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作品ID:447
こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。
文字数約14492文字 読了時間約8分 原稿用紙約19枚
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Night Paradise
作品紹介
夜、都会、謎の集団、鬼ごっこ 原曲・SPECIAL OTHERS
月明かりの眩い、ふんわりした夜のことだった。
僕はミキコと連れ立って、下北沢駅南口付近にあるカレー屋へ来ていた。平日の深夜ということもあり、店内に見える客は疎らで淋しげだったが、しかし、そんな閑古鳥が鳴くような景色には似つかわしくないくらい、ここのカレーは絶品だった。僕も、それにお喋り好きのミキコもしばらくは黙り合って、それぞれの逸品に舌鼓を打っていたほどだ。
「下北に引っ越してよかった」 ミキコは満足げに笑って言った。
ミキコはキャンパスが変わったのを機に実家を出て、この近辺のアパートで一人暮らしを始めた。そこで僕は今日、彼女の荷物整理を手伝ってやったわけだが、それが思いがけず長丁場となってしまったので、二人で遅めの夕飯を食べにふらりと出てきた、という次第だ。
食べ終わって、心地よい満腹感を味わいながら煙草を吸っていると、ミキコが突然、妙な話を始めた。
「ねぇ、『ブラック・ウォーカー』って知ってる? 大学の友達から聞いたんだけど」
もちろん、聞き馴染みのないその単語に僕は眉を上げた。
「なに?」
「Black Walker」 今度は流暢な英語の発音で答えた。
「ブラック・ウォーカー? なに、それ、サイボーグ009?」
「それはブラック・ゴースト」
「ナイスなツッコミ、ありがとう」 僕は煙を深く吸い込む。 「で、なんなの、それ?」
「うーん、よくわかんないんだけど、最近評判になってる集団なんだって。夜の下北で活動しているらしいんだけど、マントと変な仮面をつけていて、それが何人かいるらしいんだ。それで、真夜中に鬼ごっこしているんだって」
要領を全く得ないその説明に僕はしばらく思考停止して、漂う煙の向こうにあるミキコの顔を眺めた。
「怖いな、それ」 僕は灰皿で火を揉み消す。 「何の目的があるの?」
「わかんないんだってば。でも、よくあるでしょ、そういうの。ほら、大道芸っていうの? あと、秘密組織とか?」
いや、全然違うだろ、と僕は胸の内で呟く。
わずかな好奇が働くばかりの、しかし、どうでもいい話として、僕の内側では仕分けが始まっていた。遠い発展途上国の内紛か、あるいは夕方のニュースで紹介される流行りの店ほどの価値しかない話に思えた。
だが、玩具売り場をうろつく子供のような微笑みが彼女の顔に輝いているのを見つけて、僕はげんなりしてしまった。
ミキコはこういった不可思議な話題をこよなく愛していた。少し前まで、当時流行っていた都市伝説モノの本を愛読していたほどである。陰謀説や秘密組織なるものに熱を上げ、自分を取り巻く日常の中で少しでもそういった話の影が見えるやいなや、大きく開いた愛らしい瞳を無垢に煌めかせて飛びこんで行く猛者だ。
「一つ聞きたいんだけどさ」 僕はそれとなく忠告の意も込めて訊ねる。 「もし、そういう連中が本当にいるとしてだよ。いや、噂になっているくらいなんだから、それっぽいのは本当にいるかもしれないね。アスリートかなんかの人達でさ。だけど、そういう人達がわざわざ真夜中に集まっているのを偶然にも発見したら、君はどうするつもりなの?」
「そりゃもちろん、徹底的に追いかけるよ」
「いやいや、おかしい、その発想はおかしい」
「なんで? 面白そうでしょ。夜の街で、しかもコスプレしながら鬼ごっこしてる人達なんて。ぜひとも捕まえて真相を聞きたいと思わない?」 艶やかな黒髪を耳に掛けながら彼女は好戦的な口調で言う。
僕は溜息をついて、苦笑を浮かべた。
「あのね、ミキコ様。あなたはもう、逞しいご両親がおわしますお家で暮らすお姫様じゃないのですよ。ここは世田谷区下北沢なの。思いっきり都会なの。ただでさえ、女の子の一人暮らしは危険なの。面白そうだからって、深く考えずに首を突っ込んじゃいけないの。わかる? 彼氏である僕の言っている意味、わかる?」
「ハルくんのそういう口煩いところ、あたし結構好き。愛されてるって感じでさ」
屈託なく笑ってそんな恥ずかしいことを言うミキコに対し、むしろ僕の方が顔から火を吹きそうになった。
「でもさ、時々思うんだけど、そういう生き方ってつまんなくない? わざわざ自分から面白いことを取り除いていくみたいでさ。楽しいのに」 彼女は水を一口飲んでから、小首を傾げて訊ねた。 「わからないこととか、知ってみたいって思わない?」
僕は思い掛けない質問に面食らい、口を噤んでしまった。
危機意識の薄い彼女への反感がむらむら立ち上り、必死に反論の言葉を考えたが、結局それが口に出る事はなかった。わけのわからぬ虚しさばかりが残る。
カレー屋を出たのは、それから十分足らずのことであった。
◇
いくら人口過密都市と言っても、二月の夜風は恐ろしく冷たい。僕はぶ厚いジャンパーのポケットに手を収め、ミキコは首を竦めてマフラーへ顔を埋めていた。終電が過ぎている為、下北沢独特の狭く入り組んだ路地に人影はほとんど見当たらない。昼間は混雑して騒がしいものの、夜が更ければ街はずいぶん淋しい光景になる。両脇に並ぶ店の明かりの数も何軒か減っていた。
「大丈夫? 送って行こうか?」
「平気だってば。すぐそこだもん」 ミキコは食後の上気した顔を上げて、首を振った。 「今日は手伝ってくれてありがとね。今度はハルくんの部屋、掃除しにいくから」
まるで遊園地のマスコットのように大きく手を振って、爛漫な笑顔と共に彼女は夜道を行ってしまう。僕は力無く手を振り返して、彼女が角を曲がるまで見守るだけであった。
家路へと歩き出した僕は、一度コンビニに寄って切れていた煙草を買う。封を空けて一本銜えながら、銀の月が浮かぶ夜空をぼんやり眺めて歩いた。風が吹く度に僕の身体は丸まるように縮み込む。夜道はどこまでも静かだった。
頭の中では、ミキコが放った質問がぐるぐると回っていた。もちろん、彼女は何気なく言ったに過ぎなかったのだろう。しかし、僕は内心穏やかではなかった。
繰り返される平凡な日常。入学した頃のわくわくは消え失せ、かと言って就職活動まではまだまだ長い日が残されている期間。だらだらと、適度に、単位を落とさぬように、あるいはバイト先で周囲からの不信を買わぬようにして、時々、決まった友人達と決まった遊びを挟むだけの、なんとなく過ぎ去っていく空虚な時間。
温室のような平穏。
それが僕を腐らせる錯覚。
刺激を拒絶する、化石のような精神。
そう、ミキコが言ったことに、心当たりがないわけではなかった。
だからこそ、僕は言葉に詰まってしまい、あろうことか、恥辱の仕打ちを受けたような憤りを胸に募らせてしまったのだ。
僕だって、何もすき好んで口煩くなったわけではない。
本当は、退屈な毎日について、しょっちゅう考えている。
自分は何の為にこうしているのか。
このままでいいのか。
このまま、何事もなく。
山もなく、谷もなく。
一般の型にはまった人生を送るだけで、いいのだろうか。
そういった漠然とした疑問を、幾つも、幾つも……。
「あー……」
短くなった煙草を投げ捨て、冷たい夜風を胸いっぱいに吸いこんでから、熱を帯びた頬に両手を当てる。
これは、あれである。
かつて中学、高校時代に患った、あの忌まわしき悪病の名残である。
あの頃とは違う醒めた自意識が僕の頭をクリアにし、うだうだ思い悩んでいた自分に対して羞恥を感じた。
これが、正常だろう。
社会適合の為の無駄がない機能。
もうやめろ、自分へ語りかけるのは!
恥ずかしい奴め!
死ね!
そうして顔を上げた時だった。
僕の視界の中で何かが動き、思わず脚を止めた。
◇
最初は道路工事か何かの警備員かと思った。しかし、すぐにその異様な風体を認めて違うということがわかった。
僕の位置から十メートルほど先にあるT字路の街灯の下、僕の行先に立ちはだかるようにして、大男が立っていた。否、男であるかどうかはわからない。大柄なのは確かである。というのも、その人物は身体全体をマントですっぽり覆い隠し、顔には南蛮古来の悪魔を彷彿させる奇妙な仮面をつけていたからだ。
不思議と僕は冷静だった。
既に周囲は明るい店が連なるストリートから、住宅が密集する路地へと変わっている。襲われてもきっと助けは期待できないだろう。通りがかる人の姿も見えないし、照明で明るい窓の家も確認できない。そんな状況にも関わらず、僕の鼓動はいたって平静であったし、身体が強張りもしなかった。ただ、安易に動く気になれなかったのも事実である。
仮面の人物はこちらをじっと凝視しているようであったが、ただそこに佇んでいるだけのようにも思えた。僕は息を潜めるようにして、その人物を観察した。
間違いなく、ミキコが先程話していた『ブラック・ウォーカー』なる集団の一員であろう。
まさか本当に、彼女が言った通りの恰好で実在しているとは思わなかった。どこで買ったのか、濃紺の絹のような素材のマントを前後なく纏い、足許すらも見えない。こうして実物を前にするまで、僕はサイボーグ009に登場するスカールをなんとなく想像していたのだが、それよりも遥かに重厚な印象だった。仮面も髑髏などではなく、ジャングルの原住民が被るような、毒々しい色合いと不気味なデザイン。そのサイケデリックな楕円形の表面を、街灯の白い光が滑っている。いったい、どこの国を旅行すればこんな代物が買えるのだろうか。
仮面の人物は身じろぎしたかと思うと、こちらを向いたまま、ゆっくりとした足取りで、隠れるように右手の路地へ消えた。てっきり、攻めかかって来るものと思って身構えていた僕は拍子抜けする一方、警戒を解かず慎重にその後を追ってみた。T字路を右手に曲がると、やはり仮面の男はそこにいて、先程と同じように十メートルほど間隔を空けて前方に佇んでいた。誘うように、仮面は無言でこちらを向いている。
呆然とそちらを見ていると、どこからか、もう一人の仮面が現れた。仮面のデザインが異なるのと身長以外には、大柄の奴と差異はない。全身を覆う濃紺のマントも変わりがなかった。二つの仮面は囁き合うように顔を近づけ、そしてまた無言の内に僕のほうをじっと眺める。
このあまりに不可解かつ不気味で、非現実的かつシュールな光景に、僕は今更のように戸惑い始めた。この妙な状況にこのまま留まって果たして大丈夫なのだろうか、と躊躇いが生まれたのである。
その一方で、僕の中では、期待にも似た関心が徐々に高まりつつあった。
彼らはいったい、何をしているのだろう?
こんな真夜中に、コスプレまでして……。
あぁ、そうだ、鬼ごっことか言っていたっけ。
彼らの挑発的で無機質な目線、平凡な日々に焦燥していた己の内情、先程ミキコの放った言葉が相まって、僕はだんだんと子供のような好奇心を抑えられなくなっていく。得体の知れない存在に対する警報もけたたましく鳴り響いていたが、僕はそれに耳を貸す気には不思議となれなかった。いつもだったら、僕はその警告を最優先とするのに。
僕は威嚇するように一歩、素早く踏み込む。
ほぼ同時に、彼らが後ずさった。サバンナのチーターとシマウマの図を僕は連想した。
どうする?
しかし、僕の中では既に答えが出ていた。
ゆっくりと。
気付かれないように深呼吸。
鼓動はいつの間にか、程良い緊張を示している。
一度瞬きし。
両脚には脱力を……。
もう一度だけ、深呼吸。
位置について……。
そして。
呼吸を止め。
目を開く。
よーい……。
ドン!
僕は石火の如く、標的に向かってダッシュした。
仮面の二人は不意を衝かれたように姿勢を崩し、一瞬のロスがあったものの、くるりと向こうに振り返って駆け始めた。
なるほど、僕が鬼というわけか。
全身をフル稼働させ、逃げる彼らを追いながら、僕は直感した。
厚ぼったい恰好をしているにも関わらず、彼らは意外と俊足であった。僕の全力疾走とほぼ互角である。ただし、今まで幽霊のように佇んでいた不気味な姿とは裏腹に、走って逃げる姿はどこまでも人間臭かった。
マントの裾の間から、ちらりと靴が見える。
「この野郎、スニーカー履いてやがるな!」 僕は意味もなく叫んでやった。
そうだ。相手は幽霊でも、妖怪でも、ましてやサイボーグでもない。僕と同じ、生身の、暇人達なのだ。そう考えると、負けるわけにはいかない、という闘争心がもこもこ膨らんできた。
走り出してからすぐに二又の道が現れる。相手は二手に分かれる作戦を選んだらしく、右を大柄な仮面が向かっていき、左を中背の仮面が駆けていく。中背のほうが大柄と比べてダッシュが若干遅かったので、僕はだんだん距離を縮めていたそちらを追った。
既に周囲の景色は視界にない。街灯の並びが途切れがちな薄闇の中、僕は相手の異様な背中だけを凝視して走っていた。
しかし、目標がぐんぐん迫ってきて、あと少しで捕まえられる、というところで思わぬ邪魔が入った。
僕と仮面の間を、小柄な影が滑り込んできたのだ。僕は驚きのあまり、急停止し、バランスを崩して転んでしまった。受け身をとった際、手を擦り剥いたが、それほど痛くはなかった。くらくらする頭を上げて睨むと、中背の仮面は既にかなり離れた場所にいて、がらんとした道の真ん中で膝に手を当てて喘いでいた。
小柄な影の主はというと、こいつも、奴らの仲間……、そう、『ブラック・ウォーカー』の一員であった。マントも仮面の趣味も全く同じだ。中学生くらいの背丈で、仮面の後ろからは茶色のふんわりした短髪が覗いている。身体のラインはもちろん見えないが、なんとなく、男の勘で、そいつが女だというのがわかった。その小柄な奴の背後にはさらに二人、新しく現れた仮面達が控えていた。片一方は能面をつけ、もう一方は狐面をつけている。
久しぶりの疾走にぜぇぜぇ呼吸を繰り返しながら立ち上がると、彼らは容赦なく後退りする。充分な距離を取ってから、沈黙のままに僕を眺めた。
「ちょ、ちょっとタンマ……」 僕は息も切れ切れに嘆願する。友達か、と自分につっこんだ。
のっぺりした能面の奴が、「鬼さん、こちら」とでも言うように手を叩いた。どこからか、嘲笑に似た息の漏れる音。
萎えかけていた僕の闘志が、再び燃え上がった。
「こぉの、変態どもがァッ!」
呼吸も整わぬ内に再び駆け出す。新しく現れた三人と離れて見ていた中背の仮面も、ほぼ同時に動き出した。僕はがむしゃらに、顎をすっかり上げながら走った。スタミナを激しく消耗しているのが自分でわかった。
◇
結局、誰も捕まえることができず、僕が人気のない道路の真ん中にへたりこんだのは十分後。いつの間にか、小田急線のアートちっくな高架下をくぐって、逆口へと出ていた。この辺りまで来ると、いよいよ静寂に包まれている。街灯の灯以外は、夜更かししているらしい住民の部屋の明かりがマンションの側面にぽつぽつあるだけだ。しかし、遥か頭上に浮かぶ月が明るいので、視界はそんなに悪くない。
今や、全身から汗が迸っている。自分の顔から湯気が昇っているのがわかった。ジャンパーを脱ぎ、セーターの袖を捲し上げてもまだ暑い。あれほど凶暴に感じていた夜の冷気が、今はひんやりと優しかった。顎先に垂れていた汗を拭う。さっき擦りむいた掌には、薄く血が滲んでいた。意識すると痛い。
ひゅうひゅう喘ぎながら辺りを見回すと、マンション近くの植え込みから、狐面の奴がこちらを窺っていた。もちろん、無表情に(当然だが)、音もなく佇んでいる。が、きっとその下では僕と同じように滝汗をかいていることだろう。
いたちごっこに似た追走劇を繰り広げながらも、僕はこのゲームを取り巻くある法則に気付いていた。それは、僕が脚を止めようがへたりこもうが、視線を巡らせば必ず、仮面のうちの一人が視界に映るということであった。最初は何も考えていなかったが、だんだん、彼らが意図的にそれをしているということに気付いたのだ。つまり、常に僕のことを監視しているのである。完全に逃げ切るスタンスではないのだ。
もう一つ、気付いたことがある。それは、僕がふとした拍子に(状況打開を願っての、特に考えもない奇策の為に)、脚を止めて、「あぁ、もうやってらんないや」というような不貞腐れた雰囲気で踵を返し始めると、後ろに回っていた仮面の一人が露骨にサービス精神を発揮して、ぎりぎりまで近付いてくるのだ。「え、もう帰っちゃうの? 今なら捕まえられる距離かもよ」という、ありがた迷惑な情けをくれるのである。もちろん、無言のうちに。(そして、人をなめくさったようなその態度を見せつけられる度、僕は激昂して必死に追いかけてしまうのだ)
一見すると意味不明の集団であるが、これらの習性を鑑みると、段々と彼らの意図が明確になってくる。彼らは、僕から「逃げたい」というわけでは決してなく、僕と「追いかけっこをしたい」という意思に基づいてこのような、動機の不可解なことをしているのだ。つまり、意味不明であるのには結局変わりない。
ミキコが話していた噂話についても考慮すると、鬼役は夜毎、無差別に選ばれているのだと推測される。そして、今夜はたまたま僕がそれに選ばれたわけだ。噂が広がったのは、僕のように鬼役を経験したか、あるいはその様子を目撃した者達が多数存在する為であろう。
仮面集団、つまり『ブラック・ウォーカー』に関して、迷惑千万な連中だとは思う。しかし、初めて遭遇した時に抱いた危険な印象は既になかった。断定はできないが、危害を加えられるようなことはきっとない。雰囲気で、なんとなくそう思えるのだ。そもそも、彼らは奇抜な衣装に身を包んで集まっているだけのことで、最終的に追いかけているのは他でもない、僕のほうなのだ。色々と策を巡らしている気がするものの、最終的な意思決定は鬼役に託されているのだ。警察に尋問されても、きっと僕が不利になるに違いない。よくはわからないが……。
思考を整理していると、呼吸が整ってきた。
もはや不気味さは感じない。むしろ、阿呆らしさが頭をもたげている感じが否めない。それでもなんとか、一人でも捕まえてやりたかった。そうしなければ、なんとなく、自分に負けてしまいそうな気がしたからだ。道の真ん中に座りこんでいる僕を不審がるように、若いカップルが通り過ぎていく。恥ずかしがっている場合でもない。こちらは必死なのだ。
あぁ、ミキコをこの場に呼んでやりたい。
彼女ならきっとこの状況に驚喜して、たとえ裸足ででも彼らと死闘を尽くしてくれるだろう。そんなイメージが、簡単に湧き起こった。
今までの僕は彼女のそういった、ある種、好戦的で愉快主義の人生観を否定する位置にあった。保守的、あるいは慎重派とでも言うのだろうか。もちろん、今でもそうであるし、そのスタンスが間違っているとは決して考えていない。人それぞれのスタンスがあって、そのどれもが正しくないし、間違ってもいないのだ。合うか、合わないか、それだけの問題である。
「しかし、だ……」 僕の口から独り言が漏れる。立ち上がって、ストレッチ紛いのことをしてみた。
否定するのは、きっと間違っていると思えた。僕はミキコのように興味ある対象にがっついていくような生き方は恐らく出来ない。でも、出来ないからと言って、わからないからと言って、それを打ち消してしまえる権利などないのだ。拾って眺めてみるのもたまには良いだろう。新たな発見があるかもしれない。毒でも薬でも、認めることは誰にだってできるはずだ。
このような考えに自ずと至れただけでも、今回の追走劇を演じた価値はあったかもしれない。ここまで得たのなら、どうか一人だけでも捕まえたい。事の真相を聞き出したい。そして、僕に清冽な勝利を。
マンションに沿った暗い道から大柄の仮面が現れた。
そいつを目にした瞬間から、僕の頭からは言葉が消える。
様々な感情が流れ込み、僕は興奮し始める。
再開といこう。
次は絶対に捕まえてやる。
◇
『ブラック・ウォーカー』の一団は、全員で五人存在することが確認できていた。
ここで各々の呼称と仮面の特徴、諸々のステータスのまとめを登場順に、簡潔に記す。
・『大柄の奴』――、極彩色で悪魔を彷彿とさせる原住民風の仮面。体力がある。
・『中背の奴』――、ピエロのような、白を基調とした西洋風の仮面。バテやすい。
・『小柄の奴』――、太陽の塔の顔をそのままデザインした仮面。機敏な動きが得意。
・『能面』――、やや不気味な、のっぺりした面。挑発的な仕草が多く、腹が立つ。
・『狐面』――、よく見かける、鼻が少し突き出た面。恐らく五人の中で一番速い。
大柄の奴は、その鈍重そうな丸太の如き体躯に反して、意外と足が速い。スピードだけなら到底敵わないというわけでもないが、相手のスタミナが尋常ではないのだ。まともにやって追いつける相手ではなかった。きっと、普段からスポーツをやっている人物に違いない。先程まで植え込みから僕を監視していた狐面の奴も、走りのフォームからしてとんでもなく速かった。この二人を相手にするのはもう諦めたほうがいい。
逆に可能性が一番残されているのは、最初の方で取り逃がしてしまった中背の奴だ。一番洒落た仮面をつけているにも関わらず(関係無いが)、スタミナに難ありと見えて結構バテがちだ。スピードも徐々に落ちてきているので、長期戦に持ち込めばなんとかなるか。しかし、充分に距離を取られるのでなかなか苦労するに違いない。僕もスタミナに自信があるというわけではなかった。
残る二人についても、まあまあ望みはあった。小柄の奴は反応が俊敏で動きもちょこまかと厄介なものの、直線走行なら負けはしないだろう。能面もそこまで速いというわけではない。ただ、馬鹿にするような仕草で翻弄してくるので、僕も冷静ではいられなくなる。撹乱することが目的なのだろうか? 個人的にはこいつを一番捕まえたかった。
◇
時が経つにつれ、何故こんなことをしているのだろう、という冷静な自問がよぎるのが多くなっていたが、あえて僕はそれを無視し、戦略の為に多少、頭を使い始めていた。
大柄の奴、狐面相手では端から勝負にはならないが、それを追っていると見せかけて、方向転換、近くで傍観している残りの連中の油断をついて仕掛けるという戦法だ。単純で効率も悪いが、それでも二度ほど惜しいところまで追い詰めた。中背の奴に関してはあと一歩の距離で触れられそうだったのだ。しかし、やはりこれではスタミナが大幅に削られる。負担が大きい。これを試してから、他の連中も警戒してあまり近くまで寄らなくなった。
能面がリズミカルに手を叩いている。その表面の下では嘲笑していることだろう。そちらを睨みつけ、逡巡してからダッシュする。腹が立つが、相手の反応は抜群に良い。充分な間隔を空けたまま、そいつも走り出してしまった。
僕は既にジャンパーもセーターも着ていない。少し心配だったが、近辺の公園の草の茂みに隠しておいた。剥き出しの薄着はバケツの水でも被ったかのように湿っていて、湯気が出ている。寒くはなかった。僕は今や本気でこの阿呆なゲームに取り組んでいるのだ。
能面にまかれ、諦めて時計を見ると、開始から一時間近く経っているのに気付いて愕然とする。もうこんなに経ったのか、だとか、俺は何をやっているのだ、というような感情ではなく、まだそれ程しか経っていないという事実に驚いたのだ。もう、二、三時間はやっているような気がしていた。
僕も、そして奴らも、随分と暇人だ。ミキコはもう寝ただろうか。電話してやろうか。あぁ、明日は大学だ。きっと大変だ。休みたい。もう休んじまうか。荒い呼吸を繰り返しながら、そんな取り留めのないことを考えた。
小柄の奴が建物の陰から飛び出してくる。僕は息を止めて駆け出した。手摺りを跳ぶように乗り越え、その後を追う。立体駐車場の近くであったが、すぐに見失ってしまった。
悪態を吐きながら膝に手をつき、とめどなく流れる汗を拭った。しばらく、息を潜めるように立ち尽くしていた。きっと、どこかで僕を見ている奴がいるはずだ。あまり無様な姿を見せたくなかった。
その時、人の話し声がした。囁き合うような声で、喘息めいた息遣いも聞こえてくる。
僕はそっと物陰に寄って息を殺した。話し声は立体駐車場の中から、打ちっ放しのコンクリートに反響して聞こえる。
「あぁ、もう、嫌になっちゃうな」 高い、しかし男の声だ。 「絶対、筋肉痛になるよ、これ」
「気をつけろ。お前、たぶんマークされてるぞ」 こちらは野太く、低く抑えた声だ。
僕はこっそりと、忍び足で駐車場の建物へと入る。幾つも並んだ白い蛍光灯が眩しく思えた。壁伝いに、声の方向へと進む。
「もう捕まって終わりでいいんじゃないかな。言いだしたのって梶原でしょ? いつ終わるとか聞いてないの?」
「いや、知らん。電話で聞いてみるか? ……しかし、隠れているのが、着信音でバレたら悪いかな」
「おいおい、なにマジになってるんだよ、こんなわけのわからん遊びに。この仮面、息苦しいし、マントも邪魔だし、もうふらふらだよ」
「俺は結構、面白いけどな」
「でも、やりすぎると警察来るぞ? そろそろやめたほうが……」
そこへ、忍ぶような声が参加した。女の声だ。
「ちょっと、お前ら。もう少し小さい声で喋れよ。相手に聞こえるだろ。この近くにいるんだから」
「え、マジで?」
「今、すぐそこでまいてやったとこ」 女が答える。恐らく、小柄の奴だろう。子供っぽい声で、息を荒くしていた。
「梶原は?」
「さぁ、たぶん、外に……」
そこで僕は、自分でも信じられないくらい間抜けだと思うが、会話に聞き入るあまり、足許に放置されていたスチールの空き缶に気付かず、蹴飛ばしてしまった。反響音が過剰なほど響く。
息を呑むような沈黙。
僕はその場に硬直していたが、意を決して、潜んでいた角から飛び出た。予想通り、十五メートルほど先に三人の仮面……、小柄な奴、大柄な奴、それに中背の奴もいた。彼らは今までで一番慌てた素振りで身を翻し、散らばるように駆けて行った。僕は迷わず中背の奴を追いかける。ばたばたと喧しい足音が駐車場内に響き渡った。
中背の奴は行き止まりにぶつかると、フェンスを乗り越えて歩道へと出る。僕も、後を追って同じように乗り越えた。ここでだいぶ体力を消費。相手は既に反対側の歩道を駆けていて、僕もそちらへ向かおうとしたのだが、やってきたタクシーと危うくぶつかりそうになって踏み止まった。盛大にクラクションを鳴らされるも、僕は無視して、今度は立体駐車場の入口へ急いで回る。他に大柄の奴、小柄の奴が出てくるかもしれないと考えたからだ。
やはり、その二人がいた。こちらを視認するなり、またも全速力で行ってしまう。しかし、今までよりかはずっと近距離。僕も意地で、ひたすら彼らを追った。
何も考えず、無我夢中に。
「これは試練なのだ」
「戦いなのだ」
そんな気焔の声が、僕の内側から響く。
息も出来ないほど苦しい。
心臓が張り裂けそうだ。
昔読んだ『走れメロス』の主人公の気持ちがわかった気がする。友人を磔にしたわけではないが……。
マントの背中が近い。
小柄な奴だ。
これくらいの距離とタイミングで、折れ曲がるはず。
僕は動きを予測して、右へ跳ぶ。
ほぼ同時に、奴も同じ進路へ。
捕まえた!
僕は崩れかかった姿勢で、手を伸ばす。
しかし。
無情にも、僕が掴んだのは虚空の感触だけだった。
奴は反復横跳びのように、左へ身体を逸らしていたのだ。
すごい芸当だな、おい。
僕は地面に衝突する直前、そう思った。
鈍い衝撃。
僕は、路上で派手にすっ転んだ。
◇
冷たいアスファルトが、肌に心地良い。
しかし、腹を殴られたような吐気がしていた。
ぐったりとして、起き上がる気にもなれない。
酸素。
酸素が、足りない。
僕は必死に、緊張した身体を奮起させて、空気を求める。
どれだけ吸い込んで吐いても、息苦しさが止まらなかった。
足音がする。
話声も。
霞んだ視界に、マントに覆われた脚が映った。
地べたから見ると、なかなか迫力がある。
あぁ、世界はこんなにも大きな物で溢れているのだな、とわけのわからぬ真理を一瞬会得した。
「お、おい、やばくね?」 先程の、恐らく中背の奴の声。
「どうした?」
「酸欠か? それとも、どこか打ったか……」 野太い男の声が降ってくる。
これは、恐らく中背と大柄の奴だな、と僕はぼんやりと考えていた。身体に力が入らない。
乱雑な足音が近づく。
「ちょっと! どいて!」 怒ったような、女の声だ。能面か、狐面の奴だろう。
「ご、ごめん、梶原、わたし、別にこんなつもりじゃ……」 こっちの震えた声は小柄の奴だろう。
そう、君は悪くない、と僕はぼんやり考える。
「わかってる、見てたから……。皆、身体起こすから手伝って」
「血、出てない?」
「ううん。擦りむいただけだと思う。でも、酸欠起こしてるかも」
手が僕に近づく感覚。僕を、担いでくれるつもりなのだろう。
しかし。
僕は、唐突に身を起こしてやった。
全員、ぎょっとしたことだろう。
そう、全て演技。
転んだのは、僕の意思によるものだ。
これを、待っていたのだ。
そう、梶原という名を聞いてから……。
気を失ったふりをすれば、必ずこうなるとわかっていた。
気分が悪いのは、まぁ、確かだけど。
目の前には、仰け反った能面の不気味な顔。
あの、忌々しい奴。
こいつが、そうだったのか。
なんて悪趣味な。
「タッチだ」 僕の、掠れた声。
僕は、能面の肩をがっしりと掴み。
その面を剥ぎ取った。
ゴムの切れる音。
ゆるりと流れる黒髪。
呆気にとられたような、梶原ミキコの顔がそこにあった。
◇
下北沢の深夜の公園。仮面の一団と僕は、それぞれ好き勝手な位置に佇み、冷たい缶ジュースを飲んでいた。二月の冷厳な深夜にも関わらず、まるで夏場に飲んでいるかのような美味さだった。
ベンチに腰掛けた僕の顔に、隣のミキコが触れようとする。
「ちょっと、動かないで」
「いや、大丈夫だから……」
ミキコはコンビニで買ってきた絆創膏を貼ろうとしているのである。他の四人の目があったので、僕は恥ずかしくて仕方がなかった。
ミキコを始めとする『ブラック・ウォーカー』の面々は、今や仮面とマントを脱ぎ捨て、ごくごく一般の若者達の姿となっていた。見上げるほどの大男に、ホスト風なルックスの男、眼鏡をかけたインテリっぽい男に、中学生のような外見の女、隣には僕の恋人である梶原ミキコ。それぞれ、大柄の奴、中背の奴、狐面、小柄の奴、そして能面だ。四人は、ミキコと同じ大学に通う学生達で、彼女が所属するオカルト同好会だかなんだかのメンバーでもあるらしい。
「この度は、どうもすいませんでした」 個性がばらばらな四人は、揃って僕に詫びる。
「あ、いえ……、大丈夫ですよ、結構、面白かったし。逆に、ミキコが迷惑かけたみたいで、こちらこそすいません」
ほぅ、とホスト風の男が感嘆するように頷いた。 「この寛大な懐があって初めて、梶原の彼氏が務まるわけか」
いったい、ミキコがどれだけ風雲児扱いされているのか、違う大学へ通う僕にはわからない。しかし、だいたい予想はできた。
「ごめんね、ハルくん」 いつになくしおらしい顔で、ミキコが謝る。
「別に、いいよ」 僕はそっぽを向く。
しかし、不機嫌なわけではなかった。むしろ、気分は最高に晴れ晴れとしていた。そっぽを向いたのは、漏れ出てくる笑みを隠す為だ。
「しかし、まさか君が噂の人物の張本人とはね。全く予想できなかったよ」
「ハルくんに楽しんでもらおうと思って……」
「どうもありがとう」 僕は素っ気なく言って、煙草の箱をズボンから取り出す。汗で湿っていた。 「最高に楽しかったよ」
「怒ってる?」
「いや」 僕は堪え切れずに吹き出して、首を振った。突然、何もかも可笑しく思えたのだ。
残りの四人は気を利かしてくれたのか、僕達の座るベンチから離れた場所で、何やらわいわい騒いでいた。彼らも、寒さを感じる余裕がなくなっているのだろう。
「あたし、その……、ハルくんは絶対、追いかけてくれないなって思ってた。だから、びっくりして、あたし達もつい調子に乗っちゃった」
「そりゃ良かったね」
「ごめんね。息抜きとか、サプライズとか、そんな感じのイベントになればいいなぁって思ってたんだけど……」
息抜きどころか酸欠だよ、と言おうとして、可笑しくなってまた笑ってしまった。煙草の煙が大量に漏れ出る。
「あの、ハルくん……、大丈夫?」
「うん、大丈夫。全然大丈夫。ただ、少しハイになってるだけ」 僕は勢いよく煙を吐きだした。緩く風に乗って、夜の透明な空気に溶けていく。
不思議と楽しくて、そして穏やかな気分だった。あれだけ阿呆らしいと思っていたのに、妙な手応えがずっと身体の内側に残っている感じだった。こんな感覚は、随分久しぶりである。それだけ、本気だったということだろう。いつ以来だろうか?
「ハルくんは、もっと人生を楽しんだほうがいい」 突然、ミキコが微笑んで言う。 「そういうのを知ってもらおうと思って、今回の企画を立ち上げたんだよ。あの四人に協力してもらって」
それが本当なら、彼女の企画はこの上ない成果を挙げたことになるだろう。否、人生というほど大袈裟ではなくても、この夜を存分に楽しんだのは間違いない。
公園の中央ではしゃいでいる四人を眺めていると、夜の底の楽園で遊ぶ子供達のようにも見えた。しばらく、僕達は仮面を外した彼らの姿を見つめる。
「まぁ、これで……、また噂されるね、君達も」
「そうかもね。本当に噂になるかもね、今夜の事をきっかけに」
「は? どういうこと?」 僕は彼女の横顔を見る。
「噂になってるっていうのは嘘だよ」 ミキコはこちらを向いて悪戯っぽく笑った。 「ハル君を騙す為に、カレー屋さんではそう言ったの。あんな変な恰好して鬼ごっこしたの、今日が初めてだよ」
僕はしばらく、呆れて物も言えなかった。
何もそこまで手の込んだことしなくたって、と言いかけて、やっぱり止めておいた。
それが、ミキコとしては楽しいのだろう。
その趣向を否定することはできない。
理解するのにも少々、時間が掛かるだろうが……。
でも、きっと、楽しいのだろうな、ということはわかる。
それだけわかれば、上等だろう。
それだけわかれば、充分だろう。
「さて、初のお披露目、『ブラック・ウォーカー』についての感想は?」 ミキコが上機嫌な口振りで訊ねる。
「『ブラック・ランナー』に改名したほうがいいよ」 僕は即答する。 「走らされていた時はずっとそう思っていた」
彼女は小さく声を漏らして微笑んだ。
明日には僕も彼女も、きっと筋肉痛だろう。
ふんわりした夜の終わりでは、そんな予感がずっとしていた。
僕はミキコと連れ立って、下北沢駅南口付近にあるカレー屋へ来ていた。平日の深夜ということもあり、店内に見える客は疎らで淋しげだったが、しかし、そんな閑古鳥が鳴くような景色には似つかわしくないくらい、ここのカレーは絶品だった。僕も、それにお喋り好きのミキコもしばらくは黙り合って、それぞれの逸品に舌鼓を打っていたほどだ。
「下北に引っ越してよかった」 ミキコは満足げに笑って言った。
ミキコはキャンパスが変わったのを機に実家を出て、この近辺のアパートで一人暮らしを始めた。そこで僕は今日、彼女の荷物整理を手伝ってやったわけだが、それが思いがけず長丁場となってしまったので、二人で遅めの夕飯を食べにふらりと出てきた、という次第だ。
食べ終わって、心地よい満腹感を味わいながら煙草を吸っていると、ミキコが突然、妙な話を始めた。
「ねぇ、『ブラック・ウォーカー』って知ってる? 大学の友達から聞いたんだけど」
もちろん、聞き馴染みのないその単語に僕は眉を上げた。
「なに?」
「Black Walker」 今度は流暢な英語の発音で答えた。
「ブラック・ウォーカー? なに、それ、サイボーグ009?」
「それはブラック・ゴースト」
「ナイスなツッコミ、ありがとう」 僕は煙を深く吸い込む。 「で、なんなの、それ?」
「うーん、よくわかんないんだけど、最近評判になってる集団なんだって。夜の下北で活動しているらしいんだけど、マントと変な仮面をつけていて、それが何人かいるらしいんだ。それで、真夜中に鬼ごっこしているんだって」
要領を全く得ないその説明に僕はしばらく思考停止して、漂う煙の向こうにあるミキコの顔を眺めた。
「怖いな、それ」 僕は灰皿で火を揉み消す。 「何の目的があるの?」
「わかんないんだってば。でも、よくあるでしょ、そういうの。ほら、大道芸っていうの? あと、秘密組織とか?」
いや、全然違うだろ、と僕は胸の内で呟く。
わずかな好奇が働くばかりの、しかし、どうでもいい話として、僕の内側では仕分けが始まっていた。遠い発展途上国の内紛か、あるいは夕方のニュースで紹介される流行りの店ほどの価値しかない話に思えた。
だが、玩具売り場をうろつく子供のような微笑みが彼女の顔に輝いているのを見つけて、僕はげんなりしてしまった。
ミキコはこういった不可思議な話題をこよなく愛していた。少し前まで、当時流行っていた都市伝説モノの本を愛読していたほどである。陰謀説や秘密組織なるものに熱を上げ、自分を取り巻く日常の中で少しでもそういった話の影が見えるやいなや、大きく開いた愛らしい瞳を無垢に煌めかせて飛びこんで行く猛者だ。
「一つ聞きたいんだけどさ」 僕はそれとなく忠告の意も込めて訊ねる。 「もし、そういう連中が本当にいるとしてだよ。いや、噂になっているくらいなんだから、それっぽいのは本当にいるかもしれないね。アスリートかなんかの人達でさ。だけど、そういう人達がわざわざ真夜中に集まっているのを偶然にも発見したら、君はどうするつもりなの?」
「そりゃもちろん、徹底的に追いかけるよ」
「いやいや、おかしい、その発想はおかしい」
「なんで? 面白そうでしょ。夜の街で、しかもコスプレしながら鬼ごっこしてる人達なんて。ぜひとも捕まえて真相を聞きたいと思わない?」 艶やかな黒髪を耳に掛けながら彼女は好戦的な口調で言う。
僕は溜息をついて、苦笑を浮かべた。
「あのね、ミキコ様。あなたはもう、逞しいご両親がおわしますお家で暮らすお姫様じゃないのですよ。ここは世田谷区下北沢なの。思いっきり都会なの。ただでさえ、女の子の一人暮らしは危険なの。面白そうだからって、深く考えずに首を突っ込んじゃいけないの。わかる? 彼氏である僕の言っている意味、わかる?」
「ハルくんのそういう口煩いところ、あたし結構好き。愛されてるって感じでさ」
屈託なく笑ってそんな恥ずかしいことを言うミキコに対し、むしろ僕の方が顔から火を吹きそうになった。
「でもさ、時々思うんだけど、そういう生き方ってつまんなくない? わざわざ自分から面白いことを取り除いていくみたいでさ。楽しいのに」 彼女は水を一口飲んでから、小首を傾げて訊ねた。 「わからないこととか、知ってみたいって思わない?」
僕は思い掛けない質問に面食らい、口を噤んでしまった。
危機意識の薄い彼女への反感がむらむら立ち上り、必死に反論の言葉を考えたが、結局それが口に出る事はなかった。わけのわからぬ虚しさばかりが残る。
カレー屋を出たのは、それから十分足らずのことであった。
◇
いくら人口過密都市と言っても、二月の夜風は恐ろしく冷たい。僕はぶ厚いジャンパーのポケットに手を収め、ミキコは首を竦めてマフラーへ顔を埋めていた。終電が過ぎている為、下北沢独特の狭く入り組んだ路地に人影はほとんど見当たらない。昼間は混雑して騒がしいものの、夜が更ければ街はずいぶん淋しい光景になる。両脇に並ぶ店の明かりの数も何軒か減っていた。
「大丈夫? 送って行こうか?」
「平気だってば。すぐそこだもん」 ミキコは食後の上気した顔を上げて、首を振った。 「今日は手伝ってくれてありがとね。今度はハルくんの部屋、掃除しにいくから」
まるで遊園地のマスコットのように大きく手を振って、爛漫な笑顔と共に彼女は夜道を行ってしまう。僕は力無く手を振り返して、彼女が角を曲がるまで見守るだけであった。
家路へと歩き出した僕は、一度コンビニに寄って切れていた煙草を買う。封を空けて一本銜えながら、銀の月が浮かぶ夜空をぼんやり眺めて歩いた。風が吹く度に僕の身体は丸まるように縮み込む。夜道はどこまでも静かだった。
頭の中では、ミキコが放った質問がぐるぐると回っていた。もちろん、彼女は何気なく言ったに過ぎなかったのだろう。しかし、僕は内心穏やかではなかった。
繰り返される平凡な日常。入学した頃のわくわくは消え失せ、かと言って就職活動まではまだまだ長い日が残されている期間。だらだらと、適度に、単位を落とさぬように、あるいはバイト先で周囲からの不信を買わぬようにして、時々、決まった友人達と決まった遊びを挟むだけの、なんとなく過ぎ去っていく空虚な時間。
温室のような平穏。
それが僕を腐らせる錯覚。
刺激を拒絶する、化石のような精神。
そう、ミキコが言ったことに、心当たりがないわけではなかった。
だからこそ、僕は言葉に詰まってしまい、あろうことか、恥辱の仕打ちを受けたような憤りを胸に募らせてしまったのだ。
僕だって、何もすき好んで口煩くなったわけではない。
本当は、退屈な毎日について、しょっちゅう考えている。
自分は何の為にこうしているのか。
このままでいいのか。
このまま、何事もなく。
山もなく、谷もなく。
一般の型にはまった人生を送るだけで、いいのだろうか。
そういった漠然とした疑問を、幾つも、幾つも……。
「あー……」
短くなった煙草を投げ捨て、冷たい夜風を胸いっぱいに吸いこんでから、熱を帯びた頬に両手を当てる。
これは、あれである。
かつて中学、高校時代に患った、あの忌まわしき悪病の名残である。
あの頃とは違う醒めた自意識が僕の頭をクリアにし、うだうだ思い悩んでいた自分に対して羞恥を感じた。
これが、正常だろう。
社会適合の為の無駄がない機能。
もうやめろ、自分へ語りかけるのは!
恥ずかしい奴め!
死ね!
そうして顔を上げた時だった。
僕の視界の中で何かが動き、思わず脚を止めた。
◇
最初は道路工事か何かの警備員かと思った。しかし、すぐにその異様な風体を認めて違うということがわかった。
僕の位置から十メートルほど先にあるT字路の街灯の下、僕の行先に立ちはだかるようにして、大男が立っていた。否、男であるかどうかはわからない。大柄なのは確かである。というのも、その人物は身体全体をマントですっぽり覆い隠し、顔には南蛮古来の悪魔を彷彿させる奇妙な仮面をつけていたからだ。
不思議と僕は冷静だった。
既に周囲は明るい店が連なるストリートから、住宅が密集する路地へと変わっている。襲われてもきっと助けは期待できないだろう。通りがかる人の姿も見えないし、照明で明るい窓の家も確認できない。そんな状況にも関わらず、僕の鼓動はいたって平静であったし、身体が強張りもしなかった。ただ、安易に動く気になれなかったのも事実である。
仮面の人物はこちらをじっと凝視しているようであったが、ただそこに佇んでいるだけのようにも思えた。僕は息を潜めるようにして、その人物を観察した。
間違いなく、ミキコが先程話していた『ブラック・ウォーカー』なる集団の一員であろう。
まさか本当に、彼女が言った通りの恰好で実在しているとは思わなかった。どこで買ったのか、濃紺の絹のような素材のマントを前後なく纏い、足許すらも見えない。こうして実物を前にするまで、僕はサイボーグ009に登場するスカールをなんとなく想像していたのだが、それよりも遥かに重厚な印象だった。仮面も髑髏などではなく、ジャングルの原住民が被るような、毒々しい色合いと不気味なデザイン。そのサイケデリックな楕円形の表面を、街灯の白い光が滑っている。いったい、どこの国を旅行すればこんな代物が買えるのだろうか。
仮面の人物は身じろぎしたかと思うと、こちらを向いたまま、ゆっくりとした足取りで、隠れるように右手の路地へ消えた。てっきり、攻めかかって来るものと思って身構えていた僕は拍子抜けする一方、警戒を解かず慎重にその後を追ってみた。T字路を右手に曲がると、やはり仮面の男はそこにいて、先程と同じように十メートルほど間隔を空けて前方に佇んでいた。誘うように、仮面は無言でこちらを向いている。
呆然とそちらを見ていると、どこからか、もう一人の仮面が現れた。仮面のデザインが異なるのと身長以外には、大柄の奴と差異はない。全身を覆う濃紺のマントも変わりがなかった。二つの仮面は囁き合うように顔を近づけ、そしてまた無言の内に僕のほうをじっと眺める。
このあまりに不可解かつ不気味で、非現実的かつシュールな光景に、僕は今更のように戸惑い始めた。この妙な状況にこのまま留まって果たして大丈夫なのだろうか、と躊躇いが生まれたのである。
その一方で、僕の中では、期待にも似た関心が徐々に高まりつつあった。
彼らはいったい、何をしているのだろう?
こんな真夜中に、コスプレまでして……。
あぁ、そうだ、鬼ごっことか言っていたっけ。
彼らの挑発的で無機質な目線、平凡な日々に焦燥していた己の内情、先程ミキコの放った言葉が相まって、僕はだんだんと子供のような好奇心を抑えられなくなっていく。得体の知れない存在に対する警報もけたたましく鳴り響いていたが、僕はそれに耳を貸す気には不思議となれなかった。いつもだったら、僕はその警告を最優先とするのに。
僕は威嚇するように一歩、素早く踏み込む。
ほぼ同時に、彼らが後ずさった。サバンナのチーターとシマウマの図を僕は連想した。
どうする?
しかし、僕の中では既に答えが出ていた。
ゆっくりと。
気付かれないように深呼吸。
鼓動はいつの間にか、程良い緊張を示している。
一度瞬きし。
両脚には脱力を……。
もう一度だけ、深呼吸。
位置について……。
そして。
呼吸を止め。
目を開く。
よーい……。
ドン!
僕は石火の如く、標的に向かってダッシュした。
仮面の二人は不意を衝かれたように姿勢を崩し、一瞬のロスがあったものの、くるりと向こうに振り返って駆け始めた。
なるほど、僕が鬼というわけか。
全身をフル稼働させ、逃げる彼らを追いながら、僕は直感した。
厚ぼったい恰好をしているにも関わらず、彼らは意外と俊足であった。僕の全力疾走とほぼ互角である。ただし、今まで幽霊のように佇んでいた不気味な姿とは裏腹に、走って逃げる姿はどこまでも人間臭かった。
マントの裾の間から、ちらりと靴が見える。
「この野郎、スニーカー履いてやがるな!」 僕は意味もなく叫んでやった。
そうだ。相手は幽霊でも、妖怪でも、ましてやサイボーグでもない。僕と同じ、生身の、暇人達なのだ。そう考えると、負けるわけにはいかない、という闘争心がもこもこ膨らんできた。
走り出してからすぐに二又の道が現れる。相手は二手に分かれる作戦を選んだらしく、右を大柄な仮面が向かっていき、左を中背の仮面が駆けていく。中背のほうが大柄と比べてダッシュが若干遅かったので、僕はだんだん距離を縮めていたそちらを追った。
既に周囲の景色は視界にない。街灯の並びが途切れがちな薄闇の中、僕は相手の異様な背中だけを凝視して走っていた。
しかし、目標がぐんぐん迫ってきて、あと少しで捕まえられる、というところで思わぬ邪魔が入った。
僕と仮面の間を、小柄な影が滑り込んできたのだ。僕は驚きのあまり、急停止し、バランスを崩して転んでしまった。受け身をとった際、手を擦り剥いたが、それほど痛くはなかった。くらくらする頭を上げて睨むと、中背の仮面は既にかなり離れた場所にいて、がらんとした道の真ん中で膝に手を当てて喘いでいた。
小柄な影の主はというと、こいつも、奴らの仲間……、そう、『ブラック・ウォーカー』の一員であった。マントも仮面の趣味も全く同じだ。中学生くらいの背丈で、仮面の後ろからは茶色のふんわりした短髪が覗いている。身体のラインはもちろん見えないが、なんとなく、男の勘で、そいつが女だというのがわかった。その小柄な奴の背後にはさらに二人、新しく現れた仮面達が控えていた。片一方は能面をつけ、もう一方は狐面をつけている。
久しぶりの疾走にぜぇぜぇ呼吸を繰り返しながら立ち上がると、彼らは容赦なく後退りする。充分な距離を取ってから、沈黙のままに僕を眺めた。
「ちょ、ちょっとタンマ……」 僕は息も切れ切れに嘆願する。友達か、と自分につっこんだ。
のっぺりした能面の奴が、「鬼さん、こちら」とでも言うように手を叩いた。どこからか、嘲笑に似た息の漏れる音。
萎えかけていた僕の闘志が、再び燃え上がった。
「こぉの、変態どもがァッ!」
呼吸も整わぬ内に再び駆け出す。新しく現れた三人と離れて見ていた中背の仮面も、ほぼ同時に動き出した。僕はがむしゃらに、顎をすっかり上げながら走った。スタミナを激しく消耗しているのが自分でわかった。
◇
結局、誰も捕まえることができず、僕が人気のない道路の真ん中にへたりこんだのは十分後。いつの間にか、小田急線のアートちっくな高架下をくぐって、逆口へと出ていた。この辺りまで来ると、いよいよ静寂に包まれている。街灯の灯以外は、夜更かししているらしい住民の部屋の明かりがマンションの側面にぽつぽつあるだけだ。しかし、遥か頭上に浮かぶ月が明るいので、視界はそんなに悪くない。
今や、全身から汗が迸っている。自分の顔から湯気が昇っているのがわかった。ジャンパーを脱ぎ、セーターの袖を捲し上げてもまだ暑い。あれほど凶暴に感じていた夜の冷気が、今はひんやりと優しかった。顎先に垂れていた汗を拭う。さっき擦りむいた掌には、薄く血が滲んでいた。意識すると痛い。
ひゅうひゅう喘ぎながら辺りを見回すと、マンション近くの植え込みから、狐面の奴がこちらを窺っていた。もちろん、無表情に(当然だが)、音もなく佇んでいる。が、きっとその下では僕と同じように滝汗をかいていることだろう。
いたちごっこに似た追走劇を繰り広げながらも、僕はこのゲームを取り巻くある法則に気付いていた。それは、僕が脚を止めようがへたりこもうが、視線を巡らせば必ず、仮面のうちの一人が視界に映るということであった。最初は何も考えていなかったが、だんだん、彼らが意図的にそれをしているということに気付いたのだ。つまり、常に僕のことを監視しているのである。完全に逃げ切るスタンスではないのだ。
もう一つ、気付いたことがある。それは、僕がふとした拍子に(状況打開を願っての、特に考えもない奇策の為に)、脚を止めて、「あぁ、もうやってらんないや」というような不貞腐れた雰囲気で踵を返し始めると、後ろに回っていた仮面の一人が露骨にサービス精神を発揮して、ぎりぎりまで近付いてくるのだ。「え、もう帰っちゃうの? 今なら捕まえられる距離かもよ」という、ありがた迷惑な情けをくれるのである。もちろん、無言のうちに。(そして、人をなめくさったようなその態度を見せつけられる度、僕は激昂して必死に追いかけてしまうのだ)
一見すると意味不明の集団であるが、これらの習性を鑑みると、段々と彼らの意図が明確になってくる。彼らは、僕から「逃げたい」というわけでは決してなく、僕と「追いかけっこをしたい」という意思に基づいてこのような、動機の不可解なことをしているのだ。つまり、意味不明であるのには結局変わりない。
ミキコが話していた噂話についても考慮すると、鬼役は夜毎、無差別に選ばれているのだと推測される。そして、今夜はたまたま僕がそれに選ばれたわけだ。噂が広がったのは、僕のように鬼役を経験したか、あるいはその様子を目撃した者達が多数存在する為であろう。
仮面集団、つまり『ブラック・ウォーカー』に関して、迷惑千万な連中だとは思う。しかし、初めて遭遇した時に抱いた危険な印象は既になかった。断定はできないが、危害を加えられるようなことはきっとない。雰囲気で、なんとなくそう思えるのだ。そもそも、彼らは奇抜な衣装に身を包んで集まっているだけのことで、最終的に追いかけているのは他でもない、僕のほうなのだ。色々と策を巡らしている気がするものの、最終的な意思決定は鬼役に託されているのだ。警察に尋問されても、きっと僕が不利になるに違いない。よくはわからないが……。
思考を整理していると、呼吸が整ってきた。
もはや不気味さは感じない。むしろ、阿呆らしさが頭をもたげている感じが否めない。それでもなんとか、一人でも捕まえてやりたかった。そうしなければ、なんとなく、自分に負けてしまいそうな気がしたからだ。道の真ん中に座りこんでいる僕を不審がるように、若いカップルが通り過ぎていく。恥ずかしがっている場合でもない。こちらは必死なのだ。
あぁ、ミキコをこの場に呼んでやりたい。
彼女ならきっとこの状況に驚喜して、たとえ裸足ででも彼らと死闘を尽くしてくれるだろう。そんなイメージが、簡単に湧き起こった。
今までの僕は彼女のそういった、ある種、好戦的で愉快主義の人生観を否定する位置にあった。保守的、あるいは慎重派とでも言うのだろうか。もちろん、今でもそうであるし、そのスタンスが間違っているとは決して考えていない。人それぞれのスタンスがあって、そのどれもが正しくないし、間違ってもいないのだ。合うか、合わないか、それだけの問題である。
「しかし、だ……」 僕の口から独り言が漏れる。立ち上がって、ストレッチ紛いのことをしてみた。
否定するのは、きっと間違っていると思えた。僕はミキコのように興味ある対象にがっついていくような生き方は恐らく出来ない。でも、出来ないからと言って、わからないからと言って、それを打ち消してしまえる権利などないのだ。拾って眺めてみるのもたまには良いだろう。新たな発見があるかもしれない。毒でも薬でも、認めることは誰にだってできるはずだ。
このような考えに自ずと至れただけでも、今回の追走劇を演じた価値はあったかもしれない。ここまで得たのなら、どうか一人だけでも捕まえたい。事の真相を聞き出したい。そして、僕に清冽な勝利を。
マンションに沿った暗い道から大柄の仮面が現れた。
そいつを目にした瞬間から、僕の頭からは言葉が消える。
様々な感情が流れ込み、僕は興奮し始める。
再開といこう。
次は絶対に捕まえてやる。
◇
『ブラック・ウォーカー』の一団は、全員で五人存在することが確認できていた。
ここで各々の呼称と仮面の特徴、諸々のステータスのまとめを登場順に、簡潔に記す。
・『大柄の奴』――、極彩色で悪魔を彷彿とさせる原住民風の仮面。体力がある。
・『中背の奴』――、ピエロのような、白を基調とした西洋風の仮面。バテやすい。
・『小柄の奴』――、太陽の塔の顔をそのままデザインした仮面。機敏な動きが得意。
・『能面』――、やや不気味な、のっぺりした面。挑発的な仕草が多く、腹が立つ。
・『狐面』――、よく見かける、鼻が少し突き出た面。恐らく五人の中で一番速い。
大柄の奴は、その鈍重そうな丸太の如き体躯に反して、意外と足が速い。スピードだけなら到底敵わないというわけでもないが、相手のスタミナが尋常ではないのだ。まともにやって追いつける相手ではなかった。きっと、普段からスポーツをやっている人物に違いない。先程まで植え込みから僕を監視していた狐面の奴も、走りのフォームからしてとんでもなく速かった。この二人を相手にするのはもう諦めたほうがいい。
逆に可能性が一番残されているのは、最初の方で取り逃がしてしまった中背の奴だ。一番洒落た仮面をつけているにも関わらず(関係無いが)、スタミナに難ありと見えて結構バテがちだ。スピードも徐々に落ちてきているので、長期戦に持ち込めばなんとかなるか。しかし、充分に距離を取られるのでなかなか苦労するに違いない。僕もスタミナに自信があるというわけではなかった。
残る二人についても、まあまあ望みはあった。小柄の奴は反応が俊敏で動きもちょこまかと厄介なものの、直線走行なら負けはしないだろう。能面もそこまで速いというわけではない。ただ、馬鹿にするような仕草で翻弄してくるので、僕も冷静ではいられなくなる。撹乱することが目的なのだろうか? 個人的にはこいつを一番捕まえたかった。
◇
時が経つにつれ、何故こんなことをしているのだろう、という冷静な自問がよぎるのが多くなっていたが、あえて僕はそれを無視し、戦略の為に多少、頭を使い始めていた。
大柄の奴、狐面相手では端から勝負にはならないが、それを追っていると見せかけて、方向転換、近くで傍観している残りの連中の油断をついて仕掛けるという戦法だ。単純で効率も悪いが、それでも二度ほど惜しいところまで追い詰めた。中背の奴に関してはあと一歩の距離で触れられそうだったのだ。しかし、やはりこれではスタミナが大幅に削られる。負担が大きい。これを試してから、他の連中も警戒してあまり近くまで寄らなくなった。
能面がリズミカルに手を叩いている。その表面の下では嘲笑していることだろう。そちらを睨みつけ、逡巡してからダッシュする。腹が立つが、相手の反応は抜群に良い。充分な間隔を空けたまま、そいつも走り出してしまった。
僕は既にジャンパーもセーターも着ていない。少し心配だったが、近辺の公園の草の茂みに隠しておいた。剥き出しの薄着はバケツの水でも被ったかのように湿っていて、湯気が出ている。寒くはなかった。僕は今や本気でこの阿呆なゲームに取り組んでいるのだ。
能面にまかれ、諦めて時計を見ると、開始から一時間近く経っているのに気付いて愕然とする。もうこんなに経ったのか、だとか、俺は何をやっているのだ、というような感情ではなく、まだそれ程しか経っていないという事実に驚いたのだ。もう、二、三時間はやっているような気がしていた。
僕も、そして奴らも、随分と暇人だ。ミキコはもう寝ただろうか。電話してやろうか。あぁ、明日は大学だ。きっと大変だ。休みたい。もう休んじまうか。荒い呼吸を繰り返しながら、そんな取り留めのないことを考えた。
小柄の奴が建物の陰から飛び出してくる。僕は息を止めて駆け出した。手摺りを跳ぶように乗り越え、その後を追う。立体駐車場の近くであったが、すぐに見失ってしまった。
悪態を吐きながら膝に手をつき、とめどなく流れる汗を拭った。しばらく、息を潜めるように立ち尽くしていた。きっと、どこかで僕を見ている奴がいるはずだ。あまり無様な姿を見せたくなかった。
その時、人の話し声がした。囁き合うような声で、喘息めいた息遣いも聞こえてくる。
僕はそっと物陰に寄って息を殺した。話し声は立体駐車場の中から、打ちっ放しのコンクリートに反響して聞こえる。
「あぁ、もう、嫌になっちゃうな」 高い、しかし男の声だ。 「絶対、筋肉痛になるよ、これ」
「気をつけろ。お前、たぶんマークされてるぞ」 こちらは野太く、低く抑えた声だ。
僕はこっそりと、忍び足で駐車場の建物へと入る。幾つも並んだ白い蛍光灯が眩しく思えた。壁伝いに、声の方向へと進む。
「もう捕まって終わりでいいんじゃないかな。言いだしたのって梶原でしょ? いつ終わるとか聞いてないの?」
「いや、知らん。電話で聞いてみるか? ……しかし、隠れているのが、着信音でバレたら悪いかな」
「おいおい、なにマジになってるんだよ、こんなわけのわからん遊びに。この仮面、息苦しいし、マントも邪魔だし、もうふらふらだよ」
「俺は結構、面白いけどな」
「でも、やりすぎると警察来るぞ? そろそろやめたほうが……」
そこへ、忍ぶような声が参加した。女の声だ。
「ちょっと、お前ら。もう少し小さい声で喋れよ。相手に聞こえるだろ。この近くにいるんだから」
「え、マジで?」
「今、すぐそこでまいてやったとこ」 女が答える。恐らく、小柄の奴だろう。子供っぽい声で、息を荒くしていた。
「梶原は?」
「さぁ、たぶん、外に……」
そこで僕は、自分でも信じられないくらい間抜けだと思うが、会話に聞き入るあまり、足許に放置されていたスチールの空き缶に気付かず、蹴飛ばしてしまった。反響音が過剰なほど響く。
息を呑むような沈黙。
僕はその場に硬直していたが、意を決して、潜んでいた角から飛び出た。予想通り、十五メートルほど先に三人の仮面……、小柄な奴、大柄な奴、それに中背の奴もいた。彼らは今までで一番慌てた素振りで身を翻し、散らばるように駆けて行った。僕は迷わず中背の奴を追いかける。ばたばたと喧しい足音が駐車場内に響き渡った。
中背の奴は行き止まりにぶつかると、フェンスを乗り越えて歩道へと出る。僕も、後を追って同じように乗り越えた。ここでだいぶ体力を消費。相手は既に反対側の歩道を駆けていて、僕もそちらへ向かおうとしたのだが、やってきたタクシーと危うくぶつかりそうになって踏み止まった。盛大にクラクションを鳴らされるも、僕は無視して、今度は立体駐車場の入口へ急いで回る。他に大柄の奴、小柄の奴が出てくるかもしれないと考えたからだ。
やはり、その二人がいた。こちらを視認するなり、またも全速力で行ってしまう。しかし、今までよりかはずっと近距離。僕も意地で、ひたすら彼らを追った。
何も考えず、無我夢中に。
「これは試練なのだ」
「戦いなのだ」
そんな気焔の声が、僕の内側から響く。
息も出来ないほど苦しい。
心臓が張り裂けそうだ。
昔読んだ『走れメロス』の主人公の気持ちがわかった気がする。友人を磔にしたわけではないが……。
マントの背中が近い。
小柄な奴だ。
これくらいの距離とタイミングで、折れ曲がるはず。
僕は動きを予測して、右へ跳ぶ。
ほぼ同時に、奴も同じ進路へ。
捕まえた!
僕は崩れかかった姿勢で、手を伸ばす。
しかし。
無情にも、僕が掴んだのは虚空の感触だけだった。
奴は反復横跳びのように、左へ身体を逸らしていたのだ。
すごい芸当だな、おい。
僕は地面に衝突する直前、そう思った。
鈍い衝撃。
僕は、路上で派手にすっ転んだ。
◇
冷たいアスファルトが、肌に心地良い。
しかし、腹を殴られたような吐気がしていた。
ぐったりとして、起き上がる気にもなれない。
酸素。
酸素が、足りない。
僕は必死に、緊張した身体を奮起させて、空気を求める。
どれだけ吸い込んで吐いても、息苦しさが止まらなかった。
足音がする。
話声も。
霞んだ視界に、マントに覆われた脚が映った。
地べたから見ると、なかなか迫力がある。
あぁ、世界はこんなにも大きな物で溢れているのだな、とわけのわからぬ真理を一瞬会得した。
「お、おい、やばくね?」 先程の、恐らく中背の奴の声。
「どうした?」
「酸欠か? それとも、どこか打ったか……」 野太い男の声が降ってくる。
これは、恐らく中背と大柄の奴だな、と僕はぼんやりと考えていた。身体に力が入らない。
乱雑な足音が近づく。
「ちょっと! どいて!」 怒ったような、女の声だ。能面か、狐面の奴だろう。
「ご、ごめん、梶原、わたし、別にこんなつもりじゃ……」 こっちの震えた声は小柄の奴だろう。
そう、君は悪くない、と僕はぼんやり考える。
「わかってる、見てたから……。皆、身体起こすから手伝って」
「血、出てない?」
「ううん。擦りむいただけだと思う。でも、酸欠起こしてるかも」
手が僕に近づく感覚。僕を、担いでくれるつもりなのだろう。
しかし。
僕は、唐突に身を起こしてやった。
全員、ぎょっとしたことだろう。
そう、全て演技。
転んだのは、僕の意思によるものだ。
これを、待っていたのだ。
そう、梶原という名を聞いてから……。
気を失ったふりをすれば、必ずこうなるとわかっていた。
気分が悪いのは、まぁ、確かだけど。
目の前には、仰け反った能面の不気味な顔。
あの、忌々しい奴。
こいつが、そうだったのか。
なんて悪趣味な。
「タッチだ」 僕の、掠れた声。
僕は、能面の肩をがっしりと掴み。
その面を剥ぎ取った。
ゴムの切れる音。
ゆるりと流れる黒髪。
呆気にとられたような、梶原ミキコの顔がそこにあった。
◇
下北沢の深夜の公園。仮面の一団と僕は、それぞれ好き勝手な位置に佇み、冷たい缶ジュースを飲んでいた。二月の冷厳な深夜にも関わらず、まるで夏場に飲んでいるかのような美味さだった。
ベンチに腰掛けた僕の顔に、隣のミキコが触れようとする。
「ちょっと、動かないで」
「いや、大丈夫だから……」
ミキコはコンビニで買ってきた絆創膏を貼ろうとしているのである。他の四人の目があったので、僕は恥ずかしくて仕方がなかった。
ミキコを始めとする『ブラック・ウォーカー』の面々は、今や仮面とマントを脱ぎ捨て、ごくごく一般の若者達の姿となっていた。見上げるほどの大男に、ホスト風なルックスの男、眼鏡をかけたインテリっぽい男に、中学生のような外見の女、隣には僕の恋人である梶原ミキコ。それぞれ、大柄の奴、中背の奴、狐面、小柄の奴、そして能面だ。四人は、ミキコと同じ大学に通う学生達で、彼女が所属するオカルト同好会だかなんだかのメンバーでもあるらしい。
「この度は、どうもすいませんでした」 個性がばらばらな四人は、揃って僕に詫びる。
「あ、いえ……、大丈夫ですよ、結構、面白かったし。逆に、ミキコが迷惑かけたみたいで、こちらこそすいません」
ほぅ、とホスト風の男が感嘆するように頷いた。 「この寛大な懐があって初めて、梶原の彼氏が務まるわけか」
いったい、ミキコがどれだけ風雲児扱いされているのか、違う大学へ通う僕にはわからない。しかし、だいたい予想はできた。
「ごめんね、ハルくん」 いつになくしおらしい顔で、ミキコが謝る。
「別に、いいよ」 僕はそっぽを向く。
しかし、不機嫌なわけではなかった。むしろ、気分は最高に晴れ晴れとしていた。そっぽを向いたのは、漏れ出てくる笑みを隠す為だ。
「しかし、まさか君が噂の人物の張本人とはね。全く予想できなかったよ」
「ハルくんに楽しんでもらおうと思って……」
「どうもありがとう」 僕は素っ気なく言って、煙草の箱をズボンから取り出す。汗で湿っていた。 「最高に楽しかったよ」
「怒ってる?」
「いや」 僕は堪え切れずに吹き出して、首を振った。突然、何もかも可笑しく思えたのだ。
残りの四人は気を利かしてくれたのか、僕達の座るベンチから離れた場所で、何やらわいわい騒いでいた。彼らも、寒さを感じる余裕がなくなっているのだろう。
「あたし、その……、ハルくんは絶対、追いかけてくれないなって思ってた。だから、びっくりして、あたし達もつい調子に乗っちゃった」
「そりゃ良かったね」
「ごめんね。息抜きとか、サプライズとか、そんな感じのイベントになればいいなぁって思ってたんだけど……」
息抜きどころか酸欠だよ、と言おうとして、可笑しくなってまた笑ってしまった。煙草の煙が大量に漏れ出る。
「あの、ハルくん……、大丈夫?」
「うん、大丈夫。全然大丈夫。ただ、少しハイになってるだけ」 僕は勢いよく煙を吐きだした。緩く風に乗って、夜の透明な空気に溶けていく。
不思議と楽しくて、そして穏やかな気分だった。あれだけ阿呆らしいと思っていたのに、妙な手応えがずっと身体の内側に残っている感じだった。こんな感覚は、随分久しぶりである。それだけ、本気だったということだろう。いつ以来だろうか?
「ハルくんは、もっと人生を楽しんだほうがいい」 突然、ミキコが微笑んで言う。 「そういうのを知ってもらおうと思って、今回の企画を立ち上げたんだよ。あの四人に協力してもらって」
それが本当なら、彼女の企画はこの上ない成果を挙げたことになるだろう。否、人生というほど大袈裟ではなくても、この夜を存分に楽しんだのは間違いない。
公園の中央ではしゃいでいる四人を眺めていると、夜の底の楽園で遊ぶ子供達のようにも見えた。しばらく、僕達は仮面を外した彼らの姿を見つめる。
「まぁ、これで……、また噂されるね、君達も」
「そうかもね。本当に噂になるかもね、今夜の事をきっかけに」
「は? どういうこと?」 僕は彼女の横顔を見る。
「噂になってるっていうのは嘘だよ」 ミキコはこちらを向いて悪戯っぽく笑った。 「ハル君を騙す為に、カレー屋さんではそう言ったの。あんな変な恰好して鬼ごっこしたの、今日が初めてだよ」
僕はしばらく、呆れて物も言えなかった。
何もそこまで手の込んだことしなくたって、と言いかけて、やっぱり止めておいた。
それが、ミキコとしては楽しいのだろう。
その趣向を否定することはできない。
理解するのにも少々、時間が掛かるだろうが……。
でも、きっと、楽しいのだろうな、ということはわかる。
それだけわかれば、上等だろう。
それだけわかれば、充分だろう。
「さて、初のお披露目、『ブラック・ウォーカー』についての感想は?」 ミキコが上機嫌な口振りで訊ねる。
「『ブラック・ランナー』に改名したほうがいいよ」 僕は即答する。 「走らされていた時はずっとそう思っていた」
彼女は小さく声を漏らして微笑んだ。
明日には僕も彼女も、きっと筋肉痛だろう。
ふんわりした夜の終わりでは、そんな予感がずっとしていた。
後書き
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