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作品ID:442
こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約13218文字 読了時間約7分 原稿用紙約17枚
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生には涙を、死には微笑みを
作品紹介
春、少年、少女、ハンディキャップ、生と死、十代の生死観
北陸地方に位置するその街は、長閑な山地と寒々しい日本海に挟まれているものの、中々の賑わいを持つ街である。春になれば河川敷の桜並木は県外や都心からの花見客で大いに騒々しくなり、他にも自然公園や史跡にも人が溢れるので、雪解けの季節が一番活気づいていると言える。
もちろん、わくわくし始めるのは観光客だけでなく、地元住民、特に若さを持て余した総介のような高校生達もどこか浮足立ち、都会と比べて数少ない市中の娯楽施設や開放された運動場に集まってわいわいと騒ぐ。土地柄、冬には厳しい寒風と分厚い雪で外が覆われる分、それが終わった春季には老若男女の区別なく、梅雨までの短い間だけ一斉に活力を取り戻すのだ。雨降りの地としても有名なので、夏場にはむしろ曇り空を見る機会が多く、麗らかな青空を堪能できるのもこの間だけであった。
小さな駅前にまでその活気は滲み出ているが、しかし、その年の春は、高校生の総介にとって絶望的なものになった。
春先になって進級を控え、さらに雪も解け、開放的な気分に浸っていた彼は、悪しき先輩に勧められるまま、初めて原付に跨り、派手にガードレールに突っ込んで宙を舞った。すぐ先が柔らかい草地だったのもあって、幸い命に別状はなかったが、肋骨と指とその他随所を骨折した。春の選抜、夏の大会、というようなイベントとは無関係であり、そもそも体育会的な部活動に属していない総介には骨折による支障はあまりなかったが、無免許運転での自損事故、バイクの持ち主である先輩、病院と警察の双方から呼び出された父親など、学校上や対人関係での立場が苦しく微妙なものとなっており、さらに遊び盛りの春季を入院生活という退屈なもので潰してしまう羽目になったのだ。
「終わった、俺の春は終わったよ……」 総介は病院のベッドの上で項垂れた。 「終了です! 春は終了です! 桜散れ!」
「自業自得だろう」と彼を見舞いに来た友人や父と姉、面倒見のいい教師達、挙句には看護婦の坂上さんまで、例外なくそう呟いた。
四月を過ぎたばかりの五月初旬、総介が自棄気味に放った言葉が叶って桜は散り、新緑が陽射しを眩しく彩る季節になった。観光客の入りも大人しくなり始め、街全体が落ち着きを取り戻し始める頃である。丘の上の病院から眺められる風景にもだいぶ日常の色が見て取れるようになっていた。
退院を三日後に控えた総介はその日、見舞いに来た友人達に退院後の遊びの予定を強要して大いに顰蹙を買い、疲れきって昼寝を山ほどした。入院生活というのは退屈の極みである。日中の行動は規制され、夜は眠る事を強制される。空白の時間だけが無闇にあり、総介は当初、持ち込んだ文庫本や雑誌を読んだり、音楽を聴いて過ごしていたがすぐに飽き、昼夜を問わず病院内を冒険と称して徘徊し、やがてそれにも飽きて漫然と寝ることが習慣付いてしまった。病院食も不味く、見舞いの品の羽二重餅にもすっかり飽きてしまっている。怪我の具合は良くなっていく一方で、精神的な方面では大いに参っていた。体力もきっと低下しているに違いないと考えて、過去の自分の浅はかな行動を激しく後悔した。
日暮れ頃に寝てしまった彼は消灯時間を過ぎた真夜中になって目を覚まし、毛布の中で携帯電話を開いた。送られてくる労わりのメールも日を追うごとに少なくなっていて、新着の表示が無いのを確認した総介は夜中のベッドの上で物寂しさにとらわれた。寂莫とした日々を潤すような出来事が何かないものかと思案し、ないとすぐさま判断し、そして三日後の退院を再び待ち遠しく思った。
総介はおもむろに隠し持っていた煙草を取り出して、同室の患者達に気付かれないようにスリッパを履いた。煙草は今日見舞いに来た友人から密かに支給された物である。看護婦である坂上さんに発見されれば没収されるのは目に見えているので、羽二重餅の空き箱の中に隠していた。
夜の病棟の廊下はしんと静まり返っていて、途中で光る非常灯以外は一切が闇に落ちている。最初に徘徊に出た時はその重苦しい静けさと暗黒に気圧されたものだが、慣れとは怖いもので、総介はその不気味な光景にすらすっかり飽きてしまった。なるだけ足音を立てぬよう壁伝いに歩いて、階段を昇る。
本来は封鎖されているはずの屋上が、実は鍵が壊れていて自由に出入り可能だと気付いたのは前回の冒険の時だった。それまではトイレや中庭でこっそり吸っていたのだが、次は絶対ここにしようと決めていたのだ。
扉をそっと開けると、夜の清廉な外気が頬に当たる。後ろ手で静かに閉めて、総介は思いっきり伸びをしてみた。頭上の夜空は透明に澄んでいて、数え切れないほどの星々が瞬いていた。月の明かりは眩いほどである。丘の上に建つ病院なので、地上の街の煌めきが眼下に眺められる。遠くの足羽山の影も見えた。四階下の駐車場の照明は既に落ちていて、総介の周囲は完全に闇に呑まれているが、彼は全く心細くなかった。むしろ、たっぷり仮眠を取った事と、こっそりベッドを抜け出して屋上にいるという規律違反の状況が彼に解放感を与えてハイにしていた。
吹き渡る夜風には冷たさよりも心地良さがあって、彼は久しぶりに季節の存在を実感した。大体、多感な十七歳の少年を無理やり病室に押し込んで拘束させるという処置がナンセンスなのだ、と総介は心の内で主張する。もちろん、誰か知人がいれば「自業自得だろう」とつっこむような言い分である。そのつっこみが切実に欲しい夜であった。
坂上さんは何をしているだろう。
煙草を銜えながら、総介はぼんやりと考えた。
美人看護婦として彼が評価している坂上さんが今日の夜勤のはずである。まだ若く、フレンドリーな人柄の彼女は総介を精神的に慰めてくれる貴重な人材であるが、彼女は医療に携わる全ての人の模範的存在といっても過言ではない人物であり、未成年者の喫煙、病室からの脱走、その他不純な違反の廃絶を心から願っている真人間でもある。今の総介を見つけたら烈火の如く怒るであろう。故に、おいそれと会いに行くわけにはいかない。総介はがっくりと肩を落とし、ポケットの中のライターを探った。
その時である。
何者かの気配を感じ、総介はぞっとして顔を上げた。
屋上を囲う網状のフェンスの向こう側、僅かな縁だけが残されたスペースに黒い人影が立っているのを見て、心臓を鷲掴みにされたような気がした。反射的に仰け反り、口端から煙草を落としながら、彼は短い悲鳴を上げた。
「誰!?」 鋭い声が響き、人影が振り向いた。
しかし、激しく胸を叩く鼓動が煩く、総介は腰を抜かしてその人影を凝視するばかりであった。常日頃から「幽霊などいてたまるか、死んだ人間にまでなんで気を遣わなければならんのだ、いたら幽霊のその甘えた精神が怖いわ!」と豪語している総介であったが、真夜中の病院という絶好のシチュエーションも手伝って、無条件にその人影をこの世のものではないものと認識してしまっていた。しばらくは水面の鯉のようにパクパク口を動かして固まっているばかりであった。
「あなた、誰? どうして屋上なんかにいるの?」 人影の声はまだ幼く、少女のようであった。言ってから、ごほっと咳をする。
ようやく冷静さを取り戻してきた総介は、それでも震える脚で立ち上がり、目を凝らして睨んでみた。小柄で声の調子から少女であるらしいとわかる以外は、顔もすべて闇に隠れて確認できなかった。長い髪が風に靡いているくらいしかわからない。自分とさほど年齢は離れていないだろう。そして、深呼吸を繰り返し、幽霊ではないと確証できるまで待ってから、総介は口を開いた。
「君こそ、なんで夜中にこんな所にいるんだ。ここは入っちゃいけないんだぞ」 自らを棚上げにして総介は問い詰める。できるだけ口を動かしていたかった。 「ていうか、そこ、危ないよ。戻れよ」
そうして歩み出した彼を見て、人影は「来ないでっ」と身構えた。総介もびっくりして立ち止まる。
「な、なんだよ……、何もしないよ」
「あっちに行って。構わないで!」 少女はヒステリック気味に言い放ち、気管が詰まったのか何度も咳をした。
そこで、総介は彼女の言葉に内包されている切羽詰まった感情に気がついた。同時に愕然として、また腰が抜けそうになる。慌てて一歩下がった。
少女は、飛び降り自殺をしようとしているのだ。
総介は息を飲んで人影を凝視する。少女も彼の様子を察して、声を落として続けた。
「やっと決心がついたの……、お願いだから、邪魔しないで」
とんでもない時に来てしまった、と総介は後悔した。舌打ちしたい気分だったが、そこまでの余裕は無論ない。自分がどうすればよいのかもわからず、彼の胸内は激しい混迷を極めた。
とにかく、舌先が乾いてしまわない内に、総介は止めにかかった。
「や、やめろって。何があったか知らんけど、死ぬ事なんてないんじゃ……」
「あなたに、何がわかるの?」 少女はその言葉を予期していたように、間髪いれずに答えた。
さぁ、これはいよいよ大変なことになってきた……。
総介は無意識に頭を抱えて「えっと……」と繰り返す。
「あ、あのさ、坂上さんって知ってる? ここで働いてる気の良い、美人の看護婦さん。彼女、夜勤やっていて、今頃はナースセンターで仕事しながら家に帰りたがっていると思うんだ。それなのに、君がそこから飛んで死んじゃったらさ、彼女、何も悪くないのに凄く迷惑を被ることになると思うんだよ。そうだろ? 俺だって同じだよ、警察の取り調べだとか、もううんざりしてるからさ、すっごい迷惑なんだ。何があったか知らないけれど、逆の立場で考えてみてよ。君だって絶対同じ事を思うよ」
ほとんど一息に喋り尽くしてみたものの、少女は何も答えず黙っていた。こちらを見ているようだが、きっと睨んでいるだろう。自分の言葉を反芻し、もしかしたら怒っているかも、と考えてさらに総介は焦った。逆上して飛ばれたら元も子も無い。
「まずさ……、いい? どうして死のうとするんだい? わけを言ってみてごらん」
「ほっといて」 少女は冷たくあしらう。
「いやいや、さっき君、あなたに何がわかるのって言ったよね? 話してくれたら、俺でもわかるかもしれないじゃないか。歳も近そうだし、君、たぶん可愛いでしょ? 俺もぜひ君と話したいなぁって思って」
「馬鹿にしてるの?」
「ごめんなさい、口が過ぎました、落ち着いてください」
そう言いつつ、自分にも落ち着けと言い聞かせる。自分か、あるいはフェンスの向こうに立つ少女の不在に気付いた誰かが、都合よくやって来てくれるのを切に望んだ。坂上さんだったらなおいい。
「でもさ……、話してくれれば、その、気持ちもまた変わるかもしれないだろ?」
「……気持ちが変わったって、どうしようもない。状況が変わるわけでもないし」
そりゃまぁ確かに、と思いながらも総介は首を振る。
「いや……、どうしても死にたいって言うんなら構わないさ。君の人生に関わる一大事を俺がとやかく言って止める権利はないし。でも、さっきも言ったように、ここで飛ばれたら正直、俺も看護婦さんも迷惑するんだ。衝動的なもんじゃなくって、ずっと前から今日死のうって決めていたんなら、仕方ないことだけどさ。そしたら俺は今すぐここから出ていくから、その後に飛んでよ。富士の樹海か、日本海の沖合でしてくれたらもっと良いけど。俺、ドラマとかで君みたいに公共の場で死のうとしている奴を見る度に思うんだよね、迷惑な奴だなって」
話しながら、逆上しているのは自分だと気付く。これでは煽っているようなものではないか、と自分を諌めたが、幸いにも少女は耳を傾けるようにして立ち尽くしていた。
「だ、だからさ……、死ぬか死なないかはひとまず置いといて、互いの為に話してくれてもいいんじゃないかな? どうせ誰だっていつか死ぬんだから、別に今日じゃなくってもいいだろ?」
しばらく、気まずい沈黙が降りた。遠くの国道からバイクの音が聞こえるだけで、他はすべて静止しているようにも思えた。
「……わたし、生まれつき障害持ちなの」 躊躇うように、少女は小さく呟く。 「詳しく話してもわからないだろうけど、呼吸器系の障害。それも重度のね。一人でここに上がってくるのも大変だったし、子供の頃からずっと病院にいたわ」
「そ、そうなんだ」 驚きつつも、曖昧に総介は頷く。 「学校は? 入院しっぱなし?」
「学校には一度だけ行った。障害者用のね。でも……」 そこで少女は言葉を切り、頭を振って溜息を吐く。 「あぁ、なんでこんなこと言ってんだろ、わたし……、思い出したくもないのに……」
「あ、わ、悪かった」 慌てて総介は詫びる。 「で、でもさ……、余命何年とか、そういう世界じゃないんだろ?」
しかし、少女は答えず、じっと総介を睨んだ。
総介はぎくしゃくと微笑む。気抜けた表情とは裏腹に、激しく後悔していた。
「……マジ?」
「……元々、治しようのないものなの。宣告されたわけじゃないけど、どっちにしたって人並の寿命を生きるのは無理」 そこで嘲笑じみた笑みを浮かべたようだったが、すぐに続いた咳でそれは掻き消された。
そうか、さっきからしていた咳は、これだったのだ……。
気付いて、総介はどうしようもなく暗澹とした気分になる。不本意ながら不良少年のレッテルを貼られている彼だが、幼い頃から小説や漫画などの物語に人一倍触れてきた彼は、他者に対する感情移入の念も人一倍強かった。平たく言えば同情になるが、彼は名も知らぬ眼前の少女の不憫な境遇を出来るだけ想像して自分に当てはめ、どうしようもない胸の痛みを感じた。それでも少女の実感する生の痛みには足許にも及ばないだろう、と悟ってまた落ち込んだ。
総介は、不真面目な見た目とは裏腹に、どこまでも優しい少年であった。
「ね? あなたになんかわからないでしょう」 少女は勝ち誇ったかのように言う。挑発的な響きすらあった。 「お父さんとお母さんにも迷惑をかけているの。同じ障害者達に程度の差で笑われたり、僻まれたり、憐れまれたり、差別されているわたしの所為でね。妹は健康体で、陰でわたしのことを笑っているわ。満足に階段を昇ることも、眠ることもできない。あなたに、その辛さがわかるっていうの? わかるって自称する人達はいっぱい現れたわ。誰一人、喘息すら持っていなかったけどね。あなただって、そうでしょ? すぐに退院できて、普通の人として生活が送れると決められているから、同情でもなんでもできるのよ。暇潰しに自殺を止めたりね」
「ち、違う」 総介は顔を上げて言った。 「俺はそんな事……」
「同じよ。わたしから見ればあなたも他と同じ」 そこで少女は区切ってまた咳をした。 「ねぇ、もういい? わたし、あなたに関わるつもりはないから、あなたもわたしに関わらないで。それこそ迷惑なのよ、わたしにとって」
手痛い所を突かれ続けて、総介は言葉を失った。自分の手が震えているのがわかる。決して憤りではなく、ただ、情けないが、泣きそうになるのを懸命に堪えていたのだ。
自分と同じ世代の女の子が、何故こんな事を言わねばならないのだ?
「消えてよ。死ぬ時くらい、自由にさせて」 少女は酷薄に総介から目を逸らして、再び外へと向き直った。
「き、君は……」 総介は唇をわななかせながら言う。 「君は、甘えている」
「何ですって?」 彼女は振り向く。
「自分だけが……、自分だけが不幸だと、思い込んでる」
「わかった風なことを……」
「わからないさ。わかるはずがない。俺は障害なんて持っていないからな」 総介は不敵に笑ってみせた。しかし、喉の奥が痙攣しかけているのが自覚できる。 「でも、さっき、君が言ったんだ。程度の差で、差別されているって。だったら、君だって、差別してるぞ。自分より健康な奴らを」
「えぇ、そうよ」 少女は開き直ったかのように頷く。 「見下されるなんてまっぴらだもの。差別を受けるなら、差別したっていいじゃない。あなたみたいなお人好しや、うじうじした障害者達をね」
「違う、君は甘えてるんだ。自分の不幸にね。漫画の読み過ぎだ」 総介は言い放つ。
虚を衝かれたように少女は息を飲み、黙りこくった。
総介は、一呼吸置いて、自らの辛い記憶を辿り、そしてそれを口にした。
「君は、母親を亡くしたことがないだろう?」
少女のシルエットがはっと身じろぎするのが見て取れた。
「あなた……」
「俺が小学生の時、母さんは死んだ。ガンか何かでね。病気は詳しく教えてくれなかったけど、父さんはきっと辛かったんだと思う。未だに教えてくれないよ。俺だって思いっきり泣いたし、いつも勝ち気な姉ちゃんも泣いてた」 総介は俯きかけた顔を上げ、小さくなっていく自分の声を鼓舞するように張り上げた。 「授業参観じゃ、俺だけ親がいなかった。運動会でも、父さんは仕事で忙しいから、独りだった。家に帰っても姉ちゃんは部活でいないから、鍵っ子だったよ。君は、そんな経験をしたことがないだろ? 俺の気持ちなんか……、一切わからないだろ」
少女は答えず、項垂れていた。
「あぁ、本当、不幸自慢ってマジ精神にくるね……、俺もなんでこんなこと喋ってんだろ……、正直参っちまうよ。でも、俺、言いたいんだよ、君に」 総介は必死に言い縋る。 「自分の不幸に甘えて打ちひしがれているだけの奴が、それも君みたいに若い子が、悟りきって見下したような事を言うなよ」
「じゃあ……、じゃあ、どうすればいいのよッ!?」 少女は割れた声で叫び、また咳をした。今度のその発作は激しく、フェンスに手を掛けたまま、ずるずると崩れる。
チャンス、と総介は咄嗟にフェンスに駆け寄ると、持ち前の運動神経でしがみついて乗り越える。怪我の箇所が凄まじく痛んだが、顔を顰めている暇すらなかった。危うげに着地し、僅かな足場で屈む少女の肩に手を掛けたが、乱暴に振り払われた。
少女は苦しげに顔を歪め、咳を続けながら、総介を睨み上げた。間近だったので少女のその整った顔立ちが月明かりの下ではっきり見えた。
あ、やっぱり可愛い。
切羽詰まった状況にも関わらず鼻の下を伸ばした総介であったが、そんな自分に腹が立ち、総介は頭を振った。一瞬、怪訝な顔つきをした少女だったが、すぐに険しい表情へと戻った。
「あなたを何も考えていない人だと決め付けてたのは謝る……」 少女は睨みながら小声で言う。見開いた瞳からは大粒の滴がこぼれていた。 「でも、あなたにはわからないでしょう? この苦しみが。満足に生活することもできない、卑下されるだけの短い人生なんて……」
「そうだ、さっきも言ったけど、俺にはわからない」 総介は相手を遮って言う。 「君の不幸も、死のうと決めた君の決断も、君の人生についても、何もわからない。当然だろ、君にしかわからないことじゃないか、それは。本当は、誰にも理解なんかできっこないんだ。他人の人生なんて」
少女は口を閉ざして、黙々と涙を流しながら総介を睨んでいる。
「……だから、君が本気でじっくり考えた上で、もう死ぬしかないって思えたんだったら、俺は止めないよ。他でもない、君の生死だからな、俺は何も言わない。出来れば今ここでは止めてほしいけど……。でも、もし君が、誰も理解してくれないって嘆いて自暴自棄になっているんだったら、それは絶対に間違ってる」
「じゃあ……、どうすれば……」 少女は先程と同じ問いを、今度は力無く投げかける。
「わからなくて当然なんだ……、君はわかってくれないって泣いているだけだろ。だったら、自分で始めてみろよ。他人をアテにしない、自分だけの人生を。長く生きられないからって、そんなの、いじける理由になるもんか。酷い言葉に聞こえるかもしれないけれど……、死ぬって決められているんなら、自分だけの最高の死に方をしてみろよ。少しでも希望があるなら、手術でもなんでもして、障害を克服してみろよ。死ぬ気だったんだから、失うもんなんて何もないだろ」
こんなに饒舌に話せる自分に驚愕する。そして、話している内に視界が涙で霞んでいたことにも気づいて、深く、静かに、溜息を吐いた。
少女は項垂れて、静かに泣いていた。鼻を啜る音だけが、荒涼とした夜の屋上に響く。
「ごめん……」 総介は無意識の間に詫びていた。
落ち込んでいる時に投げかけられる正論ほど理不尽で、腹が立ち、そして傷つけられるものはないことを彼は知っていた。母を失くした小学生の時分に、幼い心ながらその辛さを総介は味わっていたのだ。
そして今、かつての総介以上の辛酸を、少女は味わっているだろう。
「君にも、思う所はいっぱいあるよな……」
少女は顔を上げず、何の反応も見せなかった。
風の音。
幽玄な月の輪郭。
真鍮のような重力。
沈黙する度、世界には自分達だけが生き残ってしまったのではないかと思える。
「母さんは、笑って死んだよ」 総介はさりげなく涙を拭って、にこやかに言った。その笑みは無理やりに作った物ではなかった。
「え?」 少女は涙にまみれた顔を上げて、戸惑うように聞き返した。
「母さんが死んだのは三十五歳の時でさ、こういう言い方って嫌だけど、儚い人生だったほうだろ? 早過ぎる死って、テレビだとテロップが出るような……、不幸だって言いたくはないけど、まぁ、幸福ではないよな、普通から見て。でも……」
一旦、言葉を切って、総介は息をのみ込む。
フラッシュバックする光景。
活動する生命を圧迫するような、清潔で殺風景な病室。
ベッドに横たわる母の姿と、傍らでリズムを刻む心電図。
右手には父がいて。
左手には姉。
母のすっかり骨張った右手が、自分の頭を弱々しく撫で。
そして。
「笑ったんだ……」
脳裏には、母の笑顔。
あの時は、ただただ悲しくて、気付かなかったが。
そう、母は、笑っていたのだ。
自分の命の瀬戸際で。
その短すぎる一生の最期で。
「母さんは、きっと、充実して生きてきたんだと思う。元々、身体は弱いほうだったらしいけど、それでも、人生を楽しんだんだと思う。あの笑みは、その証だよ」
総介は追憶を止め、足許の少女に目を落とす。少女は息をするのも忘れてしまったかのように彼の顔に見入っていた。
「俺さ……、まぁ、無免許運転して、今かなりやばい事になってんだけど、これでも一応高校生でさ。まだ将来の夢とか、何にも決まってないんだよね。でも……、人生の終わりに、いつやって来るかわからん死の瞬間にも笑えるような、後悔しない、楽しい人生を送りたいって考えてるんだよね。母さんみたいにさ」
総介は少女の視線に何となく気恥かしくなって、頭を掻いた。
「まぁ、最期に笑う為に、これから泣きたくなったり、ムカついたり、君みたいに死にたくなるような、キツイ事がたくさん待っているんだろうけど……、でも、俺は、生きる理由なんかそれだけでいい。最期に笑う為だけに生きたい。自分の理想的な死に方ができるよう生きられれば、それでいい」
少女はいつの間にか顔を逸らし、涙で濡れたまま、怒ったような目線を寝静まった街の景色へと向けていた。夜風が吹き、少女の髪が躍る。それにも気付かないように、少女の表情は動かなかった。
「なんか、語っちゃったね、俺。センスあるかも」 総介はおどけるように言ってから、反応をしない少女に対して気まずさを感じた後、フェンスの向こう側へ引き返した。
骨折箇所を庇いながらの動作は凄まじく辛かったが、なんとか安全圏へと戻ってこられた。再び少女に目を向けると、彼女はこちらに背を向けながらも、ちゃんとそこに座っていてくれた。総介は安堵して胸をなで下ろす。
「あのさ。さっきも言った通り、どうしても死にたいなら、俺は止めないよ。でも、君の考え方次第でいくらでも生き方を変えられると思うんだ、俺」 余計なひと言だろうかと思いつつ、総介は後退する。 「あ、俺、もう部屋に戻るから。じゃ」
そう言って扉を閉めると、総介は今更になって痛み出した全身を奮起させて、階段を下った。外と違って月も星もない病棟の階段は暗く、気をつけなければ足を踏み外してしまいそうだった。
そうだ、煙草を吸いに来たんだっけ……。
当初の目的を思い出した総介だったが、もうどうでもよくなって真っ直ぐに自分のベッドがある部屋へと戻った。毛布にダイブした途端、どっと疲れが押し寄せて、無理をした身体がきりきり悲鳴を上げた。くっつきかけたのがまた悪化しなければいいが、と思う。
あの娘はどうしただろうか。総介はぼんやり考える。
間近で見た彼女の表情に妙な手応えを感じたので、よもやもう飛び降りはしないだろうと総介は確信していた。したら、したまでさ、と総介は心にもない事を心の中で呟く。
そうして、未だ昂揚とした気分のまま、目を瞑っている間に、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。
◇
彼の確信通り、例の少女は自殺を取り止めたらしい。総介が退院するまで、そんな悲劇的なニュースは流れてこなかったからだ。あの翌日、目覚めた時から、自分が放った熱い台詞を思い出して猛烈に恥ずかしくなった。今でも一言一句再現しようとすると顔から火が出そうだ。
総介は自分のベッドにあった荷物を片づけ終え、父親の迎えを待っていた。これから学校や警察にも出頭しなければいけないから気が重い。そんな彼を、美人看護婦の坂本さんが背中を叩いて叱咤した。
「ほらほら、自分のケツくらい拭く覚悟持ちなさいよ、少年!」
「痛ぇって! 脊髄骨折する!」 総介は仰け反りながら、ぴょんぴょん跳ねた。
坂本さんはけらけら笑った。
二人は既に病室を出て、ロビーの外に出ていた。その時になってようやく総介は退院の実感が湧き、元はと言えば己の所為であるにも関わらず、見えない圧力からの解放を感じた。太陽の下を歩くのも随分久しぶりな気がする。新緑の匂いがわずかに混ざる澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、病院の敷地に茂る青葉の輝きを目に映して、彼は季節というものをたっぷり堪能した。
そう、これでこそ人間!
これでこそ十七歳!
後は、可愛い彼女さえいたら!
そう考えた所で、彼は三日前の晩に出逢った例の少女を思い出し、それとなく坂上さんに尋ねた。
「ずっと入院している女の子?」 坂上さんは首を傾げる。
「ほら、なんか……、生まれつき、呼吸器官が弱くて、俺と同じくらいの年齢の……、いるっしょ?」
うーん、と坂上さんが記憶を反芻している間、総介はもしや幽霊だったのではなかろうな、と腹の底が冷たくなる思いをして待っていた。
やがて、「あぁ」と坂上さんの顔に光輝が浮かび、うんうん頷いた。
「いるいる、いるよ。ずっとこの病院にいたわけじゃないけど、病院を転々としてる女の子。確か、安住さんの娘さん。可愛い子でしょう?」
ほっと安心して、総介は最後にその子に会えないかと懇願してみる。
「何々、どこで知り合ったのよ、あんた」 坂上さんはニヤニヤしながら訊く。 「一目惚れでもしちゃったの?」
「ちげぇし! 断じてちげぇし! いや、照れ隠しじゃねぇっての!」
ぎゃあぎゃあ喚き合っている内に、坂上さんがふと気付いたように視線を逸らす。中庭に通じる方の道のベンチを見つめて、総介に振り向いて指した。
「ほら、あの子でしょ、総介君が言ってるの。この時間帯は、あの子、外に出て本を読んでいるのよ」
促されて見ると、確かにあの少女が座っていた。背後に一本だけ木を据える赤茶色のベンチに腰掛け、木漏れ日に当たりながら文庫本をめくっていた。微風に揺れる長い黒髪もちゃんとあった。
「ちょっと……、知り合いだから、二人で話させてくれよ」 総介は坂上さんに念を押してから、そちらへと歩み寄った。
声を掛ける前に、少女ははっと気付いて本から顔を上げた。屋上の闇の中でも確認できた整った顔が驚きを浮かべている。座っている彼女の前へ総介は立った。
「よかった、ちゃんと生きてた」 皮肉ではなく、むしろ安心した気持ちを示す為に総介は微笑んで言った。
「えぇ、お陰さまで……」 少女は屋上で対峙した時とは別人のように、細く小さい声で返した。
しばらく、無言。
いざ顔を合わせてみると、妙な気恥かしさが総介を支配した。後ろで坂本さんが忍び笑いをしているのが見ずともわかる。
「あの……」 少女は立ち上がって、手を前に組んで深々と頭を下げた。 「あの時は、ごめんなさい。それと、ありがとう。わたし、あの後、あなたに言われたことをずっと考えていたわ」
「そう……」 ぎこちなく総介は頷いた。 「いや、我ながら名演説だったと思うけどね、面と向かうとなんか恥ずかしいんだな、これが」
少女はくすりと微笑み、軽い咳を二度した。
「ううん、恥じらう事なんてないわ。わたし、あなたの言葉に救われたのよ。生きるっていうのがどういうことか、ハンディを背負った自分が何をすべきか、あなたに教えてもらったのよ」
「いやぁ……」 総介は照れて赤面し、頭を掻く。
「本当に、ありがとう」 少女はもう一度言う。 「わたし、もう絶対、あんな真似しないわ。たとえ人より早く終ろうとも、人生の最期に笑えるように、精一杯生きようって決めたの。学校にも復帰できるよう、頑張るわ」
「うん……、そのほうがいい。そっちのほうが、死ぬよりかは楽しいよ」 総介は快活に微笑んで見せる。 「いやぁ、しかし、君よくあのフェンス登れたね。運動できないんだろ?」
「あ……、えっと、知らなかっただろうけど、あの屋上、フェンスの扉も壊れているのよ。階段口の脇にあったんだけど」
「えぇっ、ちょっ、そういう事は早く言ってくれよ! 俺、骨折してたのにあれ乗り越えて、翌日からもう痛いのなんのって……」
少女は、今度は声を漏らして笑った。そんな彼女の笑顔を見て、総介も不思議と楽しくなって一緒に笑った。そして、互いに笑いが収まった途端、総介は緊張し出す。
「あ、あのさ……」 総介は言葉を探しながら言う。 「君、携帯持ってたりする?」
「う、うん……」 少女も意図を察したのか、恥じらうように目線を伏せてこくりと頷く。 「前に、いつでも話せるようにってお母さんが持たせてくれたの」
「あ、じゃあさ! 連絡先、交換しようぜ!」 総介はほとんど捨て身の精神で提案する。本当はそれが目的だった。 「ずっと病院にいたら退屈でしょうがないだろ? 俺、毎日励ましメール送るし、淋しくなったら電話も受けるし、時々、君のこと見舞いに行くからさ!」
少女は戸惑ったように目を開きながらも、赤くなった愛らしい顔に微笑を湛えて頷いた。
「うん……、ありがとう。すごく嬉しい」 そして、照れ隠しのように、えへへと笑う。
あぁ、生きているって素晴らしい事かもしれない!
警察上等!
退学上等!
何でもこいや! 俺は今、幸せだ!
総介は大空に向かって思いっきり飛び跳ねたくなったが、すんでの所で思い留まり、肝心なことを思い出した。
「そうだ、名前……」
「あ……、そうだね、そういえば知らなかった」 少女も気づいて頷く。
「俺、雨宮総介。総介でいいよ」
「あ、わたし、安住かなえ……」
「え?」 総介は仰天して、目を見開いた。
かなえ。
それは、彼の母親と同じ名前だった。
切なく、胸を締め付けられるような感情が一瞬だけよぎったが、総介は気を取り直して微笑んだ。
「かなえ、か。いい名前だね」
「総介くんも、ね」 かなえは、生きていく上で重いハンディを背負った人間だとは到底思わせないほど、爛漫に微笑んでみせた。
こっちのほうが可愛いな、と総介はやはり鼻の下を伸ばしてそれを眺めるのであった。
総介の今年の春は、周囲からは無為に終わりを見せたかのようだったが、その充実は彼のみが知るものとなった。
今年はもう散ってしまったが、願わくば来年にでも彼女と一緒に桜を見たい、と総介は早過ぎる計画をして、助手席でふふふと笑った。父親は暗澹と警察署へ車を走らせながら、気味が悪そうに隣の息子を眺める。
「お前、ひょっとして頭も打ったんじゃないか?」
もちろん、わくわくし始めるのは観光客だけでなく、地元住民、特に若さを持て余した総介のような高校生達もどこか浮足立ち、都会と比べて数少ない市中の娯楽施設や開放された運動場に集まってわいわいと騒ぐ。土地柄、冬には厳しい寒風と分厚い雪で外が覆われる分、それが終わった春季には老若男女の区別なく、梅雨までの短い間だけ一斉に活力を取り戻すのだ。雨降りの地としても有名なので、夏場にはむしろ曇り空を見る機会が多く、麗らかな青空を堪能できるのもこの間だけであった。
小さな駅前にまでその活気は滲み出ているが、しかし、その年の春は、高校生の総介にとって絶望的なものになった。
春先になって進級を控え、さらに雪も解け、開放的な気分に浸っていた彼は、悪しき先輩に勧められるまま、初めて原付に跨り、派手にガードレールに突っ込んで宙を舞った。すぐ先が柔らかい草地だったのもあって、幸い命に別状はなかったが、肋骨と指とその他随所を骨折した。春の選抜、夏の大会、というようなイベントとは無関係であり、そもそも体育会的な部活動に属していない総介には骨折による支障はあまりなかったが、無免許運転での自損事故、バイクの持ち主である先輩、病院と警察の双方から呼び出された父親など、学校上や対人関係での立場が苦しく微妙なものとなっており、さらに遊び盛りの春季を入院生活という退屈なもので潰してしまう羽目になったのだ。
「終わった、俺の春は終わったよ……」 総介は病院のベッドの上で項垂れた。 「終了です! 春は終了です! 桜散れ!」
「自業自得だろう」と彼を見舞いに来た友人や父と姉、面倒見のいい教師達、挙句には看護婦の坂上さんまで、例外なくそう呟いた。
四月を過ぎたばかりの五月初旬、総介が自棄気味に放った言葉が叶って桜は散り、新緑が陽射しを眩しく彩る季節になった。観光客の入りも大人しくなり始め、街全体が落ち着きを取り戻し始める頃である。丘の上の病院から眺められる風景にもだいぶ日常の色が見て取れるようになっていた。
退院を三日後に控えた総介はその日、見舞いに来た友人達に退院後の遊びの予定を強要して大いに顰蹙を買い、疲れきって昼寝を山ほどした。入院生活というのは退屈の極みである。日中の行動は規制され、夜は眠る事を強制される。空白の時間だけが無闇にあり、総介は当初、持ち込んだ文庫本や雑誌を読んだり、音楽を聴いて過ごしていたがすぐに飽き、昼夜を問わず病院内を冒険と称して徘徊し、やがてそれにも飽きて漫然と寝ることが習慣付いてしまった。病院食も不味く、見舞いの品の羽二重餅にもすっかり飽きてしまっている。怪我の具合は良くなっていく一方で、精神的な方面では大いに参っていた。体力もきっと低下しているに違いないと考えて、過去の自分の浅はかな行動を激しく後悔した。
日暮れ頃に寝てしまった彼は消灯時間を過ぎた真夜中になって目を覚まし、毛布の中で携帯電話を開いた。送られてくる労わりのメールも日を追うごとに少なくなっていて、新着の表示が無いのを確認した総介は夜中のベッドの上で物寂しさにとらわれた。寂莫とした日々を潤すような出来事が何かないものかと思案し、ないとすぐさま判断し、そして三日後の退院を再び待ち遠しく思った。
総介はおもむろに隠し持っていた煙草を取り出して、同室の患者達に気付かれないようにスリッパを履いた。煙草は今日見舞いに来た友人から密かに支給された物である。看護婦である坂上さんに発見されれば没収されるのは目に見えているので、羽二重餅の空き箱の中に隠していた。
夜の病棟の廊下はしんと静まり返っていて、途中で光る非常灯以外は一切が闇に落ちている。最初に徘徊に出た時はその重苦しい静けさと暗黒に気圧されたものだが、慣れとは怖いもので、総介はその不気味な光景にすらすっかり飽きてしまった。なるだけ足音を立てぬよう壁伝いに歩いて、階段を昇る。
本来は封鎖されているはずの屋上が、実は鍵が壊れていて自由に出入り可能だと気付いたのは前回の冒険の時だった。それまではトイレや中庭でこっそり吸っていたのだが、次は絶対ここにしようと決めていたのだ。
扉をそっと開けると、夜の清廉な外気が頬に当たる。後ろ手で静かに閉めて、総介は思いっきり伸びをしてみた。頭上の夜空は透明に澄んでいて、数え切れないほどの星々が瞬いていた。月の明かりは眩いほどである。丘の上に建つ病院なので、地上の街の煌めきが眼下に眺められる。遠くの足羽山の影も見えた。四階下の駐車場の照明は既に落ちていて、総介の周囲は完全に闇に呑まれているが、彼は全く心細くなかった。むしろ、たっぷり仮眠を取った事と、こっそりベッドを抜け出して屋上にいるという規律違反の状況が彼に解放感を与えてハイにしていた。
吹き渡る夜風には冷たさよりも心地良さがあって、彼は久しぶりに季節の存在を実感した。大体、多感な十七歳の少年を無理やり病室に押し込んで拘束させるという処置がナンセンスなのだ、と総介は心の内で主張する。もちろん、誰か知人がいれば「自業自得だろう」とつっこむような言い分である。そのつっこみが切実に欲しい夜であった。
坂上さんは何をしているだろう。
煙草を銜えながら、総介はぼんやりと考えた。
美人看護婦として彼が評価している坂上さんが今日の夜勤のはずである。まだ若く、フレンドリーな人柄の彼女は総介を精神的に慰めてくれる貴重な人材であるが、彼女は医療に携わる全ての人の模範的存在といっても過言ではない人物であり、未成年者の喫煙、病室からの脱走、その他不純な違反の廃絶を心から願っている真人間でもある。今の総介を見つけたら烈火の如く怒るであろう。故に、おいそれと会いに行くわけにはいかない。総介はがっくりと肩を落とし、ポケットの中のライターを探った。
その時である。
何者かの気配を感じ、総介はぞっとして顔を上げた。
屋上を囲う網状のフェンスの向こう側、僅かな縁だけが残されたスペースに黒い人影が立っているのを見て、心臓を鷲掴みにされたような気がした。反射的に仰け反り、口端から煙草を落としながら、彼は短い悲鳴を上げた。
「誰!?」 鋭い声が響き、人影が振り向いた。
しかし、激しく胸を叩く鼓動が煩く、総介は腰を抜かしてその人影を凝視するばかりであった。常日頃から「幽霊などいてたまるか、死んだ人間にまでなんで気を遣わなければならんのだ、いたら幽霊のその甘えた精神が怖いわ!」と豪語している総介であったが、真夜中の病院という絶好のシチュエーションも手伝って、無条件にその人影をこの世のものではないものと認識してしまっていた。しばらくは水面の鯉のようにパクパク口を動かして固まっているばかりであった。
「あなた、誰? どうして屋上なんかにいるの?」 人影の声はまだ幼く、少女のようであった。言ってから、ごほっと咳をする。
ようやく冷静さを取り戻してきた総介は、それでも震える脚で立ち上がり、目を凝らして睨んでみた。小柄で声の調子から少女であるらしいとわかる以外は、顔もすべて闇に隠れて確認できなかった。長い髪が風に靡いているくらいしかわからない。自分とさほど年齢は離れていないだろう。そして、深呼吸を繰り返し、幽霊ではないと確証できるまで待ってから、総介は口を開いた。
「君こそ、なんで夜中にこんな所にいるんだ。ここは入っちゃいけないんだぞ」 自らを棚上げにして総介は問い詰める。できるだけ口を動かしていたかった。 「ていうか、そこ、危ないよ。戻れよ」
そうして歩み出した彼を見て、人影は「来ないでっ」と身構えた。総介もびっくりして立ち止まる。
「な、なんだよ……、何もしないよ」
「あっちに行って。構わないで!」 少女はヒステリック気味に言い放ち、気管が詰まったのか何度も咳をした。
そこで、総介は彼女の言葉に内包されている切羽詰まった感情に気がついた。同時に愕然として、また腰が抜けそうになる。慌てて一歩下がった。
少女は、飛び降り自殺をしようとしているのだ。
総介は息を飲んで人影を凝視する。少女も彼の様子を察して、声を落として続けた。
「やっと決心がついたの……、お願いだから、邪魔しないで」
とんでもない時に来てしまった、と総介は後悔した。舌打ちしたい気分だったが、そこまでの余裕は無論ない。自分がどうすればよいのかもわからず、彼の胸内は激しい混迷を極めた。
とにかく、舌先が乾いてしまわない内に、総介は止めにかかった。
「や、やめろって。何があったか知らんけど、死ぬ事なんてないんじゃ……」
「あなたに、何がわかるの?」 少女はその言葉を予期していたように、間髪いれずに答えた。
さぁ、これはいよいよ大変なことになってきた……。
総介は無意識に頭を抱えて「えっと……」と繰り返す。
「あ、あのさ、坂上さんって知ってる? ここで働いてる気の良い、美人の看護婦さん。彼女、夜勤やっていて、今頃はナースセンターで仕事しながら家に帰りたがっていると思うんだ。それなのに、君がそこから飛んで死んじゃったらさ、彼女、何も悪くないのに凄く迷惑を被ることになると思うんだよ。そうだろ? 俺だって同じだよ、警察の取り調べだとか、もううんざりしてるからさ、すっごい迷惑なんだ。何があったか知らないけれど、逆の立場で考えてみてよ。君だって絶対同じ事を思うよ」
ほとんど一息に喋り尽くしてみたものの、少女は何も答えず黙っていた。こちらを見ているようだが、きっと睨んでいるだろう。自分の言葉を反芻し、もしかしたら怒っているかも、と考えてさらに総介は焦った。逆上して飛ばれたら元も子も無い。
「まずさ……、いい? どうして死のうとするんだい? わけを言ってみてごらん」
「ほっといて」 少女は冷たくあしらう。
「いやいや、さっき君、あなたに何がわかるのって言ったよね? 話してくれたら、俺でもわかるかもしれないじゃないか。歳も近そうだし、君、たぶん可愛いでしょ? 俺もぜひ君と話したいなぁって思って」
「馬鹿にしてるの?」
「ごめんなさい、口が過ぎました、落ち着いてください」
そう言いつつ、自分にも落ち着けと言い聞かせる。自分か、あるいはフェンスの向こうに立つ少女の不在に気付いた誰かが、都合よくやって来てくれるのを切に望んだ。坂上さんだったらなおいい。
「でもさ……、話してくれれば、その、気持ちもまた変わるかもしれないだろ?」
「……気持ちが変わったって、どうしようもない。状況が変わるわけでもないし」
そりゃまぁ確かに、と思いながらも総介は首を振る。
「いや……、どうしても死にたいって言うんなら構わないさ。君の人生に関わる一大事を俺がとやかく言って止める権利はないし。でも、さっきも言ったように、ここで飛ばれたら正直、俺も看護婦さんも迷惑するんだ。衝動的なもんじゃなくって、ずっと前から今日死のうって決めていたんなら、仕方ないことだけどさ。そしたら俺は今すぐここから出ていくから、その後に飛んでよ。富士の樹海か、日本海の沖合でしてくれたらもっと良いけど。俺、ドラマとかで君みたいに公共の場で死のうとしている奴を見る度に思うんだよね、迷惑な奴だなって」
話しながら、逆上しているのは自分だと気付く。これでは煽っているようなものではないか、と自分を諌めたが、幸いにも少女は耳を傾けるようにして立ち尽くしていた。
「だ、だからさ……、死ぬか死なないかはひとまず置いといて、互いの為に話してくれてもいいんじゃないかな? どうせ誰だっていつか死ぬんだから、別に今日じゃなくってもいいだろ?」
しばらく、気まずい沈黙が降りた。遠くの国道からバイクの音が聞こえるだけで、他はすべて静止しているようにも思えた。
「……わたし、生まれつき障害持ちなの」 躊躇うように、少女は小さく呟く。 「詳しく話してもわからないだろうけど、呼吸器系の障害。それも重度のね。一人でここに上がってくるのも大変だったし、子供の頃からずっと病院にいたわ」
「そ、そうなんだ」 驚きつつも、曖昧に総介は頷く。 「学校は? 入院しっぱなし?」
「学校には一度だけ行った。障害者用のね。でも……」 そこで少女は言葉を切り、頭を振って溜息を吐く。 「あぁ、なんでこんなこと言ってんだろ、わたし……、思い出したくもないのに……」
「あ、わ、悪かった」 慌てて総介は詫びる。 「で、でもさ……、余命何年とか、そういう世界じゃないんだろ?」
しかし、少女は答えず、じっと総介を睨んだ。
総介はぎくしゃくと微笑む。気抜けた表情とは裏腹に、激しく後悔していた。
「……マジ?」
「……元々、治しようのないものなの。宣告されたわけじゃないけど、どっちにしたって人並の寿命を生きるのは無理」 そこで嘲笑じみた笑みを浮かべたようだったが、すぐに続いた咳でそれは掻き消された。
そうか、さっきからしていた咳は、これだったのだ……。
気付いて、総介はどうしようもなく暗澹とした気分になる。不本意ながら不良少年のレッテルを貼られている彼だが、幼い頃から小説や漫画などの物語に人一倍触れてきた彼は、他者に対する感情移入の念も人一倍強かった。平たく言えば同情になるが、彼は名も知らぬ眼前の少女の不憫な境遇を出来るだけ想像して自分に当てはめ、どうしようもない胸の痛みを感じた。それでも少女の実感する生の痛みには足許にも及ばないだろう、と悟ってまた落ち込んだ。
総介は、不真面目な見た目とは裏腹に、どこまでも優しい少年であった。
「ね? あなたになんかわからないでしょう」 少女は勝ち誇ったかのように言う。挑発的な響きすらあった。 「お父さんとお母さんにも迷惑をかけているの。同じ障害者達に程度の差で笑われたり、僻まれたり、憐れまれたり、差別されているわたしの所為でね。妹は健康体で、陰でわたしのことを笑っているわ。満足に階段を昇ることも、眠ることもできない。あなたに、その辛さがわかるっていうの? わかるって自称する人達はいっぱい現れたわ。誰一人、喘息すら持っていなかったけどね。あなただって、そうでしょ? すぐに退院できて、普通の人として生活が送れると決められているから、同情でもなんでもできるのよ。暇潰しに自殺を止めたりね」
「ち、違う」 総介は顔を上げて言った。 「俺はそんな事……」
「同じよ。わたしから見ればあなたも他と同じ」 そこで少女は区切ってまた咳をした。 「ねぇ、もういい? わたし、あなたに関わるつもりはないから、あなたもわたしに関わらないで。それこそ迷惑なのよ、わたしにとって」
手痛い所を突かれ続けて、総介は言葉を失った。自分の手が震えているのがわかる。決して憤りではなく、ただ、情けないが、泣きそうになるのを懸命に堪えていたのだ。
自分と同じ世代の女の子が、何故こんな事を言わねばならないのだ?
「消えてよ。死ぬ時くらい、自由にさせて」 少女は酷薄に総介から目を逸らして、再び外へと向き直った。
「き、君は……」 総介は唇をわななかせながら言う。 「君は、甘えている」
「何ですって?」 彼女は振り向く。
「自分だけが……、自分だけが不幸だと、思い込んでる」
「わかった風なことを……」
「わからないさ。わかるはずがない。俺は障害なんて持っていないからな」 総介は不敵に笑ってみせた。しかし、喉の奥が痙攣しかけているのが自覚できる。 「でも、さっき、君が言ったんだ。程度の差で、差別されているって。だったら、君だって、差別してるぞ。自分より健康な奴らを」
「えぇ、そうよ」 少女は開き直ったかのように頷く。 「見下されるなんてまっぴらだもの。差別を受けるなら、差別したっていいじゃない。あなたみたいなお人好しや、うじうじした障害者達をね」
「違う、君は甘えてるんだ。自分の不幸にね。漫画の読み過ぎだ」 総介は言い放つ。
虚を衝かれたように少女は息を飲み、黙りこくった。
総介は、一呼吸置いて、自らの辛い記憶を辿り、そしてそれを口にした。
「君は、母親を亡くしたことがないだろう?」
少女のシルエットがはっと身じろぎするのが見て取れた。
「あなた……」
「俺が小学生の時、母さんは死んだ。ガンか何かでね。病気は詳しく教えてくれなかったけど、父さんはきっと辛かったんだと思う。未だに教えてくれないよ。俺だって思いっきり泣いたし、いつも勝ち気な姉ちゃんも泣いてた」 総介は俯きかけた顔を上げ、小さくなっていく自分の声を鼓舞するように張り上げた。 「授業参観じゃ、俺だけ親がいなかった。運動会でも、父さんは仕事で忙しいから、独りだった。家に帰っても姉ちゃんは部活でいないから、鍵っ子だったよ。君は、そんな経験をしたことがないだろ? 俺の気持ちなんか……、一切わからないだろ」
少女は答えず、項垂れていた。
「あぁ、本当、不幸自慢ってマジ精神にくるね……、俺もなんでこんなこと喋ってんだろ……、正直参っちまうよ。でも、俺、言いたいんだよ、君に」 総介は必死に言い縋る。 「自分の不幸に甘えて打ちひしがれているだけの奴が、それも君みたいに若い子が、悟りきって見下したような事を言うなよ」
「じゃあ……、じゃあ、どうすればいいのよッ!?」 少女は割れた声で叫び、また咳をした。今度のその発作は激しく、フェンスに手を掛けたまま、ずるずると崩れる。
チャンス、と総介は咄嗟にフェンスに駆け寄ると、持ち前の運動神経でしがみついて乗り越える。怪我の箇所が凄まじく痛んだが、顔を顰めている暇すらなかった。危うげに着地し、僅かな足場で屈む少女の肩に手を掛けたが、乱暴に振り払われた。
少女は苦しげに顔を歪め、咳を続けながら、総介を睨み上げた。間近だったので少女のその整った顔立ちが月明かりの下ではっきり見えた。
あ、やっぱり可愛い。
切羽詰まった状況にも関わらず鼻の下を伸ばした総介であったが、そんな自分に腹が立ち、総介は頭を振った。一瞬、怪訝な顔つきをした少女だったが、すぐに険しい表情へと戻った。
「あなたを何も考えていない人だと決め付けてたのは謝る……」 少女は睨みながら小声で言う。見開いた瞳からは大粒の滴がこぼれていた。 「でも、あなたにはわからないでしょう? この苦しみが。満足に生活することもできない、卑下されるだけの短い人生なんて……」
「そうだ、さっきも言ったけど、俺にはわからない」 総介は相手を遮って言う。 「君の不幸も、死のうと決めた君の決断も、君の人生についても、何もわからない。当然だろ、君にしかわからないことじゃないか、それは。本当は、誰にも理解なんかできっこないんだ。他人の人生なんて」
少女は口を閉ざして、黙々と涙を流しながら総介を睨んでいる。
「……だから、君が本気でじっくり考えた上で、もう死ぬしかないって思えたんだったら、俺は止めないよ。他でもない、君の生死だからな、俺は何も言わない。出来れば今ここでは止めてほしいけど……。でも、もし君が、誰も理解してくれないって嘆いて自暴自棄になっているんだったら、それは絶対に間違ってる」
「じゃあ……、どうすれば……」 少女は先程と同じ問いを、今度は力無く投げかける。
「わからなくて当然なんだ……、君はわかってくれないって泣いているだけだろ。だったら、自分で始めてみろよ。他人をアテにしない、自分だけの人生を。長く生きられないからって、そんなの、いじける理由になるもんか。酷い言葉に聞こえるかもしれないけれど……、死ぬって決められているんなら、自分だけの最高の死に方をしてみろよ。少しでも希望があるなら、手術でもなんでもして、障害を克服してみろよ。死ぬ気だったんだから、失うもんなんて何もないだろ」
こんなに饒舌に話せる自分に驚愕する。そして、話している内に視界が涙で霞んでいたことにも気づいて、深く、静かに、溜息を吐いた。
少女は項垂れて、静かに泣いていた。鼻を啜る音だけが、荒涼とした夜の屋上に響く。
「ごめん……」 総介は無意識の間に詫びていた。
落ち込んでいる時に投げかけられる正論ほど理不尽で、腹が立ち、そして傷つけられるものはないことを彼は知っていた。母を失くした小学生の時分に、幼い心ながらその辛さを総介は味わっていたのだ。
そして今、かつての総介以上の辛酸を、少女は味わっているだろう。
「君にも、思う所はいっぱいあるよな……」
少女は顔を上げず、何の反応も見せなかった。
風の音。
幽玄な月の輪郭。
真鍮のような重力。
沈黙する度、世界には自分達だけが生き残ってしまったのではないかと思える。
「母さんは、笑って死んだよ」 総介はさりげなく涙を拭って、にこやかに言った。その笑みは無理やりに作った物ではなかった。
「え?」 少女は涙にまみれた顔を上げて、戸惑うように聞き返した。
「母さんが死んだのは三十五歳の時でさ、こういう言い方って嫌だけど、儚い人生だったほうだろ? 早過ぎる死って、テレビだとテロップが出るような……、不幸だって言いたくはないけど、まぁ、幸福ではないよな、普通から見て。でも……」
一旦、言葉を切って、総介は息をのみ込む。
フラッシュバックする光景。
活動する生命を圧迫するような、清潔で殺風景な病室。
ベッドに横たわる母の姿と、傍らでリズムを刻む心電図。
右手には父がいて。
左手には姉。
母のすっかり骨張った右手が、自分の頭を弱々しく撫で。
そして。
「笑ったんだ……」
脳裏には、母の笑顔。
あの時は、ただただ悲しくて、気付かなかったが。
そう、母は、笑っていたのだ。
自分の命の瀬戸際で。
その短すぎる一生の最期で。
「母さんは、きっと、充実して生きてきたんだと思う。元々、身体は弱いほうだったらしいけど、それでも、人生を楽しんだんだと思う。あの笑みは、その証だよ」
総介は追憶を止め、足許の少女に目を落とす。少女は息をするのも忘れてしまったかのように彼の顔に見入っていた。
「俺さ……、まぁ、無免許運転して、今かなりやばい事になってんだけど、これでも一応高校生でさ。まだ将来の夢とか、何にも決まってないんだよね。でも……、人生の終わりに、いつやって来るかわからん死の瞬間にも笑えるような、後悔しない、楽しい人生を送りたいって考えてるんだよね。母さんみたいにさ」
総介は少女の視線に何となく気恥かしくなって、頭を掻いた。
「まぁ、最期に笑う為に、これから泣きたくなったり、ムカついたり、君みたいに死にたくなるような、キツイ事がたくさん待っているんだろうけど……、でも、俺は、生きる理由なんかそれだけでいい。最期に笑う為だけに生きたい。自分の理想的な死に方ができるよう生きられれば、それでいい」
少女はいつの間にか顔を逸らし、涙で濡れたまま、怒ったような目線を寝静まった街の景色へと向けていた。夜風が吹き、少女の髪が躍る。それにも気付かないように、少女の表情は動かなかった。
「なんか、語っちゃったね、俺。センスあるかも」 総介はおどけるように言ってから、反応をしない少女に対して気まずさを感じた後、フェンスの向こう側へ引き返した。
骨折箇所を庇いながらの動作は凄まじく辛かったが、なんとか安全圏へと戻ってこられた。再び少女に目を向けると、彼女はこちらに背を向けながらも、ちゃんとそこに座っていてくれた。総介は安堵して胸をなで下ろす。
「あのさ。さっきも言った通り、どうしても死にたいなら、俺は止めないよ。でも、君の考え方次第でいくらでも生き方を変えられると思うんだ、俺」 余計なひと言だろうかと思いつつ、総介は後退する。 「あ、俺、もう部屋に戻るから。じゃ」
そう言って扉を閉めると、総介は今更になって痛み出した全身を奮起させて、階段を下った。外と違って月も星もない病棟の階段は暗く、気をつけなければ足を踏み外してしまいそうだった。
そうだ、煙草を吸いに来たんだっけ……。
当初の目的を思い出した総介だったが、もうどうでもよくなって真っ直ぐに自分のベッドがある部屋へと戻った。毛布にダイブした途端、どっと疲れが押し寄せて、無理をした身体がきりきり悲鳴を上げた。くっつきかけたのがまた悪化しなければいいが、と思う。
あの娘はどうしただろうか。総介はぼんやり考える。
間近で見た彼女の表情に妙な手応えを感じたので、よもやもう飛び降りはしないだろうと総介は確信していた。したら、したまでさ、と総介は心にもない事を心の中で呟く。
そうして、未だ昂揚とした気分のまま、目を瞑っている間に、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。
◇
彼の確信通り、例の少女は自殺を取り止めたらしい。総介が退院するまで、そんな悲劇的なニュースは流れてこなかったからだ。あの翌日、目覚めた時から、自分が放った熱い台詞を思い出して猛烈に恥ずかしくなった。今でも一言一句再現しようとすると顔から火が出そうだ。
総介は自分のベッドにあった荷物を片づけ終え、父親の迎えを待っていた。これから学校や警察にも出頭しなければいけないから気が重い。そんな彼を、美人看護婦の坂本さんが背中を叩いて叱咤した。
「ほらほら、自分のケツくらい拭く覚悟持ちなさいよ、少年!」
「痛ぇって! 脊髄骨折する!」 総介は仰け反りながら、ぴょんぴょん跳ねた。
坂本さんはけらけら笑った。
二人は既に病室を出て、ロビーの外に出ていた。その時になってようやく総介は退院の実感が湧き、元はと言えば己の所為であるにも関わらず、見えない圧力からの解放を感じた。太陽の下を歩くのも随分久しぶりな気がする。新緑の匂いがわずかに混ざる澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、病院の敷地に茂る青葉の輝きを目に映して、彼は季節というものをたっぷり堪能した。
そう、これでこそ人間!
これでこそ十七歳!
後は、可愛い彼女さえいたら!
そう考えた所で、彼は三日前の晩に出逢った例の少女を思い出し、それとなく坂上さんに尋ねた。
「ずっと入院している女の子?」 坂上さんは首を傾げる。
「ほら、なんか……、生まれつき、呼吸器官が弱くて、俺と同じくらいの年齢の……、いるっしょ?」
うーん、と坂上さんが記憶を反芻している間、総介はもしや幽霊だったのではなかろうな、と腹の底が冷たくなる思いをして待っていた。
やがて、「あぁ」と坂上さんの顔に光輝が浮かび、うんうん頷いた。
「いるいる、いるよ。ずっとこの病院にいたわけじゃないけど、病院を転々としてる女の子。確か、安住さんの娘さん。可愛い子でしょう?」
ほっと安心して、総介は最後にその子に会えないかと懇願してみる。
「何々、どこで知り合ったのよ、あんた」 坂上さんはニヤニヤしながら訊く。 「一目惚れでもしちゃったの?」
「ちげぇし! 断じてちげぇし! いや、照れ隠しじゃねぇっての!」
ぎゃあぎゃあ喚き合っている内に、坂上さんがふと気付いたように視線を逸らす。中庭に通じる方の道のベンチを見つめて、総介に振り向いて指した。
「ほら、あの子でしょ、総介君が言ってるの。この時間帯は、あの子、外に出て本を読んでいるのよ」
促されて見ると、確かにあの少女が座っていた。背後に一本だけ木を据える赤茶色のベンチに腰掛け、木漏れ日に当たりながら文庫本をめくっていた。微風に揺れる長い黒髪もちゃんとあった。
「ちょっと……、知り合いだから、二人で話させてくれよ」 総介は坂上さんに念を押してから、そちらへと歩み寄った。
声を掛ける前に、少女ははっと気付いて本から顔を上げた。屋上の闇の中でも確認できた整った顔が驚きを浮かべている。座っている彼女の前へ総介は立った。
「よかった、ちゃんと生きてた」 皮肉ではなく、むしろ安心した気持ちを示す為に総介は微笑んで言った。
「えぇ、お陰さまで……」 少女は屋上で対峙した時とは別人のように、細く小さい声で返した。
しばらく、無言。
いざ顔を合わせてみると、妙な気恥かしさが総介を支配した。後ろで坂本さんが忍び笑いをしているのが見ずともわかる。
「あの……」 少女は立ち上がって、手を前に組んで深々と頭を下げた。 「あの時は、ごめんなさい。それと、ありがとう。わたし、あの後、あなたに言われたことをずっと考えていたわ」
「そう……」 ぎこちなく総介は頷いた。 「いや、我ながら名演説だったと思うけどね、面と向かうとなんか恥ずかしいんだな、これが」
少女はくすりと微笑み、軽い咳を二度した。
「ううん、恥じらう事なんてないわ。わたし、あなたの言葉に救われたのよ。生きるっていうのがどういうことか、ハンディを背負った自分が何をすべきか、あなたに教えてもらったのよ」
「いやぁ……」 総介は照れて赤面し、頭を掻く。
「本当に、ありがとう」 少女はもう一度言う。 「わたし、もう絶対、あんな真似しないわ。たとえ人より早く終ろうとも、人生の最期に笑えるように、精一杯生きようって決めたの。学校にも復帰できるよう、頑張るわ」
「うん……、そのほうがいい。そっちのほうが、死ぬよりかは楽しいよ」 総介は快活に微笑んで見せる。 「いやぁ、しかし、君よくあのフェンス登れたね。運動できないんだろ?」
「あ……、えっと、知らなかっただろうけど、あの屋上、フェンスの扉も壊れているのよ。階段口の脇にあったんだけど」
「えぇっ、ちょっ、そういう事は早く言ってくれよ! 俺、骨折してたのにあれ乗り越えて、翌日からもう痛いのなんのって……」
少女は、今度は声を漏らして笑った。そんな彼女の笑顔を見て、総介も不思議と楽しくなって一緒に笑った。そして、互いに笑いが収まった途端、総介は緊張し出す。
「あ、あのさ……」 総介は言葉を探しながら言う。 「君、携帯持ってたりする?」
「う、うん……」 少女も意図を察したのか、恥じらうように目線を伏せてこくりと頷く。 「前に、いつでも話せるようにってお母さんが持たせてくれたの」
「あ、じゃあさ! 連絡先、交換しようぜ!」 総介はほとんど捨て身の精神で提案する。本当はそれが目的だった。 「ずっと病院にいたら退屈でしょうがないだろ? 俺、毎日励ましメール送るし、淋しくなったら電話も受けるし、時々、君のこと見舞いに行くからさ!」
少女は戸惑ったように目を開きながらも、赤くなった愛らしい顔に微笑を湛えて頷いた。
「うん……、ありがとう。すごく嬉しい」 そして、照れ隠しのように、えへへと笑う。
あぁ、生きているって素晴らしい事かもしれない!
警察上等!
退学上等!
何でもこいや! 俺は今、幸せだ!
総介は大空に向かって思いっきり飛び跳ねたくなったが、すんでの所で思い留まり、肝心なことを思い出した。
「そうだ、名前……」
「あ……、そうだね、そういえば知らなかった」 少女も気づいて頷く。
「俺、雨宮総介。総介でいいよ」
「あ、わたし、安住かなえ……」
「え?」 総介は仰天して、目を見開いた。
かなえ。
それは、彼の母親と同じ名前だった。
切なく、胸を締め付けられるような感情が一瞬だけよぎったが、総介は気を取り直して微笑んだ。
「かなえ、か。いい名前だね」
「総介くんも、ね」 かなえは、生きていく上で重いハンディを背負った人間だとは到底思わせないほど、爛漫に微笑んでみせた。
こっちのほうが可愛いな、と総介はやはり鼻の下を伸ばしてそれを眺めるのであった。
総介の今年の春は、周囲からは無為に終わりを見せたかのようだったが、その充実は彼のみが知るものとなった。
今年はもう散ってしまったが、願わくば来年にでも彼女と一緒に桜を見たい、と総介は早過ぎる計画をして、助手席でふふふと笑った。父親は暗澹と警察署へ車を走らせながら、気味が悪そうに隣の息子を眺める。
「お前、ひょっとして頭も打ったんじゃないか?」
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