出せなかった。危なっかしいのは俺かもしれない。
「いや、なんでもない」 俺は慌てて、首を振る。
アヤコは不思議そうに首を傾げて俺の顔を覗きこむ。
「今日のカケル、なんか変だよ」 彼女は笑ってそう言う。
俺は頭を掻いて、なんとなしに目線を公園の遊具に巡らせて、そして再びアヤコへと向けた。散々躊躇った後に、俺は口を開いた。
「なぁ、アヤコ、お前、初恋した相手の事って覚えてる?」
「なぁに、急に?」
「俺は……、覚えているよ。小学生の時の家庭教師の先生だった」
「あたしじゃないんだ……」 がっくりと肩を落とし、アヤコは溜息をつく。 「普通言うかなぁ、そんなこと」
「あ、いや、すまん、アヤコの事は、もちろん好きだよ、俺……」
「恥ずかしいからやめて」 彼女は堪え切れなくなったように吹き出し、くすくす笑った。 「でも……、そうだね、あたしも初恋の相手は覚えてるよ。カケルなんかじゃないんだから」
「どんな人?」 俺は興味をそそられて尋ねた。
「うんとね、叔父さんなんだけど……、お父さんとは歳が離れてて、とっても若くてね。ピアノの講師をしていて、すごくかっこよかったんだ。頭も良くて、英語なんかもぺらぺらでさ……」
「そうなんだ」 俺は思わず苦笑いを浮かべた。
だって、俺と正反対のような人間じゃないか、それって。
「でもね……」 アヤコは突然、表情を暗くして、口を噤んだ。
「どうした?」 今度は俺が彼女の顔を覗きこんだ。
「うん……」 彼女は目許を一度擦って、顔を上げた。 「死んじゃったんだ、叔父さん」
「え?」
「元々、身体が弱くてね……、心臓だったかな? どこかを悪くして、死んじゃったの。二年前の話」
「そうなんだ……」 俺はどんな顔をしていいかわからず、俯いて相槌を打った。
そして。
俺は、唐突に、先生との別れを思い出した。
同時に、身震いするほど悲しくなって、俺は思わず呼吸を止めてあの日の事を回想した。
年が明けての最初の土曜日だった。その日、大学での用事を済ませた八十嶋先生が俺の家を訪ねてきてくれて、年始の挨拶や、実家でのお土産話なんかを沢山してくれた。俺はなんとなく退屈してしまって、例の如く先生を散歩に連れ出した。その時も、先生は優しく微笑んで俺の手を取ってくれた。
新春とはいうものの、まだまだ冬の気配が濃い、薄ら寒い日だった。堤防へ向かう前に、俺達は商店街のほうへと歩いた。貰ったばかりのお年玉で、先生になにかお菓子でも買ってあげようと子供ながらに画策していたのだ。
その道中、先生とこんな会話をした。
「先生、そろそろうち来て一年だね」 俺はうきうきとした歩調のまま言った。
「あぁ、そっかぁ」 と先生も俺に合わせてスキップのような足取りで歩いてくれた。 「早いなぁ」
「先生は……、あいつの事好きなん?」
「なんやの、急に」 先生は頬を赤くして、慌てたように手を振った。 「前も言ったがぁ、それ」
あいつとは、先生の携帯電話の待ち受け画面に現れる、憎き恋人の事だった。俺は手が震えるのを感じた。密かに、いや恐らく、あからさまに緊張していたと思う。鼓動の爆音が隣の先生にも聞こえているのではないか、と心配したくらいだ。
「俺……、先生のこと、好き」 俺は言った。かなり真剣に言ったつもりだった。 「先生、俺と結婚してくれん?」
すると、先生はぽかんと俺を見下ろした後、やっぱりくすくすと笑いだした。予想通りの反応だったが、その、いわゆる大人のリアクションという奴が出た事で、俺はひどく落胆した。
本気だったのだ。偽りの無い、正直な申し出だったのだ。その時だけは、先生の事を少しだけ恨めしく思った。
だけど、八十嶋先生は、恋人ができても、俺の好きな八十嶋先生でいてくれた。
「嬉しい」 先生は頬をほんのり赤らめて、笑みを含んで言った。 「本気?」
「本気! すごい本気! マジ!」 俺はここぞとばかりに叫んだ。
通行人が何人かこちらに振り返って、すぐに口を噤んだが。
「でも、わたし、カケル君が大人になる時はおばさんやからなぁ。それでもいいの?」
「歳なんて関係ない!」 俺はテレビで見た大人っぽい言葉を放った。
先生は一層柔らかく微笑んで、そして俺にそっと囁いた。
「じゃあ……、待っててあげるわ。カケル君が迎えに来てくれるの」
俺はもう、身体が無重力になったのではないかと思えるくらいに、跳びあがって喜んだ。あまりに嬉しすぎて、先生の手を離して、駆け出した。
「やった!」って拳を握って叫んでた。
小学生ながら、暗い将来がぱぁっと光に包まれて開けていく思いだった。
ガキだったんだな。
そう、ガキだった。
落ち着きのない……、周囲が見えない馬鹿だった。
俺は歩道から外れて、車道へと飛び出ていた。
俺が見たのは、視界の隅から迫って来るナマズの顔面のような車のフロント。
聞こえたのは、甲高く、喧しいクラクション。
「カケル君!」 切羽詰まった、先生の声。
視界が黄色い衣服で包まれた。それは、先生が着ていたパーカー。
信じられないほどの衝撃。
でも、痛くはなかった。
代わりに感じたのは、浮遊感。
スキール音。
重力。
再び、叩きつけられるような衝撃。
コンクリートの固さと摩擦。
右腕の鈍い痛み。
空白。
すべてが一瞬の内に過ぎて行った。
次に気付いた時には、俺は担架に乗せられていた。変わらない街並みの風景。救急車の白い車体。こちらを見つめる人だかり。へこんでヒビの入ったナマズ顔のフロント。大勢の人、人、人。
そして、もう一台の救急車に乗せられる担架。
白い布が被せられていた。
その間から、だらりと伸びた細い腕。
血が滴り。
あの優しい色のパーカーの袖を赤黒く染めていた。
俺は息を呑みこみ、そして、目を瞑った。
先生が、俺を庇ってくれた。
そして……。
恐ろしくて、俺はそれ以上、何も考えられなかった。
救急車に乗せられる前に見上げた空は、目に痛いほどの青色だった。
なぜ、あんな大事な事を、今の今まで忘れていたのだろう。
腕の痣も。
今の俺の命も。
全部、八十嶋先生が残してくれたものなのに。
どうして……。
俺はベンチに座りながら、激しく嗚咽を漏らした。アヤコはびっくりしたようだったけど、彼女にも想う所があったらしく、同じように、二人で手を繋ぎながらわんわんと泣いた。涙が止まらなかった。久しぶりに、声を上げて泣いた気がした。
そして、慟哭しながらも、俺は決心していた。
恋人を、アヤコを、ずっと大事にしようと。
もう、失わないように。
そして、今度は守れるように。
永遠に待ってくれている先生に、胸を張れるように。
優しかった八十嶋先生の顔が、涙で滲み、夜の公園の街灯に拡散され、そして、切なさを残しながらも、俺の記憶の奥底で未だ輝いている。
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